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1から10。

そのいちから、そのじゅうです。


のこり、きゅうじゅうはちです。


あまりの暑さに空が溶けて落ちてきていたので、僕はうきうきして、手で少し掬い、口に含んでみた。いがらっぽい甘さが痛烈に味覚を攻撃し、僕は、こんなものが世界を覆っているから、戦争や人殺しがなくならないのだ、と悟ってしまい、無性に切なくなった。

夏が嫌いになったのはそれからだ。でも、本当に夏が嫌いなのか、と尋ねられると、うん、と素直に頷ける自信はなくて、それは単に、僕が天邪鬼だから、という訳ではなく、炎天下、口腔内にへばりついていた空の味を流してくれた、ソーダ水はとても美味しかったからなんだ。舌の上でぴりぴり弾ける炭酸は、こんなにも素敵なのに、夏が嫌い、なんて、僕の身勝手な感情でそれを切り捨ててしまうのは、酷い大罪のような気がして仕方がなく、僕は灼けたアスファルトに、頭を押し付けて謝罪した。頭上で赫々と鳴き喚く蝉は、間違いなく僕を嘲り、蔑んでいた。




星を見る僕を見る彼女を見ていた僕は、どうしてこんなにも美しい少女が、みんなから迫害されているのだろう、と素朴に疑問だった。彼女の名前は、確かに聞いたことがあった筈なのに、僕はちっとも覚えていなくて、それはきっと、僕も心のどこかで彼女の“美”を忌避しているからだった。

到達された“美”を認知してしまう、ということは、その先に、より美しいものを見ることがない、という意味で、つまりはもう、生きている意味がない、ってことなんだよ。だから僕は、無意識に彼女の存在を忘却の彼方へと追いやろうとし、その一端として、彼女の名前を忘れてしまったのだろうなあ。

ざんばらに切った髪が、肩の辺りでふわふわと艶やかだった。僕はふと、その髪に触れてみたい、と強く感じ、彼女にそう伝えると、あはは、どうぞ、と彼女は屈託なく微笑んでくれた。

指先に触れた髪の毛は、とてもひんやりとしていて、僕は、まるで小川に指を差し入れたような清々しい気分になった。でも、彼女の髪は、僕が小川のようだ、と認識したその刹那に、黒々と荒れる川になって、僕の指、手のひら、手首を、飲み込んでいき、清々しい気分、もそれに飲まれて姿を失った。

ほおら、油断したからだよ。みんなに迫害されているということは、きみだってわたしを唾棄すべきに決まっているのに、のうのうと、髪に触れたい、なんて愚鈍なことを言ったから、きみはわたしに食べられちゃうんだよ。残念だったね、これで、きみは、おしまい。

彼女は勘違いをしていて、別に僕は彼女に食べられずとも終わっている。それに、美しいもの、艶やかなもの、ひんやりと気持ちのいいものに飲まれて終焉を迎えるほど、誇らしいことは、他にないのだ。僕が、嬉しさのあまり大声で笑うと、彼女も笑って、僕を飲み込んでいき、僕と彼女は、一つの塊に成り果てていく。




夜に包まれた静かな街が好きでした。朝焼けの薄い紫色、橙色、緑色に、染められた街が好きでした。子供が走り回って、大人は齷齪働いて、活気に溢れていた、昼の街が好きでした。斜陽に照らされて、誰も彼もぼんやりと影を滲ませていた、黄昏時の街が好きでした。うだるような暑さの中、アイスキャンディを咥えて家路に就いた、夏の街が好きでした。紅葉が散る公園をぶらぶらと、少し寒くなったね、なんて言いながら散歩した、秋の街が好きでした。人影もない郊外の学校の校庭で、ジャングルジムに登って降る雪を眺めた、冬の街が好きでした。夜桜が月の光を反射して、まるで雪洞のように、仄かに明るかった、春の街が好きでした。星がよく見える、小高い丘のある、この街が好きでした。他所よりも、穏やかな時間が流れている、この街が好きでした。好きな人が暮らしている、この街が好きでした。


「でも、今は、みんな嫌い」




無為な一日を過ごしたくなかったので、檸檬を齧ってみた。皮はとても苦くて、果肉はとても酸っぱくて、こんなもの、何でこの世にあるのだろう、と僕は訝った。

でも、檸檬に限らなくたって、そういうものはたくさんある。キリン、何であんなに首の長い生き物がいるんだろう、海、何であんなに塩っ辛い水が溢れているんだろう、音楽、何でがちゃがちゃ騒がしいだけの音が持て囃されているんだろう、って、ほらね、この世の中は無駄だらけなんだ。でも、みんな、無駄なことにかかずらう余裕がないから、今この瞬間にも、無駄なものが生まれて、無駄に死んで、僕は余裕だらけだから、それをじーっと見詰めている。




路地裏で煙草を吸いながら、スキットルに入ったウイスキーをぐびぐび飲んでいるうちに、夕暮れ時になっていた。表通りは足早に行き交う人だらけで、まるで濁流のような有様、あそこにだけは行きたくないなあ、と気後れしながら、僕はまた一口、ウイスキーをぐびり。熱い塊が喉を通り、胃へと流れ込んで、身体をぽかぽかと温めてくれる。

足元では、猫の死体が腐っていた。僕はこの一週間、ずっとここでウイスキーを飲みながら、こいつが腐っていくのを観察し続けている。冬、寒いから腐敗の進行はとてもゆっくりだけど、確かに猫は猫の形を失いつつあって、僕はそれが、とてもとても楽しい。

猫に少しだけ生気が残っているように見えるのは、皮膚で蛆が蠢いているからで、鮮血、という言葉がぴったりだった赤色は、今やくすんでどす黒く、生き物の名残を薄くしていっている。今はかろうじて、こいつが元々猫だった、って分かるけど、僕はきっとどこかで、こいつが元々、猫であったことすら分からなくなるだろう。

その時を待つために、僕はウイスキーを飲んで、身体を温めながら、意識を混濁させているんだ。




嬉しいですね、ええ、すっごく嬉しいです。でもそれ、わたしが偉いわけじゃあないんですよね? 何でわたしが褒められているのですか?

誰も答えをくれません。でも、いいんです、分かっていますから。わたしが奇麗過ぎるのが、きっと全ての元凶なんですね。完璧というのは、欠点がないという欠点がある、なんて、馬鹿馬鹿しくって笑えますけど、きっとそういうことなんです。

鏡の中で微笑むわたしは、自分自身、情けないほどに隙がなくて、きっと、だからみんな、わたしが怖いのだろうなあと思います。思ったところで、わたしにはどうしようもありませんから、とにかくにこにこ、明るく振舞ってみんなに媚を売って身体を売って、生きていくしかないんですよね。

ああ、檸檬のような、爽やかな酸っぱさが、わたしにもあればよかったのに。




高校の時、人に遺書を書かせるのが趣味、という、奇妙な同級生がいた。髪はぼさぼさ、眼は大きくぎょろりとしていて、いつも粘ついた笑みを浮かべている男で、僕は彼とそう仲は良くなかったが、彼の方が僕によく絡んでくるものだから、会話をする機会は多かった。

ある日、彼は僕に、ねえ君、遺書を書いてくれないか、と常套句を投げ掛けてきた。断る理由もなかったので、よし、それじゃあ書いてみるか、と筆を執ったが、僕には、死後に残したい言葉なんてまるでなく、うーん、と暫く考えあぐねた後、一文だけ認めてみた。

中々の名文を残せたのではないか、なんて得意顔の僕を横目に、彼は満面に苦笑を貼り付けて、一言。

君は、気持ち悪いね。




自覚していなければ許される、なんて言うのは甘えです。わたしはそれをよく理解していますから、どんなことで謗られようと、必ず頭を下げることが出来るのです。

空が青いのも、夏が暑いのも、男がわたしに集るのも、笑みが同情めいて見えるのも、言われたらすぐに身体を許すのも、コンビニのお弁当が不味かったのも、絵の具が上手く混ざらないのも、無駄なことにお金を使ってしまうのも、お酒がちゃんとした酩酊をもたらさないのも、上手な恋が出来ないのも、みんな、みいんな私の所為だと認めましょう。

バタフライ効果、なんて言葉がありますが、わたしは正しく、生きているだけで周囲に悪影響を及ぼす、毒を帯びた蝶なのです。

頭は下げます、謝罪もします、だからねえ、誰かわたしを、許して下さい。




暗がりで一人、生き続けよう。そう決めたのは、周りの人々に考慮してのことなんかではなくて、偏に、そうした方が、僕はより良い人生を送れるだろう、と、朧げながら、ちゃんと分かったからだ。

一度だけ、僕の中にある、濛々とした窪みに、人を誘ってみたことがある。彼女は、あっさりと僕の内側に滑り込んで、極々自然に横になり、ああ、ここはわたしにうってつけだね、と安らかな寝顔を形作っていた。その挙動の全ては、舞いのようですらあり、僕の背筋は瞬く間にぞっとして、意識が冴え冴えとしたのを、よく憶えている。それは、度を超えた正義が、ある種の暴力性を孕むのと、全く同質の畏怖だった。

その時、僕の隠れ家に転がっていたのは、踏み潰されたぬいぐるみ、ひび割れたレコード、音が飛んでしまって不協和音ばかりを垂れ流すオルゴール、食べかけのチョコレートと飲みかけのミルク、湿気った煙草の吸い殻、濁ったウイスキーが入った酒瓶、剃刀、汚物塗れのタオル、包帯、生きたゴキブリと死んだゴキブリ、カッターナイフと円の描けないコンパス、真新しいランドセル、捲られてもいない教科書、白紙のノートとへし折れた鉛筆、学業成就のお守り、何日も洗濯されていない制服、時代遅れのテレビゲームのソフト、限度額を使い切ったプリペイド式の携帯電話、などで、お世辞にも居心地が良い場所なんかじゃなかったのに、彼女は、正に此処こそが私の済度の地、と言わんばかりの安寧を以して、僕の肩に、寄りかかってきた。

彼女は、桃の果肉のような甘い匂いと、ハーブやスパイスによく似た香りの入り混じった、不思議な芳香を纏っていた。それは、僕の知っている、数少ない恍惚の象徴だった。




「あれ、今日も来たの?」

「うん。だって、わたし、ここしか知らないから」

「知らないって、何を知らないの?」

「息継ぎが出来る場所」

「変なの。それじゃ、ここ以外だと、呼吸できないの?」

「そうだよ。わたしは、ここでだけ、呼吸しているの」

「ふうん。そうなんだ」

「冷たい反応だね」

「冷たいかな。今、僕は内心、とても感心しているんだよ」

「そうには見えないなあ」

「それじゃあ仕方がないね。よし、じゃあ、こんなのはどうかな?」

「うん? どんなの?」

「君は、すごい! 普段は呼吸をしないで生きているなんて、まるでお化けだ!」

「……あはは、何それ、馬鹿にしているだけじゃない」

「そんなつもりじゃないんだけど。ううん、日本語って、難しいね」

「うん。とてもとても、難しい。わたしも、全然分かんない」

「だよね。意志の一つも伝えられない、不便なものだ、言葉って」

「でもさ、流石に“お化け”は褒め言葉じゃないでしょう?」

「そんなことないよ。だって、僕は――」

「――僕は?」

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