父親
40.父親
ホテルのフロントにチェックアウトを告げて部屋の鍵を返した悦子は、7時30分までには空港に着いておいたほうがいいという権田に従い、朝食は空港で取ることにした。
チェックアウトを済ませた悦子がロビーを振り返ると、ソファーに深く腰掛けて新聞を広げている男が目に入った。新聞に隠れて顔が見えないが、他には誰もいない。多分、権田だろう。壁の時計を確認すると6時28分だった。約束の時間に間に合ったことに悦子は安堵の溜息をついた。
悦子は、真っ直ぐ男のもとへ歩いていく、足がヒラヒラと舞うように周囲の空気を巻き込んでいくような感覚、何年振りかの自分のスカート姿に気恥ずかしい感じがする。
男は気配を感じたのか新聞を畳むと、悦子よりも早く
「おはよう。」
と声を掛けてきた。やはり権田だったが、その目は多少の驚きと少しの羨望をたたえて、瞬時に視線を悦子の体中に這わせているように感じた。体中が不快な粘膜に覆われていくようだ。。。
だからイヤなのよ。この格好はあなたのためじゃない、久しぶりに会う悟さんのためなのよ。と悦子は内心、権田をなじる。危篤状態の悟さんのため。。。悦子は悔し涙をこらえて、
「おはようございます。」
と返して、頭を下げると、玄関の方へ体をひねった。体から少し遅れてふわりと、しとやかに白を基調としたノースリーブで薄手のワンピースが揺れながら追従する。淡い配色の大きな柄が清楚さに華を添える。
もしかしたら最後になるかもしれない古川の目に自分を焼き付けて欲しい。理由はそれだけだった。
だから敢えてあの人が好きだったこの格好にしただけなのに。。。化粧は、地味を通してきたので今時の化粧の仕方を知らないから、いつもの薄化粧のままだが、きっと悟さんは分かってくれるはず。。。これは悟さん、あなたが最後にプレゼントしてくれた服なのよ。。。悦子は、自分の心にやさしく語りかけると、不思議と安心感が広がり権田への悔しさが薄れていくのを感じた。
「行こうか?」
権田の声が、ロビーに静かに吸い込まれる。昨日の電話と打って変わって馴れ馴れしい権田の声が、悦子を現実に引き戻した。警戒感を改めて感じた。悦子は唇をきつく結んだ。
昨日の少ない会話の中で、悦子は権田が妻と死別したのを知ったのだった。そう、油断は禁物だ。。。悦子は、頷くと権田に続いて自動ドアをくぐった。
目覚めたときには朝靄で部屋からは見えなかった佐世保港がタクシーの左側の車窓越しに古川の視界いっぱいに広がっている。白いベールを振り払った太陽が今日も容赦なく大地を炙り、陽炎が歪んだ世界を正直に映し出し、古川に真実を示すことの大切さを訴えているように見えた。
倉田艦長がどこまで俺の話しを聞いてくれるか、それが鍵だな。。。しかし、本当のことだけは分かってもらいたい。息子を傷つけられた父親がどんな感情を持つものなのか、子供のいない俺には想像もつかない。そもそも家庭というものを、自ら捨てた俺には、家族というものの本当の価値を分かっていないのかもしれない。
西九州自動車道の高架橋に沿って港沿いを走ってきた片側2車線の道路が左に緩やかに進む形で変形した大きな十字路に入ると、高架橋は小さな丘のように膨らむ自衛隊の施設を避けるように右にカーブして内陸に向かっていく。古川を乗せたタクシーが高架橋に別れを告げて交差点を直進すると、今時珍しい煉瓦の塀が古川の目を引く、タクシーは、小忙しく右に曲がる。先ほどの大きな交差点を見守るように角に置かれた横長の黒い岩の「海上自衛隊 佐世保地方総監部」と力強く掘られた金色の文字のコントラストが美しい。
タクシーはその岩の看板の脇の細く短い直線道路を緩やかに上る。道路の両脇に並んで古川を迎える煉瓦の塀と並木が何故か古川を厳粛な気持ちにさせる。まだらな煉瓦の色が歴史を感じさせるからだろうか。。。
「この塀、渋いでしょう?昔の海軍の頃からのもんですからね~。ここには佐世保鎮守府ってのがあったとです。」
古川の視線の先を察したのか、初老の運転手がルームミラー越しに得意気な笑顔を見せる。
通りの突き当たりにある門でタクシーを降りた古川は守衛に来意を告げる。若い守衛は、古川の日本記者クラブの身分証明書を確認するとキビキビとした動作で、どこかへ電話を掛けた。
しばらくお待ちください。と守衛に告げられた古川のもとに「広報」という腕章を付けた中肉中背の体に日焼けした太い腕を半袖の制服から除かせた中年の隊員が歩いて来たのはきっかり5分後だった。時計は9時50分を示していた。
-自衛隊と鉄道は、5分前行動を叩き込まれているから、それに合わせるつもりで行動すれば、相手にストレスを与えずに自然と信頼関係がスムーズになる-
という駆け出しの頃に権田に叩き込まれた教えを古川は今でも忠実に守っていた。
事前に場所を調べておいて良かった。と、古川は胸を撫で下ろした。護衛艦「いそゆき」の艦長である倉田2等海佐との面会が行われる地方総監部は港湾地区にあると思いこんでいたからだった。念のため権田からの案内状を確認しておいてよかった。案内状に記された住所をネットで調べてみると、佐世保地方総監部は、港湾地区を見下ろす丘のようなところにあった。当初駅前のホテルから徒歩で港湾地区の基地へ行こうとしていた古川は、この勘違いに気付き、余裕をもってタクシーで来ることが出来たのだった。
「おはようございます。お待たせしました。広報を担当しております清水と申します。御案内します。」
1等海曹の階級を付け清水と名乗ったその男は、体格とは裏腹に人懐こい笑顔を古川に向けた。幹部ではない隊員の転勤が少ない自衛隊では、曹クラスにその道のプロが多い。これは陸海空3自衛隊で共通していることだった。この体に似合わない人懐こい笑顔や仕草が、清水の広報畑の長さを物語っていた。
清水と並んで歩く古川が、防衛部と掛かれた重厚な看板を掲げられた建物に入る頃には、佐世保地方隊のあらましから任務まで一通りの予備知識を清水に吹き込まれていた。軍事関連の取材を数多くこなしてきた古川でも、佐世保は初めてだったので、清水の語る予備知識は興味深いものばかりだった。わずか5分程度の立ち話レベルの会話でここまで自然に相手に情報を与えられるのはまさに神業だった。多分、事前の来客情報と最初の会話で相手の知識レベルを探り、それに併せて専門用語の解説を省いたり、逆に専門用語を多用することで、相手に聞き苦しくなく、できるだけ多くの情報を無駄なく、程良く相手に伝えることができているのだろう。
清水の説明の通り、旧日本海軍の佐世保鎮守府の建物をそのまま引き継いだ建物は、何も語らないが特別で、厳粛な時の流れを刻み込んできたそれは大なり小なり至る所からからその歴史を醸し出している。
「こちらです。」
清水は、ドアに打ち込まれたプレートに12号会議室と書かれた部屋の前で立ち止まると、ドアをノックした。
「どうぞ」
ドアの向こうからの声を確認した清水は、慣れた手つきでドアを開きながら掛けられた札を裏返し「使用中」に変えると、ドアを開けて押さえたまま古川の方に体だけ向けて、どうぞ、と古川を部屋の中に案内した。
清水に会釈をして部屋の中に歩みを進めると、
長身でいて不安定さを感じさせない筋肉質を思わせる体つきの男が会釈をした。塩に焼けた顔に年相応の皺を刻んだその男が古川に優しそうな笑顔を向ける。
「初めまして、倉田です。お暑い中、遠いところ、ようこそおいで下さいました。」
と明朗な声にも優しそうな人柄が滲み出ているようだった。
仕事の性格上、今までに何人もの艦長に取材をしてきた古川だったが、このように体全体から優しさを滲み出させているようなタイプの男は初めてだった。彼が率いる護衛艦「いそゆき」が、数多い同型艦の中でも、演習成績、競技会成績、無事故、稼働率など、様々な点で抜きん出ているという噂も、その艦長を目の前にした古川には納得がいった。
「古川です。今日はお忙しいところお時間を頂いてすみません。よろしくお願い致します。」
古川は深く頭を下げた。
「それでは、私はここで失礼致します。」
一礼して立ち去る清水に、古川は、
「ありがとうございました。勉強になりました。」
と頭を下げて見送った。
「いえいえ、私もお話しできて良かったです。では、終わりましたらまたお迎えにあがります。」
清水は再び頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
「どうぞ、お掛け下さい。」
清水の退室を見送った倉田が、テーブルに顔を戻した古川に席を勧めた。
会議室とは言っても、広さは8畳程度だろうか、部屋の中心に置かれた建物同様に年季の大きなテーブルを挟んで椅子が両側に3つずつ並んでいた。外の景色の映り込みを防ぐためか窓側の角に設置された液晶テレビが現代にいることを思い出させてくれる。その液晶テレビを載せた背の高い灰色で塗られた鉄製のラックの中には薄いDVDプレーヤーが、大きな空間の中にポツリと置かれ、その薄さを際だたせていた。それは、大その空間を一杯に占有するほどのビデオ機器でこなしていた仕事を今はこの薄さでこなせる。と技術の進歩を計らずとも語りかけていた。これがあれば大丈夫だ。古川の目に安堵の色が浮かんだ。
適度に効いた空調が、古川の汗を静かに乾かし、体を優しく冷やしてくれて心地が良かった。そして、窓の外の緑を映して差し込む日差しが柔らかく、心を落ち着かせてくれた。質素な部屋だが打ち合わせには向いているんだろうな。と古川は、部屋に視線を巡らすと、
「失礼します。」
と3つ並んだ席の真ん中に座り、左側の席にはリュックを置いた。一応、取材なので、スラックスにワイシャツ姿だが、のんびりローカル線の旅を楽しむように数泊分の荷物を持って歩き回った来た今回の古川にとってビジネスバックは役不足だった。
「こんななりですみません。」
リュックから手帳とモバイルギアを取り出しながら古川は苦笑してみせた。
「いえいえ、そんなことないですよ。お気になさらないで下さい。」
倉田は気さくそうに軽く笑い、顔の前で手を横に振った。
護衛艦「いそゆき」についての簡単な説明と、艦としての行動指針と艦長として心掛けていること、に始まり普段の訓練から、尖閣諸島での活動など、月並みな質問を続けた。会話の中で、倉田2佐が艦長職ではなくなったことを知った古川に、「この艦も含めて1980年代に建造された「はつゆき」級護衛艦は、老朽化が進んでいるのもさることながら、時代はDD(汎用護衛艦)でもフェイズドアレイレーダーなどを設けたセミイージスが主流ですから、御存じの通りと思いますが、同型艦も次々と廃艦になっています。この「いそゆき」も来春には、廃艦が決まってます。最後までこの艦の艦長ができれば、と考えていたんですけどね。私もあと数年で退官ですから、」
と倉田は寂しげに胸の内を語った。
当たり障りのない質問が一通り済んだ頃、ドアをノックして婦人自衛官がステンレスの盆に載せたコーヒーを運んできた。20代前半に見えるその横顔に派手さはないが、真っ直ぐに通った高い鼻と薄い唇が、凛とした表情を作り、機敏さの中に淑やかさを感じさせる立ち居振る舞いは一瞬目を留めてしまうような美しさがあった。民間ではまずお目に掛かれない美人だ。と古川はしみじみ思った。
深々と礼をして部屋を出る婦人自衛官に会釈を返した古川はドアが閉まるまで見送った。
「すみませんね。飲み物をお出しするのが遅くなってしまって。こちらに来たばかりなので、コーヒーを出して貰う頼み方もタイミングもよく分からなくて、、、艦ではみな任せてましたから。。。」
視線を戻した古川に倉田が下げた頭を掻いて、上目遣いに詫びを述べた。
「いえいえ、いいんですよ。頂きます。」
と古川はコーヒーを口に付けた。深く上品な苦みを予感させる濃厚な匂いが鼻をくすぐり、脳に安らぎを与える。アイスコーヒーをひと口含むと、苦みに脳が直接刺激されるように、古川の覚悟を覚醒させた。まさか話の途中でコーヒーを客から下げるようなことはしないだろう。もう誰も来ない。話を切り出すにはいいタイミングだ。古川は、グラスを置く。グラスに結露した水が指先にまとわりついている。その指先をさりげなくズボンで拭うと、手帳のページを繰り、再び話を聞く準備を整えた。
古川に合わせてコーヒーをひと口飲んだ倉田がグラスをテーブルに置いたのを見届けた古川が口を開いた。
「艦を降りたということですが、前々から決まっていたことなんでしょうか?来年には廃艦というお話でしたが、このタイミングでの異動は珍しいですよね。」
倉田は「降ろされた」と言っていたが、古川はあえて「降りた」という表現を使った。この時点での異例とも言える艦長変更、その真相が知りたかった。
「いえ、前もって話があったわけではありません。ほんの2,3日前です。」
倉田は膝の上からテーブルの上に手を移動すると所在なげに両手を組んだ。笑みの消えた目はその手に視線を注いでいる。
「では、尖閣から戻ってから。ということですか?」
さらに古川が問いを重ねると、倉田は組んだ両手のうち、親指だけを解いて、親指同士を擦りあわせるような仕草をしながら顔を上げた。強く結んでいた口がゆっくりと開いた。
「そうです。正直に言いますと、自分から艦長職の辞退を申し出たんです。」
優しく微笑んでいるようだった目は、光を失って曇っているように見えた。
「艦長職を、自ら?先ほど、「いそゆき」が廃艦になるまで艦長をしたかった。と仰ってましたよね?」
古川は、驚きのあまり言葉を選ぶ余裕もなくストレートに倉田に聞き返してしまった。
「シースパロー。。。」
倉田が組んでいた手を解き、自分の手のひらをじっと見つめたまま呟いた。
「シースパロー。私はあの海で発射準備を命じた。。。中国の戦闘機に向けてシースパローを発射するところだったんです。」
倉田の静かな声が、狭い会議室に響いた。シースパローは、「いそゆき」が搭載していた艦対空ミサイルだった。目を見開いた古川が固唾を飲み頷くのを見た倉田は、先を続けた。
「うちのP-3C1機が、魚釣島上空で中国の空母から飛び立った戦闘機2機に追い回されていたんです。挙げ句の果てにロックオンまでされました。。。付近の海域の空母から飛び立ってきた戦闘機に、那覇からスクランブル発進した戦闘機は間に合いませんでした。
P-3Cから、ロックオンされた。という報告を聞いたとき、私はシースパローの発射準備を命じました。こちらからもロックオンを掛ければ、中国の戦闘機の中にも警報音が鳴り響く、そうすれば、中国軍機は離脱すると考えたのです。勿論禁止されていることですが、待ったなしの状態でした。結果として何も起きなくても、ロックオンしたという事実が国際問題に発展する恐れももちろん分かっていました、、、しかも、あの時の私は、P-3Cが攻撃を受ければ躊躇なくシースパローを発射していたでしょう。。。幸い、照準してロックオンを掛ける前に中国軍機は離脱しました。。。
記事にしていただいても構いません。上は揉み消そうとするでしょうが、これが事実なんです。そして、何も出来ないのが我々の現実なんです。挑発を止めさせることすらできないのが現実なんです。相手に何をされても撃たれなければ反撃できないのが我々の現実なんです。」
古川の脳裏に、あの時河田の船で聞いた無線交信の緊迫した声が蘇ってきた。P-3Cのパイロットの声は、緊張しているようだったが、恐怖の色は見えなかった。しかも「助けてくれ」とさえ言っていなかった。撃たれるまで反撃できないということを知っていただろうに、撃たれればイチコロだ。戦闘機に反撃なんて不可能だ。と知っていただろうに。。。真の意味で勇敢なパイロット達。。。
「でも、なぜ自ら艦長職を。。。」
古川は、言葉を探るように尋ねようとたが、他に言葉が浮かばない。
「分からなくなったんですよ。30年も自衛官をやってきて、艦長として部下達を纏める立場にまでなってから数年が経ちます。そう、分からなくなったんです。なぜ今回のような行動を取ったのか、、、軍艦は、様々な武器を搭載してシステマティックに運用しています。御存知の通り護衛艦も同様です。まさに動く城です。そして、その艦長は城主みたいなものです。単艦で本国から遠く離れて行動している時、艦長は、一国の主のような立場になります。艦長の判断は、艦の運命を左右し、多くの乗員の運命を変えてしまいます。そして、その搭載された武器が与える影響は大きい。飛行機を落とし、100km以上先の船を沈めることができ、周囲の潜水艦を海の藻屑にすることができるんです。でもね、古川さん、そういった能力を持っているのに護衛艦の存在は無視されているのも同然なんですよ。。。」
相槌を打ちながらメモを取っていた古川は、顔を上げると
「護衛艦が無視されているんですか?」
合わせた目を気まずそうに手元に落とした倉田が話を続ける。
「そうなんです。自衛隊は、撃たない。というより絶対に撃てない。ということを見透かされているんです。それは普段接触してきての感触とか、経験則ではなく、国際的に言うところのROE(Rules of Engagement)、つまり交戦規定が曖昧なことが公言されているも同然な状態だからです。これは自衛隊で言うところの部隊行動基準というものなんですが、交戦を前提とした交戦規定を作成することには世論の懸念もあり、曖昧な部分が未だに多いんです。その中身については、各国様々ですが、要は、現場の判断でどこまで武器を使用していいかという基準です。手の内を明かすことになるので普通の国は詳細を公開していません。が、我が国はそうではない。簡単に言うと、撃たれれば撃ち返せる。それ以外は内閣総理大臣の命令が必要。ということが、他国に知れ渡っている。同盟国の部隊が攻撃されていても守ってやることは出来ないということすら明言しています。
ですから、あの時も「いそゆき」の存在は無視されているのも同然でした。ハリネズミとまでは言いませんが、大量の対空ミサイルを持っている私達が近くにいるのを知っておきながら、うちのP-3Cを追いまわし、ロックオンまで掛けたんです。引き金を引かれれば、十数名の搭乗員は、P-3Cと共に粉々にされるんです。中国軍機が自主的に離脱してくれたから良かったものの、、、ロックオンは、「今から撃墜する」という意思表示なんですからね。」
熱を帯びてきた倉田の声に、古川は、顔色を伺うように頷く
「確かに、、、不幸中の幸いでしたね。」
古川が同情するように言うと、倉田が目を見開いて急に立ち上がった。そして強く握った拳を、テーブルに静かに突くと、声を荒げた。
「不幸中の幸い。。。ですか。。。よく言いますね。あなた方が、中国を煽るからこんなことになるんです。いや、中国側を挑発しておいて、我々自衛隊が身動きが取れない実態を赤裸々にする。そして世論に訴える。それが狙いですかっ!
P-3Cの乗員や負傷者の搬送に来たUS-2の乗員を危険にさらして、、、
負傷した海保のヘリパイロットは、私の息子なんです。
分からなくなった。というのは、息子を救いたいがあまりにあのような行動を取ったのか?1人の人間として仲間を助けなければと考えたのか?何も出来ない腹いせが爆発したのか?今は思い出せません。ひとつ言えることは、自分でも驚くほど冷静に判断を下していたことです。そしてハッキリを分かっているのは息子を銃撃した中国が許せなくなったこと。。。
私は常々、最前線にいる者は、公平でなければならない。と考えています。気に入らないから撃った。で戦争が始まったのでは誰も報われません。判断基準が分からなくなり、公平さも失ってしまった。だから艦を降りた。それまでのことです。
私が話すべきことはもうありません。遠いところお越しいただき恐縮ですが、もうお引き取りください。」
テーブルについていた両手を離すと、倉田の手の平が真っ白なのが見えた。それだけ力を入れて握りしめていたということが、その想いの強さを物語っているように古川は感じた。息子を死の淵に追い込まれた父の怒りと、自衛官として自制しなければならない自分、何もできない中で判断しなければならないのに防人の苦悩。それを分かっていて追いつめるOBである河田。河田は彼らの為を、そしてこの国の未来を憂いて行動しているが、倉田にこれだけの苦労を強いていることを理解しているのだろうか?そしてジャーナリストとして一緒に行動してきた自分は、それを理解していただろうか、、、
「河田さんに、言っておいてください。あなたの考えは分からなくはない。しかし、その為に後輩に血を流すこと強いるやり方を、私は許すことができない。とね。
清水を迎えに呼びますので、お帰りの支度をしてここでお待ちください。私は失礼します。」
と吐き捨てるように言うと、深呼吸をした倉田は、
「今度はもっと違ったことで取材に来てください。今日は、声を荒げてしまいすみませんでした。」
苦笑をしながら頭を下げた倉田の顔に優しい笑顔が戻っていた。古川は、返す言葉がなかった。礼を述べるのが精いっぱいだった。
倉田がドアのノブに手を掛けようとした時、古川は、意を決して呼びとめた。
「倉田さんっ、待ってください。今の状態のあなたにこれをお見せするのは心苦しいですが、やはりあなたに見てもらう必要があります。もう少し時間をください。」
今度は、古川が声を荒げていた。
倉田は、驚いたように振り返ると、
「私が見る必要がある。とはどういうことですか?私はもう、艦を降りた人間です。」
その言葉に答えずに、古川は早口で話しを続ける。今しかない、倉田に選択の余地を与えてはならない。リュックからDVDを取り出して、倉田に向ける。
「写真です。このDVDプレーヤーをお借りします。」
あの写真を見せるまでは、倉田に有無を言わせる訳にはいかない。
「写真。。。まあいい。分かりました。どうぞ。」
ありがとうございます。と古川は頭を下げて、操作を始めた。DVDプレーヤーがモーターの唸りを上げ、DVDのスキャンを始める。その音が落ち着いた頃に液晶テレビが明るく表示を映した。古川はリモコンを操作すると、小さな写真が一覧になって、表示された。漁船に、中国海警の船、そして海保のヘリコプター、それらの船を掠めるように飛ぶ海自のP-3C。あの日の魚釣島沖の現場を撮った写真だということが分かったのか、倉田の視線は画面に釘付けになっていた。古川は安堵の息を吐くと、
「これは、先日魚釣島沖で河田さんの漁船から撮った写真です。」
念のために付け加えた。
「これを私に見せてどうするんですか?息子の血を見せたいのかっ!」
倉田の顔が一気に赤くなった。まずい。古川は咄嗟に答えた。
「そんな気はありません。ただ、この写真を見て欲しいんです。」
急いで一覧からあの写真を選ぶ。俺は無神経かもしれない、記者の無神経さが被害者に与える精神的苦痛は、今に始まったことではない。多分俺もそう思われているだろう。しかし、これだけは伝えたい。
画面いっぱいに拡大された写真には、中国海警船と漁船の上空に海保のヘリが映っていた。
横目で倉田を見ると、じっと一点を見つめていた。きっとその目には、仕事をしている息子の顔があるに違いない。滅多に目にすることのない働く息子の姿が、どのように父の目に映るのだろうか。。。
「ここを見てください。少し、針のように像が歪んでいるように見えますが、、、今拡大します。」
古川は、リモコンを操作して拡大した。
「これは。。。」
倉田が思わず声を漏らす。
「そうです。銃弾だと思います。」
古川が倉田の言葉の後を継いだ。そして今度は少しずつ画面を引くと船の位置関係が見えてきた。その軌跡の先には中国海警船の陰から突出した漁船の前半分が映っていた。
「何っ、中国が撃ったんではないんですか。。。」
倉田の声が怒りに震えているのが古川にも分かった。
「はい。私はそう考えています。」
古川は、同情を込めて答えると慎重に言葉を続けた。
「ジャーナリストとして、これを世間に知らしめるのは簡単ですが、影響が大きすぎると思います。ですからもっと真相を掴んでみようと思います。
しかしこれ以上犠牲を出さないためにも打つべき手は打たねばならないと思います。海上自衛隊に持ち込んだら多分河田さんの息が根強いでしょうから揉み消されます。海保に渡しても、場合によっては闇に葬り去られます。。。警察もどうだか。。。
でも倉田さん、あなたは違う。父親であるあなたならきっと有効に対処してくれると考えました。このDVDは、倉田さんに差し上げます。是非お力添えをお願いします。」
古川は深く頭を下げた。その手が力強く握られるのを感じて顔を上げると、
「分かりました。ありがとうございます。確かに河田さんの力は隊内でも根強い。しかし必ず河田さんを止めて見せます。」
倉田が古川の手をしっかりと握って決意を述べた。その目には流れ落ちそうなくらい涙が浮かんでいた。古川も手を重ね、両手で握手をする形になる。
「よろしくお願いします。」
握る手に力を込めた。




