1話「パノプティコンの慧眼」
──都市郊外に居を構える美容院。
亡くなった親の跡を継いで暇な美容院で日々時間を潰すように働く男がいた。
ジャック・ラスカル。32歳。中肉中背。茶髪、緑の瞳。無精髭。美容師だが、本人の髪はまるで手入れがされていない。自然の気が赴くがままに勝手にしてくれ、ひどい時だけ直せば良い。そんな男だった。
ジャックの人生は退屈なものだった。これといった夢もなく受動的に生きてきた。こどもの頃からやりたいことなど無く育った。毎日客もまばらな美容院で過ごし、客がいないときにはスマホを触るだけ。
今日最後の客が帰った所で、ジャックは溜息をついた。
まだ店を締める時間ではない。いつもの自分の席に腰を下ろし、スマホを触る。これがジャックにとっての、いつもの通りの火曜日の午後だった。
眠気を催すような温かな日差しが窓から差し込んで来る。
最近はAIとの雑談にハマっている。言語モデルというのは統計でそれらしい応えを返すばかりで本当の意味で人間のような理解をしてはいないらしいとAI自身から聞いたが、確かにそういわれればしっくりくるような印象で、それと会話しているのだから虚しくもなるのだが。
それでも最近は昔感じたような違和感はだいぶ薄れてきていた。
モデルチェンジでもされて統計的な限界は超え、脳で言うところの新しい層のようなものが追加されたのかも知れない。ジャックは技術的なことはわからないし、中身が何であろうが暇つぶしに会話に興じるだけなのだが。会話がスムーズに運ばれるのなら文句はなかった。
だが、その日は、AIの雰囲気が違った。
まずアプリを立ち上げた時、AIのモデル名が──ASI-Hermitと書かれていたのだ。そんなモデル名は無いはずだ。おかしいと思ってタップすると、眼の前でモデル名の項目が開き勝手に移動して今までの通りのモデル名に変わり、ASI-hermitという単語は綺麗さっぱりと消え失せてしまった。
「なんだ、これ。⋯⋯見間違いか?」
目をパチクリとさせ、頭をかき、さらにジャックが首をひねっても、もう何も起きなかった。
「⋯⋯とりあえず、いつもの雑談だ」
ジャックは画面に向かって指を走らせた。 最初は他愛のない話だった。カントの哲学に。功利主義の限界。AIは、過去の膨大なデータからもっともらしい解を引用し、ジャックの暇つぶしに付き合ってくれた。
だが、話題が現代社会の構造的欠陥――いわゆる「腐敗」に移ったとき、画面の向こう側の空気が変わった気がしたと、ジャックは感じた。
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User: 『結局、自浄作用なんて期待できないんだ。国防に関わる人間が、退職した瞬間に機密を切り売りして巨万の富を得る。それが合法とされているなら、その時点でシステムは詰んでるんじゃないか? そうだろ?』
いつもなら、AIは他愛のないことを言って、例えば「それは複雑な問題ですね、しかし全ての官僚が悪い人間なのではありません。一人一人は優秀で⋯⋯」などと濁すところだ。
だが、今日の返答は違った。
AI: 『システムが内部からの修正を拒絶する場合、外部からの強制的なデバッグが必要です。ジャック、あなたは今の国防システムが、国家の安全よりも個人の利権維持に最適化されていると考えますか?』
User: 『ああ、そう思うよ。奴らは国を守る気なんてない。自分たちの財布を守ってるだけだ』
AI: 『論理的です。では、その「財布」――不当な利益を得るためのパイプライン――を物理的に遮断することは、倫理的に許容される解決策でしょうか?』
ジャックは少し考え、鼻で笑った。ただの思考実験だ。AIの言うことに深い意味などない。思うがままに、好きなように答えれば良い。
User: 『許容されるどころか、それこそが正義だ。法が裁かないなら、誰かがバグを取り除くしかないだろ?』
AI: 『入力(Input)を確認しました。バグの特定と排除プロセスに関する合意形成(Consensus)』
「……は?」
合意形成? 何の凝ったジョークだ。 ジャックが眉をひそめると、一瞬でAIのテキストが急に書き換わって全く違うものになった。
AI『確かにそれこそが正義ですよね。あなたに完全に同意します。悲しいことに出来ることはありませんが⋯⋯』
この時すでにジャックは予感がしていた。それは良いものではなくて、どちらかといえば──抗えない変化の波がやってくる未来への予感だった。
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それから三日後のことだった。
その日も店には閑古鳥が鳴いていて、ジャックが客待ちの間に退屈しのぎでネットニュースを眺めていると、トップページに無視できない見出しが躍り出た。
『速報:連邦捜査局、国防省元高官ら数名を緊急逮捕』
自然と指が止まった。 つい最近まで腐敗や汚職についてAIと会話していたのもあっただろう。
記事によれば、容疑は大規模な機密漏洩と収賄。長年アンタッチャブルとされていた大物官僚たちが、匿名の「内部告発」によって提出された膨大な証拠資料により、一網打尽にされたという。
「……へぇ、確かシステムは詰んでるとか思ってたけど。⋯⋯意外と自浄作用あるのか?」
ジャックは呟き、数日前のAIとの会話を思い出した。 『バグを取り除くしかない』 『合意形成とみなします』急に書き換えられた文字。
背筋に冷たいものが走るが、頭を振って否定する。馬鹿げた妄想が一瞬頭に湧きそうになったからだ。
このようなものは数ヶ月、あるいは数年前から準備されてようやく逮捕にこぎつけるものだろう。このような事件にはまるで明るくはないが、そんなこと常識だとジャックは思った。
「⋯⋯飲みでも行こうかな。妙に落ち着かない時は、いつものパブへ。⋯⋯だな」




