日の出
22.日の出
古川悟は、アパート1階の集合ポストから大小入り乱れた郵便物抱えると、埃っぽく薄暗い階段を上がっていった。いつもの如く郵便物の束を崩さないように気を遣うことに苛立ちを覚えるが、今夜は、ちょっとでも落としたら全部捨ててしまいたい程気分がささくれ立っていた。お盆に入り、なお残暑が勢いを増す日中の取材活動の疲れがあるのにも関わらず、夜は雑誌の編集者との打合せ、そして飲み会、さらに2次会、3次会と、休む間もなく引きずりまわされ、もう12時を回ってしまっていた。明日は沖縄へ向けて出発するので早めに準備をして、体を休養させて万全の取材体制を取りたかったのに、こういうときに限ってどうでもいいが断りきれない用事が入ってしまう。フリーで仕事をする身の辛さって
今年最も集中したいネタは、元海上幕僚長の河田 勇率いる政治団体「目覚めよ日本」が尖閣諸島で繰り広げる活動の独占密着取材だった。再び河田の船団が尖閣へ向かうので古川は同行するために明日、石垣島へ向けて出発する予定だった。明日は午後出発なので、明日の午前中に再度準備しよう。明後日の明け方には尖閣へ出発だ。明日は殆ど眠れまい。だから今日は早く休んでおきたかったのに。面白くもない2次会、3次会に引き回されこの体たらくだ。大体なんなんだ今のホステスやキャバ嬢は、ろくに話題も出せないから会話にならない。客が楽しい話して場を盛り上げて、何で金払って気まで遣わなきゃならないんだ。みんな揃って顔とスタイルがイイのがせめてもの救いだ。昔、新聞社に勤めていた頃に先輩の権田とハシゴした頃が懐かしい。あの頃の方がまだマシだった。
乾いた舌打ちを数回打ちながら自分の部屋のドアにたどり着いた。鍵を開けるとベージュ色に厚塗りされた今時珍しい重い鉄製の扉を開く。明かりを点けて狭い廊下に足を踏み出した。その弾みで、抱えていた郵便物がバランスを崩して数枚の葉書と封筒が床に落ちた。
-ったく大事な取材の前に。。。くだらない飲み会で時間を無駄にしちまった。挙句にこれかい。
「あ~、ムカつく」
郵便物が崩れたことで、また後悔と苛立ちの無限ループが始まろうとしていた。古川が八つ当たりで床の郵便物を踏みつけようとしたが毒気を抜かれたように静かに足を別なところに置いた。そしていちばん上に見えていた葉書を手に取った。
切手の部分に風鈴が印刷された涼しげな葉書には宛名に「古川 悟 様」と線は細いが形の良い文字で書かれていた。3年前までは、毎日のように慣れ親しんできた文字だった。誰の文字だか見れば分かる。
裏返すと、残暑お見舞い申し上げます。と社交辞令が印刷されていたが余白には
-尖閣でのあなたの記事をよく拝見しています。益々の御活躍をお祈りしています。どうぞご無事で
と几帳面な文字が手書きで書かれ、文末に「田中 悦子」と小さく書かれていた。
「ったく、お前には祈る権利はねーっつーの。」
と独り言を呟いた。悦子は、古川の別れた妻だった。
俺は、今日は飲みすぎた。独り言が多いし、イライラしてる。古川は分かってはいたが何故か今夜はいちいち突っ込まずにはいられない。
「おれが無事だろうが死のうが、お前には関係ね~。まっ、い~か」
さらに独り言を口にすると、廊下に散らばった郵便物には目もくれずに、その葉書だけを持って廊下を抜けて仕事部屋に入る。
悦子は、離婚してからも、冬は年賀状、夏は暑中見舞いまたは残暑見舞いを毎回古川に送っていた。そして、毎回丁寧に手書きで宛先とコメントが書かれていた。最初は年賀状だった。コメントには
-あの人とは、すぐに別れました。もう一度話をさせてもらえませんか
と書かれていた。文字の線が細い分、文字が震えていることに古川は気付いた。どんな想いで悦子が書いてきたかは想像に難しくない。だが、敢えて古川は、無視した。以来、二度とそういった内容のコメントはなく、古川を気遣うようなコメントのみになったが、毎回欠かさず時期が来ると葉書を送ってくる。古川は1度も返事を書いたことはなかった。男の意地なのか、プライドを傷つけられた怒りなのか、古川は自分の気持ちが分からなかった。唯ひとつハッキリしていることは、返事もないのに毎回葉書を送ってくる悦子の気持ちが、理解できないということだった。
古川は、そんなことを考えながら仕事机の前まで来ると、机の引き出しを開けた。引き出しの中の同じような葉書の束の上に届いたばかりの葉書を載せた。葉書の束はすべて悦子から届いたものだった。
あ、それともうひとつ分からないことがあった。
-どうして俺は、悦子からの葉書をずっと捨てずに保管しているのだろうか。。。
古川は苦笑すると、さっきまでの苛立ちがスーッと引いていくのを感じた。酔いも程よく覚めてきたのかもしれない。
古川は同じ引き出しの中にある航空機のチケットを手に取り、何度目かになる確認をした。明日は、14時15分羽田発-石垣行きの日本トランスオーシャン航空73便に乗ることになっている。午後に出れば間に合う。明日の準備は、明日の午前中にやればいいか。とにかく今日は寝よう。尖閣の取材は大事な取材だ。酔って準備して間違えたら大変なことになるし、朝は早いし結構ハードだ。体も休めておかなければ。古川は自分に言い聞かせるとそそくさとシャワーを浴びた。
新聞業界大手の産業日報時代の先輩である権田が紹介してくれたこの仕事は、防衛担当だった古川の得意分野であり、好きな分野だった。もちろん権田を介して記事は産業日報が優先的に扱ってくれるから、食いっぱぐれはない。それにネタがネタだ。河田と共に名が売れることは間違いない。
ただし、きわどい一面もある。それは信念の問題との兼ね合いだった。河田からの依頼で独占密着取材についているからには、活動の広報的な役割も古川は期待されているのだろうから、最大限に役立つ存在で居続けなければ、他の者にお鉢を奪われるかもしれない。記者としての公平さを信念にしてきた古川は、それでもギリギリの線までは妥協しよう。と思っている。とは言っても1回目の取材早々にそのギリギリの線を越えそうなり、記事で叩くことにはお茶を濁した。それは、巡視船「はてるま」船長が退去を拒む河田を説得した際に用いた言葉だった。「領土よりも日本人の生命を優先する」と無線で結論付けた巡視船「はてるま」船長の言葉を記事にはした。しかし、その言葉を批判するような記事は書いていないが、その言葉はマスコミを賑わせ、社会を揺さぶった。なぜならそれは今まで日本人が天秤に掛けてこなかった。いや、掛けることを避けてきた言葉だったのだから。。。当然当事者だった船団の代表者である河田は、メディアから引っ張りだこになりその名が急速に広まった。名の広まりと共に全国各地から講演会の依頼が舞い込んだ。そういった公の場で河田は、その巡視船船長の言葉を「現場まで浸透した弱腰主義」と罵り、さらに内閣官房長官が定例記者会見の中で記者の質問に答える形で公式に巡視船船長を擁護したことで、河田は対決姿勢をとるような過激な発言をするようになった。これを受けてか国会でも党・派閥を超えて意見が二分され紛糾。遂には保守派の有志議員が河田を支援する議員団の設立を準備していることがここ最近の話題となっている。このような状況の中で自然と河田のスポークスマン的な立場となった古川もワイドショーに度々声が掛かるようになった。一度目の尖閣行きの後のこの世論の騒ぎに手ごたえを実感した河田は、自分と同じように巡視船船長の発言を取り上げて海上保安庁を非難するようことを遠まわしに伝えてきたが、古川は動じず、河田の機嫌を損ねぬようにのらりくらりとかわしてきた。それを受け入れ、共に海上保安庁を批判することは古川の記者としての信念を崩してしまう。そう考えたのだった。長年防衛を担当してきた記者としての経験から、巡視船船長のその答えが決して間違えているわけではなく、そして、現場の声を代弁する切実な問題であることも承知していたからだった。
-今度は、どんな種を蒔き、何を刈り取るつもりなんだろう。-
リンスインシャンプーで洗った髪を熱いシャワーでゆっくり流す。心地よさの中で古川は考えた。
行くからには必ず何かを起こすはず。海上幕僚長にまでなった河田という男は先の先まで読んでいるに違いない。そしてその頭の中ではきっと何か大きな目的を持っているに違いない。俺ごときでは予測もつかない何か。古川は期待と不安をあらためて感じた。
翌日の夕方、古川は日本トランスオーシャン航空73便の機内で目を覚ました。今日は、お盆も中日と呼ばれる14日であったが、仕事の関係で帰省が遅れたのか、石垣へ向かう機内は満席であった。機内の通路を挟んで左右に座席が3列ずつ並ぶ横6列のシートの殆どは家族連れで占められ、賑やかな子供達の声で溢れていた。旅行慣れした古川ではあったが、子供の頃飛行機が好きだった古川は、窓際を好んだ。今回も窓際の席で外の景色を楽しんでいたが、空港で飲んだビールと昨日の疲れ、そして何よりも汚れた大気を通して浴びる地上での日差しとは比べ物にならない高空のシャープな陽の光が心地よく居眠りをしてしまったらしい。腕時計を確認すると16時30分を少し回ったところだった。到着予定の17時50分までは少し間があった。今日は天気が良く、眼下には横に規則正しく並んだ2隻の船の航跡が見えた。護衛艦だろうか、だとすると、佐世保所属の護衛艦だな。だとすると「はつゆき」型だな、前回行ったときは「いそゆき」が裏方で頑張っていたという噂だったから、きっと尖閣方面に向かっているんだろう。終戦記念日を前に増強するのだろうか?我々が尖閣へ行くという情報が漏れているわけではないはずだ。河田は今回の尖閣行きについても、前回同様口外しないようにという文言を添えて、この便のチケットを古川に送ってきたのだから。それとも現地に貼り付けている艦と交替なのかもしれない。ま、いずれにしても海自は、「最前線」には出てこないのだから我々には関係ないか。視界にすら入らないだろう。
古川は、視線を機内に戻す。機内の明るさに目が順応したのを見計らって足元に置いていたバッグからノートPCのような形をした「モバイルギア」を取り出して、テーブルに乗せた。スイッチを入れると「モバイルギア」のモノクロの画面が瞬時に息を吹き返して書き掛けの文章を表示した。最新のノートPCでも真似の出来ない芸当だ。これに対抗出来るのは電子メモ帳として一世を風靡した「ポメラ」ぐらいだな。古川は、長年使ってきた「モバイルギア」の調子に満足すると、黙々と文書を打ち始めた。
夕方の石垣島の新川漁港は、お盆ということもあり漁業関係者を殆ど見かけない。その反面釣り人がいつもより多かった。その殆どが親子連れであることからお盆で帰省した親子であろうことは一目瞭然だった。その埠頭の一画は「にわか釣り人」達が釣り糸を垂れようとすると
「船が出る準備をしているので、ここで釣りをしないで下さいね。」
とにこやかに「立ち入り禁止」を体現する中年の男に守られていた。その背後には100tクラスのマグロ延縄漁船5隻が所狭しと一列に係留されており、何名もの乗組員がトラックから黙々と荷物を船に運び込んでいた。
「あれが例のブツだな。」
河田は、夕方になり、高度が低くなっても厳しい日差しに目を細めながら2人の屈強な男達が横長の木箱を積み込む様子を見届けると、傍らの田原に尋ねた。
「そうです。「やまと」を除く全艦に載せてます。あれで積み込みは完了です。」
田原は、安心したように答えた。河田が率いるメンバーは、全て元自衛官で、その殆どが海上自衛官だった。彼らは自分たちの漁船を「船」ではなく「艦」と呼び、全ての漁船には旧日本海軍の軍艦の名前を与えていた。
「御苦労だった。古川さんには、予定通り私と「やまと」に乗って貰う。他の艦には絶対に近付けないように。記者というのは、両刃の剣のようなものだからな。ネタ次第でどちら側にでも付く。油断は禁物だぞ。」
河田は田原の方に顔を向けると細めていた目を開き、鋭い視線で一瞥した。
「了解しました。」
田原は深く頷いて見せた。
「ところで、その古川さんは、予定通りまだ石垣には着いてないよな。」
河田が、田原の目を覗き込むように見つめる。失敗は許さないぞ。と、厳しく念を押す目に田原は緊張を感じた。
「はい。こちらからチケットを送った便にこれから乗るところだと電話がありました。念のためそうなるように仕向けています。」
田原が答えた。田原は元自衛隊員が多く、主に自衛隊向けの雑誌を手掛けている出版社で編集者をしている元部下をけしかけて、田原が指定した便の前日に古川と打合せの予定を組ませた。打合せの後に飲み会を設定することを提案したのはその元部下だった。もちろん経費は田原持ちだ。
河田は、満足そうに頷くと
「仕向ける?なるほど裏工作というわけか、さすがだな田原君。もし、経費が掛かるのであれば遠慮なく言ってくれ。これからもその調子でよろしく頼む」
と、労いの言葉を掛けた。
田原は、部下を信頼し、任せた仕事は完全に委任して後からサポートしてくれる河田の仕事の仕方を昔から尊敬していた。世間では「権限委譲」と呼ばれ、組織の成長に有効とされるこの手法は、上位下達が美徳とされる自衛隊のような軍隊を基本とした組織では珍しいことだった。海上自衛隊を定年で退官し、親類の会社で経営幹部として働くことになった時、田原はビジネス書を読み漁りリーダーシップについて学んだ。その中でこの「権限委譲」という言葉を学んだ。その時、田原の脳裏に真っ先に浮かんだリーダー像が河田だった。こうして再び河田の下で仕事が出来る喜びを田原はあらためて噛みしめていた。
巡視船「ざおう」は、佐世保港を出港して2日目の夕方を迎え、陽が傾き暑さが次第に和らいできた洋上を尖閣諸島へ向けて航行していた。
美由紀とのことについて浜田からアドバイスを貰った後の昇護は、美由紀からのメールや電話を気にしないようにしようと心に決めたが、結局は出港した後も携帯電話が圏内の間は気になってしまい何度も着信を確認してしまった。
アンテナ表示が「圏外」から動かなくなったのを見届けると、昇護は、慈しむように両手で持った携帯電話の電源ボタンを溜息をつきながら長押しにして携帯電話の電源を切った。
ー結局、美由紀からは何の連絡も無かった。
昇護は、少しの間落胆していたが、浜田の言葉と、仲間からの昇護への期待と信頼の大切さを思い出し、職務に専念することにした。いや、何かに夢中にならないと踏ん切りがつかないことに自分でも気付いたからこそ、なおさら自分を奮い立たせれる使命が必要だと。。。昇護は思った。
日本国民の命を守る。遠く離れた美由紀には直接関係ないかもしれないが、日本国民の命を守ることが結果として国の平和と安全を守る。幸せだと感じている人も不幸だと感じている人も、そもそも国というものに興味のない人も含めて沢山の人々の生活を守ることになるのだ。それは、愛する美由紀と間接的には関係するのだ。たとえ美由紀と結ばれることが無かったとしても。。。それが俺の使命だ。
昇護はそう自分に言い聞かせた。昨日までとは違う自分、いや、これが本来の自分-海保を志した頃の自分の想い-なのだ。そうしたことで、
-最近の俺は何に気を揉んでいたのだろう。-
不思議とに客観的に考えることが出来るようになっていた。
通常の勤務を終え夕方の休憩時間に入って間もなく、航空隊員詰所のインターホンが鳴った。雑談をしていた昇護達は水を打ったように静かになると共に最年少の昇護がすぐに受話器を取った。
相手の声を聞いた昇護は急にかしこまり、ひと言ふた言受け答えをすると、昇護は送話口を手のひらで塞いで、相手に会話を聞かれないようにして機長の浜田の方を向く
「浜田さん、船長からです。なんかいつもと違う雰囲気です。何かしでかしたんですか?」
昇護の顔は笑っていなかった。
浜田は、えっ?という表情を浮かべると
「んな訳ねぇだろ。脅かすなよ。」
すぐに笑顔に切り替えて昇護から受話器を受け取る。
「お待たせしました。浜田です。」
周りのクルーの不安を払拭するかのように元気良く受話器に声を吹き込んだ。
「はい、えっ、そうなんですか。」
浜田の言動に注目していたクルーは、急に深刻そうに沈んだ浜田の声にお互い顔を見合わせあった。
「分かりました。すぐに伺います。失礼します。」
浜田は受話器を持ったまま軽く会釈をすると受話器を丁寧に戻した。
クルーの間にざわめきが起こったが、クルーの方を向き直った浜田の緊張した表情を目にして一瞬で静まり返った。浜田の緊張がクルーに伝播する。
「おい、みんな聞いてくれ。明朝出動することになった。今から船長室で打合せを行うのでみんな来てくれ。おい、昇護、チャート(航空地図)を持ってきてくれ。」
浜田は、キビキビとクルーに話すと大振りの手帳を手にとった。
「ハイっ」
クルーはキビキビと返事を返すと、思い思いに筆記用具や資料を手に、浜田に続いて船長室へ向かった。
船長室の扉をノックすると、中から、
「入れ」
と高めの良く通る声が聞こえてきた。
「失礼します。」
と口々に頭を下げながら浜田を先頭に船長室に並んで入った。
「おっ、来たな。急に呼び出してすまん。さ、掛けてくれ」
中肉中背の部類だが、がっちりした体形で部屋の中央に仁王立ちしているように見える巡視船「ざおう」船長の近藤道夫 三等海上保安監は、自分の執務机の前の白い布が掛けられた6人掛けのテーブルを昇護達に勧め、自分も中央に座った。
全員が着席すると、近藤は豊かな白髪に覆われた頭を右手で掻くと、左手に持っていた地図をテーブルに広げた。
「急遽集まって頂き、ありがとう。実は、先ほど石垣の海上保安部から連絡があった。例の漁船団、俗に言う「河田艦隊」が出港準備を進めているらしい。明日早朝に出港するのではないか、と向こうではみている。」
一同顔を見合わせる。で、どうしろというのだろう?といった半信半疑な表情だった。
「我々は、まだ尖閣まで約700kmもある。このままでは、君達の「うみばと」は間に合わない。そこで、明朝4時に「うみばと」を離船させ、ひと足先に尖閣へ向かってもらう。」
近藤は、そう言いながら現在の船の位置を地図上に赤いマーカーで記入すると、左手の太い人差し指で尖閣まで地図をなぞって見せた。
一瞬小さなどよめきが起こる。
「船長、燃料はどこで補給を行えばよろしいですか?我々の試算では、行動半径は134海里(約250km)と見ていますから、片道だと倍の268海里(約500km)なら問題ないのですが、」
浜田は、昇護から渡されたチャート(航空地図)を、近藤の地図の隣に並べると、コンパスを取り出すと足とペンの間隔を地図の縮尺で500kmに開くと尖閣諸島の魚釣島を中心とした円をチャートに描いた。
「事前に検討しているとはさすがだな。268海里(約500km)か、それなら大丈夫だ。当船は、これまで15ノット(28km/h)で航行していたが、これから18ノット(33km/h)に速度を上げる。そうすれば君達が出発する明朝4時には尖閣まで162海里(約300km)までに距離を縮めることができる。」
近藤は、満足そうに頷くと、「うみばと」のクルーの1人ひとり目を配りながら、地図上に、明朝4時の「ざおう」の予定位置を×印で記入した。
クルーが呆気に取られて浜田を見つめる。命令とあらば多少の危険を押しても飛ばねばならない。人命救助ならともかく、ただ単に移動のためだけで洋上で燃料切れのリスクを冒す気にはなれない。そもそも何らかの原因で「ざおう」の尖閣への移動が遅れたら海の藻屑と消える。一巻の終わりだ。
「そうすると、片道で行くことは出来ますが、我々の飛行中に「ざおう」が尖閣に近づいた分を考慮しても。。。燃料が持たないですね。」
即座に浜田が答えた。その声に浜田が努めて落ち着いて話していることに昇護は気付いた。冷静にならなければならない。
尖閣諸島を管轄下に置く第11管区海上保安部が保有するヘリコプター搭載巡視船は、那覇の海上保安部に所属する「おきなわ」と「りゅうきゅう」があり、いずれも「ざおう」の姉妹型であるが、「おきなわ」は定期点検に入り、それをカバーしていた「りゅうきゅう」が、尖閣諸島で「ざおう」と入れ替わるはずだったが、「りゅうきゅう」は機関の故障が発生したため数日前に那覇へ引き返していた。このため「ざおう」が代打に来たのだが、ほんの少し遅れたのだった。この守りの薄い時期に河田艦隊が出港することになるとは、第11管区も慌てたことだろう。上の連中は、せめてヘリだけでも間に合わせたいと考えているのだな。と昇護は思った。
「そうか、実は、途中の給油の必要の有無について悩んでいたんだ。やはり現地にいる石垣海上保安部の「はてるま」に給油を頼もう。」
巡視船「はてるま」は、「ざおう」より小型の巡視船で、専用の搭載ヘリコプターを持たず、ヘリコプター格納庫も持たないが、船の後部のほとんどが飛行甲板で占められており、ヘリコプターの発着及び燃料補給を行うことができる。実際に東日本大震災の時には、昇護たちの「うみばと」も「はてるま」から補給を受けて救援活動していたことがあった。
「はてるま」と聞いた昇護は、「はてるま」の兼子船長の顔が目に浮かび、任務への緊張の中にも急に懐かしさが込み上げてきた。
「そうしていただければ問題ありません。よろしくお願いします。」
浜田が立ち上がって、近藤に頭を下げた。それにならい、他のクルーも、座ったままではあったがとっさに近藤に頭を下げた。
「それと、万が一の際に「はてるま」で整備できるように整備班から、2名出してもらおう。問題ないな?それに万が一我々と数日合流できなかった場合を考えて、身の回りのものを持っていくように。」
近藤がいいアイデアだろ?と言いたげに尋ねた。
「はい。そのほうが助かります。お願いします。」
と、浜田が答えた。そもそも「うみばと」は、最大定員14名のアメリカ、ベル社製の中型ヘリコプターベル212型をベースとしているので、整備員が2名、工具、そして、6名分の荷物を積んでも全く問題がなかった。
「では、早朝から御苦労だがよろしく頼む。以上、解散。」
近藤が立ち上がった。
水平線が朝焼けの空との境界線を主張し、交わることが絶対にない美しさ、数分で水平線から太陽が顔を出し始まると、海面が陽光をキラキラと反射し、全く違った美しさを演出する。日の出の美しさを超える早起きした者でも数分しかみることができない朝焼けの境界美。その美しさを視界全体に感じ、昇護は軽く深呼吸をした。昨夜は、頭が冴えてなかなか寝付けなかったが、眠くはなかった。荷物を積み込み飛行甲板で伸びをすると、ほどなく
「航空機離船10分前」
の放送が流れた。
昇護達はベル212型ヘリコプター「うみばと」の前に一旦整列すると、それぞれの行動に移った。昇護は機体周りの点検を行うと左の座席に座った。右の座席では、機長の浜田が計器や、スイッチ類の状態をチェックしていた。
機体前方で支援要員が見守る中、コックピットでは、右席の機長・浜田と左席の副操縦士・昇護がプリスタートチェックリスト読み上げと確認を相互に行い、エンジンをスタートさせる。キューンという軽い金属音が響き渡り音程が高まっていくとそれにワンテンポ遅れたように機体の上部に取り付けられた竹トンボの羽のような2枚のメインローターがゆっくりと動き出す。それに釣られて尾翼の頂部に取り付けられたテイルローターがメインローターを急かすようにメインローターよりも早く回転をしている。そうこうするうちにメインローターから発生した風切り音は、回転が高まるにつれて「ボトボトボト。。。」という特徴的な野太い音に変化していった。
船橋ではヘリコプターの離船に最適な風の状況を作り出すために針路と速力を設定していた。周囲の船舶の動向を確認して安全を確保しながらの操船する。
「針路速力制定した。離船せよ。」
船内で航空管制を行う航空長からの指示により、飛行甲板にMH599「うみばと」を固定していた系止索が外され、機体前方に立っている誘導員が親指を上に上げて離船の合図を送ってきた。昇護がトルクを読み上げ、後方のキャビンから顔を出した機上整備員の土屋がエンジン計器を監視する中、機長の浜田は、風向風速と船の揺れ具合を確認して座席の左側のコレクティブレバーを引き上げる。機体がフワリと浮上したのを五感で感じつつも、きちんと上昇状態を昇降計で確認する。針は緩やかに上を向いて機体が上昇していることを示していた。確認した昇護は、「ポジティブクライム」と声を出して浜田に知らせた。
副操縦士の昇護は、
「MH599離船異常なし」
を航空長に無線連絡した。
「こちら「ざおう」了解。」
機長の浜田は、「ざおう」の船橋の横をかすめ飛ぶようにして「ざおう」の前方に出ると、そのまま「ざおう」追い越して上昇していった。
昇護は左手に見える朝焼けに包まれながら、遠く思いを馳せた。
-日本人の命を守ることが最優先。国民の命を守れなければ国を守っているとは言えない。そしてそれが一般の人々の平和と幸せに繋がる。美由紀。。。たとえプロポーズを断られて一緒になれなかったとしても俺は。。。もう構わない。お前と、そしてお前の未来の家族。。。俺の知らない男と将来築くであろう家族。。。その未来も、見ず知らずの人々の未来も守る。それが俺の俺達の使命だ。時々そういう男達に守られているということを思い出してくれるだけで満足だ-
決意を新たにした時、目に滲むものがあった。水平線から現れた朝日が強く、そして優しく昇護の目に光を注いだ。それはまるで、昇護の決意を盛り上げ、称えるかのごとく強さを増していった。