父と子
19.父と子
巡視船「ざおう」は、乗組員の休養と補給を兼ねて佐世保港に入港していた。停泊期間は2日間だった。
日立港を出港して以来、訓練に明け暮れていた乗組員達は1日交代で休暇をとることになっていたので、昇護は、事前に父親と連絡をとり、夜飲みに出掛けることにしていた。
昇護の父親である倉田 健夫は、海上自衛隊の2等海佐。一般の軍隊であれば中佐に相当する階級で、佐世保基地を母港とする護衛艦隊第13護衛隊に所属する護衛艦「いそゆき」の艦長をしている。
昇護は、父親と佐世保駅で落ち合う約束をしていた。
巡視船「ざおう」が寄港した第7管区海上保安部は、比較的佐世保駅に近い場所にあり、「ざおう」が係留されている場所もその付近の埠頭であることを配慮した父親は、この土地に慣れない昇護のために海上保安部から徒歩で行けるほど近く、分かりやすい佐世保駅を集合場所に指定してくれていたのだった。
昇護は、帰宅を急ぐ港湾関係者で混み合う駅の港口から連絡通路を通って行った。夏の暑さと、人の熱気で通路は蒸し風呂のようだった。東口に近付き、汗ばんだ肌に吹き込む微かな外気に心地よさを感じ始めた頃、自分を呼ぶ懐かしい声に昇護は振り返った。そこには、潮焼けした顔におおらかな笑顔を見せる父、健夫の顔があった。久々に目にしたその表情に、不思議といろいろな不安が一瞬にして消え去って行き安心感が心の隅々に広がって行くのを実感した昇護は、-あぁ、俺は子供の頃、この安堵感に包まれ、守られながら成長してきたんだな-と、漠然と考えていた。自然と頬が緩むのが自分でも分かった。
「久しぶりだな。昇護。随分日に焼けたじゃないか。元気か?」
と父が周りをはばからず大声で話した。
昇護は、通りの少ない壁際に父を誘導しながら
「父さんだって、真っ黒じゃないか。俺はまだマシだよ。」
と雑踏の音に掻き消されない程度に大きな声で言った。
「一緒にするなよ。俺のは潮焼けだ。お前は「日焼け」だ。だってパイロットだろ。どうだ?ハハハ」
父は、一杯引っ掛けてきたのかと思うほど上機嫌だった。
「あっ、そういうことか、でも、俺だって一応は船乗りだからね。」
昇護は、おどけて言った。
「それもそうだな。海に空、両方だもんな。失礼失礼。」
父は、頭を軽く掻く仕草をしながら答えた。
そして、
「どれ、今日は、旨い店に連れてってやるぞ。楽しみにしてろよ。」
と父は得意気な顔で昇護の肩を軽くトンっと叩いた。
「おおっ、楽しみだな~。よろしく。」
昇護は素直に笑顔で答えた。
それにしても、随分豪快な人になったな~。というのが昇護が大人になってからの父親に対する見解だった。というよりも今思い起こせば昇護が海上保安学校を卒業し、更にパイロットになった後からというのが正解だ。自分の夢だったパイロットになって一人前として認めてくれたってことかな。そこまで想像すると、昇護はちょっとだけ照れた。昇護がパイロットになったとき、父が昇護を抱きしめて喜んだのを思い出していた。
駅から15分ほど歩いたところで、父は
「おう、ここだここだ。」
と言って、-佐世保の幸-という文字が内側の灯りで照らし出された小さな古びた看板を掲げた店の暖簾を潜ると、カラカラと軽い音を立てて引戸を開けた。
「大将こんばんは。」
父が大きな声で挨拶すると
「おっ、毎度、お疲れさんです。」
と、カウンターの奥から捻り鉢巻をした小柄な老人が元気な声で返事をした。
「こんばんは」
と、父に続けて暖簾を潜った昇護は、店内を軽く見回した。カウンターに座敷が3つあるだけの狭い店内には、壁に隙間が無いほどの自衛隊のカレンダーや、護衛艦の写真が飾られていた。その中には、自衛官からの寄せ書きもあり、自衛官が贔屓にしている店であることが一目瞭然だった。昇護は、ここでの父の生活の一部を垣間見たような微笑ましい気分になった。
「おっ、新顔さんだね。転勤してきたのかい?よろしくね。」
と、父に大将と呼ばれたカウンターの中の老人が気さくに昇護に声を掛けた。
昇護が笑顔で会釈をすると、
「いやいや、こいつは俺の倅なんですよ。」
と父が照れ笑いしながらカウンター席に座った。昇護も隣に座る。
「おっ、そうかい。てことは、艦長の息子も海自さんかい?」
父に大将と呼ばれることから店主とみられる小柄な老人の言葉は、テンポが良く小気味良い。あっ、と昇護が口を挟もうか挟むまいか一瞬まごついたが、
「いやいや、コイツは海保なんだ。」
と、父がスムーズに言葉を継いでくれた。
店主は栓を抜いたキリンの瓶ビールとグラスを出しながら
「えっ、そうなんかい。海自の二世が海保とは、珍しいね~。艦長、あんたよく許したね~。」
店主は、長年の経験から海自(海上自衛隊)と海保(海上保安庁)の昔からの確執を知っているようだった。父は昇護のグラスにビールを注ぎ、自らのグラスにもビールを注ぐと、昇護とグラスを軽く合わせて、一口飲むと。
「まあ、俺も最初は海自に進んでくれたほうが嬉しいとは思っていたが、ほら、え~と、「何とか猿」って映画が流行っていた時期だったから、映画の人気に惑わされたのかな?って最初は渋ったんだけど、映画に関係なく昔から海保に憧れてたって話だったから、それなら本物だって思ってね。それなら親がとやかく言うのは間違いだって思ったんだ。」
店主は、感心したように深く頷きながら、
「へ~、艦長。やっぱあんた男だな~。器が広いぜ。な、息子さん、あんた親父さんに感謝しな。こんなに理解のあるネイビー(海軍)な親父さんはいないぜ。で、佐世保に転勤してきたってことかい。」
店主は、昇護の眼を覗き込むように言った。
「いや、ホント親父には感謝してるんですよ。海保にも父親が海自なんて人は珍しいんです。私は転勤ではなくて、乗っている巡視船が佐世保に寄港してるんです。」
昇護は、ビールをグイッと煽った。父のグラスをビールで満たすと。父が瓶を取り、昇護のグラスも満たしてくれた。
「船乗りさんかい。将来は船長?巡視船って~と、どこから来たの?」
と店主は、父子の信頼関係を垣間見たように笑顔で昇護を見つめる。
「いえ、私は搭載ヘリのパイロットをしてます。」
昇護は、少し照れたように小さな声で答えた。
「おおっ、それじゃあ、親父さんも止めないわけだ。だって艦長は、飛行機マニアだもんな?」
店主は、父をからかうように笑って言った。父の飛行機好きはここでも有名らしい。
「まあね、俺は目が悪くて諦めたけど、俺が言うのも親馬鹿みたいだけど大したもんだと思うよ。あ、そうだ。いつものヤツと、そうだな、昇護は、鶏の唐揚が好物だよな。うん鶏の唐揚もお願いします。今日は良いネタ入ってるかい?」
と、父は、話も途中に注文を店主に言った。どうやら自分を親馬鹿呼ばわりした父は照れているらしい。
「今日も。だろ?艦長。今日も良いネタ入ってるよ。それと唐揚ね。了解。やっぱ若い人は揚げ物だよな。任しとけ。息子さんも飛行機好きなんだね。夢を叶えるなんて、そうそうできないぜ。ホント大したもんだよ。頑張れよ。」
と、店主は顔中の皺をクシャクシャにするくらいの笑顔で言った。
昇護は、父にビールを注ぐと、父も昇護にビールを注いだ。喉を鳴らして旨そうにビールを飲んだ父は、嬉しそうだった。昇護は、日向に影に父が昇護の夢の実現に理解を示してくれていたことを思い出し、心の中で改めて父に感謝した。
店主との会話が途切れた頃、他の客も入り始めた。店内は俄かに賑やかになり、店主は他の客と他愛の無い会話をしながら、料理をしていた。
「ハイ、お待ちどさん。多分関東じゃあ味わえない味だぜ。」
店主は、倉田父子の前に来ると、カウンターから、刺身の盛り合わせを置いた。倉田家のある関東では珍しいアジとサバの刺身だった。
「おお~。」
店主の言葉に昇護は思わず、感動の声を漏らした。
父の醤油皿と自分の醤油皿に醤油を注ぐと父は、
「おっ、サンキュー」
と言い、昇護に割り箸を渡し、自分は割り箸を割った。
「ありがとう。いただきます。」
昇護は言い、割り箸を割った。
「いただきます。どんどん食えよ。」
と父は言い、刺身に箸を伸ばした。
父が刺身を口に運ぶのを見届けてから昇護も、刺身を醤油に付けた。醤油にはトロミがある感じがした。気のせいか?と思いながら、昇護はサバの刺身を口に入れた。ねっとりと刺身にまとわり付き、コクがあって甘味のある醤油の味が口の中に広がり、プリッとした、食感と濃厚なサバの風味が口の中に広がった。
「うわっ、旨い。醤油も関東とは全然違うんですね。」
昇護は思わず感嘆した。
「だろ、この甘みが良くマッチしてるよな。癖になるぞ~。」
父が満足そうに微笑んだ。
「おっ、気に入ってくれたかい。良かった良かった。」
昇護のリアクションに店主も満足気だ。
しばらくの間、旨い旨いと言いながら、2人は黙々と刺身を食べ、ビールを飲んだ。
半分ほど食べた所で、父が箸を置き、昇護にビールを注ぐと
「そういえば、母さんは元気だったかい?」
と、父が尋ねた。
「うん、元気だったよ。そうだ、お守りを預かってきたよ。俺と、父さんにって1つずつくれたんだ。」
そう言って、昇護はバッグから小さな紙袋を1つ取り出し、父に渡した。
「ありがとう。」
父は言うと、早速受け取った紙袋を開け、丁寧に中身を取り出した。
「ん?筑波山神社?海は関係ないような。。。ま、土浦から見える神様だからな。母さんらしいや。」
「だよね~。でも、ありがたいね。」
と昇護は相槌を打った。
「そうだな、ありがたい。」
父は、慈しむようにお守りを紙袋に戻して、自分のバッグに仕舞った。
その後は、母や妹の話し、妹の子の話など、他愛もない話が続いた。さすがに妹の子の話になると、父の顔は自然と笑顔になった。艦長や父ではなく、孫の成長を楽しむ祖父の顔だな、と昇護は思った。
腹も満たされてきた昇護がふと柱に掛けられた時計を見ると、飲み始めてから既に1時間半が過ぎていた。飲み物もビールから麦焼酎の水割りに変っていた。父が作ってくれる水割りは、少し濃い目だったが、味と香りを楽しむには丁度よいのだろうと思った。長崎では麦焼酎発祥の地、「壱岐」の「壱岐焼酎」が有名だと、父が勧めてくれたのだった。父は割らずにチビチビと飲んでいる。そもそも地元の人は父のように割らずにチビチビと飲むのだそうだ。ただし、アルコール度数が35度もあるため、慣れない昇護には水割りにしたほうが良いと店主がアドバイスをくれたのだった。
「そういえば美由紀さんとは上手くやってるのか?」
父が昇護に水割りを渡しながら聞いた。
昇護は、
「まあね。。。」
とさっきまでとは打って変わって歯切れの悪い口調で答えた。
「なんだ、上手くいってないのか・・・何かあったのか?」
父は、心配そうな顔をして聞いた。
「いや、ちょっと心配なんだ。直接会って確認したいんだけど離れてて無理だし。。。」
昇護は下を向いたまま答えた。
「心配?確認?浮気でもされたのか?美由紀さんに限ってそんなことはないだろ~」
父が努めて明るい声を出しているのが昇護には分かった。変な心配を掛けるのも父に申し訳ないし、ここはハッキリ言ってしまおう。どうせバレることだし。と昇護は腹を決めた。
「いやいや、そんなんじゃないんだ。美由紀はそんなことしないさ。実は、こないだ土浦に帰った時にプロポーズしたんだ。」
昇護は顔を上げて父の方を見つめ、力なく答えた。
「やるじゃないか!で、どうなったんだ?というより、元気ないじゃないか。もしかして断られたのか?」
父は先程とは打って変わった心配そうな顔を昇護に向けた。
「断られた訳じゃないんだけど、難しいってサ。あっちも仕事あるし。」
と言い捨てると、昇護はグラスを傾け、水割りを流し込んだ。もう味は分からなかった。不意に目頭が熱くなって来たのを感じた(えっ、俺、まさか涙出ちゃうんじゃないだろうな?)父は「男は男らしく」、「女は女らしく」をモットーに子育てをしてきた。男だった、いくら自分にとって深刻でも大の大人が人前で涙するなど、父が黙っているわけがない。しかし深刻なんだ。父さん。俺は尖閣なんかに行っている場合じゃないんだ。そう思えば思うほど感情が高まり、遂に一条の涙が頬を伝わり顎から落ちた。その後は堰をきったように2つまた3つと涙が新たな筋を頬に残して流れ落ちた。
正面を向いて俯いたままの昇護は父が黙ってこちらに体を向けて見つめている気配を感じていた。(怒れよ!父さん、こんな女々しい俺を昔みたいに怒鳴り飛ばしてくれっ!)昇護は心の中で叫んだが、父は何も言わない。
「あれ、涙が。。。おかしいな~。こんなことで泣くなんて。」
言い訳がましく口を開いた昇護に、父は軽く頷きながら、右手を昇護の左の肩にそっと置いた。それは、とても優しく暖かだった。幼い頃に頭を撫でてもらった時のような安心感がその手にはあった。そして、その表情は、とても穏やかで、長い航海から帰ってきたときに玄関で出迎えた幼い頃の昇護に見せた父の顔だった。
そして父がゆっくりと口を開いた。
「いいんだ、昇護。男同士で酒を飲んでいるときは、泣いていいんだ。それに、、、」
父が言葉を詰まらせた。
「それに?」
昇護が、目元を指で拭きながら続きを促した。
「それに、、、そのなんだ、、、それだけ美由紀さんに惚れてるってことじゃないか。断られたわけじゃあないんだろ?」
普段の表情に戻った父が、少し照れ笑いを浮かべて早口で言った。やはり照れているらしい。
「そりゃ、そうなんだけどね。離れれば離れるほど返事が悪い方向に行くんじゃないかって、不安になるんだ。海に出れば携帯も使えないしね。」
昇護は、箸の先で漬け物を少しだけ摘まんで口に運んだ。もう涙も乾いていた。
「そうだな、究極の遠距離恋愛だからな。船乗りは。。。」
父は、正面に向き直ると、グラスを煽った。空になったグラスに焼酎を継ぎ足し始めた。
「えっ、究極の遠距離恋愛?なにそれ?」
昇護の顔に笑みが戻った。
「あ、お前には言ったこと無かったな、ウチの若い連中には言ってやってるんだ。俺の持論だ。」
父は得意気に笑みを作って見せた。そして大声で笑った。
「なんだ、父さんが考えたのか、でも粋な艦長さんだな~。」
昇護も大声で笑った。
「で、どんな意味なの?」
昇護が聞いた。
「ん~、何て言うか、航海に出るとフォローが出来ないからな、当然連絡もとれないし。だから、別れ際の「想い」が会えない間に膨らむんだ。お前もあるだろそういうの。
いい想いで別れれば、会えない間じゅう、相手の良い所や良い思い出のことばかり考えている。普通の恋愛の100倍以上にイイ方向に想いが膨らむ。揉め事して別れれば、会えない間じゅう相手の悪い所ばかりを掘り下げて考えていき、あっという間に取り返しがつかない状況になっちまう。だから究極なんだ。」
父は両手でジェスチャーを交えながら得意気に持論を説明していた。先程の涙でばつが悪くなったのか、昇護は父の話を聞いている間に更に2杯の焼酎を飲んでいた。自分で薄めに水割りを作ったつもりだったが、昇護は軽い頭痛を感じ始めていた。飲み過ぎたかと思ったが、既に手遅れだった。(悪い方向か。。。じゃあ、俺はどうなんだろう?美由紀は悩んでいるのだろうか。。。それとも「終わり」を想い描いているのだろうか。。。)ぼんやりと想いを巡らす昇護の心の中に焦りと苛立ちが交錯し始めた。(どうすりゃいいんだ!)心が悲鳴を挙げていた。
「じゃあ、俺の場合は、完璧に悪い方向ってことだ!」
昇護は、音を立ててグラスをカウンターに置いた。
「いや、そういうわけじゃないだろう。お互い冷静に考えるには、いい間合いじゃないか?」
父は慰めるように昇護の肩を軽く叩いた。
その父の手を昇護は片手で素早く振り払うと
「間合い?間合いどころか隔離じゃないか!だいたいなんで俺が、、、俺達が尖閣に張り付かなきゃならないんだっ!俺達じゃ、中国の監視船すら追い払えない。俺たちは海洋犯罪以外は専門外なんだ。あんな奴等に舐められに行くだけなんだ。領土問題だろっ!あんたら海自(海上自衛隊)は何やってんだよ。」
昇護は声を荒げていた。カウンターの内側で他の客と談笑していた店主が一瞬心配そうな顔を向けた。目があってしまった昇護は、思わず目をそらしてしまった。が、もうどうにも止まらなかった。振り上げた拳を降ろすところを失ってしまったように昇護の苛立ちは止まらなかった。
「そんなこと言ったってしょうがないだろう。お前だって分かっているはずだ、俺達が出ていけば中国海軍が黙っちゃいない。奴等は自慢の空母まで持ち出してくるだろう。ま、あれは使い物にならんだろうが、、、そうなるとどっちつかずの対応をしてきた米軍は決断せざるを得なくなる。もし、米軍が中国に気を遣って出てこなかったら中国の勢いは止まらなくなるぞ。だから海保が」
静かにゆっくりした口調で諭すように話していた父の言葉を制して昇護が怒鳴った。
「じゃ、何のために!何のためにあんたら海自がいるんだよっ!立派な護衛艦を沢山持ってるくせに!何がイージス艦だ、張り子の虎じゃないか。金ばかり使ってよっ、税金泥棒じゃんかっ!」
父の目が潤んでいるように見えた。俺は、親父に何を言ってるんだ?税金泥棒なんて、とんでもないことを言ってしまった。酔って頭が痛い。もうフォローする言葉も浮かばない。。。昇護は血の気が引いていくのを感じた。
「お前だけは分かってくれていると思ってた。俺がどんな想いで現場にいるのかを。。。海保の巡視船を前面に立てておいて、どんな想いで後方に張り付いているのかを。。。」
父は、語気を強めて言った。
「。。。」
昇護は返す言葉が無かった。こんなこと言うつもりじゃなかったのに、今日はどうにかしている。完全な八つ当たりをしてしまった。でも何も思い浮かばない。
「少々飲み過ぎたようだ。もう出よう。」
父は静かに言い立ち上がった。
父が奢ってくれるとは言っていたものの、自分の発言に後ろめたさを感じた昇護は財布を取り出したが、父の手に制された。店の外で待つように言われた昇護は、
「ごちそうさまでした。」
と言うと店の外に出た。塩気をたっぷり含んだ生暖かい空気が昇護の体にまとわり着くような不快感を与えた。父に会わす顔がない。早く船に帰りたい。昇護は思った。
店内からは支払いをしている父と店主の笑い声が聞こえてきた。馴染みの店での父子の騒動を、父は気恥ずかしく思っているに違いない。
昇護の父、健夫は、店主に支払いを済ませると、詫びを言って店の外に出た。息子の昇護がぼんやり立っていた。ちょっと飲ませ過ぎたかな。と健夫は思いつつも、久々にシケた顔を見せる息子・昇護に未熟さを感じ、何となく安心感を感じている自分に苦笑した。(それにしても、息子に税金泥棒とまで言われるとはな、、、)他の誰でもない、息子の昇護に言われたのがキツかった。お前は、、、子供の頃から父である俺が航海で家を空けてばかりだった母子家庭のような環境で育ったんだろう?他の子達にはない苦労や寂しさも味わってきたはずだ。俺も辛かった。でも、国のためと思って頑張ってきたんだ。そしてその想いは家族も分かってくれていると思っていた。そう、昇護が生まれたとき、俺は海の上だった。親父の死に目にも会えなかった。少なくとも、家族みんなで助け合ってきたんじゃなかったのか?お前はそれを「税金泥棒」という一言で片付けてしまうのか?ま、今の泥酔した昇護には何を言っても伝わらないだろうから止めておこう。一昔前の親父族だったら「誰のお陰で飯喰わしてもらってきたんだ!」とか「何に飯喰わしてもらってきたんだ!」と怒鳴る場面だったのだろうが、俺一人でやって来た訳じゃない。家族が頑張って支えてくれてこそ、という感謝の気持ちが原動力になているからだ、それを、昇護の奴。。。しかも事の発端は美由紀さん絡みの話じゃないか。女の事なんかでメソメソしやがって、挙げ句のはてにカリカリして海自批判ときた。思わずしっかりしろ!と怒鳴り付けてやりたいところだが、、、いつのまにか堅く拳を握りしめていた自分に気付き苦笑いする。俺もイライラしてるな。手をゆっくり開くと、汗ばんだ手のひらに風があたる、心地よさが、気分を落ち着けてくれる。全く、若とはこういうものなのかもしれないな。健夫は、自分に言い聞かせるようにつぶやくと、後ろを振り返る。5mほど後ろをとぼとぼと歩く昇護が目に入った。飲ませ過ぎたな。健夫は再びつぶやいた。あの状態では何を言っても響かないだろうな。せめて「飲み過ぎて要らぬことを言ってしまった。」という程度だといいんだが、と思う健夫の脳裏に幼い頃の昇護を肩車して護衛艦を見せている若い自分の姿が浮かび、それに続いて、出港前に玄関で泣く幼い昇護を一生懸命なだめている自分の姿が浮かんだ。そして、帰宅したときに、満面の笑顔ではしゃぎながら自分に抱きついてくる幼い昇護の姿が浮かんだ。最後に、自分が艦長を務める護衛艦「いそゆき」艦長室の机の写真立ての中の昇護の写真が浮かぶ。その写真には、念願の海上保安庁パイロットになった昇護が、大好きなベル212の前で笑顔で写真に収まっていた。これで良かったんだよな。と健夫は自分に問いかけてみた。昇護には答えが見えているのだろうか。。。そんなことをぼんやり考えているうちに昇護が追い付いた。そこで初めて健夫は自分が立ち止まっていたことに気付いた。
「どうした。飲みすぎたか?」
健夫は昇護の顔を覗き込んだ。店の中では、酔って赤い顔をしていた昇護が、街灯の下でも分かるくらい白っぽくなっていた。(こりゃ、いかんな)と健夫は思った。吐くか二日酔いは確定だな。
「ちょっと頭が痛くなってきた。でも大丈夫だよ。」
と昇護は言いながらヨタヨタと歩き始めた。
そんな姿を見て健夫は、
「そんなんじゃ、ラッタル(桟橋から船に掛けられた簡易な階段)は昇れんな。電話して誰か舷側(船の側面、ふなべり)に迎えに来てもらっておけ。」
自分の声が艦長の声になっていることに健夫は気付いた。泥酔している昇護の機嫌を損ねるかもしれないと思ったが、それでいい。と思った。いくら酔っているからと言え、これくらいのことで荒れるのであれば今度は喝を入れてやる。美由紀さんとの件だって、本当はしっかりしろと一喝してやりたいくらいなんだが繊細な問題だ。しかし、躾は別だ。自分がどんな状態であれ、人とどう接するかは、厳しくしてきたつもりだ。特に海の男は集団生活・チームワークが基本だ。それは、海保だって一緒の筈だ。自分の中で、そう結論づけた健夫が昇護を見ると、健夫は相変わらず白い顔をしていたが、苦虫を噛み潰したような渋い顔に笑顔を浮かべ
「それもそうだね。ヘリのクルーに電話してみるよ。父さんは酒強いね。」
と昇護は言うと、携帯電話を取り出して、歩き出した。その表情をみて、健夫は、少し安心した。辛そうではあるが。。。口数が多くなったのは、多少はさっきの発言気にしているということなのだろうか。ま、父子で細かい詮索をするのはよそう。後で気にするぐらい深い話を出来たということは、飲みに連れ出して正解ではあったわけだな。また時々飲みに行くことにしよう。先をよたよたと歩く昇護は携帯電話を耳にあて立ち止まっていた。しきりにおじぎを繰り返している姿が啄木鳥のように見える。うまくやっているようだ。何だかんだ言っても迎えに来てくれる仲間がいる。人付き合いやチームワークについての躾は間違っていなかったようだ。健夫の顔に苦労と栄誉の年輪のよう刻まれた皺が調律を保ちながら乱れると顔に明るい笑みが浮かぶ、それは満足そうな笑みだった。それは目の前の昇護の電話でのやりとりが、航海ばかりで子供と接する時間が少なかった健夫が最も重視していた躾は間違いでなかった。という証明になったと思えたからだった。
片側2車線の県道11号線沿いに南に歩くと、間もなく右手に鉄筋コンクリート造りの庁舎や合同宿舎が見え、その谷間からは、護衛艦や巡視船のマストが月明かりの元、黒い影となって目に入ってくる。健夫と昇護は、その方向に伸びる道に入った。庁舎の影から出ると道路の正面には、停泊する護衛艦がシルエットを見え、ここが港であり、この道路はあと200m程度で海に突き当たる。この先、道路は何の意味も持たないことを当然のように、そして静かに主張していた。そして左手直前には巡視船「ざおう」が停泊していた。ここまで歩く間、2人とも終始無言だった。やはり「税金泥棒発言」が尾を曳いていたのかもしれない。護衛艦が視界に現れた際には、努めてその方向を見ないようにしているようにさえ思えた。
10mほど先に見える巡視船「ざおう」の係留されている埠頭には、常夜灯に照らされた3人の人影が見えた。それを確認すると、昇護は、搭乗しているヘリコプター「うみかぜ」のクルーでの機長、機上整備員、機上通信員だと、父健夫に言うと、健夫の方に体ごと顔を向け
「父さん、今日はありがとう。気をつけて。」
と深々と一礼した。
健夫は、
「こちらこそありがとう。また飲もうな。お前も気をつけて。」
と丁寧に一礼した。
それを見届けると、昇護は、酔ってふらついていたのが嘘のように、小走りで彼らの元へ向かった。
健夫はその背中越しに3人に深く頭を下げた。それに応えて3人の影が健夫よりも深く頭を下げているのが見えた。
これまで昇護を見守り、育ててくれたであろうクルー。そして、美由紀さんの問題もおそらく相談に乗ってくれているであろう兄弟のような存在。そして、、、これから尖閣の海へ行く、、、自衛隊よりも前面に立つ、即ち、どんな日本人よりも最前線に立ち生死を共にするであろうクルー。。。
健夫は、3人の影に「よろしく頼みます」と小さく、しかし強く呟きながら、もう一度彼らより深く頭を下げた。