想いよ
21.想いよ
最初は断片的に音楽が聞こえてきたような気がして、何の音楽だろうと思考がのんびりと活動を始めた。どこかで聞いたことがある音楽だが随分電子音っぽいな~。ぼんやりと考えているうちに次第に音が大きくなり脳全体に迫ってくる気がした。ハッと目を見開いた冨岡美由紀の耳が鮮明な電子音のハーモニーとしてその音を捉え、そして、そのリズムとは無関係に響くバイブレーターのモーター音にやっとそれが目覚ましとして自分がセットした携帯電話のアラーム音だと気付いた。手を伸ばして枕元に置いたはずの携帯電話を探す。体を起こして目で見ながら探せばすぐに見つけられるのは重々承知していたが、それを拒むもう一人の自分の方がいつも勝っていることも美由紀は知っていた。意識が心地よいまどろみから離れハッキリとしていくなかで今日は休日だということを思い出した美由紀の心には休日なのだからすぐに起きる必要はないよ。という甘い自分の声が新たに起こり説得力を増していった。こんな姿を生徒たちには見せられないな。と多少の自己嫌悪を感じつつ、それでも美由紀は探すというより手でまさぐるように布団の上で腕を這い回させていた。時間が経てば経つほど携帯電話のアラーム音が大きくなった。やっと手が触りなれた携帯電話のボディーに触れると、もう一方の手を先程までの動きからは想像できないような素早さで携帯電話に近づけて一気に折りたたみ式の画面を開くとボタンを押してアラームを止めた。携帯電話を見つけてからアラームを切るまでの動作は瞬間的な早さで、まるで反射神経だけで行動しているかのようだった。そんな自分に半ば呆れつつもこのまどろみが美由紀は好きだった。しかし、携帯電話のアラーム音と、夏の眩しい日差しをまぶたに受け、覚醒してきた感覚が汗ばんだ体の状態と暑さを訴えてきてもはや寝起きのまどろみに浸ってはいられなくなってきた。
よいしょ。と自分に掛け声をかけてベッドから起き上がると、たどたどしい足取りで数歩2、3歩進んで机の上の手帳を開き今日の予定を確認した。2年前の誕生日に昇護にプレゼントしてもらったこの手帳は、A6サイズの小振りなシステム手帳で淡い緑色のパステルカラーで色に似合わない柔らかな皮の感触が美由紀のお気に入りだった。システム手帳はバインダーで紙を綴っているので開いたページが閉じてしまう心配はないため安心してページをめくる指先が心地よい。
見開きで1週間の時間軸が縦に刻まれたページで今日の日付を細くしなやかな人差し指で確認するように優しくなぞる。この縦に時間軸が並んだ用紙はバーティカル式と言い、空き時間がひと目で分かって計画が立てやすいんだ。と昇護が勧めてくれたのだった。それまではメモ帳程度にしか手帳を使っていなかった美由紀は半信半疑で使い始めたが、実際に使ってみると1週間の時間管理が明確になり、多忙な小学校教師の美由紀にはなくてはならないアイテムとなった。
手帳の13:00~15:00の欄には「広美とランチ。GAST石岡」と几帳面な文字で記入してあった。2週間前、久々に電話で広美と話し、会う約束をしたのだった。
GASTはファミリーレストランのチェーン店でドリンクバーを注文すれば、食事をした後も飲み物を飲みながらゆっくりと話ができる。お昼の時間帯は混んでいるから他のお客さんもいるし占有するのは気が引けた。ゆっくりドリンクバーを飲みながら話をしたいから昼時のピークを避けて、13時からと言い出したのは美由紀だった。すると、広美も子供を実家に預けて行くから子供にお昼もあげられるし丁度良い。と賛同した。美由紀は違和感を覚えた。昔の広美だったら。「お腹がすいて我慢できないよ!」と多少はごねるところだった。それどころかこのランチの予定を決めた時、このレストランの名を真っ先に言い出したのは広美だった。何よりも安さが魅力なのだと広美が言っていた。数年振りに会うのだから懐かしい店に行きたいと思っていた美由紀が声を落とすと、
「今は専業主婦だから節約しないと旦那に悪いからね。」としおらしく付け加えた。派手好きな広美も結婚して変わったんだな。と美由紀は思った。しかも広美には1歳の息子までいる。広美の価値観の変化というよりは、まだ結婚もしておらず、当然子供もいない自分とのギャップに少なからず衝撃を受けた。若い先生で子育ての経験もないから仕方が無い。父兄の間にある噂を耳にしたことはあったが、それは若い女性教師にとっては代名詞みたいなものだと普段は全くそういったことを気にしてこなかっただけに、美由紀は広美との差を実感したのだった。その自分は結婚について何が大切かを考えることができず、逃げ出すこともしたくない。決断すらできずに広美に相談しようとしている自分に美由紀は不甲斐なさを感じた。
美由紀は細い皮のバンドの腕時計を細い手首に付けると時間を確認した。8時17分だった。12時に家を出れば十分に間に合うな。と自分に念を押すと、鏡に向かうでもなく朝食を食べに1階へ降りていった。
巡視船「ざおう」で午前の課業を終え、昼食を取り終えた昇護は、飛行甲板に出ていた。眩しい陽光に焼かれるような甲板の照り返し、そして小刻みに揺れる水面はギラギラとその陽光を細かく幾多にも反射する。昇護は、焼かれるような正午の日差しに溢れ出す汗を拭うこともせず、2度、3度と深呼吸した。そして間もなく出て行く佐世保の港を見渡した。昼の港は以外と静かで、昇護は予想以上に気持ちを落ち着けることができた。
昇護は、美由紀にプロポーズして約半月が経つが、美由紀から一度も連絡は無かった。昇護は何度も美由紀にメールを打とうとしたが、プロポーズすることで、結果として結婚に対する美由紀の悩みを始めて聞いた昇護には、それが出来なかった。美由紀の気持ちは、昇護と夢が叶った今の仕事の間で微妙なバランスを保っているように昇護には思えた。そう、まるで紐の上でコマを回しているような微妙なバランス。止まっていてバランスしているのではなく、回転という動きと微妙にバランスをとっている危うい状態だと思っていた。ちょっと出も息を吹きかければあっという間に崩れてしまうバランス。そして落ちたコマは二度と戻らない。とてもこちらからは連絡できない。美由紀と別れて2~3日で昇護は、携帯を開いてメールの受信有無を確認するだけでは納得出来ず、メールのマークが表示されたボタンを長押してメールが携帯に届いておらずセンターに預けられた状態になっていないか、まで気にするようになってしまった。昇護はすっかり携帯のメールチェックをするのが癖になってしまった。昇護は、そんな自分を女々しいと思っていたが、気になる気持ちは抑え切れなかった。そんな癖ももう終わる。出港して陸を離れたらもう携帯は繋がらなくなる。戻ってくるまでの1ヶ月間は美由紀がどう答えを返そうと昇護には届かない。それが最悪の答えだったとしても。。。
これが最後だ。と、昇護がポケットの中の携帯を握り締めたとき
「おいっ、何たそがれてんだ、こんなにギラギラ暑いのによ。」
不意に背中から声を浴びせられたと思った瞬間に右肩をポンっと叩かれた。切なく物思いにふけっていた昇護は素直に驚くと共に、気持ちよく居眠りをしているところを駅員に揺り起こされてしまった酔客のように、邪魔するなという目で相手を見そうになって、引きつった笑顔に何とか気持ちと表情を切り替えた。機長の浜田だった。
「な~んだ。浜田さんですか。びっくりさせないでくださいよ。」
昇護は、相手が浜田と知って今度は心からの笑顔を浮かべた。
「いやさ、飯食ったら急に居なくなっちまっただろ。何でかな~って思ってさ。あ~、ここがいちばん携帯の電波がいいって思って来やがったのか?んな訳ね~だろ~。バカかお前、パイロットだって技術屋だぞ。」
浜田は、景気良くゲラゲラと笑った。
「そんなんじゃないですよ。俺だって、それぐらいは知っていますよ。」
昇護は少しすねた振りをしつつ答えた。後輩をからかう浜田の言葉は相変わらず鋭く、切れ味が良い、傷口が荒れたり広がることなくスッと相手に入っていきユーモアのセンスを引き出し、引き上げる。浜田は、そうやって、後輩たちに先輩たちに上手く育てられるコミュニケーションのコツを教えてきたのだった。もちろん昇護も例外ではない。
「お前、彼女と会ってから、その後連絡はあったのか?」
何言ってるんですか~?とはぐらかそうとして口を開きかけた昇護は、浜田の眼差しの変化に言葉を飲み込んだ。少し、潤んだその目には、哀れみとも同情とも、怒りともとれる浜田の心が表れていた。
「いえ、全然です。。。メールすら全く来ません。。。」
昇護は、素直に答えた。今の気持ちを表すかのように自然と低い声で答えていた自分に、何で今まで浜田に相談しようと思わなかったのだろう。と自問した。からかわれるから相談したくないと思っていたのは確かだ。だが、このネタでからかわれたことは一度も無いことに今、気付いた。
「ったく、水臭せーな。黙っていやがって。ま、様子見てればどうなってるかおおよそ分かるがな。14時には出港だ。出港すれば、その携帯は電話もメールもできない。文鎮代わりにしか使えん。1ヶ月は、文鎮代わりだな。」
浜田は失笑混じりに静かに言った。
昇護も
「確かに、文鎮ですね」
と力なく小さく笑った。
「出港の前に、お前に言っておきたいことがある。」
浜田が昇護の目の前に回り、真っ直ぐに昇護の目を見つめた。その目には、もう笑みはなく、先ほどの哀れみとも同情とも、怒りともとれる潤んだ厳しい目になっていた。
「はい。」
昇護は返事をして固唾を呑んだ。
浜田がゆっくりと語りだした。
「お前が悩む気持ちは分かる。俺も経験したことだからな。だから敢えて言う。返事が無かったなら、もう忘れろ。乱暴なようだが、これから1ヶ月間は、彼女のことは一切合切気にするな。気にしても気にしなくても結果は同じだ。何もできない。だったら忘れろっ。気にするなっ。お前は海上保安官であり、そしてパイロットだ。みんなの命を預かっている。最近のお前を見ていると何処かキレがない。危なっかしいんだよ。
いいか、集中するんだ。心配しても仕方がないことに気を揉まれるなよ。これから行く尖閣諸島は、何が起こるか分からない。任務を全うしつつ、みんなで無事に帰って来るんだ。分かったな。」
昇護は、浜田の心を尽くした言葉を聞いている内に胸の奥がだんだん熱くなってくるのを感じた。同時に恥ずかしさが込み上げてきた。確かに任務への取り組みが曖昧というか、雑になってきている感はあった。その根底には「何で俺が尖閣に、何でこのタイミングで」という無念があるとは考えていなかった。いや、考えたくもなかった。俺はこの仕事がやりたくて頑張ってきた。そしてこの仕事に誇りをもっている。辛いときにはいつもそういう言葉を自分自身に掛けてきた昇護にとって、美由紀とのことが引っ掛かっているとは認めたくなかった。だから自分の仕事の質が悪くなったのを気のせいだと思っていた。暑いから、中だるみだから、寝不足だから。。。理由は何でも良かった。美由紀とのこと以外のことであれば何でも良かったのだ。しかし、浜田をはじめ「うみばと」のクルーにには図星だったのだ。「うみばと」というヘリコプターの中で、命を預け合う。運命共同体のチームにあって、昇護は、私情を持ち込み過ぎた。それは20代の後半に足を踏み入れたばかりの若さゆえの未熟さでクルーの目に映ったのだろう。そして、昇護が自分で克服するのを見守ってくれていたのだろう。期待を込めて。でも昇護は駄目だった。このまま尖閣へ向かったら手遅れになる。そして出港の間際になって、浜田が昇護を諭したのだった。ギリギリまで見守ってくれていたのだが、期待に応える事ができなかったのだ。そのことに今気付いた昇護は、情けない自分に恥ずかしさが込み上げてきたのだった。だらんと開いていた手を握ると自然に力がこもってしまった。自分が情けない。。。昇護は一度遠く水平線を見つめて気分を落ち着けようとする。そして浜田の目をもう一度見た。父のような目をしている。と直感的に思った。息子が何かに失敗した時に見せる全てを受け止めるような寛容な眼差し。あっ、昇護の気持ちの中に新たな気付きが起こった。逆だったらどうなのだろうか、俺がもし浜田さんだったとしたら。。。きっと、克服するように期待して見守るよりも、信用しなかっただろう。私情に左右されるような男に命を預けるわけにはいかない。。。この人達は。。。ここまで俺を信用してくれ、育ててくれているんだ。まるで家族のようだ。
昇護は、強く握っていた手を開くと浜田の右手を両手で握り締め、
「ありがとうございます。頑張ります。」
と力強く言った。
浜田は、驚きで一瞬目を見開いたが、笑顔を浮かべて昇護の手を握り返すと左の手で自分の右手を握っている昇護の手を優しく覆った。そして、握手を解くと
「よし。しっかり頼むぞ」
と優しく応えて昇護の肩を掴んで揺すった。その力強さに昇護は、仲間の信頼の強さを感じた。
美由紀は、お気に入りの愛車NBOXを運転してファミリーレストランGUSTOの駐車場に入っていった。今日がお盆に入った8月13日のためか、道路はいつもより混んでおり、他県ナンバーの車の比率が高かった。美由紀は、混んでいて思ったより時間が掛かってしまったと思いながらも、道路同様いつもより混んでいるGUSTOの駐車場に空きを見つけると、「ラッキー」と呟いて、駐車スペースにバックで車を入れる。NBOXに乗り換えてから、小回りの良さも相まって、駐車場ではきちんとバックで駐車するようになった。リアハッチドアの窓上部に標準装備されたリアアンダーミラーの助けも大きかった。このミラーでいちばん気になる車後方の足元を見られるため安心してバックできる。狭いところも安心して小気味良く運転できるので、美由紀は運転すればするほどNBOXへの愛着が増していくのを感じていた。
美由紀は車のエンジンを止めると、助手席に置いたバッグを膝の上にのせ、中から携帯電話を取り出して開いた。1通の未読メッセージがあった。それは広美からのメールだった。
-先に着いたので、ドリンクバー付近の窓際の席にいるよん-
慌てて受信時刻を確認すると15分前だった。やっぱり私の方が遅かったか~。「も~、広美は昔からせっかちなんだから。」と誰に言うでもなく小言を言うと、バックに携帯電話を仕舞ってドアを開けた。夏の熱い空気が一瞬で体中を包み、体中が汗ばむのを感じた。美由紀はバックを手に取ると、冷房の効いた店内に逃げ込むように足早に歩いた。
自動ドアが開ききるのももどかしく、途中まで開いた自動ドアに半身をそらして店内に入るとレジの前の椅子には、2組の家族連れが順番を待っていた。
パステル調の大きな花柄が可愛らしいワンピースの制服を着た店員が笑顔を作って
「こちらに、お名前と人数をお書きになってお待ちください。30分ほどで御案内できると思います。」
と声を掛けてきた。
30分待ちということは、食事が終わる頃には空きができるかな、そうすれば広美とゆっくりドリンクバーでお茶をしていても気兼ねすることはない。大丈夫。長話はできる。と店員の思惑とは全く別のことを考えていた美由紀は、
「いえ、先に友達が来てるようなので大丈夫です。」
と店員に返事をして軽く頭を下げた。
顔を上げた美由紀がドリンクバーコーナーの方へ目を向けると、そこには懐かしい広美の顔があった。こちらへ向かって軽く手を振っている。美由紀も笑顔を浮かべて顔の横で小さく手を振った。
テーブルの前に立つと、広美が飛び跳ねるように立ち上がって、両手で美由紀の手を握って大きく上下に動かしながら
「うわ~っ、美由紀久しぶりぃっ!変わんないわね~あんた。」
と言った。美由紀は周りの親子連れの視線を感じつつ、相変わらず大袈裟な広美に安心しながら
「あんたこそ変わらないわね~。元気そうで安心した。」
と美由紀は言うと2人は手を解いて席に座った。元気そう。というのは、美由紀の正直な気持ちだった。先日の電話でのしおらしい広美の言葉、そして結婚から出産、そして子育てへと、美由紀にとって未知の世界を突き進んできた広美がどんな女に変わったか、友人として心配であり、そして女として興味津々だった。
「もう注文したの?」
美由紀が悪戯っぽく聞いた。昔、同じようにレストランで美由紀と待ち合わせをしていて、空腹に耐え切れず美由紀が現れる前に食事を注文してしまったことがあった。美由紀が待ち合わせに遅刻していないにも関わらずに。この話は、広美が「せっかち」で「食いしん坊」である逸話として、その後も時々話題に挙がる2人にはお馴染みの出来事だった。
「はい、ちゃんと我慢しましたよ~。これでもおママなんだから。私。あ、でも食べたいものは決めたから、あんたも早く決めてね。」
広美がおどけた。やはり何だかんだ言っても広美は食いしん坊だな~。と思いながら
「ハイハイ、やっぱ変わんないね~。」
メニューを広げながら美由紀は微笑んだ。
「それにしてもあんた、ラフな格好してるわね。そんな男みたいな格好で昇護ガッカリしないの?」
メニューのパスタのページとカレーやピラフの載ったページを行ったり来たりして迷っている美由紀を見つめながら広美が言った。
「えっ、あんただって同じジャン。い~の、い~のどうせ昇護は遠い南の海の上だし。」
2人ともジーンズにTシャツ姿だった。確かに男性でも普通にする服装であった。あえて違いを指摘するとすれば、丸い襟元が大きく開いていることぐらいだ。それが白く細いうなじを強調し、わずかに女性らしさらしさを醸し出している程度だった。
「そんなこと言ってると、昇護に愛想つかされるよ。男って案外そういうとこ敏感なんだから。」
軽く言い放った広美の言葉に、前回久々に会った時の昇護のがっかりした表情を思い出し、思わず口をきつく結んでしまった。一瞬笑顔が途絶えた美由紀の表情を見て、広美は言い過ぎた。と思ったらしい。美由紀が反撃してくる前に、
「あ、私はママだからね。今はお洒落なんてしてる余裕はないよ。」
とさらりと自分を卑下した。
なんだか広美、丸くなったみたい。自分自身をけなすなんてコじゃなかったのに、大人になったな~。母親になるって、そこまで人間成長させるものなのだろうか。。。再会して15分にして美由紀は、広美を親友、そして同じ女というよりは、母親という名の人生の大先輩を見るような目になっていた。
迷った末に、美由紀は横長の皿の中央に丸くライスが盛られ、2種類のカレーがライスの両端に掛けられた「2度おいしいカレーライス」を注文し、広美はハンバーグ、ソーセージ、チキンソテーが鉄板の上に並んだ「ミックスグリルハンバーグ」とライスを注文した。そんな広美に美由紀は
「えっ、そんなに食べられるの?」
と思わず目を丸くした。以前の広美は確かに食いしん坊の印象が強かったが、元々痩せ型の広美は食い意地は張っていても大食いと言うわけではなかった。目の前の広美は昔と変わらない体系だったので、なおさら美由紀は驚いた。
「い~のい~の。ど~せ全部オッパイになって出ちゃうんだからさ。それに、独りで外食なんて久しぶりなんだから。ナイフとフォークを使う料理をガッツリ食べたいわけよ。」
と言って広美は屈託のない笑顔を浮かべた。そういえば、中学時代に男子の間では貧乳と噂されていた広美の胸が今では人並み以上にボリュームのあることに今更ながら気付いた。
その笑顔に昔と変わらない面影を感じた美由紀は、やっぱり母親になっても広美は広美ね。と妙な安心感を覚えると、周囲のレストラン独特の肉の焼ける芳ばしい香りにやっと嗅覚が気付いたといった感覚が引き金となり、一気に空腹を感じた。
昇護は、浜田の後に続いて飛行甲板から格納庫を抜けてクルーの待つ船室へと向かっていた。途中すれ違う船員や、目に入った部署では、慌しく作業を行っており、ここ数日間停泊していたときの雰囲気と打って変わった緊張感が漂っていた。その変化が、これから長期間の航海に出発するという現実を次々と昇護に突きつけてきているようだった。もう平気だ。納得するように昇護は自分自身に言い聞かせた。昇護はもうイラつきはしなかった。浜田に諭された昇護は今までの昇護とは違っていた。
船室に集まった「うみばと」のクルーは、これから向かう尖閣諸島での任務について基本的な行動基準と、想定されうる事態を煮詰め、その事態に対応する方法について最終確認のためのブリーフィングを行った。「うみどり」は、巡視船「ざおう」に搭載されている関係上、洋上での飛行がほとんどであるため、故障など、不測の事態により飛行が困難となった場合に着水の判断を行う基準と着水時の対処方法、役割分担も打合せた。「うみばと」は、中型ヘリコプターとしてバランスのとれた性能を持つベル212型で、最も燃費の良い速度である巡航速度103ノット(約190km/h)で実用航続距離412浬(約723km)である。このことから、基本的に目的地までの移動は巡航速度で行う。そして目的地に到着後は周辺の監視だけなら問題ないが、追尾・牽制を行うことが必要となる場合は、燃費が極端に悪くなる。そこで最大行動半径は134海里(250km)とすることとした。基本的には「ざおう」も尖閣諸島の当該海域で一緒に活動を行うため、燃料を心配する事態は発生しないと考えられていたが、万が一「ざおう」から離れた海域で任務を行う必要性が発生した場合に備えて、速やかに出動できるように今の段階でクルーが自主的に決めたのであった。
そして、ブリーフィングの最後に、機長の浜田は、副操縦士の昇護、機上整備員の土屋、機上通信員の磯原の顔を順に見ながら
「正直言って、俺も何が起こるかは分からん。こんな緊張した海域に行ったことがあるものはこの船にはいないだろう。しかもヘリでの追尾も今回が。。。つまり俺たちが初めてだ。無理をしない、中国の挑発に乗らない、無事に帰る。ということを第一目標にしよう。そして日本人の命を優先する。領土としての尖閣はその次だ。巡視船「はてるま」の兼子船長が一時期マスコミや右翼に叩かれたが、俺は兼子船長の言葉が正しいと思っている、言い換えれば信念。だな。日本人の生命を第一に考えることが何よりも優先することだと考えている。しっかりと務めを果たして、全員無事に帰ろう!」
と締めくくった。
「は~、お腹イッパイ。じゃあ食後のデザートと行きますか。」
広美は、最後に残ったチキンソテーを慈しむように飲み込むとナイフとフォークを鉄板の両端に行儀良く並べて、紙ナプキンで口を拭きながら美由紀に微笑みながら言い、メニューを開いた。
美由紀はひと足先にカレーを食べ終えて口を丁寧に拭い、水を飲んでいるところだった。
「えっ?もうデザート頼んじゃうの?」
美由紀は、半ば呆れたように聞き返した。
「だって、別腹でしょ、ベ・ツ・バ・ラ♪美由紀は何にするの?私はティラミス」
と言いながら、メニューを美由紀に差し出した。
「相変わらずね~。え~っと私は。。。」
美由紀は、慎重にメニューのカロリー表示を指でなぞりながら何にするか選んでいた。今日ぐらいは、、、という別の自分が誘惑する。
「美由紀も相変わらずね~。優柔不断。」
広美がからかう視線を向ける。
「あんたと違って、嫁入り前ですからね~。ガツガツ食べて太っちゃったら大変でしょ?」
昔と変わらず売り言葉に買い言葉のラリーが始まった。と思った美由紀だったが、
「嫁入り前ね~。そうそう昇護とはどうなったの?何か相談があるってそのことじゃないの?」
広美の確信を突いた言葉に、美由紀はメニューから顔を上げた。久々の広美との再会で楽しい昔話に花が咲き、
ーまた今度でいいかな。
と逃げかけていた自分が一気に追いつめられた。やはり、今日相談しよう。正直に
「うん、そうなんだ。実は先月、昇護にプロポーズされたの。。。」
美由紀は、たどたどしく白状した。
「やったじゃない!良かったね~。昇護って案外そういうとこ駄目そうだったから心配してたのよ。でも、なんでそんなに暗い話し方するの?もしかして断っちゃったとか?」
広美は、美由紀の答え方に元気がないのが気になった。
「あ、断ったとかじゃないんだけど。。。返事が出来なかった。。。」
美由紀は、溜息をつきながらメニューをテーブルの端に置いた。
「返事が出来なかった。か~。まあそりゃあ即答はムリだろうけどね。歯切れの悪い答え方しちゃうと昇護は振られたと思っちゃうかもよ。その辺、大丈夫なの?」
広美が心配そうに尋ねた。
美由紀は、俯いたまま、声を出そうとしない。
ふ~。っと息をつくと、広美は
「ま、とりあえずデザートを頼んじゃおうよ。話はいくらでも聞くからさ。でもデザートは美由紀の奢りよ。」
と、広美は明るい声を出した。わざとらしいけど、そんな広美に頼もしさと優しさを感じている自分もいた。
美由紀は思わず微笑みを漏らすと。再びメニューを手に取った。
-うん。今日はカロリーのことを考えるのは止めよう。
自分に言い聞かせると、美由紀は、レアチーズケーキを選んだ。
2人がドリンクバーで飲み物を選び、席に戻ると間もなくデザートが運ばれてきた。
「で、何てプロポーズされたの、あ、そんなことはどうでもイイか。気にはなるけどサ。で、あんた昇護に何て答えたの?」
広美は、ティラミスをひと口味わうと、早速話を切り出した。
「うん、それがね。。。」
美由紀は、答える素振りを見せながらも、まずはフォークで小さめにレアチーズケーキを切ると、口に運んだ。
そして言葉を続けた。
「もう少し考えさせてって言ったの。」
美由紀が言葉少なく答えた。
「えっ、何で?やっぱパイロットは心配だってこと?」
広美の声のトーンが落ちる。食事をしながらお互いの近況を話している中で、パイロットである夫の話しを面白可笑しく話していた時の声とは違っていた。
広美の夫は、ここから車で40分程度の小美玉市にある航空自衛隊百里基地に所属する第302飛行隊の戦闘機パイロットをしている。第302飛行隊は、世界的には旧式となったF-4ファントム戦闘機に、日本独自の近代化改造を施したF-4EJ改を装備している。以前は沖縄県の那覇基地に配備されていたが、近年、中国、北朝鮮の脅威が増したことにより、沖縄近辺のいわゆる南西方面を強化するために、主力戦闘機F-15Jを装備し、首都圏防空の要であった百里基地の第204飛行隊と交替という形で数年前に百里基地に移動してきたのであった。この時に広美も夫について久々に那覇から茨城に帰ってきたのだった。
「うん、それもある。」
美由紀は申し訳なさそうに呟いた。
「ま、確かにパイロットを旦那に持つといつも心配してなきゃならない。って不安はあるかもね。私だって、旦那がフライトの日に、家に基地から電話が掛かってくると、電話に出るのが怖いときはある。事故の連絡じゃないかってね。」
そこまで静かに語ると、アイスコーヒーをひと口飲んだ。
「でも、人間慣れっていうのかな、今はそれほどでもない。心配は心配だけど、子供が出来たせいもあるのかな。あの人にもしものことがあっても、あの人の分身と頑張って生きていける。何ていうか勇気っていうのとは違うんだけどさ。不安だらけってわけじゃないよ。それに普通の仕事してたって、死ぬ人は死ぬでしょ。あの人は、ファントム。あ、旦那の乗っている戦闘機の名前なんだけど、2人乗りだから、1人乗りの戦闘機よりは安全だって一生懸命私を安心させようとして言ってるけど。私にとっちゃどっちでも同じだけどね。」
広美は、笑顔で締めくくった。母は強し。とはこのことだろうか。美由紀は漠然と思った。自分も何とかなりそうだとも思えてくる。「そっかー。やっぱ心配はなくならないわよね。でも、そうだよね。何やってても死ぬときは死ぬんだもんね。何か安心した。付き合い始めた頃から一応覚悟はしてるし」
美由紀は、微笑んだ。
「じゃ、そうと決まったら、返事返事。早く電話しなよ、メールでもいいから。」
広美がさっきとは打って変わった悪戯っぽい目を向け、握った右手の親指と小指を立てて受話器に見立てて耳元に運んだ。
「待って、それだけじゃないの。ホントに返事が出来なかった理由。。。」
広美が黙って、美由紀を真っ直ぐに見つめた。数十秒の沈黙が流れた。広美は美由紀が答えるのを待つ気だ。自分からハッキリ聞かなきゃ。美由紀は意を決して口を開いた。
「仕事のことなんだ。広美だって、学生の頃から保育士になりたくてその夢を叶えたんでしょ。でも、結婚して旦那さんの移動に合わせてたら仕事できないじゃない。私は、やっとの思いで掴み取った教師という夢を捨てられない。。。」
語気が熱を帯びているのを美由紀自身も感じた。
「ちょっと待って。美由紀の夢、学校の先生だよね。じゃ、聞くけど美由紀の夢って、学校の先生として校長先生とか上の職位を目指すことなわけ?それとも、純粋に学校の先生として子供達に教えたいってことなの?どっちなの?それに私のことで言わせて貰えれば、私は掴んだ夢を諦めたことは無いよ。」」
美由紀はハッとした。私は、教師として最終的に何になりたいのだろう?自問した。
広美は更に言葉を続けた。
「私は、園児達と接して、教えること。それがホントの夢だって気付いたの。だから、非常勤や有期職員を転々として子供達に教えてるよ。そりゃあ、丸々1年教えられずに旦那が転勤になってしまうこともあるけど、人生何とでもなるって。」
その言葉に、美由紀は急に目の前が開けたような開放感を感じた。
-そうだ。私は、教師として、生徒達に何かを伝え、育んでいきたい。ただそれだけなんだ。
美由紀は気付いた。夢の本質に。
今、13時50分だった。店を出たら、せめて昇護にメールだけでも入れておこう。と思った。
昇護はブリーフィングが終わると、時計を見た。13:55分。あと5分で出港だ。昇護は、胸のポケットから携帯電話を取り出すと、机の上に置いた。もう文鎮代わりにしかならない携帯電話。あ、でも目覚まし時計の代わりにはなるな。と自分に言い訳がましく心の中で弁明すると、携帯電話の電源を切るのを止めた。もしかしたらギリギリで美由紀からのメールが来るかもしれない。この期に及んでも僅かな期待を持つ自分を心のどこかで軽蔑しながらも。。。
美由紀が決断し、相談が終わると、しんみりとしていた雰囲気は一転し、結婚したらどうするの?と半ば冷やかし合いの賑やかな会話になった。未来予想図にそんな取り止めも無く花を咲かせながら会話を楽しんでいた2人は、15時00分にランチタイムのドリンクバーが終了する前に店を出た。年頃の女性が、オーダーストップを店員に告げられては恥ずかしいからね。と、2人で申し合わせて14時30に店を出た。美由紀は、広美に礼を言うと。広美は、しっかりね。と手を振った。勿論逐一報告するように。と悪戯っぽい笑顔で美由紀に釘を刺すことは忘れなかった。
美由紀は、愛車に乗り込むとすぐにエンジンをかけ、車を発進させた。真夏の午後の炎天下にさらされた室内は、一瞬呼吸に戸惑うほどの熱気だったが、すぐに空調が動き出してオーナーに心地よさを提供しようと頑張っていた。美由紀は急いだ、早く昇護に返事をしなければ、という理由の無い焦燥感に駆られた。でもいくら急いでいても譲れないことが1つだけあった。それは、あの場所でメールを打とう。という拘りだった。昇護がプロポーズしてくれたあの湖畔で。。。気持ちを落ち着けて、あの日の昇護の一言一言を思い出し、噛み締めながらメールを打とうと心に決めたのだった。国道355号線を下っていくと霞ヶ浦が右手に大きく広がっていた。あの日より強い日差しに、湖面がキラキラと瞬いているようだ。もう少しで着く。美由紀は時計を確認した。オーディオのデジタル時計は15時を示していた。
-昇護。ずっとあなたと一緒にいたい。
その想いよ。届け。美由紀はハンドルを握る手に力をこめた。