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兵士

43.兵士

 悦子は、長テーブルに両手をつくと、テーブルを挟んで反対側に立つ松土の目を睨んだ。松土の顔は、まだ笑みを浮かべているように見える。

 松土が一歩前に踏み出した瞬間、悦子は、ドアに向かって飛び出そうと上体をドアの方へ向けたが、足がすくんでついてこない。足をもつらせて転びそうになった所を、素早くテーブルを回り込んできた松土に後ろから抱きしめられる格好になってしまった。

「キャッ!何するのっ!離してくださいっ!離してってば!」

寸でのところで転倒を免れて立たせるように脇を後ろから抱き上げられた悦子がもがいた。

「何するんだっ!」

取り乱す悦子の叫びに、権田の苦しそうな怒声が混ざる。

「奥さん、落ち着いて下さい。私は何もしません。信じて下さい。」

松土が低い声で言う。見た目に似合わず丁寧な口調だった。

「じゃ、じゃあ、離してください。」

ぱっと、飛び退くように松土に体を解放された悦子がよろめく。

「私は、何もしません。私は30年間、あなた方を守るために生きてきた人間です。信じて下さい。

ただ、逃げられると困りますので、手錠を掛けさせてもらいます。」

松土が詫びるように言う。

「えっ、30年間?私達を守ってきたってどういうことですか?」

悦子が辿々しく聞き返した。自分でも質問が日本語になっていないような気がしたが、「何もしない。」という担保が知りたかった。

「私は、30年間、陸上自衛隊で働いてきました。あなた方国民を守る。と誓ってね。だから、ここであなたが恐れているような振る舞いをすれば、私の30年間は、意味のないものになってしまいます。お分かりですか?」

 悦子は黙って頷いた。そして、倒れて縛られている権田の方を見つめた。じゃ、彼はどうなんだ。という批判を込めて視線を松土に戻した。

「権田さんは、我々に攻撃しました。田原さんを撃ち殺そうとしたんです。正当防衛なんです。」

 松土は、ごま塩頭を軽く掻きながら若干口をとがらせ気味に答えた。拗ねた子供のような松土の仕草を微笑ましく見てしまった自分に悦子は戸惑いを感じた。

「さ、よろしいですか。この椅子に座って下さい。」

 30年間。。。松土の信念に触れたように感じた悦子の心に、恐怖心はもうなくなっていた。それに囚われの身となってしまった自分には選択肢もないということを、悦子は理解し始めていた。銃を突きつけた権田だって、殺された訳じゃない。この人達は映画に出てくるようなテロリストとは違うらしい。このような状況だから?それとも本当にそう思うから?とにかく安心材料ばかりを並べ立てる自分自信を悦子は自嘲気味に微笑んでいた。

「大丈夫ですか?」

 心配そうに松土が悦子の目を覗き込む。こんな状況で微笑むなんて、どうやら気が触れたと思われたらしい。

「大丈夫なわけないじゃないですか。でも、従うしかないようですね。」

 悦子は溜息を吐くように力無く答えると、椅子に座るために体の向きを変えた。

「あ、ちょっと待った。」

 差し出されたパイプ椅子に座ろうとする悦子に松土が声を掛けると、部屋の角にある戸棚から座布団を2枚取ってきた。1枚を悦子が座ろうとしていた椅子に、そして、その隣にあった椅子を長テーブルから引き出して悦子の脇に並べ、そこにもう1枚の座布団を敷いた。

「どうぞ。」

松土は改めて悦子に椅子を勧めると、ポケットから銀色に輝く手錠を取り出し、手錠の輪を開いた。椅子に座った悦子に「失礼します」と言って、悦子の右手首を壊れ物を扱うようにゆっくり、丁寧に掴むと、開いた手錠をその手首にあてがう。ヒンヤリとした金属の冷たさと、初めて掛けられた手錠、この異常な状態も相まってか、悦子は一瞬身震いした。驚いたように手を止めた松土は、悦子に異常が無いことを確認すると、ゆっくりと手錠の輪を閉じ始めた。カチ、カチ、カチという手錠をロックする無機質なラッチ機構の音が冷房で冷えた部屋をさらに冷やすように冷たく響く。


 なんて丁寧な人なんだろう。

 悦子は、しゃがみ込んで自分に手錠を掛けている松土のごま塩頭を見下ろしながら思った。

 昔よく見た刑事ドラマでは、閉じたままの輪を勢いよく犯人の手首に押しつけてラッチを一気に進ませて、数段のラッチを抜けた輪の半分がその勢いで回転して、犯人の手首に回り込んで再びラッチが掛かることで、手錠を掛けていたが、松土のやりかたは違っていた。悦子はその心遣いに、何故か松土の優しさを感じ始めている自分に驚いた。

 何症候群って言ったっけ?人質が犯人に親近感を感じてしまう。って話を前に聞いたことがあるわ。。。そういう意味では、私は気がおかしくなった訳じゃない。。。

 パイプ椅子と、手錠が当たる硬い音が、自己分析をしていた悦子を現実に引き戻した。

「しばらく、このままで辛抱してください。トイレの時は鍵を開けますので遠慮なく言って下さい。」

 俯き気味に話す松土の声は、申し訳なさそうに思っているように、悦子には感じた。

 軽く頭を下げた後、松土は縛られたままの権田を起こし、同じようにパイプ椅子に座らせると、紐を解いて丁寧に手錠を掛けると。松土は、2人と向かい合わせにパイプ椅子を置いて座った。


「あの~、ちょっと聞いてもいいですか?」

 沈黙は、1時間と持たなかった。たとえ状況がどうあろうと、向き合ったまま無言でいるのは、悦子には耐えられなかったようだ。実際、松土の気配りに親近感さえ感じてきた自分に慣れ、戸惑いも無くなっていた。人は、ピンチな時ほど順応性が高くなる生き物なのかもしれない。

「どうしました?」

 声を掛けられた松土は、何故かホッとしたように微笑む。

 悦子は、その表情を見て、「良かった。」と思った。誘拐まがいのことをしているが、根は悪人ではなさそうだ。

「さっき、自衛隊で30年間私達国民を守ってきた。と仰いましたよね。それって、すごい信念だと思います。

 今でこそ違うとは思いますが、私が子供の頃って、「自衛隊は憲法違反だ」っていう人も結構いましたよね?それよりも昔はもっと酷かったんじゃないかって思うんですけど、そんな時代を自衛隊で生きてきて、一番思い出深い出来事ってどんなことですか?」

 ゆっくりと頷きながら悦子の質問に耳を傾けていた松土の表情が一気に曇る。その表情の変化に、何か気に障る事でも言ってしまったのだろうか?と、不安になった悦子はチラリと隣の権田を見る。権田も何事だ?という目を悦子に向けた。権田から見ても変な事は言っていないらしい。

「すみません。何か気に障ることでも言ってしまいましたか?」

 悦子は、おずおずと松土に言葉を掛けた。

松土は俯いていた顔を上げると、はにかむような作り笑いを浮かべて力無く口を開いた。

「いえ、大丈夫です。ちょっといろいろなことを思い出してしまって。。。

そうですね。私が入隊した頃は、酷いものでした。民間の人から「税金泥棒」って罵声を浴びせられる日々でしたからね。制服を着て歩いていて、酔っぱらいに石を投げられたこともありました。今はだいぶ良くなりましたね。私が、一番心に残っているのは、災害派遣ですね。」

 自嘲気味に語り始めた松土の表情が少し明るくなり始め、語気にも張りが出てきた。悦子は安心した。

「災害派遣って、東日本大震災の時ですか?」

 悦子は相槌をうちながら言葉を挟む。

「いえいえ、阪神淡路大震災の時です。東日本大震災の時は、私は退官して沖縄にいましたから。」

 松土は、顔の前で軽く手を左右に振って悦子の言葉を訂正すると、再び話を続けた。

「阪神淡路大震災。。。もう20年近く経つんですね。そう、あの時私達は全国各地の駐屯地から駆けつけて救助活動と生活支援、そして復興支援を行いました。

 当時、私は、四国の第2混成団にいて、淡路島への第一陣として派遣されました。自衛官になって、あんなにいろんな人からお礼を言われたことはなかったですね。今まで虐げられてきた自分達がこんなに多くの人々の役に立ち、感謝されるなんて。。。最初は戸惑いましたが、たとえ本来任務でなくても本当にこの仕事をやっていて良かった。と思いました。私は、その震災で妻を、厳密に言うと妻と子を亡くしました。任務の為に安否も分からず、荼毘(だび)に付す前に、ひと目会うことも出来なかった。それでもこの仕事を続けてきて良かった。と思いました。きっと、自分のような人間に助けられたんだな。と思うと、尚更です。

今でも後悔はしていません。」

 静かに語る松土の目は、清々(すがすが)しくさえ見えた。きっと涙はも枯れたのだろう。

 いつの間にか自由な左手を口元に当てていた悦子の頬を細い涙の筋が伝った、武勇談でも聞かせてくれるのだろう、それでもっと場が和むかもしれない。と、自分を安心させるために、、、自分のことだけを考えて安直に質問してしまった自分を悦子は責めた。

「奥さんは四国で一緒ではなかったんですね。」

 この話は最後まで聞かなければ浮かばれない。悦子が、かろうじて尋ねた。

「はい。妻は出産が間近だったので、三ノ宮の実家に帰していたんです。寝ているところに家が倒壊したそうです。ちょうどあなたと同じぐらいの年齢でした。悔やまれるのは、我々自衛隊への県知事の出動要請が遅かったことです。

 発災時点で我々は、急いで準備を整え、待機していましたが、いつになっても県知事からの災害派遣要請が来なかった。。。このことは、後々までいろいろな憶測が飛び交いましたが、、、これを機にだいぶ法律も良くなったようですけどね。シビリアンコントロール、大事なことだとは思いますが、その根幹にあたる法律が現実に即していなければ我々の装備も、訓練も、そして想いも無駄になる。というのをいつになったらこの国は気付くのでしょうか?だから私達は尖閣に行っているんです。

 あ、話がズレましたね。すみません。」

 いつの間にか熱く語っていた自分にはにかむように松土は微笑んだ。今度は作り笑いではにかんだのではないらしい。悦子は、松土のその愚直な想いにいつの間にか引き込まれ、同情さえしていた。あまりにも可哀想な世界有数の武装集団の実状と、それでも人の為にそこで働く人たちのひたむきさを、そして防衛省の担当として彼らを見てきた古川の気持ちにも触れることができたような気がしていた。あの人は今、どうしているのだろう。。。

「あの、悟さん、古川悟は、無事なんでしょうか?」

唐突に発した自分の言葉が部屋に響いて、悦子は我に返った。話の流れに全く合わないことを言ってしまったことに、「すみません」と小さく言うと、気恥ずかしさで下を向いてしまった。

 驚いたように目を見開いて悦子を見た権田は、すまなそうに目を伏せた。

「無事だ。どこにいるか分からないけど。とにかく無事なんです。えっちゃん、ゴメン。こうするしかなかった。。。」

 松土が答えるより先に、取り押さえられてから口を開かなかった権田が、 唐突に答えた。

「いったいどうなっているんですか?権田さん、私にはあなたが一体何を考えているのか分からないわ。」

 悦子は叫んだ。ありったけの非難の思いを込めて、、、私は、悟さんに離婚された女なのよ。自分が原因とはいえ。。。それでもあの人に会って直接言っておきたいことがあった。4年間ずっと。でも、あの人は振り向いてくれなかった。だから、ここまで来たのに。。。権田に騙されたことよりも、気持ちを(もてあそ)ばれたことの方が悔しい、許せない。こんな理不尽なことを。。。

 悦子は権田を睨み付けた。細く出しっぱなしにした水道の下に置かれた華奢な皿のように、悦子の目から涙が溢れ、止めどなく流れ出していた。


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