第8.5話「無抵抗依存と死の約束」
人は、どのような時に敵意を持つのだろうか。
敵意の種類にも色々あるが、大小や数の多少は考えず、相手を「敵として見るための意思」を、一纏めに「敵意」と捉える。
気分を害された時。信頼を裏切られた時。仲間を殺された時、恐怖を抱いた時。
あらゆる状況が想定されるが、それらは全て他者を原因とする場合ばかり。
「お前がいなければ」「手を貸さなければ」「よくも仲間を」「近づきたくない」。
他者に怒りが向く場合のみ、人は敵意を持つのだ。
では、隠していたはずの正体をバラされた無架の場合だとどうなるか。
結論から言おう。——よく、わからなくなっていた。
自分の感情がわからない。怒るべきなのか、憎むべきなのか。そもそもその権利さえあるのか。天袖が「だましていたな!」と怒ってくれていたら、まだ心の持ちようはいくらでもあったのだ。
だが天袖は笑っていた。怒っておらず、憎んでもいない。普通は、信頼を裏切ったのだから怒るべきところなのに。
「隠していたことをよくもバラしてくれたな!」……とは言えない。隠す対象がすでに無架の正体を知っていたら、知った上で無架と出会っていたと言うのなら、それを追求する意味が無いのだから。
自分の身分を隠し、ただの血液の提供者として天袖と邂逅した。騙していたと言うなら天袖ではなく無架の方で、憎まれるべきは無架の方なのだ。
……憎んでくれた方が、ずっとこの先、天袖と付き合いやすかったというのに。
△◯
クオンティ。それは無架が『人類領域』から命令を受けて赴くことになっている、彼女の故郷。
……その存在やクオンティへの調査隊のことは、一部では人員募集のために公表もしているし、それが知られていても別に困ることなど何もない。問題はそこではない。
それよりも重要なのが、天袖は無架の正体を——
「……しって、いたの」
最初から。
その無言を付け足した問いかけに、天袖は首を縦に振る。
この作戦の要でもある、無架の身分の隠匿。それが最初から崩壊していたことに、無架は少なからずショックを受けていた。
「無架が会ってくれたのも、レッテルの任務だったんでしょ?」
その瞳に悲壮感は無い。というより、彼の瞳は喜び、嬉しさすら含んでいた。
「……そう、だけど」
もしかしたら、無架が天袖を殺すことになるかもしれない。……それなのに。
「……なんで、付き合ってくれたの?」
(だめ)
この猿芝居に。或いは、茶番劇に。
無架の理性では、天袖の行動の理由を計れずにいた。
すると天袖は、無架の質問を聞き、本当に不思議そうな顔を浮かべる。
「なんで、って……恋人だから?」
「部屋に入る前に、カメラには気づいていたんでしょ……? なら、わたしを見た時点であなたは逃げなきゃおかしい」
(だめ)
理性が止める。しかし、罪悪感は止まらない。
「……なんで?」
「なんでって——」
もう殆ど、睨んでいた。
「——わたしに殺されるとか、考えもしなかったの!?」
激昂する無架。自分でもなぜ怒っているのか、その理由すらわからないで、彼女は怒りを天袖に吐き出す。
無架の怒鳴り声に数秒固まった天袖は、それでもと彼の理屈を話す。
「……だって、お金を払えば無架は吸血させてくれる、ってやり取りしてたから」
天袖の返事に迷いはない。その事実が、無架を逆に迷わせる。
「……殺されることは、どうでもいいって言うの? そんなの、本末転倒」
「……血を吸ったあと、殺しますって書いてなかったし」
馬鹿げた回答に、無架はもう一度声を荒げる。
「書くわけない!」
「……ご、ごめんなさい」
ナメているのか。いいや、恐らくナメてなどいない。
その存在を知って、無架の存在を理解した上でそれを〝無視〟した。
ありとあらゆる状況とは無関係に、約束事を天袖は破れないのだ。
……バカげている。
(……ダメだ)
雪蕎麦天袖を一人ぼっちにしたら、彼は確実に騙されて死ぬ。
無架はそう、確信した。
【エニモミスト】を生み出せるという価値。悪意ある人間の手に彼が堕ちたなら、世界はどうなってしまうのか。
……楔を打ち込まなければ。
「……いい。あと二回……少なくとも吸血がきちんと終わるまでは、絶対に他の人に吸血なんて求めないで。……わかった?」
天袖の顔を両手で下から掬い上げるように支え、彼の顔を覗き込みながら、言う。
その者が心酔するヒトからの言葉は啓示のように聞こえ、天袖が惚れている無架からの言葉は、命令のように彼に染み込んでいく。
無架の言葉を拒絶する理由など、天袖にはどこにもなかった。
その後「今日はこれで解散する」という旨を天袖に伝えると、彼は恋人である無架の言葉に、やけに素直に頷いた。
嫌だって言わないんだ、と訊くと。
「……恋人って、ほぼかぞくみたいなものでしょ? なら『家族』の言うことは絶対、……だから」
言葉の最後に、天袖は涙を滲ませた。
「…………」
無架が取り除いた悪意の影響だろうか。
泣く、と言うほどのことではない。本当に、あくびのついでに涙が出た、という程度のこと。
きっと何もしないままであれば、天袖は涙も流さず、笑んだまま無架と別れたに違いない。
その心に、深く抉られた傷だけを残して。
「…………天袖」
「なに?」
大きく息を吸い込む。……肺を刺激する空気が冷たい。しかしその冷たさもろとも、無架は言葉にして吐き出す。
「これから一ヶ月。一ヶ月で、あなたが死んでもいいと思うくらい幸せにしてみせる。……だから、もしもあなたがそう感じた時は——殺させてくれる?」
無架に与えられた期間は一ヶ年。だが無架は、半年ほどかけてクリアする予定だった『恋人になる』という目標を一時間足らずで完了してしまった。あとは採取した天袖のデータを持ち帰り、検査にかけるだけ。
……攻略対象が特殊で本人のアプローチに問題はなかったのかといえばそれには疑問の余地が残るものの、とにかくクリアしたことに間違いは無い。
「……いいよ。その時は、無架に飽きられた時だと思うから」
殺されるかもしれないこと、ではない。
殺されてしまうと理解した上で、彼はそれを承諾した。
まるで死というものが自分から湧き出るものではないのだと、その辺で拾えるものだと、死と生はまるで別物なのだと思いこんでいるかのよう。
……本当に理解しているのか?
無架はいよいよ、自分がどんな生き物と接しているのか、目の前にしているのはヒトなのかさえ、わからなくなっていた。




