三年目、六月二十九日
昨晩は、糠星が見事だった。
例えるならば、黒紙に上白糖を無造作に落としたような。今宵も愉しみだ、やはり、天を仰ぎ見るのは良い。上からではなく、下からのほうが幾分か胸がすく。
近頃、時間の流れの速さを痛感している。今日は六月二十九日。アサギらが最初に異世界に旅立ってから、ついに三年が経過した。時は夕刻を過ぎ、星々が夜空にその存在を知らしめる頃。
そろそろ、二人の来客がやって来る。
私は窓を大きく開き、夜風を部屋へと招き入れた。カーテンが舞い上がり、頬を優しく撫でる。窓際に椅子を運び腰掛け、空を見上げる。
夜の訪れと共にやって来たのはリョウだ。彼はほぼ毎晩、“アサギ”を見に来ている。こちらからは丸見えだというのに、電柱に隠れて様子を窺っているので滑稽だ。記憶を取り戻した彼は、責務を全うする為に躍起になっているのだろう。
気づかぬ素振りをして、私は毎晩のようにこうして空を見上げている。この行動が何を示すのか、実は私にも解らない。
奥底で眠っているアサギからの指示なのか、それとも私が抗っているのか。
「……の、あ……に、ご……さ……、つ……た……。ず……、あ……す……い……。お……い」
気づけば口走っている言葉を、一体誰が汲み取ると言うのだろう。それでも私は、何故か歌うように同じ言葉を繰り返していた。
遅れて、トモハルがやって来た。遠慮がちにリョウに歩み寄り、声をかけている。不安と羨望が入り混じった表情でリョウと会話しているトモハルの記憶は、数時間前に甦った。
トモハルは、一本木で律儀な男だ。流石、アサギに認められた男である。
記憶を取り戻した要因は、彼がコツコツと貯めていた五百円玉。正確に言えば、その五百円玉を入れていた貯金箱の中身。数時間前、その貯金箱に五百円玉が入らなかった。十万円を貯めることが出来るという貯金箱に硬貨が入らないとなれば、それは目標を達成したことになる。彼は「これで買ってあげられる」と呟き、貯金箱の中身を取り出した。
実際、十万には満たない。何故ならばその貯金箱には別の物が入っていたからだ。
勇者らが神によって記憶を消されることとなった日、機転を利かせたトモハルはひっそりと記憶を取り戻す為の細工を施した。それは、マビルに贈った苺のネックレスを貯金箱に密かに忍ばせておくことだった。マビルが欲しがる品を買う為に始めた五百円玉貯金ならば、記憶を消された後でも自分ならば同じ様に行動するだろうと望みを賭けて。
神によって勇者の石や武器、皆との思い出の写真等は没収されているが、トモハルとマビルしか知らない物がこの世には存在していた。それがネックレスであり、その存在を知らない神は当然回収しない。
私は知っていたけれども、それはさておき。
マビルが爆ぜた際にネックレスもひしゃげた為身につけることは出来ぬし、最早ゴミ当然の品である。しかし、トモハルにとっては何よりの宝だ。安物のネックレスを大事に身に着けていてくれた証となった、歓びと悲しみが一層増した凄惨な日だったな。
トモハルは、マビルへの想いに絶対的な自信がある。……もしトランシスが、トモハルと同じ様に強固な想いを、そして自信を抱いていたならば、この話は別の物語として歩めただろうに。
話が脱線したが、予測通りトモハルは『何故十万円を貯めているのか』解らないまま、この二年半五百円玉を貯金箱に投入し続けた。
そうしてネックレスを瞳に入れマビルを思い出した彼は、そこから消された記憶の糸を徐々に掘り起こし現在に至る。リョウに会う為家に出向いたが不在だった為、アサギの家へ足を延ばしたのだ。
惑星クレオの勇者トモハル、流石はアサギの対の勇者。
いや。
対、という言い方には語弊があるな。
勇者の要、に言い換えておこう。そう、彼は大事な“要”だ。
そうだろう? アサギ。
「僕は、中学一年の真冬」
耳をすませば、聞こえてくる。いつ記憶が戻ったのかリョウに問うトモハルは、返答に目を見開いた。それはそうだろう、リョウは約一年で記憶を取り戻したのだからあまりの速さに愕然としたのだ。
アサギとリョウの仲は特別だからな、それくらい当然。だが、トモハルは腑に落ちない様子だ。自分のマビルへの想いが劣っている事に苛立っているらしい。
そうではないのだ、トモハル。
そなたら“勇者”と、リョウは別物なのだよ。そもそも、誰が最初にリョウを勇者と言い出したのか。
三年前のあの日、小学校の校庭で勇者と選定される際に使用したものは、石だった。だから、石こそが勇者の証だと、皆は思い込んだ。当然、遅れて石を手にしたリョウも自分は勇者だと信じ込んだ。では、どの惑星の勇者なのか。該当する惑星は当時マクディしかなかった為、皆は疑わなかった。使者も来ず、勝手に石だけ飛んできて選ばれた勇者。惑星ネロも使者が不在だったのですんなりと馴染んだ。
本当に、勇者だろうか。
トビィ辺りが気づけば良かったのだが、リョウ自身の能力値は極めて高い。教わらずともミノルを凌ぐ高等魔法を繰り出した為、皆信じてしまった。
そもそも、勇者とは何だったか。
異世界から勇者を迎えに、使者が来た。四つの惑星の魔王らが猛威を振るっている為、伝説の勇者の力に縋ったわけだが。勇者の数が惑星を上回っている点に関しては疑心を抱く者もいたが、思い出して欲しい。
たかが石が、どうして地球という異世界へ導いてくれたと思う?
神クレロも、神エアリーも、管轄の惑星以外の宇宙については無知だ。知る必要もないので、探求心など出て来ぬし当然。二人の神は、当初地球という惑星など知る由もなかった。
神の力すら凌駕する勇者の石とは、一体なんなのか。
ん? おや、そうか、気づいたか。
神を凌ぐ力を持つ者が、この物語には一人登場していたね。そうだよ、それこそが答えだよ。ふふふ、愉快だね。最初からあの娘は言っていたではないか。「勇者になりたい」と。何故勇者になりたかったのかは……ここまで言えば解っていただけただろうか。
勇者になれば、人を救える、世界を救える、何処ヘだって行ける。人間も魔族も、仲良く暮らせるに違いない、そういう世界を創る事が出来るに違いない。ならば力を解放する。
願わくば、『良いことしたら、あの人は私を誉めてくれる? みんなの役に立てる? 嫌わない?』居場所を見つける為に。
欲張りなあの娘の願いは、根本は常に一つだった。あの男の傍にいる為にどうしたら良いのかを、散々悔いて悩み、常に活路を探してきた。
世界を救う勇者とて、その一つよ。
あぁ、リョウとトモハルがこちらを見ている。哀れな二人の子らよ、終焉まで足搔き続けるが良いよ。
「トモハルはマビルに会いたい? 怒らないでよ。トモハルはマビルに会いたいか、って訊いてるんだ」
「会いたいに決まってるだろ! でも、会えるわけないじゃないかっ」
「会えるよ。トモハルがマビルを思い出して、会いたいと願っているから、会えるよ。その願いは叶えられる。マビルは地球で産まれたわけじゃない、クレオで産まれている。だから多分……蘇生も可能だ。トモハルがマビルを想い続けているから、その願いを汲み取って。近いうちにトモハルはマビルに出逢える筈だよ。トモハルは、マビルを全力で護ることだけ、考えていればいい。護る為に、何が出来るかだけを考えていればいい。例え他に障害が出ても、それを救おうとはしないことだ。いいね? それは僕とトビィの役目だから」
「それがさっき言っていた”遠い過去の記憶”から予測されたコト?」
「そう、だね。全ては星が知っている。星と太陽、月、つまり、天体が知ってるんだ。大地の鼓動、命の叱責。全ては」
リョウは気づいている。トビィとベルーガが散々悩み抜き答えを出しかねている“悪魔の囁き”の正体を。アサギに次いで奴らに最も近い位置に在籍していたリョウだからこそ、把握出来たのだろう。トビィらと会話出来たら良いのだがな、生憎出来ぬので対策を取る事が出来ぬ。非常に残念だ。
そうともトモハル、歓ぶが良い。もうすぐ、お前の愛しいマビルが目の前に姿を現す。
私の役目も、終わりが近づいて来たな。




