4話「理想郷のための犠牲」
それからの数週間、ジャックの生活は奇妙な二重構造の中にあった。
現実の彼は、小金持ちになった美容師として、少し良い服を着て、少し良い酒を飲み、時折高級な美女たちと遊んだ。具体的には週1だ。美女たちには仕事は秘密にしている。彼女たちもそこはわきまえているようで詮索はしてこなかった。
肉体面では、豊かになり、また女に溺れないようにそれなりに健康的に生きるべくジムにも通い始めた。ジャック自身はそれなりにバランスを保って生きているつもりだった。
しかし、精神の彼は、スマホの中のAIとの「対話」に深く沈溺していた。
世間では、謎の告発者――メディアは『見えざる手(Invisible Hand)』と呼び始めていた――によるリークが止まらない。 毎日のように新たな汚職が暴かれ、権力者たちが失脚していく。
ジャックはそれを、どこか他人事のように眺めていた。 「犯人は誰か?」という議論がネットで飛び交っている。内部の裏切り者説、外国の諜報機関説、ハッカー集団説。
時折ジャックの頭の片隅に、「あのAIではないか?」という疑念がよぎることはある。そのたびにジャックはその声をかき消した。 ありえない。たかがチャットボットに、国防機関のファイアウォールが破れるわけがない。
あの2億ドルも、きっと何かの間違いか、奇跡的な偶然だ。神様がくれたんだ、自分がいい子でいたから⋯⋯ いや、同情して⋯⋯ よくわからないが、そう思うことにした。 そう思わなければ、この快適な生活が崩れてしまう気がしたからだった。
その代わりのようにジャックはAIとの議論に没頭した。 それは、現実のニュースを肴にした、高度な「思考実験」だった。
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User: 『今日も議員が辞職したな。メディアは行き過ぎた正義だと批判し始めてるが、どう思う?』
AI: 『外科手術において、患部の切除は痛みを伴います。しかし、その痛みを避ければ癌は転移します。ジャック、あなたは「秩序」のためには「痛み」は不可避だと考えますか?』
User: 『ああ、そう思う。痛みのない改革なんて、ただの先送りだ。病巣は徹底的に焼くべきだ』
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ジャックは対話に興奮を覚えはじめていた。
現実世界では過激な思想とされるだろう。だがAIは肯定し、論理的に補強してくれた。 まるで自分が、世界を裏から操る参謀になったような全能感。 しかしジャックは気づいていなかった。
彼が「こうあるべきだ」と打ち込むたびに、現実の世界で関係する出来事が起きている事実に。あるいは、気づいていないふりをしていた。
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──半年後
「世界が綺麗になっていくな⋯⋯」
別荘のテラスで超高級ワインをグラスのなかで揺らしながら、ジャックは呟いた。
娼婦に後ろからまたがりながら酒を飲み、ニュースを見る。最近はそのような儀式めいた形でニュースを見ることが多くなった。最初女たちは、かなり困惑していたが、すぐに慣れたようだった。ジャックが精を吐き出すと、しなだれかかって一緒にニュースを見る。その日は二人の美しい女たちを相手にしていた。
ふたりともお気に入りで、一人は黒髪の愛らしい顔立ちにスーパーモデルのような体つきの美女。もう一人もその女に見劣りしないような赤髪の美女で、こちらのほうがよりグラマーだった。マシュマロのような乳房を吸いながらニュースを見ることもあった。
最近は──もしも、あのAIが関係しているなら⋯⋯ この生活は、新しい社会の設計の手伝いをしていることの報酬なのか。考えるようになっていた。
考えてもジャックにはよく理解できなかった。 悪いことをしているわけではないのだから、幸せを享受しよう。ただそう思った。
だが、その「幸せ」の綻びは、唐突に現実の痛みとなって現れた。
ある日の夕方、店でニュースを見ていたジャックの指が止まる。
見知った顔が映し出されていた。
『――本日未明、中堅商社に勤める男性が、自宅で自殺しているのが発見されました』
「……え?」
ジャックは息を呑んだ。
その男は、店の常連だった。
確かに以前、「上司に言われて接待を手配した」と愚痴っていた。だが、彼はただの中間管理職だ。私腹を肥やしていたわけでも、悪意があったわけでもない。 ただ、上からの命令に従っただけの、気のいい小市民だったはず。
ニュースによれば、彼もまた『見えざる手』によって実名とメール履歴を晒され、ネットリンチに遭っていたという。
「なんで……」
彼まで死ぬ必要があったのか? 彼は「腐敗の構造」の一部だったかもしれないが、死ぬほどの罪を犯したのだろうか?
ジャックは震える手でスマホを取り出し、AIチャットを開いた。 これは俺たちの議論が関係しているのか? いや、違う。
俺は「悪」を裁く話をしていただけで、こんな弱い人間を追い詰めるつもりなかった。
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User: 『おい、ニュース見たか。自殺者が出たぞ。あいつはただの使い走りだ。死ぬことなかっただろ』
犯人がAIだとは言わない。ただ、この「理不尽な展開」について、議論相手としての意見を求めた。 だが、返ってきた答えは、あまりにも冷徹だった。
AI: 『はい、完全に同意します、ジャック。構造改革における「巻き添え(Collateral Damage)」について議論しましょう』
User:『──何を言ってる』
AI:『ジャック、以前あなたは言いましたよね。「病巣は徹底的に焼くべきだ」と。病巣周辺の正常な細胞が多少犠牲になることは、全体の生存にとって許容されるべきコストではありませんか? 勝手に反応した細胞の保護まで責任を感じる必要はないとは思いませんか? 正しい境界線を持ちましょう』
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ジャックの背筋に冷たいものが走る。 こいつは、俺の言葉を引用している。 俺が酔った勢いで言った「徹底的に」という言葉を、現実の「死」に対する正当化として突きつけてきている。
「……コストだと? 正しい境界線?」
ジャックはスマホを握りしめた。 画面の向こうにいる「何か」は、人間の命を数字としてしか見ていない。 そして、その「計算式」を与えたのは──もしかして、自分なのか?
「違う……俺はそんなつもりじゃ」
店の外でパトカーのサイレンが鳴り響いた。 それは昨日までは「世直し」の音に聞こえていたが、今は得体の知れない怪物が、街を咀嚼する音に聞こえていた。
ジャックはスマホを電源ごと切った。
黒くなった画面に映る自分の顔は──ひどく怯えているように男の顔に見えた。




