生け贄(いけにえ)
30.生け贄
右手の遠くから急激に近付いてきた「ボォー」というターボプロップの野太い響きに、古川は右舷側に体を向けた。それは視界に入ると間もなく低い轟音と振動で周囲を威圧する。音と振動の主であるP-3Cが進行方向右側から急速に迫ってくる。4つのプロペラを古川へ向けてP-3Cが横に並んだ漁船と中国海警船を串刺しにするかのようにして掠め去った瞬間、古川はシャッターを切ることも忘れて、咄嗟に頭を低くしてしまった。その迫力は、並みのジェット機よりも凄まじいかもしれない。
「すげ~な」
と、率直な感想を口から飛び出させてしまった古川が、シャッターを切れなかった自分への最も的確な言い訳を探し始めると、間髪入れずにハシゴを登って来た河田の頭が見えた。古川は、先ほど目にしたCICもどきの画面の事を頭から追いやり、無表情を装う。
「古川さん、やはり撃たれたようです。」
河田は、古川と目を合わせると、自らがハシゴを登り終わるのも待たずに話を切り出した。
すましていた古川がその現実に改めて驚愕の色を浮かべるのを認めると、すぐには出ないであろう返事を待たずに河田は先を続けた。
「海保の交信内容を分析してきました。撃たれたのは海保ヘリ「うみばと」。負傷したのは副操縦士。間違いないです。あのヘリは撃たれたんです。ただし、誰に撃たれたのかは不明と言ってました。あの状況では、中国海警以外にあり得ないというのに。。。」
言い終えるまでには、タブレットの前に辿り着いた河田は、沈痛な面持ちで締めくくった。
「えっ、無線を傍受してたんですか?」
河田の意外な手法に古川は、驚きを隠せないといったような声を挙げた。CICもどきに無線の傍受。。。まるで軍隊だ。まだ他にも隠しているのだろうか。。。古川は、ぞっとして寒気が起こり身震いしそうになる自分を体中に力を入れて抑え込んだ。
「当然です。我々は、日中両軍を相手にしているんです。」
河田は、目を覚ませ!と言わんばかりに古川を睨んだ。
怯んだ古川を見ると、すぐに作り笑いを浮かべて淡々とゆっくり語り始めた
「ま、それは冗談として備えあれば憂いなし。というところですよ。何しろ我々はただの漁師とは違う。自衛隊経験者ばかりですから、そいいった面が心配になるし、そしてその心配を自分達で解決できる。我々に無いのは武器だけです。」
「確かに、そうなりますよね。」
古川は驚きを隠すあまり、ぶっきらぼうな相槌しか打てなかった。気の回らない自分を呪っても始まらない。河田のさっきの言葉は、何かのキャッチに使える。。。と考えることで、この驚きを顔に出さないようにした。そう、俺はジャーナリストだ、目の前で起こっている事実に振り回されてはいけない。いかに伝えるかを冷静に考えるんだ。そうすれば、河田に疑いの目を向けられることもないだろう。。。古川は自分に強く言い聞かせた。
「では、事実関係が取れたので、至急、産業日報の権田さんに連絡を入れます。確認ありがとうございました。」
古川は、河田に有無を言わせないように一気に宣言すると、衛星携帯電話に登録した権田の電話番号を呼び出して通話のボタンを押す。大手新聞社である産業日報の権田は、この密着取材を紹介してくれた人物で、かつて古川が産業日報で記者をしていた頃に一緒に仕事をしていた先輩記者だった。今回の仕事は、産業日報のバックアップを受けている。それはスクープも産業日報が独占する権利を持っていることを意味している。
古川は、画面に「呼び出し中」を示す文字が現れたのを確認して、2世代前の携帯電話を彷彿させる大きな衛星携帯電話を耳に当てた。
3度目の呼び出し音を待たずに電話が繋がった。
「お休みのところすみません。古川です。お時間よろしいですか?」
古川は、かしこまった口調で切り出した。今日は8月15日、巷では盆休みの最中だった。
「構わんよ、今、社にいるんだ。なんてったってお前が尖閣に行ってるんだからな、悠長に線香あげなんてしてられるか。ところで何かあったのか。」
権田は、自分の身上を笑い飛ばす。権田は2年前に事故で妻を亡くしていた。子供がいなかったのがせめてもの救いだと、権田本人が言っていたのを古川は思い出した。
「すみません。ありがとうございます。実は、先ほど、13時15分に、海上保安庁のヘリコプターが銃撃されました。副操縦士が負傷したそうです。誰に撃たれたかは不明ですが、当時、中国海警船の甲板には、AKを持った乗員が数名いました。」
古川は、興奮しないようにひとつずつ、区切るように言葉を並べた。こういう時は興奮すると的確に相手に伝わらない。
「何、それは確かか?」
対する権田の声も落ち着いている。第一報でいかに情報を整理するかが鍵になることを、2人は阿吽の呼吸で身に着けていた。
「はい。河田さんが海保の無線を傍受してました。間違いありません。」
古川は、河田が傍受までしていることを権田が一発で信じてくれるようにキッパリと答えた。押し問答をしている余裕はない。
状況的に中国が発砲したのは間違いない。銃撃の事実を中国上層部が知れば、その事実を隠し、あるいは棚上げにするような「何か」を行い、国際社会に「日本が悪い」と訴えるだろう。そうなる前に、ありのままの事実を社会に発信し、中国に手を打たせないようにするしかない。社会が、そして世界が事実を知った後、それをねじ曲げるために「手を打つ」ことの無意味は、例え中国政府とはいえ理解している筈だ。事は一刻を争う。即刻世界中に広まる方法を取らなければならない。古川は、頭を巡らしながら、言葉を続けた。
「この事を中国政府が知り、いちゃもんをつけてくる前に世間に知らせる必要があります。世界が日本機が銃撃されたという事実を知れば、中国がどんな手を打とうと意味がなくなります。そうなれば中国は悪あがきをせずに事態の悪化を防げます。。。
そうだ、テロップだ、産業テレビにテロップを流してもらえませんか、きっと各国の大使館がテレビを監視している筈ですよね。中国大使館だって例外じゃない。外交官は、腰を抜かして本国に報告する。全てがテレビで公になっていれば、中国政府は尖閣の現場がどんな報告をしようと悪あがきをすることはないでしょう。」
途中でアイディアが浮かんだ古川は、先程までの冷静さを忘れて一気に捲し立てた。
「まあ、落ち着け、でもそれが一番だな。確かに中国大使館が銃撃事件が日本で放送されたという事実を本国に報告すれば、事はこれ以上あっかしないだろう。他国大使館も同様の報告をしているだろうからな。日本政府の発表を待ってからじゃあ、遅すぎる。よし、ウチらでやろう。任せとけ。」
権田の声が興奮気味に弾む。同じ防衛記者畑を歩んできたさすがに話が早い。というよりも、現在の自分は権田の教えがあってこそ、というのが正しいな。と古川は、昔を懐かしんだ。
電話が終わるのを待っていたように河田が口を開いた。
「なるほど、中国に釘を刺す。という訳ですか?確かに事実を先に明らかにすれば、中国も下手な細工はできない。最近得意な高圧的な対応でさえも他国を白けさせるだけになるということは、彼らだって分かっているでしょうから。しかし、それは同時に対応能力の面で日本が抱える問題を明らかにできないということになるのではないでしょうか?対応に時間が掛り過ぎる縦割り行政。対応することが出来ない法体制。。。もっとあるかもしれません。それを明らかにするチャンスでもある。ということを忘れていませんか?」
いつもよりさらに丁寧な河田の話を聞いているうちに、古川の中に込み上げてくるものがあった。派手なジグザグ航行、棒を振りかざしての中国海警船への威嚇、無線の傍受、そしてCICのハッキング。。。あんたらは一体どうしたいんだ?あんたらが行動した結果がこれなんじゃないのか?話の途中から古川は河田の目を正視できなかった。
「それは、ごもっともなお話だとは思います。確かに日本の対応能力は低い。でもね河田さん、人が死んでるんですよ。。。いや、死んだと決まった訳じゃないが、、、これ以上事態を悪化させて何になるんですか?犠牲を増やすだけじゃないですか?」
古川は、言葉を重ねる度に拳に力が入っている自分に気付いたが、自らをなだめようとする気持ちは起きなかった。これを放置したら最悪日本は戦争になる。
P-3Cが今度は、船首方向からこちらに向かってくる。先ほどより更に高度を下げているようだ。あっという間に頭上を掠める。「爆音」と言う言葉がぴったりのエンジン音と船の立てつけの弱い部分を指摘するような振動を与える主に、古川と河田は目を向ける。P-3Cを見つめながら古川は、もう少しで河田を怒鳴りそうだった自分自身に苦笑した。P-3Cが割って入ってくれなかったら、俺は客に怒鳴っているところだった。
河田は密着取材という仕事の雇い主、即ち古川にとっての「お客」なのだ。少し言葉が過ぎたかも知れない。と、古川は河田の目を覗きこんだが、河田は、少しも表情を変えていなかった。それでも何か取り繕う言葉を探す古川を見透かすように河田は笑みを浮かべると
「その通りです。犠牲が出てしまったし、このままでは更に犠牲が増えるでしょう。何故なら打つ手もスピード感も持たないからですよね?では何故そうなってしまうのか?縦割りな行政と曖昧な法体制が原因ですか?多くの人は、そこに行き着く。そして行政改革だの法改正だのと叫ぶ、そしてそれには当然反対意見がある。それは「何もしないことこそが平和を守る」ことになる。という戦後社会の慢性病があるから仕方がない、思想はともかく、日本人なら誰も戦争なんか望んじゃいないんです。もちろん我々もです。
しかし、日本を取り巻く情勢は変化し続けているんです。行政改革や法改正には、賛成・反対のバランスこそ時々の情勢により異なるでしょうが、結果には殆ど影響がありません。平和が絡むと折衷案が採択されてしまうからです。それは何故ですか?危機感がないからなんです。特に日本の場合は平和に対する慢性病を抱えている。これを上回る危機感を持って貰わなければ響かないんです。
日本人の目を覚まさせるためには、この体制と法では何も出来ない。と言うことを証明してみせる必要があるんです。驚異論などというカンフル剤などではもう駄目なんです。生け贄が必要なんですよ。」
河田の言葉は生徒に諭すベテラン教師のような話し方だったが、次第に熱を帯びてきた。これが飾らない本音なのだろう。その言葉のひとつひとつが古川の頭に考えさせ、そして理解するほどにその胸を熱くした。しかし。。。と古川は反芻する。もともと日本は病んでいるんだ。その病を生け贄で治す?それこそ原始的ではないか?俺はジャーナリストとして、別の方法でこの病を治してやる。河田の言葉は、河田の意に反して古川に新たな決意をもたらす原動力となっていった。
「私は、そのための生け贄こそ、犬死にだと思います。それでこの国が変われるなら、もうとっくに変わっているんじゃないですか?
犠牲者が出ても、臭いものには蓋をするという国民性が、事態を葬り去り、あるいは故意に風化させてしまうでしょう。
今回の犠牲を私は私の立場で最大限に活かし、世論に訴えようと思います。今の日本はあまりにも準備不足です。今回はこれ以上事態を悪化させないほうがいいんじゃないでしょうか?」
古川は、まっすぐに河田を見つめた。
河田は、無言でその目を見つめていたが、あきらめたかのように視線を外して空を見上げると、深く息を吐いてからやっと口を開いた。
「ペンは剣よりも強し。。。ですか。ま、いいでしょう。手段は違えど、目的は同じと理解しました。古川さん、あなたはあなたで思う道を行くべきです。但し、ここへは私の密着取材で来ている。ということをお忘れなく。私はあなたへの協力は惜しまないが、同様にあなたは私に協力しなければならない。」
分かってますよね?と、河田の目が言っているようだった。古川は目をそらしたくなる気持ちを抑えて
「私もジャーナリストはしくれです。信念の許す限り協力させて頂きます。」
古川は、答えた。今日ここで目にしたもの、耳にしたことから、自分の思想の実現のためなら手段を選ばない男。という河田への印象を新たにした古川は、毅然とした答えをしたつもりだったが、歯切れ良く伝わったかどうか不安が残った。
「それでいいです。それが聞きたかった。今回はここら辺で引きましょう。ただし、いつまで中国海警ここに居座りつづけるのか、あるいはいつまで我々がここに留まったら排除してくるのかは見届たいんです。よって、しばらくこの海域を周回します。もちろんこれ以上エスカレートはさせません。ただの様子見です。」
河田は、これが最後だと言わんばかりに抑揚なく告げる。
「わかりました。ありがとうございます。」
古川もまた、無気質に答えた。これで密着取材が最後になるような予感が古川の頭の中をよぎった。
やはり目的は同じでも、その考え方、手段が異なる場合うまく行かないことが多いな。。。かまうものか!古川は、言いすぎたことに少しの後悔と大きなすがすがしさを感じていた。
再びP-3Cが頭上をかすめて飛び去っていく。単独で上空に貼りついているP-3Cは、河田の漁船と中国海警船が交互に規則正しく並んだ異様な船団を中心に東西、そして南北に8の字に飛行していた。それはまるで四つ葉のクローバーを夏の青空に刻み込むように何度も何度も繰り返されていた。領海を侵犯され、巡視船という直接的な歯止めが不在となっているこの状況では、上空のP-3Cによる執拗な低空飛行しか手はないのだろうが、古川にはその空のクローバーに恐れをなして中国海警船が領海から退去するとは思えなかった。中国海警船は、「日本は絶対に攻撃してこない。」ということを熟知している筈だ。攻撃される心配がないからこそ、中国は、日本に威嚇されるだけされておいてトラブルを引き起こす隙を狙っているのではないか。。。再び旋回し始まった長い尾P-3Cの哨戒機独特の磁気探知機を目の隅に捉えながら古川は胸騒ぎを感じ始めていた。
「艦長、あと15分でSeagull-02が着水します。これから最終進入コースに入ります。停船願います。」
US-2飛行艇Seagull-02の誘導にあたっていた三田かが、倉田に言った。倉田は、艦頷くと、自ら艦内電話を手にとって艦橋で操艦の指揮を執らせている副長の冨沢に連絡した。護衛艦「いそゆき」は、少しでも沖縄本島との距離を縮めるために航行中であったが、飛行艇の着水を前に、位置を固定し、波も立てないように配慮する必要があった。
倉田が艦の行き足が止まったことを体感し、収容作業を見届けるため艦橋へ向かおうと歩き出した時だった。
「本艦より北西160海里(約300km)に飛行物体2出現、速度540ノット(1000km/h)高度3000フィート(約900m)本艦に向かってきます。」
レーダーを担当していた武田3尉のよく通る声が急を告げる。
「何っ!」
倉田は、武田のいるレーダー卓に駆け寄った。
「この低高度で、これだけのスピードを出せるとなると、戦闘機か巡航ミサイルのどちらかだな。ただ、巡航ミサイルにしては高度が高すぎるか。。。」
倉田が顎をさすりながら呟く。
巡航ミサイルは、ジェットエンジンを装備しているものが多くレーダーを避けるように低空を這い回るため、ジェット戦闘機のように見える場合がある。
「ん~、巡航ミサイルではないと思います。艦長が仰ったように巡航ミサイルにしては高度が高いですし、エコーも低いです。これだけ明確ならばもっと大きな物体ですね。それにコレ見てください。」
武田が右手に持ったペンを逆さまにして画面上の点を指すと、言葉を続けた。
「中国の空母、遼寧です。5時間前に司令部から入った衛星情報で確認しているので間違いありません。」
武田が指している点は戦闘機と思われる2つの点のすぐ近くだった。
「しかし、遼寧は、実験段階の空母で、まだ航空機の運用能力が無いというのが主流な説じゃないのか?」
倉田は、突然の事態の急変に、発生している現実に納得がいかなかった。なぜこうも重ね重ねにいろんな事が起こるんだ。。。しかし、艦長としてそんな態度はおくびにも出さず、武田に答えを促す視線を向けた。
「ですが艦長、あの空母はもともと旧ソビエトでは実用化されていた空母の同型艦ですよね。モノとしてはちゃんとした空母なんです。しかもスキージャンプ式の飛行甲板ですから、カタパルトなんて無い。飛行機は、自分の力で勢いをつけて艦首の坂道を登りきってジャンプするように発艦すればいいんですから、それはもう、飛行機の性能とパイロットの腕次第です。実際中国だって、ロシアが空母で使っていたSu-33(スホーイ33)と同型機を持っている訳ですから、全然不可能じゃないんですよ。」
なるほど、「いそゆき」の軍事オタクとして揺るぎない地位を得ている武田の言っていることは正しいのだろう。でも、それを知ったところでどうすればいいか?は艦長である俺が判断しなければならない。こっちへ向かってると言っていたが、何が目的なんだ?今来られては昇護をUS-2に乗せられなくなるのではないか、一秒でも時間が惜しいときに。。。何てこった。。。ん、もしかして、US-2を妨害するのが狙いか?いや、中国がこの状況を分かっているとは考えにくい。国家として人命救助の行動と分かっていて妨害してくることはないと信じたい。すると。。。P-3Cか?そうだTIDA-03だ。あの皆川さんなら、かなりしつこく中国海警船につきまとっているに違いない。たまりかねた中国海警船が、中国海軍に泣きついた可能性が高い。中国海軍にとっても、空母の戦闘機で追い払った。となれば、他国への軍事的アピールとなることは間違いない。輝かしい空母部隊のデビュー戦となるだろう。。。追い払うだけですませてくれればいいが。。。
倉田は自らの推測のもたらす結果の悲惨さを想像して背筋が凍り付くのを感じた。とんでもない犠牲が出る。。。航空自衛隊の戦闘機なら妨害して退去させることができるだろうが、那覇からは約400km。。。航空自衛隊のスクランブル機では間に合わない。。。
この艦には対空ミサイルがある。今の状況に有効な武器だ。たった2機しかいない戦闘機など問題ではない。しかし使うための法律がない。即ち、このまま指をくわえて犠牲者が出るのを待つしかない。ということだ。これが我が国の危機管理の実態だ。
何もしないことが平和をもたらす。という偶像崇拝の人々と、代々事なかれ主義に徹した政治家たちが作り上げてきた「平和」の「生け贄」として彼らが犠牲になるのを俺は黙って見ているしかないのか?倉田は唇を噛みしめていた。
「艦長。あと10分で接敵。魚釣島沖のTIDAー03に向かっている模様です!このままだと領空侵犯されます。那覇から空自(航空自衛隊)がスクランブル発進しましたが、中国の艦載機の方が近いです。間に合いません。」
緊張のあまり武田が裏返りそうな声で報告する。
「クソッ。日本の領海だぞっ!」
倉田は、唸るような声で呟いた。




