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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

超常安全対策機関CAT ―落ちこぼれ少女と金色の閃光―

作者: まぴ先生

はじめまして、あるいはこんにちは。

本作『CAT ―劣等少女と金色の閃光―』は、クトゥルフ神話×現代特殊部隊×百合という、私の欲望を詰め込んだ世界でありながら、

一番書きたかったのは、“心を通わせていくふたりの物語”でした。


戦場に立つ少女たちは、ただ強いだけじゃない。

不器用で、過去に囚われ、時には逃げたくなる。

そんな彼女たちが少しずつ、互いの存在に安心し、支え合っていく姿を書けたなら、それは私にとって何よりの幸せです。


この物語が、あなたにとって小さな温もりや勇気になることを祈って──。


Prologue  “火の粉”


 東京湾の夜は、鉄錆と潮と、もう終わった戦争の残り香で出来ている。


 封鎖区域第二十七埠頭。コンテナの層が闇のピラミッドみたいに聳え、朽ちたクレーンが月を掬おうと軋んでいた。風は重油の膜をまとって肺に滲み、吐いた息まで金属味になる。


 そんな毒気のただなかで、あたしは膝を抱えて座り込み、ベレッタM92FSを分解していた。


 ネオンの届かない陰影のなかで、月光だけが唯一の照明になる。

 その月光をまっすぐに受け止めるように、ひときわ目立つ光があった。

 夜の闇に沈むツインテールの髪。その先端は腰まで届く金色で、まるで夜風に揺れる絹の糸のようだった。

 そして、髪の隙間から覗く瞳は──濡れたように煌めく、深紅の双眸。

 まるで磨かれたルビーが、夜の闇のなかで静かに熱を宿しているかのように、淡く、鋭く、燃えていた。


 ――あたし、更科さらしなるり。CAT、コードネーム《Pixieピクシー》。

 身長一四〇センチ。三十一歳。“こども扱いすんな”と噛みつきつつ、童顔と金色に輝くツインテールで好きに立ち回る。けど今日は誰にも甘えちゃいない。だってここは、あたしがいちばん嫌いで、いちばん落ち着く場所――亡霊しか寄りつかない夜の埠頭だ。


 スライド、バレル、リコイルスプリング。布で金属を磨くたび、月光が粉になって飛び散るようにきらりと光る。部品が息を取り戻す瞬間を指の腹で確かめていく。それは祈りだ。

 半年と少し前、同じ指で握った手の温度を忘れないための、ちっぽけな鎮魂の儀式。


 「……寒ぃ。指が凍るわ」

 がさつな独り言は、海に溶けて誰にも届かない。

 昔は――そう、ぶりっ子全開だった頃は――こんな時でも「Pixieたんのお指がしもやけになりそうだよぉ♡」なんて高い声で泣き真似したものだ。でもあれは仮面。仮面の裏の素顔を、あたしは一人きりじゃ出せなかった。


 変わったのは、《Galeゲイル》――弓削薫ゆげかおる――とバディを組んでからだ。

 ある任務の帰り道、仮面がずれて素のあたしが顔を出した。慌てて取り繕おうとした時、あの長身の狙撃手は肩を揺らして笑った。

 「案外かわいいとこあんね。私はそっちの君の方が好きかも」

 その一言で、仮面はくるりと裏返った。甘ったるい声を脱ぎ捨てて、あたしは“喧嘩っ早い小娘”になった。


 ――薫。

 黒髪をひと束にまとめ、電磁加速対物ライフルなんて化け物銃を軽々と振り回す女。CAT運営が運営する孤児院出身で、でっかい背中とでっかい夢を持ってた。あたしのツインテールと薫の曳光弾が夜空に金線を交差させるたび、人はそれを《金色の閃光こんじきのせんこう》と呼んだ。

 けど、その光はある夜ぽっきり折れた。空港滑走路に降り立ったシャンタク鳥が放った霊熱弾――燃える魔力の塊を、薫はあたしを庇って胸に受けた。

 火花の雨。耳を裂く咆哮。そして時間が裏返る歪み。あたしだけが前に放り出され、薫は炎に呑まれて消えた。


 ひび割れた記憶を払い、磨き終えたM92FSをホルスターに戻す。代わりに、つや消しブラックのFN Five‑seveN――薫の形見――を抜き、額へ当てた。ひんやりした感触が脳天まで突き刺さる。

 「薫、見てっか。あたしはまだ引き金から指を離してねえぞ」


 そのとき視界を青い稲妻が走った。スマートグラスのHUD。

〈CAT本部:通達 明日09:00 新バディ“九重楓ここのえかえで”とリンク開始 拒否権:無効〉


 「ああ?」

 短い声が鉄製の床を揺らした。

 「永久欠番って申請通したの、どこの誰だと思ってんだ、本部のクソどもが」

 怒鳴ってやりたいが、ここには風と錆びた機械しかいない。かわりにタバコを噛む。マッチを擦るが、海風に二度消え、三度目でようやく灯る。紫煙は肺に落ち、熱い。


 「Pixieたんね、まだハートの準備ができてないんだけど? お願い、もうちょっと待ってよぉ♡」

 久々にぶりっ子声を引っ張り出す。……やっぱ背筋がかゆい。

 「――バカバカしい」

 吐き捨て、灰を弾いた。


 追加情報が浮かぶ。

九重楓ここのえかえで/年齢17/孤児院上がり/格闘適性A/射撃適性E〉


 「銃が撃てねえガキ? おまえ、よくCATに来れたな……いや、だからこそか」

 思わず笑みが漏れる。きっと薫なら「面白いやん、育て甲斐あるやん」と笑っただろう。

 銃を怖がる新兵と、銃しか握れなくなった先輩。最悪で最高の皮肉だ。けど――引き金の重さを教えるなら、あたし以上の適任はいない。


 あたしは立ち上がり、腰の二挺を揺らした。子どもの背中に大人の戦争。だけど背負う価値はある。

 「薫、聞こえるか。黄金色の閃光はまだ片翼じゃねえぞ。今度は三本目――あたしとアイツと、“おまえ”の残した光で、夜を撃ち抜いてやる」


 M92FSのスライドを引く。閉鎖する金属音が、夜の海を裂いた。

 その瞬間、月が雲間から姿を現し、海面に砕ける光の破片が跳ね上がる。あたしのツインテールが風を切り、火の粉みたいに金の粒を散らした。


 東京湾はまだ眠らない。

 あたしが眠らせてやるまで、きっと――何度でも。




第1章 "配属"


01 薄曇りの射撃場

 CAT本部訓練棟の屋上は、薄い雲膜に覆われた冬の空と向き合っていた。

 地下迷宮のような施設の最上段、吹きさらしのスカイデッキに設えられた屋外射撃レンジ。曇天を背景に、五十メートル先の電子標的が無機質な白を晒している。

 吹き上がるビル風は海の塩気を含み、頬に触れた瞬間ざらりとした痛みを残した。


 九重楓ここのえかえでは呼吸を整え、右足を半歩後ろへ引いた。身長一六二センチ、引き締まった体躯にCAT専用のスーツ型戦闘服――黒地に青のラインが映える機能服を身に纏い、ごく自然に半身を切る。

 その輪郭には凛とした緊張感が宿っていた。


 髪は首元で切り揃えられた端正なボブカット。漆黒の糸のように艶やかで、僅かな日差しすら反射して淡く煌めく。風に揺れるたび、髪の光沢が冷たい空気にやわらかな軌跡を描いた。

 深く澄んだ蒼の瞳は、遠くの標的を射抜くように鋭く、それでいて静かな決意の色を宿している。長く伸びたまつ毛が凛々しい目元を強調し、その顔立ちは整っていながらもどこか儚げな印象を残していた。


 観閲席側に立つ教官の声が、スピーカー越しに無機質に響く。


 楓は無言で頷き、黒髪を耳にかけた。

 グロック17のスライドは雨を弾くポリマーの光沢を帯び、弾倉には9×19mmパラベラム弾が十発。引き金は純正より一〇〇グラム軽い競技仕様に換装されているが、楓にとっては凶器そのものだった。


(――大丈夫。握っただけで震えない。今日は行ける)


 呟くように心で唱え、フロントサイトを標的の中心に合わせる。

 一発目。トリガーが僅かに動いた瞬間、左耳の奥で鈍い爆音が甦る。銃口から噴き上がる火花。

 “あの日”のまま、父と母を奪った銃声。胸裏をなぞる冷たい指。


「……っ!」


 引き金にかけた指が固まり、腕が微かに震えた。狙点が揺れる。

 頬に貼り付く冷汗。唇が勝手に噛み合わさる。


 標的が電子音でカウントダウンを告げる――残り二秒。

 楓は呼吸を切り、急制動のごとく作り笑いを浮かべた。

 トリガーを押し切る。銃口が跳ね、空薬莢が風に踊る。


 標的の胸部に赤い×印。外れ。


 ここからは早かった。二発目、三発目――肩口・肩口。四発目で弾は標的枠の外。五発目を撃った瞬間、グロックのフレームが手の中で巨大化したように錯覚し、指が麻痺した。

 残弾五発を撃つことなく、楓は銃をだらりと下ろして立ち尽くした。


 電子掲示板に「0点」の赤色が点滅する。風の音に混じり、観閲席から小さな失笑が漏れた。


「以上で試験終了。No.08、失格判定。明日から毎朝合格まで再試験を行う。再試験にはバディにも同伴してもらう。連帯責任だ。早く合格しなければ初対面の先輩に迷惑をかけることになるぞ、楓」


 マイクの声が冷たく突き刺さる。

 楓はゆっくりと銃を降ろし、開いたままの口で無言の呼吸を繰り返した。

 指は氷のように冷たく、スライドを引く力さえ失われている。


(――また、撃てなかった)


「次、No.09――」


 教官の声が続き、試験は淡々と進む。楓は安全状態を確認し、銃をケースへ戻した。手元の震えは止まらない。


 エレベーターで地下へ戻る廊下の途中、薄暗い鏡面パネルに映る自分の顔を見た。唇が真っ青で、目許は血の気が引き、まるで海底に沈んだ人形。

 ――この顔を、件の先輩はどう見るのだろう。

 胸がきしりと痛んだ。


02 小さな先輩

 地上階ブリーフィングルーム。壁一面を覆うホログラムスクリーンには〈訓練成績〉の名簿が並び、No.08の楓の行に赤いフラグが灯っていた。


 扉が開いた瞬間、楓は軽い衝撃を受けた。

 幼児向けのパーカーのような白フリース、短めのデニムパンツにスニーカー。金のツインテールが背中で跳ねる、背丈百四十に届くかどうかの少女――いや、三十一歳の大先輩――更科るりが、片手でホットドッグ、もう片手で紙コーヒーのカップを持って入って来たのだ。


「んー、やっぱ訓練の日はカロリーと糖分必須だな。……ん?」


 るりはホログラムに目を走らせ、楓の成績行で止めた。

 そしてニヤリ。悪戯の前の子猫のように口角を上げた。


「No.08――おまえが九重楓か」


 楓は背筋を正し、かすれた声を絞り出した。

「……はい。配属候補の九重楓です、あなたが――」

「るりだ。敬語はいらねえ、あたしらはバディだろ?」

 るりはコーヒー片手に椅子へ飛び乗るように腰掛けた。短い脚を組み、足先でリズムを刻む。


「……え?」

「メール見てねえのか? 本部のやつらが勝手に決めやがったんだと。あたしが“銃撃てねえ新兵”の面倒見るってさ」


 楓の耳朶が熱くなった。噂通り、噛みつき癖のある先輩だ。けれど言葉の端に、何故か棘より包帯の匂いを感じた。


「わ、私は――その、銃は……」

「撃てねえ。知ってる。だったら撃てるようになりゃいい。簡単な話だ」

 るりはホットドッグを大口でかじった。頬が膨れ、その無邪気さに楓は瞬きする。


「……あなたにとっては、簡単なのかもしれません。でも私……」

「おまえ、名前なんだっけ。楓、だよな?」

「はい、九重楓です」

「楓。あたしのことは“るり”でいい。敬語も禁止。バディってのは背中預ける相手だからな」


 楓は言い淀む。親しみは距離を縮めるが、それは同時に彼女の恐怖にも触れる行為になる。


03 最悪の出会い

 午後の格闘ドーム。訓練用マットの中央に立つるりの姿は、――小さい。

 しかし胸の下にホルスターを斜め掛けし、二挺の拳銃が光を吸う。背負ったまま構える姿勢には無駄がない。


「実技互評だ。お互いのスタイル見せ合おうぜ、楓」


 楓は深く頷き、日本刀型ブレード〈TSUBAME‑MkII〉を抜き放つ。チタン合金の刃は照明を受けて虹色を孕み、空気を切るたび微かな唸りを上げた。


 距離十メートル。

 るりはM92FSを右手に、Five‑seveNを左手に。抜き際、肩を滑らかに落とし、両膝を弾ませた。猫科の低い構え。


「真剣を使えって……るり先輩、ケガしても知りませんよ」

「るりだろ、楓」

「……るり。あなたを傷つけるつもりはありませんが」

「本気出さねえと……おまえ死ぬぜ?」


  一拍。楓が風になった。

 中段から踏み込み、〈TSUBAME〉が音を置き去りにして振るわれる。

 刃が水平に走り、霧のような軌跡が空気を裂いた。


 るりはその気配を読み、半身を捻る。

 紙一重で刃を外しつつ、低く膝を落としたその瞬間――引き金。

 模擬弾のレーザーが楓の顎下にヒットし、淡く閃いた赤が命中判定としてボードに記録される。


 「一発」


 楓の動きが硬直する。

 空砲の音が、遠い記憶を呼び覚ました。

 ――銃声の幻聴。心の奥で、鈍く何かがざわめく。


 るりはその刹那の揺らぎを見逃さない。

 沈んだ膝を反発に、ばねのように跳ね上がる。

 低く潜りながら旋回――身をひねって背中へ回り込み、華奢な踵で楓の背中を蹴り飛ばす。


 「甘ぇぞ、楓!」


 楓の体が前のめりに浮き、足が地を離れる。

 その背中が崩れるよりも速く、るりの左手が閃いた。


 五指で握られたFive‑seveNが火を噴く。

 白熱のレーザーが一直線に放たれ、楓の胸元――心臓の位置に命中。


 二発目、直撃。


 電子音が訓練ドーム全体に鋭く響き渡る。

 楓の指先から〈TSUBAME〉が滑り落ち、刃が床に乾いた音を立てた。

 そのまま、彼女は両膝をついて崩れ落ちる。


 「――終わり。3.5秒」

 るりは銃を回転させホルスターへ戻した。

 楓は両手をつき、肩を震わせる。銃声の記憶が喉を掴んで離さない。


「動け、楓」

「わ、私は……、駄目なんです。音が……あの日の……!」

「おまえの両親を殺した銃声か」

 るりの声は低く、けれど不思議と刺さらない。


「――逃げんな」

 るりは膝を折り、楓と目線を合わせた。

「怖いのは当たり前だ。あたしだって怖いものぐらいあった」

「先輩が、怖い……?」

「あたしは昔、“可愛い声”で化けてた。怖がられんのが怖くてさ。でも薫ってやつが言ったんだ。『そっちの君が好き』って。だから怖くても化けるのをやめた。――おまえも、化けもんになりたいか?」

 楓は首を横に振る。涙が滲む。

「なら、怖いまま立て。おまえの刀は、人を守るための刃だろ」


 一瞬、薫の面影がるりの背後に重なった。金髪に曳光が走る幻。

 楓は浅く息を吸い、震える手で刀を拾った。


 「もう一度、お願いします……るり」


 るりの口角が上がる。

「いい子だ。じゃあ次は十秒間。おまえの刀が、あたしの弾より速いか試そうぜ?」


 百合の花弁が霧散するように、楓の頬が淡い朱を帯びた。銃声への恐怖と、未知の高揚がせめぎ合う――その赤の温度を、るりは見逃さなかった。


04 赤フラグと配属辞令

 夕刻の管理フロア。総務端末に並ぶバディ決定表で、〈Pixie×九重楓〉の文字が最終確定となった。

 成績ランクEの楓と、強さゆえに単独行動を許されていたるり。誰が見ても不釣合い。だがCAT上層部はデータの裏に“別の意図”を隠していた。


 廊下の自販機前。缶コーヒーで舌を火傷しながら、るりは楓に目線だけを向けた。

「成績ゼロ点は派手だったな」

「やめてください……でも、あなたの銃声を、ちゃんと聞けて良かったです」

「んだよそれ、告白か?」

 るりがニヤリ。楓は耳まで赤くなる。

「あ、あなたは冗談ばかり言う……」

「本気だぜ? バディってのは恋人みたいなもんだろ」

 るりは缶を掲げ、カツンと楓の刀の柄尻に当てた。乾杯の真似。


「明日から任務山積みらしい。おまえ、覚悟できてるか」

「ええ。あなたが撃つ限り、私が前を切り開きます」

「心強いねえ、楓ちゃんよォ。でも死ぬな。――あたしも、おまえも。二度と“閃光”を失いたくねえ」


 その言葉の重みが、楓の胸の震えをゆっくり鎮める。

 ドアが開き、赤い夕陽が床に射した。金のツインテールが燃える。


 こうして――銃撃てぬ孤児院上がりと、世界でいちばん小さな戦闘狂の最悪な出会いは、

 ほんのわずかな甘さと硝煙の匂いをまとう“始まり”に変わった。


 彼女たちを待つのは、暗渠と深海魚と、まだ知らぬ傷。

 けれど百合の芽は、火薬と涙の土壌でも確かに根を張る。


 東京の夜が再び深くなる頃、

 るりのM92FSと楓の〈TSUBAME‑MkII〉は、それぞれの鞘で静かに息を潜めていた。


05 湯気の輪

 陽が完全に沈むと、CAT本部の窓は自動減光モードに入り、廊下は淡い青光で照らされる。

 訓練を終えた隊員たちは更衣室や食堂へ散り、夜勤シフトの無線が微かなざわめきを運んでくるだけ。


 格闘ドームの片隅、マットを巻き上げ終えた楓は長い吐息をこぼした。まだ胸の奥で銃声の残響が跳ねているが、さっきより温度が低い。

 刀を背負い直し、ドーム出口へ向かうと――ツインテールの金色が視界をちょこんと塞いだ。


「お、かえでっち。後片づけサンキューな」

 片手にスポーツバッグ、片手に自販機缶のココアを振っている。

「かえでっちはやめてください……るり」

「へいへい。で、腹減らね? あたし腹ペコ」

「寮の食堂ならまだ――」

「却下。塩素臭いスープは飽きた。今日は街に下りるぞ」


 るりは缶を飲み干すと、ポケットからIDカードを取り出してスキャナーにかざした。

 オレンジ色のライトが点き、警備ゲートが解錠される。


「規則では門限――」

「“訓練後の栄養補給は隊員の裁量である”って項、暗記してこい。ラーメン行くぞ」

 そう言って振り返る前に、るりは半歩背伸びして楓の袖を引いた。

 身長差二十二センチ、その手の温度は意外なほど高い。楓は驚きに目を瞬かせたが拒まなかった。


 エレベーターを降り、夜風の駐車フロアへ出ると、小型電動バイクが二台並んでポッド充電されていた。

 るりは真っ赤な機体の前へ行き、シート下からヘルメットを取り出す。

「楓は青い方な」

「免許はあります。でも……本当に外出して大丈夫なんですか」

「おまえ、上に“禁止”って言われると逆らえないタイプだろ」

 るりはニッと歯を覗かせる。

「いいか。規則は守るためじゃなく“越えたあと責任取れるか”で測るんだよ。責任はあたしが取る。だから今日はあたしに付き合え」

 言い切ったあと、ふいに表情を崩して首を傾げた。

「――って言うと格好つくけど、ぶっちゃけ今日はひとりで飯食いたくねえんだわ。付き合えよ?」

 その声音は少し掠れていて、楓は頷くしかなかった。


06 「にぼし軒」

 エンジンレスのモーター音は滑らかで、都心連絡高架を滑ると風だけが鼓膜を叩いた。

 るりはスピードメーターを程よく上辺りに保ち、何度かバックミラーで楓の様子を確認する。ナイフのように背筋を伸ばして乗る姿は、訓練場の恐怖を微塵も感じさせない。

 (いい根性してるじゃねえか)

 満足げに頷き、ハンドルを切った。


 辿り着いたのは港区の片隅。「にぼし軒」と書かれた汚れた暖簾がライトに照らされ、店先に湯気が漂う。

 券売機など無い。引き戸を開くと、煮干しと醤油の香りが一気に肺を占領した。


「いらっしゃい!」

 カウンターの向こうで、額にタオルを巻いた主人が大鍋をかき回している。

 るりは小さな身体で高めのスツールへよじ登り、両肘をどんとカウンターへ。

「特濃、背脂増し、味玉トッピング!」

 そして楓の方を見る。

「楓は?」

「え、えーと、普通の……」

「小煮干し、脂少なめ、ネギ増しひとつ!」


 注文が飛ぶや否や、店主は中華鍋に麺を泳がせ、寸胴から濃褐色のスープを小鍋へ移す。火の上でグラグラ踊る煮干しの香味油。その音と匂いだけで胃袋が急降下する。


 数分後、二つの丼が着弾。

 るりのそれは、もはや“沼”と表現すべき背脂海に味玉が浮き、チャーシューは小島のよう。

 楓の丼は澄んだ醤油色にネギと三つ葉が涼やかに揺れ、艶めく麺が透けて見える。


「いっただきまーす!」

 るりはレンゲを沈め、まずスープを一口。

 煮干しの鮮烈な苦みと甘み、背脂のコクが舌を暴力的に殴る。思わず目尻が下がり、頬が緩む。


「っくぅ~~、五臓六腑に染みわたる!」

 楓は慎重にレンゲを運び、熱さに目を瞑った。が、すぐに瞳孔が開く。

「……おいしい」

「だろ? 戦闘の後は動物性脂だ。生き返るぞ」


 るりは箸で麺を巻き上げ、啜る。背脂が反射して金のツインテールがさらに輝く。

 楓も負けじと麺を啜るが、行儀よく噛み締めたせいで唇がスープに触れ、熱で少し泣きそうな顔になった。


 るりが笑う。

「猫舌か?」

「ち、違います。ただ……熱い食べ物に慣れていなくて」

「孤児院メシって冷めてるみたいだもんな。薫がよく言ってたよ。じゃ、慣れろ。ラーメンは熱いうちに啜ってナンボだ」

 そう言いながら、るりは味玉を楓の丼へぽとんと落とした。

「え?」

「あたし味玉二個あるし。おまえ、タンパク質とっとけ」

「でも……」

「いいから。バディは分け合うんだよ」

 るりの言葉はぶっきらぼうだが、湯気の向こうで月光より柔らかい色をしていた。


 楓は箸で味玉を割り、黄身の流れをスープに溶かす。舌に乗せた瞬間、微かな燻製香が鼻腔へ抜け、瞳が潤む。

「……ありがとうございます。るり先輩」

「どーいたしまして。あと“るり先輩”とかじゃなく『るり』って呼べっつったろ。標準語の敬語、くすぐったいんだよ」

「わ……わかりました。せんぱ……じゃなくて、るり」

 最後の一音を強調するように呼ぶと、るりは眉を上げたあと、照れ隠しにスープを啜った。


 店主がチャーシューを網で炙り始め、脂が弾ける音が店内を包む。

 楓はレンゲの中でネギを回しながらぽつり。

「ねえ、るり。あたしは銃声が怖い。とても怖い。銃声を聞くだけで体が固まるぐらいには怖い。さっきるりは怖がられるのが怖かった、そう言ってた。それじゃあ今は何も怖いものはないの?」

 るりの啜る音が止まり、ほんの数秒の静寂。

「……自分が誰かを置き去りにするのが怖い」

 その声は湯気に紛れて震えていた。

「置き去り?」

「昔、そういうことがあったんだよ。ま、詳しい話はまた今度な」

 るりは箸で背脂を寄せながら、わざと軽く笑う。

「たださ。おまえを撃ち捨てるくらいなら、あたしが先に死んでやる」

 楓は箸を止め、その横顔を見つめた。背脂で光る頬も、鋭い睫毛も、どこか幼くて哀しい。

「それは困ります。あなた――じゃなくてるりが死んだら、私を守ってくれる人がいなくなる」

 言い終えて顔が熱くなった。

 るりは目を丸くし、それから喉の奥で笑った。

「そう来たか。──んじゃ、とりあえず今日のラーメン代は半分払え。バディ割り勘」

「……了解です」

 二人は同時に丼の底を掬い、レンゲをカツンと合わせた。


07 帰路の金線

 店を出る頃には、曇り空から微かな霧雨が降り始めていた。

 バイクのキーを回すと、ヘッドライトが濡れたアスファルトを銀に染める。るりはシートへ跨がったが、背後から楓の声音が降ってきた。


「――るり。今日は、ありがとうございました」

「礼はいらねぇよ。明日からの地獄の再試験、さっさと合格しろ」

「はい。……今日はなんだか、少しだけ成長できた気がするので」

「ふん、気のせいじゃねぇならいいがな」


 そこから、一拍。ふたりの視線が交差する。


「それに……」と楓が言いかけたのと同時に、

「銃が怖いなら背負ってろ。私が撃つ」とるりの声が重なった。


 楓が目を見開き、少し口を開いたあと――負けじと言い返す。

「撃たれたくないなら、あなたが後ろで見てなさい」


 一瞬の沈黙。


 次いで、ふたり同時に――ぷっと吹き出した。

 背脂と硝煙のにおいの奥に、ほんのりと甘い笑い声が残った。


 ヘルメット越しに笑い声が重なり、雨粒がバイザーを滑る。

 エンジンをふたつ重ねて走り出すと、街灯の列が流線を描き、夜空に細い金線が延びていった。

 曇天の下でも、金色の閃光は確かに在る。

 その中心には、まだ互いを知らぬほど若い二人の――けれど確かに寄り添う影があった。


 ラーメンの残り香と硝煙の匂いが、シティミストを切り裂いて背後へ遠ざかる。

 “黄金色の閃光”の欠片は、再び重なる時を待ちつづけている。


 ――そして夜は濃く、世界は静かに次の頁を捲った。


08 夜明けの乾いた銃声

 夜半過ぎに基地へ戻ったあと、二人は簡単な報告だけ提出して解散した。

 楓は寮の個室へ戻り、シャワーを浴びてもラーメンの背脂の余熱が頬に残っている気がした。シャンプーの匂いが湯気に混ざるたび、湯船の外でるりの笑い声が聞こえたような錯覚に胸が跳ねる。

 ――“バディは恋人みたいなもん”。あの台詞が、シャワーの水音を貫通して耳に残っていた。

 跳ねた心臓を落ちつける術を知らないまま、楓は眠りに落ちた。


 朝。明度5%の非常灯の下で目を覚まし、時計を確認する前に身体が動く。

 (射撃練習……るりは、もう行ってますよね)

 肩に背負った〈TSUBAME-MkII〉の重さを確かめ、廊下を駆けた。


 射撃場の屋上。冬空は卵の殻のような夜明け色にほどけ、霜がコンクリートを粉砂糖のように覆っている。


  そこに立つのは、幼いはずの背影だった。

 けれど――その構えに一切の隙はなかった。


 ベレッタM92FSを軽やかに両手で保持し、るりは標的を見据えていた。

 朝焼けが射線に差し込み、影を薄紅に染める。まるで彼女自身が、夜を撃ち抜く者であるかのように。


 楓は、息を呑んで見守るしかなかった。

 その構えは「構える」ではない。ただ、そこに「在る」だけ。

 無駄な緊張も力みもなく、身体全体が精密機械のように静止している。


 引き金が落ちた。


 一発目。銃声と同時、標的のど真ん中に赤点が浮かぶ。

 二発目。前弾の弾痕に寸分違わず叩き込まれ、音が重なって響いた。

 三発目――わずかに角度を変え、十字の交点を穿つように、線を描くように命中。


 わずか1秒間の3連射。無駄な呼吸ひとつなかった。


 銃身から立ち上った熱気が、まるで彼女の魂そのものが蒸気になって昇っていくように見えた。

 彼女の存在すべてが、「撃つ」という一点のために在る。


 これが――るり。CAT史上最も恐れられた、“金色の閃光”。


 るりは撃ち終えると、振り向かずに口を開いた。

「おはよ、楓。来るの遅いぞ」

「おはようございます、るり。今日の私……どうですかね。撃てそうですか?」

「そりゃあたしよりおまえ次第だろ」

 振り返ったツインテールの先端が陽の光を弾く。

「ほら、拳銃。あたしのやつ貸してやる」

 差し出されたのは同じG17改だが、グリップの背面に薄い革テープが貼られ、トリガーには赤い塗料で小さな点が描いてあった。

「指を置く位置の目印。余計な力、入れんなって合図だ。ほら、持ってみろ」

 楓は両手で包むように銃を受け取り、深呼吸を二度。

「トリガーに指を乗せる前に、一つだけ思い出せ。――昨日のラーメンの味」

「ら、ラーメン?」

「いいから。背脂だよ、背脂。あたしは背脂を裏切らないし、背脂もあたしを裏切らねえ。……おまえも、誰か守りたいなら、守る相手の味でも匂いでも思い出せ」

 楓は小さく笑った。

「……背脂は置いといて、私はるりがくれた味玉を思い出します」

「おう、それで充分。味玉のために撃て」


 照準に赤い円が浮かぶ。トリガーにかけた指を意識して抜き取るように、そっと圧をかける。静電気が落ちるみたいに、銃声は意外に軽かった。

 一発。肩口。

 二発。首元。

 三発。心臓ラインの上――だが黒点の輪郭に掠った。


 楓は息を吐き、腕の痺れに目を伏せた。

「ダメ……ですか?」

「まだ残弾七発ある。続けろ」

 るりは背後で両腕を組む。


 四発。五発。六発。

 銃声が脳裏の悪夢を上書きするたびに、指先の震えが少しだけ鈍くなる。

 七発目、ついに胸部の十点圏に弾痕が穿たれた。電子標的が青く光り、10と表示。

 楓の耳に血が集まり、遠くで小鳥の声が鳴いた気がした。


「よし、そこまで」

 るりが肩を叩くと、楓の膝は勝手に折れた。

 「あ……っ」

 「いいんだ。血の気が引いたろ。立てなくなる前に座っとけ」

 るりは膝を折り、自分のウインドブレーカーを楓の肩に羽織らせた。

「撃てたじゃねえか。味玉パワーだな」

 楓は苦笑しつつ、目尻に溜まった水を袖で払った。

「ええ。……撃った、んですね、私」

「胸張れよ。次は二発目から全部真ん中だ」

 その声は潮風より澄んでいて、楓は思わず目を細める。


 ふと、エレベーター側の扉が開く。試験監督の教官数名が現れ、クリップボードの陰で何やら囁き合った。

 るりは鼻で笑い、肩をすくめて立ち上がる。

「お役人登場か。いいか楓、今日の再試験――落ちても構わねえ。でも逃げるのは許さねえ。撃つか背負うか、選べ」

「撃ちます。……撃てるようになりたいです。るり」

「よろしい。じゃあ撃って、ラーメン食いに行くぞ」


09 乾いた合図

 午前九時、再試験。

 前列観閲席にCAT副司令と監査局員の姿。楓はG17改を携え、スタンスを組む。

 トリガーの赤い点を意識し、味玉を思い出せ、と自分に命じる。

(るりは向こうで見てる……)

 昨日は遠く感じた銃口が、今は掌の延長線にある。

 カウントダウン0。

 トリガーが落ちる。銃声。

 一発、胸部十点。


 ざわり、と観閲席が揺れる。

 二発目、肩ライン9点。

 三発目――


 (撃てる。撃てる!)


 五発目を撃ったあたりで時の進みが遅くなり、楓は呼吸の浅さに気づいた。銃口跳ねを両腕で吸収し、残弾を吐き出す。

 十発終了。標的が手前に滑り、センサーが合計72点を表示した。

 ざわ―っと拍手ともため息ともつかない風が吹き抜ける。昨日の惨状を知る者ほど、目を見開いた。


 るりは観閲席の後ろで腕を組み、満足げに頷いた。

 副司令がそっと拍手をし、監査局員が難しい顔で首を縦に振る。再試験合格のハンコが電子名簿に押された。


 ――銃はまだ震える。けれど、その震えは楓の血と同じ温度で共振していた。


10 辞令と出港の風

昼過ぎ。管制棟のガラス張りブリーフィングルーム。

 ホログラムに映し出された作戦名は〈Deep‑GoneBeta:舌無き深海魚〉。


 東京地下水路――旧日本軍の軍事遺構のさらに奥深く、

 「DeepOnes系変種」――いわゆる“深きもの”、ギョジンのような異形種を密漁・飼育している集団を捕捉・制圧せよという任務だ。

 ブリーフィング担当官が地形図を表示し、要所のスクラッチ映像を指で拡大する。

 地下通路、腐食した鉄骨、蠢く影。

 映像の一コマに、網にかかった魚とも人ともつかぬ姿の生物が映る。

 その瞳は死んだように濁っていた。


 背後のペア席で、るりが楓の手元に封筒を滑らせる。


「正式辞令だ。Pixie&Kurenai――カナ表記の《紅》、だとよ。……渋いじゃねえか」

 るりが封筒を軽く叩きながら笑う。


 楓は緊張で指先が震えるのを抑えながら、封にそっと爪をかけた。

 便箋に記された新たなコードネーム――それは、これまでの自分を塗り替える“名札”にも等しい。


「コードネーム……光栄です。でも、私には、まだ……」


 小さく呟くその声に、るりが椅子をガタンと傾け、前脚だけでバランスを取った。

 ひょいと伸びた手が、軽く楓の肩を小突く。


「バディ名は《紅影あかかげ》薫がいた頃は《金色の閃光こんじきのせんこう》だった。今は――“紅い影”。」

「おまえが後ろから深海魚どもをばっさばっさ斬ってる姿、想像してみろ。似合ってるぜ?」


 楓は少しだけ笑った。照れと戸惑いと、誇らしさが混ざった微笑。


「……名前って、重たいですね」


「だからいいんだよ」

 るりの声が、いつになく穏やかだった。

「自信がねぇなら、まずは形から。名乗って、歩く。

 背負うことで、強くなることもある――なあ、“くれない”?」


 楓は黙って頷き、そっと胸のあたりでその言葉を繰り返す。

 紅の名を、影の名を。

 これは、ふたりの物語が正式に始まった合図だった。


「ちなみに、るりのコードネームは何と言うんですか?」


「……あたしはピクシーだよ。どうせ知ってんだろ」


 すこしそっぽを向いて、つまらなさそうに言う。


「はい、知ってますよ」

 楓はふふっと笑い、わざとらしくニヤッとした顔を見せる。

 その表情には、どこか誇らしげなものすら混ざっていた。


「ちっ……だったら聞くなよ。照れるだろが」

 るりは口を尖らせて、軽く膝を蹴ってきた。

 けれどその目元はほんのり緩んでいて、不服そうに見せかけた“デレ”の成分が隠しきれていなかった。


 ブリーフィング終盤、装備補給担当が弾薬要求を確認する。

 るりは92FSの通常弾×3マガジン、高貫通AP弾×1マガジン、Five‑seveNのSS190弾×3マガジン、フラッシュバン。

 楓は〈TSUBAME-MkII〉の替えエッジガード、高周波バッテリーパック新品×2、そして予備近接装具として携行手斧を申請。

 申請データが青く確定し、モニター右上に《48hourscountdown》が点灯する。


11 コンテナデッキで、ふたつの背脂

 日没前、補給区画の屋外デッキ。コンテナを隠れ蓑に、るりは持ち込みコンロで小型スキレットを熱していた。

 ベーコンを敷き、背脂を溶かし、刻みニンニクを投入。食堂規定から十キロほど踏み外した匂いが周囲に広がる。

 楓が呆れ顔で腕を組む。

「るり……補給食の支給はこれから、って言われましたよね」

「戦地に豚の背脂は無えんだよ。今のうちに身体にシールド作っとけ。味玉もあるぞ」

「背脂シールドって何ですか……」

 背脂の湖で目玉焼きが揺れ、醤油が弾ける音。楓は堪えきれず生唾を飲んだ。

 るりはジップロックから小皿に移した味玉を二等分し、一切れを楓へ差し出す。

「試行前儀式。“かんぱい”」

 楓は味玉を箸でつまみ、微笑む。

「……かんぱい。――頑張りましょうね、るり」

「おう。おまえも銃声に負けんな。背後は任せろ」

 これが願掛けか悪魔の契約か、境目は背脂で曇って見えない。

 だが湯気の向こう、金髪ツインテールと黒髪が肩を並べる景色は、世界の裏側でも確かに温かな灯をともしていた。


12 夜明け前の出撃

 零時三十分。CATの輸送車輌“サルベージャー”が地下バースを発進する。

 ヘッドライトが石造りのトンネルを舐め、車内灯の青白い光が二挺の拳銃と一振りの刀を照らす。

 ペールブルーの昇降ランプに照らされ、るりがヘッドセットを装着する。

「Pixie、通信チェック」

 楓も咽頭マイクを指で叩く。

「Kurenai、クリアです」

 「行くぞ、紅影。東京の下水が呼んでる」

 車体が段差を越えた瞬間、るりは平手を楓の肩に当て、ニヤリと笑う。

「任務終わったら、またにぼし軒な」

 「……はい、味玉ダブルでお願いします、るり」

 声変わりしたばかりの少年みたいな楓の笑いに、るりは小さく頷いた。


 輸送ハッチが閉まり、エンジンブレーキの低い唸りが闇に沈む。

 ――金色の閃光の残り火と、新しく灯った紅い影が、今ようやく並び立った。

 銃声と刀閃が交わるその先に、どんな夜が待ち受けるのか。

 けれど背脂の温度を胸に抱く二人は、恐れではなく腹の虫の声で未来を迎え撃つ。


 外界の闇へ溶ける直前、計器灯がハートビートのように脈打った。

 紅影の出撃を告げる、乾いた合図。




第2章 初任務 “舌無き深海魚”


01 東京の下で潮が鳴る

 午前一時三十五分。

 環状七号線の裏手、立入禁止フェンスのさらに奥──戦前に掘削された旧地下水路の縁で、輸送車輌サルベージャーがエンジンを切った。

 コンクリ壁は苔と塩で縞模様をなし、呼気が白くなるほど冷える。だが風は生暖かく、海辺の磯腐れに似た臭気が鼻腔を刺した。


「うげ、深海魚くせぇ。……楓、マスク忘れてねえだろうな?」

「はい。支給の活性炭式です、るり」

「あたしはベーコン背脂フィルターで十分だがな」

 ふざけつつ、るりはガスマスクを首に下げただけで終わらせた。


 鋼製ハッチを開くと、階段が奈落へ伸びる。壁面のプレートにはかすれた英字。

 《MANAGED BY IMPERIAL ARMY CIVIL ENGINEER UNIT 1944》

 その横に、後世の落書きでおどろおどろしい魚のシルエット──大口を裂いた魚人が、人間の頭部を抱えた図。楓は舌を噛みそうな禍々しい筆致に肩を震わせた。


「Deep Onesのシンボルモチーフ。連中、自己主張だけは激しいからな」

 るりはそう言い、ハッチ横の鋼管に粉チョークで簡易エルダーサインを描く。五芒星に枝分かれする副線。

「クトゥルフ・カルトはこういう護符嫌うし、退路目印にもなる」

「一種の魔術でしたよね、それ」

「その通り。死にたくないんだったら基礎的な魔術ぐらいは覚えとけよ。魔術師を相手にした時、なすすべなく殺されるぞ」

「分かりました」


 ふたりは投光ライトを点け、階段を下りた。靴底が滑らかな苔にずれて甲高い音を立てる。

 下層は高さ四メートル、幅八メートルの立坑へ続き、中央水路に黒い流れがうごめく。

 月光は届かず、代わりに天井の亀裂から染みた海水が水銀色の滴を垂らす。


「あたしが先頭。おまえは間合い保て。暗い所で刀振り回すのは不利だからな」

「了解です。……るり、足音が響かないように」

「へいへい。最近の子は口うるせえな」

 るりは腰を落とし、靴底を滑らせるように移動。楓も刀を半鞘で抱え、背後一メートルを追った。


 耳が痛くなるほどの静寂。その奥で、遠い潮騒のような唸り声が重層している。

 やがてT字路。左手は崩落、右へ曲がる水路の向こうに、緑色の明滅灯がちらついた。

 るりは拳を握って示し、膝をつく。楓も背中を壁へ当て、ライトを伏せた。


 聞こえてくるのは、咽喉を擦るような呻きと、粘つく水音。

 ──《Φ’nglui mglw’nafh……》

 楓の胃がひゅっと縮む。意味不明の咒言だが、骨を冷やす抑揚が血管を凍らせる。

「ルルイエの言葉……? 奴ら、神殿ごっこしてる」

 囁きながら、るりは腰のFive‑seveNを抜いた。


02 舌無き声

 曲がり角から十メートル先。水路中央に人影が七つ。

  るりは手元のHUDを一瞥し、目線を斜め上にずらす。


 「……楓、見えるか。あの石板の周り」


 楓は頷き、そっと身体を乗り出した。

 水路の奥――十メートル先の半球状の空間。

 青緑色の緊急照明がちらちらと点滅する中、八体の影が黒く蠢いていた。


 背丈は百八十程度で人間と変わらない。

 だが、全身がぬめりを帯びた暗緑色の皮膚に覆われ、目は濁った白膜で覆われている。

 背からは魚類のような軟骨突起。指は膜でつながり、足音すら吸い込まれるように静かだった。


 ──DeepOnes。だがそのどれもが、顎から下を裂かれていた。

 舌を持たない咽喉。それなのに、呻き声を同時に重ね、まるで会話のような波長を作っていた。


 中央の石板の上では、黒紫の肉塊がぐちゅぐちゅと音を立てて脈動している。


 〈Chthonian生体組織片〉

 るりがHUDでピンを立て、口元だけで吐き捨てる。


 「舌を捧げて思念唱和。神経共有して“声”を得る儀式か……」


 再び舌打ち。そして、肩越しに囁いた。


 「楓。四時方向の右端の個体を切り捨てろ。次に三時、あたしが二時を落とす。コアの肉塊は最後だ」


 「ええ。合図は?」


 るりは目を細め、M92FSの銃口でコンクリ壁を軽くノックした。


 コンッ。


 その音を合図に、楓は跳んだ。

 足音すら水に溶けるように、しぶきを低く抑えて疾駆。


 鞘打ちで一体のDeepOneの首筋を叩き折ると、即座に〈TSUBAME〉を抜き放つ。

 高周波振動により霧のように揺れる刀身が、魚人の肩から腹を真横に走り、斬撃の軌道をなぞるように碧い血が飛散した。


 同時。

 るりのFive‑seveNが無音に近い発砲音を立て、毒管のような突起を持った別個体の胸部を正確に撃ち抜く。

 SS190弾が鱗を裂き、背後の壁に青い霧のような血液を飛ばした。


 残る六体が一斉に動いたそのとき。


 ──ずん。


 水面が脈打ち、空気が振動するような重低音。

 肉塊が鼓動し、表面に浮かぶ無数の血管が脈動し始める。


 DeepOnesたちが口を開き、声帯のない喉で空気を吸い、鼓膜に直接“声”を送り込む。


 《■■■……■■■》


 楓の動きが、止まった。


 骨の奥に響く“音圧”。

 意味のない言葉。

 それなのに、脳を撹乱し、両膝を砕こうとする“咒文”。


 楓の視界が歪み、地面が波打つ。

 膝をつくその寸前──


 「楓、伏せろ!」


 るりの身体が、水の中を滑るように突っ込んできた。

 片膝で滑り込み、腕を広げてDeepOneの攻撃を楓から逸らすように弾く。

 もう片方の手では、彼女のヘッドセットを外し、ポケットから取り出した耳栓を耳に押し当てる。


 「聴覚塞げ! ほら、今すぐ!」


 楓の処置を瞬時に済ませると、るりは舌を噛んで気合を入れる。瞬時に彼女は二丁を水平に構え、息を止めてからトリガーを絞る。


 ──ババンッ!


 曳光弾が夜闇を走り、DeepOneの眼窩を撃ち抜く。

 肉片が飛び散り、数体が少しひるんだ。それでも音圧は止まらない。


 「くっそ、ソノルビームにしては出力高すぎんだろ……!」


 るりは腰からフラッシュバンを引き抜き、歯でピンを抜くと、

 肉塊の中心へ向かって正確に投擲する。


 「目より鼓膜だ! クラッチ!」


 白熱する閃光と逆位相の爆音が、再びソノル波を塗り潰すように炸裂。

 その瞬間、空気が一度、音を忘れた。


 閃光が消えた。

 再生器官からのソノル波は遮断され、水路の空気が静けさを取り戻す。


 蒸気の立ち込める闇の中、るりが肩を揺らしながら銃口を下ろした。


 「はー、どうにか……」


 そのときだった。


 ──ずずん。


 水面が震えた。


 それは鼓動ではなかった。

 もっと“物理的”な衝撃。

 はるか後方から押し寄せる、鉄骨を蹴り割るような重量の歩み。


 「……っ!」


 るりが即座にHUDを再展開する。


 反応はあった。

 それも“特大”の。


 「後方、立坑二番出入口。──接近、警戒、超大型反応!」


 言葉が終わる前に、それは現れた。


 崩れかけた通路の影。

 吹き飛ぶように割れたコンクリの破片を蹴散らして、

 **高さ二メートル超の影が、**水路に“降って”きた。


 甲殻に包まれた巨体。

 全身を鉛のような濡れた質量で覆い、

 目だけが異様に肥大化している。

 人間の頭蓋がひしゃげたような顎から、膿のような粘液を垂らしていた。


 魚でも、獣でもない。

 それは、**神話的な“巨大なもの”**だった。


 「DeepOne変種……? ちげぇ。これは、旧神血統の混ざった特異個体だ!」


 るりの叫びと同時、そいつは咆哮を上げる。

 風圧のような振動が、水をも空気をも叩き潰した。


 「楓、下がれッ!」


 だが、楓の脚は一瞬、止まっていた。


 視界が揺れる。音が鳴らない。心臓だけがうるさい。

 刃を持つ手が、かすかに震えていた。


 (これが、実戦……? 殺し合いって、こんな──)


 「おい、楓ッ!!」


 るりが振り向きざまに怒鳴った。


 その一声で、楓は我に返る。

 目を、焦点を、呼吸を取り戻す。


 「おまえはあれをやれ! いいな! あたしは残りの奴ら、掃除する!」


 「──……はいっ!」


 るりは深呼吸を一度。


 「──六体か。上等だねぇ。その程度で私を相手できるって思られるたあ……なめられたもんだ」


 威圧感のある笑みを浮かべながら、脚を構え直す。


 次の瞬間、水面が爆ぜた。

 一体のDeepOneが突進してくる。

 腕を広げて飛び込むその姿は、まるで水中を泳ぐ獣のようだった。


 「遅い!」


 るりは半身を捻って身を沈め、滑るように水上スライディング。

 足元を掠める爪を紙一重で避けつつ、Five‑seveNを下から突き上げるように構える。


 パンッ!


 至近距離からの一発。

 顎を撃ち抜かれたDeepOneは仰け反り、呻き声すら出せずに崩れた。


 二体目が来る。

 左から回り込んできたそれは、背中の軟骨鰭を広げながら、るりへ飛びかかる。


 るりは跳んだ。


 くるりと半回転。敵の頭上を通過しながら、空中で両足をたたむ。

 そして、着地と同時に低空後ろ蹴りで背中へ一撃。

 バランスを崩したところを、すぐさまM92FSを右手に──


 ダン、ダン。


 二発。

 右眼と、左胸。

 狙いは常に、殺しを完遂する点だけ。


 三体目が目前。

 水を叩いて接近するが、るりは動かない。


 (一歩、来い)


 DeepOneが踏み込んだその一瞬、

 るりは手を地面につけ、半月のような横回転蹴りで膝裏を打ち抜く。


 体勢を崩した魚人の背に乗り、肩口に銃を当てて──

 ドン。


 静かに引き金を引いた。


 ここまで十秒。

 三体撃破。


 「──次ッ!」


 濡れた金髪を振り上げ、るりは残る三体へ跳び込んだ。

 どこか獣じみた戦い方だった。


 “美しさ”や“型”はない。

 だが、どこまでも実戦に特化した殺し合い。


 それが、るりの戦いだった。


 るりが背後で舞い、銃声が絶え間なく響く中、楓は立ち尽くしていた。


 目の前に立つそれは、他のDeepOneとは別格だった。


 体高二メートルを超える巨体。

 装甲のように硬化した皮膚は、深海魚のような粘膜で覆われ、

 背には赤黒い腫瘍のような膨らみが蠢いていた。


 左腕は異様に肥大し、殴られれば人間の上半身など粉砕されるだろう。

 右手の指は異様に長く、何かを“摘まんで”殺すことに特化した造形だった。


 目が、合った。


 そこには理性も言語もない。

 ただ本能的な殺意だけが、楓の全身を撃ち抜いてきた。


 (こわい……)


 喉がからからに乾いていた。

 刀を持つ手が震える。

 心拍が早鐘のように耳を打つ。


 (これが、“戦う”ってこと……)


 敵が動いた。


 咆哮とともに、空気を裂くような踏み込み。

 楓は一歩遅れた。


 左腕の薙ぎ払いが直撃する。


 「──あ、ぐっ……!」


 衝撃が腹から背へ抜けた。

 防弾コートの下で肋骨がきしみ、身体ごと横に吹っ飛ばされた。


 水面に叩きつけられ、後方の壁へ激突する。


 吐き気。眩暈。空気が肺から抜ける。


 (だめだ……逃げなきゃ……)


 頭の奥で誰かが叫ぶ。


 でも、それは別の“誰か”だった。


 ──『逃げんな』


 るりの言葉が脳裏に甦る。


 痛みの向こうに、彼女の声があった。

 肩を貸してくれた体温。叱ってくれた声。導いてくれた背中。


 楓は歯を食いしばった。


 「まだ……終わってません……!」


 膝をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。


 崩れそうになる身体を、〈TSUBAME〉の鞘に預けて。


 相手は再び構えていた。

 だが楓も、もう怯えてはいなかった。


 彼女は低く、重心を落とす。


 「……あなたを、斬る」


 次の一瞬。


 楓が動いた。


 風のように静かに。

 重たい一歩を、まっすぐ踏み出す。


 巨体の腕が振りかぶられる。

 彼女は真っ向からその刃のような拳に踏み込んだ。


  ゴウッ!


 空気が爆ぜた。

 次の瞬間には、巨大な鱗の腕が横なぐりに振り下ろされる。空気ごと抉るその一撃に、楓は反射的に身を屈める。


 視界を薙いでいった爪が、頬をかすめる。

 痛みはないが、熱を帯びた風圧が皮膚を焼いた。スーツの裾が裂け、冷気が差し込む。


 だが、目を逸らさない。


 地を蹴った。

 前傾姿勢からくるりと反転し、DeepOneの脇をすり抜ける。

 わずかに開いたその脇の下、硬い外殻が割れ、未熟な筋肉組織が脈動していた。


 「っ……今だ!」


 楓は刃を握る手に力を込めた。

 〈TSUBAME〉を逆手に返し、踏み込む。背後へと回り込んだ瞬間、相手の巨体がわずかに硬直した。


 ──気づかれた? 間に合わない?


 いや、間に合う。


 左足で地を蹴り、右足で体重を受け止める。

 上半身を沈めるように構え、そのまま全身のバネを開放する。


 〈TSUBAME〉の刀身が、紅に染まる。

 高周波ユニットが最大出力に達し、空気そのものが震えた。

 ――赤熱。

 刃は陽炎のように揺らめき、まるで血のような紅蓮の閃光が軌跡を描く。


 「……ッ、いけええええッ!!」


 刃が閃いた。


 狙いは首元。分厚い鱗が継ぎ目を見せる、わずかな割れ目――そこが唯一の急所。


 ズブリ、と。


 突き立てた瞬間、刀身が甲殻を灼き切る音が響く。

 まるで肉を焼く鉄串のように、紅の刃が鱗の装甲を融かし、喉奥深くまで侵入していく。

 粘ついた紫黒の血が、真紅の光に照らされ、燻った蒸気を上げる。


 硬い手応えと、蒸れた血潮の熱が手元にまで響いた。

 両手は震えていた。

 だが、刃は決して離さなかった。


 「るり……!」


 楓が叫んだ。


 返事はない。だが、次の瞬間──


 ドンッ!


 鋭く、重い衝撃。

 楓の背に伝わる蹴りの感覚。るりが走り込んできて、〈TSUBAME〉の鍔を思いきり蹴り飛ばしたのだ。


 まるでパイルバンカー。

 高周波ブレードが喉元を貫通し、紫黒の血が火山のように噴き上がる。振動が伝わり、骨ごと崩れ落ちていく感触が手に残った。


 「ぐ……っ!」


 楓は肩で息をしながら、刃を引き抜いた。DeepOneの巨体が揺れ、崩れ、膝から落ちる。

 仰向けに倒れ、波紋のように水が広がった。

 静寂。


 「はあ、はあっ……るり……」


 「……ナイス、だ。今のは、あたしの中で今年ベスト斬撃」


 るりがにやっと笑う。

 楓はその声に、ようやく息をついた。


 濁った水面に、巨体が沈んでいく。

 かつて“それ”だったものは、もはや息をすることもない。


 るりは二丁の拳銃をホルスターに戻し、深く息を吐いた。

 全身が汗で張り付き、指先は硝煙の匂いで染まっていた。


 楓は少し離れた場所で、〈TSUBAME〉の刃をそっと水面に浸していた。

 高周波の輝きは消えていたが、冷却のための水音がしゅう……と耳に優しい音を立てている。


 肩で息をするその姿は、どこか別人のようにも見えた。


 「……よく、やったな」


 背後から聞こえた声に、楓はゆっくりと顔を向けた。


 「……るり。私、ちゃんと……斬れました」


 「おうよ。あたしの蹴りも、まあまあ効いたろ?」


 ふたりは同時に笑った。

 緊張がほどけると、足元の水の冷たさが急に現実に引き戻してくる。


 それから数分。

 ふたりは現場の写真を撮り、遺骸の検体片を採取する作業に移っていた。


 その最中だった。


 楓がふと、天井の一部に目を留めた。

 クラックの隙間。薄く広がる苔の間に、何かが刻まれている。


 「……るり、あれ」


 るりも顔を上げ、懐中光を細く絞って照らす。


 曲率の崩れた幾何学。

 円でも三角でもない。重力すら逆転しそうな、歪んだ“刻印”。


 「R'lyehianじゃない……《ヨ=グ・ソトース式変文様》か? それとも……」


 るりは眉間に皺を寄せ、ぽつりと呟く。


 「クトニアン、ディープワン、そして……ショゴス。全部混ぜて、何を造る気だよ、“海魔商会かいましょうかい”」


 その名前に、楓の背筋が強ばる。


 「……るり。私の両親を殺した武装グループ……海魔商会の実験品を運んでいたって情報、あります」


 るりは一瞬だけ目を伏せ、それから正面から楓を見た。


 「知ってる。薫が死んだ空港襲撃のときも、“海魔”の貨物があった」


 ふたりの視線が、重なった。


 「繋がってるのね……全部」


 「だな。……深入りすれば危険だ。でも」


 るりはそっと、楓の肩に手を置く。


 「バディってのは、背中を預けるためにいる。行くなら、一緒に地獄まで潜ってやるよ」


 楓の目が揺れる。

 けれど、その中心にあった迷いは、もう残っていなかった。


 「……ありがとう、るり」


 小さな声だったが、それはこの戦場で、いちばん強い声だった。


 その瞬間だった。


 沈んだはずの肉塊の一片が、ぬるりと動いた。

 紫の膜を張ったその表面から、人間の舌の形をした器官が突き出る。


 管状の血管が伸び、粘膜が形成されかける。


 楓が咄嗟に〈TSUBAME〉に手をかけたが、それよりも速く、


 パンッ。


 一発の銃声。

 るりのFive‑seveNが、その再生片を頭から粉砕した。


 「残留再生。ショゴスの混合個体だな……」


 彼女は煙の上がる銃口を吹きながら、静かに呟いた。


「帰るぞ、楓。これ以上の分析は、検体班の仕事だ」


「はい……あの、るり」


「ん?」


 楓は、少し照れながら、言った。


 「背脂、補給しましょうか。今夜は……その、付き合います」


 「おう。《にぼし軒》は朝までやってる」


 ふたりは顔を見合わせて、声を出して笑った。


 その背後で、誰にも気づかれないまま。

 天井のクラックの奥、真珠色の組織が脈動し、かすかな囁きを吐き出していた。


 《……Y’ha-nthlei……赤い子を宿す……》


 新たな“種”が、静かに息を吹き返そうとしていた。


05 白衣と体温

 時刻は午前四時を少し過ぎた頃だった。

 ラーメンを食べに行こうと、ふたりはひそかに画策していた。

 だが――残念ながら、世界はそれほど甘くはなかった。


 るりはともかく、楓は明らかに戦闘でダメージを負っていた。

 腕には固定バンド、体には内出血の痕がくっきり残っている。

 その状態で「ラーメン行きます」は、さすがに無理があった。


 当然のように、警備課と医療班が止めに入る。

 CATの規律は厳格だ。

 たとえ深夜のラーメンであっても、それが負傷者の無断外出である限り、許可が下りることはない。


 戦闘の終結から一時間──CAT第七支部本部の地下搬入口へ、二人を乗せた非武装回収車両が静かに帰還する。


 車体のエンジンが止まり、ハッチが開いた瞬間、微かに潮と鉄の匂いが吹きこぼれた。


「……楓、立てるか?」


「はい。ちょっと背中が、痛いですけど」


 楓は笑ってそう言ったが、表情はまだ蒼白だった。


 腹部に受けた一撃は表皮こそ無傷だが、衝撃で内部出血の恐れがあると、帰還直後に警報タグが点灯していた。


 るりは、楓の肩に手をまわして支えると、軽く顎をしゃくった。


「医務棟、行くぞ。ラーメンはその後だ」


「……はい」


 CAT第七支部の医務室は、他部署よりもどこか温かみのある造りだった。


 白とグレーを基調にしたシンプルな内装の中に、観葉植物とカーペットが点在し、人工の静音水槽が柔らかい水音を立てていた。


 そして、部屋の中心には──彼女がいた。


「おかえりなさい、るり。あと……新しい子ね」


 白衣に身を包んだ一人の女性が、柔らかな笑みを浮かべて二人を迎えた。


 長い髪は艶やかな黒。

 豊かな胸元を包む白衣は緩やかに開かれ、淡いピンクのインナーがのぞいている。

 眼鏡の奥の瞳は慈愛に満ちていて、声のトーンは耳をくすぐるように優しい。


「今日の当直医、伊深いぶかです。ふたりとも、ひとまずベッドへ」


「……ああ、伊深さんだったか。ラッキー」


「ちょ、るり……?」


 楓が目を丸くして小声で問う。


「だってよ、伊深先生って、うちの医療班じゃトップだし。あと癒し系担当な。見てみ、あのバストと声。あれで注射されるなら、むしろご褒美だろ」


「バ、バカ……!」


 楓は顔を赤らめながら、るりに背中を押されてベッドへ座る。

 その間に伊深が医療スキャンを持って近づいてきた。


「ふむ……内臓、やや浮腫あり。あばらの一部にヒビ。外傷は……るりの被弾痕は軽い擦過傷、問題なし。楓ちゃんの方、少し血中酸素が低下してるけど、まぁ初陣ならこんなものでしょう」


 伊深はにっこりと笑い、消毒と点滴の準備を始めた。


「楓ちゃん、制服の上着、脱がせるね。少し冷えるかも……でも我慢して?」


「……はい」


 伊深が丁寧に手袋をはめ、楓の制服のファスナーを下ろす。

 白い肌が露出し、戦闘服のインナーにはうっすら汗が滲んでいた。


「痛かったね。でも、すごくよく頑張った」


 ささやかれる声が、楓の胸の奥にじんわりと染み込んでくる。


「……先生」


「ん?」


「こういうのって……慣れるんでしょうか」


 伊深は少しだけ手を止めて、笑った。


「慣れなくていいの。痛いことに鈍感になったら、あなたの良さが死んじゃうわ」


 処置を終えると、楓はベッドに横たわった。


 背中がふかふかのマットレスに沈み、照明のやさしい光が瞼の裏に広がってくる。


「るりも、今日はここで休んでって。新入りと初任務でしょ?」


「はいはい。じゃ、あたしもベッド借りるかね」


 るりがベッドに腰かけ、制服のまま背もたれに倒れる。


 しばらくの静寂。


 楓がぽつりと呟いた。


「……私、殺しました」


「……ああ」


「大きな個体だったけど、それでも。今までの練習と違って、命を……奪ったんですよね」


 声は震えていた。

 だが涙はこぼれなかった。

 彼女の瞳には、ただ静かに重みを受け止めようとする光が宿っていた。


 「だからこそ、おまえは強ぇよ」


 るりは静かに答えた。


「痛ぇもんを、ちゃんと痛ぇって思えるやつが、人を守れるんだ」


「……るり」


「今日のおまえ、かっこよかったぞ。ほんとにな」


 その言葉に、楓は初めて、小さく微笑んだ。


 「……じゃあ、もっと強くなります」


 「おう。背脂ラーメン、今度はおまえの奢りな」


 隣で伊深がくすくすと笑っている。


「ふたり、いいバディになりそうね」


「なり“そう”じゃなくて、なるんだよ。な?」


 るりが、すっと右手を差し出す。


 楓は躊躇いながらも、その手をぎゅっと握った。


 戦場では剣を振るい、

 ここでは手を取り合って生きる。


 そうしてふたりは、“バディ”になっていった。

 

06 夜明け前、背脂と風と

 保健室の照明が落とされ、室内は仄暗い安息に包まれていた。


 楓は横になったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。


 点滴のチューブ越しに伝わってくる冷たい感覚。

 処置は終わっている。もう眠ってもいい。


 ……でも、眠れない。


 (今夜、たしかに私は“殺した”。でもそれ以上に、“生き延びた”んだ)


 それを、誰かにちゃんと伝えたかった。


 隣のベッドをそっと見ると──


 るりは、起きていた。


 目が合う。


「なあ、楓」


「……なに?」


「腹、減ってないか?」


「え?」


「約束だろ、ラーメン」


 呆気にとられている楓をよそに、るりはすでにベッドから立ち上がり、制服の上着を肩に引っかけていた。


 伊深先生はいない。

 きっと別室に仮眠中だ。


 点滴を外すのは違反かもしれない。

 でも──


 「行きたいです」


 楓もまた、そっとシーツをめくった。


 数分後。

 ふたりは支部の屋上に立っていた。


 夜の風が高層ビルを撫でるように吹き抜ける。

 東京湾のほうには、まだ遠い夜明けの気配すらない。


 「……本当に行くんですか?上からは絶対に外出禁止って言われちゃいましたけど。それにバイクだって今は使えないと思いますし」


 「問題ない。あたしのバイク、いつでも出動可能」


 るりがポケットから鍵を取り出し、目の前の黒いボディのアメリカンクルーザーバイクを軽く撫でる。

 カウルには「CAT-EX07」のエンブレムが燻んで光っていた。


 「私のかわいいかわいい愛車ちゃんだよ。立派なハーレー様だぜ」


 「ヘルメットは?」


 「二つある。青い方はお前が被れ」


 「もしかしてこれって」


 「そうだよ。薫のだよ。」


 エンジンが低く唸る。


 るりが跨り、楓が戸惑いながら背中に手を回す。

 制服越しに伝わる熱。汗の残り香。

 鼓動が、不思議と落ち着いていく。


 「落ちんなよ、楓」


 「はい。るり、飛ばしすぎないで」


 「できるかっての」


 バイクは、夜の支部ビルを出発した。


 無人の都市。明滅する信号。

 パトロールのドローンが旋回する空の下、ふたりは言葉も交わさず、ただ風に溶けて走る。

 スカイラインは群青から紫へ、少しずつ輪郭を焼き始めている。

 バイクを走らせ、眠った街を抜ける。コンビニ前を通りすぎたとき、るりが急に減速した。


「背脂の前に、ひとつ寄り道」


「どこです?」


「コンビニスイーツ。糖分ないと低血糖で死ぬ」


 るりは小指を立てて笑い、バイクを停めた。

 レジ前で楓はドーナツを、るりはプリンを選ぶ。

 会計を済ませ、駐車スペースに腰を下ろし、まだ温かいドーナツを頬張る楓。

 るりはプリンにスプーンを刺し、味見もせず楓の口元へ差し出した。


「ほら、味玉の次はプリン。糖分で震え止めろ」


「るり、私は子どもじゃ――」


「バディはシェアだろ?」


 楓は赤くなりながら、ひと口すくう。濃厚な卵黄とバニラの甘味が口内に広がり、無性に泣きそうになる。


「……優しい味ですね」


「背脂も卵もプリンも、あたしを裏切らねえ。だからおまえも裏切るなよ?」


 楓は肩をすぼめ、笑う。


「裏切りません、るり。……あなたがプリンくれる限り」


「よし決まり。任務成功のたびにプリンだ」


 東の雲が裂け、薄金の光が二人の影を長く伸ばす。

 遠くで船の汽笛が鳴り、夜が終わる。


 金色の閃光の残り火と、紅い影──その二つが重ねる光線は、まだ細い。

 だがクトゥルフの深き闇でさえ、それをかき消すにはしばし時間がいるらしい。

 背脂の香りとプリンの甘みを胸に、二人はエンジンを始動した。


 これが、世界崩壊まで残り一千八十日と少しの、ささやかな夜明け。

 闇より深いラーメンスープの底で、舌無き神子が目覚める刻限は、静かに近づいていた。




第3章 ”傷と煙”


01 夜風と硝煙とコールタール

 CAT本部の屋上には、正式な喫煙スペースがない。

 だから更科るりは、管制塔の裏に隠れた雨どい脇でタバコに火を点ける。海から吹き上げてきた湿気がライターの青い炎を揺らし、火先を庇う指が真鍮色の月光を撥ね返した。


 「……はあぁ」


 目を閉じて肺を満たす。煮干し軒の背脂とプリンの余韻がまだ舌に残るのに、コールタールの苦味が上書きしていく。

 ──どれだけ甘くても、最後は苦い。

 それがあたしの人生で、あいつの記憶だ。


 階段扉のきしみ。それだけでるりの背筋は弓なりに緊張するが、すぐ緩んだ。靴音が覚えたリズム――九重楓だ。


 「るり、またサボり……じゃなくて休憩ですか?」

 淡く照り返す黒髪と、夜気に赤く縁どられた瞳。楓は一礼しながら数歩近づき、ぎこちなくタバコの匂いを吸って咳きこんだ。


 「悪いな。おまえが来ると分かってりゃメンソールにしといた」

 「いえ、それ以前に……タバコそのものがどうかと思います。百害あって一利なしって、保健の授業でも言ってましたし」

 「へっ、背脂フィルターで濾過されてんだよ」

 そう言って笑うが、笑みの端がすぐ崩れる。


 夜の海を渡る風が、滑走路跡の鉄骨を鳴らし、煙を撫で、二人の影を揺らす。

 その風の音が、どこかで聞いた呻き声に似ていた。 


02 七百ページとふたりの傷

「るり……今日は約束の“傷を見せ合う日”ですよね」

 楓が取り出したのは、分厚いファイルバインダー。表紙に海魔商会の英文ロゴ、そして血痕のような茶色い指紋跡。

 昨日の地下水路から引き上げられた書類の複写だ。


 「……ゲンナリするな。700ページ、うち読めるのは34ページしかねえ」

 ページを繰るたび、湿った紙の匂いと微弱な塩素臭が鼻を刺す。

 英語、古いドイツ語、ラテン語、そして半分はR’lyeh文字に似た幾何学的グリフ。


 「翻訳AIでも解けない箇所が多すぎて……でも、この頁だけは解析できました」

 楓が示した図面には、巨大な円柱内に漆黒の楔を打ち込んだ生体カプセル。側注に“CT-619_舌無き神子(Prototype)”とある。

 人間サイズのDeepOneを培養槽で捧げ、クトニアン臓器とショゴス原形質を縫合し、最終的には外宇宙“Y’ha-nthlei”から“声”を降ろす……。


 「要するに、クトゥルフの深海都市と“地上の声帯”を繋ぐ回路を造ってんだ」

 るりは唾を吐くように呟く。


 「そこに、私の――両親を襲った武装テロも繋がるはずです」

 「薫もだ。あいつを殺した火球の魔術配列、解析したらショゴス系統のエネルギー波だった」

 ふたりの視線が絡んだ。沈黙の底で、硝煙と血の匂いが蠢く。


 「……なあ楓。怖いか?」

 「はい。怖いです。でも――」

 「でも?」

 「るりが撃ってくれるなら、私は前を切り拓けます」

 言いながら楓の頬が朱を帯びた。夜気の塩がその色をくすませ、るりの胸を妙に疼かせる。


 「あたしも怖えよ。けど、もう逃げねえ。薫が背中押しやがったからな」

 るりは吸い差しを捻り潰し、火玉を暗闇に弾いた。火の粉が夜風に散り、金色を宿す一瞬だけ《金色の閃光》が蘇る。

 「楓……この後時間あるか? 試したいことがある。」


03 射撃場の蜃気楼

 午前三時。

 屋外射撃レンジに蝋燭の列が揺れていた。電子標的は感度をゼロにし、代わりに儀式用の五芒星をチョークで描いてある。

 るりはM92FSを祈るように胸に当て、楓は〈TSUBAME〉を鞘から半分抜いたまま目を閉じている。


 「実験だ。弾道に込めた意志が、旧支配者の囁きを跳ね返すか」

 るりは左手のFive‑seveNを楓に渡した。

 「次はおまえが引き金、あたしが背中を支える。――銃、震えるか?」

 「……少し。でも、るりの匂いがする」

 「うわ、色気ねえ慰めだな。撃て」


 楓はトリガーを絞る。

 火花が五芒星を掠め、咒的回路が青く発光した。霧状の霞が標的線に沿って逆流し、二人の頬を撫でる。

 ――海の匂い。深海の絶対零度より冷たい、しかし鼓動だけは熱した蠢き。


 次の瞬間、頭蓋に直接響く女の声。

 《帰れ、赤い子よ。おまえの血は外海の門を開く》

 楓の膝が折れる。昔の恐怖が音もなく沸き、銃が落ちそうになる。


 「楓、撃ち続けろ!」

 るりが背中から抱え込み、M92FSを楓の上に重ねた。

 二つの銃口が同座標に収束し、二重のマズルフラッシュが夜を両断。

 霧が悲鳴を上げて弾け、声は寸断された。蝋燭の炎がS字を描いて吹き消え、闇が戻る。


 ふたりとも肩で息をしながら、互いの汗を感じていた。

 「……今の、誰の声?」

 「知らねえ。けど旧支配者が頭ん中いじろうとしたのは確かだ」

 るりは楓に缶コーヒーを渡し、自分も一気に流し込む。苦味に舌と心臓を同調させながら、夜明けの空に誓う。


 「次に耳元で囁いてきたら、弾で黙らせてやる。あたしのと、おまえの、二重音でな」

 楓は頷き、指先の震えを缶の冷たさで殺した。

 「はい、るり。私も、あなたと撃ちます」


04 海魔商会私設ネットワーク

 夜が明け切る前。

 情報班の協力で入手した海魔商会の暗号通信ログが仮復号された。

 そこに、ふたりの傷を穿ち直す文字列があった。


 > TO: _ixth_352

 > SUBJ: 619試作品 解析

 > TXT: 次回出荷分、事例 #RK-24 (Airport) のデータと

 >    事例 #FH-17 (Inokashira_Plateau) の生体反応ログをリンク。

 >    対象は「舌無き神子・KT Type」と同時覚醒させる。

 >    紅い子供(KA)と金の残響(PX)を観測可能域で交差させよ。

 >    交差が完了した時、門は自ずと開く。


 紅い子供――KA。九重楓。

 金の残響――PX。Pixie、るり。

 そして門。ヨグ=ソトースの無窮の門か、あるいはクトゥルフの深海城門か。


 楓の背筋を冷たい熱が走る。父母の死が実験材料であった証し。

 るりの奥歯がきしむ。薫の死も計算式の一つ。


 「海魔のやつら、あたしらを“鍵”にする気か……!」

 破いたディスプレイの破片が飛ぶような勢いで拳を机に叩きつける。

 楓は胸の痛みを息で押さえ、震える声で言った。

 「――開かせなければいいんです。門を閉じたまま、叩き壊せば」

 るりはその言葉に静かに頷いた。

 「鍵は鍵穴ごとぶち壊す。薫がよく言ってた。……“扉がなきゃ戦争は起こらない”ってな」


05 砂浜の墓標、背脂の誓い

 翌日。湾岸の立入禁止区域に指定されたそのビーチには、人の気配がない。

 潮騒だけが静かに寄せては返し、朝靄をまとった波が鈍色の砂を撫でていく。

 打ち上げられた鉄の残骸が砂浜に沈み、朽ちたコンクリート片がひび割れた骨のように散らばる。

 その中で、ひときわ鋭く天を突くのは、ひしゃげた鋼梁。風に鳴り、まるで空に祈る十字架のようだった。


 この浜は、かつて薫が墜とした《シャンタク鳥》の残骸が沈む場所。

 満潮時には姿を隠すその骸も、潮が引けば、黒曜石めいて光る外骨格の欠片がちらりちらりと水面に浮かび上がる。

 陽が差すと、それらは海の記憶のように鈍く、静かに煌めいた。


 るりは海を見ながらベレッタを分解し、砂を払った布で磨いた。

 楓は少し離れた所で〈TSUBAME〉を波に晒し、塩抜きしてからオイルを滲ませた。


 「薫……ここに墜ちたんだよな」

 「その夜、私たちはまだ孤児院で……ニュースは“ガス爆発事故”でした」

 潮騒が二人の声を削り、代わりにウミネコが啼いた。

 るりは銃を組み上げ、空撃ちを一度。

 「薫が残した座標の最後――“次は金色を守ってやれ”。あたし一人じゃできなかった。……楓、手を貸してくれ」

 楓は刀を鞘に収め、まっすぐにるりを見た。

 「はい。るりの背中は、私が守ります」

 るりの頬が上気し、タバコを取り出す手が少し迷った。

 「……背脂よりくせぇラブレターだな」

 「失礼ですね。真面目に言ったんです」

 「わーってる。だから照れてんだろ」

 ニヤリと笑うが、目尻がかすかに潤む。潮風のせいにしたいが楓が見ている。


 タバコを咥えようとして、ふと取りやめ、背負いポーチから使い捨てのニコチンガムを出す。

 「煙草は……今だけ我慢。門壊すまで肺を残しとく」

 「え?」

 「代わりに背脂行くぞ。戦争の前に血糖と脂肪の儀式だ」

 楓は笑い、波打ち際に小さく礼をした。

 「……薫さん、見守っててください。あなたの“金色”は、今はふたりです」


 夕陽が黒い鳥の外骨格に反射し、金紅の閃光を放った。それがまるで祝砲のように夜空へ弧を描いた。


06 赤い子、金の残響

 同時刻、太平洋沖十七海里――海魔商会の大型貨物船《Naiad IX》船倉。

 ドラム缶大の培養槽に紫色の羊水がうねり、中央で胎児の形をした肉塊が脈動している。

 「KT-Type、表層温度18.3度、思念波は安定。計画通り“紅い子供”がトリガ保有を確認」

 白衣の技師が無言でレポートを送信すると、数秒のラグの後、ホロスクリーンに像が浮かび上がる。

 青白い光の中、長い黒髪を無造作に三つ編みに束ねた男が映った。端正な顔立ちに、冷ややかな笑み。

 その笑みは、報告の内容に対する満足とも、あるいは何かを見透かしたような嘲りとも取れる曖昧なものだった。

 『黄金色の残響も同時アクティベート。門はもう片方の蝶番だけで保たれている。……君たちの引き金は正しい』

 技師が問う。

 「門の向こうは、神ですか? それとも――?」

 『神などいない。ただ“もっと深い海”があるだけだよ』

 通信が切れると同時に、肉塊の胎児がかすかに目を開けた。白く無瞳の眼。

 そして口はすでになく、“舌無き”まま薄い咽喉で微かな声を漏らした。

 《……ァ……》


07 夕映えの背脂ミーティング

 にぼし軒、午後五時。

 いつもの特濃+味玉ダブル×二。さすがに主人も覚えたらしく、券売機のない店で“美少女セット”と呼ばれはじめている。

 るりは背脂の湖から麺を引き上げ、楓はネギ増しスープをレンゲでかき混ぜる。


 「撃ち合いの前に仕込みしとかねえとな」

 「ええ。背脂と味玉とプリンですね、るり」

 「プリンはデザートだ。命の次に大事」

 楓は笑いかけて、ふと顔を曇らせた。

 「……るり、私が撃てるようになるほど、両親の声が遠くなる気がするんです」

 「恐怖が薄れた分、記憶もぼやける? 当たり前だ。あたしも薫の声、小さくなる日が来ると思う」

 箸が止まる。背脂の湯気が二人の間に霞を作る。

 「でもな――」

 るりは楓のレンゲに自分の味玉を落とした。

 「代わりに新しい声が隣にある。今はそれでいいだろ」

 楓は頬を染め、少しだけ涙で目を潤ませた。

 「……るりの声、わたし忘れません」

 「やめろ照れる。食え、おまえの刀は糖分で走るんだからな」


 麺の啜る音とコクコクとスープを飲む音。

 背脂が貼りついた唇を指で拭いながら、るりは視線だけで楓に合図した。

 「数日以内に、港湾倉庫だ。海魔のフロント企業“A&Wマリンクリエイト”が荷役ミスってる」

 「了解です。門を閉じましょう」

 「撃ちっぱなしでな」


 外では紫雲が沈み、白灯が点り始める。

 深海と宇宙から伸びる触手が、未だ届かない唯一の場所――ラーメン屋のカウンターで、金と紅の影が肩を並べた。


08 煙と傷、それでも重ねる唇未満

 会計を済ませ、裏路地を歩く。夜のアスファルトが雨で光を返し、ネオン看板がおぼろに滲む。

 タバコを吸おうとしたるりの手を楓が掴む。

 「……るり。戦いが終わるまで肺を守るって言ったでしょ」

 るりは舌打ちし、代わりにニコチンガムを噛む。

 「なら、おまえが落ち着かせろ」

 「え?」

 「こういう時、薫はキスしたもんだ……って昔話だ。――恐怖で酸素薄くなるからな」

 楓の鼓動が耳を塞ぐほど鳴る。

 「キ、キスは……まだ、です。私たちには」

 「じゃ、プリンか? 背脂か?」

 「……手を。握らせてください、るり」

 小さな掌が刀の鍔より熱く、M92FSのグリップより柔らかい。

 るりは笑い、指を絡めた。煙草はいらなかった。煙草以上に苦くて、甘い煙が二人の胸を満たした。




番外編 ほのぼのインタールード “猫耳とクレープ”


0 休務申請と「猫のヒミツ基地」

 海魔商会倉庫急襲の準備が大詰めになる前夜、るりは作戦室から楓を半ば強引に連れ出した。

 「明日はブリーフィングも予行も無え。今日は丸一日オフだ。――街、案内してやる」

 「え、でも私、装備整備と射撃記録の……」

 「却下。おまえ、孤児院と訓練コースしか知らねえんだろ? 年頃の女の子はかわいい店で可愛いモン買って、背脂以外の甘い匂いも覚えろ。お前まだ17だろうが」

 るりはそう言ってCAT専用ポータルに休務申請を叩き込み、“バディ育成プログラム:社会適応訓練”のスタンプを自動で付けた。

 システムが緑ライトを点けた瞬間、るりは勝ち誇った笑みを浮かべる。

 「合法的サボり、成立」


1 電車の窓と初めてのアイシャドウ

 平日午前十一時。二人は私服に着替え、首都圏の私鉄に揺られていた。

 るり:黒のライダースジャケット・デニムショート・スニーカー。背にはスリングバッグ、腰に簡易ホルスター(弾はダミー)。

 楓:孤児院支給のシンプルなワンピースから脱却し、るりが選んだオフホワイトのニットに淡いピンクベージュのフレアスカート。〈TSUBAME〉は竹刀袋に偽装。


 車窓の流れを追いながら、楓は人混みと広告モニターの眩しさにそわそわと視線をさ迷わせた。

 「るり……すごいですね、こんな高いビルがずっと並んでて」

 「あたしらの仕事、地下か屋上だからな。地上をゆっくり見る暇ないわな」

 「そうですね……こうやってでしか見ることのできない景色もあるんですね」

 「楓……おまえ」

 るりはニヤリと笑い、ポーチから小さなアイシャドウパレットを取り出した。

 「ん、閉じろ目。薄く乗せるだけで印象変わる」

 「え、えぇ、化粧ですか!? ここ電車……っ」

 「大丈夫、揺れない。ほら、瞬き我慢」

 細い指に乗ったシャンパンベージュが楓の上瞼に淡く載る。

 「……きれい。るり、化粧慣れてるんですね」

 「女の子ってのはな、なによりかわいさが武器になるんだよ。つまり化粧ってのは、武器の点検や整備と同じなの。孤児院で習わなかったのかよ」

 楓は鏡の自分を見て頰を紅潮させた。

 「ありがとうございます、るり」

 「礼はいい。今日一日、かわいくて強い女でいろ。せっかくの私とのデートなんだぜ。」


2 秋葉原・ネコカフェ《Cat’s Cradle》

 電車を降り、アキバの裏通りにある赤レンガのビルへ。

 ガラス戸を開けると、猫耳カチューシャを付けたスタッフが迎える。そこは保護猫カフェを兼ねたサブカル雑貨店《Cat’s Cradle》――るりの行きつけ。


 カウンターで入店手続きを済ませると、白黒ハチワレの仔猫が楓のスカートに飛びついた。

 「きゃ、かわいい……!」

 楓がしゃがんで抱き上げると、仔猫は喉を鳴らし、楓の頬へ顔を寄せた。

 るりは隣で腕を組む。

 「こいつら人懐こいけど気分屋だからな。楓の匂い気に入ったらしい」

 「私、猫触るの初めてで……柔らかい……ふわふわしてます!」

 楓の指は刀や拳銃の感触を覚えていたが、猫の体温と毛並みは未知のテクスチャだった。


 奥の棚にはネコモチーフのアクセ、キーチェーン、ぬいぐるみ。

 るりはキーホルダーを一つ取り、レジに置いた。半分金色・半分赤色の肉球デザイン。

 「バディ同士のドッグタグ替わり。おまえ赤い方、あたし金」

 楓が財布を出そうとすると、るりが制した。

 「今日は“バディ適応訓練費”。あたし持ち」

 「いいんですか?」

 「あたぼうよ。まあ……お返しはいつか体で支払ってくれりゃあそれでいいよ」

 「るり!!」


3 クレープ三段活用

 昼過ぎ、中央通りのクレープ屋台。

 るりが注文したのは“チョコバナナWホイップ背脂トッピング(嘘)”ではなく、“焦がしキャラメルナッツ”。

 楓は「どれにしよう……」と迷い、スタッフの勧めで“いちごチーズケーキクリーム”を選ぶ。

 受け取った瞬間、ホイップが溢れそうであたふた。

 「重っ……るり、これ崩れそうです」

 「ほれ、ここから咥えて回転させる。銃と同じ、重心考えろ」

 るりが実演し、楓も真似する。

 一口でイチゴとチーズケーキ、クリームが同時に舌へ雪崩れ込み、頸筋まで甘い。

 「……! あま……」

 「砂糖は正義。背脂+砂糖でヒューマン・バリア完成」

 歩きながらクリームで唇を汚す楓。るりは親指で拭ってやり、代わりにキャラメルを分けた。

 「今夜の戦闘シミュレーション洋上だけど、甘い匂いでDeepOnes混乱する説」

 「それ、科学的根拠ゼロです」

 「んなこたぁ知ってる。ただのおまえいじりだ」

 楓の笑い声がアーケードに高く反射し、通行人が振り返る。


4 プリクラと猫耳フィルター

 メイド喫茶の呼び込みをかわし、ゲームセンターへ。

 るりはプリクラ機を指差す。

 「バディ証明写真。猫耳つき」

 「ね、猫耳……!?」

 中へ押し込まれ、画面下部でポーズ指示。「ほっぺハート♡」「顎クイ♡」「鼻チュー♡」

 楓は真っ赤になりながらも、るりが狭いブースで背伸びして頬に指を当てるので従わざるを得ない。

 フラッシュ。画面に二人の顔が映り、楓に白い猫耳、るりに黒い猫耳が自動合成される。

 「ハイ次、“距離ゼロ・ウインク”!」

 るりが楓の顎へ指をかけ、ウインク。楓は驚きで目を見開き、フィルターが自動でハイライトを増幅。

 最終カット確認。「百合力300%」の文字が点滅。

 プリクラ機が完成シールを排出し、るりは切り取って楓のスマホケースに貼った。

 「逃げんなよ? 戦死したら遺影に使うから」

 「縁起でもないこと言わないでください……!」

 「じゃ、生き延びろ」


5 ハズレなし射的ゲーム

 アトラクションコーナー。小さな射的台でお菓子やフィギュアを撃ち落とすルール。

 木製コルク銃を渡された瞬間、楓の表情が固まる。

 るりは隣で同じ銃を構えながら耳打ち。

 「大丈夫。コルク弾だ。痛くもねえ」

 「……はい、るり」

 的はプリン缶、小型キーホルダー、猫ぬいぐるみ、そして目玉賞の“ギガ味玉抱き枕”。

 店員が言う。「抱き枕は7点落とさないと無理っス」

 るりは銃を両手で回し、子どもみたいに構えた。

 まだ少し、手は震えてしまう。それでも……

 トリガーを弾く。コルク弾が一直線にプリン缶へ命中。ガタン。1点。

 楓が息を詰め、二発目。ハート形のクッキー缶を落とす。ガシャン、2点。

 「お、良いフォーム」

 「……思ったより、怖くないです」

 「じゃ七点揃えるぞ。抱き枕はおまえの枕元だ」

 最終弾、るりが外し、焦りを笑いに変えて楓へ銃を押しつける。

 「ラスト、おまえ決めろ」

楓は深呼吸し、弾を込め、狙う。“紅影、一射”。

 コルク弾が猫ぬいぐるみを直撃、落下音。7点到達。店員と周囲の子供が拍手した。

 楓は銃を置き、胸に手を当てる。

 「撃てました……るり」

「ほら言ったろ? 怖いもんは背脂と猫で克服」

 巨大味玉抱き枕を抱えた楓の顔がクリームより甘い色に染まる。


6 夕焼けと観覧車

 お台場の海沿いへ移動。観覧車が朱に染まり、ベイエリアの光を映す。

「CATにも観覧車あるけどな。あれは訓練用に18Gまで回る狂気マシンだ」

「普通の観覧車に乗るの、初めてです。結構ゆっくり回るんですね。少し変な感覚です」

「おかしいのはうちに置いてあるやつの方なんだけどな」


 二人はガラス張りゴンドラへ。

 最上点に近づくと、東京全域が箱庭になり、遥か向こうにCAT本部の尖塔も見える。

 るりが己の拳銃型ペンダントを胸で弄びながら口を開く。

「明後日の倉庫襲撃。失敗すりゃ“門”が開く。そしたら世界ごとリセットだ」

「でも、私たちがいる限り開けさせません」

 楓は拳を握りしめ、抱き枕が窓に押しつけられて変形する。

「……楓、おまえが銃声に克つ過程、薫に見せたかったな」

 るりの声がかすれ、観覧車のモーター音が遠くなる。

「見てますよ、きっと」

 楓が小さく微笑み、空の色が金から群青へグラデーションする瞬間――

 るりは意を決して、楓の手をそっと取った。

「握っててくれ。終点まで」

 「……はい、るり」

 指を絡め、窓外の街灯が二人を流星のように追いこしていく。帰らない夕焼け。けれど夜は必ず明けると、どちらも知っている。


7 背脂→プリン→味玉の三重奏

 夜。にぼし軒がスープ切れで閉店したため、二人は代わりに高台のファミレスへ。

 るりは背脂っぽいカルボナーラ大盛りとプリンアラモード、楓は味玉入り和風ラーメンを頼む。

「バディ三銃士、全部揃った」

「るり、糖分摂りすぎです」

「門壊したら減量する。……で、観覧車どうだった?」

「高かったです。けど、すごく綺麗でした」

「おまえのほうが綺麗だったけどな」

 不意打ちの直球で楓の箸が止まり、麺がだらりと垂れる。

「そ、それは……」

「照れんなって。あたしだって瞳孔バグってた」

 るりはプリンをすくい、楓のラーメンどんぶりに“プリン・オン”。客席がざわめく。

「えええ!なにやってるんですか!!」

「ほら背脂プリン味。早い者勝ち」

 楓は笑いながらスープごとプリンを飲み、想像より悪くない甘塩っぱさに目を丸くした。

「……未確認生物の味がします」

「それクトゥルフ味だ。慣れろ」

「いや流石にこれは無理があります」


8 猫耳キーホルダーと“また明日”

 CATの寮区へ戻る夜十時。

 ロビーの灯りは抑えめで、警備ドローンが静かに巡回している。

 るりは階段前で立ち止まり、楓のスマホケースの猫耳キーホルダーを弾いた。

「明日は訓練じゃなく装備確認。午後から弾薬受領。寝坊すんな」

「はい、るり。今日は、ありがとうございました」

「礼は……」

 言いかけて、るりは言葉を変えた。

「いや、言え。礼くらい受け取る」

「え?」

「楓……おまえがいなかったら、きっと私はここにいなかったと思う。……おまえがいてくれて、良かった」

 楓は少し泣きそうに笑い、欠けた犬歯を噛んで堪えた。

「こちらこそ、連れ出してくれてありがとうございます。……また、遊びに行きましょうね」

 るりは頷き、拳を差し出す。楓がそっと拳を重ね、掌を開いて指を絡める――“バディ握手”。


 離れ際、るりは低く言った。

「……門はまだ閉じてる。開く前にぶっ壊す。――また明日」

「また明日、るり」


 エレベーターが昇り、ドアが閉じるまで楓は手を振った。

 ドアが閉まった瞬間、るりは背脂のプリントTシャツの胸元を軽く叩き、顔を真っ赤にして小さく息を吐いた。

 「ああクソ……次こそキスしちまうかもな……って駄目だダメだ。相手は17歳のまだガキだぞ。14歳差って……だあクソ……調子狂うな」




第4章 海魔商会襲撃


1 潮騒前夜

 潮騒の音は、今夜に限って、異様に低く、湿って聞こえた。

 まるで水底から逆流してくるような、反響を含んだ呻き――それはこの場所が、すでに“人の陸”ではないことを予感させた。


 夜十七時三十分。東京湾、南埠頭。

 巨大な倉庫群が沈黙するこの区域の、最も奥まった場所に建つ〈H37番倉庫〉は、表向きは老朽化した冷凍水産加工場だ。

 だがその実態は、CAT情報班の解析によって暴かれた“海魔商会”の密輸拠点。人の領域と、深き者どもの領域を接続する、接触点。


 夕暮れの残光が、鋼鉄製シャッターに仄赤い斑を映し出す。錆に濡れた倉庫通路は、既に濃い海霧に浸食され始めていた。霧はただの自然現象ではない。小型ジャマーが屋上で稼働しているらしく、船舶レーダーは無力化され、電波も無線も使いものにならない。

 ノイズまみれの空間は、まるで別世界に閉ざされているかのようだった。


 あたしはキャットウォークの上、錆びた鋼材に伏せて身を潜め、遠距離監視装置を覗き込む。赤外線スコープが温度勾配を拾い、視界の中に幾つかの発熱体を描き出す。


 〈Pixie 観測ポイント、熱源七体確認。うち Humanoid 四〉


 背後で九重楓が、猫耳キーホルダーを指で軽く弾いた。

 スナップ音ひとつで意思表示する、あいつなりの合図だ。


 「海魔の私兵ですね」

 「DeepOneと人間の混成守備隊。連中、直接船からモノを降ろしてる」


 会話は最小限。空気の一振れも、銃声の代わりになるこの現場では、言葉すら武器だ。


 倉庫の防潮扉が開いている。クレーンのワイヤーに吊られた巨大な冷凍コンテナが、風鈴のように鈍く揺れ、上部に点滅する緑のインジケーターが、作業の進行を示していた。

 それに刻まれたロゴ――舌を貫かれた魚人の紋章。忌まわしき“子”の象徴。


 〈CT-619 / KT-Type〉。

 以前、地下水路で交戦した“舌無き深海魚”の試作個体。その更に上位にあたる“神子”の実働型が、この冷凍コンテナに積まれているという。中身は未知数。だが、確実に“門”の気配がする。


2 紅影、潜入

 十九時ちょうど。

 湾岸に吹く潮風が突如として向きを変えた。風が海霧を押し、倉庫の正門側を覆い尽くす。その一瞬の変化を、私は見逃さなかった。


 「今――行く」


 キャットウォークの縁から身を乗り出し、パイプに手をかけて一気に滑り降りる。摩擦熱が手袋越しに指先を焼くが、気にしている暇はない。

 着地と同時に、背のクロスホルスターへ両手を伸ばし、二挺の拳銃――ベレッタM92FSとFN Five-SeveNを確かめるように収め直す。指先に重さがある。よし、どちらも実弾装填済み。


 地上に降りたあたしに続き、楓が忍者のように軽い足取りで配管を駆け、すでに屋根の端に取りついていた。背には愛刀〈TSUBAME〉、腰にはスローイングナイフ三本を差した専用鞘が揺れている。


 「正面で騒ぎ起こす。おまえは屋上へ上がって、クレーンの制御盤を奪え。合図は――」


 「分かってます、るり。“背脂フラッシュ”でしょ?」


 楓がくすっと笑って、いたずらっぽく目を細めた。

 「要するに発砲だ。撃ちっぱなしで行く。連中の視線を引きつける」


 全ては秒単位の行動計画。あたしたちの動きに一つでも綻びがあれば、こちらが喰われる。


 倉庫を囲う鋼鉄の塀を越え、地面すれすれに身を屈めて駆ける。冷却コンテナが立ち並ぶ路地は、朽ちた配線や工具が散乱していて、足音一つでもノイズになる。

 上空には、ゴンドラのように吊られた照明灯が不規則に明滅し、赤外線センサーが蜘蛛の巣のように配置されている。一本でも触れれば即座に敵の知れる。


 あたしは排気口の影に膝をつき、静かにFN Five-SeveNのサプレッサーを取り外した。

 「楓、先に行け」


 「でも、るりは――」


 「アラートは私が鳴らす。役割分担だ、ほら行け」


 迷いを断ち切るように背中を押すと、楓は息を殺して壁をよじ登り、排気ダクトの縁に指をかける。細くしなやかな指先が、鉄に食い込むように掴まり、彼女の身体が無音で浮かび上がる。


 静寂。夜霧が全てを包み込む。

 その一瞬の間に、あたしは脳のスイッチを切り替える。


 ――戦闘モード。感情を一枚、裏側に引っ込める。


 あたしは《Pixie》だ。

 笑わない妖精。殺し合いに特化した小さな兵隊。

 あたしの出番だ――派手に、血と鉛の花火で始めてやる。


3 背脂フラッシュ

 一歩踏み出す。脚立を蹴倒し、金属音が夜霧を貫く剣戟のように響く。


 ――音が走る。

 瞬間、センサーが反応し、警報ランプが倉庫の四隅で赤く点滅。

 照明灯が爆発的に点灯し、霧が白昼のように照らし出された。


 「誰だッ!」


 獣じみた咆哮。数秒の沈黙ののち、霧の向こうでドス黒い影が動いた。


 私は遮蔽物を使わず、正面から飛び出す。両腕を広げ、拳銃二挺を水平に構え――

 「ピクシー、開幕だぜ。」


 指が動く。引き金が震える。

 閃光の二条が、闇を真っ二つに切り裂いた。


 曳光弾が金の筋を引き、魚人型の警備兵――“舌無き”DeepOne兵士の腹部を貫く。

 青黒い血液が散り、コンクリの床に濃い染みを描く。

 悲鳴を上げる間もなく一体が倒れ、二体、三体と銃声が重なって次々に崩れる。


 「ヒューマノイドが一人……ちげえ、三十体?」


 霧が晴れる。

 浮かび上がったのは、獣の目をした私兵の群れ。人間型とDeepOne混成の兵士たち――海魔商会の私設傭兵団。

 全員が重装タクティカルスーツを着込み、電磁式ソノル兵器を構え、殺意だけを光らせてこちらを囲む。


 でも、怖くない。


 これがあたしの“ホーム”だ。

 どれだけ包囲されようと――あたしの周囲が《フィールド》だ。


 「どっちが本物の化け物か比べてみっか。舞台は揃った」


 あたしは飛び出す。両足でバネを効かせてコンテナ壁を蹴り、逆サイドの足場に跳ぶ。

 空中から連射――三点バースト。

 敵の一人が頭を撃ち抜かれ、背後の仲間の肩ごと吹き飛ぶ。

 着地と同時に前転、スライディングで敵の間を抜ける。


 「撃てーッ!囲めぇぇ!!」


 兵たちがソノル銃を放つ。超低周波の音波が、空気を割って走る。

 視界が揺れ、鼓膜が痙攣。だが――


 “音”なんて遅いんだよ。


 あたしの体は、もうそこにいない。


 宙返りで足場へ。踵を使って敵の頭上に蹴り上げ、反動で再び飛ぶ。

 銃を逆手に持ち替え、すれ違いざまに敵の頭部へ三連ショット。

 ヘルメットが爆ぜ、紫の脳漿が噴き出す。


 敵は次々に倒れる。

 DeepOne兵が吼え、鋭い爪で斬りかかる。

 だが私は、その腕を回し蹴りで捻じ曲げ、膝蹴りで腹を抉り、最後に喉元へ一弾。


 「しつこい」


 銃弾が入ってない?

 ならば――体術で弾き飛ばす。肘で鳩尾を撃ち、膝で顎を跳ね上げ、背中を取って後頭部に一撃。


 残弾確認。左のM92FSはすでに空。

 腰をひねりながら、マガジンを空中で交換し、そのまま敵の膝へ撃ち込む。

 「ひざまずけ」


 悲鳴と共に一体が膝を割られ、私がその背を踏み台にする形で跳ぶ。


 斜め上から、群れの中心へダイブ。


 あたしを視界に収めた敵が一斉に撃つ。

 だが、遅い。

 一瞬で身体をねじり、背面で受け流すように跳弾を誘導。


 「次、そっちだよ」


 Five-SeveNの口径が、最も危険な男の額へ吸い寄せられる。

 SS190弾が骨を貫き、背後へ突き抜けた。


 跳ね、回り、伏せ、滑る――

 るりの動きは、もはや銃撃戦というより踊りだ。


 圧倒的な身体能力と空間認識。

 格闘術と射撃を無意識のレベルで融合させた、“殺しのアート”。


 残り十五体。

 それでも、動じる必要はない。


 あたしはコンテナの影に滑り込み、反転して銃を撃つ。

 スライディング射撃で二体の足を破壊し、敵が倒れる瞬間に反転してトドメを撃つ。

 ――全て、弾丸で。


 格闘で削り、弾丸で裁く。それが《Pixie》の信条。


 右から回り込もうとした兵士が、背後から斧を振り上げる。

 その殺意を、あたしは音で、風で、直感で感じ取る。


 振り向かずに、撃つ。


 引き金を弾く。音が鳴る前に、相手の喉が潰れる。

 弾道計算はすでに完了済み。外れるわけがない。


 「――残り、七」


 呼吸が整っている。瞳孔は収縮し、すべてが見えている。

 世界はゆっくりと流れている。


 弾倉を再交換。ベレッタとFive-SeveNを同時に構える。

 連射、停止、跳躍、回避――


 最後の三体を前に、あたしはゆっくりと歩み出る。

 恐怖に硬直したDeepOneたちは、奇妙に歪んだ咆哮を上げるが、震えているのは明らかだった。


 「“音”で脅すなら――もっといい声で鳴きな」


 トドメの三弾。

 それぞれの脳天を、静かに、だが確実に撃ち抜く。


 ──静寂。


 青血と硝煙が霧に混じり、床はぬめるような死の色に染まっていた。


 あたしは銃口を下げ、深く息を吐く。


 たったひとりで三十体。完封。


 「《Pixie Kurenai》」

 〈おまえの上、三十秒でブルーだ。制御盤、壊すなよ〉


 〈了解、るり〉


 楓の息は荒いが、震えていない。

 ちゃんと“銃を構える人間”の呼吸になっている。


4 屋上の風切羽

 倉庫の屋根裏、吹き抜けに近い梁の上。

 そこに静かに身を伏せていたのは、九重楓。背負った刀〈TSUBAME〉の鞘がわずかに軋む。屋根材の上を伝う海風が、剣士の頬を撫でた。


 視線の先、クレーンの基部付近には、防冷スーツに身を包んだ私兵が二名。

 片方はモニタに向かい、もう片方は周囲の監視に目を光らせている。だが警戒の精度は甘い。るりの“背脂フラッシュ”が、予想以上に派手に敵の意識を吸い寄せている。


 「……チャンスです、るり」


 楓は息を静かに整えた。

 〈TSUBAME〉を抜く。刀身が鞘口を離れると同時に、淡い赤の光が刀身に這う。高周波振動、最小出力設定。切断ではなく、冷却装置を焼き切る目的。


 静寂を切り裂くのではなく、静寂のなかで殺す。


 重力を殺すように、梁の上から真下へと落下。

 着地は音もなく、床に触れる瞬間にはもう、刀が十字を描いていた。


 一閃、二閃。


 防冷スーツの胸パネルがずれる。

 喉元を裂かれた私兵は、息を吸う間もなくその場に崩れ落ちた。

 血の匂いはしない。冷却液とケーブルが床に散り、静かに蒸気を上げる。


 「ごめんなさい……ここは、渡せない」


 楓はクレーン制御盤の前へ進む。レバーを引く。

 赤錆びたワイヤが唸り、天井から吊られた巨大コンテナがギィ、と音を立てて下降を始めた。


 〈るり、クレーン奪取しました〉


 〈ナイス。中のモノは?〉


 楓はコンテナ上部の覗き窓に手を添え、顔を近づけた。

 内側には、透明とは言い難い紫黒い羊水が満たされ、その中に浮かぶ異様な物体が――“胎児”のような、しかし明らかに“ヒト”ではない、何かが――脈打っている。


 「……CT-619。“子供”って、これ?」


 紫黒の肉塊。無数の細い筋がワイヤで吊られ、その胴体の中心には脈打つ赤いコアがある。だが、その目はない顔の中央が、ふと――


 《……マァマ……》


 甘えるような、濡れた声が、頭の中に響いた。

 口を動かしてはいない。けれど明確に“発音”されたその言葉は、楓の鼓膜ではなく、脳に直接届いた。


 「……っあ……」


 膝が、思わず崩れる。

 意識が冷える。冷たい手で頭蓋を撫でられ、眼窩を抉られるような錯覚。


 視線を合わせてはいけない。

 だがもう遅い。楓は確かに“それ”と、目が合った。


 《……マァマ……マァマァ……》


 声が重なり、反響し、増幅していく。まるで空間が“母胎”に転化していくような、湿度を含んだ圧迫感。

 楓の背に、冷たい汗が一筋伝った。


 「るり……中身、反応してます。たぶん……こいつ、生きてる……」


5 交差点に金と紅

 その頃、倉庫の床面。

 るりは未だたった一人で、三十の死体の中心に立っていた。


 が、終わっていなかった。


 “舌無き”DeepOne兵士の第二波。コンテナ群の間から、さらに十数体の新手が姿を現す。先ほどよりも動きが速い。咆哮も甲高く、明らかに“強化個体”だ。


 「マジで言ってんのか……!」


 るりは、ベレッタのスライドを引き、残弾ゼロを確認した。


 「クソッ、こっちはプリンも食ってねぇのに!」


 敵が、殺到する。

 鋭い爪が飛び、骨ばった腕が槍のように伸びてくる。るりは身を翻し、蹴りを叩き込んで距離を取りながら、Five-SeveNを左手に切り替える。


 だが一瞬、足が絡まる。バランスが崩れた。

 敵の爪が、斜め上から振り下ろされる。


 ガキィン――!


 直撃する寸前、その斬撃を“別の刃”が遮った。


 紅色の刀、TSUBAME。


 「……遅くなりました!」


 天窓から飛来した楓が、一閃で敵の腕を斬り落とす。

 着地と同時に膝へ鞘打ち、関節を砕き、敵を沈める。

 その流れるような一連の動作に、るりが目を細めた。


 「おまえ、肉塊は?」


 「制御止めました。でも……“啼いてる”。頭の中に」


 楓の頬は蒼白。口元は震えていたが、瞳ははっきりと焦点を保っていた。


 「なら――撃て」

 るりは自分のFive-SeveNを、躊躇なく楓へ投げ渡す。

 「おまえのトラウマは昨日置いてきたって、さっき言っただろ」


 楓はキャッチし、深く息を吸った。

 視線が定まり、照準が敵の額へ――


 パン。


 SS190弾が、敵の後頭部から突き抜け、床を焦がす。

 楓は、震える指をゆっくりと下ろした。


 「……撃てた」


 「撃てたな。よし」


6 舌無き神子、地に臨む

 コンテナが、床面に到達する。

 振動を伝える鉄の音が、床全体を波のように揺らした。


 カチリ。


 何かの自動ロックが解除された。

 コンテナの蓋が、ゆっくりと、きしむ音とともに開いていく。


 中から現れたのは、羊水に塗れた紫黒の肉塊。

 胎児のような外形はすでに崩れ始め、全身の筋繊維が膨張と収縮を繰り返しながら変形していく。


 ――人でも、魚でも、獣でもない。


 まるで、どれでもあって、どれでもない。


 肉が裂け、骨格が捻じ曲がり、再構成される。

 神経線維が縒り合わされ、咽喉部からは不規則に分岐した声帯構造が延び、サックスのような管楽器状の器官が四本、咽頭から突き出した。


 「うわ、なんだこいつ……!」


 るりが一歩、無意識に後ずさる。

 全身が粘膜に包まれ、体表からは湿った瘤が脈動し、一つの“音”が生まれる器官として進化している。


 《フ……ル……ク……ァァ……》


 舌のない口が震え、管が膨らみ――その瞬間、音が来た。


 グワァァァァァン……ッ!!


 腹の底から握られるような超低周波の咆哮。

 空間が撓み、足元の鉄板が共鳴で跳ねる。

 るりは思わず片膝をつき、楓は刀を杖代わりにしてなんとか耐える。


 HUDが赤色に点滅。


 〈舌無き神子・KT-Type / STATUS:覚醒〉


 「……完全に起きちまったか」


 るりは眉をひそめながら口を押さえる。

 血の味。内臓が震えている。


 「音圧……強すぎる。フラッシュバンじゃ、足止めくらいにしか……」


 楓がよろめきながら隣に立つ。口元には血の筋。

 だがその手は、まだ刀を手放していない。


 「……輸送中に目覚めたら、都市部が一瞬で共鳴崩壊します。喉を潰さない限り――」


 「行けるか?」


 「はい。私は接近して、音源を止める。るりはコア狙撃、お願いします」


 るりは一瞬、楓の顔を見つめた。

 蒼白な頬、焦点の定まった瞳、そして震えていない膝。


 「おまえ、撃てるか?」


 楓は、頷いた。


 「撃てます。……私には、**“連射”がありますから」

 その声には、恐怖を食い破った意志の音があった。


 るりは、にやりと笑う。


 「いいね。じゃあ、“二人で一本”ってとこ見せてやろうぜ」


7 紅影、咽喉を裂く

 るりは背中のホルスターからベレッタM92FSを抜き、手首をひねって新品のマガジンを装填する。

 カチ、と金属が噛み合い、スライドを引いて装填を完了。薬室の弾が不敵に光る。


 一方、楓は〈TSUBAME〉の柄に指を添え、高周波出力を最大に。刀身が赤熱し、霧の中に一条の紅の蒸気が走る。


 「行くぞ、紅影」


 舌無き神子が第二の咆哮を放つ。

 先ほどよりも深く、重く、破壊的。低周波が空気を打ち抜き、天井の鉄骨が共鳴して震えだす。


 「――ッ、耳が……!」


 るりは奥歯を噛みしめ、頭の芯を焼くような音圧に耐えながら、楓を見た。


 楓は……すでに、動いていた。


 音の只中へ、“自分”ごと飛び込む。


 膝を屈め、刃を肩に担ぎ、霧を裂く疾風のように。

 目を細め、心臓の鼓動を殺し、音の波に自らを重ねるように。

 管が鞭のように薙ぎ払われる――が、


 「……遅い」


 楓の足が床を滑る。腰を低く、回避。

 同時に刀を鞘打ちで弾く。金属音が神子の咽喉管を跳ね返し、体勢を崩させる。


 「……今しかないッ!」


 〈TSUBAME〉を抜刀。斜め一文字。

 紅影一閃――


 管を袈裟斬り。中から噴き出す紫血が高圧で飛び散る。

 音波が一瞬、止まった。


 るりの瞳孔が収縮。世界がスローモーションになる。

 Five-SeveNを持ち替え、構え。照準を咽喉の奥――あの赤いコアへ。


 引き金を引く。

 SS190弾が火花の尾を引き、管の奥を穿つ。


 ──命中。


 コアが爆ぜ、肉の壁を押し裂くように衝撃波が走る。


 「よし――ッ!」


 だが。

 それだけでは、終わらなかった。


 神子が、再構成を始めた。


 「なっ……早すぎ……!」


 粘膜が傷口を覆い、砕かれた管が自動的に修復されていく。

 新たな咽喉管が六本、神子の口腔から突き出し、音波の集中砲火が始まった。


 「くっ……!」


 楓が音に呑まれ、吹き飛ばされる。

 脇腹に一本、咽喉鞭がめり込み、ニットごと抉られた。


 「――う……ッ」


 刃が手から離れる。

 膝が崩れ、楓が地面に落ちる。


 「楓ッ!!」


 るりは絶叫しながら走る。

 ベレッタM92FSを構え、フルオートで乱射。


 バンバンバンバン――ッ!


 だが――弾は、届かない。


 新たに形成された音波膜が、るりの弾をすべて弾く。

 火花が散るだけ。コアはわずかに露出しているが、届かない。まるで“笑っている”かのように、神子は震えている。


 「チッ……!」

 残弾が、空になる。

 スライドが後退し、乾いた金属音だけが響いた。


 そのとき。


 「……るり……ッ!」


 楓が、動いた。

 まだ、生きていた。


 片腕で床を押さえ、もう片方で〈TSUBAME〉の柄を掴む。

 血に濡れた頬を上げ、視線をるりに送る。


 「……私……るりを置いて、死ねません……!」


 楓はよろよろと立ち上がり、刀を握りしめた。

 脇腹から血を流しながらも、背筋はまっすぐ。


 「……管は、全部私が引き受けます。るりは……コアを、抜いてください」


 るりは、たじろいだ。

 そんな真似、私の役目だ――そう言いかけて、やめた。


 楓の瞳が、今、何より強く光っていたからだ。


 「……一年早い真似しやがる」


 るりは笑う。

 楓に五-SeveNを投げ返してもらい、残弾を確認。“4”――十分だ。


 「行くぞ。フィニッシュは二人で決める」


8 黄金色の閃光、再起動

 るりは、弾倉を確認した。残弾4。

 少ない。でも、足りる。――“今の私たち”なら。


 楓はよろめきながらも、るりの前に出る。

 刀を握る手は震えている。だがその刃先は、神子の咽喉管を真正面から見据えていた。


 咽喉管が同時に六本、楓を狙って薙ぎ払う。


 「……甘いんだよ、音だけで殺せると思ってんなら!!」


 楓が、突っ込んだ。


 刃を最大振動に設定。蒸気が腕を包み、髪を巻き上げる。

 “紅影一閃”をあえて使わない。

 ――今の楓が使うのは、“剣技”ではなく、“受け流し”。


 一本目の管が来る。

 刀の背で角度を殺し、滑らせるように弾く。

 次の一本が腹を狙う。鞘打ちで真横に弾き飛ばす。

 三本目、回避不能の角度――足元の瓦礫を蹴って宙返り!


 「……るり、今です!!」


 すべての管が、楓の周囲で止まった。

 その中央、“音の渦”の奥に、コアが露出した。


 るりは、全身を使って跳んだ。

 コンテナ壁を蹴り、照明灯のアームに飛び移る。

 そこからスピンジャンプで逆さまに回転しながら、Five-SeveNを構える。


 引き金。

 一発目――外皮を削る。

 二発目――膜を剥がす。

 三発目――内部構造を露出。

 そして――


 「これが――とどめだッッ!!」


 四発目、直撃。


 SS190弾が咽喉奥深くに突入し、コアを砕いた。


 爆発。

 紫の光が閃き、内部から共鳴音とともに吹き飛ぶように神子の胴体が破裂する。


 肉片が四散し、咽喉管が音もなく崩れ落ちる。

 液化したコアの残骸が、寒天質の雫になって床に落ちた。


 ――静寂。

 硝煙と血の匂いが霧に溶け、遠くの潮騒が、ゆっくりと帰ってくる。


 爆心部の鉄骨がきしみ、天井から水滴が滴る。

 るりは片膝をつき、肩で息をしながら、楓の元へ駆け寄った。


 「楓……! 傷は!?」


 「……ちょっと、痛いだけ。……るりが撃ち抜いてくれたから」


 るりは楓の脇腹に手を当てる。

 裂けたニットから、深い傷が見えたが――まだ生きてる。まだ、熱がある。


 「痛み止めは?」

 「……背脂と、プリンでお願いします」


 「んな無茶言うなバカ……!」


 苦笑しながら、るりは背中のポーチを漁り、個包装のプリンキャラメルを取り出して、楓の唇へ押し込んだ。


 「応急処置第一号。糖分注入」

 「……甘い……煙草より……」

 「煙草より甘いぞ」


 楓が微笑み、るりも、自然と笑った。


 静かに、笑った。


 その時、遠くでCATの増援部隊のサイレンが、霧の向こうから聞こえてきた。


 「片づけは官僚に任せようぜ。おまえは病院な」


 「……はい、るり。……あの、帰ったら……背脂ラーメン、付き合ってくれますか?」


 「もちろん。味玉、追加な」


10 門が開かないうちに

 倉庫屋上。

 鉄骨の隙間から、まだ赤くくすぶる倉庫群の残火が、霧に揺れていた。

 足元では救護ドローンが小さく唸り、楓の脇腹に自動止血パッチを貼り付けていく。


 応急処置を終えると、ドローンは静かに離脱。

 代わりに、ローターの低音が空を裂く。

 ヘリが旋回しながら高度を落とし、まるで夜そのものを払いのけるように、下層から倉庫全体を照らした。


 楓は担架を差し出されても、首を振った。

 「……私は、歩けます」

 痛むはずの脚に力を込め、るりの肩に手を回す。


 「無理すんな」

 「無理は、もうしました。今は、歩くって決めてます」


 るりは苦笑しながら、彼女の腕をしっかりと支えた。


 湿った風がふと吹いて、あたしたちは同時に夜空を見上げる。


 そこに浮かんでいたのは、異様に赤い月だった。

 血を滲ませたような深紅。まるで天に開いた巨大な“瞳”が、こちらを観察しているようだった。


 「……るり、まだ終わりじゃないですね」


 楓の声は、風にかき消されそうなくらい、か細かった。

 それでも、はっきりと、胸に届いた。


 「ああ。門は閉じたままだが……」

 るりはゴーグル越しに月を睨み返す。

 「鍵穴がどんどん増殖してる。奴らは今も、どこかで開けようとしてる」


 「でも、私たちは二人で撃てる」

 「撃って、斬れる。――だから、大丈夫だ」


 そう言って笑うるりの目に、月光が映り込んだ楓の睫毛が、宝石のように濡れて揺れていた。


 「るり、次の作戦までに体、鍛え直します。ちゃんと、今度は守れるように」


 「……心配すんな。その前に甘いもの詰め込め」

 「プリン、二ついけます」

 「上等だ。背脂も追加な」


 笑い声が、ローター音に溶けていく。

 潮風の中、倉庫の炎がまだ遠くで燻っていた。

 水銀のように赤く鈍く光り、夜の水平線を染めている。


 海魔商会の貨物船――《Naiad IX》。

 その船影はすでに沖へ向かって消えかけていた。

 艦尾のランプだけが、かろうじて赤点滅している。

 逃げ切れるつもりでいるのだろう。


 けれど――船倉の奥。

 第二の“舌無き神子”は、まだ目覚めていない。


 いや、“まだ”だろうか? 本当に、“眠っている”のか?


 るりは、そっと耳を澄ます。

 霧の向こう、波間のかすかなうねりを隔てた先。

 そこから、何かが聞こえた気がした。


 門は――閉じている。


 閉じている。


 閉じている。


 ……ただし、“内側から叩く音”がするのを除けば。


 トン、と一回。

 それは、鼓動ではなかった。

 意思を持った存在が、世界を引っ掻くように鳴らした、小さな“ノック”だった。




第5章 ”双影”


0 海霧のスリット

 午前3時33分。

 東京湾の沖合、廃棄された海洋研究プラットフォーム――〈旧・第三海鴎灯台〉。

 濃密な霧に包まれたその巨大構造物は、まるで“眠る神の棺”のように静かだった。


 鋼鉄製の昇降脚は、長年の潮風と塩害に晒されて穴だらけ。

 灯台としての機能はとうの昔に失われ、赤灯も消えたまま、法令上の存在価値すら剥奪されている。


 だが、闇に濡れた波間を漂う重油膜だけが、そこに“いまも人の営みがある”ことを、無言のまま告げていた。


 あたし――更科るりは、金網の縁に腰を下ろし、膝を抱えて海面を見下ろしていた。

 霧に濡れた金髪のツインテールが、頬に張り付き、視界の端をちらつく。

 ライターの小さな火種が風にあおられ、頼りなく揺れた。


 「……禁煙中、だったな」

 煙草を取り出す代わりに、ニコチンガムを口に放り込む。

 噛み砕く音と同時に、あたしは背のベレッタM92FSを引き抜き、スライドを引いた。

 金属音が霧のなかに鋭く割り込み、わずかに遅れて鉄骨のどこかで反響した。


 ――静寂。けれど、油断ならない静けさだった。


 背後から軽い足音が近づく。

 振り返らなくても分かる。あたしの“影”――九重楓だ。

 彼女は〈TSUBAME‑MkII〉の柄に白いタオルを巻きつけながら、霧を裂いて歩いてくる。


 「傷は?」

 「ああ、大丈夫よ、るり。縫合8針で済んだもの」

 「“もの”じゃねぇ。8針は重傷だぞ、バカ」

 「でも……あなたとラーメン食べる前に死ぬ方が、もっと重傷」


 楓は笑った。口調は変わらず敬語。けれど語尾には、熱があった。

 頬の下に残る切創の痕も隠さず、彼女はまっすぐに、あたしの隣に立った。


 数時間前――

 湾岸倉庫で“舌無き神子”を撃破し、CAT本部に戻った私たちを待っていたのは、ただの報酬でも休息でもなかった。


 新たな指令。


 《MK-619-Beta》。

 先ほど破壊した試作体をベースに、門と高精度に同調するコアを組み込んだ、正式量産試体。

 すでにこの海上プラットフォームで**“起動準備”に入っている**という。


 深度ゼロで“門”を開く。

 それは――現実空間に旧支配者の“声帯”を直接接続するという、暴挙。


 出港した貨物船を追うより、早い。

 ここで叩かなければ、二度と手は届かない。


 「やるしかねぇな」

 あたしは霧に向かってベレッタを構え、そっと呟いた。

 金属と霧の匂いが入り混じったこの海上に、また血の音が響く――そんな予感だけが、やけに鮮明だった。


1 点火

 プラットフォーム下層の鉄骨が軋み、波間に浮かぶ構造体が重くうなった。


 直後、**陸戦艇〈クラッシャー6〉が静かに侵入。

 湾内で一時的に通信遮断された海域を突き破り、黒い船体の舳先がプラットフォームの基部へ“衝角”**のように突き刺さる。

 船体後部から、ランプが昇降するように降り、がっちりと足場に固定された。


 突入部隊――あたしたち、たった二人。


 るりと楓。《Pixie》と《Kurenai》。


 援護はない。艦砲支援は遠方から射角を合わせて待機中だが、門が開いて座標がズレれば、狙いはすべて無意味になる。


 この死地に、踏み込めるのは、私たちだけだ。


 「紅影、行くぞ」


 るりはスカルマスク型ゴーグルのホログラムを起動。

 赤外線スキャンがプラットフォーム内部を貫き、熱源9、うち人型3。残りは――尋常ではない凝集熱。

 シルエットすら歪むその“熱の塊”に、肺の奥が冷える。


 「たぶん、あれが“本命”だな」


 楓はうなずき、スリングバッグからFive‑SeveNを引き抜いた。

 右手に銃。左腰には〈TSUBAME-MkII〉。

 「今日は、私が“右で撃って、左で斬る”日です。新戦法、“刀拳流”」

 「いいね。斬って撃てるってのは、いい女の証拠だ」


 ――笑っていられるのも、今のうち。


 揚油ケーブルを巻き上げるようにして、二人はプラットフォーム内部へよじ登る。

 降着ポートから格納庫フロアへ、わずか45秒。


 到着した足元には、クレオソート混じりの海水が広がっていた。

 床は硬く、しかし血と油の薄膜に滑り、靴裏がしとりと濡れる音を立てる。


 空気が重い。

 金属臭と熱気、わずかに“羊水”の匂いが混ざっていた。


 最奥部の生体ドック。

 青白く揺れる作業灯が、廃墟じみた空間に幽霊のような明滅を落とす。

 そこには複数の培養槽が並び――その中央の水槽に収められていたのは、“胴体のない巨大咽喉器官”。


 ――声帯だった。

 人ではない、深海の何か。直径は4メートル近い。

 咽喉筒が複数層に重なり、皮膚のような粘膜が波打つように震えていた。


 水槽の前には白衣の男。背後には、ディープワンの私兵が二体。

 “実験者”と“守護者”だろう。


 あたしたちは視線を交わした。

 言葉はいらない。狙撃距離:10メートル。即時制圧可能。


 「静かに行く」


 るりはベレッタを両手で低く構え、楓はFive-SeveNを腰だめ。

 足音を殺し、床を滑るように前進する。

 機械騒音に紛れて、あたしたちの“死の歩調”は誰にも気づかれない。


 白衣の男が背中越しにパネルへ手を伸ばす。

 スクリーンに投影されたのは――


 《Y’ha-nthei Gate ─ Phase Synchro 95%》


 あと5%で、門が開く。


 「……ゴールドキー、シンクロ完了」


 その単語が聞こえた刹那、るりは迷わなかった。


 「撃てば止まるんだろうが――甘かったな、そっちが」


 トリガーを引く。

 曳光弾が空気を裂き、白衣の右肩を撃ち抜いた。

 血飛沫がパネルに散り、ディープワンが警戒反応を起こす。


 だが、遅い。


 楓が即時抜刀、〈TSUBAME〉の鞘打ちで喉を粉砕し、間髪入れず銃弾で脳幹を粉々にする。

 もう一体が爪を振りかざすが、るりのFive-SeveNによる3点バーストが肩関節を破壊。

 楓が背後に回り込み、刀を抜かずに柄頭を叩きつけ、後頭部を砕いた。


 ――3対2。だが、1秒で終わった。


 敵の死体が床に崩れ落ちた瞬間、空間が震える。


 声帯が震えた。

 床下から、別の“熱”が目覚めるように動いた。


2 門の声

 床に倒れた白衣の男が、血に濡れた口元を歪めて笑った。

 その顔の皮膚がずるりと剥がれ落ち、下から現れたのは――鱗に覆われた半魚人の素顔。


 「……やはり来たか」

 声が掠れながらも艶やかに響く。

 「黄金と紅は、必ず交差する。門は、その瞬間に……開くのだ」


 「門なんざ、開けてたまるか」


 るりは一言、吐き捨てると男の胸を思いきり蹴りつけ、操作パネルから引き剥がした。

 コンソールの液晶が一瞬チカチカと点滅し、赤い警告が連続で点灯する。


 《AUTO EXECUTION MODE》

 《INITIATING GATE SYNCRO / IRREVERSIBLE》

 《COUNTDOWN: 30 sec》


 「マジかよ、これ――自律進行に切り替わってやがる……!」


 パネルの破壊では止められない。

 門の開放は、すでに始まっていた。


 水槽の中、巨大な咽喉器官が泡立ち始めた。

 羊水のような紫黒い液体が蠢き、粘膜がビクビクと震える。

 ――次の瞬間、バァンッ!!


 水槽のガラスが割れ、圧縮された液体が床へと滝のように流れ出した。

 その中から膨張しながら出現したのは、“舌無き神子”――P量産型。


 「あれが……“量産品”……!」


 あたしの足が、無意識に一歩後ずさった。

 見上げるほど巨大な質量。咽喉筒が十六本、甲殻のように輪状に連なっている。

 その中央、海底から引き上げたような黒い核球が転がり、その表面には――目があった。

 何十、何百という眼球が寄り集まり、こちらを同時に見ていた。


 「……気持ち悪ッ……」


 楓が低く息を呑み、Five-SeveNを構えた。

 その手が震えている。だが、止まらない。


 「撃つ――!」


 乾いた発砲音が5回。

 咽喉筒の一本が裂け、青い粘液が霧のように吹き出す。

 しかし――再生が速すぎる。


 「っ……駄目だ、撃ち切れない!」


 神子の咽喉が、咽喉とは思えないほどに膨らむ。

 ――来る!


 「音圧波、来るぞッ――!」


 グワァァァァァ……ッッ!!


 衝撃波が放たれた。

 音ではなく、空間ごと揺らす“暴力”。


 耳骨が震え、頭蓋の奥に嫌な音が響く。

 楓が膝をつき、銃を支える腕がぶれて床に突いた。

 るりは即座に背後から射撃。両手の二丁拳銃から、火花が飛ぶような三点バースト。

 だが、咽喉筒は止まらない。むしろ音圧は増幅していく。


 「くそっ……ッ!」


 そのままでは脳が焼ける。

 あたしは楓に向かって、軍用イヤープラグを放り投げた。


 「楓、これ使え! 内耳保護しろ!」


 「了解っ……!」


 楓がプラグを装着し、耐性を確保する。

 その間にあたしは、腰のサイドポーチを開き、小さなペーパーウエイトを取り出した。


 銀色の弾頭。薫の形見――コイルガン用の電磁対物弾。


 「おまえの“閃光”、また貸りるぜ、薫」


 あたしは即席でハンドグレネードにこの弾をねじ込み、急造の高威力即発弾を組み立てる。

 ベレッタのチェンバーに無理矢理押し込み、あとは撃つだけ。


 咽喉筒の中心。

 一瞬だけ開いた、瞳孔の巣――そこがコア。


 「狙うのは、そこしかねぇ!」


 引き金を引く。

 黄金色の閃光が、夜のど真ん中に走る。


 砲口から放たれた光弾は、火花の尾を引きながら咽喉の中心へ一直線に突き進み――

 黒核を貫いた。


 炸裂。

 核がひしゃげ、眼球が四散。咽喉筒が一斉に硬直し、音圧が止む。


 「……今だ楓ッ!」


 楓が立ち上がり、〈TSUBAME〉の鞘を背中から投げ捨て、刀身をフル出力。

 紅蓮の蒸気が軌跡を描き、神子の咽喉筒を――


 十字に一刀両断。


 電磁パルスが導入部を熔断し、断面が発光したまま崩壊を始める。


 だが――まだ終わらない。


 水槽下に設置していた爆裂粘着弾が、タイマー表示を更新する。


 3……2……1……


3 紅影

 爆裂弾のタイマーが0を示した瞬間、鋼鉄の空間が一度、息を吸い込んだ。


 ――次いで、吐き出すように爆ぜた。


 「楓、ダイブ!!」


 るりが怒声とともに、楓の手首を掴む。

 刹那、天井が膨らみ、次いで爆風が一帯を飲み込んだ。


 轟音。熱風。金属片の嵐。


 背中で感じる炎の牙が皮膚を裂こうと迫るなか、二人は床の非常ハッチめがけて跳び込む。


 重力が消えたような浮遊感――

 すぐに、それが“落下”だと気づく。

 空気の壁が耳を刺し、吐きそうになるほどの圧力が肺を押し潰した。


 「くっ……!」


 体の自由がきかない。

 るりは自分の背に楓の身体が張りついているのを感じた。

 細い腕が必死にるりの腰にしがみつき、二人の体温だけが生きている証だった。


 ――海だ。

 全身を包むのは、死んだ水。

 塩分を含んだ冷たい闇が、全方向から襲いかかってくる。


 爆炎はまだ追ってくる。

 背後から、火の槍のような衝撃波が水中を突き進み、二人の身体に追いつこうとする。


 (死ぬな、死ぬな、死ぬな……!)


 るりは心の奥で叫ぶ。

 心臓がバクバクと乱打し、肺に残る空気が少しずつ奪われていく。


 でも、絶対に楓を離さない。


 目を開けば、海中に“金”と“紅”の泡が重なっていた。

 まるで――宇宙。

 重力も音もなく、ただ二人の存在だけが“色”として、そこにあった。


 その刹那、爆炎の反射光が海面を照らす。

 プラットフォームの最上階が炎に包まれ、空が赤く染まった。


 るりの視界に、楓の横顔が揺れる。

 頬を伝う泡。笑っていた。

 もう言葉にならない水中で、それでも、あたしには分かった。


 「――あたしと、おまえで、紅影」


 口の動きが泡になって昇る。

 その言葉に、楓はただ小さく頷いた。


 “生きて帰る”。

 “必ず、二人で帰る”。


 その決意が、泡よりも、傷よりも、強く、胸の奥で点火される。


 頭上から、白い光が差し込んだ。


 サーチライト。

 救助艇《クラッシャー6》が旋回しながら、海面を照らしていた。


 「来た……!」


 波を切る音が聞こえた気がした。

 救助用のラダーが海に向かって降ろされ、ワイヤがぴんと張る。


 るりは楓の背を押しながらラダーを掴み、自らも最後の力を込めて登り始めた。


 ――背脂の香りも、硝煙も、今はない。


 あるのは、塩と、血と、命の味だけだ。


 船の甲板に引き上げられたとき、世界はようやく“音”を取り戻した。


 遠く、海の上に浮かぶ赤い炎。

 プラットフォームが、完全に崩壊していた。


4 夜明けの埠頭

 港湾施設の岸壁に、陸戦艇〈クラッシャー6〉が静かに帰還した。


 水平線の向こうでは、まだ煙がくすぶっている。

 夜の終わりと朝の始まりが交差する、わずか数分間の時間。

 空は紫から藍、そして朱へとグラデーションしながら、その稜線に光を差し込もうとしていた。


 楓は毛布に包まれながら、るりの肩を借りてゆっくりと歩いていた。

 その歩みは不器用で、体のどこも痛んでいるはずなのに――彼女の目は、まっすぐ前を見据えていた。


 「……るり、脈は?」

 「うん。……背脂不足で、低血圧」

 「ふふっ。冗談言えるなら、まだ平気ね」

 「冗談じゃねぇよ、あたしは背脂でできてんの」


 るりは少し苦笑しながらも、楓の体をしっかりと支える。

 彼女の脇腹に巻かれた包帯からは、じわりと血がにじんでいたが、楓はそれを気にせず笑った。


 「私の傷は、背脂充填すれば治ります」

 「おまえ、医者の前で言うなよ。CT撮り直されるぞ」


 煙の匂いが、潮風に流れて消える。

 その代わりに感じるのは、鉄と塩と――かすかに甘い、朝の冷気。


 「ラーメン屋、開店まであと二時間か」

 「……プリンなら、コンビニで」

 「おう。プリンな。……でも味玉も忘れんなよ」

 「当然。チャーシューより味玉派です」


 言葉のやりとりは、冗談半分。でも、それが“生きている証”だった。

 つい数時間前、死の爆風の中で手を握り合っていた二人が、今はこうして笑って歩いている。


 埠頭の端から見渡すと、空がほんのりと金に染まりはじめていた。


 風が吹く。

 髪が揺れる。

 夜の戦場で濡れたツインテールと、楓の焦げたニットが朝の光に照らされ、**新しい“色”**を纏い始める。


 るりはふと、肩越しに空を見上げた。

 あの赤い月は、もう沈みかけていた。

 そのかわりに、真東から昇る太陽が、世界を塗り替えていく。


 「なあ、楓」

 「はい」

 「次は……もう、世界じゃなくて、おまえを守るために、銃を撃つ」


 楓は、息を呑んだように一瞬だけ止まり――小さく、しかし確かに頷いた。


 「じゃあ私は、盾になります。……あなたの前に、立ちます」


 触れそうで、触れない距離。

 けれど、その隙間には確かに“絆”があった。

 潮と硝煙の匂いの隙間で、二人の影がゆっくりと重なり合う。


 その瞬間、夜明けの陽光が差し込んだ。

 金と紅。

 重なり、揺らめき、そしてひとつになる。


 それはまるで、

 **もう一つの“閃光”**のようだった。




最終章 "春にほどける"


 それは、騒動からおよそ一か月後のことだった。


 東京の空には、雲ひとつなかった。

 春の風はやわらかく、街路樹に咲いていた桜の名残が、舗道をくすぐるように舞っていた。


 花の季節は過ぎつつあり、それでもこの日だけは、春が最後のきらめきを見せているようだった。


 CAT第七支部、屋上。


 スーツ姿の楓は、片手に上着を持ち、誰もいないその空間の真ん中で、静かに立っていた。


 風が髪をさらりと揺らす。

 その眼差しはまっすぐに、ベンチの上で寝転んでいる少女の背中を見据えていた。


 「……ねえ、るり」


 寝転がったまま、ツインテールを風に靡かせていたるりが、携帯ゲーム機をいじる手を止める。


 「んー?」


 何気ない返事だった。

 しかし、その声にすら、妙な安心感があった。


 楓は一度だけ深呼吸をしてから、小さく笑った。


 「……今日、外出申請、私が出しておきました」


 「……は?」


 るりの指が、明らかに固まった。

 ゲームのキャラが崖から落ちていくSEが虚しく響く。


 「映画でも、散歩でも……甘いものでも。どこか行きませんか?」


 「……いやいや、ちょっと待て。おまえ、ルール違反だろ? 誘うのは基本、あたしの仕事だって」


 「たまには、交代です」


 胸を張るでもなく、気恥ずかしげでもなく、楓はただ、真っ直ぐに言った。

 それが何より、るりの胸に刺さった。


 ――午前十時三十六分。


 ふたりは、制服ではなく私服姿で、私鉄のホームに並んでいた。


 楓は淡いレモンクリーム色のワンピース。

 黒髪は自然に流し、少しだけ耳が覗くように整えている。

 白いショルダーバッグが胸元で揺れ、指先には緊張が滲んでいた。


 るりはというと、デニムショートパンツに白いパーカー。

 ややオーバーサイズの袖から指先をのぞかせて、ツインテールはいつも通り、でもどこか今日は柔らかい雰囲気をまとっていた。


 「……楓さ」


 「はい?」


 「そのワンピース、似合いすぎじゃね?」


 「そ、そうですか? その髪……ちゃんと結べてます?」


 「完璧。あまりの眩しさに、駅のホームが眩暈起こすレベル」


 「駅に感情があるんですか?」


 「今できたらしい。おまえのせいで」


 ふたりの目的地は、小さな遊園地だった。

 地元の子どもたちと家族連れで賑わう、観覧車とメリーゴーランドと、季節限定のベリーソフトクリームが売りの小さなレトロパーク。


 それはるりの提案ではなかった。

 楓がネットで調べて、自分の意思で選んだ場所だった。


観覧車の中

 ぎぃ、と静かに軋む音。


 色褪せたメタリックのゴンドラが、ふたりを静かに空へと連れていく。


 中に流れるのは、風の音と、心音と、互いの呼吸。


 「……怖くないですか?」


 「むしろさ、落ちたときにどっちが先に庇うか考えてた」


 「それなら、私がるりを守ります」


 「そしたら、あたしは──ちゃんと、抱きしめるからさ」


 言葉は軽口のようでいて、やさしく、ふたりの間を通り過ぎていった。


昼食

 昼食は、園内のフードコートでベリーカレー。


 紫色のルーに戸惑いながらも、意外と美味しいと頷き合いながら完食。


 デザートは、ひと皿のワッフルアイスをシェア。


 冷たくて甘いアイスが、陽射しの中で少しずつ溶けていくように、ふたりの心の距離もじわりと滲んでいく。


 「るり、口元、クリーム……」


 「どこ?」


 「左です。……動かないで」


 楓が手を伸ばして、そっと拭う。


 その瞬間、るりの心拍数がちょっとだけ上がったのは、秘密だった。


午後

 午後の陽がやわらかく傾き、風がほんの少し冷たくなる頃。


 ふたりはベンチに腰掛けていた。


 楓は、買ったばかりの白猫のぬいぐるみを膝に抱き、るりはそれをじっと見つめていた。


 「……かわいいな」


 「ありがとうございます。猫です」


 「ちげえよ。おまえがかわいいって言ってんだよ」


 「……っ」


 楓はぬいぐるみの耳をぎゅっとつかんだ。

 それが照れ隠しだと知っているから、るりは何も言わなかった。


「るり」


「ん?」


「これからも……こういう日を、たくさん作りたいです」


「……そっか。ならよ──そろそろ、幸せの練習、始めっか」


「し、幸せの練習ですか!?」


 楓の顔が今までにないほどに赤色に染まる。


「そ。たとえば、笑い方の自然なやつとか。あと、デート中に手ぇ繋ぐベストタイミングとか」


 るりが、そっと指を伸ばしてきた。


 「……手、ですか?」


 「おう。こうやってな──」


 楓の指先に、温もりが触れる。


 「……あ」


 「嫌なら、やめるけど?」


 「いえ……そのままで」


 観覧車が一周を終えるように、

 ふたりの時間も、静かに、ゆっくりと巡っていく。


 明日から、また訓練があるかもしれない。

 でも今日だけは、ただふたりで、笑っていられる。


 それは、何よりも特別なことだった。


帰り道

 空は群青に染まり、地上には夜の気配がそっと降りていた。

 電灯がぽつぽつと灯り、アスファルトに温かな橙色の輪を描いていく。


 駅へと続く坂道を、ふたりは並んで歩いていた。

 沈黙は、もう気まずいものではない。ただ、そこに寄り添う呼吸のようなものだった。


 ぬいぐるみの入った紙袋が、楓の手で静かに揺れている。

 ビニールの擦れる音が、夜の風と交じって優しく響いた。


 そして──


 「ねぇ、るり」


 「ん?」


 「……また、誘ってもいいですか?」


 その言葉は、春の終わりの風よりやさしかった。

 ほんのすこし震えて、でも、あたたかかった。


 るりは、まるでそれを前からわかっていたかのように、にっと笑った。


 「おう。いつでもな。あたしはおまえの誘いのためなら、全部空けとくつもりだぜ」


 「それじゃあ来週のお休みの日も開けといてください。次は映画を見に行きましょう」


 「えっとだな……お姉さん年だからさ……たまにはおうちでゆっくりしたいんだけど……」


 「フフっ……だめです!」



 ふたりの歩幅は、もう同じだった。

 手は自然と重なり、肩が寄って、笑い合いながら夜道を進んでいく。


 街は少しずつ静まり、季節はゆっくりと春をほどいていく。

 そして彼女たちの心も、ゆるやかに、すこしずつ、ほぐれていった。


 ただの帰り道が、特別な記憶になる瞬間。

 灯りに照らされたその軌跡は、まるで金と紅のような――やわらかな光を描いていた。


 この物語は序章に過ぎない。




Fin.

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

ふたりの戦場、ふたりの夜、ふたりのラーメン、そしてふたりの春。

すべての場面は、“バディ”という言葉の持つ意味を、楓とるりのやりとりの中に込めたつもりです。


銃と刀、強さと脆さ、先輩と後輩。

対照的だからこそ響き合うふたりは、ただの任務仲間ではなく、

どこか“もっと深い何か”を感じさせてくれる存在になりました。


もしこの先も、ふたりの物語が続いていくのなら──

それは戦場ではなく、日常の中で。


次に見る彼女たちの笑顔が、きっと“未来”と呼ばれるものになりますように。


また、どこかで。


――2025年春 まぴ先生より

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