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写真

34.写真

 古川は、年代物のキーシリンダーに鍵を差し込み反時計回りに回す。「カチャン」と小気味よい音と心地よい手応えは、部屋の主である古川を迎えているようでもあり、ベージュに厚塗りされた重く古めかしい鉄の扉までもが愛おしく感じられた。

「ただいま~。」

扉を開けると、誰もいない玄関から熱気が出迎える。それは数日間閉じこめられ、夏の陽光に炙られた鉄筋コンクリート造りの壁に熱された惨状を主に訴えるかのようだった。

 古川は、一瞬顔をしかめると、荷物を床に置き、手早くカーテンを開け、窓という窓を開け放った。

 尖閣から戻って石垣島に一泊した古川は、Uターンラッシュに揉まれながら東京に戻ってきた。機内で手にした新聞や、道中目にしたニュースは、昨日の海上保安庁ヘリ銃撃事件で持ちきりだった。

 午後になると、内閣官房長官の記者会見が行われ、

「銃弾は中国製」

という見出しのニュースが多くなった。事は海上保安庁を管轄する国土交通省の範疇はんちゅうではすまなくなったということだろう。

 古川は、荷物の整理を後回しにして届いたばかりであろう夕刊を床に並べる。

 まずは産業日報を広げた。

「海保ヘリ銃撃事件。弾丸は中国製、中国政府は発砲の事実認をめず。」

「「調査を続ける」一点張りの政府」

「中国海警船、領海内で日本漁船を追跡、銃を向けて威嚇」

「中国海軍、空母を実用化か?突如出現中国海軍戦闘機、海自P-3Cを領空内でロックオン!間に合わない空自スクランブル機」

「河田氏(元海上幕僚長)電話インタビュー。「何もできない、何も言えない日本政府。これじゃ属国宣言だ」」

「静観するアメリカ政府」

「中国政府、貿易制限を検討か?」

 見出しだけでも十分に緊迫感が伝わってきた。さすが権田さん、タイミングを計りながら情報を出している。

 さて、鳩ポッポさんはどうかな?

古川は、床に置いたもう旭日新聞手に取り、産業日報の上に広げた。

 報道業界の色は様々で、こと国際問題、安全保障に関する捉え方は流行廃りは無関係。大手であっても読み手に媚びない報道をしている。そういう観点で言うと産業日報は右翼的な鷹派新聞であり、旭日新聞は左翼的な鳩派新聞といえる。「旭日」という名前は右翼的だが、それもその筈、戦前は、最大手の新聞社で、軍部と共に国民を煽っていた新聞社である。戦後になって改心したのか?それとも時代に媚びたのか?今となってはその変貌ぶりを知る人は少ない。

 古川は、軍事ジャーナリストとしてフリーになってから、毎日この両極端な2紙を読み幅広い論点に触れると共に、さらに経済新聞も読んでいる。経済は、軍事問題と切っても切れない密接な関係にあるからだった。

 旭日新聞は

「海保ヘリ銃撃事件。弾丸は中国製、「発砲の事実なし」中国政府素早い対応」

「政府「調査を続ける」日中関係悪化必至か?」

「銃を向けた中国海警船の真相-煽る日本漁船。」

「中国海警船に海自P-3Cが威嚇飛行。中国空母戦闘機と一触即発。空自スクランブル機間に合わず」

「憤る駐日中国大使「日本は官民で中国を陥れるつもりか」」

「静観するアメリカ政府。日本への自制促す意図か?」

「どうなる日本経済、中国政府、レアアース輸出規制示唆」

見出しと内容にひと通り目を通した古川は、深い溜息をつくと、

「旭日は、いつもこうだ。」

と呟いた。どこの国の新聞だか分からなくなる。心の中で毒ついた。

 部数では産業日報はかなわなかったのだから、旭日新聞あるいは、旭日系のメディアの影響を受けることだろう。

 ま、俺はフリーの立場でせいぜい暴れさせていただくさっ。

 古川は気を取り直すと、新聞を滲ませた自分の汗に気付き、バスルームの棚から真新しいタオルを取り出し、汗を拭きながら部屋中の窓とカーテンを閉め、エアコンのスイッチを入れた。このアパートと同じぐらい古びたエアコンが騒々しい唸りと振動を発して騒々しい風音をたてる。すぐに冷たい風が容赦なく吹き出した。古くてうるさいが、すぐに冷えるので、古川にとっては合格点だった。冷えすぎるのが玉にきずだが特にこんな暑い日はありがたい。

 続けて古川は、キッチンへ行って、コーヒーメーカーを仕掛ける。真夏の日に冷えすぎる部屋でホットなブラックコーヒーを飲みながら仕事をすることは、地球環境には良くないのかもしれないが何故か気持ちよく仕事がはかどる。

 古川は、リュックから荷物を取り出して手早に片付けを済ませると、お気に入りのB5サイズのノートパソコン「ThinkPad」の黒いボディーを机の上で開き、電源を繋いでスイッチボタンを押した。少し間をおき、パスワードを入力すると、起動するまでの間に一眼レフデジカメ2台からメモリーカードを取り出し、カードリーダを接続した。ノートパソコンの起動が完了して砂時計が消えると、古川は、カメラのメモリーカードから写真データをノートパソコンにコピーし始めた。画素数が大きくデータ量が多い一眼レフデジカメの写真データはノートパソコンにコピーするのに時間が掛かる。古川は、リュックの中からワープロ代わりに使っているモバイルギアを取り出してディスプレーを開く。そこには、ノートパソコンのようにキーが所狭しと顔を見せる。スイッチを入れると、一瞬にして白黒の画面に飛行機の中で書きかけだった原稿がスイッチを切ったときのまま浮かび上がる。

 いつでもどこでも文書を書ける。しかも電源は乾電池。15年前、まだノートパソコンが高価だった頃に流行ったハンドヘルドPCと呼ばれるこの手の機種を古川はいまだに重宝していた。

古川は書きかけの文書をざっと読み、書いていたときのイメージを確認すると、機関銃のような連続して素早いタイピングでモバイルギアに思いの丈を書きまくった。コーヒーのいい香りが誘惑してくる。

 ひとしきり書き終えると、古川はマグカップにコーヒーを注いでノートパソコンの画面を見る。写真のコピーは終わったようだ。

 古川は、マグカップを置くと、モバイルギアからコンパクトフラッシュと呼ばれるSDカードに比べたら四角いビスケットのように大きなメモリカードを取り出すと、ノートパソコンに接続したマルチカードリーダに取り付ける。モバイルギアで先ほどベタ打ちした文書を取り込みノートパソコンで開く。古川は、熱いコーヒーをすすりながら文書を修正していく。こういった作業には、パソコンの方が便利だ。明日の権田との打ち合わせで使う資料を着々と書き上げていく。今回の密着取材に関する週刊誌への寄稿文書のアウトラインに、単行本の構成、今後の取材方針など、特に負傷者搬送の舞台裏は手に汗を握モノだろう。それと中国の今後の空母運用と防衛については、マニア層は興味がそそられるだろうな。

 2杯目のコーヒーがさめた頃資料一式が書きあがった。古川は、メールの文面に資料の要約を打ち込むと、めぼしい写真と、資料を添付して送信ボタンを押した。

 膨大な写真の整理は、権田との打ち合わせの後でいいや。古川は、ノートパソコンの電源を切り、机を片付けた。時計は21時を回っていた。権田にメールを送った旨と明日の打ち合わせ場所を確認する電話を入れると、古川は遅い夕食をとりに街へ出た。明日は自炊しなきゃ体が持たんな。こう外食が続くと体が落ち着かない。俺も歳だな。と苦笑しながら雲の低い夜空を見上げた。曇り空の湿気に人混みの熱気が混じり、べとつく汗をさらに不快に感じさせた。


「よお、久しぶりだな~。すっかり焼けたな。」

襖を開けた古川の顔を見上げた権田が人懐こい笑顔を浮かべて座布団から腰を上げた。手には、原稿の束を持っていた。

 古川が訪れたのは都内某所の料亭の個室だ。なるほど飲み食いをしながらゆっくりと人目を気にせず仕事の話をするには打ってつけだ、特に今回はネタがネタだ。人の目はおろか耳も避けたい。

 産業日報で権田と部下として仕事をしていた当時は当然使ったことがない料亭の個室と、当時は見たことがない権田の人懐こい笑顔が時の流れと一抹の寂しさを感じさせる。

「お久しぶりです。先日はありがとうございました。お陰様で、無事に戻ってこれました。」

古川が深く頭を下げた。場の雰囲気に飲まれ、口調が硬くなるのを古川自身でも気付いた。

「いや~、あれはヤバかったよな~。ま、まずは座れや。」

かしこまった雰囲気とは裏腹な屈託のない権田の言葉が、古川の肩をほぐした。

「お前の機転の良さが、みんなを救ったんだよ。俺はそれに乗っかっただけだ。」

権田が分厚い座布団に腰を落ち着かせようとしている古川に言葉を掛けた。

「いえいえ、権田さんのあの素早い動きがなければ実現しませんでした。下手したら、あのP-3Cは撃墜されてましたね。」

古川の言葉を聞きながら、権田は小洒落たグラスに入った玉露茶を勧めた。鮮やかな緑の茶と程良く水滴をまとったグラスがいかにも涼しげだった。

言葉を切ると、「いただきます」と言って、茶を口に含んだ。程良い苦みが、疲れを解し、雑踏に揉まれた体を冷ます。

「ま、俺達のコンビネーションプレーが久々に炸裂したってことだな。あのテロップには、中国大使館も慌てただろうな。」

権田の言葉に2人が声を上げて笑った。

笑いながら茶を一口飲んだ権田は、急に真顔になり、

「でもな、あながちスホーイが撃墜されていたかも知れんぞ。」

と言って、悪戯な笑みを浮かべた。

「えっ、だって、那覇のF-15Jは間に合っていなかったし、スクランブルじゃ、スパローを積んでいる訳がないし。。。まさかあんな旅客機をベースにしたP-3Cで反撃できるわけもないですよね。。。」

 那覇基地からスクランブル発進した航空自衛隊の主力戦闘機、F-15J。いまだに空中戦では西側最強のこの戦闘機に掛かれば、スホーイ戦闘機もただでは済まない。しかし、どう考えてもあの空域には間に合ってなかった。中射程のレーダー誘導ミサイル「スパロー」なら届いたかもしれないが、戦争をしている訳ではないので、目視確認も直接警告もせずに無闇にミサイルを撃つわけにも行かない。そもそも自衛隊が撃てるのか?という問題は別にして、スクランブル発進する戦闘機は、まず相手を確認しなければならないため、この手の中射程ミサイルは搭載せず、短射程の赤外線誘導ミサイル「サイドワインダー」を搭載している。これでは爪の先すらスホーイには掛からない。

 P-3Cに至っては論外だ。P-3Cはアメリカのロッキード社製ターボプロップ旅客機「L-188エレクトラ」を元に開発した哨戒機である。ジェット旅客機が流行る前の旅客機で、東側最強のスホーイSuー33にかなう筈がない。

「分からないか?護衛艦「いそゆき」だよ。」

権田の目は笑っていなかった。

「えっ?」

古川にとって護衛艦の存在は完全にノーマークだった。

「俺達が得た情報では、「いそゆき」の艦長が、シースパローに射撃準備を指示していたそうだ。」

権田は古川の反応を確かめるように少しずつ話を続けた。

「勿論、照準はしていない。照準すれば国際問題だ。しかし、あの時、少しでもスホーイが撤収するのが送れたら。。。」

権田が中途半端で区切ったところで、古川が後を受ける。

「ロックオン。。。別なところからロックオンされたとなれば、取りあえずP-3Cをあきらめて逃げるか、ロックオンしてきた「敵」を探す。いずれにしてもP-3Cは助かりますね。」

古川は納得したように頷く。

「しかも、相手が護衛艦だと知れば、対艦攻撃用の武器を持たないスホーイは逃げるしかない。まごまごしていると、空自のF-15に追いつかれる。」

権田は、どうだい?と得意げな目を向けると。茶に口を付けた。

「なるほど。。。躊躇はしなかったと。。。まさに間一髪。。。」

興奮を落ち着けるように古川は喉を鳴らして茶を飲んだ。

古川がひと息ついたのを見届けると、権田はゆっくりと口を開いた。

「そして、その艦長ってのが倉田健夫。あの倉田さんだ?覚えてるか?」

記憶を探る間でもなく、長身でガッチリした体型に似合わず優しい笑顔が古川の脳裏に浮かぶ。優しい反面、心に熱いものを持っている男。根っからの船乗りタイプだ。

「あ~、あの倉田さんですか。覚えてますよ。あの人が海幕広報室にいた頃は、お世話になりましたよね。私もまだ、権田さんの所に配属になったばかりでした。あの人が艦長になったんですか~。ピッタリですね。」

もともといろいろな護衛艦を渡り歩いてきたが、たまたま陸上勤務になってラッキーと思ったら広報担当で参りました。とよく言っていたのを思い出す。

「お、さすがに覚えていたか、そうなんだあの人が艦長。あの人は熱いから、いざとなったらロックオンぐらいカマすかもしれん。」

権田は苦笑すると、さらに言葉を繋いだ。

「そして、事もあろうに、撃たれた海保のパイロットは、倉田昇護。倉田艦長の息子だ。」

権田が、どうだ驚いたか?というような顔を向ける。特ダネを掴んだときの権田の顔だった。が、これは懐かしさに浸っていられる話題ではない。特ダネではあるが、自分の息子をを目の前で撃たれた父親の苦悩は計り知れない。国を守る海上自衛官でありながら、しかもあの海域で最も強力な武器を持ちながらも何もできない立場の自分への呵責はいくばくか。。。あの最前線で倉田艦長が、立場を越えて奮闘していたのを現場で感じてきた俺には特ダネといって手放しでは喜べない。。。

「何てこった。。。」

思わず古川が絶句する。

 これじゃあワイドショーネタだ。古川は自嘲気味に苦笑した。

 が、裏を返せば、老若男女幅広い人々に防衛問題、領土問題について、訴えることができるチャンスかもしれない。古川は気持ちを切り替えて身を乗り出した。

 権田は、古川の態度に構うことなく興奮気味に話を続けた。

「で、どうだ?佐世保へ行ってくれないか?

週刊誌の方は、倉田さんへの取材を付け加えようぜ。向こうの広報へは俺の方からアポを取っておくからさ、まだ、他社は気付いてないが、なるべく早い方がいい。今週は空いてるか?」

 権田が、原稿を差し出した。それは、昨夜古川がメールで送った資料を印刷したもので、週刊誌の構成の部分に「倉田艦長へインタビュー」と赤で記入されていた。

「分かりました。空いてますよ。早い方がいいですね。よろしくお願いします。」

古川は手帳を取り出すと、他のどんな予定が来てもブロックする決意表明のように「佐世保行き」という文字で予定を埋めた。


 窓の外に見える漁船の灯りが遠ざかって行く。低くリズミカルな漁船独特のエンジン音が、やっと耐えられる温度になった空気と共に網戸を通して部屋に流れ込む。

 石垣島新川漁港に面した白い鉄筋コンクリート3階建ての「河田水産」。この2階にある社長室の応接セットに河田と田原が向かい合って座っていた。

 田原がテーブルに並べられた紙の中から左端の1枚を手に取ると、内容を一瞥して河田の方へ向ける。2人は左手をテーブルの縁につくと、腰を折るようにしてその紙を覗き込む。

 応接セットは座り心地は最高で格好もつくのだが、この低いテーブルが戴けない。老体には辛い姿勢になってしまう。田原は歳に勝てぬ自分の体に落胆しつつも、その内容を説明する。テーブルに広げられた用紙は、各メディアから河田の元に寄せられた出演依頼や、インタビューの依頼に関するメールを印刷したものだった。

「これは、産業テレビの日曜朝のトーク番組ですね。在民党の菅野幹事長も出演します。これは影響力が大きいですね。」

田原の言葉に河田は満足気に頷くと、

「そうだな、これは外せないな。よし、予定に入れよう。」

「分かりました。生放送ですから前泊になりますね。前日の午後に出ますか?あ、朝にしますか?産業テレビの前日午後に、テレビ旭日のインタビューがありますが?」

田原は思い出したようにテーブル右端の紙を目の前に置く。

「う~ん、旭日か~。あそこは好かんな。揚げ足とるやつばかりだしな。

あ、それに昔、記者が沖縄で珊瑚に落書きした写真を載せてモラルの低下を記事にしたが何のことはない記者自らが落書きしたことがあったよな?

俺も「でっち上げ」されたらかなわん。断ってくれ。」


 ひとしきり予定が組み終わると、田原は、部下に用意させたウィスキーと水割りセット、乾きモノをテーブルに並べ、河田と今後の話で盛り上がった。

飲み始めて1時間が経った頃、

「次はいよいよ本番だな。

今度は古川さんは抜きにして、俺達だけで行くことになるだろう。」

と、河田が切り出した。田原が畏まって背筋を正してソファーに浅く座り直した時、慌ただしく扉をノックする音が響いた。

「入れ。」

河田の凛とした声が部屋に響く。

「失礼します。」

閉じたノートパソコンを小脇に抱えた広田が深く礼をした。

「どうした。君も飲むか?」

河田が尋ねると、

「いえっ、結構です。お話中申し訳ありません。」

広田は言うと、テーブルの上の酒の量をチラッと確認する。

「いいんだ。何かあったのか?」

 アイツめ、俺達が飲み過ぎてないかあたりをつけてるのか?お前達の前で俺達が話もできぬほど酔ったことはあるか?いいから話すんだ。田原は、先を促す目を広田に向けた。

「はい。失礼します。これを見て頂きたいのです。」

広田は、テーブルの前へ進み出ると、左右それぞれのソファーに座る河田と田原に見えるようにテーブルの端に横向きノートパソコン置き、画面を開く。サスペンドで待機状態だったノートパソコンがすぐに息を吹き返したように画面を表示する。広田が手慣れた手つきでパスワードを入力すると、ロックが解けて写真が大きく表示された。

「こ、これは。。。」

河田と田原の言葉が続かず、表情が凍り付く。

その場の緊張を解くように広田が言葉を発した。

「このパソコンは、古川さんが船からメールを送る際に貸し出したものです。当時急いでいた古川さんは、写真をメールで送るために、取りあえず全ての写真をこのパソコンにコピーして、その中からメールで送る写真を選びました。画面が大きく、処理も速いパソコンで選んだ方が早いですから。

 その。。。古川さんが、写真をこのパソコンから消去するのを忘れていたので、消去しようと思ったのですが。その前に中身を確認して河田さんにも確認してから消去しようと思って確認作業をしていたところ、この写真を発見した次第です。」

 広田が申し訳なさそうに言った。見てはいけないモノを見てしまった。という顔だった。

「いいんだ。広田君、ありがとう。君が機転を聞かせて写真を確認してくれなかったら、取り返しがつかなくなるところだった。このパソコン、少し俺に預けてくれないか?後で君に返しに行くから。」

 河田が落ち着いた口調で広田に労いの言葉を掛けた。長年河田の副官を務めてきた田原には、河田が精一杯の演技をしているのが手に取るように分かった。事態はただ事ではない。田原は、胃が重くなるのを感じた。

 広田は、安堵の表情を浮かべると、失礼します。と言って、部屋を去っていった。

 広田がドアを閉めたのを見送ると、河田は、

「田原君、権田さんに電話してくれ。古川君が気付く前にデータを全部買い取るんだ。金は幾ら払ってもいい。」

 河田は、殻になって溶けかった氷が残るグラスにウィスキーを半分注ぐと、一気に飲み干して音を立ててグラスを置いた。

 田原は、久々に取り乱した河田の顔を見上げる。返す言葉が見当たらない。

「了解しました。すぐに電話します。」

 これしきのことで呼吸が乱れるとは。。。田原は自嘲すると携帯電話を取り出した。

 河田に気付かれない程度に深呼吸をしてから通話ボタンを押した。



 打ち合わせを終え、権田が合図をすると、和服を着た中年の女性が、次々と料理の善を運び込んだ。古川は、その手つきのしなやかさに心を惹かれ、襟から白く伸びた首筋に目が奪われた。

 刺身や焼き物、揚げ物など、一通りの料理が運び込まれた。一度に運び込んだのは、大事な話の邪魔をしないようにとの配慮だろうか、それにしても量こそ多くはないが見た目の高級感が古川が目にする料理とは別格だった。

 女性が部屋を出ると、遠慮気味に目を泳がす古川に、「まずはビールだろ。」

と権田が瓶を差し出す。

「あ、すみません。実はこういう場所は初めてなんです。」

古川がグラスを差し出しながら頭を掻いた。権田の手前、意地を張る必要はない。

「そうか、とっくにこんな店ばかり案内されてるかと思ってたぜ。心配するな我が社の接待だ。それだけお前の実力が認められるようになったってことだよ。さ、飲め飲め」

 権田が笑いながらビールを注ぐ。

「いえいえ、全て権田さんのお陰です。ありがとうございます。」

深く頭を下げた古川は、権田のグラスをビールで満たした。

「俺達の成功と、健全な日本の未来に乾杯。」

権田がグラスを上げた。

 旨い料理と旨い酒、懐かしい話にこれからの仕事、日本の防衛、次から次ぎへと話題は尽きなかった。

「なあ、お前、結婚はしないのか?お前、もういい歳だろ?早くしないと「ただのオッサン」になっちまうぞ。悲しいぞ~。「ただのオッサンは」」

権田が突然話題を変えた。

「いや、それには全然興味がないんですよ。仕事で飛び回ってる方が性に合ってます。

 ま、浮気されて離婚した俺が言うと、、、負け惜しみ聞こえるかもしれませんが、自分のためにも離婚して良かった。と、今は思います。あいつはまだ独り身らしいですけど。。。」

 古川は、初めて他人に離婚して良かった。と言った事に気付いた。そして、悦子のその後の事に触れたのも。。。今日はかなり飲んだのかもしれない。

「そうか、それを聞いてなんだかホッとしたよ。俺が引き裂いたようなもんだもんな。俺さえ黙ってりゃ、こんなことにはならんかったのかもしれない。

 それにしても悦っちゃん、まだ独り身なのか?驚いたな。さっさと再婚したのかと思ってたよ。

 お前に未練たらたらだったりしてな。」

 権田が安堵した表情を見せた。きっと心からあの時の事を後悔していたのだろう。確かに権田に見せられた見知らぬ男と悦子が腕を組んで歩いている写真がきっかけではあったが、

「そんなこと気にしてたんですか?結果オーライですよ。それにアイツも独り身を満喫してるんじゃないですか?」

そう。。。結果オーライだ。と俺は自分に言い聞かせて生きてきたのだ。

 古川は日本酒をあおった。

 確かに悦子が独り身なのは気になるが、、、今の俺は充実している。きっとアイツなりにいい人生を送ってる筈だ。俺の事なんか片隅にもあるまい。いや、あっちゃいけない。

 そもそもなんで権田さんは今さら悦子の話をするんだ?

古川が、不快感を感じ始めたとき、権田の携帯電話が鳴った。権田は、携帯電話を開くと、困ったような顔をして

「失礼」

と言うと、

廊下へ出て行った。

古川は、ふすまが開く音で目を覚ました。

5分経ったろうか、いや10分経ったろうか、酒に酔うあまり気持ちよく居眠りをしていたらしい。

 権田が戻ってきたのだった。心なしか顔色が悪いようだ、さっきまでは赤ら顔だったのだが白っぽく見えた。日本酒を飲み過ぎたな?それにしても、権田さんも随分酒に弱くなったもんだ。

 権田は、座布団に座り、おもむろに盃を開けると、無言で古川に日本酒を注いでから、自分の盃を満たした。

「なあ古川、何も言わずに従ってくれ。」

 権田の声が厳しさを含んでいた。危ない橋を渡るときの声だ。権田は飲み過ぎてなどいなかったのだ。

「えっ?どういうことですか?」

古川が聞き返した。

「いいか、黙って聞けよ。

 昨日お前が撮った尖閣での写真のデータを全て河田さんが買い上げたいそうだ。500万払うと言っている。」

権田の声が何となく命令口調に聞こえる。

「えっ、だって、そんなのコピーすればいいじゃないですか、あんな写真、いくらでも差し上げますよ。って河田さんに言ってください。」

 古川が戸惑いがちに答えた。どういうことなのか、さっぱり意味が分からない。

「要するに、河田さんしか、あの写真を使っちゃいけない。ってことにしたいらしい。法的に言えば著作権ってことだな。きっと。とにかくそうしろ。それがお前のためだ。黙って従ってくれ。」

 権田が頭を下げた。全く意味が分からない。古川は内心毒気づいた。何か気に障るっしゃしんでもあったのだろうか?それとも500万円の価値のあるニュース性の高い写真でもあったのだろうか?それとも単に独占したいだけなのか。。。

 いずれにしても、俺はまだ全部写真を確認したわけじゃないので分からなかった。

「権田さん、やめてくださいよ。俺に頭なんか下げないくださいよ。俺も全部の写真に目を通したわけじゃないので、なんとも言えません。何でそんなこと言ってきたんですか?」

古川の声が大きくなった。

「いや、俺にも意図は分からない。

 ま、お前がそこまで言うなら仕方ないな。それに理由が分からないのに、言うことを聞いてくれ、なんて言う俺もどうにかしてる。

 変な事を言ってすまなかった。気が変わったら連絡をくれ。」

 権田はそう言うと、その後は、この話を話題に出さなくなった。

 2人は、残った酒を飲み干すと、店を後にした。

 写真の話の後、何事も無かったかのように他愛ない話を続けたが、古川は写真のことが気が気ではなく、何を話したのかも覚えていなかった。

 権田と別れて1人になると、今まで遠慮していたかのように頭が軋むような痛みを訴え、体全体が倦怠感に包まれる。それでも写真が気になる古川は、体に鞭打って家路を急いだ。


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