命のバトン
26.命のバトン
中国海警船の甲板には、自動小銃を構えた船員が一列に並び始まった。威嚇しようとしているのが上空からも手に取るように分かる。しかし、河田のマグロ延縄漁船の甲板では、銃を向けられても怯むことなく船員が大小様々な棒を振り上げて船べりを叩き、何かを叫び続けている。
「危険だ。あそこに巡視船が割って入れればな。」
浜田は悔しそうに嘆いた。
海上自衛隊の哨戒機P-3Cからの情報で、魚釣島の西から接近する船団は、大きな五星紅旗(中国の国旗)を大漁旗のように掲げた中国漁船であることを察知していたため、魚釣島に上陸の恐れがあるとして
この海域の巡視船3隻全てをこの漁船団の阻止に向けていた。
「何でこんな日に限って、手薄にしてたんですかね。ウチは。だって今日は終戦記念日ですよ。戦勝国気分の中国漁船が押し寄せてくるのは馬鹿でも分かる。」
昇護は珍しく憤然とした言葉を先輩の浜田に吐いた。
「ま、そういうことだ。ウチは甘いんだよ。認識がな。現場を分かってない。俺達だけで何とかするしかないな。よぅし、いっちょカマしてやるかっ!」
浜田が語気を強めて昇護に同意を示した。
「了解、じゃっ、行きますよ。」
昇護は左手で握ったスロットルを捻り出力を上げると同時に浮き上がりそうになる機体を右手で握ったサイクリックレバーを前方に倒して、機体を前に傾けることで浮力を抑えて速力に変える。愛嬌のあるベル212型「うみばと」がその姿に似合わず唸りを上げて突進する。
浜田は、心地よい加速感を全身に感じると
「いいぞっ、昇護っ。前に出ろっ!」
と言って握りこぶしを作った右手を前方へ勢いよく突き出した。
「了解!あいつらを。グっ。。。」
勢い付いた返事を昇護が言い終る前に、ハンマーで鉄板を叩くような硬い音が立て続けに起こった。
昇護は、左の太股が下からの衝撃で勝手に上に弾かれるのを感じた。そしてとにかく熱い。焼いた棒で叩かれたような感じだ。そして脇腹がボディーブローを喰らったような衝撃を感じて息苦しくなった。しかも腹の中が捩れるような変な感じがする。昇護は何が起こったのか全く理解できないまま、体に受けた衝撃で声にしようとしていた肺の空気が一気に噴き出してしまい、発しようとした言葉を最後まで言えなかった。一体俺はどうしたんだ?
機体が水平に左回転し始めたことで昇護は少しずつ正気を取り戻した。何故か白く霞んでいる視界に左足がペダルを軽く踏んでいるのが見えた。ペダルから足を離さなくちゃ。咄嗟に足を離そうとした。しかし、全く足が動かない。自分の足という感覚がまるで無い。まずいっ、左足が動かない。痺れたように感覚が無い。昇護は自分の両手で左の太股を持ち上げようとした。正常な感覚であろう手の平の神経が、指先の神経が、何故か濡れていることを伝えてくる。力を入れると腹が捩れるような感覚が更に強くなり息苦しくなる。でもそんな事には構ってられない。こんな低空でスピンを続けたら墜落してしまう。
「・・・護、おぃっ・・・・足どかせ・・・直せ・・・アイ・・ブ・・ントロール」
浜田の声が途切れ途切れに耳に入る。
-浜田さん、何で怒鳴ってるんですか?怒鳴ってる割にはよく聞こえないんですけど。-
と言っているつもりだが、上手く声が出ていないのが自分でも分かる。操縦は浜田が代わってくれたらしい。
なんとか左足をペダルから退けると両手を顔に近づけた。手が真っ赤に染まっている。左の太股を見ると、飛行服の一部が裂けており、そこから黒い染みが見る間に広がっていく。さらに裂け目からは血が流れ出している。昇護は左手で裂け目を押さえた。そして慎重に右手を腹に這わせる。やはりぐっしょりと濡れている。さらに恐る恐る右手を這わせる。そして指先が想像したくなかった現実を捉える。下腹部の右側に飛行服の裂け目があった。
-俺は撃たれたんだ。。。しかも腹にも喰らってる-
視野がどんどん狭くなる。吐き気がこみ上げてきて眩暈もする。昇護は右手を窓について辛うじてバランスをとった。赤い絵の具を含ませた雑巾で拭いたように窓が血に塗られていく。
-何でこうなる。。。俺は撃たれたらしい。。。-
昇護は、ぼんやりとしていく頭で、自分がどうなってしまったのかを確かめるように直前の記憶を辿ることで意識を保とうとするが、気が遠退いていくのを他人事のように見ているもう一人の自分の存在が大きくなってくる。
-俺は死ぬのか。。。人はこんな風に死んでいくもんなんだな。。。-
自分を呼ぶクルーの声が小さくなっていく反面、自分の息遣いが大きくなってくる。
美由紀にプロポーズした時の夕日に輝く霞ヶ浦の水面が浮かぶ、笑顔だった美由紀が突然涙を流し始める
ー泣くなよ美由紀。。。俺はもう駄目かもしれない。。。返事を貰えなくて良かったのかもしれない。。。忘れてくれ。。。こんな事になるならプロポーズなんてしなきゃよかったんだ。。。いいヤツを見つけて幸せになってくれ。。。いや、泣いているのは俺の方か?。。。ー
「おいっ!昇護っ!しっかりしろ。目を開けるんだっ!昇護っ!畜生っ!意識が無いぞっ。土屋っ昇護を後ろへ連れて行けるか?」
浜田は怒鳴り声を上げると。深呼吸をしてマイクのスイッチを入れる。怒りのあまり深呼吸をしても足の震えは止まらなかった。
「Mayday!Mayday!Mayday! This is Juliet Alpha 9966.Juliet Alpha 9966. Juliet Alpha 9966. a Helicopter of Japan Coast Guard orver Uoturi-jima(メーデー!メーデー!メーデー!こちらは、日本国海上保安庁所属ヘリコプターJA9966魚釣島上空)。え~っ。緊急のため日本語で申し上げます。当機は、魚釣島沖合を飛行中、銃撃を受けました。副操縦士が負傷。現在意識不明。」
浜田は、冷静に無線に吹き込み始めたが、声が徐々に上ずってくるのが自分にも分かった。
Maydayは、船舶や航空機で使われている世界共通の救難信号であり、フランス語のm'aidez (Help me)が語源であると言われている。
「MH「うみばと」こちらPL「はてるま」船長の兼子だ。救難信号を受信した。状況は了解した。巡視船隊は、中国漁船に領海侵犯されてそちらへ向かうことができない。申し訳ない。しかし、様々な手段を講じ、全力で支援することを検討している。安心されたい。まず、3点について報告してくれ。
1つ目。副操縦士の出血量はどうか?
2つ目。中国海警に撃たれたのか?
3つ目。中国海警と漁船団の状況はどうか?
以上。」
浜田は、兼子の言葉に心強さを感じた。単に激励するのではなく、クルーの誰もが感じている巡視船隊の逼迫した状況を自ら認めつつも、他の方法を考えているという具体的な方針を示してくれたことが大きい。その言葉が、「逼迫はしているが、君達を別な方法で助ける」と明言してくれているからだった。
そして、「3点について」報告するように、と前置きしてから箇条書きのように簡潔に報告を要求してきたことも安心感を増す要素となった。こういう時だからこそ、理路整然としたやりとりは神経を擦り減らさずに的確に対応できるし、何よりも冷静に判断できるようになる。それが船長たる多くの人間を預かる「器」の役割なのかもしれない。そして俺自身も機長としての「器」を示さねば!
浜田は、自分に檄)を飛ばすと、クルーに気付かれない程度に大きな深呼吸してから無線機の送話スイッチを押した。
「MH「うみばと」了解。支援に感謝する。質問頂いた3点について報告します。
1つ目。副操縦士の出血は、100cc~150cc。出血尚も続いています。顔面蒼白意識なし。
2つ目。射撃元は不明です。3発撃たれた模様。
3つ目。日本漁船は蛇行を止め、横列のまま魚釣島領海内を周回し始めました。中国海警は、横列の漁船と漁船の間に入り込んだまま、漁船と共に周回しています。つまり、領海侵犯しています。漁船団は、中国海警に挟まれ、魚釣島上陸は困難。これ以上の進展はナシと具申します。」
浜田は、的確に報告した。一刻も早く昇護をどうにかしたい一心で、中国海警と日本漁船について意見具申をしてしまったのはやり過ぎかとも思ったが、ありのままの事実だ。進展しない中国海警と日本漁船の均衡状態にこのまま付き合っていれば。。。
-昇護の血が無くなっちまう。。。-
土屋はコックピットに上体を入り込ませる。コックピットとはいっても機長席と副操縦士席があるだけで、キャビンとの仕切りさえないのだが、機長席と副操縦士席の間には、様々なスイッチが並ぶコンソールボックスがあるため、キャビンからコックピットに入ることは出来ない。このため、土屋は、入り込ませた上体を捩りながらの作業になる。かなり作業がしずらい。さらに今回メインに操縦をするのが昇護だったため、昇護は右側の機長席に座っていた。このことが、右利きの土屋にとって更に作業性を悪くしていた。数分後、土屋はやっとのことで座席をめいいっぱい後ろにスライドさせることができた。そして土屋は、体勢を立て直すと、浜田の操縦にならないようにもう一度コックピットに上体を差し込む。ベルトを外し、昇護の体を浮かそうとするが、体勢がキツイため力が入らない。昇護の足元にある下方確認用の窓からは中国海警船の甲板が見える。
-あいつら、まだ銃を持っていやがる。。。-
ここで、「うみばと」が海域を離れればこの緊張状態に対する防波堤は無くなる。離れるわけにはいかないのは土屋も重々に承知だったが、また撃たれたらと思うと、体中から冷や汗が滲み出すのを感じた。ましてや上体を昇護に覆いかぶせるような体勢になっている今、昇護と同じような角度で撃たれたら。。。
-俺も昇護も蜂の巣になっちまう。。。-
早く昇護をキャビンへ移して応急処置-と言っても止血程度しかできないが-をしなければ、昇護が死んでしまう。必死になるがどうしても力が入らない。かといって2人で作業できるスペースはない。
-もう一回頑張ってみてダメだったら別の方法を考えよう-
再度土屋が、力の限りを尽くして昇護を動かした時、土屋は、ハッとして慌てて昇護から手を離す。土屋は自分が力を入れるたびに、それに呼応するかのように出血量が多くなるのにやっと気付いたのだった。
-俺は、何てことをしたんだ。馬鹿っ。何で今まで気付かなかったんだ-
土屋は自分を罵ると、唇を強く噛みしめた。
-もう無理だ。早く着陸して昇護をここから降ろさないと-
「浜田っ、無理だ。昇護を動かせないっ、早くどこかへ降りる算段をつけてくれ。」
土屋の声は、殆ど叫び声になっていた。
「了解っ、早く降りないとな!この体勢だと完全な止血は無理だろうが、出来る範囲でやってくれ!」
浜田は土屋の方を振り返ると、先ほどの焦りとは裏腹に優しくそれでいて力強い口調で土屋に言った。
「了解っ」
土屋はその言葉に勇気づけられるような気がした。たいして歳は違わないが、やっぱり機長は違うな。と、こんな時に妙に納得するほどの余裕が蘇ってきた。
浜田の言葉に、この異常時に機内がいつもの雰囲気に戻ったかのように一瞬で活気づいた。
その様子を確かめるように、浜田は、クルー1人ひとりと目を交わすと、最後に目を閉じたままの昇護を見つめると、きつく唇を結んで下方の中国海警船の甲板の人々を睨みつける。
そして視線を前方へ戻すと。
「PL「はてるま」こちらはMH「うみばと」副操縦士を操縦席からキャビンへ移すことは出血を増すため不可能。着座のまま応急処置を実施中のため確実な効果は見込めず。早急に着船の許可を求む。」
浜田は無線機のマイクに吹き込んだ。自分でも冷静な声に驚いた。
-やればできるじゃん。俺。-
昇護が死と直面しているという緊張をほぐすために、自らを心の中で茶化す。
「MH「うみばと」、こちらPL「はてるま」。現在本船は、中国漁船から離れられず、本船への着船は不可能。状況は了解した。着船させることを最優先にあらゆる手段を講じる。再度銃撃の危険あるため、別命あるまで船団から0.5海里(約1km)離れて監視を続行せよ」
-ん~。どうする気だろう。あの兼子船長の船だ。きっと何とかしてくれる。-
浜田は、とにかく銃撃の危険を避けられるだけでも今は助かる。兼子の計らいに感謝の笑みが浮かぶ。
「MH「うみばと」了解。連絡を待つ。」
浜田は無線に吹き込むと、サイクリックレバーをゆっくり右に倒し、右のペダルを少し踏んで「うみばと」を緩やかに右旋回させた。眼下の船団がみるみる小さくなる。
浜田はまるで会話のようにキャビンで安堵の溜息が交わされる息遣いを感じた。自分も大きく息を吐いた。肩の力が抜ける感触が心地よい。
「おいっ、まずはこれで手を拭いた方がいいな」
同じくキャビンにいた機上通信員の磯原がアルコール消毒を含ませたガーゼを土屋に差し出した。
「おっ、サンキュー」
土屋は受け取って手を拭い始めた。昇護を救おうと必死だったあまり、手が血で濡れていることに気付かなかった。当然飛行服の袖も血に染まっていた。すぐにガーゼは昇護の血で真っ赤になった。
磯原は、新しいガーゼを土屋に差し出すと、真っ赤なガーゼを土屋から受け取りポリ袋に捨てた。
磯原は再び血の染みついたガーゼを受け取り、ポリ袋へ捨てると
「ほいっ」
と言って磯原が包帯を差し出した。
土屋は、礼を言うと、包帯を受け取った。その包帯は、昇護の太股に巻くのに丁度よい長さで切られていた。
「さすが、いい感じに切ってくれたな。出来る男は違うぜ。」
土屋は再び上体をコックピットに入り込ませると、昇護の左太ももに少しずつ包帯を巻き始めた。続いて新たな包帯を受け取り腹にも包帯を巻いた。
「浜田、処置完了。だが、気休めもいいとこだ。」
土屋は言葉には出さなかったが、「早く降ろせ」という思いを込めて浜田に報告した。
「了解。あとは早く降りられるように祈ろう。」
もはや浜田達は、兼子を信じるしかなかった。。。
「弱りましたな~。」
海上保安庁巡視船「はてるま」の船橋で、船長の兼子と、この船を飛び立ったヘリコプター「うみばと」とのやりとりを傍らで聞いていた副長の岡野が溜息を吐くように弱々しく言葉を発した。
その言葉を掻き消すように各船のスピーカーが中国漁船に警告文を流している。巡視船隊は中国漁船が魚釣島に接近しないように右へ、左へと頻繁に針路を変えてその針路を変えさせようとしている。しかし一向に中国漁船は諦めようとせず、巡視船の隙を突くように執拗に針路変更を繰り返していた。
「とにかく、あの漁船団を追い払うまでは我々はこの場を離れられないし、この状態では「うみばと」を着船させることも困難だ。。。操縦席に座らせたままでは、ろくな応急処置もでいないだろう。止血すら完全でない筈だ。あの青年を死なす訳にはいかんっ!早く降ろしてやらないと。。。レーダーを見せてくれ。」
兼子の脳裏に屈託のない昇護の笑顔が映る。そして、その父親である護衛艦「いそゆき」艦長とこの海での助け合ってきた様々な出来事が心の中に響き渡る。
-ん、「いそゆき」か。。。何とかなるかもしれん-
兼子はレーダー卓に立つと。岡野を手招きした。
「当然石垣島までは行けない。巡視船「ざおう」は北東約150海里(約278km)遠すぎる。2時間近くはかかる。無理だな。やはり、頼むしかないだろう護衛艦「いそゆき」に。。。東に50海里(約93km)こいつが一番近い。ヘリなら30分も掛らん。しかも護衛艦は足が速い。あの速力でこっちに近付いてもらえば、もっと時間は短縮できる。」
兼子はレーダーの画面を指差しながら岡野に同意を求める。
「海自にこれ以上近付かれたら危険じゃないですか?中国が黙っていないんじゃないですかね。」
岡野は、若干顔を傾け、右手で顎をさすりながら慎重に答える。最近副長としてサマになってきた岡野の考えている時の仕草だ。
「いや、「うみばと」がメーデーをコールしたよな?これは国籍・所属を問わない周辺への救助要請だ。これを受信したといって行動してもらえば国際法で認められた救難活動になる。いくら中国だって手出しは出来ない筈だ。これなら大丈夫だろ?あの艦長だってやってくれる筈だ。
浜田君。あ、あの機長だが、こんな近くに我々がいながらメーデーを発信するなんてなかなか機転が利く奴だよ。」
-この案を飲まなかったら、人が死ぬぞ!-
穏やかに諭すような口調で兼子は岡野に説明したが、目は岡野を射るように厳しかった。
「ん~。なるほど。そいう手があったんですね。海自さえ同意してくれれば。。。同意してくれますかね~」
なおも岡野は疑問を持っているようだが、待ったなしだ。
「それを気にしていたら何も出来ないさ。一刻を争う事態だ。背に腹は代えられない。やってみよう」
兼子は岡野を畳みこんだ。岡野への多少の失望の色を表情の陰に滲ませながら。。。
-まだ甘いな。疑問に思っている猶予さえないんだよ。同意してくれるに決まってる。「いそゆき」と俺達「はてるま」は今までだって上手くやってきた。しかも負傷者は「いそゆき」艦長の息子だ。結果はどうあれ、関わらせてやりたい。。。俺だって同じぐらいの歳の息子がいるんだ。きっと無線のマイクを手に自分からは手を出せないもどかしさに苦しんでいるに違いない。俺には痛いほど分かる。-
通信士に海自との共用周波数を設定させると。兼子は淡々とマイクに向かって言葉を連ねた。あの艦長を動揺させてはいけない。。。
「尖閣諸島付近を航行中の海上自衛隊護衛艦「いそゆき」へ、こちらは海上保安庁第11海上管区保安部所属巡視船「はてるま」船長の兼子です。現在魚釣島領海を侵犯中の中国漁船に対して阻止行動を実施中。本船から同海域で行動中のヘリコプター「うみばとが」何者かによる銃撃を受けた模様。副操縦士が負傷。上空では応急処置が施せない状況です。」
「何者かによる銃撃」という言葉を自らの声で発した時、込み上げてくる怒りに声が震えているような気がした。
-絶対中国海警が撃ったに決まってる。野蛮な奴らめっ-
動揺しているのは俺の方かもしれないな。兼子はマイクのスイッチから手を離すと。苦笑も出来ずに顔を歪ませた
海上自衛隊護衛艦「いそゆき」のCICでは、2時間ほど前から艦長の倉田が、海上保安庁の交信をモニターしながら、時々レーダー画面を覗き見していた。途中で昼食を採りに行き、30分ほど前にCICに戻ったところで、海上保安庁の交信が逼迫し始めていた。そして間もなく「メーデー」を3回繰り返す救難信号を受信した。その時の血の気が引くと同時に手出しが出来ないことに噴き出す憤りに自分でも一瞬制御が効かない精神状態に陥った。こんな気持ちになったのは初めてだった。対艦ミサイルハープーンに発射準備を掛けたい気持ちを何とか抑え、総員即時待機の命令に留めることができた。その救難信号に応じた巡視船「はてるま」とヘリコプター「うみばと」に周波数を専有させることが国際法で認められているため、救助要請を受けるまで「いそゆき」は割り込むことができない。
そもそも、自衛隊の護衛艦。当然呼び方をどう変えようが他国にとっては軍艦である「いそゆき」が、尖閣諸島の領海近くまで進出すること自体が「中国を刺激する」ことになるという政治家の一方的な配慮で禁止されている。このため「いそゆき」は付かず離れずの「間合い」をとって日常の警戒をしているのだった。特別の事情が無い限りこれ以上近づけない。。。だいぶ気持ちが落ち着いたが、こちらから手が出せない憤りだけは消すことができなかった。右手にマイクを持ったまま息子の昇護が乗る「うみばと」の通信に全神経を集中させている。額の汗を何度目か拭った時、巡視船「はてるま」からの通信が入った。
よしっ!渡りに船とはこのことだ。倉田は思わず左手の拳を握って振り下ろし、即座に無線のスイッチを入れた。
「海上自衛隊護衛艦「いそゆき」艦長の倉田です。救難信号は本船でも受信してます。無線も傍受させてもらっており、準備は出来ています。本船は、貴船の東方50海里(約93km)。救助を要請しますか?」
いてもたっても居られない倉田は、即核心に迫った。
「こちら巡視船「はてるま」御配慮感謝します。救助を要請します。本庁にも連絡済みです。中国漁船の阻止のため我々は身動きができません。貴艦には、飛行甲板に「うみどり」を着艦させ、負傷者を収容して頂けないでしょうか?負傷者の止血が完全に出来ていない状態ですので、一刻を争います。こちらに向かって移動し、距離を縮めて頂けませんか?」
-そうか、救助という名目ならあの海域に遠慮なく入れる。さすがですね兼子船長-
倉田は、口元を緩める。
「了解、全速力で向かい収容する。こちらには、簡易だが手術室もある。安心されたし。「うみどりと」の通信はこちらで引き継いでよろしいか?」
指揮系統が複雑になることは、即ち間違いの元となる。もはや1秒たりとも無駄にできない。その認識がお互い合っていればいいが、、、倉田の表情に不安の影が横切る。
「。。。必要事項を伝達したのち、そちらへ引き継ぐ。よろしく頼みます。」
何か揉めるような言葉が最初聞こえたが、良かった。同じ考えだ。倉田に顔に安堵の色が浮かんだ。
「老婆心ながら確認だが、中国海警の船舶はいまだ我が国の漁船を妨害して領海侵犯中ですか?」
倉田は「妨害」という単語の語気を強めた。
「その通りです。残念ながら彼らを放置せざるを得ません。「うみばと」乗員の生命を優先します。」
兼子の回答は、苦虫を噛み潰したかのように歯切れが悪いものだった。
-放置する訳にはいかんだろう。。。そこまでして息子の命を守ってくれるとは。。。丁度那覇からP-3CのTIDA03が来ている。「うみばと」の代わりに上空で警戒させよう。。。-
倉田は、口元に笑みを浮かべると、
「了解。「うみばと」の飛行支援のためP-3Cを救助に向かわせるがどうか?」
無線を傍受されると上げ足を取られるおそれがあるため、倉田は「救助」という言葉を強調した。兼子も無線に配慮してくれればいいが。。。
「。。。了解!P-3Cにも救助を要請します。」
先ほどまでとは打って変わった兼子船長の明るい声がスピーカーから流れる。倉田と同じく「救助」という単語を強調しながら。。。笑い声すら聞こえてきそうな声だった。
今、倉田の息子である昇護の「命」というバトンを繋ぐリレーが始まろうとしていた。領土拡大の野心に燃える中国の牙の隙間を縫うように繋げなければならない命のリレー。それが今、海上保安庁と海上自衛隊という組織の枠を超えることで動き出したのだ。
静かにマイクを戻した倉田は、自分の胸が熱くなるのを感じた。
「昇護、頑張れよ。みんながお前の命を救うために思いを一つにして最善を尽くしている。頑張れよ
。。。」
倉田は、強く念じた。握った拳に汗が滲んでくるのを感じながら。。。




