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 立場が逆転していた。強気で押しまくり、彩子をさっさと帰路に着かせようとしていた『クリオン』の努力は空しいものに変わっていた。逆にその親切心が彩子の怒りを買うという、壮絶な状況に彼は追い込まれていた。

「あのね……。髪はカラースプレー。服は全部光輝が持っていたものでさ、買ったわけじゃないよ?こんなに派手なの趣味じゃないし。眼鏡は……、特殊コンタクトで」

「じゃ、どうして学校へもコンタクトで来ないのよ?」

 完全に吊るし上げである。対象は、騎道若伴だ。

「黒目のコンタクトは出来ないんだ。これはカラーコンタクトだから、サングラス外したくないんだ」

「クリオンは猫目の吊り目だって話しだから、金色?」

 棘まみれの言葉に、騎道は面を食らった。

 彩子はバックから小銭を取り出して歩き出した。

「彩子さん、謝るよ。ごめんなさい。でも、あれくらい言わなきゃ彩子さん帰りそうにもなかったから」

 騎道は追いすがって釈明に必死だ。

 彩子は自動販売機にコインを入れ、一本取り出した。

「恥ずかしいからそのジャケット脱いで。それと、お酒臭いわよ。一体どれだけ飲んだのかしらっ」

 ミネラルウォーターの缶を投げ付けた。

 言われるままジャケットを脱いで、「いただきます」と騎道はプルトップを開けた。飢えていたように喉を鳴らす。

「目的は何? 久瀬光輝のふりをして、犯人をおびき出すつもり?」

 騎道は空き缶を放り投げ、自分でコインを投入し同じものを取り出した。そ知らぬ顔をする騎道へ、彩子は視線を当て続けた。

「どこまで捜査は進んだの? あなたのアパートに放火した犯人は、あれからあなたをまた殺しに来た?」

 ごまかすように、騎道は前髪をかき上げた。

 カラースプレーで造りあげたようにはみえないほど、透明感のある見事な金髪。この色に彩子も騙されたのだ。

「光輝がどんな風に生きていたのか、知りたかった……」

 それも本心だろうが、それでは彩子は納得できないのだ。

 はぐらかされる度に、全身の血が逆流しそうな苛立ちを覚える。いつも騎道は彩子の追及を正面から受け止めない。

 他の人間ならば、彼の柔らかい穏やかな物腰を臆面通り受け止めるだろうが、飛鷹彩子は違うのだ。

 耶崎中四神王の一人、朱雀と渾名された彼女だ。

「あなた、狙われてたんじゃないの? それともただ巻き込まれただけ? 放火現場を目撃したから?

 どうして警察に言わないの? あれは放火ですって、あの時、怪しい男に殺されそうになりましたって!?」

 騎道の肩を掴んで向き直らせた。

「あなたが臆病者で、報復を怖がっているとは思えないわ」

 ふっと、騎道は頬を緩めた。

「あの時、彩子さんに助けられたよね。大きな声出してくれて」

 それは、三週間も前のことだった。

 騎道若伴の住居である関山荘が炎に包まれていた同じ時間、帰宅途中の彩子は現場近くを通りかかっていた。

 突然彼女の目の前に飛び出してきた騎道は、追いかけてきた殺意に満ちた謎の男に襲われるが、彩子の機転で難を逃れ、事無きを得たのだ。

 警察を呼ぼうとした彩子を、その時、騎道は引き止めた。

『確信がないんだ。少し状況を見た方がいい』

 しかし、彼は口を閉ざしたままだった。今も本心を語ろうとはしない。

「無差別殺人事件と、何か関係があるのね?」

 騎道は表情を浮かべない。

「騎道の部屋は久瀬光輝が使っていたもので、あなたは彼とは一番の知人でしょう? こんな格好をして、何かを探ったりしていて、抹殺されかかったの忘れたの?

 何を掴んだの? 次のターゲットになるつもりなのっ」

「彩子さん……」

「答えなくたっていいわよ。騎道の言うことなんて嘘ばっかり! 言わなくたって、全部見えてるわ。

 あなたは久瀬光輝がどう生きていたのか知りたいの。どうしてあんな殺され方をしたのか、誰がやったのか、何の為なのか。自分が逆に狙われることだって平気なんだわ」

「……僕は、大丈夫だよ……」

 うつむく騎道。彩子はいたたまれなく目を閉じた。

「……去年の春、あたしも同じことしたわ。大丈夫だって思ってた。正義が絶対何よりも優先されるって考えてた。

 どうして一人で背負い込もうとするの?

 そんなことしてると、あたしより酷い目にあうわよ……」

 沈黙が二人の間を支配した。ここまで言っても、騎道は黙したまま逃げ出すかもしれない。そう思うと、怒る気力も遠のいてしまう。

 同じ繰り返しはもうたくさんだった。

「協力するわ。一人より二人の方がましでしょ?

 それに、私の方が地の利があるし、キャリアもあるわ」

 意外にすんなりと、この結論は彩子の中から出てきた。

 後ろめたい気はするが、一瞬も迷いはしなかった。

「彩子さん、手を引いたんじゃないんですか?」

「騎道の方こそ、親友に嘘をついて、いいのかしら?」

 穏やかな揶揄に、凍て付いた言葉で返した。

 彩子がどう言葉を次いでも、騎道は崩れない。決して奥へ入り込ませようとはしないのだ。

 騎道は空き缶を正確に狙ってゴミ箱に投げ込んだ。わざと背を向けたと、彩子は受け取った。

「はっきり言ったわよね? わかったからって、戻ってくるわけじゃないから、って。

 三橋に、どう言い訳するつもりなの?」

 落ち着かなく騎道はジャケットを肩に背負った。

「それは彩子さんも同じでしょう?

 僕に協力する? 何を指しているのかわかっているんですか? 君が酷い目にあった時と、同じことになる可能性だって……」

「一人じゃなければ、怖くないわ」

 騎道は大袈裟に頭を押さえた。

「君は全然自分のことを大切にしていない。そんな人とは組めないよ。冗談じゃない」

 彩子は驚いた。冷ややかにしているが、騎道は本心から苛立っているようだった。

 ポーズではなく、本気なのだ。この騎道が。

「何よ。私じゃ足手まといだって言うの?」

「YES」

 豹変した。悠然と向き直る彼は、一学生の騎道若伴ではなくなっていた。

 硬質の印象を与えるグラスは、彼の意志の強さを際立たせている。リラックスした口元に滲むのは嘲笑か?

「……甘く見てくれるのね。あなたがどういう権利と身分でそういっているのかは知らないけど」

 彼はクスリは格好を崩した。

「買い被らないで下さい。僕はただの学生ですよ」

 誰がその言葉を信じると思っているのだろうか。YESと答えた瞬間の威圧感と自信は、平凡な学生のものではなかった。彩子でさえ、空寒いものを感じていた。

「もう一度YESと言ってごらんなさいよ。手を組むと。

 それだけの価値はあるつもりよ」

 自分の能力への強い自負がなければ、こんなことは最初から言い出しはしない。

 確実に有力な情報源も、彩子のバックにはあるのだ。

 案の定、騎道は首を振った。

「即断は命取りよ。今夜一晩ゆっくり考えてもらうわ」

「一晩?」

「これからどこを捜査するの? 付き合うわ。

 YESというまでね」

 騎道は言葉をなくして彩子を見返した。

「騎道も相当な頑固者みたいだけど、あたしも有名な石頭なのよ。覚えておきなさい」

「本気なんですか?」

「今さら怖気てるの?」

 ツンと彩子は言い返した。期待に反して、騎道はニコニコと人懐こい笑みを浮かべた。

「いえ、ラッキーだな、と思って」

 自分から彩子を促して歩き出した。

「実はね、どうしても行ってみたい店があったんですけど、女性同伴じゃないと入れなくて。助かるな」

「…………」

 このニコニコ軽リンに一抹の不安を覚える彩子だった。

「こんなことを毎晩やってたの? 授業中の眠り姫ってこのせい?」

「それもありますよ」

 悪びれもしない騎道に、彩子はムッときた。

「二度とフォローなんてしてあげないわよ。

 大体、この格好は何? 派手にも限度があるわ」

「光輝はこれが普通なんです。

 伊達に何年も一緒に居たわけじゃありませんからね。行動パターンを完全に把握してるから、こうなるんですよ。

 僕しか、完全に光輝になることはできないし」

 信号で二人は立ち止まった。騎道はジャケットを裏返して彩子の肩に掛けた。裏は黒のリバーシブルであった。

 むせるほどの情熱的なムスクが彩子を包む。騎道の好みなら、趣味を疑ってしまうほど独特な香りだ。

「昼間の光輝は抜け殻みたいなものだから。あいつが本当の姿を見せるのは夜だけで、これしか方法はなかった……」

「こんな真似して、人格が分裂しないの?」

 少し寂しい顔をする騎道に、彩子は笑って覗き込んだ。

「その前に酔いが回って考える余裕なんかなくなりますね。

 あいつの底無しの酒豪だけは、真似できませんから」

 生真面目に断定する姿は、昼間の彼のものだった。癖のある肩を張ったクリオンの歩き方も消えていた。

「ほんとにそっくりだったのね。マリアでさえ、あんなに動揺するくらい」

「! 彩子さん、彼女を見たんですか?」

 信号が変わって歩き出そうとする彩子を引き止めた。

「どこで? 店で?」

 騎道は彩子の腕を取って、道を引き返した。

「もう帰ったわ。彼女とは話しもしたわ」

 腕を振りほどいて抵抗した。騎道が何をしたか思い出したのだ。訳がわからず騎道は立ち止まる。

 横断歩道を渡ってきた人並に二人は押された。騎道はシャッターの下りたビルのエントランスに逃れることにして、彩子を引き寄せた。

「騎道がレコードを壊したのを見て、出ていったのよ。

 瓜二つだっていいながら、泣いていたわ」

「まだ忘れていなかったのか……」

 騎道は冷たいステンレスパイプに掌を押し当てた。シャッターの奥を、彼は見るともなしに視線を投げている。

「クリオンは移り気だったみたいだけど、マリアにだけは真剣だったのよ。それなのに、あんなひどい言い方。

 二人とも、お互いを必要として、結婚するつもりだったって……。 ? 何がおかしいの?」

 彩子は騎道の笑い声に顔を上げた。

「だってそれ、光輝のよく使う手口だから」

 呆れ返った苦笑だった。

「愛してる、お前だけだ、何もいらない、君だけが欲しい。

 結婚しよう。……二度と僕には言えないな。

 そんな、言える限りの台詞で有頂天にさせて、一番最後に自分だけ背中を向ける奴なんです。

『大人の遊びだぜ』って、後は笑って知らない顔を通すんですよ。

 もちろん、話しはそれで終わりになんかならない。ひどい時には、逆上した美人に恨まれて刺されるか、無理心中を計られるかの目にあうんだ。

 僕なんて何度も騒動に巻き込まれて、迷惑したよ」

 シャッターにもたれ、肩をすくめた。

「マリアは、そうなる前に運良く光輝に悲劇が起きただけで、彼女には綺麗すぎる思い出だけが残ったんです。

 それも幸せだったと思いますが、忘れようとしないなんて一番の不幸だな」

 たしか光輝は騎道にとって、信頼し慕っていた人間だったのではなかっただろうか。今の口調は、迷惑すぎる厄介者へのささやかな追悼と、非難に満ちている。

「彩子さんのことだから、彼女に光輝を恨んでいた人間の心当たりを聞いたんでしょう? 何て?」

「ありすぎて、あげきれないって……」

 また、ニヤリと笑った。

「でしょうね。誰だって、彼が敵を造りやすいのはわかりますよ。逆に考えれば、誰が犯人でもつきとめにくい被害者だ。

 仮定してみたんです。光輝が死ぬ以前に、マリアに別れを告げていたならば」

「やめて。そんな言い方」

「捜査に私情は禁物じゃないんですか? 肩入れしすぎては、真実を見落としますよ」

 仮定と前置きしているが、騎道は確信しきっている。

 事務的に騎道は続けた。

「光輝のやることだから、徹底的にマリアを拒絶するでしょうね。掌を返したように」

「それ以上言ったら、騎道の神経を疑うわ」

「でも彩子さん、これは僕にしかできない一番確実な推論ですよ。誰も、残酷な光輝の本質を知らないんですから。

 暴論に聞こえても、マリアが彩子さんが感じた通り、光輝を深く愛しているなら、ありえなくない」

「違うわ。あの人はそんなことの出来るような人じゃない」

 焦る彩子と対称的に、騎道は落ち着き払っている。

「勿論、彼女が光輝を撃ったとは断定しません。

 最低でも、三人の人間が手を下したんだ。何者かに、依頼した可能性もある」

「それなら、最初の被害者はどう説明するの?」

「カモフラージュですよ。木を隠すには森が最適なように。

 警察は同一犯と確信しているようですが、二度目を誰かが同じ手口で真似ることは簡単ですよ。かなり詳しく新聞報道されたみたいだし。これは随分と周到な犯罪です」

 完璧な推理かもしれない。だが、彩子は否定したい。

「騎道。あなたの推理には、大きな間違いが一つだけあるわ。彼が、マリアを愛していなかったことを、どう証明するの?

 遊びでも真実の愛でも、あなたが言っているのはすべて推測だわ」

 騎道は首を横に振った。

「あなたがマリアの言葉を疑う限り、平行線のままね。

 彼は居ないんですもの」

「言ったでしょう? 僕にしかわからないって。

 彼は誰も本気で愛したりしないんです。

 結婚? あのクリオンが、一人に縛られる生活に耐えられるわけがない。そんな地味で単調な生活、彼が選ぶはずがないんですよ。口からでまかせに決まってる」

「でも、彼女の心は真剣だったわ」

「ええ。マリアの気持ちは純粋でしょう。でも、それに囚われてしまうと、人は簡単に狂気に走ってしまう。

 光輝はそんなに優しい人間じゃないんです」

「どうしてなの? 騎道からそんな言葉を聞くなんて思ってもいなかった。冷たいのは、あなたも同じだわ!」

 彩子の頬に血が熱く昇っていた。

 あくまでも騎道は感情をなくしたように冷静だ。

「僕が言ったのは、一番簡単に導き出せる仮定のことです。僕がマリアに会えば、すぐにわかることだ」

「クリオンと同じように彼女の心を手に入れて、あなたもクリオンがそうしたと思う通り、彼女の気持ちを踏み躙るつもり? マリアがあなたを付け狙うように?」

「恐れ入るな、四神王には。さすがですね」

 素直すぎる賞賛は、棘を含んでいた。

「でも、やっぱり手を引いた方がいいんじゃありませんか?

 そんな状態じゃ、公正な判断は下せないでしょう?

 何も、僕はマリアだけに固執するつもりはありませんよ」

 とんでもないポーカーフェイスだ。

「……わかったわ。マリアのことは仮定の一つなのね。

 騎道も、少し感情的すぎる気がするけど?」

「本当のことを言ったまでです」

「…………」

 難攻不落だ。こんな人間だとは彩子も思っていなかった。

 隠されていた強さが形を幾重にも変えて、彼を完全に庇護していた。

 騎道は一転して、無心な瞳で彩子を覗き込んだ。

「一緒に行ってくれるんでしょう?」

 心底むくれている彩子は答えない。邪気の無さに気も緩んだのだが、悟られたくなかったのだ。

 騎道はさっさと彩子を歩道に連れ出した。

 信号を待つ人々の中にペアの男女は多く目につく。その中でも金髪の青年とその連れは、親密な素振りがなにもないにもかかわらず、一層目を引く組み合わせだった。

「マジェラという店なんですが、そこでも光輝は派手な喧嘩をしたらしいんです。喧嘩なんて日常的なんですけど、その相手が、ちょっと意外な人で、何か? どうか……」

 彩子は正面から顔を逸らしていた。

「……刑事よ……。向かいの二人連れ……」

「知り合い?」

 警戒して、騎道は顔を動かさずに聞き返した。

「よーく知ってる。いきましょ」

「まって。今走り出したら、逆に変に思われる。

 サングラスは?」

「騎道がさっき捨てたじゃない。格好つけて」

 声を落として、必要以上に非難を込めた。

「……ごめん。なら仕方ない。少し、我慢して」

「え?」

 背後からの強い力が彩子の背中を押した。視界一杯に騎道の黒いシャツブラウスが広がる。

 考える間も与えず、騎道の腕は彩子の体を締め付けていた。頭を左肩に押し当てさせて、他の誰からも遮断するように、彼は両方の腕を回した。

「……騎道……!」

「ほんの少し……」

 騎道の声は甘く彩子の額にふりかかった。それでも彩子は少し顎を上げた。引いた口紅が胸に残りそうだった。

 騎道は自分のかけていたサングラスを彩子に手渡した。

 信号は、もう青に変わってもいい頃だ。

 体を少し屈ませ、騎道はさらに彩子を引き寄せた。静かに彼は緩やかなウェーブの神に頬を押し当てていった。

 彩子は目を閉じた。全身の力が抜けてゆく。涼やかなシトラスの香りが彼女を包んできた。

 これが騎道なのだ。海のように静やかな香りが彼のもので、きつく上衣に染み込んでいたムスクは、久瀬光輝のものだった。まるで性格は、正反対らしい。

「……いやー、最近の若い者はやりますな」

「こういう他人の目の多い方が、その気になりやすいんだそうですよ。しかし、これじゃ露出狂と大差ありませんな」

 中年男性二人の、感心しきった会話が立ち止まった。饒舌なところは心持ち回った酔いのせいだった。

「職務上なら黙認はできませんがね」

「いいじゃないですか。外人は愛情表現が濃厚なだけで」

 騎道はけだるく顔を上げて、二人を眺めた。

「! ……、アイム・ソーリー、いや。失敬失敬」

 鋭い一瞥を受けて、二人は取り繕った。

「……うらやましいですな。金髪碧眼だと、あんな美人を好きにできるんですからな」

「佐野さんも明日から、いかがです?」

 ハッハッハ。と二人は笑い声を立てた。しかし視線は、再度美女のうなじに顔を埋める金髪に注がれていた。

「次、いきましょうか? パーッと」

 うなずきあって、二人は歩き出した。

「しかしなんですね。あのタカさんが腹を壊すなんて、鬼の撹乱ですな」

「体だけは丈夫が取り得の人だから、今頃はケロリとしてますよ。でもあの課長は心配性だからね」

「帰りたまえって、しつこかったですからねぇ……」

 捕りとめのない会話は遠ざかり、聞こえなくなった。

「……彩子さん、海の匂いがするな……」

 騎道は、凍り付いて身動ぎもしない彩子から、するりとサングラスを取り上げた。

「海はいいですよ。大好きだな……」

「……騎道、早く放して……」

 くぐもった彩子の声に、騎道は素直に従った。何事もしていなかったかのように、爽やかに手を引いた。

 彩子はその騎道のシャツを握り締めて、顔を上げた。

「心配するほどのこともなかった……」

 最後まで言わせる気は彩子にはなかった。

 いつも通りのニッコリとした顔立ちに平手が飛んだのは、彩子にとって至極当然のことだった。

 睨みつけると、騎道は目をパチクリさせている。

「迷惑料……!」

 彩子はそう教えてやった。

 いきなり騎道はしゃがみこんだ。ぶたれた右頬に手をあてながら、そのままクツクツと笑い声を押し殺した。

 こうなることは覚悟していた彼である。ただ、自分を睨む彩子と、手の中で小鳥のように静かだった彩子と。ほんの数秒間のブランクだが、変化の度合いは大きかった。



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