第33話「わかたれし想い。全てを見据える神の眼」
二人の戦いは決着する。……目的を達成した一人の下には、大粒の雨が降り注ぐ。俯いているくせに、〝雨〟が頬を伝うとは。
ごくん……と。
雪蕎麦天袖と久那無架とは全く別の場所、無関係の空間でそれは起こった。
「…………」
とある樹海……の中に祀られた、山羊の形を模した像。
随分と昔に管理を放棄されたのか、台座は崩れてしまい、まともに立ってはいないし像の顔半分は土に埋まっている。「祀られている」というより、「踏みつぶされた」と言った方が正しいか。
誰も訪れないし誰も知らない。人間どころか、小動物の一匹でさえも。
人が信じるもの、信仰とする対象にこそ神は宿るというが、信じられるものも信じる者も何もない場所に、神は佇んでいた。
全長三六〇メートル超、総重量一〇〇〇〇トン。山羊の石像を踏み潰した張本人は、そこに現れたというだけで、元々そこに棲んでいた動物たちを追い払ってしまっていた。
追い払われた動物の中には、そこで殺戮を繰り返していた密猟者やそんな密猟者を追い回していた域物も含まれている。
踏み潰されることもなく、どうにかこうにか生き延びた当人たちはまた別の場所で追いかけっこを始めたが、その後彼らはもう二度と「そいつ」が支配することになったレギオンに近づくことはなかった。
「……………………」
今まで雨が降ろうと、台風が来ようと、雷がそのツノに直撃しようと――何に対しても反応をすることがなかったその神。
彼は初めて反応を見せた。
といっても、動き出すとか立ち上がるだとか、そんな大仰なことを神はしない。
遠くの空を飛ぶ鳥の姿に視線を惹かれた――そんなふうに、たまたま、気が向いただけなのだ。しかし、その視線の先にあるものは偶然や「神が気が向いたからあった」というわけではない、必然だった。
神の眼の向かうところ。山四つ、海一つを越えて、さらにいくつかの山を跨いだ先。
そこには、山々を削り取ってできた巨大な箱庭「階層都市サリカ」があった。
神が何を思い、何を感じたのかはわからない。ただ、ヒトも動物も、殺戮も救済も、善も悪も――全てを平等に視るはずの神が何かに惹かれたことは間違いなく。……ただ、一体何に惹かれたのかは神自身にもわからずにいた。ひょっとすると、一〇〇〇〇トンの重さ以上の何かを感じ取ったのかもしれない。
「…………」
サリカを見つめる神の相貌は、踏み潰された山羊の石像とそっくりのカオをしていた。
△◯
「……な……あ……っ!?」
驚き。無架の顔を支配するその表情からは、予想外と何よりの思考停止が窺い知れる。……もっとも、無架の右手に咬みついている天袖にはその表情は知る由もないが。
ごくんっ、と無架は脱力感に襲われるのを感じた。血を吸われているのだ。眩暈を起こすのも当然で、一刻も早く天袖に吸血をやめさせなければならなかった。
だけど、天袖が咬みついているのは『柳牙』を持つ右手。さらに無架は『目の前にいるはずの天袖に後ろから咬みつかれている』というパニックから抜け出せずにいた。
(……一体なに!? どうして天袖が私の後ろにいるの!?)
股に挟む天袖の感触やほんの少し冷たさを感じさせる体温は本物で、増殖することのできる能力が吸血鬼にあるなんて聞いていない、と思っていると、太ももに伝わる天袖の感触が変化した。
生温かいわらび餅の感触から、冷たくすべすべとした石の触り心地へ。そして、体積もしぼんで、小さくなっていく。
「…………」
ちうちうと尚も血を吸われながら、無架はただ見つめてた。
「そんなことが可能なのか」と。
ありえないと断じながらも、その可能性を認め始めている自分がいる。
視線を動かす。……そこにあるはずのものが、なくなっていた。
――と。
「……っぐ!?」
咬みつかれていた圧迫感がなくなる。天袖が吸血をやめたのだ。いや、続けられなくなった、というのが正しいか。無架が初めて天袖に血を吸われた時から想定していたことだが、やはり、天袖の吸血には限界があった。
そもそも気合で何とかなるのなら、一回目の吸血でスプーン三杯ちょっとしか血を吸えなかったのはおかしい。天袖にとって必要な量はスプーン三杯では足りないのは事実だが、一度にそれ以上の摂取はできないのだ。
「う、ぐ、ううううううううううううううううううううう……!!」
左腕が無くなっている天袖が、体内で起きている拒絶反応に必死に堪えている。
これを好機と見ない無架はいない。彼女は『柳牙』を強く握り、投げ捨てた。……そして。
「あーーーーんっ」
「っ!?」
天袖の喉元にかぶりつく。血を吸い取るためだ。
無架は今吸血鬼化していて、吸血をすることができる。
血の吸い取り方は無架の中の血が教えてくれた。
口に広がる味。すべてが幸福に感じる。……無架にとって、それが何よりも不快だった。
「……っ」
ごきゅり、と音を立てて天袖の血が無架に吸い上げられる。それは天袖の目論みを瓦解させるもので、今日起きたことをすべて振り出しに戻すものだ。
……いや、一つだけ違う。
「………………………………………………………………」
無架が狙っていて、彼女を助けようとしていた天袖の命が、散らされた。
当初は一年、次に一か月……途中期限が延びたり縮んだりしつつも、最終的には今日、レッテルが目標としていた「雪蕎麦天袖の討伐」は成ったのだ。
ピキ、と戦枝のドームにひびが入る。支配者たる天袖が絶命し、制御されることのなくなった黒曜石たちがぐしゃぐしゃと崩れていく。
割れたドームの上から、何かが無架の頬に垂れる。
「……あめ?」
指で拭って、それが透明な液体、水だと無架が理解すると、雨は一気に降り始めた。
じゅああああああああ。雨が『柳牙』の刀身に当たり熱によって気化され、水蒸気を発生させる。
「……」
サリカに雨は偶然では降らない。天気予報は定期的で、確率が表示欄から消されている。朝に「九時から一〇時の間に○○リットル降る」と予め報知される。その予定がずれたことはないし、階層の外は異空間なので雨漏りということでもない。
単に午前降雨の時間帯と重なったのだろう。……「空が無架の代わりに泣いている」なんて、思いたくもない。
標的は違ったが、目標は達成した。あとは帰還するだけ——というところで、無架は気づく。
「……、」
雨に濡れる天袖の体。物言わぬ骸となったその体にも、雨は降り注ぐ。
初めは見間違いかと思われた。……だが、眺めているうちにそうなのだと気づく。
天袖の髪。腰元まで伸びた濡烏が抜け落ち、灰色交じりの白髪が露わになる。
「こんな……色だったんだ」
連絡。オートロからだ。
「……ん。作戦は終わった。真っ二つ」
天袖の仲間がこちらに向かっているらしい。すぐに無架も、ここを離れろと通信機越しに叫んでいる。
「恋人? ああ、うん。……ちょっと、悲しいかも」
降り注ぐ雨に交じって、大粒の雨が無架の頬を伝っていた。




