止まらぬ想い
45.止まらぬ想い
「面目ない。」
強張った表情のまま俯く男に昼間握手を交わした時の頼もしさは無かった。
「さ、中へ進みたまえ。」
背後にぴったりと付いた田原に促され、男がゆっくりと足を進める。
「倉田、、、さん、、、」
古川は、その状況が飲みこめずに、唸るように呟いた。なぜ、ここに?古川の心に木霊する。まさか俺を裏切ったのか?田原は元海上自衛官だ。もしかしたら田原と倉田は師弟関係なのかもしれない。
権田さんといい倉田さんといい。いったい俺は何なんだ?何を信じればいいんだ?
自らの置かれた理不尽な状況に古川の心に怒りの火が灯る。
「倉田さん、あなたまで!」
古川が怒りに震えた声を倉田にぶつけた。そして倉田の胸倉を掴もうとした時、倉田の肩越しに田原が古川に銃を向けてきた。
「すっかり酔いが醒めたようですね。古川さん。ま、酔った振りをしていたんでしょうがね。」
俺は倉田さんに裏切られた訳じゃなかった。古川の心の嘆きに光が差し、自分でも状況に不釣り合いなくらい表情が明るくなっていくのが分かる。
戦場で取材をしてきた古川は、今までに銃を向けられたことが何度もある。しかし、銃を向けられて安堵したのは初めてだった。
きっと、今の自分は微笑みさえ浮かべているのかもしれない。よし、その線で行こう。銃を突きつけられて、薄笑いを浮かべられるほど、銃を持つ者にとって気味悪いことはない筈だ。
「ぱっと見モデルガンの類じゃなさそうだ。そんなもん、どこで手に入れたのかは分かりませんが、田原さん。あんたは、いや、あんたがたは、自分のしていることが分かっているんですか?」
古川は、とぼけたように微笑みながら田原を煽る。
「さすがは、軍事ジャーナリストの古川さんだ。そう、本物です。本物の拳銃。ちなみにベレッタM92FS。米軍が使ってるM9と同じです。他にも沢山手に入れました。」
悪びれもせずに、田原が言い、倉田を部屋の中央に進ませる。
「AKも、ですか?」
尖閣沖で銃撃された海上保安庁のヘリコプターから見つかったのは、旧ソビエトで、第二次世界大戦後まもなく開発され、今も東側ではスタンダードな自動小銃、AKシリーズの弾丸だった。 しかも弾丸自体は中国製、防衛省の協力を得て調査した海上保安庁や警察庁では、発射した銃も中国製と見ている。しかし、明確な証拠がない以上、政府は中国政府に抗議をできない状況にあった。
その明確な証拠は、俺が持っている。。。そして倉田さんにも同じ物を渡してある。。。
「もちろんです。しかしAKは少ししか入手しませんでしたがね。目的が目的でしたから、使い慣れない物を揃える必要はない。やはり武器は西側のものに限りますよ。」
田原は古川に答えながら、同じように銃を向けているゴマ塩頭の男に合図をして倉田をパイプ椅子に座らせ、手錠を掛けさせる。がっくりと肩を落としたままの倉田は、素直に指示に従っている。
倉田さんは、多分田原から真実を告げられたのだろう。かなりのショックを受けたことはその様子をみれば一目瞭然だった。今の倉田にはアクションを期待できない。全て俺独りで片付けなければならない。
幸い、俺はまだ手錠を掛けられてはいない。古川の頭の中は、高速で回転しながら、様々な状況を予測し、考え始めている。体中のあらゆる組織が獲物を求めて一斉に起動を始めたような感覚。懐かしい感覚だ。
古川は、まだウォッカの残った紙コップはそのまま左手に持ち、右手に持った瓶を口に含んだ。
瓶の口を舌先で軽く塞ぎ、ウォッカが口の中に入ってこないようにしつつ、唾を何度も飲み込み大げさに喉を鳴らす。中身が変動していないのを攪乱するために、喉の動きに併せて瓶を動かして中身を攪拌しながら。。。これで煽っているように見えるだろう。
「自棄酒はいけませんよ。古川さん。」
古川の様子を咎めるわけでもなく、田原が笑顔を滲ませて勝ち誇ったような表情で言う。
勝ち誇るのはこっちのほうさ。古川は内心で微笑んでいた。
が、次の瞬間の田原の行動でその意味を思い知らされることになる。
「酔っぱらっている状況かね。君は自分の立場を理解していないようだ。」
田原が悦子に銃を向けていた。短い悲鳴を上げた悦子は、恐怖と懇願と非難の目で古川を見つめる。
キャーキャー黄色い声で悲鳴を上げないだけ歳を取ったってことだな。でも、それでいい。古川がその目を見つめ返した。2人の間だからこそ分かる優しい目で、田原は気付くまい。
悦子の目から恐怖の色が抜けていくのを確かめた古川は、田原を睨む、もちろん酔っぱらいを装った目なので迫力には事欠く。
「さあ、写真を渡してもらいましょうか。我々がAKを使った理由が分かる写真をね。あなたはそのデータを3枚のディスクに焼いている。とぼけても無駄だ。」
田原の声が鋭さを増し、語気を荒げた。それは河田の渉外担当のような今までの穏やかな振る舞いを帳消しにするほどの豹変だった。
古狸め、本性を現しやがったな。ま、お互い様だがな。古川は内心ほくそ笑む。もっと本性を剥き出しにするんだ。もっと興奮しろ。あんたが冷静さを失えば失うほどこっちにチャンスが生まれる。。。
古川が田原を煽る言葉を口にしようとしたとき、尋常じゃない気配を感じとった。
「田原さん、話が違います。この女性は関係ない無いでしょ。あなたは女性を撃つんですか?」
冷ややかな雰囲気の会議室に、大きな声が響いた。堪えるような表情で様子を見ていたゴマ塩頭の男が田原を睨んでいる。
「松土君、今さら何を迷うんだ。あの写真が明るみにでれば、我々の計画は破綻する。それだけじゃない。日本が窮地に立たされるんだ。何が何でも中国が撃ったことにしなければならない。分かるだろ。国のために必要な犠牲だ。」
田原の怒声が響く。が、これまでの成り行きを耐えてきた男の目には響いていないようだ。
「だからといって、無関係な女性を撃っていいんですか。。。私には許せない。。。」
松土と呼ばれた男がゆっくりと銃を田原に向ける。さっきと同じ陸上自衛隊式の片手保持だが、怒りに震えている。
あれじゃあ無理だ。
古川が、おどけたように肩をすくめたと同時に金属の板をハンマーで思い切り叩いたような大きな音が耳をつんざく。キーンと耳鳴りに支配された聴覚を素早く意識から切り離して、古川は即座に状況を読みとる。
重い物がリノリウムの床に落ちる鈍い音が辛うじて耳に届くと同時にTシャツを血で真っ赤に染めたゴマ塩頭の男が、芯を抜かれた様に膝からゆっくりと崩れ落ちた。
「松土さんっ!」
聴力が回復した古川の耳を悦子の金切り声がつんざく。悦子に松土と呼ばれたゴマ塩頭の男は、その言葉には反応せずに、さらに姿勢を崩して、スローモーション動画のようにゆっくりと俯せに倒れていった。同時に勢いよく松土の元へ駆け寄ろうとした悦子が手錠で繋がれたパイプ椅子ともつれて盛大な音を立てて転んだ。
淳子。。。なぜ泣いているんだい?そんな悲しそうな顔をすることはないよ。久々に会えたんだから。。。お前は、歳をとらないな。。。震災の時、そばにいてやれなくてゴメンな。。。あれから何年たったんだろう。。。あれ?なんだか数えられないや。。。苦しいけど体がフワフワしてきた。。。これからはずっと一緒にいられるぞ。。。
「淳子。。。」
そう呟いたように悦子には聞こえた。松土は虚ろな目で悦子を見つめていたが、口に血の泡を溢れさせ始めるとその目に生気は無くなっていった。
「松土さん。。。きっと奥さんが迎えに来たのね。。。」
悦子は静かに声を掛けると、これまで堪えてきたこと全てが解放されたように涙が溢れてきた。
私は悟さんが生きているだけまだ幸せだ。だって気持ちはどうであれ、言葉を交わすことが出来る。。。古川に視線を移した悦子は息を飲んだ。先ほどまでとは打って変わって顔色が白くなった古川が、一瞬だけ目つきを鋭くしたのを悦子は見逃さなかった。それは、古川が怒りを露にしたときの表情だということを、悦子は身をもって知っていた。普段おおらかな古川だからこそ、あまり目にする機会はないが、間違いなく彼は怒っている。離婚届を置いて家を出ていった時も同じ表情だった。
悟さんは酔ってなんかいない。怒っている。そしてあの人は本当に怒ったとき必ず怒りを行動に移す。
いけない。相手は銃を持っているのよ。。。
悦子は心の中で叫んだ。どんなに古川が怒ろうと銃にかなう筈がない。陸上自衛隊員だった松土でさえ為す術もなかったんだよ。。。悟さん落ち着いて。。。
悦子は祈るしかなかった。
「私に銃を向けるからいけないんです。便利なもんですねぇ、銃は。。。初めて人を殺したがまるで自分で殺したという実感がない。映画のワンシーンのようですよ。次は奥さんの番ですよ。どうしますか古川さん?」
挑発するためか、いや、初めて人を撃ち殺した現実に気持ちを落ち着けるためか、田原は、ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、ゆっくりと口にくわえて、火を点けた。軽く深呼吸をするように時間を掛けて吸い、ゆっくりと煙りを吐き出した。
古川は、いつのまにか握りつぶしていた紙コップをその場に捨てると、ウォッカの瓶を口にくわえて一気にあおった。まるでラッパ飲みをしているように見える。
「いいかげんに自棄酒は、やめたらいかがですか。奥さん、あ、失礼、元奥さんが気の毒ですよ。」
奥さん。という言葉に否定の言葉を投げようとする悦子を、古川が一瞬目で制したように感じ、代わりに悦子は田原を睨み付けた。その目をからかうような田原の目が見返す。睨み付けられたら睨み返すまではなくとも、相手に気を取られるのは状況を問わず誰しも同じことだった。悦子と田原の間に妙な均衡が生まれる。
その均衡を崩そうとしたのか、それともさらに煽って悦子の反応を楽しもうとしたのか、再び銃を悦子の方に向けながら田原は煙草を口に運んでゆっくりと旨そうに吸い込み始めた。それに併せて煙草の先端の火種が強く光り、勝ち誇った表情を際だたせる。その横顔を黙ってみていた古川が突然口を尖らせたことに悦子の反応を弄でいた田原は気づいていない。
もういいぞ、こっちを向け。。。
古川は心の中で冷たく囁くと、指を軽くパチンと鳴らした。
煙草を吸い込みながら古川の方に田原が顔を向け始めたタイミングで古川は尖らせた口先から水鉄砲のように口に含んでいたウォッカを吹いた。田原が異変に反応する間もなく、液体の線が煙草の火種を過ぎると炎に変化して田原の顔にまとわりついた。目の前が炎に包まれた以外は何が起きているのかも分からない田原は、煙草を手放すと、その手で必死に顔を叩く。さすがにアルコール度数96%を誇るウォッカ「スピリタス」だけのことはある。注意事項に「火気厳禁」と書いてある酒などそうそうお目に掛かれないだろう。その無知が古川を「酔っぱらい」と決めつけ、招い結果だった。
古川は、その瞬間を見逃さずに田原に襲いかかった。一瞬にして田原の眼前に踏み込んだ古川の左手が田原が握っていた拳銃-ベレッタM92FSのセーフティーレバーをロックすると、右手を加えて銃を包み込んで一気に捻る。田原のうめき声と共に銃をもぎ取った古川は、その堅くて質量感のあるグリップを田原の首筋に叩き込んだ。田原は声も上げられずにその場に膝を折って崩れ落ちた。
古川は、田原の頸動脈に手を当てて、気を失っているだけなのを確かめると、田原から奪った銃をベルトに差し込み、さらに松土の亡骸に手を合わせると、硬く冷たくなった手に握られた銃を1本ずつ丁寧に指をはがしながら静かに取り上げた。そして、ポケットをまさぐり、手錠の鍵を見つけだすと、悦子、権田、倉田の順に手錠を外して、彼らを自由にした。彼らの感謝の言葉を上の空で聞きながら、古川は気を失って重い田原を窓際に引きずる。慌てて権田が手を差しのべる。壁際に田原を寄りかからせて安定させると、転落防止のためか窓枠の低い位置に1本横に渡されたパイプに3つ連ねて長くした手錠を掛けて、無理な姿勢にならないように田原の手首に手錠を掛けた。
「すまない。えっちゃんを巻き添えにしてしまって、、、」
作業が一段落したタイミングを見計らって権田が力無く頭を下げる。
「今は時間がない。話は後で聞きましょう。ただひとつだけ教えてください。あなたは私の味方なんですよね?」
射るような眼差しで古川は権田を見つめた。そこには、もう後輩という遠慮はない。
「俺は彼らに弱味を握られていたんだ。だから逆にあいつらの弱味を握ろうとしていたが、あと一歩のところで間に合わなかった。申し訳なかった。」
権田は、真剣な目を古川に返す。
「弱味?」
古川が怪訝そうに聞き返す。権田はそんな男には見えなかった。
「情けない話だがな、お前が社を辞めた後、フリーランスにある特ダネを持ち掛けられて、騙されちまった。それ以来、防衛機密の漏洩だ。といって脅されてた。。。で、俺は、俺で奴らの弱味を握ろうとしていたんだ。
でも、お前の尖閣取材は、違う。奴らは純粋に記者を探していた。彼らは本気なんだ。お前ならもう気付いているだろうが、この活動で彼らは日本の防衛問題を一気に解決しようとしている。
それだけは信じてくれ。」
権田の目が心なしか潤んでいるように見える。古川は、小さく頷く。
「分かりました。。。それは信じましょう。」
古川が呟いた。確かに、尖閣取材とは別の次元の問題。。。そう、権田だけの問題だ。しかし、権田が掴もうとしていた河田たちの「弱味」とは、いったいなんなんだろう。。。
古川が、その疑問口にしようすると、権田が悦子に向き直って、頭を下げた。
「えっちゃん、すまなかった。。。こんなことに巻き込んでしまって。。。」
悦子は無言だった。
確かに怖い思いをした。しかし、形はどうあれ、古川と再び会うことができた。純粋に古川を案じていることも伝わったに違いない。悦子の心に複雑な想いが巡る。。。
安易に返事が出来ずに俯いている悦子に、権田の言葉が続く、
「これだけじゃない。俺は君達にずっと謝らなければいけないことがある。。。」
悦子が顔を上げ、古川の表情がまた怪訝そうに曇った。
「あの、写真、、、もう4年前になるかな。。。俺が古川に渡した、えっちゃんが不倫相手と一緒に写っている写真。。。あれを撮ったのは、俺じゃあない。。。」
古川はキッと権田を睨み、悦子は、すがるような眼差しで古川を見た。
もうこれ以上私を嫌いにならないでせっかくまた会えたのに。。。悦子の目が訴える。
「すまない。。。あれは、探偵が撮ったものだ。。。俺が雇った探偵が。。。」
権田の目に涙が溢れているのを古川は見逃さなかった。あの権田さんが泣いている。
「なぜ探偵を。。。」
古川は、今出来る最大限の冷静さを保って問い掛けた。本当は怒りで爆発しそうだが、権田の涙に、僅かに残った古川の自制心が反応する。最後まで、聞け。
「お前が社を辞めたことで、俺は、お前という相棒を失った。でもフリーランスとして仕事を続けるというお前をおれは全力で応援した。またお前と仕事をする機会もある。。。俺は喜んだ。しかし、お前はえっちゃんの実家の会社の問題を抱えていた。二足のわらじでは、うまく行くはずはない。ましてや、フリーランスの世界は甘くない。しかも、お前は、えっちゃんが浮気疑惑で精神的に不安定な状態にあった。だから、一気にケジメをつけさせて、お前をこっちの世界に戻そうと俺は企んだんだ。
お前を腐らせるのは勿体ない。という一心でな。。。結果として君達は離婚して、お前は、この道で成果を上げていった。俺はずっと複雑な思いでいた。。。これで君達は幸せだったのだろうか、と。。。」
すまない。。。権田は土下座していた。
古川はそっと、悦子に目を遣ると、悦子がしゃくり上げて泣き始まった。。。
「権田さん。。。そこまで俺の仕事のことを。。。離婚のことは気にしないでください。俺は浮気をしたことに目をつぶることも、許すこともできない男です。遅かれ早かれ、離婚していたでしょう。それは、俺と悦子の問題なんですから。。。これからの作戦を考えましょう。」
権田の腹の内を明かされた古川は、心が晴れる想いがした。もう怒りや不信はない。。。これからどうするか?が肝心だ。河田に対しても、そして悦子に対しても。。。
古川は、泣き崩れた悦子に歩み寄ると、その肩に優しく手を置いて
「ごめんな。大丈夫か?」
今出来る最大限の優しさを言葉にした。
「うん。」
さらに込みあげてきた想いに、それ以上は声にならない悦子は、だまって古川の肩に額を預けた。
その頭を古川の手が優しく撫でた。
ずっとこのままでいて。。。
懐かしく、心地よい感覚に安心感が広がり、少しずつ心の波を穏やかにしていくのを感じながら悦子は心の中で呟いた。。。本当は声に出して伝えたい言葉だったが、それは出来ないことを悲しいくらい悦子は知っていた。。。それだけ理性のある女に成熟した自分に驚き、そして後悔しながら。。。




