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67.バランス

「おいっ、次のヤツが来るぞっ。空自はマジでやる気なのか?」

 権田が後方を指さす。「おおよど」を制圧した3人は、錨を投げて「おおよど」をその場に留めると、再び「しまかぜ」を発進させた。旧日本海軍最速の駆逐艦「島風」にあやかったであろうその名に恥じぬことを期待して全速力で護衛艦「あさゆき」に向かう。操舵している倉田は、ちらりと後方へ顔を向けると、すぐに「あさゆき」に視線を戻す。

「チャフじゃ脅しにはならないですよ。やられた方はせいぜい混乱するだけです。。。何か手はないか。。。」

 倉田の祈るような語尾は、エンジンと波の音にかき消され権田の耳には届かなかったが、傍らの古川には辛うじて聞こえた。

「チャフで遮られて相手に無線は通じない。ですよね。」

 古川は念のため確認した。十中八九無理なのは分かっている。こんな時に俺は何を念押ししているんだ。アイデアを出せ。アイデアを。

「無理ですね。それにしても見事な操縦だった。。。同じ腕の奴が爆撃に来たら助かる見込みはありません。」

 古川の脳裏には、つい数分前のイーグルが鮮明に刻み込まれていた。恐ろしく低空で、しかももの凄いスピードで護衛艦「あさゆき」の艦尾方向から近付き、「あさゆき」後部に箱を載せたようなヘリコプター格納庫の直前をギリギリのタイミング急上昇しながらチャフを撒いていったF-15、様々な角度で陽光を反射しているであろうアルミの塵が、キラキラと幻想的さえ見えた。そして雷が落ちたような轟音が目にした者にとどめを刺した。

「梅沢じゃ、無理です。私でも、いや、多分どんな艦長だって避けきれない。少なくともチャフを撒いたパイロット以上の腕の者が爆撃してくる筈ですから。」

 倉田の頬が引き締めると、苦渋が刻まれたように皺が深くなる。

 後輩の艦長を、そしてその部下達を目の前で失おうとしている倉田の心境はいかばかりだろうか。いや、あの戦闘機のパイロットこそどう思っているのだろうか、、、古川は甲高い音を後ろに引きずりながらこちらに向かってくるF-15を見つめた。


 遙か前方を映すレーダーの一部がチャフの影響でぼんやりと滲み、その向こうに急速に離れていく1つの点が見える。その点に添えられた高度を示す数字があっという間に増えていく。

 キョウジュは、上手くいったらしい。。。

 ほんの一瞬でレーダー画面から全体を俯瞰ふかんした鳥谷部はすぐに正面のHUDヘッド・アップ・ディスプレーに視線を戻した。HUDは、飛行と戦闘に必要な情報をパイロット正面の透明の板に投影するシステムである。中心のシンボルが水平飛行をしていることを示し、端には、速度と高度が表示されている。まるで、前方の景色に数字や記号が直接書き込まれているように見える。海面上を這うように超低空飛行を続ける鳥谷部にとって、前方の視界に集中できるのは、ありがたいことだった。そしてHUDの下端に表示されているMk.82BOMBというコメントが、今、選択している兵装がマーク82型爆弾であるという現実を鳥谷部に突きつける。そして間もなく視界に入るであろう護衛艦「あさゆき」がHUDの視野に入れば、攻撃目標ターゲットとして四角い記号にマークされる。

 いた。。。

 鳥谷部の視界に現れると同時に攻撃目標と認識された護衛艦「あさゆき」は、もやに包まれたように霞んで見えたが、レーダーエコーで判別した火器管制システムに掴まり電子音と共に四角で囲まれた。

 いったいあの中の何人が悪党なんだろうか。。。

 これまで浮かんでは揉み消していた「何で俺が味方を攻撃するのか、、、」という嘆きとは別次元の思考が頭を占有し始めた。目標を目の当たりにしたためか、中にいる人間・・・自分と同じ自衛官・・・に気持ちが向いてしまう。

 全員が全員ハープーンをぶっ放したいと思っているわけじゃない。。。そう信じたい。。。俺のように誰かの夫であり、父親であり、子供であり、、、失っていい命なんてない筈だ。しかもこんな味方撃ちなんて。。。

 一瞬、脳裏に愛娘の舞花まいかの笑顔が浮かぶ、この春幼稚園に進んだばかりの娘に添い寝するのが、任務で疲れて帰宅する鳥谷部にとって至上のひと時だった。もし、ここで俺が撃墜されたら、娘はどうなるだろうか。。。俺は娘にとって既にかけがえのない存在なのだろうか?それとも、お父さんはこんな人間だった。という思い出のひとコマで語られるだけで済むだろうか。。。彼らには、、、あの護衛艦の乗員には、もっと大きな子供がいて、既にかけがえのない存在になっている父親もいるだろうに。。。

 不意に目から一筋の涙がこぼれ、酸素マスクの縁を伝い落ちるの感じた鳥谷部は、自分の弱さに喝を入れた。

 違う。。。

 任務だ。上からの命令を命じられたままに実行できないパイロットがいては、組織は成り立たない。人の命を奪う権利があるかどうかは別として、人の命を奪える能力を直接扱う立場だからこそ私見に囚われてはならない。

 俺は、如何に高い確率で任務を成功させるかだけを考えればいい。その対価として国はこの高価な戦闘機を俺に与えてくれて、大好きな大空を飛ばさせてくれ、家族も含めて飯を食わせてくれている。

 それが俺の役割だ。

 HUDの中心から護衛艦を囲う四角いターゲットボックスに向かって線が伸び始めた。爆弾の投下経路を示すその線は、少し左に傾斜しており、コースを左に修正することを鳥谷部に求めていた。

 ほら見ろ。気持ちのブレが出てる。

 鳥谷部は、自分を皮肉ると、左の方向舵ラダーペダルを軽く踏んで機体を左へ滑らす。吸い寄せられるように斜めにターゲットボックスを結んだ線が吸い寄せられるように垂直になる。ターゲットまでの距離を示す数字が小さくなっていき、爆弾の着弾予想地点を表わす丸いシンボルが現れると、鳥谷部の中の迷いは完全に消え去り、役割に集中する。いや、集中しなければ命を落とすだけでなく国民の血税をつぎ込んで調達し、整備員が手塩に掛けているこの機を失うことになることを身体に染みついているのだ。

 丸いシンボルが四角いターゲットを追いかけるようにHUD上を動いていく、両者が重なった時が命中ということになるが、そこでトリガーを引いたのではタイミングが遅れる。技術の進歩と共に機械は正確になり、あるいは自動化するが、人間はそんなに便利には進化しない。それをカバーするのが、今風の訓練だ。

 まだまだ。。。

 拡散しているチャフによってこの機のレーダーは相手を大きく捉えているはずだから、もっと近付かねばならない。

 鳥谷部は、大きく息を吸うと、操縦桿頭部のトリガーに指を添えた。

 チャフの塵の中から護衛艦の艦影を探る。左手前の漁船が大きな波を立てて航行していることから、速度を上げている事が伺える。まるで護衛艦を追うような航路で進んでいるが、追いつく前に爆撃は終了している。影響はない。

 目撃されるだろうな。。。

 そういう意味では、作戦の中止を進言出来るかもしれない。が、シースパローミサイルにCIWS機関砲、76mm速射砲を装備した護衛艦に2度目の攻撃をする余裕はない。チャフが晴れれば間違いなく撃墜される。そして、中国艦隊へ向けてハープーンが発射される。命令はこれを阻止することだ。

 この一撃を逃したら次はない。。。

 目標を捉えて離さないHUDを前にした鳥谷部には、任務を中止するという選択肢はない。

 漁船との距離を確認し、その安全を確保できると判断した鳥谷部は再び、チャフの霧に包まれた護衛艦「あさゆき」に目を凝らす。

 何だあれは?

 レーダーを一瞥するがチャフ滲んだ向こうには何もない。キョウジュこと高山の機は既にレンジの外に出ている。

 間違いない。何なんだ。

 再び目を向けると、霧のようなチャフの頂点を越えて向かって来る黒い筋を、今度は、はっきりと認めた。それは目の前であっという間に形を示し始める。


 ダメだ、間に合わない。

 護衛艦「あさゆき」に接近すれば、民間船舶を巻き添えにしてまで爆撃を行うことはないだろう。という古川の提案により、全速力で護衛艦「あさゆき」の左舷後方を目指して追いかけていた「しまかぜ」は、彼らの努力も虚しく、あっという間にF-15J戦闘機に抜かれてしまった。

 甲高い音で向かってきたF-15Jの音は、「しまかぜ」を追い抜くと、落雷したときのような振動と、張り裂けんばかりの轟音で後方にあるあらゆるものを制圧する。

「クソッ」

 騒音の主であるF-15Jの後ろ姿を忌々しげに睨みつけて古川が力の限り罵声を吐く。この轟音の中ではどうせ誰にも聞こえない。

 燃焼した高圧のジェット排気に再度燃料を吹き付けて点火するアフターバーナーの作用でオレンジ色に輝くジェットノズルは、超低空の密度の濃い空気を切り裂くためにF-15J戦闘機が全てのパワーをつぎ込んでいる証だ。

 F-15Jの特徴的な2つの垂直尾翼のシルエットが護衛艦「あさゆき」の艦影に重なる。

 もうダメだ。

 悔しさのあまり唇を噛みしめた古川の視界の中で、突如F-15Jの背中が弾けたように白い煙を吐き、大きな翼と一体となった独特な背中を見せながら左斜めに急上昇していく、その翼の両端からは雲のような白い筋が日の傾きかけた青空に流れる。それらの白。。。ベイパーは、機体や翼から剥がれた空気が急減圧されることにより、その空気中に含まれた水分が雲のように発生する。それは、目の前のF-15Jがベイパーが発生するほど急激な引き起こしを行っていることを示していた。

 やられたか?

 反射的に身を伏せながら古川は護衛艦を覗う。が、爆発はおろか、水柱ひとつ立っていない。

 何が起こったんだ。

 立ち上がった古川に、舵輪を握ったまま振り返った倉田も首を傾げる。古川同様に立ち上がった権田が、レンズにヒビの入った双眼鏡を構える。

 正面に向き直った倉田は、なおも護衛艦「あさゆき」を目指し、操船を続ける。その倉田が、レシーバーにしばし片手を添えて、何かを喋り始めた。

 駆け寄る古川に顔を向けた倉田が、満面の笑みを作って親指を突き出してみせた。

「やりましたよっ、来てくれたんです。」

 何が?

 と聞き返そうと口を開きかけた古川の耳に、聞き慣れた重低音が響いてきた。

 その方向に双眼鏡を向けた権田が小躍りするように両手を振り始めた。

 4本の黒い煙をきながら向かってくるのは、紛れもなくP−3C哨戒機だった。

 来てくれたんだ。。。

 任務に向かうため、倉田の頼みを拒否したP−3C、那覇基地のTIDA06が、応えてくれた。そして今、護衛艦「あさゆき」を攻撃しようとした航空自衛隊のF−15J戦闘機に真っ向から挑み、その意図を挫かせたのだった。いくら任務でも、他の航空機と接触する危険を冒すことはできない。チャフで出来た電波の影と、塵のもやの向こうに隠れた格好になっていたP−3CにF−15Jのパイロットは気づかなかったのだ。

「了解。TIDA06感謝する。これから本船は、「あさゆき」に接舷する。F-15(イーグル)に2度と変な気を起させんように、上空で待機してくれ。」

 上機嫌な声をマイクに吹き込んだ倉田が、古川に顔を向ける。

「エンジン不調。とか報告して引き返してきたそうです。黒煙を吐いてるでしょ。ワザと燃料の調整を狂わせてるようです。バレたら怒られるな。。。いや、それじゃ済まないでしょう。処分を覚悟で。。。皆川さんらしいな。。。申し訳ない。」

 語尾が濁る倉田の目は涙で滲んでいた。

「僚機はどうしたんでしょうね。確か2機でしたよね。」

 倉田の涙を見ぬ振りで古川は問いかけた。そんな男が僚機をたった1機で前線に残してくるはずはないだろう。

「遠巻きに監視することになったそうです。所詮、政治家は我々が毅然とした行動を取る事を嫌っていますからね。誰にも非難はされません。そもそも、法律上、いざとなったらまずは撃ち落とされるしかないんですからね。集団的自衛権云々の前に、領土を守るための法律をしっかり決めてほしいもんだ。だから河田さんだって立ち上がった。私はそう思います。」

 倉田が柔らかい苦笑を頬に浮かべて語った。

 護衛艦「あさゆき」への爆撃を回避できたことで、心が緩んだのだろうか、これが本音なんだろう。

「いや、でもね。我々はそれに同調すべきではない。と私は思います。我々はシビリアンコントロールを守らねばならない。

 我々は、我々のためでなく、国民のためにあるんですからね。たとえ法や規定の不備で1発も撃たずにやられたとしても、シビリアンコントロールを守ります。我々は国民に信頼され、頼られていることを震災で初めて実感したんです。この信頼関係を崩してはならない。そう思います。例え先制攻撃で倒れるとしても本望です。ただ、相手に攻撃されてからでないと反撃できない。今の正当防衛レベルの対処では、最初の一撃で全滅してしまう。それでは国を守れないんです。それだけが心配なんです。」

 古川が浮かべた不安の色を敏感に感じ取ったのか、軽く頭を振りながら倉田が続けた。

「私も、河田さんの想いは、分かります。やり方は別として。。。」

 河田の思想に賛成はしつつも、同調することは否定する倉田の朴訥さに古川は同情の念で答えた。

「倉田さん、ありましたよ。これですよね?発光器って」

 いつの間にかキャビンから戻った権田が、バケツを横に向けて拳銃のグリップを付けた様な黒い機材を持ってきた。

 数分で発光器の点検を終えた頃には、倉田の操船する「しまかぜ」は、突然航空自衛隊機の標的にされて驚いたように停船していた護衛艦「あさゆき」と横並びになっていた。もっとも、チャフの霧が明けきらないので、近付くことはできない。

 

 艦長、接近してきた漁船から発光信号です。

 くぐもった声で報告しながら防毒マスクを付けた隊員が艦橋に入ってきた。手にはメモ紙を持っている。梅沢の命令でウィングで見張りについていた彼は、チャフの塵を吸わないように防毒マスクを付けさせられていた。

 そこまでしなくても、、、怪訝そうな顔で防毒マスクを取りに行った彼だが、適切な装備を持たないなら、過剰と思えても部下の安全を優先する。それが梅沢のやり方だった。

「御苦労。読んでくれ。」

「はい。

 こちら、佐世保総監部 2等海佐 倉田健夫。貴艦の状況を、護衛艦隊司令部に中継する。状況を知らせよ。空自機の攻撃行動は、貴艦のCICが乗っ取られていたためと愚考す。至急連絡を取る必要ありと認む。

です。」

 倉田健夫の名に、「いそゆき」の艦長だ。と、艦橋のあちこちでざわめきが起こった。

 梅沢は、やっと連絡手段を手に入れた安堵と、身を呈して空自機の攻撃を止めてくれたことに感謝の念が胸に込み上がり、溢れそうになるのを感じた。さっきのP-3Cといい。我々を救うためにありとあらゆる手を尽くしてくれた先輩に何と感謝してよいものか。。。

 尻のポケットに突っ込んであったハンドタオルを取り出して、汗とも涙ともつかないもので汚れた顔をサッと拭った梅沢は、大きく呼吸をして命じた。

「発光信号用意。

発;護衛艦「あさゆき」艦長

宛;倉田2等海佐

 貴官の救援に本艦一同最大限の感謝を申し上げる。

 護衛艦隊司令部に以下送信されたし。

 空自機のチャフにより現在あらゆる通信が不能。電話を含めあらゆる衛星通信は、反乱者により破壊されている。反乱者は1名のみで、身柄は確保している。

 本艦に対するあらゆる攻撃を中止されたし。

以上。」

「了解。」

 梅沢に命じられた電文を信号用便箋に書き留めた隊員は、内容を復唱すると防毒マスクを被ってウィングに出た。ウィングには発光信号器を兼ねたサーチライトがある。


 護衛艦隊司令部の報告に首相官邸のある部屋は歓喜に包まれた。陸海空3人の幕僚長達は、立ち上がり互いに手を取り合いお互いの労をねぎらった。

 それを目にした総理大臣の宇部が目の色を変えて彼らに歩み寄った。

「艦内に謀反者がいたということは本当なのか?どうしてくれるんだ。いったいどう国民に説明すればいい。夜の記者会見までに対策を示したまえっ。」

 これ見よがしに彼らを睨みつけた宇部首相は、部屋の全員に周知させるように大声で怒鳴った。

「だったら、あんたが護衛艦を沈めようとしたことも記者会見で言うんだろうなっ。」

 海上幕僚長の山本が宇部の鼻先に人差し指を突き付けた。全身真っ白な制服に身を包んだ山本の姿は、白装束で切腹の覚悟を決めた侍のような雰囲気と強い意思を発していたるように見えた。

「貴様ぁっ。自分が何を言っているか分かってるのかっ。」

 山本の指先で射すくめられた総理に代わり官房長官の甲高い怒鳴り声が響くが、細みの身体が肩をいからせても迫力はない。

「状況が終了したので、戻ります。」

「失礼します。」

 3人は続けざまに一礼すると大きな扉へ向かって歩き出した。

「まだ、話は終わっとらんぞ。逃げるのかっ」

 山本の指から解放された宇部が、立ち去る幕僚長達の背中に罵声を浴びせた。

「あんた等の尻拭いをしに戻るんだ。何でも闇に葬って、臭いものには蓋をして、いつも逃げているのはあんた等、政治家だろ。

あ、そうそう、中国艦隊にどう対処するのか指示を待ってますよ。最高司令官閣下殿。」

 吐き捨てるように言った山本が踵を返すと、陸、空の幕僚長も再び扉の方に向き直って歩きだした。

 6つの軽蔑の眼差しを受けた宇部は、返す言葉もなく彼らを見送るしかなかった。防衛大臣は、どちらに付くこともできず、椅子に座ったまま目を泳がせることしか出来なかった。


 ターボプロップの重低音を響かせたP-3Cが護衛艦「あさゆき」と倉田達の乗る釣り船「しまかぜ」の間を超低空で左右に翼を振りながら抜けて行く、

 すっかりチャフの塵が晴れた「あさゆき」の甲板の至る所で、白い制服、青い作業服の隊員が手を振り、大声で感謝の言葉を叫んでいた。その声は「しまかぜ」の倉田達にも届いていたが、彼らは自分達の叫び声が護衛艦の隊員たちの声と混じり、ハーモニーを奏でていることが、これまでの連携プレーの成功の感動をより一層盛り上げていた。

 

-ELBOW01、Abort mission.RTB.(エルボー01、作戦中止。帰還せよ。)-酸素マスクの中で大きく溜息をついた鳥谷部がマイクのスイッチを入れる。

「Roger ELBOW01.RTB(エルボー01了解。帰還する。)」

 低空で旋回しながらP-3Cとの間合いを見計らっていた鳥谷部は、高度をゆっくりと上げながら那覇基地へ機首を向けた。

 終わった。。。

 もう一度溜息を吐いた鳥谷部は周囲を見渡す。

 千切れ雲を突きぬけ、上昇を続ける鳥谷部の周りには、日没へ向けて柔らかくなりはじめた南陽の陽に青みを増す空があり、遠くには大きな積乱雲が見える。どこまでも続く景色、その全てが何事もなかった事を祝福するかのように優しく鳥谷部を包み込んでくれているように思えた。

 生きている。そして誰も殺さなかった。良かった。本当に良かった。。。

 鳥谷部は酸素マスクの中で呟くと、大きく酸素を吸い、深呼吸をした。

 もしかしたら、俺達が誰よりも平和を望んでいるのかもしれないな。。。平和な日常は、当たり前のことではない。どこかでバランスが取れているのだ。。。俺は飛ぶことで平和を守っている。誰もがそれぞれの役割を果たし、それらがバランスしていることで平和な日常がある。。。そのどれかが狂っただけで争いは起こる。そもそも動物だって本能的に自分と同じ種は殺さない。人間だけが異常なんだ。いや、本当は人間だって同じはずだ。殺し合いなど本能的にはしたくないはずだ。。。ただ、抱えているモノが複雑なだけだ。外交、経済、憎悪、歴史。。。それらが絡み合いつつもバランスが取れている時が平和なのかもしれない。。。

 絶妙だな。。。

 マスクの中で鳥谷部は苦笑した。

 

 室内の殆どのノートパソコンの画面が黒い画面のまま沈黙していた。先ほどまでは、それを起こそうと、何度も忙しなくキーボードを叩く音や、再起動を繰り返し行う音が室内を占めていたが、今はその音もない。

 賑やかに色を表示しているのはインターネット用のノートパソコンと、山頂に設置した簡易レーダーの端末だけだった。

「長官。駄目です。「鷹の目」は完全に沈黙しています。エラーの内容から送受信ブイとのケーブルが切断されている模様です。「おおよど」とも依然連絡が取れません。」

 片岡が悲痛な声で報告する。

「そうか。。。やむおえんな。佐藤君、「あさゆき」の状況はどうか?」

 滅多に感情を顔に出さない河田が苦渋の表情を浮かべている。レシーバーを掛けて無線の傍受をしている佐藤がメモを取る手を止めて内容を読み上げる。

「今、護衛艦隊司令部と「あさゆき」のやりとりが行われています。すみません、ちょっと待って下さい。。。クソっ、根本さんが捕まったようです。チャフで通信ができないため、付近にいる倉田2佐が中継しています。「しまかぜ」の無線機を使っているようです。」

 河田から正面に視線を戻した佐藤は、無線を聞き漏らすまいとレシーバーを手で耳に押しつけながら、再びメモを取りつつ断片的に実況する。

「うむ。。。やむをえんな。。。」

 目を閉じてじっと報告に耳を傾けていた河田は、独り呟くと目を見開き、背筋を伸ばした。

「諸君。これよりZ作戦に移行する。準備を頼む。」

 長官。と同情を込めて河田に呼びかけるような声が異口同音に湧きおこる。彼ら1人ひとりに仏像のような穏やかな表情で頷き返す河田に、誰もが目を潤ませた。それでもそれぞれが割り当てられた指示を無線で出し始めた。ある者は目元を拭いながら、そしてある者は鼻を啜りながら。。。嗚咽を漏らす者もいる。

 司令部と彼らが呼ぶ単管パイプに布を張っただけの建造物の中では、一部を残して機材の梱包作業が始まった。

 Z作戦。。。アルファベットの最後の文字「Z」から取ったこの作戦の意味は、「後がない」ということを意味していた。日の丸が掲げられていた急ごしらえの国旗掲揚塔には、旭日旗の下に対角線で仕切った上下左右の三角形がそれぞれ黄、赤、黒、青で塗りつぶされた「Z」を意味する信号旗が掲揚された。 その掲揚の様子を、数名の部下と敬礼したまま見つめていた河田は、傍らに駆け寄って来て同じように敬礼で掲揚を見終えた藤田に、声を掛けた。

「藤田さん。すまないがZ作戦に移行します。準備をお願いします。それから、海保の諸君には、エンジン付きのゴムボートを1隻与えてやってください。食料と水も載せておいてください。」

 清々(すがすが)しい河田の表情に、覚悟を決めた者の潔さを感じた藤田は、河田に直立不動の敬礼をして言葉を返す。

「了解しました。彼らを巻き添えにするわけにはいきませんからな。武運を祈ります。」

 藤田に答礼をしながら河田は深く頷いた。


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