瞬間
35.瞬間
古川は駅の改札を出ると、足早にタクシー乗り場に急いだ。駅からアパートまで歩いて20分。いつもなら酔い覚ましに歩くこの道も時間が惜しい。
アパートの古びた扉を開けて部屋に入った古川は、まず始めに愛用のノートパソコンThiinkPadの電源を入れた。起動するまでの時間さえ惜しい。パスワードを入力すると、酔い覚ましに水をがぶ飲みしたが、気分は一向に晴れない。吐かないだけましか。と自分に苦笑して、着替えを済ませた頃には、とっくにパソコンの起動は完了し、待ちくたびれたかのようにスクリーンセイバーの写真が流れていた。
古川は、舌打ちをすると、マウス代わりにキーボード中央に設けられた赤いトラックポイントを動かしてスクリーンセイバーを消すと、再びパスワードを入力してデスクトップを表示した。荒々しくキーボードを打つ音が独りの部屋に響く。
古川は、昨日カメラのメモリーカードから写真をコピーしたフォルダーを開くと、スライドショーを掛けて1枚ずつ流していった。
積み込みの作業光景から白い漁船団が凛々しく写真へ、時系列を示すように写真の時間が刻々と進んだ。
500万で写真を寄越せ、か。。。悪い話ではない。いや、かなりの儲け話だ。しかし、何故だかが全く分からない。写真を自由に使いたいなら密着取材をさせてくれた仲なんだから言ってくれれば金なんて払わずにいくらでも使えることぐらい分かるはずだ。現に今までもそうしてきた。そもそも引っかかるのは、俺も使っちゃいけないってことだった。何故撮影した本人さえ使ってはいけないのか?それが引っかかった。俺が使ったら河田さんが困る写真?ということか?だから500万を払ってでも手に入れたい。ということか?何か見せたくないものでも写した可能性があると考えたのか。。。でも、今回は、自由な場所で撮影させてもらえなかったのだから、その可能性は薄い。。。古川は自問自答を繰り返しながら写真を見ていったが、一向に答えが出ない。
ふと時計を見上げると既に1時間以上が経過していた。ここまで何十枚も写真を見てきたがそれらしい写真は無かったことが。古川の緊張を薄れさせ、頭痛を目立たせた。古川は眉間を軽く揉むと、酔い覚ましに熱いコーヒーをいれて一息ついた。コーヒーの香りで部屋が満たされ、熱いコーヒーに全身が刺激されたように目が冴えた。
古川は、コーヒーを半分ほど飲むと、作業を再開した。中国海警の船と河田の漁船揉み合うように写った写真が続くと、海上保安庁のヘリコプターの写真が増えてきた。そして漁船では棒を振り回す漁船の船員が写る。。。これがマズかったか。。。古川はスライドショーの先を進める。今度は中国海警船の甲板に銃を持った船員が増える。木製のストックや大きな弾倉、東側を代表するAKシリーズの特徴的な自動小銃を手にした中国人が、何かを喚いている。彼らが身につけたライフジャケットのオレンジ色が対照的で、ジャングルや廃墟となった市街地でAKを持った兵士やゲリラを目にしてきた古川は違和感を感じた。
これか。。。河田の乗組員が中国海警船を威嚇したから中国人が銃を持ち出す騒ぎになった。というのを隠したいのか?別に問題はないと思うが、、、あの時は既に日本の領海に入っていた。愛国心に溢れる人々が中国海警船に抗議するのは当然あり得る話だ。。。いや、今の平和ボケした日本人には、その行為がいけなかったという輩が多いかもしれない。この程度の写真なら、使わずとも記事になるし、この事自体を書かなくても十分に話題性はある。もちろん500万なんて大金は要らない。
古川は、安堵の溜息を漏らすとコーヒーを口に含んだ。それにしても、なんで権田さんはあんなに険しい表情をしていたのだろうか?今度はそれが解せない。
ま、とにかく全てに目を通そう。古川は気を取り直して画面を見る。
海保のヘリが、一段と高度を下げた写真からは、連続撮影をしているようだった。相変わらずシャッタースピードが早すぎて、ヘリのローターが止まって見える。逆に時間を止められた水飛沫は、写真に迫力を添えていた。
昔教科書に落書きしたパラパラ漫画のように画像が進むそして、水平飛行のままコントロールを失ってスピンする海保ヘリ。そして血塗られたヘリの窓が写って、連続撮影が終わった。
ん?違和感を感じた古川がもう一度連続撮影の部分から一枚ずつ見返していく、傷のようなものが入った写真で手を止める。前後の写真を改めて見るが、傷はない。そもそもフィルムを使っていた時代の写真であれば、ネガに付いた傷や付着した埃が、印画紙に露光されて画像として焼き付けられた際に影となって傷のように写ることはある。しかし、これはデジタルカメラだ。仮にレンズや幕に埃が付着したとしてもこんなにクッキリと写るとは考えにくい、しかも前後の写真にはこの傷は存在していない。カメラが悪い訳ではなさそうだ。
古川は首を傾げながらエスケープキーを押してスライドショーを止めると。写真を拡大した。傷だと思っていたそれは、写真の右斜め下から左斜め上に向かい、ひとつの筋になって日光を反射しているかのような光沢に見える。さらに拡大すると、上下の端はブレたように滲んでぼやけているが、左右方向にはハッキリとした筋だということが分かった。上下の端がブレているということは、斜めの上下方向にかなりのスピードで移動しているということを意味している。シャッタースピードはうっかりして1/8000秒のままにしていた。この瞬間でも止められない物体なんてあるのだろうか?
それにしてもかなり小さいな。。。動いているとすれば。。。古川は、その物体の上端から画面を上にスクロールさせていった。
「なにっ?」
思わず画面を覗き込む。そこには海保ヘリの愛らしく白い曲線があった。その傷が移動する物体だと仮定すると、明らかに海保ヘリに向かっていることになる。しかも、コックピットに。。。まさか。。。これは弾丸ということか。。。古川は固唾を飲んだ。
恐る恐る画面を下にスクロールさせていく傷の延長線上には、漁船の白い船体の上に積まれた青いビニールシートを被った箱のような物体に至る。舳先には「やはぎ」と記入されていた。
「まさか。。。」
古川の呼吸が荒くなる。信じられない。いや信じたくない光景だった。古川は画面をズーム率を下げ、視野を広くした。あの時、漁船団は加速・減速を織り交ぜたジグザグ航行をしていた。当然、漁船と漁船の間に大きな船を割り込ませ、横一列に張り付いていた中国海警船は小柄な漁船の動きに追従しきれず漁船の列から前に、後ろにずれていた。
漁船が撃ったことを信じたくない古川は、中国海警船の位置を何度も確認するが、古川が乗っていた「やまと」と「やはぎ」の間の中国海警船よりも矢作は前方に突出しているし、「やはぎ」の向こう側の中国海警船の姿は視界の外にある。漁船よりも大きい中国海警船が「やはぎ」の向こう側に並んでいれば「やはぎ」の向こう側にその船体をはみ出させている筈だ。しかしその船体は後方に置き去りにされ「やはぎ」の後部に重なる程度にしか追い付けていない。やはり、傷らしきものはどう解釈しても「やはぎ」から一直線に海保ヘリに向かっている。日本人が日本人を撃つなんてあり得ない。しかも河田さんは元海上自衛隊の人間だ。しかも最高のポストである海上幕僚長まで登り詰めた男だ。そんなことをする理由が分からない。やはり何かの弾みで埃が写ったのだろう。それが証拠に次の写真にはもう写っていない。古川は次の写真を拡大した。そこには傷は写っていなかった。そのまま上へスクロールさせると、機体を右に少し傾けたヘリのコックピットの床に穴が3つ見えた。それは、皮肉なことに前の写真の傷の方向と一致していた。古川の背筋に悪寒が走り、汗ばんだシャツがひんやりと背中に貼り付くのが不快極まりなかった。
古川は、とんでもない事件に巻き込まれたことをようやく理解した。時計は既に23時を回っていた。
古川は迷いつつも権田に電話をしようと携帯電話を取り出した。ふと、脳裏に今日、酒の席で電話を受けた後の、権田の苦悩に満ちた顔が浮かぶ。いや、やめておこう。もしかしたら権田さんはこの件をすでに知っているのかもしれない。権田さんはどこかで河田さんと繋がっている可能性だってゼロじゃあない。だから俺は、今日の酒の席でも河田さんがCICをハッキングしている事実を言わなかったんだ。じゃあ、どうする?まずはこの写真データを守らなければならない。
古川は、写真データをDVD-ROMディスクにコピーすることにした。自分が肌身離さず持つ1枚。どこかに証拠として提示する1枚。そしてもしもの時のためにどこかへ隠し持つ1枚。計3枚作った。とりあえずデータを複製すれば安心だ。あとは、これからの行動をどうするか?だ。古川は、落ち着きのない手つきで久々の煙草に手を出す。もう2日は吸っていなかった。吸わなくてもいられる。と思っていた矢先にこの体たらくだ。しかし、今は煙草でも吸わないと落ち着けない。古川は自分に言い訳をするようにジッポで火をつける。軽く吸い込むと久々に吸ったためか、まだ酒が大量に残っているのか、目眩が古川を襲う。
古川は片手を机について椅子に座り込む。やはりあれは弾丸で、何らかの方法で河田がAKを入手したということか。。。だとしても、そもそも河田はどうやってあの写真の存在を知ったのだろうか?写真を撮られた可能性があると考えてどうせだったら全てを買い取ろうとしているだけなのかもしれない。それなら、問題の写真だけ削除して全ての写真データを渡せばいいんだ。俺は何を焦っているんだ。古川は独り苦笑するとノートパソコンの写真データを別のフォルダにコピーし始めた。コピーが終わったら問題の写真データだけを削除すればいい。古川は、少し気分が楽になった気がした。CtrlキーやAltキーを組み合わせたショートカットキーを巧みに使って作業をする。鼻歌さえ出てきそうだった。そういえば、パソコンを貸してくれたあの広田って男、かなりパソコンに詳しいんだろうな。意地になって俺もショートカットキーを使いまくってメールを送って見せちまったが、あの人にしてみれば、俺なんて取るに足りない素人なんだろうな。きっと河田の船団のシステムは、あの広田が中心になって開発したのだろう。広田の顔と、メールを送った際のやりとりが古川の頭に再現される。
「しまった!」
古川は、ろくに吸っていない煙草を揉み消すと突然立ち上がった。
あのメールを送るとき、俺は船のパソコンに写真データを全てコピーしたんだった。その方がメールで送る写真を選びやすかったからだ。そこまでは良かったが、やっぱり俺は素人だ。
古川は、両手を机につくと、項垂れた。船のパソコンにコピーした写真データを削除していなかったことに今さら気付いたのだった。河田達が全てを知っているということは、もはや疑う余地もないこととなった。この写真が明るみに出るくらいなら何でもするに違いない。金を貰って渡したとしてもそれじゃあ済まされないだろう。フィルムを使っていた時代の写真なら、ネガさえ手に入れてしまえば複製は出来ない。しかし、デジカメの写真は、電子データだ。幾らでもコピーできる。コピーの可能性を全て潰さねばいくらでも拡散するということだ。あの写真を古川が持っていることを知られた時点で、コピーしていない。拡散させないと誓ったところで誰が信じるのだろうか?
どれくらいの間そうしていたのだろう。古川は我に返ると真っ白になった頭を落ち着けるためにシャワーを浴びた。何か思いつくかもしれない。
まず、逃げよう。頭を洗いながら古川は考えた。そして時間も稼がなきゃならない。いざというときの切り札も必要だ。そして、強力な見方が必要だ。単に警察に駆け込むのは簡単だが、そもそも警察でいいのか?自衛隊?海保?
俺だってジャーナリストの端くれだ。とにかく真相を確かめるまでは引けない。。。
小銃の弾が写真に写るなんて。。。たまたま太陽光が弾丸に反射したんだろうな。様々な条件があの瞬間に凝縮されて、見えなくてもいいものを可視化してしまったんだな。
俺は運がいいのか悪いのか。。。これからに掛かっているな。。。
「やはり、駄目だったか。。。
古川さんは、あの写真に気付いているようだったのか?」
ソファーに身を預けたように悠々と座っていた河田が、何度目かの電話から戻った田原を見上げた。
「いや、気付いていないようです。丁度権田さんは古川さんと酒を飲んでいるところでして、我々が写真を欲しがっているという話をしたところ、不思議がってはいたそうですが、まだ全てに目を通していないということで、断られたそうです。彼との付き合いが長い権田さんが言うのだから間違いはないでしょう。」
田原が穏やかな口調で説明した。
「しかし、いずれ気付く。その時にどうするかだ。」
河田は、顎をさすりながら呟く。
「権田さんの話では、古川さんは近々護衛艦「いそゆき」艦長にインタビューするため、佐世保へ行く予定があるそうです。その留守中にデータを破壊してしまう。というのはどうでしょう?」
田原は声を潜めて言った。河田と2人きりとはいえ、あまり堂々とできる話じゃない。
「それは。。。空き巣まがいのことをしろということか?古川さんが、あの写真の真相に気付いてなければ勝算はある。藤田君に行かせるのか?」
河田は、手で田原に座るように勧めながら話を詰める。
「そうですね。陸自(陸上自衛隊)で特殊戦を教えていた彼なら空き巣なんて朝飯前でしょう。ジャングル戦から市街戦まで、何でも出来ます。古川さんのパソコンを調べるために広田君も同行させます。」
田原は、我が意を得たり、と言わんばかりに声を弾ませた。
「おいおい、田原君、市街戦は不味いぞ。ほどほどにな。よし、その方向で行こう。手配をよろしく頼む。それにしても、「いそゆき」艦長にインタビューなんて、なかなか大胆なことをするな。」
話が一段落して気が落ち着いたのか、河田が水割りに手を伸ばす。既に氷は溶けていたが、旨そうに口に含みながら田原に尋ねる。
「なんでも「いそゆき」艦長の息子が負傷した海保のパイロットだそうです。それで週刊誌向けの記事のために取材をセッティングすると権田さんが言ってましたね。」
田原も水割りを口にすると、グラスの結露で濡れた手をハンカチで拭った。
「そうか。。。身内を撃ってしまったのか。。。
確か艦長は倉田だったよな。すまないことをした。でも命を落とさずに済んで良かった。」
河田が声を落とした。
「そうですね。あいつの息子が海保のパイロットだったなんて、世の中狭いもんですな。。。とにかく死なずに済んだのがせめてもの救いです。
それにしても、弾丸が写真に写るなんて。。。ついてませんな。」
田原は両手で覆ったグラスに目を落とすと、溜息をついた。
 




