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少年の日

37.少年の日

 古川はホテルのフロントに鍵を預けると、夜の街へ出た。狭い路地を少し歩いて、姫路駅の中央口から北へ伸びる大きな通りへ出ると、左に曲がって姫路城のある北へ向かった。散歩がてらに夕食を食べる場所を探す古川の足取りは軽かった。俺がこんな所にいるとは誰も思うまい。そうだ明石焼きを食べよう。古川は学生時代に友人から土産に貰った冷凍の明石焼きの旨さと、いつか本場に食べに行くぞというあの頃の決心を思い出した。ふっくらとしたたこ焼きのようなものを出汁に付けて食べる明石焼き。。。涎とともにあの頃の記憶が蘇る。アイツはどうしてるかな。。。きっと奥さんやかわいい子供に囲まれてパパしてるんだろうな。。。あいつはいいマイホームパパになるだろう。。。学生時代に付き合っていた彼女と卒業後2年で結婚したその友人とは、古川の結婚式以来会っておらず、年賀状だけの付き合いになっていた。男なんて家庭を持ったらそんなもんだろう。最も俺にはその家庭すらなくなってしまったが。。。古川は苦笑した。


 昼間目にした車窓の風景と、賑わい。そして目の前を行き交う人の流れからは、この街がかつて阪神淡路大震災で壊滅的な打撃を受けたとを想像するのも難しい。

 いまだに津波による爪痕が自然災害の恐ろしさと人間のちっぽけさをまざまざと見せつけ、立入禁止区域や、制限区域、いつ終わるのかも分からない除洗作業が続く地域は、制御できない科学に手を出してしまった人間の未熟さを戒めているように古川には思えてならない。

 未だに傷が癒えない東日本大震災とは、この街の雰囲気は違う気がした。失った命の重みと辛さは違うはずはないのに、美しい城と共に激動の歴史を生き抜いてきた街は、それを乗り越えて人間は自然にも負けないのだ。と語りかけてくるように古川の目には写った。。。東北の傷が癒えるのはいつになるのだろうか。。。

 古川は、人間の強さを象徴するかのような陰りのない街の灯りから逃れるように夜空を見上げ、見える筈のない星を探した。


 権田は、独りウィスキーをロックで呷っていた。

 盆の期間は忙しく、迎え火もしてやれなかった権田は、今日、妻の墓参りに行った。

 迎え火とはいっても、都内のマンションに住む権田が、提灯を提げて移動するわけにも行かないため、墓参りをすることで迎え火の代わりにしていた。

 群馬県多野郡上野村にある妻の墓へは、新幹線に乗って高崎まで向かい、駅からはレンタカーを借りた。権田が上野村を訪れるときは、いつもこのパターンだった。山に囲まれた上野村への交通の便が悪かったということもあるが、権田は、高崎から上野村に至る道のりの景色と道路の変遷を楽しみながらドライブするのが好きだった。

 ビルが立ち並ぶ高崎駅近辺を抜けると、一気に視界が開け、赤城山、榛名山、妙義山の上毛三山を見ながら畑や水田、工場が並ぶ道を走る。その後間もなく、山々を眺めたドライブが山間を走り回るドライブへと急激に変わり、自然豊かな景色とハンドル裁きの両方を楽しみながら、小さな谷を流れる川沿いの道を走るのがいちばん気持ちがいい。車に乗ったままでも、マイナスイオンの効果があるのではないか、と権田が思うほど、彼の体と心を癒す。

 そもそも何故このような場所に妻の墓を作ったかというと、権田の両親が、この上野村に移り住んでいたから、という尤もな理由と、それだけでは語りきれない理由も権田自身にあり、上野村とは切っても切れない運命のようなものと、親しみをもっていたからだった。

 ダムの保守責任者をしていた権田の父は、単身赴任でこの村にあるダムで仕事をしていたことがあった。大自然と素朴な村の雰囲気が気に入った権田の父は、夏休みになると千葉県船橋市に住む家族を上野村に呼んだ。父同様に上野村を気に入り、単身赴任が終わった後も数年に一度は夫婦で上野村を訪ねていた母は、父と意気投合し、老後の終の棲家を上野村にすることに異論はなかったのだった。そんな両親の心に同意しつつ、権田が上野村を好んだもう一つの理由は、新聞記者になった権田の原点でもあるからだった。

 それは1985年8月の盆直前のことだった。8月初めから上野村に滞在していた母と権田少年は、明日からの盆の帰省に備えて荷物を整理していた。今回は3日連休を取れた父も一緒に車で帰省する予定で、母と権田少年はその足で船橋の自宅に帰る予定だった。

 2DKの父の借家の狭い台所で母が背を向けて夕飯の準備をしているときだった。ジェットの音が低く響いてきたと思ったのもつかの間、今までに聞いたこともないような種類の音が大きく轟いた。「何の音だろう?」と母と話している時に、小学5年生だった権田は、さっきのジェットの音が消えていることに気付いたが、もう飛び去ってしまったんだろうな、と解釈した。

 その音が、航空機事故だったと知ったのは翌日のことだった。情報が錯綜した挙げ句、その航空機が墜落したのがすぐ近くの山だと知った母は、息子が夏休みの間は父の職場の同僚の妻達と一緒に地元の人達が行っていた炊き出しを手伝うことにした。狭く閑散とした山間の村の狭い道は連日自衛隊の車両やバス、パトカーなどで溢れ、空は自衛隊や警察、報道のヘリコプターで覆い尽くされた。男の子なら誰でも「カッコイイ!」という言葉を発して興味を持つ特殊車両やヘリコプターが目の前に溢れる。しかし、その光景は、人の悲しみを運んでいるようで、あまりにも生々しく権田少年の心に焼き付いたのだった。その時の権田は、「カッコイイ!」という言葉を失っていたというよりも、あまりの悲惨さに何が「カッコイイ!」のか分からなくなったのだということが今の権田には分かる。

 忙しい大人達を余所に、権田少年は、所在なげに借家の前で時間を潰す日々が続いた。今思い出してもとても暑い夏だった。。。

「ぼく、ここの家の子?」

平べったい石を数個並べ、ボールを転がして当てる。というオリジナルの

遊びをしていた権田少年が顔を上げた。しゃがんでいたので、大人の体が大きく感じ、さらに明るさの差で、陰に見えて表情が分からなかったために、思わずしゃがんだまま後ずさってしまった。

「いやいや、俺は怪しいもんじゃないんだ。」

男の優しく柔らかい声に権田少年はゆっくりと立ち上がった。

「そうです。僕の家。。。」

権田少年は、おずおずと答えた。

「そっか、良かった。俺は、新聞記者をしているんだ。安心してね。」

男はゆっくりと、権田少年の反応を確かめながら言い。腕章を指でつまんで「報道」と書かれた部分を権田少年に見せた。

 権田少年は、ホッと安心したが、続けて何かインタビューされるのでは?と、それはそれで心配になった。それを察したのか男が慌てて言葉を継いだ。

「水、水をくれないかな。この水筒に満タンにいれて欲しいんだ。」

 権田少年は、ほっとした。な~んだそれならお安い御用だ。

「待ってて」

と言って、男から大きな水筒を受け取ろうとすると、男は咄嗟にコップにもなる蓋と内蓋を取り、水筒の口を少し緩めて権田少年に渡した。小走りに玄関をくぐった権田少年は、男の水筒が空っぽなのに少し重いことに気付いた。もしかして魔法瓶?と思った権田少年は、走るのを止めて慎重に運んだ。


 3日前に母が炊き出しに持っていこうと玄関に置いておいたポットを遊びに出かけようとした権田少年が倒してしまい。コンクリート製の土間にポットを落としてしまったのだった。ポットは風船とガラスが同時に割れたような音を立てて土間に落ちた。慌てて持ち上げた権田少年がポットを振ると「シャンシャン」とマラカスのような音を立てた。ポットとはいっても、現在のように電気で湯を沸かして保温するような電気ポットではなく、形こそ似たようなものだが、電気ではなく、ヤカンなどで沸かした湯を入れて保温するだけの水筒の親方のようなものだった。しかし、沸かした湯を長時間冷めずにさせずに保温できることから魔法瓶とも呼ばれていた。また、瓶というだけあって、当時の主流は、熱を遮断する真空層にガラスを使っていたため衝撃で割れやすかった。

 玄関での異変に気付いて駆け寄ってきた母は振られたポットが立てる音を聞くと

「一本でも大事な時なのに、何するのよっ!」

と珍しく権田少年を怒鳴りつけたのだった。保温に便利なポットを各家庭が持ち寄って、氷水を入れて乗客の家族や医療関係者、警察、消防、自衛隊関係者に振る舞おうとしていたのだった。権田の父の借家をはじめ、普通の家庭には1本あれば充分なポットは、各家庭から集めても十分な数にはならなかったのだった。権田が割ってしまったポットはその貴重な1本だった。。。

 という話を、数年後の夏、慰霊登山の様子をニュース番組で見ていたときに母が権田に聞かせたのだった。


台所に辿り着いた権田少年は、男が緩めておいてくれた蓋を慎重に開けて、水筒の中を覗き込んだ。中は暗く、鏡のようなガラス独特の光沢はなかった。

「すげ~。ステンレスだ」

男の水筒は、ステンレスの魔法瓶だった。これなら割れる心配はない。

「はい。おまちどうさまでした。」

権田少年は、食堂のおばさんのような言い方しか思いつかない自分に吹き出しそうになる。心に余裕が出来たのか、今度は男の顔を真っ直ぐに見ることが出来た。汗と砂埃で汚れているのが、小学生の権田にも分かった。そして、何日も髭を剃っていないのだろう、キャンプに行って風呂に入れなかった時の朝の父より髭が伸びていた。こういうのを無精髭っていうのかもしれない。何故か権田少年は得したような気分になった。

「ありがとう」

と男は顔の汚れ具合には違和感のある笑顔で水筒を受け取ると、早速喉を鳴らして飲んだ。この暑さの中で、何時間も水を飲めずにいたのだろう。

「は~。生き返る。ありがとう。しかも氷まで入れてくれたんだね。ホントにありがとう。あ、そうだ。これ。。。どうぞ」

 男は、活き活きとした表情になり、満面の笑みでリュックから取り出した手付かずのガム1箱を権田少年に差し出した。

「ありがとう」


 それから数日の間、新聞記者は水を貰いに権田少年を訪ね、権田少年は、いろいろな話を聞くことが出来た。遊び相手が少ない田少年は、新聞記者と話をするのが楽しみになっていた。

 大人になると、悪い人だけが悪い訳じゃなくて、偉い人だって隠れて悪いことをする時もある。みんなのためにと思って、とんでもないことを隠している人もいる。困って助けを求めているけど、誰も気付いてくれないという人だっている。大人だって世の中知らないことばかりなんだ。。。

 この事故だってそうだよ。本当は何が原因なのか?ということを隠されたり嘘をつかれてしまうと、また同じような事故が起きる。大事な家族を失った人がどれだけ悲しみ、困っているのか、助けられることは何か。。。誰も知らなければ何も良くならないし、悲劇は繰り返される。

 だから俺は、新聞記者になった。本当のことを調べ、本当の声を聞き、みんなに知らせる。それが良い社会に繋がるんじゃないかって思うんだ。

ペンは剣よりも強し。

 熱くそれでいて優しい学校の先生のように諭すように語る男に権田少年の心の中に忘れかけていた「カッコイイ!」という言葉が蘇った。

 僕は新聞記者になる。

 夏休みもあと僅かになり、母と船橋の自宅へ帰る日の朝、権田少年は、520人もの命を飲み込んだ尾根に誓って上野村を離れた。


 あの時の気持ちを忘れた訳じゃないんだ。。。権田は、ウィスキーの水割りを空にした。何杯目だろうか?まあそんなことはどうでもいい。俺は、あの人みたいに記者として、堂々と真実を伝えていくために頑張ってきた。。。あの事件さえ起きなければ。。。

 権田は、ダイニングテーブルの隅に握り拳を押しつけた。5年前、あれはまだ、古川も社にいた頃だった。あるフリーランスの記者が、権田を訪ねてきた。新型潜水艦に関するネタを持って。。。それは、産業日報でも把握していない情報だった。上司に相談すると即OKが出た。ただし、長期取材になる。普段は、裏が取れればネタをくれたフリーの記者に謝礼を渡して、自社の記者で独自に取材を進めるのだが、当時一緒に組んで仕事をしていた古川は、社会部への異動の前段として、社会部の手伝いをさせられていて、とても長期取材には充てられない。上司と相談した末、そのフリーランスの記者と訓で取材をすることになった。

 取材を始めて3ヶ月も過ぎると、だいぶ資料も集まった。フリーランスの記者は体調が悪いらしく、なかなか一緒に仕事をする事が出来ず、権田の負担が大きかったのが不満だったが、仕事自体は順調に思えた頃だった。

 そんなある日の夕方、ある男が社に権田を訪ねてきた。体に貼り付いているような濃紺のスーツが、男の体格の良さを示している。

 応接室へ入ると、権田は名刺交換をしてから椅子を勧めた。

 名詞には、

 海上自衛隊 海上幕僚監部 三等海佐 田原 智行

 とあった。

 田原と名乗る50近い歳に見える男は畏まって背筋を正して、開口一番に

「権田さん。あなたの集めた資料が、中国に流れてしまいました。」

と言った。なんのことだ?資料など誰にも渡していない。

「仰る意味が分かりませんが、何の取材でしょうか?それに私は中国人と接触した覚えはありませんが。。。」

 権田はきっぱりと言い切った。不確定な話しだ。この程度で言葉が澱んでいるようでは記者は勤まらない。

「率直に申し上げます。あなた方が取材することに対して我々がとやかく言うことはありません。しかし、あなた方が得た情報については、我々も黙認できないものもあります。鈴木浩一。ご存じですね?」

穏やかな話しぶりの田原が、ある男の名前を呼び捨てで挙げた。鈴木浩一。。。権田は口の中で呟いた。ネタを持ち込み一緒に仕事をしていた彼が何を?権田の中で様々な思考がフル回転する。

「彼の本名は、胡王広。あちらの呼び方ではフー・ワンガンと言います。」

 田原が権田の反応を確かめるように権田の目をじっと見ながらゆっくりと語った。

 権田は背筋が凍る思いがした。目が田原の目に刺されたように動かない。

 事態を飲み込めたらしい権田から目を一旦そらすと

、田原はビジネスバックからA4サイズの茶封筒を取り出して、中の紙を1枚権田に見せた。いくつかの写真を載せたその紙の殆どの写真には、権田の知る鈴木浩一の顔があることに、すぐに気付いた。しかし最後の1枚がおかしい、大きな対艦ミサイルの発射筒を舷側に斜めに並べた、「いかにも東側」なデザイをした中国の軍艦をバックに収まった白い制服姿の男の顔。信じたくなくて何度も見た。意味がないと分かっていても、今度は角度を変えて見てみた。でも結論は同じ、鈴木浩一だった。

何故だ。。。権田は顔を上げた。紙を持つ手が震えているのを権田は止められなかった。

「中国人です。気付かなかったんですか?元中国海軍大尉で、現在は中国人民解放軍総参謀部第二部つまり、軍の諜報機関の少佐というのが我々の得ている情報です。」

 田原は、権田の動揺の真偽を確かめるようにゆっくりと表情を見ながら真実を述べた。

「知りません。まさか中国人だとは思わなかった。。。フリーランスのジャーナリストとして彼がネタを我々に持ってきて、我々はそれに乗ったんです。ただ、、、我々も人手不足で、彼と一緒に取材をすることになったんです。そういった過程で得た情報は、包み隠さず共有していたのです。」

言葉を探しながら答える権田の声はかすかに震えていた。それが怒りのためなのか、恐怖のためなのか、それは田原にとってどうでもいいことだった。田原は不敵な笑みを浮かべてさらに続けた。

「そうでしたか。。。あなた方が彼からどんなネタを提供されたかまでは詮索するつもりはありません。しかし得た情報を彼に与えてしまったことが問題なのです。我々は既に情報が中国に渡ってることも掴んでいる。ようするに取り返しのつかない重大な事件です。」

権田の表情が無表情になり、どう答えたら窮地に陥らずに済むのかという自己防衛本能を示していた泳いだ目は、完全に動きを止めた。

 百戦錬磨の新聞記者でも所詮人間だ。田原は心の中で呟くと、これまで何十人と見てきた人間と同じレベルにまで防御力の落ちた権田を見つめた。その直後、権田の目に生気が蘇ったように見えると。

「そもそも情報が漏れた。と一方的に仰っていますが、どんな情報なのでしょうか?今回の取材は殆どが、自衛隊関係者からインタビューしたものです。だいたい、その情報を我々に流してしまったあなた方に問題がある。とはお考えにならないんですか?責任転嫁だ。」

 権田は、思いついたように煙草を取り出すと、落ち着いた素振りで火を着けた。

 田原は、権田の反撃に一瞬怯んだが、完全に予想外という反応ではなかった。ただ、上手く絡め取ることが難しいと感じただけだった。

「情報ね。。。SOSUS。御存知ですよね。。。そして、SOSUSが捉えた新型潜水艦の音量がこれまでの「うずしお」級潜水艦より何デシベル高い、という具体的な数値を述べましたよね。あちこちから聞き取った結果をご丁寧に一覧にした資料をお作りになった。

 確かに、そういった事を漏らす我々も問題だ。それは認めます。ただし、1人の人間が全ての情報を漏らした訳じゃない。今回はそれらがひとつにまとめられたことで重要な防衛機密となったんです。それをみすみす中国のスパイに渡すなんて。そこがいちばんの問題なんです。お分かりですか?」


 SOSUSは、周辺海域の海底に設置した多数の水中マイクのような装置をネットワーク状に繋いだもので、通過する船舶の音を拾っていた。音紋、即ちその船の音の特徴を掴んでいれば、その船がどこを航行しているのかが一目瞭然となるシステムで、潜水艦に対しては特に有効なシステムだった。何故ならば、音紋を把握されている潜水艦は、SOSUS上で居場所が「丸見え」になるからだった。同様に音紋を取られた潜水艦は、他国の潜水艦や、水上艦艇から姿を隠していても音を聞かれただけで、どこの何という潜水艦かということがバレてしまう。端的に言えば「海に潜る意味がなくなる」ということだった。


「たかだか音量の差が、なんで防衛機密なんですか。確かに具体的な数字を出しましたが、従来艦との単なる比較でしかありません。

 この取材は、新型なのに何故従来艦よりも「うるさい」のか?ということを問題にしたものです。今までより、どれくらい「うるさいか」をまとるのは当然のことです。

 そもそも。。。国民の税金を大量に注ぎ込んでいるのに、あまりにもお粗末だ。と言いたくて始めただけです。そうした上で、原子力潜水艦を持つことにアレルギーを持った国民が、通常動力艦で今以上の性能を求めるならば、どうすれば良いかを問いかける企画だったんです。もっとお金を掛けるのか、時間を掛けるべきなのか、やっぱり原子力潜水艦にすべきなのか。。。」

 権田は、言い澱むと殆ど吸わずに灰皿の上で細い煙を出しながら、短くなってしまった煙草を念じ伏せるように揉み消した。

「お粗末。。。ですか。。。ま、それはありがたい企画ともいえますが、今日はそれを論じるために来たのではありませんからね。

 単なる音量の比較。と仰いましたが、その数値が具体的であるという事の重大さを御存知ないようですね。並の海軍ならば、周辺国の潜水艦の音紋や、それに類するデータは収集済みのはずです。中国だって例外ではない。。。比較できる数値を得た。ということは、何らかの潜水艦の音をキャッチした時に、音量の数値に、あなた方が教えた数値を足せば、それが新型潜水艦かどうか分かる。ということになるんです。ですぐに音紋も取られてしまう。いや、音紋を取る必要さえ感じないかもしれません。しかも、御丁寧に各海域のSOSUSでの音量の比較まで教えてしまっている。SOSUSの位置情報まで載っている場所もある。。。ハッキリ言ってあなた方のお陰で新型潜水艦は、潜る意味がなくなってしまった。。。」

物腰、これまでの会話で、田原を冷静で穏やかそうな人だと思っていた権田は、田原の口調が苛立たしげになってきたことに若干危機感を抱いていた。訴えられたりしたら、もうこの世界で記事を書けなくなる。。。いや、社自体の信用に関わってくるだろう、旭日新聞あたりは、ウチを袋叩きにしてくるだろう。。。もしかしたら逮捕されるかもしれない。。。

 返す言葉が見つからない。もはやこれまでか。。。権田は背筋が凍るのを感じた。

「事の重大さがお分かり戴けましたか?」

田原の覗き込むような目に、権田は頷くしかなかった。

田原は権田にすっかり生気がなく、諦めの表情を見せていることを確認するかのように頷くと、

「ここからが本題です。これからお互いにどうするか?」

新たな話を切り出そうとする田原に権田が驚きで目を見開くと、権田の返事を聞くまでもなく田原は話し始めた。会ったときに感じた穏やかそうな人柄は不貞不貞しい笑みを浮かべていた。。。


 それから1週間後、海上自衛隊の一等海曹が、交際していた中国人の女に潜水艦に対する防衛機密を渡したとして、逮捕された。さらに一週間経って、新型潜水艦の就航を1年遅らせるという発表がなされた。それと時を前後して、権田の元に田原から電話があった。

 新型潜水艦の発生音を変えるためにスクリューを変える工事をする、工事自体はは大したことではないが、各種試験がやり直しになる。それで1年就航を伸ばした。

 田原は多くを語らなかったが、「全てお前らのせいだ」と言われているように権田には聞こえた。


 結局、例の取材は、潜水艦の工事を理由に上司に中止を申し入れた。そして全く姿を見せなくなった鈴木浩一については、契約を取り消した。とだけ報告した。


 「あれ以来、俺は報道の自由を失った。。。あんなことにさえ巻き込まれなければ。。。」

 権田は、半分以上氷が溶けたグラスにウィスキーを注ぎ足すと、一気に呷った。下に痺れるような刺激と余韻を残したまま、喉から胃まで熱いモノが移動していく。権田はグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、

「今に見ていろ。。。お前の犬に成り下がるために記者になったんじゃない。俺の原点は、上野村の新聞記者だ。」

 上野村の熱い夏、あの新聞記者の笑顔がパッと記憶の幕いっぱいに広がる。あの新聞記者。。。名前はなんて言ったっけ。。。

 少年の日の思い出が頭の中を駆け巡る。権田は何となく心が和んでくるのを感じた。。。心地よい雰囲気につつまれているような。。。

 権田はいつの間にか寝息を立てていた。その寝顔には先ほどまでの苦悩はなかった。



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