終戦記念日
23.終戦記念日
古川は、一眼レフデジカメ一式を納めたカメラバッグを右手に持ち、この日のためにレンタルした衛星携帯電話、メモ帳、そして昨夜電池を新しくした文書入力に最適なモバイルギアなど取材道具一式を詰め込んだリュックを左の肩に背負い、海に近いホテルの入り口に立っていた。少しずつ白んできた空に名残惜しそうに輝きを弱めていく無数の星達が今日も快晴になることを教えてくれる。
「暑くなりそうだな」
と古川が呟き視線を水平線に戻すと、間もなく左手の道路の方から軽快だが賑やかなエンジン音が近づいてきた。音の方へ目を向けると一台の白い軽自動車がヘッドライトを点けて近づいてきた。スズキの古いジムニーだった。軽自動車ながら本格的な4WD性能と頑丈な構造のジムニーは、その体格に似合わない大きなタイヤも相まって「どこでも走れる頼もしい小人」的な存在感を放っていた。そして古いジムニーの持つ今時珍しい四角張ったデザインが、古臭さと愛らしさ、そして斬新さを醸し出していた。
車は古川の脇で止まると、カリカリカリ、とサイドブレーキが掛かる音がした後、運転席の田原が全開になった窓から顔を出し会釈をした。田原は、海上自衛隊の現役時代に河田の副官を勤めていた男で、今は交渉全般を受け持っているらしい。古川の取材の窓口となっているのも田原だった。
田原は素早くドアを開けて運転席から降りると、
「古川さんお久しぶりです。遠いところ朝早くからありがとうございます。さ、まもなく出港ですので参りましょう。荷物をお預かりします。」
と言いながら、自然な仕草で古川の左肩に下がったリュックをすくう様に取り、右手からカメラバッグを受け取った。いつもは冷静な田原だが、今朝はどことなく気忙しい雰囲気を放っている。
「お久しぶりです。よろしくお願いします。」
そんな田原の雰囲気に自然と古川も挨拶を簡単に済ませた。
田原は、そのまま車の後ろへ回り横開きのリアドアを開けると、古川の荷物を静かに置いて、リアドアを閉める。運転席や助手席の倍近くの重さがあると思われるリアドアが大袈裟な音を立てて閉まった。ジムニーは3ドア車で室内は狭い。大きな荷物はリアドアから放り込む方が手っ取り早いのだった。既に助手席に座っていた古川は、背後からの大きな音に一瞬びくっと肩をすくめたが、目を閉じたが田原がリアドアを閉めた音だとすぐに気付いて、田原が運転席に戻った時には平静を取り戻していた。
田原は運転席のドアを閉めると
「では、行きます。」
と、古川の方を向いてそれだけ言うと、正面を見据えて、クラッチを踏みギアを1速に入れて一気に走り出した。回転数が急激に上がりすぐに吹け上がる。田原はそれに合わせてすぐにギアを2速に変えた。過酷なオフロードや登り坂を想定した設計のジムニーは、ギア比が低く設定されており、普通の道路なら2速発進でもスムーズなほどであった。これは、ジープなどの本格志向の4輪駆動車ならば同じことで、戦地での取材で散々ジープ型の4輪駆動車に乗ってきた古川の目には、田原のシフトワークがこの手の車に慣れていないことの表れとして映った。2人の乗ったジムニーは、田原の慌しいシフトワークの度に、ヒューンというターボ車特有のタービン音を小気味良く立てながら港への道を下って行った。
日の出を迎えた後の南洋の陽光は、みるみる強さを増していった。離船から1時間30分が経過した「うみばと」のコックピットの窓越しに差し込む日差しも例外ではなく容赦なく上昇する室温をエアコンが懸命に調節している。室温は適度に保たれているが、温度を伴わない強いだけの日差しが逆に心地よく昇護たちに降り注ぐ。まるで冬の温室のような心地よさだった。昇護は、出そうになる欠伸を口を開かないように飲み込む。押し殺す。というのはまさにこのことか。と独り納得しながら浜田と、自分自身の眠気を誤魔化す。これで、3度目だった。さすがに辛い。
昇護は、胸のポケットをまさぐり、眠気覚ましのガムを取り出した。まだ早いとは思ったが、限界だった。一粒を口に入れ、もう一粒を浜田に渡した。操縦桿を握る浜田は
「サンキュー」
というと手馴れた手つきで素早く口に放り込んだ。
食べ応えの面では、板ガムの方が昇護は好きだったが、長時間持ち歩くため、体温のためかミントの強さが損なわれてしまう。しかし、コーティングされている粒ガムであればその心配はなかった。眠気覚ましには、噛んでいることだけでなく、ミントの爽快感が重要なのだ。
昇護が背後を振り返って。
「どうぞ。」
とキャビンにいる機上通信員の磯原に残りの全てのガムを渡した。
磯原は
「どうも」
というと、一粒取って機上整備員の土屋に渡した。
土屋は、今回のミッションのために同乗してくれた整備班の村田徹と高田健に1粒づつ渡すと、自分もゆっくりと口に1粒入れた。
コーティングを噛むと、口の中にミントの爽快感が一気に広まった。
「うみばと」の機内の人間にガムが行き渡った頃、これまでGPSを元に航路を浜田に伝えていた機上通信員磯原が安堵の声を挙げた「「はてるま」からのビーコン(誘導電波)をキャッチしました。ヘッディング240(真北を0度として時計回りに240度の方向)GPSの方位とも一致。ビーコンの周波数は110.2MHz」
それを聞いた浜田は前方を見つめたまま
「了解。」
とこちらも安堵の声で答え、親指を突き出しキャビンに合図を送る。
そのやり取りを聞いていた昇護は、
「110.2MHzっと。」
と呟きながら、中央のパネルにある航法装置に周波数を打ち込む。前面の計器盤のうち、E、W、S、Nと数字の刻まれた大きな円形の計器の直径程度の長さで横切る長い針が動き出す。すると、中央の短い針が置いていかれたような格好となり、長い針と短い針が離れていった。その様子を見届けた昇護は、
「セットコンプリーテッド(設定完了)」
と浜田に伝えた。
浜田は、親指を立てて了解の合図を昇護に送ると、
「ターンレフト ヘッディング240」
とクルー皆に聞こえるように比較的大きな声で宣言すると、飛行機の操縦桿に似たサイクリックレバーを左に倒して機体を左に傾けながら左のペダルで機体の向き調整しながら浅い左旋回を開始した。
旋回が始まる。先ほどの航法計器の長針と短針がほぼ同一直線上に重なった所で浜田はサイクリックレバーを元に戻した。ペダルで微調整をして、「うみばと」を直進状態にした。コンパスも240度を指して微動だにしなくなった。
「磯原、「はてるま」までの距離は?」
浜田が聞いた。
磯原は念のため再度GPSを確認すると、
「あと100海里です。」
と答えた。
「そうすると、あと1時間ぐらいだな。」
浜田は、呟くと
「あと1時間程度で巡視船「はてるま」に到着だ。燃料を補給したら、たっぷりと海保嫌いの元提督を追い回してやろうぜ。」
度重なる河田の海保批判は、現場で矢面に立たされている海保職員には野次以外の何者でもなかった。彼らは、その全ては、いや9割程度は海自すなわち当の河田が身を捧げた海上自衛隊にこそ向けられるべきものだと考えていた。だからこそ、彼らは考えれば考えるほど海自をもっと前面に押し出せない日本政府の弱腰外交に陰ながらではあるが失望していた。
だが、「うみばと」のクルーは、滅多にこの話題を口にしないで過ごしてきた。なぜなら昇護の父親が同じ海域で歯痒い想いをしているであろう海自護衛艦の艦長を務めているのを知っていたからだった。
古川は、河田のマグロ漁船船団の中心に陣取る「やまと」の前部甲板で照りつける朝日の眩しさに目を細めながら、周囲のマグロ漁船を眺めた。左右に「やまと」を挟むように進む「漁船にはそれぞれ船首側面にひらがなで船名が毛筆調で書き込まれている。「やまと」の左側はを進むのは「やはぎ」、右側を進むのは「ゆきかぜ」と読みとることが出来た。そして前方には「ふゆづき」と船尾に記入されたマグロ漁船が見える。そして「やまと」の真後ろにもまぐろ漁船が一隻見えた。船名は見えないが岸壁の最後尾に係留されていた「いそかぜ」であろう。上空から見れば、「やまと」を中心にした大きな十文字に見えるに違いない。
-まるで、終戦直前の大和沖縄特攻だな-
古川は、進行方向の水平線に目を据えながら心の中で呟いた。今日は8月15日、終戦記念日だ。河田は何を想いこの日を選んだのだろうか。同じ日本人としてふつふつと苛立ちが沸き出してくるのを感じた。
大和沖縄特攻は、太平洋戦争末期に連合軍の沖縄侵攻を阻止するために1945年4月から始まった特攻を主体とする菊水作戦作戦に呼応して行われた天一号作戦のことで、大和を旗艦とした第二艦隊を沖縄に出撃させることで、アメリカ軍の航空攻撃を第二艦隊に向けさせる。当然アメリカ軍の攻撃隊は護衛の戦闘機を伴う筈なので、九州各地から沖縄を目指す特攻機へのアメリカ軍戦闘機による迎撃は手薄になるということを期待した作戦であった。さらに、第二艦隊は沖縄に到達したならば大和は浮き砲台となり、第二艦隊の乗組員は陸上兵力となって戦うという、いわば艦隊を航空特攻の囮とした作戦。特攻のための特攻。となったのである。第二艦隊は燃料を片道とされていた。実際には各艦長の抗議により、そうはならず、ただでさえ不足していた燃料がかき集められた。そう、日本は艦隊を動かす油さえままならない状況だったのだ。
沖縄へ向かった艦艇は、戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦は冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、霞、初霜からなる第二艦隊であった。現代を含めても空母を除けば世界一巨大な戦闘艦である戦艦大和を擁してはいるが、蓋を開ければ軽巡洋艦1隻の他は全て駆逐艦という主力艦隊とはとても言えないような陣容であったが、実質これが最後の艦隊行動となった。この帰還を期待されない特攻作戦が。。。
飛行機の護衛がなく、上空ががら空きの第二艦隊は、案の定アメリカ軍機の猛攻撃にさらされ、遂に沖縄に辿り着くことはなかった。帰還出来たのは駆逐艦冬月、涼月、雪風、初霜のわずか4隻だった。大和だけでも2740名もの戦死者を出した悲劇の海戦だった。
この悲惨極まりない戦いの中で雪風1隻のみが無傷だったことはマニアや軍艦に興味を持った少年たち(あるいは少年だった大人たち)の間では有名な話だった。駆逐艦雪風は、真珠湾攻撃から大和特攻まで幾多の主要な作戦に参加して戦果を上げたものの無傷で終戦を迎えたことから「奇跡の駆逐艦」とも呼ばれている。雪風は戦後、戦時賠償艦として連合国に引き渡される対象となり、中華民国(台湾)海軍に引き渡され「丹陽」という艦名となった。雪風は中華民国(台湾)海軍艦隊の旗艦となり中国相手に幾多の戦いに参加し、余生と言うには程遠い大活躍をした。その後雪風は老朽化のため1966年に訓練艦となったが、1969年夏に暴風雨で艦艇を破損し、1971年に解体処分となった。
「悲壮感たっぷりだな。」
古川の口から溜息と共に小さく出た言葉は、呆れているような、皮肉めいているような、いずれにしても肯定的な言葉には聞こえない口調だった。
「古川さん」
不意に声を掛けられた古川は、驚いて背中をビクンと震わせると声の方向を振り向いた。
-聞かれたか-
平静を装った目を向けて、
「何でしょう?」
と返事をした。年齢は40代前半だろう船乗りにしては色が白い。何という名前だったか?古川は思い出せなかった。確か、いつもノートパソコンをいじっている人だ。自衛隊を任期満了や、道半ばで退職したいかにも軍人然とした無骨な人間や、定年で退官したシニアが多い河田「艦隊」の要員の中で、異彩を放つ存在であることは確かだ。
「河田長・、もとい、河田さんがお呼びです。艦橋もとい船橋へお越しください。」
船橋を背後にしたその男は手にしていたタブレット端末を小脇に抱えると体をひねって背後の船橋の方を手で示した。
「分かりました。ありがとうございます。「艦橋」でも私には通じますよ。やはり、その呼び方のほうがしっくりきますか?」
古川は、笑顔を作ると男に言った。
男は、
「恥ずかしながら娑婆っ気が抜けなくてすみません。あ、私の場合は、その逆ですね。」
男も笑顔で答えた。
大丈夫、さっきの俺のひと言は聞かれていないようだ。古川は心の中に余裕ができると、ふと男が小脇に抱えているタブレット端末が気になりだした。取材道具にかこつけて様々なモバイル機器を使ってきた古川は、世間で言うところのデジタルガジェットマニアだった。今、古川が興味を引かれているのは、タブレット端末だった。ここ1ヶ月の間、暇さえあればネットで仕様を確認し、実際に電気店を巡って実物のタブレット端末を手に取って何を新しい相棒にするか検討してきた。この検討をしているときが古川にとっていちばんの醍醐味だった。一般人にとってはどれも「持ち運べる四角い画面」程度の認識で、どれも同じに見える特徴のないデザインも、古川の目で見ればそれぞれに特徴のあるデザインに見えた。この1ヶ月で古川は、ひと目でどこのメーカーの何という端末か区別がつくようになっていた。勿論、仕様もすっかり頭の中に入っている。
古川は、その男が小脇に抱えているタブレット端末が、日本製のSuccess7だということを目ざとく確認すると、
「あ、それってSuccess7ですよね?みんな同じのを持ってるんですか?」
古川は、男に尋ねた。
「よく御存知ですね。そうですね。全員が持っている訳ではありませんが、タブレットは全てSuccess7で統一しています。丈夫だしバッテリーも長持ちしますからね。」
男は、まるで自分が褒められているかのように照れ笑いを浮かべながら答えた。
多分、この男が河田艦隊のOA関係全般を取り仕切っているのだろう。Success7もきっとこの男が選んだんだろうな。と、古川は勝手に当たりをつけた。この男とはデジタルガジェットで話が合いそうだなと思ったが、話は後だ。河田が俺を呼んでいる。古川は、そう自分に言い聞かせると、
「では、艦橋へ行ってきます。」
と、男に言うと、艦橋へ向かい、足元に気を付けながら歩き出した。
艦橋の脇に剥き出しになっているハシゴのような急で狭い階段を上がって行くと、艦橋(正確には軍艦ではないから船橋だが、、、)の更に上から、古川を呼ぶ河田の声がした。古川が返事をして上を見ると船橋の上の屋上のように屋根のないデッキから河田が古川を見下して
「こっちです。上がってきて貰えますか?狭いから気を付けて」
と古川に声を掛けた。
「ここがいちばん眺めの良い場所です。ここで撮影してみてはいかがですか?」
今回は、終戦記念日ということもあり、何が起こるか分からないという理由で、古川は、撮影場所を制限されていた。河田の声は丁寧だったが、実質「ここで撮れ」という命令と同じだった。
古川は頷くと、
「ありがとうございます。」
と声を張り上げ、リュック一度降ろすとカメラバックをたすき掛けに担ぎなおして、再びリュックを背負った。軽く溜息をついてデッキに登る細いハシゴに手を掛ける。高い場所が苦手な古川は、下を見ないように細心の注意を払って登った。
登り切って周囲を見渡すと、確かに景色は広くマグロ延縄漁船団、河田のいうところの艦隊が一望できた。
「確かに、いい場所ですね。ありがとうございます。」
古川は、改めて河田に礼を言うとリュックとカメラバッグを床に置いた。カメラを取り出すと、ファインダーを覗いて設定を確認した。案の定夏の強い日差しとそれを負けじと照り返す海面の反射光とで、露出がかなり高かった。
-今日は飛行機やヘリが出てくるかもしれない、望遠も必要だろうし、船の揺れも考えると、ブレを抑えるためにシャッター速度は速い方がいいな。-
古川はそう判断すると、シャッター速度を1/8000秒にセットした。ヘリのローターも飛行機のプロペラも全てが止まって見える写真になってしまうが失敗は避けたい。その都度調節すればいいだろう。取り出した2台の一眼レフデジタルカメラは、一方に800mmの望遠レンズを取り付け、もう一方には35mm~105mmのズーム式レンズを取り付けていた。古川は、それぞれのカメラの設定と動作確認を終えると、35mm~105mmのズーム式レンズのカメラを最大に広角にして視野を広くした写真を1枚撮った。白い漁船が輝く群青の海に映える。さらに、ちょっといいですか?と河田に言ってカメラを向けた。視野を広く取った海をバックに右端から1/3を自然に構えた河田の上半身が写る。すらっとした体型に豊かな白髪頭に紺色のキャップがアクセントになる。自然な笑みには、優しくもこれまで積み上げてきた酸いも甘いも様々な出来事に揉まれ、そして切り抜けて来たことを年輪のように感じさせる老練な紳士の姿だった。
「ありがとうございます。」
カメラを降ろすと、古川は河田に礼を言うとそのまま質問に移った。
「ところで、今回は、なぜ8月15日、つまり終戦記念日に行動を起こしたのですか?」
河田は、笑みを消すと、真っ直ぐに古川の目を見つめてゆっくりと語り始めた。
「確かにそこが重要なのです。あの太平洋戦争は総力戦でした。軍人も民間人も共になって闘い、そして共に多くの犠牲者を出しました。なぜでしょうか?領土がなくなる即ち国がなくなるということは、生活が出来なくなるということ。つまり国がなくなることは日本民族が滅びるということを意味していました。当時は欧米白色人種にそのほとんどを植民地とされたアジアを目の当たりにしてきた日本人にとって、それは他人事ではなかったわけです。日本人は黄色人種として、格下に見られていたのですから尚更です。アメリカを始め欧米各国との国力の差を知りながら日本が自ら太平洋戦争に突入してしまったのは何故か?アメリカ、イギリス、中国、オランダからなるいわゆるABCD包囲陣によって圧力を掛けられ、領土を縮小することを要求され、資源の禁輸措置までとられ、このままでは日本人は生活できないという一線まで追いつめられたからです。ここで領土の縮小を認めてしまったらどうなるか?日本は、未来永劫、欧米の言いなり、彼らは再び同じことを要求してくるに違いないという危機感を共有していた。
太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)9月6日の天皇陛下を前にした御前会議において永野修身海軍軍司令部総長永野修身海軍軍司令部総長が言った、
「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」
という言葉は御存知かもしれませんが、私は、これが太平洋戦争に日本が突入した本当の理由だと考えています。確かに財閥の戦争、侵略戦争という意見もありますが、欧米こそ躍起になってアジアを侵略していたのだと私は言いたい。そもそも日本は勝てると思っていなかった、大前提として欧米による「日本潰し」に黙って潰されることなく、子孫の再起を願って立ち上がった。欧米の言いなりになって植民地同然、格下の民族として未来永劫欧米人に蔑まれるのであれば、ここで多くの命を失って戦争に負けたとしても、将来、日本人という民族が欧米人と対等に付き合えるように未来の我々へ日本を託したのだ。と思えてならないのです。」
ここまで話をすると、河田は一旦言葉を止めた。話の途中から古川はメモを取り出し、頷いたり相槌をうちながら要所要所をメモに取っていた。その手を止めると、すかさず古川は気になっていたことを尋ねた
「なるほど、私も侵略戦争という戦後の言葉には若干違和感を感じていました。その思いから河田さんの船団は、船の名前を大和沖縄特攻の艦隊にちなんだ名前にしているのですか?」
古川の問いに一瞬悪戯をしたのに逆に大人に褒められた少年のように得意気な笑みを見せた河田はすぐにきりっと唇を結ぶと、話を続けた。
「あ、やはりお気付きでしたか。ちょっと恥ずかしい気もしていたのですが、部下とも話し合って各船に名前を付けました。大戦末期に行われた艦隊特攻という常軌を逸した作戦に掛けられた兵士の想いを現代に代弁したい。我々の行動手段は船ですから、当然大和沖縄特攻を取り上げていますが、艦隊特攻だけでなく、航空特攻、洋上特攻で散って行った多くの日本人を代弁して活動したいという想いですね。彼らは本当に「天皇陛下万歳」を最後の言葉に突入したのでしょうか?私はそうは思いません。彼らの遺書を多数目にしましたが、彼らの多くは、自分たちの家族を第一に想っていたのだと私は思いました。自分が死ぬことでアメリカ軍に損害を与え、1日でも家族が生き永らえることができるなら、という心で。。。何という自己犠牲の精神なのでしょうか。当時の日本は、都市という都市は民間人をも目標にしたいわゆる「無差別爆撃」が行われ、多くの民間人が犠牲になり、或いは家を失いました。少しでも子供たちを危険から遠ざけようと「学童疎開」が行われたのは今でも社会的に知られていると思いますが、なぜ学童疎開をしなければならなかったのかの背景が伝わっていないと思います。無差別爆撃は悪です。最終的には、原爆投下までエスカレートする無差別爆撃。本来ならば許されるはずがありません。明らかに民間人を狙った虐殺なのです。都市部への無差別爆撃だけではありません。彼らは戦闘機で農村さえも襲い、小学校に銃撃を掛け、挙句の果てには田んぼで遊ぶ子供たちにまで銃撃を掛けました。このように民間人が直接軍の攻撃目標となってしまったあの戦争末期の状況は、明らかに今までの戦争形態とは異なります。この状況を目の当たりにしていた若者の多くが特攻を志願し、あるいは半ば強制されつつも何のために散ったのか?を、もっと現代の日本人は考えるべきだと思うんです。家族を1日でもアメリカ軍の脅威から遠ざけるため、そして未来の日本人が欧米人に蔑まれることなく堂々とこの国を再起させてくれると信じて何千もの若い命を散らしていったに違いない。そして最も多くの若者が特攻で散っていったのがこの沖縄の海なんです。私は、この海で行動することで訴えたいんです。今、この沖縄の海で領土問題が起きている。これをきっかけに国民に目を覚ましてほしい。かつて彼らが命を賭して遺した日本という国をもっと大切にしてほしい。平和と繁栄は、タダでは維持できないということを、金と命と知恵を懸けて守るものだということを。。。座視していて維持できるものではない。まして領土は他国も領土として認めてくれないと領土にはなりえない。中国はそこに付け入ろうとしています。歴史を曲げ、それでも駄目だと思うと実効支配という名の既成事実を作ろうとしている。竹島や南沙諸島のようにしてはならないのです。その意味でも終戦記念日というこの日に2度目の行動を起こすことにしたんです。今回は前回のように易々と引き下がるつもりはありません。きっと中国の漁船団も出てくるのではないか、と私は考えています。今回は徹底的にやりますよ。」
河田の言葉は徐々に熱を帯び、最後には自然と胸の前に拳を作っていた。
古川は、深く頷き、同意と同情の眼を河田に向けると静かにメモを閉じた。自然と胸が熱くなるのを感じた。話の内容のためなのか、或いはこれが河田の人を引き込む話術なのか考えようとしたが、答えが分からないまま、古川はメモを仕舞った。内容も話術も俺の心を掴んだ。ただそれだけだ。警戒することはない。俺は公平に伝えるのが使命だ。それさえ忘れなければいいんだ。古川は、水平線を見つめ、あらためて自分に言い聞かせた。
沖縄の海はどこまでも碧く水平線まで霞もなく見渡せた。今日も何事もないかのように振舞っている美しいこの海には、かつて家族を想い、そして我々未来の日本人に日本を託し、その再興を信じて1人にたった1つしかない命を散らしていった多くの魂が眠っている。彼らの魂は、今何を想うのか?後悔だけはして欲しくないものだ。と古川は独り想いを巡らせた。




