覚醒
41.覚醒
微かに残った疲れが更なる眠りへと誘惑し、心地よささえ感じる。ここは何処だっけ?薄く目を開けようとした悦子の耳に、歓声が飛び込んできた。
いち早く目覚めた耳が、音程もイントネーションも様々に入り乱れた感嘆の声からそれらの意味を拾い上げると、乗り遅れまいとする本能が働いたのか、悦子は目を開いた。眩しい光にすぐ目が慣れると、通路を挟んで左右に3つずつ並んだ座席が目に入った。前方にはヘッドレストの向こうにいくつもの頭が外を向いているのが見えた。そうだ。私は飛行機に乗っていたのだ。いつの間にか眠ってしまったらしい。。。窓際に座っていた悦子は、小さな窓から外を見た。眼下に広がるサンゴ礁と海、そして空の鮮やかなコントラストが視野いっぱいに広がる。
「綺麗。。。」
悦子の静かな呟きも、機内の感嘆の一部となっていく。
「そろそろ着陸するよ。」
傍らから掛けられた声に、現実に引き戻された。そうだった。私は権田さんと、悟さんの見舞うところなのだ。それにしても、河田さんという元海上自衛隊の人の活動の密着同行取材で、尖閣諸島に悟さんが行っていたのは、新聞や雑誌でチェックしていたが、その河田さんの連絡で東京にいた権田さんが呼び出され、悟さんがうわ言のように呼んでいる、私も同行することになった。危篤状態の悟さん。。。早く悟さんのもとへ行かなければという想いが先行してしまい、権田さんに付いて来てしまったが、傍から見れば、微妙な歳の男女の旅行だ。。。悟さんの目にはどう映るだろうか。。。一応今朝電話をして係長に2日間の休みを貰ったから土日と合わせて4日間。。。遠くに住む親戚に不幸が出来たという嘘に我ながら後ろめたさを感じた。私は、あの一件以来、嘘についてはかなり潔癖症になってしまったらしい。。。とても不倫をして離婚に至った女とは思えないほど嘘を嫌うようになっている自分に改めて驚いた。
機内持ち込みで済んだバッグを提げた権田と悦子は、機内預け入れの荷物を待つ人々を尻目に、颯爽と到着ロビーを横切る。2013年3月に開港したばかりの新石垣空港の到着ロビーは、2階まで吹き抜けとなっていて、開放感と自然な明るさが、真新しさと相まって旅行ムードを盛り上げることだろう。
こんな状況じゃなけりゃあな、、、
権田は、周囲の雰囲気とは全く相容れない自分の状況に改めて胃が縮む思いがした。ここまで来たら、後はどうにもならない。河田や田原の隙を突くことができるかどうか、そして古川がどう動くか。。。自分は、まな板の上の鯉。といったところか、、、権田の心の中で自嘲の言葉が堂々巡りを繰り返していた。
もう後戻りはできない。
エントランス全体が見渡せる場所に近付いた権田は立ち止まって自分自身に戒めの言葉を掛けると、周囲を見渡した。
いた。
権田は、ガラス張りの自動ドアの脇に旅行客の流れにボストンバックを下げた田原を見つけると、縮んでいた胃を一気に握られるように感じ、嫌な汗が脇の下に滲むのを感じた。
「迎えの人が来ています。」
と悦子に言った。昔のように敬語を使わないようにして緊張を解していたつもりだったが、また敬語が口をついて出てきてしまう。どこまで平静を保てるか。。。
「初めまして。遠いところよくおいで下さいました。私、田原と申します。古川さんに同行取材をお願いしております河田水産の者です。この度は、古川さんがこんな事になってしまい。何とお詫び申し上げたらよいのか。。。」
背は悦子より少し高い程度だが、ピンと伸ばした背筋で、もっと大きく見える初老の男が、全体的にほぼ白髪で占められた頭を深く下げた。
この人が悟さんと一緒に漁船に乗っているの?
南国の漁船乗りと言えば、真黒に日焼けしていて、この年ならば、皺も深いだろうに。この人はあまり日焼けしていないし、肌も張りがあって皺が少ない。。。
私の漁船乗りのイメージが変なのかな。。。警戒し過ぎ?そうじゃなくて。そんな場合じゃないでしょ。
悦子は、あまりのギャップに混乱する自分を戒める。
「初めまして。田中です。よろしくお願いします。悟さんはどんな容態なんでしょうか?」
すると田原は罰が悪そうに顔を俯けると、再び上げた顔の目を細めて悦子を見る。
「意識は時々戻るのですが、残念ですが、あとは古川さん御本人の力次第ですね。あれだけあなたの名前を呼んでいたのですから、顔を見ればもしかしたら。。。さ、とにかく行きましょう。車を待たせています。」
同情の目を向けて悦子に話した田原は、話題を変えるかのように話を中断して踵を返して歩き始めた。権田が手を向けて後に続くように悦子を促した。
ガラス張りの自動ドアを抜けて一歩外に出ると、熱気と強い陽光が南西の島に来たという現実を実感させてくれる。悦子は吹き出す汗をハンカチで軽く抑えるように拭うと、田原が向かう白いバンタイプの車に向かう。バンのような形だが、トヨタのカローラフィールダーは、商用車臭さはないので、空港の駐車スペースの他の車に溶け込んでいた。悦子の荷物をさり気なく受け取った田原は、後部座席のドアを開けて悦子を車内へ案内する。運転席には、ゴマ塩頭の髪を短く切りそろえた首の太い40代の男が座っており、軽く会釈をした。悦子は「こんにちは」と軽く挨拶を返した。
丁寧に後部座席のドアを閉めた田原が、後部のドアを開けて悦子の荷物を載せると、丈夫そうで小さな紙袋を取り出すのが見えた。田原は後から来た権田の荷物を受け取ると、その紙袋を権田に渡す。権田が重そうにその紙袋を受け取り怪訝そうな顔をしている。
紙袋を持った権田が後部座席の悦子の隣に乗り込み、最後に田原が助手席に乗ると、運転席の男が、
「では、出発します。」
と事務的に言って、車を走らせた。
石垣島を訪れるのは初めての悦子は、南の島らしい閑散とした長閑さ思い描いていたが、流れる車窓は、悦子の見聞のなさを嘲笑うかのように繁栄した街並みを見せつけていた。ここなら、大きな病院もあるかもしれない。重傷の古川が、なぜ沖縄本島ではなく、石垣島の病院に入院したままなのかという疑問が杞憂だったことに悦子は権田に気付かれぬように車窓に向かって苦笑した。権田は悦子の変化に気付かぬというよりは心ここにあらず、といった雰囲気だ。前の席に座っている2人も全く会話をしてこない。それだけ悟さんの容態が深刻だということだろうか?苦笑している場合じゃない。悦子は気を引き締めた。
車が街中を外れて建物がまばらな海岸沿いを走り初めて5分程度が過ぎただろうか、悦子は、車が病院に向かっていないのではないかという疑問を感じ始めていた。重傷者を入院させるほどの病院がこれほど街の中心部から離れているのは不自然だ。そう思い始めるとさっきから
、交差点に入る度に車が「新川漁港」と書かれた案内に向かっているような気がしてきた。
車がスピードを緩めて幅の広い白線のないアスファルトを進み始めると回りは白い漁船や柱に屋根を載せただけの吹き抜けの建物が目立つ。いかにもといった漁港の風景が悦子の目に飛び込んできた。
「あの、、、権田さん、、、病院へ向かっているんですよね?」
悦子が声を潜めて権田に聞くと窓の外の漁船を眺めていた権田はゆっくりと悦子の方に顔を向ける。心なしか目が潤んでいるように見える。
「いや、病院へは行かない。」
膝の上に大事そうに置いていた紙袋に右手を差し入れた権田がゆっくりと引き抜いた手には、黒い塊が握られていた。悦子にはその塊が何なのかすぐには分からなかったが、横腹にそれを突きつけられて初めてそれが拳銃であることに気付いた。そういえば、兄が中学生の時に持っていたっけ、もちろんあれはエアーガンだったけど。。。形はそっくりだ。
「ゴメン。言うとおりにしてくれ。。。」
権田が声を落とす。
「うっ!?」
横腹に拳銃の硬い先端を押しつけられ、痛みとも屈辱とも取れる呻きを発して顔を上げると、ルームミラー越しに運転席の男と目が合った。
男は目があったのを気にするでもなく不敵な笑みを目尻に浮かべると視線を逸らした。
佐世保地方総監部での取材を終えるた古川は、駅までのんびり歩いてみることにしたので、駅に着いた時には、お昼時を少し過ぎたところで、駅前の喫茶店は、客の波が引ける所だった。冷房の効いた店内のおかげで、歩いている間に拭いても拭いても吹き出てきた汗が、一気に冷やされて心地よさを感じる。古川は、わざと汗を拭かずに、冷やされるがままにしていた。適当に窓際の席に座ると、透明のプラスチックのスタンドに挟まれた小綺麗なメニューを見る。
あった!
古川は思わず大声を上げそうになった。とにかく今日の記事を書きたいと思って喫茶店での昼食を選んだ古川は、帽子にSASEBOと水色の文字で書かれた水兵のような格好をしたハンバーガー顔のキャラクターが「佐世保バーガー認定店」という文字と、店名を書いた看板を持ったプレートを店先に掲げている喫茶店を見つけた。
「おおっ、こんなとこにも佐世保バーガーボーイじゃん!」
思わず声に出してしまった。諦めかけていた佐世保バーガーが、こんな喫茶店にもあることに嬉しさを隠せなかった。いい歳をした男が店先で嬉々とはしゃいでは見苦しい。古川は、チラッと周囲を見回したが、そんな中年男に目を向けるものなど誰もいなかった。
ま、そうだよな。
心の中で呟くと、古川は、小振りな扉を開けて店に入った。扉に付けられたベルが硬く涼しげな音を立てる。
今日は話に夢中で殆どメモを取っていない。忘れる前に早く記事に起こさないとな。
古川は自分を戒めると、待望の佐世保バーガーとアイスコーヒーを注文した後は、取り出したモバイルギアにひたすら文字を打ち込んでいた。佐世保バーガーは、手作りで、作り置きをしないで注文に応じて作り始めるというポリシーのもとに作られているので時間が掛かるのだが、記事をじっくり書きたい古川にとっては、好都合だった。それに期待していた観光名物が、ファーストフード的なノリだったらあまりにも切ない。
少し遅めの昼食を終え、佐世保バーガーの余韻に浸りながら、2杯目のアイスコーヒーを注文した。今度はデザート代わりに、ミルクと、ガムシロップをたっぷり入れた。
甘くまろやかなアイスコーヒーを半分ほど飲んだところで、要点を押さえた記事の大筋が出来た。 古川は、アイスコーヒーをちびりちびりと飲みながら記事を最初から確認していく。後の肉付けは、東京へ帰る電車の中でのんびりすればいい。記事は週刊誌用だ、急ぐことはない。記事は権田さんに送るにしても、渡すにしてもいいが、とにかく東京に帰ったら権田さんに連絡を取ろう。例の写真について探りを入れる必要がある。果たして権田さんは、どこまで河田さんとくっついているのか。。。それが分からなくては、権田さんが味方かどうかで、今後の動き方が大きく違ってくる。。。
それにしても、問題は、河田さんが例の写真をどこまで重視しているか?だな。直接会って、写真を見せて、「これ、何でしょうね?」ととぼけて見せて反応を伺うか?単身では危険じゃないか?倉田さんは動いてくれるだろうが、立場上一緒に行動する訳にはいかない。真意を確かめる前に他のマスコミには公表したくないし。。。既に河田さんは、俺が3枚のDVDにコピーを取っていることを知っている。。。何故だ。。。きっと、東京の自宅を荒らされたに違いない。。。であれば、あのパソコンのデータは消されているだろう。DVDの書き込みソフトもアンインストールしたというのに、DVDに複製したことまでバレている。しかも枚数まで突き止められているのだ。きっと、あの船でパソコンを操作していた男にとっては造作もないことだろう。そこまでするということは。。。
古川の背中に悪寒が走り、腹が痛くなる。アイスコーヒーの飲み過ぎが原因ではないのは明らかだ。おいおい、しっかりしてくれよ。
とにかく河田さんの真意を確認しよう。荷物をまとめるとWindowsPhoneで、帰りの電車の時間を確認する。それに合わせて途中の宿も予約しよう。じっくり作戦を練りながら移動すればいいさ。。。
ホテルのインターネット予約の画面が急に着信の画面に変わる。田原智行と言う文字が画面に踊る。あまりのタイミングの悪さに悪態をついた古川は、画面のバーをスライドさせて古川はすぐに電話に出た。
「はい、古川です。もしかして次の出港が決まったんですか?」
努めて明るい声を出す古川に応じることなく、一方的に田原の声が流れてくる。
-田原です。田中悦子さん。御存知ですよね。そう古川さんの元奥様ですが、今、石垣に来ていただいてます。
どうですかね。先日お話しした写真データ、そろそろいい返事をもらえませんか?もちろん提示した金額で買い取りますよ。足りなければ上乗せしてもいい。とにかく奥様と会ってあげてください。-
「えっ、悦子が?何で?どういうことですか?関係ないでしょっ!」
古川の声が怒鳴り声になり、店の主人が古川に目を向ける。古川は店主に軽く頭を下げる。幸い、他の客は殆どいない。
-では、石垣でお待ちしております。-
古川の質問には答えず。電話が切れた。
クソっ。よりによって悦子を巻き添えにするとは。。。もう真意を探る必要は無くなっちまったぞ。。。
残ったアイスコーヒーを一気に飲み干すと。荷物をもって立ち上がった。
やってくれたな。。。こうなったら徹底的にやるしかない。心のどこかで河田に怯えていた古川は、自分の中で別の血が煮えたぎってくるのを感じた。
久しぶりの感覚。。。海外のいくつもの紛争地帯で命を懸けて取材をしていた時と同じ野生の感覚。。。場所は、日本だが、今の俺にとっては同じになってしまった。命を懸けるべき戦場が目の前に出現したまでだ。俺は「本当の戦争」を知ってるんだ。見ていろ河田。。。
古川は覚醒したもうひとりの自分に決意を新たにすると、新たに駅へ向かって歩き出した。