守りたい
17.守りたい
美由紀が運転するNBOXは、土浦市街を抜けると、片側2車線の道路をつくば市へと向かう。
助手席に昇護は久々に会った美由紀の横顔を見つめる。半年ぶりか。。。肩の辺りで揃えた髪型の美由紀を初めて見た。その髪型は黙っているとクールそうに見える美由紀の顔立ちに利発そうな印象と明るさを与えていた。これはこれでカワイイな、と見とれてしまった。
「何じっと見てるの?」
前方を見て運転していた美由紀が、昇護の視線を感じたのか、チラッと昇護を見ると言った。
「髪、切ったんだね。それも似合うよ。」
昇護は、美由紀が気にし過ぎないようにさりげなく言った。
というのも美由紀は前に会った時は背中まで髪を伸ばしていたし、中学生の時初めて会って以来、美由紀は髪を伸ばしていたので、髪が長いというイメージしかなかった。それに魅せられたのも美由紀を好きになった理由の一部でもあったし、どちらかというと髪が長い女性が昇護のタイプであったのも事実である。
「えっ、本当?良かった~。ホラ、昇護って髪の長いコが好みだからさ、心配だったんだ。教師やってると運動会の練習とかいろいろ汗かくこと多くてさ、長い髪が鬱陶しくなっちゃったんだ。」
と一気に言い終えると、美由紀は昇護の反応を確かめるようにチラッと助手席側を見た。
「あれっ、なんでその好みを知ってるの?でも、短いのもイイね。気に入ったよ。」
と、ドギマギしながら昇護は答えた。
「昇護の好みなんて、とっくにお見通しよ。視線追ってればすぐ分かるもん。髪はロング、パンツよりスカート、ジーンズよりヒラヒラ。ねっ。図星でしょ?」
「参りました~。でも、それを知っててなんで今日もズボンなの?」
昇護は、言ってから-しまった!-と思った。
「ズボンじゃなくて、パンツって言ってよ。なんか親父みたいよ。いいの、パンツにはパンツの良さがあるの!スカートは、たまにだから新鮮なのよ。焼きつくわよ~。私のスカート姿。」
良かった。美由紀の声は怒っているというよりは、おどけていた。んじゃ、もうヒト押し
「それを目に焼き付けて船に戻りたかったな~。」
と昇護は、ポツリと言った。
「ゴメン」
さっきの強気の発言から打って変わってボソッと言った。
急に美由紀は静かになってしまった。赤信号で止まると助手席の昇護を見つめた。アイドリングストップ機能により、車内はシーンと静まり返っている。
「ホントにゴメン。半年振りでしょ。だから、何を着て行こうか、どんなオシャレしようか悩んだの、何度も選び直しして。。。でも、決まらなかった。だって半年振りなんだよ。もしかしたら次に昇護に会えるのは、半年以上先になるかもしれない。って思ったら何か泣けてきて。結局、昇護をドキドキさせて喜ばせるより、普段の自分の姿を思い出にして持ち帰ってほしいって思ったの。ゴメンね。これが女心なのかは分からないけど、男心と女心って難しいね。」
目には涙が溢れていた。
後ろから短いクラクションの音が聞こえた。ハッとして2人が前に目を向けると信号は既に青になっていた。美由紀は我に返ってブレーキを話すとアイドリングストップの解除された車内にエンジン音が復活し、即座に踏まれたアクセルに合わせて音量を上げていった。
「俺の方こそゴメン。そんなに俺のこと考えていてくれたのにね。ありがとう。」
と、昇護は言うと、美由紀の左手にそっと右手を乗せた。
「いいの。」
その手を美由紀が握り返してきた。
それから間もなく2人は「つくばエキスポセンター」に到着した。
前庭に置かれたオレンジと白の縞模様で50mもの高さのある巨大なHⅡ型ロケットの実物大模型が目印になるので、研究学園都市と呼ばれる碁盤のように張り巡らされた道路にも迷うことなく辿り着くことができた。
「つくばエキスポセンター」は、1985年に開催された「科学万博つくば85」の閉幕後、科学に親しみを持ってもらえるように開設された、最新の科学技術や身近な科学などに親しめるテーマパークで、世界最大級のプラネタリウムや科学・技術に関する体験型の展示物が多いので家族連れからカップルまで様々な人が訪れている。
今回、ここを選んだのは美由紀のチョイスだった。
小学校3年生のクラスの担任を任されている美由紀は、小学校中頃のこの時期の影響が将来の夢に与えるインパクトは大きいのではないかと、思っていて、その持論は、昇護も何度か聞かされてきた。
そんな美由紀の希望で、パイロットという夢を実現した昇護の目から見た科学技術の進歩。そしてパイロットだから技術は詳しい。と勝手に思い込んでいる美由紀のガイド役を務めることとなった。もちろんメインはデートだが、メカ好きな昇護も、10年くらい行っていないから久々に行ってみたい。と乗り気だった。
館内には「科学万博つくば85」のメモリアルコーナーをはじめ、ロケット、潜水艦、ロボット、、、乗り物から最新技術、科学技術の原理、そして、技術の発展の歴史まであり、なかなか見応えのある内容だった。最初は美由紀と軽く手を繋いで展示物を見ていた昇護だったが、それは長くは続かなかった。昇護は、日本が開発した深海探索用の潜水艦「しんかい6500」の模型に乗って深海探索を疑似体験できるコーナーを目にすると、美由紀のもとから子供のように駆け出して行き、美由紀が追い付くまで「おぉ、すげぇ」など感動の声を並べながら、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように細部まで見ていた。
終始そんな様子の昇護に、美由紀は、いつもは毅然としてるのに、男の人っていつまでたっても子供みたいでなんかカワイイな、と、そのギャップを微笑ましく眺めていた
2人が一通り見終えて車に戻る頃には11時を回っていた。真夏の太陽に汗がどっと出る。2人は再び車に乗り込むと一路筑波山方面へ向かった。今度は昇護が久々にハンドルを握る。しばらく運転していなかったのと新車であること、片側3車線もあり周りの車の流れの速い大通りにはじめのうちは、おっかなびっくり運転していた昇護だったが、大通りから出たとたんに水田や畑が多いのどかな道となり、昇護はリラックスして運転できるようになった。自然と会話も増える。
筑波山を右手に見ながら市町村合併で今は桜川市の一部となった旧真壁町へ近付いていく。西側から見る筑波山は、真夏の木々の濃緑色をまとい、所々に石切場の大きなまだら模様の山肌を見せる。夏の強い陽光のためか、露になった山肌は、女性の白い肌のように白く輝いて見え、濃緑の衣とのコントラストを強めていた。
筑波山などで採石される御影石は有名で、古くから石材を主要産業としてきた真壁に入るあたりから石材店が多くなり、様々な自慢のモニュメントで通りが賑やかになる。昇護たちは、観音像からアニメのキャラクター、ヒーローものまで多岐にわたる石のモニュメントに会話を弾ませながら真壁町の山沿いを通り東へ方向を変えて、上曽峠に入った。エコモードをオフにした美由紀のNBOXは、これが軽自動車?とハンドルを握る昇護が驚くほどグイグイと峠道を登っていく、途中で上曽峠から分岐した道に入る。人通りが殆どないためか、所々雑草や、木の枝が道路に出ていたが、右手に谷を見ながら山の中腹に沿って走るこの道路は、比較的平坦でのんびり景色を眺めながら走ることが出来た。なだらかだが山の膨らみにそって連続したカーブを過ぎると、左手の山側にある猿芸で有名な公園を過ぎたあたりで道が細くなり、2つ分岐する。分岐する手前には駐車場の入り口がある。昇護は速度を落とすとこの駐車場に車を止めた。そこは、峰寺山「西光院」という寺だった。車を降りた2人は、駐車場の奥へと進んで歩いて行った。人気が無いことを確認すると美由紀は昇護の腕に絡み付いてみた。おっ、と立ち止まり照れる昇護を美由紀は上目遣いに笑顔で見つめると、再び歩き出した。境内を支える何本もの柱が、かなり下の岩場から伸びているのを横目に、昇護と美由紀はスリッパに履き替えて境内に上がって行く。「おぉ~」、「すご~い」2人は吐いた言葉こそ違うが心には同じ種類の感動を受けていた。2人の眼下には、筑波山を中心とした山々に囲まれた八郷盆地が広がる。明るい緑の絨毯のように均等に張り詰められた水田に濃い緑の森があちこちに散りばめられている。そして、遠くには、霞ヶ浦の湖面が霞んで見える。この「西光院」は、その構造と景色の良さから関東の清水寺といわれ多くの人に親しまれてきたところであった。
ひとしきり、遠くに見える場所について指差しながら話をすると、
「お昼を食べたら、あの霞ヶ浦にでも行ってみようか」
と言って、また決断を先延ばしにしてしまった。久々で会話が弾んだこともあり、なかなかプロポーズするチャンスに恵まれない。結構難しいもんだな。と、昇護は次第に焦ってきた。
2人は車に戻ると、先ほどの細い道の分岐点から細い道を下っていった。
八郷盆地へ向かってなだらかに降りていく細い道は、アスファルトではなく、もともと林道であったことを思わせるコンクリートで固められただけの粗い路面だった。密集した木々がトンネルを作り、夏の日差しから通行する者に優しい日陰を提供してくれている。時おり木々が途切れて視界が開けると、すぐ下に田園風景が迫る。その景色に出会う度に昇護は車を減速させて、2人は景色を楽しみながら緑のトンネルを下っていった。
峰寺山を下ってきた2人は、麓にある温泉施設「湯の郷」に立ち寄った。長い船での生活のため、広い風呂に浸かりたいという昇護の要望を取り入れたものだった。
昼を少し回っていたので、2人は昼食を先にとることにした。「湯の郷」内には、地元の特産品をふんだんに使ったメニューを取り揃えたレストランがあり、メニューの幅広さと味の良さも手伝ってちょっとした人気のレストランだった。運良く空席があったため、2人は待つことなく昼食にありつくことができた。
昇護は、地元茨城県が誇るローズポークの豚カツ定食、美由紀は、地元農協が力を入れている地鶏をふんだんに使った八郷地鶏のカレーライスを注文した。それぞれの料理がテーブルにに揃ってから、いただきます。と言って食べ始まった。
「うん、美味い。ほ~らカツカレー」
と言いながら、昇護が豚カツをひと切れ美由紀のライスの上に置いた。
美由紀は、そのまま1口食べると、
「おいし~。」
と言って、残りをカレーに浸してから口に運んだ。
「わ~。カツカレーも美味しい。ほら、昇護も。」
といって、昇護に豚カツをカレーに浸すように進めた。
昇護は、美由紀と同じように豚カツをカレーに潜らすと、一気に口に頬張った。
「うわ、ホントだっ、ウマイ」
と口にご飯を投入した。
美由紀は、
「地鶏も美味しいよ~。」
と言って、昇護の皿にカレーにまみれた地鶏を置いた。
「ありがとう。ウマイね~。」
2人は久々の2人きりの食事を心から楽しんだ。
食休みがてらに、2人は地元農協が「湯の郷」で営業している直売所で、品定めをしていた。地元の特産品、土産物や、地元の人々が持ち込んだ野菜、漬け物、お菓子から、パン、赤飯など、小さい店舗ながら、所狭しと置かれた商品で賑やかだった。昇護は、ジャムの詰め合わせを「うみばと」のクルーに買っていくことにした。これで少しは船内の朝食がパンの時も楽しく食べれるだろうな、とクルーの様子を想像した。
美由紀は、シフォンケーキとスコーンのどちらにするかしばらく迷っていたが、結局両方買うことに決めたらしい。
館内に戻った2人は、男湯、女湯にそれぞれ別れた。昇護は、早速体を洗うと、屋内の広い浴槽につかり、たっぷりの温泉を満喫すると露天風呂に出た。見上げると夏の濃い緑色が迫るように青空に向かってそびえる様が、ここが山の麓であることを旅人に語りかけているかのようだった。裸でその景色を見上げていると森林浴をしているような気分にもなる。温泉と森林浴に体の芯まで癒され、雄大な山は、心を元気づけてくれているような気持ちになる。昇護は、すぐに体が温まり、長風呂は出来ない質だったが、久々にのんびり風呂に入れる開放感も手伝って、屋内風呂と露天風呂を2往復した。
昇護は風呂を上がると畳の休憩所で、涼んでいた。大きなテレビを見ていたが、心はうわの空だった。
20分ほどして美由紀が休憩所に入ってきた。うっすらと水気の残る髪が色っぽい。昇護は次は温泉旅行に行きたいな。と思ってしまった。もちろん今日のプロポーズがうまく行けばの話だが、プロポーズで良い答えをもらえなければ、最悪の場合、こうして会うことすら出来なくなるかもしれない。それを思うと、昇護は自分の胸の鼓動が大きくなるのを感じた。神頼みというのはこういうことなのかもしれない。あんなに自信家に見える機長の浜田さんが御守りを持っていたというのもなんとなく分かる気がしてきた。夕方にはまた当分離れ離れになってしまう。なんとか成功させたい。
「どうしたの?大丈夫?」
と美由紀が昇護の顔を覗き込む。
「ん、ああ、ちょっと、、、のぼせちゃったみたいだ。」
昇護は、苦笑交じりに答えた。考え込んでいた自分の顔は美由紀には体調が悪いように見えたのかもしれない。気をつけなければ。。。と<昇護は、努めて笑顔を作った。
美由紀が休憩している間に、昇護は先ほどのレストランでソフトクリームを2つ買ってきて1つを美由紀に渡した。
「ありがと~。やっぱこれがいちばんね。」
と美由紀は嬉しそうに食べ始めた。
昇護も、
「ん~。生き返る~」
と笑って見せた。
ソフトクリームを食べ終えた2人は、売店に立ち寄り、下見して決めていた商品を買った。
「スコーンはおやつにしようね。」
美由紀がニッコリ微笑む。
建物から出ると、午後の日差しに暑さは増している感じがした。盆地の夏の暑さは別格だ。
再び昇護がハンドルを握り、車を走らせた。
水田や畑が広がる直線の多い道をしばらく走ると、昔は丘陵地帯だったことを思わせる緩やかな上り下りやカーブの多い道へ続く。今は石岡市になっているが、市町村合併前は八郷町と石岡市の境目付近だったその丘陵地帯を抜けると合併前でいうところの石岡市に入る。突然平地に真っ直ぐで幅の広い道が出現し、送電線の大きな鉄塔が並んだ光景が出現する。柏原工業団地であった。製缶工場や、電線工場、など様々な工場が規則正しく並んでいた。所々にある巨大な空き地は、工場が撤退した跡に違いない。
2人は、途中のコンビニに立ち寄り、昇護はブラックの缶コーヒーを、美由紀はストレートティーを買った。スコーンのお供にするためだ。勿論、スコーンをご馳走になる昇護の奢りだ。
スコーンを食べながらドライブを続けた。工業団地から続く道は、石岡市の中心部を避けるように設けられ、幹線道路である国道6号線を横切り、さらに進むと国道355号線に至る。2人は国道355号線に入ると、まもなく小美玉市に入った。小美玉市は、やはり市町村合併により生まれた市で、小川町、美野里町、玉里村が合併して誕生した。それぞれの頭文字を取って小美玉市とした点は、石岡市と合併して消滅した八郷町よりは、幾分マシであった。2人が走っているところは、小美玉市の中でもかつては霞ヶ浦沿いに存在した玉里村だった地域である。2人は国道から県道に入る。畑や森を抜けると目の前に長い堤防が横たわっていた。堤防の上を走る細い道路に登り、さらに車を走らせると、ほどなく丁度路肩に空いたスペースを見つけて車を止めた。車を降りた2人は湖面を見つめる。昼よりは多少傾いてきたが、まだまだ強い日差しが、湖面にギラギラと反射し、眩しい位だった。この辺の夕焼けの景色は、広い湖面に反射する柔らかい夕日と遠くに見える山、そしてはるか対岸に霞む土浦市の町並みと融合し、絶景だったが、まだ時間が早すぎたようだ。
「いい景色ね。。。」
手のひらを水平にし、額にあてて日よけ代わりにしながら、美由紀が静かに呟いた。
「うん、なんか広い景色だね。それでいて、向こう岸や、山まで見える。同じ広い景色でも海とは大違いだね。夕焼けだともっと綺麗なんだろうけど、今日は時間が。。。ゴメンね。」
昇護は謝った。
「ううん、こういう場所に来れただけでも良かったよ。」
と美由紀は微笑むと昇護の手を軽く握った。
2人はしばらく無言で景色を眺めていた。2、3分のことだろうがその静寂が2人の距離を遠ざけてしまうような焦りを昇護は感じていた。このまま帰ってしまっては、いけない。しっかりと繋ぎ止めたい。
「美由紀。結婚してくれないか?」
いろいろなプロポーズの言葉を考えてきた昇護だったが、結局このひと言を言うのが精一杯だった。
「。。。。。」
美由紀は、細い目を、めいいっぱい大きく見開き、驚いたように昇護を見上げる。昇護と目が合うと避けるように俯いてしまった。
美由紀は昇護の手を離さず、2人は手を握ったままだったが、無言状態が続いた。1秒1秒が永遠のように長く昇護には感じられた。
昇護はたまらず言葉を追加した。何とか返事を貰いたい一心で。。。
「俺の仕事場は、空と海だ。事故の心配もあると思う。しかも海上保安官って海の警察官だから、そういう危険に対しての心配もあると思う。でも、俺は約束する。絶対に死なない。美由紀と家族のために。。。そして守る。美由紀と家族とこの日本を。。。」
美由紀は俯いたまま小さく何度か頷いた。良かった。俺の言いたいことは聞いてくれている。昇護は少し安心した。
しかし、また沈黙が続く。。。これは駄目だということか?やはり学校が心配なのか?苦労して夢叶った。小学校教員。俺だって叶った夢を捨てたくは無い。
昇護は問いかけるようにゆっくりと語りかけた。
「小学校教員の仕事は美由紀の夢だったもんな。その仕事は絶対に続けてもらいたい。でも、俺は転勤が多いだろうから苦労を掛けることが多いかもしれないな。」
気がつくと俯いたままの美由紀の頬に一条の涙が流れていた。
「ごめん。担任してるクラスの子達の顔が浮かんできちゃって。。。今は返事ができない。。。でもすごく嬉しいよ。私の仕事のことまで考えていてくれて。。。私も昇護のこと好き。。。でも今は答えられない。。。。ホントに。。。ゴメンね。」
美由紀は昇護と向かい合うように体の向きを変えると、涙も拭わずに途切れ途切れに答えた。
昇護は、そんな美由紀に愛おしさが募り、自然に抱きしめていた。右手で頭を優しく撫でながら
「ゴメンね。苦しませて。。。答えは急がないから。。。ただ、俺の気持ちだけは分かってくれ。」
と言った。
「うん。。。」
美由紀は、暑さも忘れ、昇護の腕の中で小さな声を上げて子供のように泣きじゃくった。
美由紀が泣き止んだところで昇護は、
「行こうか。」
と美由紀に言った。努めて普段通りの声で。
2人は車に乗り込む。今度は美由紀が運転する。石岡駅で昇護を降ろすためだ。
もう間もなくまた離れ離れになる。普段通りの別れ方が出来なかったら。次は無いかもしれない。
プロポーズをしてしまった以上、美由紀に結婚する気が無い場合は、美由紀にとって昇護は、結婚をせまる人生の敵。でしかない。たとえ今後、結婚の話を出さなくても。結婚することを前提で美由紀に接してくる鬱陶しい存在でしかなくなる。疎遠になるのは確実だ。もし「やっぱり結婚は考えられない。」という答えが返ってくれば、昇護は恋人という存在ではいられなくなるだろう。
だから、普段通りの別れ方をしたい。「またね。」と言って、次に再会するのを楽しみにしているような挨拶で別れたい。
日の傾きが増し、幾分優しくなった湖面の輝きを車窓から眺めながら、昇護は
石岡駅まで、2人の間には沈黙が流れた。石岡駅前の狭いロータリーの内側にある送迎用の駐車場が運良く空いていた。
「それじゃ、今日はありがとう。」
と運転席の美由紀の方を向き、昇護は精一杯の笑顔を作る。
「えっ、電車まであと20分あるんじゃない?」
と美由紀は訝しがる。
「うん、でもこの駅の風景を目に焼き付けておきたいから。。。」
半分本当で、半分嘘だった。これ以上の沈黙は耐えられないし、美由紀からハッキリと結婚を拒否されるかもしれないという恐怖感もあった。気の利いた言葉も会話も浮かばない。そして、この駅と周辺を目に焼き付けたかった。こうして美由紀に送ってもらうのはこれが最後かもしれないから。。。
「そっか~。分かった。今日はありがとう。気をつけてね。」
美由紀は笑顔で言った。その笑顔は無理に作ったものであることを昇護は見抜いていた。気まずくなったかもしれない。
昇護は車を降りて、後ろのスライドドアを開けると、バックとクルーへの土産を持って、運転席の美由紀に、
「じゃ、気をつけて」
と言ってスライドドアを閉めた。
駅舎へ向かって歩き出した昇護は、振り返って美由紀に手を振る。美由紀も運転席から手を振っていた。
石岡駅は、古い駅舎のままで、最近流行の改札がホームの上の階にあるいわゆる-橋上駅舎-ではない。駅舎の入り口から真っ直ぐに改札を抜けるとそこが下り1番線のホームだった。電子マネーをタッチして改札を抜けてチラっと駅の外を見ると、まだ美由紀の車が止まっていた。そのまま昇護は駅のホームを所在無げに歩き回っていた。昔、石岡のお祭りに行くのに祖父母の家から乗ってきた鹿島鉄道のホームも車庫も事務所も一切が撤去されて既に面影は無かった。今はJRの常磐線しか通っていない。ホームの上り方に置いてある獅子頭を見つめた後、ベンチに座って今日の出来事に思いを巡らせていると、列車が来ると自動放送が告げた。
間もなく到着した普通列車に乗り込む。高萩行きの10両編成の電車だ。昇護は最後尾の1号車に乗り込んだ。椅子は空いていたが、ドア横の手すり握って立つ、ドアが閉まると呆然とドアの窓からホーム側を見ていた。電車がゆっくりと走り出す。とさっきくぐった改札が目の前に見えてくる。昇護は、咄嗟に改札の先に見える駅の外を見た。いた。まだいた。美由紀のNBOXが。ふと手前の視界に動くものを感じ、改札を見る。改札の外で美由紀がなりふり構わずに手を振っていた。昇護は驚いて手を振り返した。美由紀は気づいてくれたようだったが、加速して行く電車に一瞬で視界から消え去って行った。昇護の目からはいつの間にか一筋の涙が流れ落ちていた。