11から20。
つづきます。
じゅういちからにじゅうです。
皆様。幸、おおからんことを。
のこり、はちじゅうはちです。
十一
奇麗なものが好きなんだ。奇麗って言うのは、決して、美しい、という意味ではなくて、例えば、崩落を間際に迎えているものであっても、その限界に迫っている“均衡の状態”、っていうのは、僕はとても奇麗だと思う。
自己が肥大していき、僕と世界の境目が曖昧になり、破裂しかかっている今は、我ながらそこそこ奇麗なんじゃないかなあ。
感覚が過敏になりすぎて鈍り、自我が爆発的な五感に耐え切れず、幻覚、幻想、幻聴、幻視、幻肢痛、幻惑、が薄い皮膜となって僕を覆っている。ああ、今、目の前に浮かんでいるこの風船って、実際に、この世にあるものなのかな? 指先にある、つるつるのビニールの触感は、確かに風船のものだけど、風船自体は眼前で像を曖昧にしていて、あれ、僕って、一体何に触れているんだろう?
ふわふわ、ゆらゆら、ぐらぐら、べとべと、じりじり、てかてか、さらさら、ばらばら、ぎらぎら、てとてと、ふりふり、するする、ちりちり、すらすら、ゆるゆる、みりみり、ぱらぱら、しんしん、ぽろぽろ、ずるずる、からから、とろとろ、めらめら。
風船、振幅、膨張、硬直、亀裂、爆発――。
十二
テーブルの上には、僕の好きな食べ物が所狭しと並んでいた。生まれてこの方、食には恵まれていない生活を送っていたものだから、え、これ、食べていいの? ってちょっと怖いくらいで、僕は恐る恐る、ずらりと卓上を埋め尽くす料理を眺めていた。
シーフードピラフ、ビーフカレー、とんかつ、ミートスパゲッティ、ああ、これも美味しそうだ、エビフライ、お寿司、ステーキ、ラーメン、こんなの、食べたこともないぞってくらいの、ハンバーグ、フライドポテト、シーザーサラダ、ショートケーキ、アイスクリーム、うーん、どれから食べようか迷っちゃう。
でも僕は、箸もスプーンもナイフもフォークも持ってないから食べらんない。
「残念」
でも、それが一番、正しいです。
十三
酒、お酒が飲みたい。何でもいい、アルコールが含まれた液体を嚥下したい。この世で一番手軽に手に入る、気分を安らげてくれる飲み物が欲しい、欲しい、欲しい、欲しくて欲しくてたまらない。
いや、勘違いしないで頂きたいのは、僕は別にアルコール依存症ではないんだよ? 僕はただ、身体にうじうじと蔓延っている悪寒を払いたいだけで、そう、言わばこれはシャワーを浴びるのと同じ行為なんだ。ほら、運動会の後、お家に帰って真っ先にすることって、よく頑張ったね、ってご褒美に両親に連れられて、レストランに行くことじゃなくってさ、とにかくお風呂に入って、さっぱりしてしまうことでしょう? だから当然、僕がお酒を欲しがっても、これっぽっちもね、不自然なじゃあないんだ。僕はただ、さっぱりしたいだけなんだからさ。
コップになみなみと注いだ日本酒を飲み下したい。浴びるほど飲むって、浴びるくらいなら全部胃に落としたいなあ。
ねえ君、ちょっと一杯、飲みに行かないかい?
十四
わたしに触れてくれる人なんて殆どいませんでしたから、彼のことはよく覚えています。彼がわたしを覚えてくれているかは自信がありませんけど、ええ、わたしは、はっきり彼を覚えていますよ。
初めて会ったのは七歳の冬、校庭の隅にあったジャングルジムの側でのことです。身が千切れそうなほど冷たい雪風が吹き荒んでいる中、彼は、ボロボロのポロシャツとジーンズだけを身に纏って、何食わぬ顔でぼーっと座り込んでいました。その時の彼の表情は、今も頭の中から消えてくれません。彼に見えている世界を想像するだけで、幼かったわたしは、思わず嘔吐しそうになった程です。彼の目は、ぐるぐると、狂っていました。
先に話しかけたのは彼からでした。彼を見ている私を見た彼は、てくてくとわたしに歩み寄り、一言だけ、雪より奇麗なものを初めて見たよ、と、私の胸元に残して、校庭を後にしました。
彼が今も生きているとは思えませんし、死んでしまったとも思えません。わたしは永らく彼と共にありましたが、それでも、彼のことは、不気味で不気味でなりませんでした。彼は、生死という概念すら傍観して、まるで自分とは関係のない事だ、と笑い飛ばせるような人でしたから。
十五
ここにいる僕そのものは僕じゃない。僕は僕を俯瞰していて、僕の身に起こっていることを認識している僕が本当の僕なんだ。
車の運転みたいなものだよ。僕が運転手で、身体は乗り物。事故を起こすと、そりゃあ勿論、車体は壊れちゃうけどさ、別に運転手である僕が壊れたわけじゃないから、僕自身は平気、ってことなんだ。
だからさ、力いっぱい殴るだけ無駄、って、さっさと気付いてくれないかな。痛いのは痛いけど、それはどこまでいっても、苦痛にはなりえないんだってば。
ううん、馬鹿馬鹿しいね。
十六
雪解け水の清かさに触れた記憶が膨らんでいる。
生来、あまりまともな夢を見ない性質の僕が、久々に見た、安らぎの夢だった。
ぐらぐらと視界が揺れていたかと思うと、まるで火にくべられた写真のように風景が燃え上がって、気が付いたら、僕はおんぼろのアパートのベランダに寝そべっていた。
くすんだ曇天が広がっていた。重なり合った雲の群れは、所々で濃淡の差を作り、空の高さを、奥行きとして見せていた。手を突っ込んだら、どこまでも飲み込まれていきそうだった。僕は、思考の全てを雲の沼に放り捨てて、ただ忘我の心で、目を見開いているばかりだった。
ちらちらと皮膚に冷たさが刺さり、僕は、ああ、雪が降っているのだな、と気が付いた。目線をゆっくりとコンクリートの床に向けると、降り落ちた雪の粒が、さっと溶けていた。きちんとした感覚を伝えきれていない指先を、やっとの思いで持ち上げて、僕は、既に染みになってしまった雪解けの痕に、触れた。すると、焦がれるような冷たさと優しさが、体の中に染み入って、あ、これ、すごくきれいなものなんだ、と知った。
特に激しくもなく、ただしんしんと、雪は止まなかった。僕は凍えていく身体を楽しみながら、雪の傷痕を撫でて過ごしていた、筈だったのに、また、視界が溶けていって、僕は、ぬるま湯の溜められた湯船に浮かんでいて、あれ、ここ、どこなんだろう?
誰かの手が頭を撫でている。身体は曖昧な熱に包まれていて、先ほどまでとは違う意味で、現実感がない。僕はどうしてここにいるんだろう。
ああ。
目が覚めただけ、なのかもしれないね。
十七
雨が止まない。もう何日も、青い空を見ていない。つらつらと、絶え間なく降りそぼっている雨は、まるで学生の頃の生活みたいで、僕はどうにも落ち着かない。意味なく続くものって、どうしてこんなにも人の心を踏み荒らすのだろう。日増しに気分ばかりが沈んで、今ではもう、喋るのも億劫なくらいだ、まあでも、喋ることなんかないから平気なんだけどね。家の中には、僕しかいないから。
屋根を打つ水の音が、断続的に僕の意識を刺激する。つられて、雨の日の記憶が引き摺り出される。湿気の臭い、衣服に染み込んだ水の重さ、声。覚えのない感覚まで蘇ってきて、本当に迷惑だ。これは一体、誰の記憶なのだろう?
雨の一番嫌なところは、時間感覚を喪失させることだ。ずっと辺りが薄暗いままで、陽が昇っているやら沈んでいるやら、さっぱり分からないので、僕は、どれほどの間、思い泥んでいるのか、さっぱり自覚できない、って、これが一番、嫌なことなんだ。いつ今日が始まって、それが昨日になって、明日を迎えているのか、僕には、全然、分からないんだ。これだと、ほら、いつご飯を食べたらいいのかも、よく分からないんで、僕は困っているんだよ。今、何時なんだろう、時計がないから分からないや。
体が重い。倦怠感を払えないまま、ずっとソファに身を預けて、雨音と、湧き出ては弾けていく言葉たちを、じっと眇めている。文法も何もあったものじゃない文章が、ミミズさながらにのたくって、頭に住み着いている。気味が悪くて仕方がない。印刷された言葉、書き殴られた言葉、には有り得ない筈の、質量を持った文字の群れが、他の意識を押し退けて、頭一杯に拡がっている。頭痛の原因は、きっとこれだ。でも、これって、風邪薬では治らないよなあ。ううん、一体、どうすればこの痛みは、消え失せてくれるのか、僕にはこれっぽっちも見当が付かないまま、ずきずき、痛みは徐に、全身へと浸食を始めている。
とりあえずどこか切ってみて、その痛みで、誤魔化してしまおうか、とも思いつつ、でも僕には、自分で自分を傷付ける度胸なんてないから、手にした剃刀を放り投げた。痛いのは嫌いだ。それならまだ、苦しい、とか、しんどい、の方が、堪えられる気がしている。
ああ、早く晴れてくれればいいのに。そうすれば、僕も、家を出られるから。
十八
珈琲を口にして、初めて目覚めを実感できる。舌を焼くような熱さ、いがらっぽい苦味、香ばしい匂いに深い黒色、カフェイン、どこをとっても、珈琲というのは刺激の塊で、僕はとても好きだ。ミルクや砂糖を入れたヤツは、どうも好きになれない。うんうん、やっぱり、苦ければ苦いほどいいね、僕は意味もなく得意げに頷いて、マグカップ片手に、煙草に火を点ける。
薄く吐き出した煙が、のろのろと揺れている。煙草も好きだ。味も、匂いも、無意味な時間を潰してくれるのも、取り出して咥えて火を点けて煙を吹いて、という一連の動作も、全てが好ましい。珈琲にせよ煙草にせよ、加えて言うなら酒にせよ、あってもなくても困るものではないけれど、それなら、あってくれるに越したことはない、と僕は思う。
幾度となく聴いたCDをプレイヤーに突っ込む。今更聴くまでもなく、このCDに収録されている曲は、頭の中で、ずっと鳴っているけれど、それでも何となく、再生してしまうのは、灰皿に押し付けて直ぐに、新しい煙草に火を点けてしまうのと、よく似ている。音楽なんて苦手だったんだけど、反復し、繰り返されるものには惹かれてきている僕だ。
あらゆる反復行動、中毒行動に、意味を求めるのは、大きな間違いだ。往々にして、無意識に繰り返してしまう行動、というのは、無意識が必要としているのであって、そこに意識を介在させよう、なんていうのは、愚行でしかない。馬鹿げている。僕はそう信じているから、珈琲を飲む手も、煙草を吸う手も、酒を飲む手も、音楽を聴く耳も、決して止めない。無意識の為すままに、まあ味や匂いくらいは楽しんでおいて、音の海に溺れ続けて、身体へと取り込み続けている。ずっと、ずっと。
十九
人として、真っ当に社会に貢献すべきだったのに、僕は何となくで日々を食い潰し、それでも何故か、生きることだけには失敗せず、ついに、この瞬間にまで到達出来たのは、僕こそが、本来的な意味での人間だったからだろうと、それだけが唯一、僕にとっての矜持でした。
二十
夢の中での出来事は痛みを伴わないなんて迷信は大嘘だよ。僕は夢の中でも痛みを感じている。夢の世界の痛みを知っている。非現実の、肉体へのじゃない、意識、心、精神、そういった無形のものに対してのみ与えられる痛みを知っているんだ。と言うか、みんなにはないの? ほら、夢の中のゲームセンターでゲームに興じていたらアルバイトの女の子が仕事をサボって電話なんてしているから注意してやったのに逆ギレされて胸倉を捕まれた時の痛み、それが腹立たしかったんで店長に言いつけてやろうと暴れるバイトの女の子を無理矢理事務室まで連れて行く最中に周りからじーっと見られる痛み、隙を突いた女の子が僕の頭をぶん殴ったものだからコンクリートの床に倒れてしまって頭を打ち付けた痛み、意識を失って気が付くと全然見知らぬ町にいてとにかくふらふら歩いてみようと思っていたら後ろから突然手を回されて顎を捕まれてお前が悪いんだお前が悪いんだと呟かれながら顔を握り潰される痛み、それで気絶したかと思うと母親にいつまで寝ているのバイトの時間よと揺り起こされて慌てて飛び起きリビングに行くと見知ったような見知らぬような男達がたくさんいてあれどれがお父さんだろうと悩んだ瞬間にみんながにやあっと笑って僕に覆い被さってきてこのままだと押し潰されそうだと思った刹那に抱いた痛み、で、その痛みで僕は毎朝、目を覚ますんだけどさ。じんわり身体に、痛みによく似た倦怠感だけ残して、ね。みんなって、そうやって起きたこと、ないのかい? ふうん、不思議だね。
ま、これから君たちにも、そういう経験があるかもしれないからさ、先輩として一つだけ、注意しておいて上げよう。
無意識に刻まれた傷は、手当ての仕様がないから、人って、心って、傷って、こんなもんなんだなあって、諦めてごらん。するとね、何だか、ほわんとして、緩やかな気分になって、うん、まあ、救われはしないけど。
出来れば、もう一回、目が覚めるのを待ちましょう。




