パーセルの小鳥
こんにちは!松本志保と申します。
このお話は、わたしが初めて書いた中世を舞台にした小説です。内容は自分でもベタだと思います。暇つぶしにでも一読していただければ幸いです。
序章
豪華な馬車がゆるやかな坂道を上り、石造りの邸宅の前で止まった。
馬車の扉が開き、純白のドレスに身を包んだ少女が降りてくる。ドレクバルド帝国風の重厚なドレスに埋もれてしまいそうな華奢な花嫁だった。
手編みのレースでできた雲のようなヴェールは丈が長く、花嫁の身分が高いことを示している。
馬車の後には、数え切れないほどの荷車が従っていた。嫁入り道具を積んだ車だ。
花嫁は、侍女や参列客に取り囲まれるように、飾り立てられた広間へと導かれた。
そこには、天空の神を祀る神官と共に新郎が待っていた。
新郎はまだ少年の面影を残した、金髪とブルーグレイの眼をした若者だった。
おごそかな音楽が演奏され、結婚式の開始を告げる。
花婿と花嫁は並んで祭壇の前に立ち、結婚の誓いを述べた。
「汝、ダニエル・パーセルは、リア・ハイドフェルトを妻とし、永久の愛を誓うか?」
「……はい」
新郎は低い声でためらいがちに答える。
「汝、リア・ハイドフェルトは、ダニエル・パーセルを夫とし、永久の愛を誓うか?」
「はい。誓います」
花嫁の声はようやく聞こえる程度のか細いものだった。
「それでは、天空の神に対して誓いの口づけを」
神官が促した時、新郎が不意に花嫁から一歩離れた。
「口づけは行わない。次の儀式を」
参列客の間から、驚きの大きなざわめきが起きた。
式を取り仕切る神官も慌てて新郎に注意する。
「しかし、領主さま。口づけは結婚式で最も神聖な儀式ですぞ。口づけをせずに結婚は成立しません」
若き領主は苛立ったように神官を急かした。
「うるさい。いいから、早く式を進めろ」
神官は納得できない顔のまま、やむを得ず宣言した。
「これにて結婚は成立いたしました。お二人の上に、天空の神の祝福がありますよう」
屋敷の上に建てられた祈りの塔から鐘の音が響いてきた。
華やかなパーティーが終わり、花嫁のリアは夜着に着替えて寝室に入った。
新婚を祝う装飾に包まれた部屋で、リアはベッドに腰掛け、緊張しながら夫を待っていた。
やがてゆっくりとした足音が聞こえ、ドアが開かれる。
結婚式でも、パーティーでもよく顔を見る機会がなかった夫、ダニエルがそこに立っていた。ダニエルは数歩部屋に踏み込んでドアを閉めた。
一瞬、リアの目がダニエルの視線を捉える。
けれども、それはほんの一瞬だけ。ダニエルは即座に目をそらしてしまった。
「姫。あなたには申し訳ないが、あなたと夫婦の契りを結ぶことはできない」
あまりに思いがけないダニエルの言葉に、リアは自分の耳を疑った。
うつむいたまま、ダニエルは言葉を継いだ。
「僕には、もうずっと前から愛している女性がいる。だから、あなたを妻として愛することはできない。本当にすまない」
「ダニエルさまが、そうお望みなのでしたら」
リアは儚い、可憐な声でそれだけ答えた。
ダニエルはもう一度あどけない妻を見つめ、それから背を向けて部屋を出て行った。
部屋を離れていく足音を聞きながら、リアはぼんやりと部屋を照らす灯りを見つめた。
夫婦の契りがどんなものなのかは、侍女に教えられた漠然とした知識でしか知らない。
それでも、夫の腕に抱かれるものだとは理解していた。
それをすることで、はじめて夫婦として本当に結ばれるのだと聞かされていた。
死んで天空に迎えられる時にも、共にその扉をくぐることができるのだと。
まさか、結婚したその夜に夫婦の契りを結ぶことを断られるなどとは思ってもいなかった。
こんな時どうすればよかったのか、乏しいリアの知識にはなかった。
『なにごとも、夫の言うとおりになさい』
母はいつもリアにそう教えていた。だから、リアにはそうするより他になかったのだ。
でも……自分はこの先、どうしたらいいのだろう。
結婚式で口づけを拒まれ、今また夫婦の契りを拒まれた。実質的には、自分はまだダニエルの妻になっていない。その自分が、今後この屋敷でどうやって暮らしていけばいいのだろう。夫にどう接すればいいのだろう。
その夜、リアはついに眠ることができなかった。
女たちの笑い声がはじけ、華やかな灯りがいくつも点る娼館から、酔った足取りで一人の男が出てきた。
長めの金髪は乱れ、遊女が悪戯をしたのか髪に花が一輪ささっている。
男は、灯が消えて静かな領主の館を見上げた。
「帝国の姫さまが嫁入りしたっていうのに、祭りも振る舞い酒もなしか……」
男はつぶやくと、薄暗い小路へと消えていった。
第一章
パーセルは、バラージュ王国とドレクバルド帝国の国境に位置する公爵領である。
その地理的要因から交易の街として発展し、帝国が通商の相手として非常に重視している土地でもあった。
そのパーセルの領主、ダニエル・パーセルにドレクバルド帝国の第二十四皇女リア・ハイドフェルトが嫁ぐことになったのはほとんど必然と言えるだろう。
現皇帝の妹であるリアは、側室の娘として日の当たらない生活を送っている姫の一人だった。
そんなリアであるから、交易と文化の都市として帝国まで名の届くパーセルに嫁ぐことを聞いて素直に喜んだ。
皇帝も、庶子の姫には分不相応なほどの嫁入り支度を整えた。
もちろんそれは帝国の姫としての重みを示す目的だった。
リア自身も、これが政略結婚であることはよく理解していた。
しかし、帝国の姫と生まれた以上政略結婚は避けがたいものであったし、結婚してから睦まじくなる夫婦などいくらでもある、と楽観的に考えていた。
結婚したその日に夫婦であることを拒まれるなどとは予想もしていないことだったのだ。
翌朝、侍女頭のティナが遠慮がちにドアを叩いた。
「旦那さま。姫さま。もうお目覚めでしょうか」
「入っていいわよ、ティナ」
リアの声を聞いて入ってきたティナは、ダニエルの姿がないことに不思議そうな顔をした。
「旦那さまはもうお出かけになったんですの?」
「昨夜、ちらっとお見えになったきりよ」
子供の時から傍にいて気のおけないティナの前では、リアも不機嫌さを隠さず表に出す。
「それはどういうことでございますの?」
ティナはまだ腑に落ちない顔をしながら、リアの長い黄金の髪を梳きはじめた。
リアは駄々をこねる子供のような口調で、
「ダニエルさまには、前から好きな女性がいらっしゃるんですって。だから、わたしとは夫婦の契りはできない、とおっしゃって、そのまま出ていかれてしまったの」
「まあ」
ティナは思わずブラシを取り落とした。
リアはかすかに涙の浮かんだ目でティナを見上げた。
「わたし、最初の日に拒まれてしまったわけなの」
「なんてことでしょう。たかがバラージュ王国の一地方領主が、仮にも帝国の姫をそんなに軽々しく扱うなんて。無礼にもほどがありますわ」
ブラシを拾い上げたティナは、怒りに顔を赤らめている。
リアは、うかつに話してしまったことをちょっと後悔した。
「でも、好きな方のために忠実であろうとなさるのは、きっとダニエルさまが誠実な方だということよ」
「それなら、なぜ姫さまとの結婚を承諾なさったのでしょう? 結婚しておきながら夫婦の契りを拒まれるなんて、あまりにも無礼ですわ。わたくしは納得できません」
「ティナったら。まるでおまえ自身が夫に拒まれたみたいな怒り方だこと。いいから、わたしの支度をしてちょうだい。このお屋敷の中を探検してみたいわ」
リアは、ティナが代わりに怒ってくれるのを見ているうちに少し気持ちが静まってきた。
ダニエルがどんな人柄なのか、ダニエルの愛する女性がどんな人で、ダニエルとはどんな関係なのか……まだ何もわからない。
同じように、ダニエルも自分という人間のことを何も知らない。
お互いに少しずつ知り合っていくうちに、関係も変わっていくかもしれない。
リアはそんなふうに思いなおしていた。
髪を結ってもらい、普段着に着替えたリアはまず寝室を出た。
居間は広く、高い天井に美しい絵が描かれている。かけられているカーテンも金模様で華やかだ。
室内には、リアが持ってきた家具や道具がうまく配置されていた。昨日のパーティーのうちに整えられたのだろう。
愛猫のベルタもクッションの上で丸くなっている。
部屋を出ると、廊下沿いにドアがいくつも続いていた。
隣の部屋は客用寝室になっていた。重要な客を泊める部屋なのだろう、二間続きになっている。
その奥は侍女たちの休む部屋で、すぐ横に螺旋階段があった。
階段の奥に通じるドアを開けたリアは思わず目を見張った。
そこは広い図書室になっていた。すわり心地のよさそうな椅子や長椅子が配され、天井まで届く書棚が壁一面に並んでいる。本好きのリアは目を輝かせて書棚に歩み寄った。
ほとんどの本が木版印刷のものだった。ここパーセルでは出版が発達しており、大陸の本の半分はパーセルで出版されているとも言われる。
「戯曲と小説がこんなにたくさん! マホニーの新作もあるわ」
リアは嬉しそうにつぶやく。マホニーはリアがお気に入りの劇作家で、このパーセルに住んでいるはずだ。
帝国の宮殿にも図書室はあったが、政治や歴史に関する堅苦しい本ばかりで、リアの興味をそそらなかったのだ。
じっくり見ると一日かかってしまいそうな図書室はまた改めて探検することにして、リアは螺旋階段まで引き返した。
階段を下りたところに窓のある壁があり、そこに中庭があった。それなりの広さがあり、ハーブや草花が植えてある。
「こんなところに中庭なんて、珍しいわね」
「そうでございますわね」
ティナと二人、一階の廊下をたどる。ここにも客用寝室がたくさん並んでいた。
廊下の反対側のドアを開けると、昨日結婚式が行われたホールに出た。普段は食堂として使われているらしく、今日は長いテーブルとたくさんの椅子が並んでいた。
食堂から表側に抜けると玄関ホールだった。ここには重厚な石造りの階段があり、ぐるりと半円を描いて二階につながっている。
リアとティナはその階段を上がった。
階段の上にはダンスホールがあった。広々とした部屋にはいくつもの天窓がつけられていて明るい。柱には美しい彫刻が施されている。壁には、美しい乙女たちが遊ぶ花園の図が描かれていた。
重厚さが特徴のドレクバルド帝国風とは違う、華やかで繊細なバラージュ王国の文化に触れてリアは心を躍らせた。
ホールから廊下に出て、自分の部屋に戻る。
「やっぱり、帝国とはずいぶん雰囲気が違うのね」
リアは憧れていたパーセルの文化に接して機嫌を直していた。ティナはお茶を淹れながら、
「でも、ちっぽけなお屋敷ですわね。皇宮とはずいぶんな違いですわ」
それはそうかもしれないけど、とリアは思う。
自分が育った宮殿は帝国の中心だ。ここはバラージュ王国の一地方領主の館。比較する方が無理というものだ。
時間がたつのがひどくゆっくりに感じられた。
リアは、幼い頃から姉妹たちと一緒に育った。二十八人姉妹の二十四番目に生まれたリアは、いつも十人くらいの姉妹が傍にいた。多くの姉妹が嫁いでしまった最近でも、五、六人は一緒に暮らしていた。いつもみんなで遊んだり、話したり、時にはけんかをしたり。退屈する暇など少しもなかった。
こんなふうに一人になったことなど一度もない。
ひどく心細く、寂しい気持ちになる。
リアは、部屋の隅に置いてあった箱を引っ張り出した。
嫁入り道具の中で、とりわけ大事なものだ。
中からは、人間の子供くらいもある美しい人形が出てきた。
別の箱からももう一体。
これが、リアの宝物なのだった。
十七歳にもなる娘が人形遊びをするのは幼すぎる、とよく言われた。自分でもそう思う。
でも、とリアは人形を抱きながら思う。
今日だけは、お人形がいてくれてよかった。
そうでなかったら、わたしはあまりにも一人ぼっちになってしまうから……。
「フランツ」
小声で、人形に話しかける。
「わたし、寂しいわ。お姉さまや妹たちに会いたい。おうちに帰りたい……」
それは、故郷を離れて自分についてきてくれている侍女たちには聞かせられない泣き言だった。
夕食も、リアは一人でとった。
一階の食堂は、一人で食事をするにはあまりに大きく、寒々しかった。
食事を作るのは、ドレクバルドから連れてきた料理人だ。バラージュ風のお料理が食べてみたい、とリアは思ったけれど、来た早々わがままを言い出せる雰囲気ではなかった。
帝国にいた時と違うのは、侍女の一人が毒見をすることだ。
自分を毒殺する者などいないだろう、と、数多い皇女の一人として育ったリアは思う。しかし、ティナは言った。
「今の姫さまは、帝国を代表していらっしゃるのです。用心しすぎるということはございません」
食べなれた味の料理を食べ終え、部屋に戻る。
夜着に着替えて寝室に入っても、もちろん夫の姿はない。
それどころか、今日一日夫の姿を見ることすらなかった。だから、この屋敷の中にいたのか、どこかへ出かけていたのかすらわからない。
リアはベッドにもぐりこみながらつぶやいた。
「夫と言っても、顔も合わせないまま一日を終えるなんて……これが結婚だと言えるのかしら……」
夫婦がゆっくり休めるサイズに作られた大きすぎるベッドは、一人で眠るには落ち着かなかった。
それでも、しばらくするとリアは眠りに落ちた。
翌日もリアは図書室を探検した。
中を調べるうちに、これは図書室ではなく「図書館」と呼ぶほうがふさわしいのではないかとリアには思えてきた。
二階だけかと思っていた図書室は一階にも続き、一階の人気のない、忘れ去られたような司書室から更に地下の書庫へと続いている。いったいどれほどの蔵書があるのか想像もつかない。
「これだけ本があったら、きっと一生退屈せずにすむわ」
リアは一階の本棚を順番に眺めながら歩いていた。
そうして探検していると、不自然な場所を一箇所見つけた。
それは薄暗い司書室の中にある書棚だった。一見すると書棚なのだが、本は全て絵に描いたものだ。本物ではない。
「戸棚かなにかかしら?」
リアがその本棚を引っ張ってみると、きしむ音とともにドアのように開いた。
いや、それはまさしくドアだった。
向こうには、石で組んだ通路が見えている。
「姫さま、危ないですわ。これ以上奥に行くのはおやめになってくださいまし」
ティナが袖を引っ張る。しかし、リアは好奇心を抑えることができなかった。
「だいじょうぶよ。ティナ、ついてきて」
手探りで石造りの通路を進み、突き当たりの壁を押すと、こちらもきしみながら開いた。
向こうにあったのは簡素な部屋だった。ベッドと机、本棚が一つ、テーブルに椅子が二脚。そして壁際に暖炉がある。家具といえばそれだけだ。
そして、見事な銀髪をした青年が戸惑った顔をしてこちらを見ていた。
「こんなところにお部屋があって、人が住んでいるなんて思わなかったわ」
リアは青年に話しかけた。恐いとは思わなかった。青年がとてもやさしい目をしていたからかもしれない。そのサファイアブルーの眼は、リアをまぎれこんだ小動物を眺めるような眼差しで見ていた。
「待て、俺を恐れぬ小鳥。名はなんという?」
青年は冗談っぽい口調で答えた。
リアは目を輝かせた。リアが一番好きな戯曲の台詞だったからだ。
「『歌わない小鳥』の台詞ね! わたしはリア。リア・ハイドフェルトですわ」
青年はなるほどという顔でリアを見直した。
「そうか……皇帝の妹か。どうりで俺を恐れないわけだ」
「あなたはどなた?」
「俺はジェス。おまえの夫、ダニエルの兄にあたる」
リアは不思議そうな顔をした。兄がいるなどという話は初めて聞く。
「お兄さまがいらっしゃるなんて、知りませんでしたわ」
「俺は忌み子だから」
「忌み……子?」
ジェスは椅子を引いて、リアにかけるよう促した。
「説明すると長くなる。このパーセルに、五代ほど前に暴虐な領主がいたんだそうだ。その領主が銀髪だった。それで、その領主が打倒された時に、このパーセルでは銀髪の者は不吉として住んではならないというきまりができたんだと聞いている。俺は領主の息子だったから、追い出されはしなかった。その代わりに、この部屋に閉じこもって誰にも会わずに暮らすことを強いられている。おまえが俺の存在を知らなかったのは、そういう理由だ。俺は弟にすら一度も会ったことがないんだからな」
「そうでしたの」
リアは大きく目を見開いた。
「わたしの兄、ドレクバルドの皇帝もあなたとそっくりの見事な銀髪ですのよ。だから、帝国では銀髪は陛下にあやかって縁起がいいと申しますの。今ではこのパーセルは帝国と友好都市なのですから、ジェスさまも……」
「さまはやめてほしいな。あと、その丁寧な言葉づかいも」
ジェスが穏やかな笑顔を浮かべて口をはさんだ。リアはにっこりして言いなおす。
「ええ。ジェスも、そんな昔のしきたりにこだわる必要はないと思うわ。その話を兄が聞いたらどんなに笑うかしら!」
「そうか。その話を聞いたら、俺も少し気持ちが軽くなった。帝国でなら、俺の髪も何の問題もないんだな」
「もちろんよ」
リアは、久しぶりに誰かとちゃんとした話ができた気がした。
そして、この不思議な青年ともっといろいろな話がしてみたいと思った。
パーセルの街は、水の都の異名でも呼ばれている。
バラージュ王国の南にある山脈から流れ出し帝国に至る大河、リース川のほとりにあるパーセルは、川から水を引き込んで縦横無尽に運河が流れているのである。道の両側に水路が流れ、時折荷物を積んだ小船が行きかう様は独特の情緒を持っている。
そんな水路のほとりのベランダに、ダニエル・パーセルが一人の女性と並んで立っていた。
「とうとう、本当に結婚してしまったのね」
悲しそうに顔をうつむける、真っ赤なドレスを着た美しい娘が、ダニエルの恋人としてこの界隈では有名なヴィヴィアン・ブラックフォードだ。
ヴィヴィアンはパーセルの西隣であるブラックフォードを治める伯爵の娘である。ブラックフォードは帝国と長らく対立しているレヴァン王国と国境を接し、関係が深い土地だ。とりわけ、当代の当主はレヴァンの王女を妻に迎えている。つまり、ヴィヴィアンは半分レヴァン王家の血を引いているのだ。
ダニエルとヴィヴィアンの交際はもう二年にわたっていた。ある舞踏会で出会った二人はその場で恋に落ち、双方の両親に婚約したいと願い出ていた。
ところが、去年ダニエルの父が急死すると、ドレクバルドから姫の一人と結婚してほしいという話が舞い込んだ。
パーセルは丘が多い領地で、土地の七割がりんご栽培をしている。ドレクバルドの豊かな穀倉地帯からもたらされる穀物がなければ、領民は食べていけない。
ダニエルはずいぶん頑張ったが、結局帝国の圧力には抵抗しきれなかった。
愛する女性がいながら、好きでもない帝国の姫君を妻に迎えることになってしまったのである。
「本当にすまない。僕がふがいないばかりに」
ダニエルは、ヴィヴィアンの豊かな黒髪をそっと撫でた。
ヴィヴィアンはうつむけていた顔を上げた。情熱的な漆黒の瞳がダニエルを見つめる。
「でも、あの方を愛してはいない。そうでしょう?」
「誓いの口づけもしなかったし、指一本触れてはいないよ。僕はいつまでも君に忠実であり続ける」
「嬉しい」
ヴィヴィアンはダニエルの肩にそっと顔を埋めた。ダニエルはヴィヴィアンの手を取って優しく撫でた。
「一目見た瞬間、僕は君に恋をした。その気持ちは決して変わらない」
ヴィヴィアンは、きっと顔を上げて街の上にそびえる領主の館を見上げた。
そこには、愛する人の妻がいるはずだった。
「ねえ、ティナ。これでおかしくない? きちんとしてる?」
リアは髪型が気になって、侍女頭のティナに確かめてもらっていた。
ドレスも普段着の中では一番お気に入りのものだ。
そわそわしているのはリアだけではない。侍女たちもみんな浮き足立っている。
今日は、リアが初めてパーセルの街を訪れるのだ。
結婚式から一週間がたったが、リアはあれきり夫と顔を合わせることはなかった。
だから、街に行っていいかと聞く機会もなく、とうとう自分で出かけようと決めてしまったのだ。
館から街の入り口を抜ける。
石畳の道の両側を流れる水路。そして、道の両側に果てしなく続く店。
その華やかさは、リアの想像以上だった。
仕立て屋や宝飾店、書店、遠い南の大陸からの輸入品を扱う店。あるいははちみつ屋や薬屋、砂糖屋など日用品を扱う店。ちょっとした館のような旅館や、しゃれた間口のレストランもある。
ところどころにある広場にはステージが設けられ、劇団や楽団、吟遊詩人が公演を行っている。
リアが心を惹かれたのは豪壮な大劇場だったが、今日は芝居を見るほどの時間の余裕はない。
中央広場には、露店を広げた商人が大勢いる。威勢のいい口上が広場のあちこちに響いている。その中に、リアは見知った顔を見つけた。
「クルトじゃないの! ひさしぶりね」
少し長い金髪、四十歳という年齢の割に若々しい顔立ちのクルトは、ドレクバルドとパーセルを往復する小間物商人だ。
ドレクバルドの都に来た時には、よく姫たちの住む部屋に顔を出して珍しい小間物や本を売っていたものだ。
「これはリアさま、ごきげんよう。今日は残念ながらドレクバルドの品が多いんですけど、バラージュで染めたきれいなハンカチもありますよ。おひとついかがですか」
クルトが結婚のことに触れもしなかったのにちょっとほっとする。
きれいな銀細工の指輪や腕輪、色とりどりのスカーフ、おいしそうなお菓子、珍しいおもちゃ、そんなものに夢中になっていたリアは、ティナに不意に強く袖を引かれて顔を上げた。
「──ダニエルさま」
結婚の日以来会っていなかった夫が目の前にいた。
その隣には、美しい黒い目と黒髪の女性が寄り添っている。
ダニエルは軽く咳払いをした。
「リア姫、彼女はブラックフォードの令嬢、ヴィヴィアンです。ヴィヴィアン、こちらがリア姫だ」
リアはバラージュと帝国では作法が違うかもしれないと思いつつ、帝国式の丁寧なお辞儀をした。
しかし、ヴィヴィアンはリアに礼を返そうともせず、ぷいと顔をそむけるとダニエルを置いてそのまま歩いて行ってしまった。
「ヴィヴィアン!」
ダニエルも、リアのことなど構っていられないという様子で彼女を追う。
「なんて失礼な女かしら!」
ティナや他の侍女たちが怒っているのを聞きながらリアは思った。
あの女性が、ダニエルさまの恋人に違いない。
なんて綺麗で、そして激しそうな女性なんだろう──。
「ヴィヴィアン!」
ダニエルは、少し広場を外れたところでようやくヴィヴィアンに追いついた。
「何を怒っているんだ? 挨拶くらい返してもいいだろうに」
「何を怒っているかですって? いつからあの人の名前を呼ぶほど親しくなったの?」
ダニエルは何を言っているのかという顔をした。
「名前を呼ばずにただ『姫』と呼んで紹介するわけにもいかないだろう。それに、表に出れば僕にだって僕なりの体面がある。こちらがドレクバルドの皇女殿下です、とでも言えっていうのかい?」
ダニエルの言葉に、ヴィヴィアンは見る間に真っ赤になった。
「そう。それなら、皇女殿下と仲良くなさればいいわ。そんなにご自分の体面が大事なら。私のことなんてどうでもいいのね!」
「だからなんでそうなるんだ! 僕は最低限あの人に礼儀を尽くしただけで、ちょっとでも愛情を示したりしたわけじゃないじゃないか。そんなに君が怒るなら、もう彼女の名前は口にしない。それでいいんだろう」
ヴィヴィアンはつんと横を向いた。
「私にはそう言っておきながら、帰ったら大事な奥方さまのご機嫌を取るんでしょう」
「そんなはずがないだろう? わかったよ、ブラックフォードまで君を送っていく。それでいいかい?」
ダニエルの言葉に、ヴィヴィアンはようやくうなずいた。
ブラックフォードまでは二日の道のりだ。往復して三日の間、ダニエルをあの女と会わせずに済む。
はじめて恋敵を目の当たりにして、ヴィヴィアンの心は激しく燃え上がっていた。
なんの苦労も知らなそうなお姫さま。
ヴィヴィアンの目には、リアはそんな風に映った。
夫に疎遠にされているとも思えない無邪気な笑顔。ダニエルに出会った時、とっさに口にした彼の名前。
すべてがヴィヴィアンを苛立たせる。
本当なら、彼の奥方としてあそこにいたのは私のはずだったのに。
何もすることのない午後、リアはジェスのところへ遊びに行こうと思い立った。
ティナ一人を連れ、図書館のあの隠し扉を通って訪ねていく。
ジェスは、いきなりの訪問にも驚かずに歓迎してくれた。
「俺はいつでも暇にしているから、好きな時に訪ねてかまわないよ」
ジェスはお茶を淹れながらそう言った。
「そういえば、どうやってこの部屋の入り口を見つけたんだ? そう簡単には見破れないだろうと思っていたんだが」
「なにか面白い本はないかなと思って、本棚をひとつひとつ見ていたの。そしたら、おかしな本棚があるなって気づいたのよ」
ジェスはなるほど、とうなずいた。
「本が好きなのか?」
「大好きよ! このお屋敷には、本当にたくさんの本があるのね。それも、戯曲や小説があんなにたくさん。帝国の城には歴史とか、政治とか、難しい本ばかりだったからとても嬉しいわ」
リアの無邪気な答えにジェスは笑った。
「そういう本もないわけじゃないが、このパーセルの文化的傾向からして文学作品が多いのは確かだな。この屋敷には、街で新しい本が印刷されるたびに一冊納められるんだ。そのおかげで、俺もここに隠れ住んでいてもそれほど退屈せずに済んでいるわけだ」
「まあ、それは嬉しいわ。新しい本が出るたびに読めるなんて」
「納められても、今この屋敷には司書がいない。だから、俺がこっそりやっているんだ。著者別とか、内容別に分けて本棚にしまったり」
「ジェスも本が好きなのね」
リアは仲間を見つけられた嬉しさに微笑んだ。
ジェスが思い出したように訊く。
「初めて会った時、俺が言った言葉が『歌わない小鳥』の台詞だとすぐに気づいたな。好きなのか?」
「ええ! 『歌わない小鳥』は、初めてお芝居で見たときは涙が止まらなかったわ。それで、本を手に入れてもらって毎日読んだの」
「俺はこの屋敷を出たことはないから、舞台で演じられるのを見たことはないんだ。それでも、何度もくり返して読んだから想像はできる。でも、一度上演されるのを見てみたいものだな」
『歌わない小鳥』は、リアのお気に入りの戯曲というだけでなく、帝国の劇場でもしばしば上演される人気の芝居だ。
美しいコレット姫と騎士ジョセフは愛し合っていたが、コレット姫と知り合ったジョセフの親友クレイグも姫を愛してしまう。クレイグはジョセフに決闘を申し込み、彼を殺してしまう。ジョセフは姫にクレイグと結婚するよう言い残し、姫は遺言通りクレイグと結婚するが、もはや笑うことも話すこともなくなっていた……という悲劇だ。
リアとジェスは、いつの間にか夢中になってこの戯曲の話をしていた。
ティナは微笑みながらお茶を注ぐ。嫁入り以来、リアがこれほど元気そうに見えたことはなかった。
「この劇の最後の台詞、『……なぜ、笑わない? やっと俺だけのものになったのに。おまえを手に入れるためだけに、俺はこの手を汚したのに……』は、欲しいものを強引に手に入れようとして壊してしまった男の言葉だと俺は思う。愚かなやり方だよ」
「わたしは、クレイグもかわいそうだと思うわ。コレット姫を愛している気持ちは本当だったはずだもの。愛していたから、こんな結末になってしまったんだわ」
「愛しているからこそ、相手の幸せを第一に思いやる、という選択肢もあったと思うんだがな」
ジェスの言葉を聞いて、リアは考え込む。
自分はまだ人を愛したことも愛されたこともないから、ほんとうにはクレイグの気持ちがわからない。でも、自分に比べればコレット姫は幸せだと思う。愛する人もいたし、二人の人に愛されたのだから。
「わたしね、コレット姫は確かに愛する人を失ったけれど、一度は愛し愛されたのだから幸せだと思うの」
「リアは結果より途中の経過を大事にする方なのか?」
リアはちょっと考えた。
「そうかもしれない。最後に幸せになれれば、途中にどんなひどいことが起こってもかまわないとは思わないわ」
ふっと口元に笑みを浮かべ、ジェスはティナが継ぎ足したお茶を一口飲んだ。
「こんなふうに誰かといろいろな話をしたのは初めてだ」
「わたしも、ここに来てからはみんながわたしと話をしたがらないの。だから、ちょっと寂しいわ」
本当はとても寂しい、と言いたかったが、ティナがいるので我慢した。
ジェスはあの青い眼でじっとリアを見つめた。
「気が向いたら、いつでも俺のところに遊びに来るといい。俺はいつも暇だし、話相手がいるのは楽しいからな」
「ええ!」
リアはあどけない笑顔を浮かべた。
ジェスは、リアが隠し通路から帰るのを見送った後、ぼんやりと部屋の中でたたずんでいた。
リアがいなくなった後の部屋はひどく空虚に感じられる。
ジェスは、『歌わない小鳥』の一節を口ずさんだ。
「『まばゆい黄金の髪と紫水晶の瞳を持つ俺の小鳥、コレット姫。輝かしい美しさだけでなく、愛らしいおしゃべりでこの耳を楽しませてくれる──』」
そして、黄金の髪と紫水晶の瞳を持つもう一人の姫を思い浮かべる。
リアはコレット姫そのものだとジェスは思った。
初めて会った時、『歌わない小鳥』の台詞が口をついたのもそのせいだった。
彼女が冷遇されていることは、リアに会う前から人づてに聞いていた。
ジェスはこの部屋に蟄居しているものの、かつて家庭教師をつとめてくれた家令が時々ニュースを運んできてくれる。
その家令の話では、ダニエルはリアと会うことすらほとんどないという。
それどころか、結婚前以上にブラックフォードの令嬢と頻繁に行き来しているらしい。
そんな話を聞き、そして寂しいともらした今日のリアを思い浮かべると、ジェスは抑えきれない思いに駆られる。
本当なら、リアは自分の妻になるはずだったのだ。
このパーセル公爵家の長男である自分の妻に。
五代前の領主が暴虐であったため、彼と同じ銀髪の者は忌まれるという。
だが、ジェスが図書館で調べた限り、その領主がどのように暴虐であったのかという記述は全く見つからなかった。
確かなのは、領主の弟が反乱を起こし兄を打倒した、ということだけだ。
ただの簒奪劇だったのかもしれないとジェスは思っている。
そして、兄を思い出させる銀髪を弟が嫌っただけなのかもしれないと。
事実はどうあれ、その百年近く昔の事件のために、ジェスは嫡男としての権利の一切を奪われてしまったのだ。
ジェスは生まれてすぐにこの隠された部屋に入れられ、乳母の手で育てられた。ある程度ものがわかるようになると、今度は家庭教師によって教育を受けた。貴族の息子として必要な教養を身につけることができたのは、父がそう配慮してくれたおかげだ。
しかし、父は幼い彼が部屋から出ることを決して許さなかった。
ある日、ジェスは部屋を脱走しようとして父に見つかり、激しい折檻を受けた。泣きながら、ジェスはお母さまに会いたいと叫んだ。生まれてから一度も会ったことのない母。母なら、自分が銀髪でも愛してくれるはずだと思っていた。
父は、おまえは死んだとお母さまには言ってある、決して会うことは許さんと言いながらジェスを殴った。
家庭教師をしてくれていた家令が身体でかばってくれなければ、ジェスはどれほどひどく殴られていたかわからない。翌日には顔や身体に痣が無数に浮いた。
母が亡くなった日にも、ジェスは葬儀に出ることも許されなかった。ジェスは自分の部屋で、ついに会うことのかなわなかった母のために祈った。彼には、屋敷の最も高いところにある塔に登り、天空に向かう母の魂のために祈ることすら許されなかったのだ。
母の墓がどこにあるのか、ジェスは知らない。
そして、十八歳になる今、この屋敷に彼が隠れ暮らしていることは公然の秘密でありながら、みんながそれを知らないふりをしている。偶然図書館で誰かに出会っても、素早く目をそらし見なかったふりをする。
本当なら自分がこの家を継ぐ身分であるはずなのに。
そんな毎日の中に、不意に飛び込んできたのがリアだった。
ジェスは静かに目を閉じる。
リアを思うのは、自分の失われた身分を思うのと同じだ。
どちらも、決して手の届かない高みに咲いた花。
それを手折ろうとすることは、空しい努力にすぎない。
小間物売りのクルトは、商人仲間と酒場で雑談をしていた。
昼間でも、酒場はりんご酒やエールの香りに満ち、酔った客であふれている。
「で? リア姫さまの初夜がまだらしいって話、どこから聞いたんだ?」
クルトは商人仲間に話の先を促した。
「それがさ、昨日友達とそこのティールームでお茶を飲んでいたんだ」
「おまえさんにしちゃ上品じゃないか」
「うるさい。それで、近くに若い娘が何人か座っていてな。その中にいた、ぱっと目を惹く黒髪の美人が言ったんだよ」
クルトは身を乗り出した。
「なんて言ったんだ? その美人は」
「ええと……領主さまはまだ夫婦の契りを済ませていらっしゃらないわよ。私はご本人から直接聞いたんだから、って言ってたかな。だいたいそんな感じだ」
「なるほどなあ。そりゃあたいした話だ。ここは俺のおごりだから、思う存分飲んでくれよ」
クルトは心の中で忙しくメモのページをめくる。
黒髪の美人は、領主ダニエル・パーセルの恋人として知られる、隣の領地ブラックフォードの令嬢ヴィヴィアンだろう。
リア姫がダニエルと結婚することが決まる直前まで、ダニエルはヴィヴィアンと婚約すると誰もが思っていた。
しかし、ヴィヴィアンは帝国の仮想敵国であるレヴァンの王家の血を濃く引いており、ブラックフォードもレヴァンの影響下にある土地だ。そんな家とパーセルが縁組すれば、帝国の影響力が低下する恐れは大きかった。帝国としては、皇女の一人を送り込むのが一番確実な解決方法と判断したわけだ。それは正しい。
しかし……とクルトは、偶然見かけたことのあるヴィヴィアンの、炎のように激しい黒い瞳を思い出す。
なにごともなく済むとは、クルトには思えなかった。
第二章
美しく飾られた一台の馬車が、パーセルの領主の館に寄せられた。
その馬車から降り立ったのは、ドレクバルド帝国風の重々しいドレスに身を包んだ可愛らしい娘だった。リアと同じ黄金の髪と透き通った緑の眼をしている。
館から急いで出てきたリアは、驚きと喜びに顔を輝かせながら娘の手を取った。
「マリーヒェン! 嬉しいわ、あなたが訪ねてきてくれるなんて!」
マリーヒェンと呼ばれた少女は、微笑みながらリアの手を握り返した。
「ごめんなさい、連絡もせずに突然来てしまって」
「いいのよ。あなたが来てくれるならいつだって大歓迎だわ」
二人は手を取り合って階段を登った。
「小さくてかわいいお屋敷ね。内装も綺麗だわ」
ホールを見回すマリーヒェンの言葉に、リアは笑った。
「宮殿と比べてはだめよ、マリーヒェン。地方領主の館としては、これでも立派な方なのよ」
侍女たちに取り巻かれながらリアの部屋に入ると、リアは改めてマリーヒェンの顔を見た。
「それにしても、本当に急だったわね」
マリーヒェンの表情が不意に曇った。
「実は、こちらを訪ねることが突然決まったものだから。私ね……遠くへお嫁入りすることになったの」
「遠く? ラーンとか?」
ラーンは帝国で一番北にある貿易港だ。このパーセルからでは一ヶ月以上かかる。リアの想像できる範囲では一番遠い街だった。
マリーヒェンは首を振った。
「いいえ、もっと遠く。南の大陸に嫁くことになったの」
リアは言葉を失って、マリーヒェンの手を固く握り締めた。
マリーヒェン・ハイドフェルトはリアのすぐ下の異母妹に当たる。二人は半年と離れていない年の近い姉妹で、それだけに最も仲がよかった。
リアがパーセルに嫁いで間もなく、皇帝のもとに南の大陸の貿易相手国・シェンから一通の親書が届いた。友好のしるしとして、皇女をシェンの王子の妃にもらいたいというのである。皇帝はその要請に答え、残る妹の中からマリーヒェンを選んだ。
南の大陸までは、船を使っても片道一ヶ月半はかかる。その土地に嫁いだら、二度と帰ってくることはできないだろう。しかも、言葉や文字をはじめ風俗習慣、衣食に至るまで全てが違う国である。
それでも、マリーヒェンは応ずるよりほかなかった。
兄が自分に逆らう者を許さないとよく理解していたからだ。
急遽マリーヒェンのための嫁入り支度が始められたその時、彼女は皇帝に言った。
「もう帰ってはこられないのですから、せめて仲のよかったリアお姉さまのところへ遊びに行きたいのです」
皇帝はマリーヒェンの願いを聞き入れた。
そして、リアに使いを出す暇もない大急ぎの旅行に出たのだった。
「南の大陸のシェンという国から、結婚相手の使者という人が来たのでお会いしたの。そうしたら、なんと表現すればいいのかわからないような派手で奇妙な着物を着ていて、言葉はまるで鳥が声を長く引っ張って鳴くみたい。通訳がいなかったら、相手の言うことなど一言もわからなかったわ。私は、そんな国へお嫁に行くの」
マリーヒェンはしくしく泣きだした。
リアは妹を抱きしめた。慰める言葉が見つからなかった。
しばらく泣くと、マリーヒェンの方が先に落ち着いた。
「これが最後のわがままですもの。噂に聞いたパーセルの街をゆっくり観光してみたいわ。それに、シェンに行っても寂しくないようにいろいろなものを買いたいし。お兄さまが珍しくお小遣いを下さったのよ」
そっとリアの手を握る。
「リア姉さま、私の最後の思い出作りに付き合ってくださるわね?」
「ええ、もちろんよ」
リアは浮かびかけた涙を拭って答えた。
リアは、侍女のティナを通じて館を取り仕切る家令に連絡を出した。
こんなことをするのは初めてだが、帝国の姫が訪問しているのだから相応の格式で接待しなくてはならない。
館に仕える補佐官の中から、街を案内する者を出すように指示した。
リアが見たいと思っていたあの大劇場の貴賓席にも席を用意させた。
準備が整うと、姉妹は双方の侍女を引き連れ、補佐官に案内させて街へ向かった。
今日は、街を一周できるようにゴンドラが用意されていた。
リアとマリーヒェンが先頭のゴンドラに乗り込む。侍女頭のティナが乗り込もうとした時、ゴンドラがぐらりと揺れた。
「きゃっ」
ティナが危うく水路に落ちそうになるところを、傍に控えていた若い補佐官が慌てて支えた。
「揺れますから、足元にお気をつけて」
「ありがとう」
ティナはおそるおそるゴンドラに乗った。全員が乗り込むと、ゴンドラはゆっくりと水路を流れだした。
水路から見る街はまた違った印象だった。この前リアが街を訪れた時は、せいぜい半分も見ていなかったことがよく分かった。侍女たちも子供のようにはしゃいで、指をさしながらしきりにしゃべっている。
「とても綺麗な街だわ。それに、なんてお店が多いのかしら! こんな土地に嫁いで、リア姉さまは幸せね」
マリーヒェンが目を輝かせて言った。
リアは返事に困った。
パーセルは魅力的な街だとリアも思う。しかし、このパーセルに嫁いで幸せだと思った日は一日もなかった。
マリーヒェンはリアの沈黙に気づかず、飽きることなく街並みを眺めていた。
ゴンドラで街を一周した後、二人は大劇場に向かった。
貴賓席についた二人は、最新の芝居をゆっくり楽しんだ。
今日の劇は、呪いをかけられて口がきけないお姫さまと、その呪いを解くために旅に出る王子さまの物語だった。
「おもしろかったわ。役者も上手だったし、帝国で見るお芝居より舞台装置も凝っていて演出にも迫力があったし」
リアに負けないお芝居好きのマリーヒェンは嬉しそうに言った。
「ここの劇場には、専属の劇作家が何人もいて、毎月新しい作品を上演しているのですって」
「まあ。毎月新しいお芝居が見られたら素敵だわ。きっと退屈しないでしょうね」
リアは、まだ芝居の興奮が冷めないマリーヒェンを連れて店の並ぶ通りに向かった。
「お兄さまもお小遣いを下さったみたいだけれど、わたしにも自由になるお金が少しはあるのよ。マリーヒェンになにか買ってあげるわね」
リアがこのパーセルに嫁ぐ時、皇帝はパーセルに隣接する豊かな土地をリアの領地として持たせてくれていた。そこからの収入で、リアは欲しいものならたいがい自分で買えるだけのお金を得ている。
まもなく生まれ育った大陸を離れ、生活の全てが違う南の大陸に向かう妹に、思い出になる品物を贈りたかった。
リアはまず仕立て屋に入り、急ぎの仕立てで何着かのドレスを頼んだ。どれもバラージュ風の華やかで繊細なデザインだ。カタログを見ていたマリーヒェンは、嫁入り道具をここで揃えてもらえたらよかったのにとつぶやいた。
次に向かったのは本屋だった。
文字も言葉も違う国で、故郷の言葉はなつかしいだろう。
リアはそう思い、マリーヒェンに好きな本を好きなだけ選ばせた。侍女たちは持たされた本の重みでふらふらになっているが、マリーヒェンはなおも本に釘付けだ。
結局本屋を三軒回り、買った本を補佐官たちに頼んで屋敷に運んでもらう。
あとは女の子の喜びそうな髪飾りや指輪、首飾りなどのアクセサリーや小物を選んだ。こうした品々を扱う店はあまりに多く、全部を見ることはできそうもない。
買い物を終えた時にはもう日が傾いていた。
心地よい疲れを感じながら、二人が館に戻ってきた時、馬に乗ったダニエルがちょうど館に戻ってきたところだった。
「ダニエルさま。こちらはわたしの妹、マリーヒェンですの」
呼びかけると、ダニエルは馬から飛び降りてバラージュ式の礼をした。
「ようこそ、殿下。ゆっくりしていってください」
それだけ言うと、マリーヒェンの返事も待たずに館の中に入って行った。
「あの方が旦那さま?」
マリーヒェンが小声で聞いた。リアは黙ったままうなずいて、ダニエルが消えた館の玄関へ向かった。
いつものように、夕食にダニエルは現れなかった。
マリーヒェンは、そのことについて特になにも言わなかった。
ただ、お料理は帝国風なのね、と言っただけだった。
リアはバラージュ風の料理を作るはずのこの家の料理人に頼みたかったのだが、ティナがそれを渋ったのだ。皇女が二人食事をするのに、信用のおける料理人でなくてはならないと言う。直接使用人に命令を出すのはティナなので、彼女の同意がなくてはどうにもならなかった。
夜、リアはマリーヒェンと同じベッドで眠った。
少女時代、よくこうしていっしょに眠ったことを思い出した。
いつもは一人ぼっちで寂しいベッドも、マリーヒェンがいてくれれば大きすぎない。
ずっと、こうしていっしょにいられればいいのに……。
リアは、無理だとよく知りながらそう思わずにはいられなかった。
マリーヒェンは翌日からもパーセルの街に繰り出しては買い物に夢中だった。
兄のくれたお小遣いはリアが思っていたより多額だったらしい。
「お金を残しておいても、お嫁に行ったら使うこともないはずだもの。今のうちにあるだけ使っておかなくちゃ」
そう言いながら、マリーヒェンは凝った細工の男性用ボタンを選んだ。
どうやら、嫁いだ先でのお土産も買い物リストに入っているらしい。昔から姉のリアより周到だったマリーヒェンらしかった。
買い物の合間に、街中に設置された舞台の芝居を見たり歌を聞いたりもした。
マリーヒェンが心惹かれながら買い物しなかったのが写本屋だった。
写本屋は、印刷で流通していない小部数の本や、特に凝った装丁の本を買いたい時に利用する。手できれいに写した本に、挿絵や飾り文字が入れられる美しいものだが、仕上がるのには相当な時間がかかる。あと数日でパーセルを離れるマリーヒェンには買えないものだった。
「残念だわ。きっと一生の宝物になったのに」
「わたしが注文して、後から送ってあげましょうか?」
リアが訊くと、マリーヒェンは寂しそうに首を振った。
「都に戻ったらすぐにも出発なの。間に合わないわ」
「そう……」
マリーヒェンの買い物に付き合いながら、リアは自分の分としてはちみつを買った。
甘いものが好きなリアは、はちみつ屋の店頭でガラスの入れ物に入った金色のはちみつから目が離せなくなったのだ。ドレクバルドよりずっと南にあるバラージュは、花の種類が多いだけはちみつにも様々な種類がある。
リアはさんざん迷った末、パーセルの南で作っているいちごからとれたはちみつを小瓶に一本分買った。料理人に渡して、お菓子を作ってもらおうと思う。
マリーヒェンが逗留する最後の夜まで、ダニエルはついに一度も顔を見せなかった。
夜着に着替えて眠る用意をしていたリアに、ベッドに横になっていたマリーヒェンが不意に訊いた。
「リア姉さま。もしかして、旦那さまとうまくいっていないの?」
「えっ」
リアは驚いてマリーヒェンの顔を見た。マリーヒェンはかすかに苦笑して、
「どんなに鈍くても、妻の妹が来ているのに顔も見せないのはおかしいとわかるわ。なにか仲違いでもしたの? それとも、他に理由があるの?」
リアは少しためらってから、小さな声で答えた。
「ダニエルさまにはね。他に、好きな方がいらっしゃるのよ」
マリーヒェンは黙ったまま、眼差しでリアに先を促した。
「一度お会いしたことがあるけれど、隣の伯爵家のお嬢さま。綺麗な方だったわ。その方のために、わたしとは夫婦になれないと最初の日におっしゃったの。誓いの口づけもなかったの」
「そう……」
マリーヒェンは起き上がって、リアに手を差し伸べた。
リアはマリーヒェンの胸に縋って、少しの間泣いた。
リアの黄金の髪を優しく撫でながら、マリーヒェンは言った。
「私、近くにお嫁にいったリア姉さまを羨ましく思っていたけれど、そんなことになっているとは思ってもみなかった。私のように想像もつかないほど遠くへお嫁に行ったらどんなことがあるのか、今からでは予想もできないでしょうね。ただ、旦那さまがいい方であるようにと願うだけだわ」
「女の子は……どうしてお嫁にいかなくてはいけないのかしら」
リアはぽつりとつぶやいた。
マリーヒェンはそっとリアを抱きしめた。
「時間がたてば、旦那さまの気持ちがリア姉さまに向く日だって来るかもしれない。先のことなんてわからないのよ。ね、元気を出して。私が勇気を持って旅立っていけるように」
「うん。そうね。きっと」
リアはマリーヒェンのぬくもりを感じながら目を閉じる。
これが、幼い頃から育った宮殿の部屋だったらいいのに。
全てが夢で、自分たちが嫁ぐ日はずっと遠い未来だったらいいのに。
翌朝、マリーヒェンは帝国に向けて旅立った。
「帝国を出発する時、手紙を書くわ。それから、もしできれば向こうについてからも」
「ええ。待っているわ」
二人はもう一度手を取り合った。
今別れたら二度と会えないだろう、という予感が双方の胸にあった。それを言葉には出さずに、ただ笑顔で別れの挨拶を交わした。
帝国には、別れる時涙を流すと二度と会えない、という言い伝えがある。
「元気でね、マリーヒェン」
「リア姉さまも」
馬車が走り出す。窓から顔を出しているマリーヒェンが遠くなる。
泣いてはいけない。
リアは必死に笑顔を浮かべて、馬車が見えなくなるまで見送った。
一ヶ月後、リアはマリーヒェンからの手紙を受け取った。
『先日は盛大に歓待していただきありがとうございました。
これから、帝国を出る船に乗ります。
向こうに着くまでには一ヶ月半かかるという話です。
無事に着いたら、またお手紙を書きます』
急いで書いたのだろう、走り書きで簡単な文面だった。
手紙を届けた使者は、マリーヒェンの.消息について訊くとこう答えた。
「お手紙を受け取ったのが船の前でしたので、今頃は海の上にいらっしゃると存じます」
リアは、一ヶ月半も陸地の見えない船旅をするマリーヒェンのことを思った。
言葉も通じない、なにもかも全てが違う世界に飛び込んでいこうとしている妹。
「あの子には……もう会えないかもしれない。一生……」
大切なものを失ってしまった気がして、リアは涙をこらえることができなかった。
いつものように朝の身支度をしていたリアに、侍女頭のティナが怪訝そうに訊ねた。
「姫さま、結婚指輪はどうなさいまして?」
「えっ?」
そういえば、いつもは左の薬指にはめている結婚指輪がない。
「覚えていないわ。ゆるいものだから、時々はずしていたし……」
指輪はリアの指よりいくぶん大きかった。それが気になって、ついはずしてしまうのだ。
「結婚指輪を失くしたりしたら大変ですわ。急いで探さなくては!」
ティナは他の侍女たちに命じて、テーブルやベッドの中、引き出し、椅子の上まであらゆるところを探させた。しかし、指輪は影も形もない。
「大丈夫よ。どうせダニエルさまに会うことなんて滅多にないし、わたしの指もごらんにならないと思うから。ゆっくり探してちょうだい」
結婚して以来五回と会っていない夫が、リアの指輪など気にするはずもない。
そもそも、リアの方から贈った指輪は彼の指にははめられていないだろう。
リアは結婚指輪などどうでもいいと思っていたのだが、侍女たちはそうもいかないらしい。ティナは嫁入り以来開けたこともない旅行かばんや衣装箱まで開けはじめた。他の侍女たちは箒で床を掃いたり、絨毯をまくったりしている。
リアは埃っぽいのに閉口して部屋を出ようとしたが、ティナに袖をつかんで引き止められた。
「いけません、姫さま! 結婚指輪をしていないところを誰かに見られでもしたら、大変ですわ!」
ため息をついて、リアはまた椅子に戻った。
結局、昼食の時間になっても指輪は出てこなかった。
侍女たちはいつも以上に厳重にリアを囲み、料理を運んでくる召使いに指輪がないことを気取らせまいとしている。
リアは、自分が指輪を失くしたところでダニエルが気にもしないだろうとわかっていた。
だから、侍女たちの焦りようがおかしくもあり、少し腹立たしくもある。
自分の結婚がどんな状態か一番よく知っている侍女たちが、そのことよりも指輪一つに必死になっているからだ。
愛することはもちろん、顧みてもくれない夫がくれた指輪など、リアにはどうでもいい品だ。ただ、惰性で身につけているだけ。
いっそのこと本当になくなってしまえば、どんなにすっきりするだろう。
リアの部屋を隅々まで改めたティナは、他の部屋を調べると言い出した。
自分の行動範囲を考えたリアは、まず図書館を提案した。すると、図書館の床はすでに捜索済みという答えが返ってきた。
「この間、マリーヒェンとパーセルの街に行った時に落としたんじゃないといいけど」
「いえ、昨日の朝はつけていらっしゃいました」
ティナはきっぱり言う。毎朝の身支度の時に確認しているのだろう。
他に自分が行くところとなると、中庭か、あるいは……
「あ」
自分のうかつさに笑い出しそうになる。
「ジェスのところだわ、きっと」
ジェスの部屋に顔を出すと、ジェスはいつものように本に顔を突っ込んでいた。
リアに気づいて顔を上げ、テーブルの上を指さす。
「それ、リアの忘れ物だろう」
テーブルの端にちょこんと乗っているのは、まぎれもなくリアの結婚指輪だった。
リアより先にティナが指輪に飛びついた。
「ありがとうございます、ジェスさま。これを一日中大騒ぎで探していたんですの!」
「そんなに大事なものだったのか?」
リアは苦笑して首を振った。
「結婚指輪」
「大事なものじゃないか」
ジェスはサファイアブルーの眼でリアの顔をまっすぐ見つめた。リアは頑固に首を振る。
「ちっとも大事じゃないわ」
ティナは指輪をハンカチでくるむと、自分の胸ポケットに落としこんだ。
「姫さまは、旦那さまとあまりお親しくないものですから、あんなことをおっしゃるんですよ」
「それは俺も聞いている。だが、結婚指輪が大事じゃないというのは穏やかじゃないな、リア。それに、首都の工房の刻印が入っているし、いい細工だ。なかなか高価な品だろうと思うけどな」
リアは今朝からの騒動で疲れ、苛立っていた。
ジェスがいつも優しくしてくれるから、ついそれに甘え、わがままになってしまう。
「ジェスにはきっとわからない。わたしの気持ち。どんなに高価なものだろうと、気持ちのこもっていないものなんて、ちっとも大事じゃないわ」
「本当に気持ちがこもっていないのなら、大事に思えなくても仕方がないな。ただ、その指輪は気持ちだけの問題でもない。ティナたち侍女の立場もあることだから、つけておいてやった方がいい」
「ありがとうございます、ジェスさま」
その言葉を聞いて、ティナが安堵したように言った。
ジェスは、まだちょっとすねた顔のリアに注意した。
「その指輪、少し大きいみたいだな。サイズを直しておかないと、また失くすぞ」
「気がついていたの?」
リアは驚いて目を見開いた。そんな些細なことにジェスが気づいているとは思わなかった。
「ああ。昨日、しきりにいじっているから気になったんだ。ずいぶんゆるいみたいだな。パーセルの街にはサイズ直しの職人がいくらでもいるはずだ」
「早速直しに出しますわ」
ティナは大切そうに胸ポケットに触れた。
パーセルはりんごの国と言われる。
丘陵地帯が広がり、気候が寒冷であることから、主な作物がりんごなのである。
十月になるとりんごの収穫が最盛期を迎え、パーセルの街ではりんご祭りと称する収穫祭が開かれる。りんご酒やりんごを使った菓子が振舞われ、街はいちだんと賑わう。
はじめてりんご祭りを迎えたリアの気持ちも浮き立っていた。
リアは、子供時代を姉妹たちと一緒に過ごした。
そんな時間の思い出に、みんなでアップルパイを作ったできごとがあった。
帝国も寒冷な土地なのでりんごが取れる。献上されたりんごで、姉妹たちと侍女とで大量のアップルパイを作ったのだ。出来上がったパイは皇帝をはじめ大臣や家臣たちに振舞われた。それは楽しい、懐かしい思い出だった。
「ねえ、ティナ。あの時みたいに、りんごのお菓子を作りましょうよ」
リアは厨房に無理を言って、一角を借りた。侍女たちと一緒に粉をこねたり、バターを塗ったりするのは楽しかった。りんごを煮詰めるのは難しいので料理人に頼む。そうしている間に話がはずみ、近いうちにバラージュ風の料理を作ってもらう約束もできた。
アップルパイが完成すると、リアは厨房に二つ、執務室の補佐官たちに一つ振舞った。
普段こんな差し入れがないらしい補佐官たちには大好評だった。
みんなに喜んでもらえて気をよくしたリアは、ダニエルが帰ってきたら少しでも食べてもらおうと、一番うまくできたものを残した。
「姫さまは先に召し上がったらいかがです? 旦那さまはいつお帰りになるかわかりませんし」
ティナがそう勧めたが、リアはパーセルの収穫祭である今日はダニエルも遅くはならないだろうと考えていた。必ず通る食堂で待っていれば、帰ってきてすぐに会えるはずだ。
夫婦らしいことなど何もできなくても、愛されることなどなくても、同じ家に住む家族として共にりんご祭りを祝うことぐらいはしてもいい。
その頃、ダニエルはパーセルの隣、ブラックフォードの収穫祭に参加していた。ブラックフォードもパーセルほどではないがりんごが主要な作物だ。
恋人と一緒にいられる喜びに顔を上気させたヴィヴィアンと一緒に、ダニエルはりんご酒で乾杯した。
自分の領地の祭りのことなど、今の彼の頭にはなかった。
夜が更けて、もうダニエルが帰ってくることはないと確信するまで、リアはぼんやりと食堂で待っていた。その傍らで、ティナが心配そうにリアの顔を見つめている。
『何事も旦那さまのおっしゃることを聞いて、よい妻になるのですよ』
母の言いつけがよみがえる。
リアの夫は、なにひとつ言ってはくれない。
よい妻には、どうしたらなれるのだろう?
リアにはわからなかった。
その夜、ダニエルは帰宅しなかった。
ある日の夕方、珍しくダニエルが早い時刻に館に帰ってきた。
「薬と布を頼む!」
叫んだダニエルの顔には、くっきりと赤いひっかき傷が何本もあった。傷からは血が流れている。
二階から偶然それを見たリアは思わず息を飲んだ。
「どうなさったんですか、旦那さま。その傷は」
家令が布で流れる血を拭き取り、傷薬を塗りながら訊ねた。
ダニエルは痛みに顔をしかめながら苦笑した。
「ヴィヴィアンに思い切り引っかかれたんだ。今度新しく来たドレクバルドの商人に、南の娼館で接待されているところを偶然窓から見られてね。乱入してきたよ。若い娘が平気で入ってこられるような場所でもないだろうに……痛っ」
リアは不思議そうな顔でダニエルの話を聞いていた。「娼館」。聞いたこともない言葉だった。
「娼館などで接待を受けられたんですか? 珍しいですね」
「南の大陸の踊りが見られるというのでね。別にそれ以上の接待を受けたわけじゃない。踊りそのものは珍しくて良かったが、場所がまずかったな」
「それで、ヴィヴィアンさまは納得されたんですか?」
若い補佐官が興味津々という顔で訊いた。
「まさか! 僕が止めるのも聞かないで、馬に乗って走っていってしまった。また明日はブラックフォードまで行ってこなくてはならない」
「明日はドレクバルドからの小麦が到来しますが?」
灰色の髪をした、痩せた家令が注意する。
「それはおまえたちに任せる。明日すぐに行ってこなければ、どんな騒ぎになるかわからないからな」
「見られた場所が場所ですからね。早く誤解を解かないと、また血を見ますよ」
補佐官の一人が冗談まじりに言った。
リアは部屋に戻ると、手近にいたティナを捕まえた。
「ねえ、ティナ。娼館、ってなに?」
侍女とはいえ、ティナも帝国の地方貴族の娘だ。そんなものを知るわけがない。
「さあ。存じませんわ」
侍女たちが全員知らないとわかると、リアは他に知っていそうな人物を一人しか知らなかった。
「ねえ、ジェス。娼館、ってなに?」
いきなり質問されたジェスは、あやうくお茶を噴き出すところだった。
「どこでそんな言葉を聞いてきたんだ、リア?」
「あのね……」
リアは、ダニエルと補佐官たちの会話を語って聞かせた。
ジェスはようやくいきさつを理解して、リアの頭に手を乗せた。
「リアにはどう説明したらわかってもらえるかな。綺麗な女の人がたくさんいて、お客の男の人に恋人同士か夫婦みたいなサービスをしてくれる場所。だからヴィヴィアンは怒ったんだろう。自分というものがありながら、ってね」
「ふうん……」
まだ腑に落ちない顔でリアがうなずく。
ジェスの知る限り、リアは夫婦の情愛というものに触れたことがない。ダニエルとは形ばかりの夫婦だ。だから、夫婦のような、と言われてもぴんと来ないのかもしれない。
そうは言っても、まったく何も知らないということはないだろうが。
「まあ、女の子が口にするような言葉じゃないということは覚えておくんだね。特にリアはお姫さまなんだから」
「うん。……ヴィヴィアンさまは、そこへ入っていかれたのよね。それってすごいことなの?」
「俺の知る限り、若い娘が娼館へ殴りこむなんて考えられないことだよ」
「ダニエルさまは、顔を引っかかれているのに嬉しそうだったの。それはきっと、ヴィヴィアンさまがご自分のために怒って乗り込んでこられたからなのよね」
「だろうね」
弟の女の趣味はわからないが、噂を聞く限りヴィヴィアン・ブラックフォードはそういう真似をしてもおかしくない激しい気性らしい。
目の前の清楚であどけないリアは、そうした女とはまったく逆のタイプだ。
リアの話からわかるほどダニエルがヴィヴィアンに夢中なのであれば、なぜリアを娶ったのかと疑問に思う。帝国の圧力に屈してリアと結婚したのであれば、もっとリアを大切に扱うべきなのだ。それが、未だに結婚前の恋人を追い掛け回しているとは……。
もし今の状況が帝国に知れたらどう思われるだろうかと、ジェスは疑問を抱いた。
帝国から、大臣の一人が訪問するという知らせが届いたのは、そろそろ冷え込みが厳しくなる頃だった。
訪問の目的は、嫁いでしばらくたつリア姫が婚家になじみ、夫と睦まじくしているかどうか皇帝が気にかけているので様子を見に来る、ということだった。
リアは、兄がそんな人ではないことをよく知っている。政略結婚の駒として送り込んだ妹の様子を探るくらいのことだろうと思っていた。
しかし、ダニエルとパーセル公爵家の家令や補佐官たちは焦った。
リア姫を冷遇しているという噂が帝国に届いたのではないかと思ったのだ。
大臣が来るまでに、盛大な歓迎の支度が整えられた。
「ベルントじいや! あなたが来てくれるとは思わなかったわ!」
「リアさまもお元気そうで何よりです」
リアは、幼い頃から可愛がってくれた内務大臣のベルント・ホーグランドの顔を見て大喜びした。ベルントも孫娘を見るように相好を崩す。
「大臣、このたびはパーセルへようこそ」
きっちりと正装を着こなしたダニエルが緊張した顔で出迎えた。
補佐官がベルントを案内するのに続き、ダニエルがリアに手を差し出す。
「さあ、姫。手を」
こんなことは一度もなかった。結婚式の時でさえ。
そう思いながら、リアは夫の手に手を預けた。
喜びの感情はなかった。むしろ悲しかった。
夫に手を差し出させるその動機は、自分ではなく帝国の大臣の存在なのだと、痛いほどわかっていたからだ。
用意された食事はバラージュ風だった。
リアはパーセルに嫁いで初めてバラージュ風の料理を口にした。味はどれも軽く繊細で、リース川から取れる新鮮な川魚を使った料理が珍しく美味しかった。デザートの煮りんごも上品な甘さだった。
食後のワインを酌み交わしながら、ベルントは集中的にダニエルに質問をした。
リアさまとは日頃どんなふうに過ごされておいでか。リアさまの人柄をどう思われるか。リアさまがお好きなことをご存知か……まるで試験をするかのように質問は続き、ダニエルは必死にそれに答えている。答えがまるで的外れであることに、ベルントは気づいているはずだった。
「ところで……隣のブラックフォードに美しい令嬢がいらっしゃること、ご存知でしょうな」
ベルントが切り出した。ダニエルは青ざめたままうなずく。
「たいそう親しくお付き合いをされていると、こちらでは聞いております」
「は。親しい友人です」
「なんでも、顔を引っかかれたとか?」
ダニエルの顔色が透き通るほど青くなる。青ざめると、先日引っかかれた傷跡がくっきりと浮き上がって見えた。そんな些細なことまで帝国に筒抜けであることがショックなのだろう。
ちらりとリアを見るその目に責める色があるのを感じて、リアは傷ついた。
自分がいちいちそんなことまで報告していると思われるのは心外だった。
「つまらない誤解ですよ」
「誤解ね」
ベルントはワインを一口飲む。
ダニエルを見る目をすっと細めたその瞬間、聞きたくない言葉がベルントの口から出そうな気がしてリアは声を上げた。
「ベルント。ダニエルさまも、みんなも、わたしにとてもよくしてくれています。わたしは何の不満もありません。お兄さまには、そう申し上げて」
「本当に、そう申し上げてよろしいのですね? リアさま」
ベルントはリアを見つめ、念を押すようにゆっくりと訊いた。
「ええ」
リアはきっぱりと言いきった。
場の雰囲気は和やかに戻った。
ベルントは他愛のない世間話を始め、ダニエルは深いため息をついて汗を拭った。
これでいいんだ、とリアは思った。
夫に愛されていない妻であると、公の場で晒し者にされるより、その事実を隠し通す方がずっといい。
ベルントは夕方館を辞した。
「リアさま、何かあったらいつでもこのベルントにお知らせください。必ずですぞ」
ベルントは本当の祖父のように優しくそう言った。
リアはその言葉に笑顔で答えた。
「もし何かあったら、きっと知らせるわ。ありがとう、ベルント」
リアが見送りを終えた直後、乗馬服に着替えたダニエルが無言で馬を引き出してきた。
ブラックフォードで今日の憂さ晴らしをしに行くのだろう。
ヴィヴィアンがダニエルの顔を引っかいたことまで帝国に知られているとすれば、定期的に報告を上げているスパイがリアやダニエルの身近にいることになる。それは侍女の誰かかもしれないし、館の補佐官かもしれないし、街の商人かもしれない。
いずれにせよ、リアが思っている以上にこちらの状況は兄に知られているのだ。
ベルントをよこしたのがただの圧力にすぎないのか、それ以上の意味を持っているのか、リアにはわからない。
リアにできるのは、このパーセルの公爵夫人として、パーセルの領民に迷惑がかからないようにすること。それだけだ。
全てが平常に戻った夕方、リアはジェスの部屋を訪れた。
「今日の歓迎会はずいぶん盛大だったみたいだな。ここからでも騒ぎがわかるほどだった」
ジェスは疲れの残るリアの顔を眺めて言った。
「うん。でもね、ちょっと疲れちゃった」
「何かあったのか?」
リアはいつものように笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「ううん。何かがあったからというわけじゃないわ。ただ、みんながとてもよくしてくれたんだけれど、それはわたしのためじゃなくて大臣が来ているからだったの。いつもは誰もわたしに話しかけたりしてくれないのに……いつもこうだったらいいのに、って思ったら、わたし、とても辛くなってしまったの。泣きたくなるくらい」
紫の瞳にいっぱい涙がたまっている。
ジェスはリアの柔らかな黄金の髪を撫でた。
「泣きたければ、ここで思い切り泣けばいい。ここなら、誰にも知られずに済む」
「ううん」
リアは頑是無い子供のように首を振った。
「わたしはね、泣いちゃいけないの。そういう立場なの。わたしが泣いたら、パーセルに、それからダニエルさまや他のみんなに迷惑がかかるから。だから、泣かないの」
「そうか」
ジェスは、ハンカチで目頭を押さえているリアの健気な姿を優しい目で見つめた。
「でも、いつか本当に泣きたくなったら、俺のところへ来るといい。リアが泣いたことは誰にも言わない。俺のところでなら、絶対に誰にもわからないから」
「うん。ありがとう」
リアは泣きそうな顔をしていたのが嘘のようにあどけない笑顔を見せた。けれど、その目にはまだ涙の雫がわずかに残っていた。
ある日の午後、侍女の中でも一番若く悪戯好きのニーナが嬉しそうにやってきてリアに報告した。
「姫さま、ティナがちょっとおかしいんですよ」
「おかしい?」
リアが首を傾げると、ニーナはリアをうながして階段の上まで連れて行った。物陰に隠れて、そっとティナのいる場所を指差す。
領主の執務室が見える階段の上で、ティナが熱心に何かを見つめていた。執務室では、いつものように館に勤める家令や補佐官たちが忙しく立ち働いている。ティナが見ているのはその執務室だ。
玄関から、アクアマリンのように淡い水色の目をした若い補佐官が書類を抱えて入ってきた。
リアはその姿に見覚えがあった。
以前、マリーヒェンを街に案内した時、ゴンドラから水路に転落しかけたティナを救ってくれた青年だ。彼は顔を上げてティナを見つけると、にっこり微笑んだ。そして、執務室に入っていく。
ティナの横顔が真っ赤に上気しているのを見届けると、リアはニーナを連れてこっそり部屋に戻った。
このごろ、ティナが以前のようにリアにべったりくっついて口うるさく言わなくなったのは、これが原因に違いない。
「ティナは、恋をしたのね」
リアは目を輝かせた。ニーナは心底うらやましそうにぼやいた。
「ティナばっかり、ずるいですわ。私もああいう人が欲しいのに」
「そんなこと言わないの。ねえ、わたし、ティナの恋を応援してあげたいわ。どうすればいいかしら?」
「ティナはいつも姫さまのお世話で暇がないし、あの補佐官は仕事で暇がないでしょう。二人に休みをあげて、デートさせてあげてはいかがですか?」
リアはなるほど、とうなずいた。
二人がお互いに好意を持っていたとしても、一緒に過ごす時間がないのではなかなかお互いに親しくなれない。それなら、時間をプレゼントするのが一番だ。
「いい考えだわ、ニーナ。さっそく手配をしましょう」
リアは二番手の侍女のハンナを呼んで、問題の補佐官の名前を調べ彼に休暇を出すよう手配を命じた。
「姫さまもティナの片思いのこと、ご存知だったんですの?」
ハンナはにやにやした。
「あら、片思いとも限らないわよ。あの補佐官の人、ティナにとても優しく笑いかけていたもの。うまくいくといいんだけれど」
「姫さまはお優しいこと」
ハンナは笑った。リアは待ちきれない様子で、
「ねえ、ハンナ。みんなに聞いて、あの補佐官の名前を調べてちょうだいよ」
「調べるまでもございませんわ。もうしばらく前から、私たちの間では彼の噂でもちきりでしたもの。とっくに存じております。さっそく執務室に行って、休暇を出すようにかけあってまいりますわね」
ハンナはその足で執務室に向かった。
その夜、リアはティナに声をかけた。
「ねえ、ティナ。明日はお休みをあげるわ」
「えっ?」
ティナは突然のことに驚いてリアの顔を見つめた。
「補佐官見習いのレオンがあなたのエスコートをしてくれるから、パーセルの街で遊んでいらっしゃい。わたしがここに来てから、あなたは一日の休みもなく働いてくれたもの。一日ぐらい遊んできたっていいのよ」
「あの……姫さま、どうしてご存知なんですか?」
「ご存知って、なにを?」
リアは無邪気な笑顔で答える。
ティナは赤くなって黙ってしまった。
執務室に話を通すと、こちらでも若い補佐官見習いと奥方の侍女の淡い恋は噂になっており、あっさりと一日の休暇を出すことに同意してもらえたのだった。
当の補佐官も、ティナのエスコートを頼むと喜んで引き受けてくれた。ティナに好意を持っているのか、単に親切なだけかはリアたちには判断できなかったが、どう進展するかは本人たちの問題だ。
翌日、リアたちはティナのおめかしに、自分がデートに行くかのような熱意を傾けた。
すっきりと上品な目鼻立ちのティナは、身なりを整えればさすがに帝国の貴族の娘らしく見えた。
ティナを送り出した後、リアは落ち着かなかった。
物心ついた頃にリアの侍女となり、実の姉妹同然に育ったティナだ。そのティナが、好きな人ができて今デートの最中だと思うと、リアはそわそわして何も手につかなかった。
日が沈む頃、ティナは目をきらきらさせて帰ってきた。もちろん、補佐官見習いのレオンに送られて。
「今日はありがとうございました、姫さま」
「楽しかった?」
丁寧に礼を述べるティナに、リアは待ちきれない様子で訊ねた。ティナは顔を赤らめてうなずく。
「はい。とても」
「何をして遊んだの?」
「ええと……お芝居を見たり、お食事をしたり、お茶を飲んだりですわ」
リアはなるほどと心の中でうなずく。リアが読んだことのある恋愛小説でも、最初はそんなふうに恋が進むものだ。
「それで、姫さま。お願いがあるのですけど」
「なあに?」
ティナは首まで赤くなりながら、
「二週間に一度でよろしいのですけど、お休みをいただけたら嬉しいのですが……」
「ええ! もちろんよ」
リアは輝くような笑顔で答えた。
故郷も家族も帝国に置いてついてきてくれたティナ。そのティナに素敵な恋人ができるとしたら、リアにとってこれほど嬉しいことはなかった。
ティナの二度目のデートの日、リアはティナの代わりにハンナを連れてジェスのところへ遊びに行った。
「ティナはどうしたんだ?」
見慣れない侍女がついているのに、ジェスは不思議そうな顔をした。
「ティナはデートなのよ」
「デート?」
リアは、ティナの恋の顛末をジェスに話して聞かせた。
ジェスは面白そうに聞いていたが、
「恋というものについては、書物でしか読んだことがないけれどね。楽しいのと同じくらい、辛く苦しい面も持っているそうだよ。人を好きになるというのは、楽しいことばかりじゃないということだ。ティナがそんな思いをすることがないといいな」
リアも、恋については本でしか知らない。けれども、本で知った恋というものはリアの心を強く惹きつけた。
「わたしも、恋がどんなものかは本当には知らないわ。でも、小説や戯曲を読めば、それがどんなにすばらしいものかがよく分かるもの。わたしも、一度でいいから経験してみたかったわ」
政略結婚で愛してくれない夫のもとに嫁いだリアにとって、恋というものは手の届かない果実だった。
「今はただ、ティナが幸せになってくれればいいと思う。それだけよ」
恋へのあこがれを過去形で語るリアを、ジェスは痛ましい目で眺めた。
領主の館の庭園にある、人造の湖のほとり。
ダニエルとヴィヴィアンは、人目を避けて語り合っていた。
「どうしても、あの人を離縁してほしいの。あなただって、あの人を愛してはいないのでしょう?」
ヴィヴィアンは強い口調でダニエルに迫った。
ダニエルはリアの部屋がある辺りに目をさまよわせた。
「離縁は無理だよ」
「どうして?」
ダニエルはため息をついて、ヴィヴィアンに向き直った。
「離縁すれば、ドレクバルドとの関係は確実に悪化してしまうだろう。だが、ドレクバルドの穀物なしにパーセルはやっていけないんだ。姫の方から離縁を言い出してくれれば、あるいは……だが、それも難しいと思う。姫は僕が冷たく接するからというだけの理由で離縁を望むような人柄じゃない」
「じゃあ、今のままでいるとおっしゃるの? 私はこのままずっと中途半端なままでいなくてはいけないの? いったい、いつまで待てばいいの? あの人が死ぬまで?」
ヴィヴィアンはダニエルを問い詰めた。ダニエルは思い切ったように、
「ヴィヴィアン。僕の側室として嫁いできてくれないか」
「なんですって?」
ヴィヴィアンは自分の耳が信じられなかった。
永遠の愛を誓ってくれ、自分のために妻に指一本触れないと約束してくれた恋人の口からそんな言葉が出るなんて。
ダニエルは真っ青になったヴィヴィアンに、慰めるように声をかけた。
「側室と言っても、事実上唯一の妻として待遇するなら、それほど君にとって悪い話ではないと思うよ」
「冗談じゃないわ! 私だってブラックフォード伯爵の娘よ! 側室なんて……なれるはずないじゃない!」
ヴィヴィアンの目から涙がこぼれた。
いつかきっと、正式に結ばれると信じていた。
だから、愛する人に妻がいる今の状態にも耐えてきたのに。
自分を側室に迎えようとするなんて……。
ヴィヴィアンは一歩足を踏み出し、振り返ってダニエルに告げた。
「側室になる屈辱を受けるくらいなら、死んだほうがましよ!」
そして、湖に身を躍らせた。
ダニエルはあわてて腕を伸ばしたが、遅かった。
ヴィヴィアンは湖の中心に向けて進んでいく。
幸い、湖は人が溺れるほど深くはない。ただ、もう晩秋のパーセルは湖のふちに氷が張るほどの寒さだ。ダニエルは大声を上げて人を呼んだ。
執務室に詰めている補佐官たちが集まってきて、湖の中央近くまで進んでいたヴィヴィアンを説得し、ボートに引き上げようとする。
ちょうど庭を散歩していたリアと侍女たちも、何事かと駆けつけていた。
岸に引き上げられたヴィヴィアンはドレスがずぶ濡れで、長い黒髪からも冷えた水が滴っている。
「こんなに寒いのに、早く着替えをなさらないとお風邪を召しますわ」
リアはふかふかした大きなタオルをヴィヴィアンに差し出した。
ヴィヴィアンはその手を邪険に払った。タオルは地面に落ちた。
リアは思わず一歩後ろへ下がった。
「あなたには関係ないわ! 放っておいてちょうだい!」
そう叫んだヴィヴィアンはわっと泣き出した。
ダニエルはヴィヴィアンの侍女に着替えを用意するよう命じ、彼女に付き添って館の中へ入っていった。
リアは、二人の姿が視界から消えるまでその背中を見送っていた。
「なんて失礼なんでしょう!」
ティナが吐き出すように言った。リアは静かに首を振った。
「そうじゃないわ、ティナ。ヴィヴィアンさまにとっては、わたしの方が後からやってきて恋人を奪った人間なのよ」
それから数日後の夜、ブラックフォードの伯爵邸ではパーティーが開かれていた。
ヴィヴィアンはダンスにも加わらず、浮かない顔で飲み物を口に運ぶ。
ダニエルは、自分を側室に迎えたいという話は撤回してくれたが、リア姫を離縁するということにはどうしても同意してくれなかった。
ダニエルは、ドレクバルドとの関係が悪化することを何よりも恐れている。
けれど、自分はドレクバルドと対抗する大国レヴァン王家の血を引いている。自分と結婚すれば、パーセルにもレヴァンからの後ろ盾があるだろう。
そもそも、本当に愛し合っているのなら、他の障害など問題にならないはずだ。
ヴィヴィアンはそう思う。
ヴィヴィアンの両親は、国を越えて愛し合い結婚した。
それに比べたら、ダニエルとヴィヴィアンは同じ国の隣あった領地に暮らしている。
愛を貫こうと思えば貫けたはずだ。
「やあ、ヴィヴィアン」
声をかけられて振り返ると、近隣の貴族の青年が隣に立っていた。近づいてきたのにも気づかなかったようだ。
「あら、ごきげんよう。何か?」
失礼すぎない程度に冷淡な答えを返したヴィヴィアンに、青年は思いがけないことを言った。
「今、結婚相手を探している最中なんだ。君がその気になってくれれば、これ以上の相手はいないんだが」
「あら。でも、私は……」
青年はヴィヴィアンの答えを予期したように、
「ダニエルはもう帝国の皇女と結婚してしまったんだし、君の身分で側室になるつもりはないだろう?」
一番言われたくないことを言われ、ヴィヴィアンは乱暴にグラスを置いた。
「失礼するわ」
人ごみを縫って廊下に出ると、ヴィヴィアンの目に涙があふれた。
人に見られないように、静まり返った応接間に飛び込む。
なぜ、ダニエルはあの女と結婚してしまったんだろう。
ダニエルの言葉がふと、心によみがえる。
『姫の方から離縁を言い出してくれれば、あるいは……』
ヴィヴィアンは涙を拭った。
自分は、思うようにならないからといってただ泣いて過ごすような女じゃない。
愛する人のためなら、どんな手段も厭わない。
その日も、北風が強く吹いていた。
時折、はらはらと雪が舞い落ちた。
リアは、中庭にまいた花の種が気になり、ティナを連れて様子を見に行った。
「そんなにすぐには芽は出ませんわよ、姫さま」
ティナが、しゃがみこんで地面を眺めているリアを見て笑った。
「でも、気になるんですもの。こんなに寒いのに、花の種は大丈夫なのかって」
「そのためにあの厚い殻があるんですわ。さあ、風邪をひきますからもう入りましょう」
ティナが中庭から廊下に通じるドアを押したが、ドアは開かなかった。
「あら? おかしいわね」
何度もドアを揺さぶるが、ドアはびくともしない。
リアはドアをノックしてみた。誰かいるかもしれないと思ったのだ。
その時、ドアに開けられた小さな覗き窓が開いた。
その窓から覗いたのは、漆黒の瞳だった。
憎悪に燃えるその目に、リアは見覚えがある。
息を飲んでいる間に覗き窓は閉じた。
隣で見ていたティナも、ドアのかんぬきを下ろしたのがヴィヴィアンだと気づいたようだった。
「姫さま、助けを呼びましょう。大声を出せば、誰かが気づくはずですわ」
ティナが中庭を見回す。中庭は人気のない場所だけれど、二階は吹き抜け部分に窓があり、その窓に面した廊下は侍女たちも通る。
「いいえ、だめよ。騒ぎにしたくないの。誰かが通りかかるのを待ちましょう」
リアは強い口調でティナを止めた。
ヴィヴィアンが自分を憎む気持ちはよくわかる。
もし今、大騒ぎをして助けてもらったら、ダニエルは立場上犯人を追及したり、警備を手厚くしたりしなくてはならないだろう。そして、そのことがきっと余計にヴィヴィアンを怒らせる。
自分が今、少しだけ我慢すれば……。
そうリアは思っていた。
また雪が降り始めた。中庭を吹き抜ける風は身を切るように冷たい。中庭を見るだけのつもりだったから、ティナもリアもそれほど厚着をしていたわけではない。二人は身を寄せ合い、できるだけ壁際に寄って風を避けた。
「姫さま、このままでは病気になってしまわれます。なんとかしてここを出なくては」
「でも……あの人に罪を背負わせたくないの。わたしのせいで、もうさんざん嫌な思いをしていらっしゃるのだもの」
「姫さまだって、あの人のおかげでどれだけ嫌な思いをしていらっしゃるか」
その時、かたんと音がして壁が開いた。
「リア? こんなところで何をしているんだ?」
ジェスの声だった。
隠し部屋から中庭に出るドアがあることを、リアはそれまで知らなかった。
「ジェス……!」
「こんなところにいたら凍えてしまう。早く、中に入るんだ」
リアとティナは、暖炉が暖かく燃えるジェスの部屋に招き入れられた。
安心したために、リアの目からは涙がこぼれていた。
「ジェス、恐かった……もう、誰も助けてくれないかと思った……」
今まで泣きたい時にも泣かなかったリア、泣き言を言わなかったリアが泣いている。
そのことにジェスは驚いた。
そっと抱き寄せると、リアはジェスの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
冷え切った身体が温まりはじめるまで、ジェスはそうしてリアを抱きしめていた。
ティナは暖炉にかじりつくようにして手をかざしながら、
「また、あのヴィヴィアン・ブラックフォードが姫さまに意地悪をしたんですの。中庭に通じるドアのかんぬきを下ろしてしまって」
ジェスも、先日の入水自殺未遂騒動は耳にしていた。
腕の中で泣いているリアに、ジェスは訊ねた。
「どうして、あのヴィヴィアンにそこまで遠慮するんだ?」
リアは目にいっぱい涙をためたまま、顔を上げた。
そして、一瞬ためらった後口を開いた。
「わたし、名ばかりの妻なの。ダニエルさまと、夫婦の契りを結んではいないの」
「姫さま!」
ティナが慌てて止めようとする。リアは首を振った。
「いいのよ。ジェスには聞いてもらってもかまわないと思うの」
ジェスはリアのうるんだ瞳をじっと覗き込んだ。
「リアはまだ乙女だということか?」
「うん。そう。ダニエルさまは、ヴィヴィアンさまにわたしと夫婦にならないと約束したんですって。ダニエルさまの全てはヴィヴィアンさまのものなの。なのに、わたしが名目上の妻としてここにいる。ヴィヴィアンさまがわたしを憎むのも、無理はないことだと思うわ」
「そうか……」
ジェスは風に乱れたリアの髪を撫でた。
その翌日、ダニエルはヴィヴィアンと二人、パーセルに一軒だけあるレヴァン風料理店で昼食を取っていた。
ダニエルは本当はレヴァン料理が好きではない。肉ばかりで野菜も魚もなく、味つけも粗雑だ。デザートも単調で、ぱさぱさした焼き菓子にはほとんど甘みがない。もともと遊牧民であるレヴァン王国の文化は、繊細さと洗練で知られるパーセル地方で生まれ育ったダニエルにとっては粗野に思えた。
そうは言っても、ヴィヴィアンの母親はレヴァン王国の王女だ。ヴィヴィアン自身も幼い頃からレヴァンの文化に馴染んでおり、もし自分がそのレヴァンの料理を貶すようなことを言えば、また彼女の機嫌を損ねてしまうだろう。だから、ダニエルは文句も言わずレヴァン風の料理を食べ続けていた。
「ねえ、ダニエル」
「なんだい?」
羊の焼肉を切っていたダニエルは顔を上げた。
ヴィヴィアンは愁い顔だった。
「父から、レヴァンの王族との縁談を持ちかけられているの。父も母もずいぶん乗り気なようで、あなたとの話がだめになったのだからこの縁談に決めてしまいなさいと言われているの。私、どうしたらいいか……」
ダニエルは眉を寄せた。
ヴィヴィアンの両親は、最初は自分たちの交際に賛成だった。しかし、リア姫を娶ってからはダニエルが姿を見せることにすらよい顔をしない。ダニエルが娘の周囲にいることで、娘がなかなか結婚しないことを心配しているのだろう。それも無理はない、とダニエルは思った。
ダニエルは形の上では既に妻を娶っている。その上、ヴィヴィアンも妻にしたいというのはわがままだとよく分かっている。リア姫と結婚することを決めた時、一度はパーセルのために愛を犠牲にしようと覚悟したのだ。その愛が続いているのは、ただヴィヴィアンの気持ちが冷めないでいてくれるから、それだけの理由だった。
ダニエルは静かに言った。
「ご両親のおっしゃることにも道理があると思うよ」
「ダニエル!」
ヴィヴィアンはナイフを置いて、信じられないという目で彼を見つめた。
「僕はもう結婚している。それが形だけのものだと言っても、どれだけの人が信じてくれる? 仮に信じてもらえたところで、彼女が正妻であることには変わりないんだ。僕には、君が他の男と結婚するのを止める資格がない。だから、君がそうしたいのであればそうすればいい」
「ひどいわ。私が他の人と結婚しても、あなたは平気なのね。私のことも、その程度にしか思ってくれていなかったのね!」
ヴィヴィアンは席を立ち、毛皮襟のコートをひったくるように取って身にまとうと、そのまま店を飛び出してしまった。
ダニエルは後を追わなかった。
追ったところで、また押し問答になるのはわかりきっている。
二、三日経って、ヴィヴィアンの気持ちが少し落ち着いた頃にブラックフォードを訪ねようとダニエルは思った。
リアを娶って以来、ヴィヴィアンとはこんないさかいばかりだ。
悲しげなレヴァンの民族音楽が流れる中、ダニエルは気のない顔で羊肉を口に運んだ。
雪の積もったブラックフォードにダニエルが姿を現したのは、それから数日後だった。
いつものように、特に知らせも送らなかった。
慣れた門番が会釈をする。ダニエルはまっすぐヴィヴィアンの部屋に向かった。
「そうじゃありませんわ。バラージュではこうしますの」
ヴィヴィアンの面白そうな声が耳に入った。
客でも来ているのだろうか、と思いながらドアを開ける。
「ダニエル……」
驚いた顔でヴィヴィアンが立ち上がった。
ヴィヴィアンと同じソファに座り、カード遊びに興じていたらしいのは、レヴァンの民族衣装を着た若者だった。年齢はダニエルと同じくらいだろう。
この男が、ヴィヴィアンの縁談の相手なのだろうか。そして、ヴィヴィアンはその相手との交際を進めることにしたのだろうか。
止める資格がない、と自分の口で言っておきながら、ダニエルは抑えきれない嫉妬を感じた。楽しそうだったヴィヴィアンの声。リア姫を娶ってからというもの、ダニエルが聞いたこともないほど明るい声だった。
「待って、ダニエル。違うの」
ヴィヴィアンの言葉が終わらないうちに、ダニエルは部屋を飛び出していた。
これ以上何も聞きたくなかった。
帰ろう。愛してもいない妻が待つパーセルへ。
膝まで積もった雪の中を、馬車が止めてある広場まで歩く。
二度とこのブラックフォードには来ないかもしれない、とダニエルは思っていた。
馬車に乗り込み、車を出すように命じる。
がらがらと車が走り出した。が、いくらも行かないうちに御者が訊ねた。
「後をご婦人が追ってきますが、止めますか?」
「なに?」
車の中から振り返ったダニエルは、ヴィヴィアンが雪の中を転びながら追ってくるのを見た。
「止めてくれ!」
馬車から飛び降りると、ヴィヴィアンは必死で走り寄ろうとしてまた転んだ。ダニエルも駆け寄って助け起こす。
「ヴィヴィアン、なんて無茶をするんだ」
「だって……ダニエルが行ってしまうと思ったんですもの。もう二度と会えないような気がしたんですもの」
ヴィヴィアンは雪と涙にまみれた顔で言った。
ダニエルは、凍えたヴィヴィアンの身体を抱きしめた。防寒用の衣類もまとっていないヴィヴィアンはすっかり冷え、しかも体中雪だらけだ。
「さっきの人のことを、怒っているの? あんな人、あなたに比べたらちっとも面白くないわ。両親がお相手しなさいと言うから、少しカード遊びに付き合っただけ。それも、ちっともルールなんかわからないのよ。あなたが腹を立てる値打ちもないわ」
「でも、君の声が楽しそうに聞こえたんだ。僕には」
ヴィヴィアンはダニエルの手にそっと触れた。
「忘れようとしたの。あなたのこと」
ダニエルは冷え切った手を包み、暖めようとする。そして、ヴィヴィアンが震えているのに気づいた。
「館に入ろう、ヴィヴィアン。本当に風邪を引いてしまう」
「あなたが許してくれるまでは入らないわ」
ヴィヴィアンは首を振った。黒髪に降り積もった雪が目に痛いほど白い。
「忘れようとしたわ。気持ちを変えようともした。だけどだめなの。あなた以外の誰も、あなたのようには愛せない。あなたが好きなの、ダニエル」
「ヴィヴィアン。僕も、君を愛するようには誰も愛せない。誰も君の代わりにはならない。愛している。僕の気持ちは決して変わらない」
雪が舞い散る中、二人は強く抱き合った。
何度となく嫉妬し、言い争い、すれ違ってきた心がようやく巡り合えた、と二人ともが感じていた。
ダニエルはヴィヴィアンの手を取り、ブラックフォード家の屋敷に引き返した。
二人の足跡は寄り添いながら続き、その上に絶え間なく雪が降り積もっていった。
連日の雪で、リアにはすることがなかった。
なにか面白い本でもないかと、図書館で時間を過ごすことにする。
ティナがあまりの冷えに、なにか羽織るものを取ってきますと部屋に引き返した後、リアは地下の書庫に通じる扉を開けた。
この扉は床にはめこまれており、はしごが地下まで続いている。下からは冷たい風が吹き上がってきた。リアは扉を開けたまま、はしごの途中に立って書庫の壁面にはめ込まれた本棚を眺めた。ずいぶん古い本が多いようだった。
頭上にかつんと足音が響いた。
「ティナ?」
顔を出して上を見上げたリアの目が、ヴィヴィアンの目とまともに合った。ヴィヴィアンはリアの頭上に立っていた。
「ヴィヴィアンさま……」
リアは戸惑った顔で見上げる。見下ろすヴィヴィアンの顔は冷たかった。
「あなたさえいなければ。あなたがいなくなれば、ダニエルは私のものなのよ」
リアが扉のふちにかけた指を、ヴィヴィアンは靴のつま先で力いっぱい踏みつけた。
「あっ!」
思わずリアが指を引っ込めた瞬間、ヴィヴィアンは地下に通じる扉を閉めた。そして、足早に図書館を出て行った。
手を離した拍子にはしごから転落したリアは、整理されていない地下書庫の本の山にどさりと落ちた。そして、墜落したショックで意識を失ってしまった。
書庫の中は凍るように寒かった。
羽織る服を取ってきたティナが図書館に戻ってきたのは、それから少し後のことだった。
「姫さま?」
リアの姿がさっきまでいた一階に見当たらないのに気づいたティナは二階に上がった。しかし、そこにもリアはいない。
「姫さま! どこにいらっしゃいますの!」
大声を上げながら、司書室の中を探す。そこにもリアの姿はない。
ティナは地下書庫の存在を知らなかった。
ティナがまず思いついたのはジェスの部屋だった。司書室の隠し扉からジェスの部屋へ向かう。
「ジェスさま、うちの姫さまはみえていませんか?」
「いや。……リアがどうかしたのか?」
「図書館にしばらく一人で置いておいたら、姿が見えなくなっていましたの」
ジェスも、その時はそれほど緊急事態だとは思っていなかった。
「いずれにせよ、屋敷の中だろう。外はこの大雪だし、リアは黙ってどこかへ行くような娘じゃない」
ジェスの言葉に少し安堵して、ティナは図書館に戻った。しかし、あいかわらずリアの姿はない。そうしている間に三十分近くが過ぎていた。
ティナは部屋に駆け戻ると、他の侍女たちに屋敷中を捜索するように言いつけた。それから執務室に顔を出し、恋人のレオンに事情を話して、補佐官たちにもリアを探してもらうよう頼む。
こうして、リネン室や厨房、召使の寝室に至るまで捜索範囲は広げられたが、リアの姿はどこにもなかった。
ティナは焦りだした。
リアの性格から考えて、黙って一人で街に遊びに行ったりするはずはない。
まして、大好きな本を見ている最中、ティナが羽織る服を取りに行っているとわかっていて姿をくらますはずがない。それに、リアは幼い印象のわりに責任感が強く、姿を隠して侍女を驚かすような真似はまずしそうになかった。
「誘拐されたのかもしれないわ」
焦燥のあまり泣きそうなティナを、レオンは励ました。
「門番が見ていない以上、屋敷の中にいらっしゃるのは間違いないんだ。どこかまだ探していない場所があるはずだよ」
その頃、帰宅したダニエルの耳にもリアの失踪は届いていた。
「十分に捜索させたのか? 人一人消えるはずがない」
苛立たしげに言いながら、ダニエルも不安だった。帝国の皇女が自分の屋敷で失踪したということになれば、ただではすまない。捜索にこそ参加しなかったが、ダニエルも休まず書斎で報告を待っていた。
ジェスは、捜索が大規模になってきてもリアが見つからないことを目を泣き腫らしたティナから聞き、部屋から出る決意をした。
いつも部屋に閉じこもって人に会うことのないジェスにとって、その部屋を出ることには勇気がいる。特に今日は捜索のため多くの人が屋敷の中をうろついているはずだ。しかし、リアが行方不明とあっては放っておくわけにはいかなかった。
図書館の一階に出たジェスは、あてもなく捜索している他のみんなが気づかないことに気づいた。
書庫の入り口近くに積んであった本が崩れているのだ。
ジェスは書庫の入り口になっている床の扉を引き開けた。
一階の床からはるか下、大量の本が無造作に積まれている上に、リアが意識を失って横たわっていた。
「リア……!」
ジェスは素早くはしごを伝い下り、ぐったりしたリアを背負う。
ようやく書庫からリアを救い出した時には、もう午後九時を回っていた。
リアは熱を出していた。
リアが発見された、という知らせを聞いて図書館に向かったダニエルは、リアの額に手を当てている見慣れない青年の姿を目にした。
「誰だ、おまえは!」
ダニエルの声に青年は振り返った。
「この髪を見れば、俺が誰かはわかりそうなものだがな」
青年の髪は見事な銀色だった。
ダニエルは、屋敷に伝わる話をはっと思い出した。
「兄上……?」
「リアの身辺には、もっと気をつけたほうがいい。このまま放置しておくと取り返しのつかないことになりかねない。そうなった時、被害をこうむるのはパーセルの領民だ。……リアはさっき、ヴィヴィアンさまごめんなさい、とうわごとに言っていた。その意味がわかるな?」
黙りこんだダニエルは、銀髪の青年にも意識のないリアにも背を向けて自分の部屋へ向かった。
今日、ヴィヴィアンは確かに屋敷にいた。
そして、たまたま公務があったためにヴィヴィアンの傍にいられなかった時間が一時間あまりあった。
リアの失踪事件が起きた時間と重なっている。
ヴィヴィアンがそんな真似をするとは思いたくない。
けれども、ヴィヴィアンには十分な動機があった。
もしも、ヴィヴィアンがリアを邪魔に思ってこんな行動を取ったとしたら……。
ダニエルは額を押さえた。
そして、人々のひそやかな噂の中でしか知らなかった忌み子の兄との対面。
噂通りの銀色の髪と、胸に刺さる鋭い言葉。
ダニエルは不吉な予感に背筋が冷えるのを感じた。
リアは地下書庫で身体を冷やしたために数日間熱を出した。
何があったのか、という周囲の質問には、手をすべらせて落ちた、と言い張った。
意識のなかった時に自分が口走った言葉のことはまったく覚えていなかったのだ。
ジェスが助けてくれた、という話を聞いて、リアは感謝し、申し訳なくも思った。
かつて、リアが皇帝も銀髪だという話をしてからも、ジェスは隠れ住んでいる部屋から出てくることはなかった。だから、リアも禁忌とされている銀髪を人目にさらすのが嫌なのだろうと思っていた。
そのジェスが図書館までとはいえ、多くの人が集まっている中に姿を見せ、自分を助けてくれたのだ。
熱が下がり、医者がもう大丈夫と保証すると、リアはさっそくジェスのところへお礼を言いにでかけた。
「もう具合は大丈夫なのか? リア」
ジェスはいつもの優しい目でリアを眺めた。
「もう平気よ。ありがとう、ジェス。わたしを助けてくれて。この部屋から出てまで探してくれるなんて思わなかった」
「あの書庫の存在を知っている者は多くないからな。もっと早く見つけてやれればよかったんだが」
ジェスはリアの紫水晶の目を覗き込んだ。
「ヴィヴィアンに閉じ込められたんだろう?」
「!」
リアは誰にも知られていないと思っていた秘密を言い当てられて目をみはった。
「どうして……?」
「地下から引き上げる時に、うわごとでヴィヴィアンに謝っていた。だからそうだろうと思ったんだ」
リアは目をうるませた。
「ヴィヴィアンさまはね、わたしさえいなければ……ダニエルさまは自分のものになるって、そう言ったの。どんなに本気か、わたしにはよくわかったわ。わたしは何も知らずにパーセルに嫁いできたけれど、そのことでヴィヴィアンさまは愛する人を奪われ、ずっと辛い思いをなさっているのよ」
「だが、それはリアのせいじゃない。ヴィヴィアンというものがありながら、リアを妻に迎えることにしたダニエルのせいだ。しかも、リアを中途半端な立場にしたまま、ヴィヴィアンとの関係も続けている。責任を問われるべきはダニエルなんだよ」
ジェスは真剣な表情で言った。リアはうつむいた。
「もし、帝国とパーセルの関係のことがなかったら、わたしはすぐにでも帝国へ帰るわ。それでダニエルさまとヴィヴィアンさまが幸せになれるというのなら。だけど、わたしが帝国に逃げ帰ったりしたら、パーセルは……。お兄さまはきっと何かの報復をなさるわ。穀物を十分に輸入することができなくなって、領民が飢えるかもしれない。そんな無責任なことはできないの」
「リアは、パーセルのことを大事に思ってくれているんだな」
ジェスは、リアの金色の髪をそっと撫でた。
「パーセルは大好きよ。とても素敵な街だから。それにね」
リアは無心な微笑みを見せた。
「ここにはジェスがいるもの。わたしね、ジェスが大好き」
幼い子供のようなあどけない言葉に、ジェスはかすかに苦笑する。
自分の言葉が相手にどんな影響を及ぼすのか、少しも気づいていないリアの無邪気さに。
第三章
その朝もひどく冷え込んでいた。
いつものように、リアの朝食が並べられる。
とは言っても、すぐにリアが食事を口にできるわけではない。毒見役の侍女が口にして数分待ってからだから、リアが食べる時にはぬるくなってしまっている。
いつものように毒見役のエルゼがスプーンに一杯ずつスープやミルクを毒見し、パンやバターに至るまで調べていく。
それは日常の光景になってしまっていたから、エルゼが咳き込んだ時もむせたのだろうくらいにみんなが思っていた。エルゼの口から血が吹き出すまでは。
「エルゼ! どうしたの!」
真っ先に気づいたのはリアだった。近づこうとするリアをティナが止める。エルゼは胸をかきむしるようにした後、動かなくなった。
「ハンナ! 医者を、早く!」
ティナに命じられて、二番手の侍女であるハンナが部屋を飛び出した。
「エルゼは……だいじょうぶなの?」
リアは震えながら訊ねた。
答えられる者は誰一人いなかった。
屋敷に常駐している医師はすぐに駆けつけ、エルゼはもう死んでいると告げた。
エルゼが手をつけた食事は、リアが連れてきている料理人ではなく屋敷の厨房で作られたものだった。
すぐさま警備兵たちが料理人を改める。台所に勤めている者たちも一様に調べを受けた。
家族同然に暮らしてきた侍女を失ったリアの衝撃は大きかった。しかも、自分が食べるはずのものを毒見していて死んだのだ。自分の身代わりになったと言ってもいい。
泣いているリアを慰めきれなくなったティナは、ジェスのところへ行くように勧めた。
ジェスの部屋に入るなり、リアはまた泣きだしてしまった。
「どうした、リア。また何かあったのか」
まだ事情を知らないジェスは心配そうにリアの顔を覗き込んだ。
「侍女のエルゼが死んだの……わたしの朝食の毒見をして。毒が入っていたの」
「なんだって!?」
ジェスは思わずリアの手を握りしめた。
「リアの食事に毒が入れられていたのか?」
「そうなんですの」
傍にひかえていたティナが低い声で言った。
「一口ずつ毒見していたエルゼがあっという間に死ぬような猛毒でした。リファーナとか申しますそうで」
ジェスはリファーナ、と口にした。
「レヴァンの地に生える毒草だ。レヴァンの民に伝わる方法で精製すると、牛でも一口で倒れる猛毒になると聞いたことがある」
「レヴァンの手先が姫さまを殺そうとしたということですの?」
ティナの質問に、ジェスは首を振った。
「いや。政治的な問題じゃないだろう。ともかく、犯人がわかるまではリアの食事に気をつけることだ。食事だけじゃない、身のまわりにもだ。知らない人間を近づけてはいけないし、見慣れないものも触ってはいけない。どんな形で仕掛けられるかわからないから」
リアは泣き腫らした目でジェスを見上げた。
「わたし、ここまで怨まれているの……? 死ねばいいと思われるほど……?」
そしてまた泣き崩れた。
そっとリアを抱き寄せながら、ジェスは思った。
リアは気づいている。誰が毒を盛ったかに。
俺も気づいている。だが、何一つしてやれない。
リアを守ってやることも、犯人を捕らえることも。
「俺に、力があれば。自由にできる手勢があれば」
無意識にジェスはつぶやいていた。今ほど、自分の無力が恨めしいと思ったことはなかった。
その時、ティナがすっと耳元に近づいてきてささやいた。
「もし、姫さまを守ってくださるのでしたら……そのお望み、かなえてさしあげます」
視線が合い、ジェスはティナの考えを知った。
そして、躊躇いもなくうなずいた。
屋敷の中は大変な騒ぎになっていた。
単に領主の奥方というだけではない、帝国の皇女が毒殺されかかったのだ。
もし、リアが本当に殺されていたら、帝国からどんな非難を受けるかわからない。
たまたま屋敷にいたダニエルも、この事件には震え上がった。
身元のはっきりしない使用人は、現在のところ一人だけだった。
つてを頼って厨房に雇われたばかりのレヴァン人の娘だ。
毒がレヴァン人の使うものだということもあって、厳しい取調べが行われたが、娘は声一つ上げなかった。
そして、その夜のうちに舌を噛んで自殺してしまった。
証拠もない以上、これ以上どうすることもできない。
ダニエルは、リア本人の身になにごともなかったのを幸いに事件をうやむやにしてしまった。
リアは、エルゼの棺を船着場まで見送った。
パーセルの街の近くを流れるリース川は、やがて帝国領に流れつく。そこから馬車で運ばれ、帝国にいる家族のもとへ送り届けられる。
「さようなら、エルゼ。天空の国で、また会いましょうね」
エルゼの乗せられた船を見送って、リアは涙を拭った。
その日の夕方、そろそろ仕事も一段落しようとしていた執務室に、ジェスが姿を見せた。
灰色の髪をした、痩せた家令が紹介する。
「この方はダニエルさまの兄上、ジェスさまだ。私は家庭教師としてお仕えしたことがある」
ティナの恋人であるレオンも見知った相手という表情だが、それ以外の補佐官たちは禁忌とされる銀の髪にいささか怯えた顔をしている。
ジェスは静かに口を開いた。
「これまで、私は家のことには口出ししないことにしてきた。だが、リア姫の毒殺未遂事件を知って、このままではパーセルにも大きな影響が出かねないと思いこうして表に出てきた」
補佐官たちは、いつの間にかうやむやにされてしまった事件のことを持ち出されて顔を見合わせる。みんな、この事件が帝国に知れては大変なことになると憂慮していた問題だ。
「今回の事件だけではない。前々から、リア姫はこのパーセルの奥方としてふさわしい待遇を受けていない。こうした状況が帝国に伝われば、その影響はパーセルの領民がこうむることになる。帝国との関係の悪化は、そのままパーセルの不利益だ。おまえたちはそうは思わないか」
「それはその通りです」
一人の補佐官が答えた。
「しかし、ダニエルさまが我々の意見を聞き入れられない。このままではいけないと申し上げても、取り上げてはもらえないのです」
「我々もこの状況に納得しているわけではないのです」
補佐官たちは口々に言った。
「わかった。おまえたちがパーセルのためを思って働いてくれていることはよく理解した。私は私なりに、今の状態を改善できないか努力してみるつもりだ」
ジェスの言葉に、補佐官たちの間から拍手が起きた。
隠れて生きてきた長男が、初めて表の光を浴びた瞬間だった。
小間物売りのクルトは、帝国行きの船に乗り込もうとしていた。
リース川や運河を使って運ばれてきた荷物が船に載せられる。その中に立派な棺があるのを見つけて、クルトは嫌な顔をした。
「あれが暗殺未遂事件で命を落とした侍女の棺か……かわいそうに」
クルトは遠ざかるパーセルの館を眺めた。
「姫さんを殺そうとしたのは、まず間違いなくブラックフォードの娘だろうな。女の嫉妬は恐ろしいもんだ」
はしけから船に乗り移り、クルトはしばらく離れることになるパーセルの街に目を向けた。
次に訪れる時には、どんな状況になっていることだろう。
帝国に向かう船は、着々と出港の準備を整えていた。
ジェスはパーセルの街を歩いていた。
通りすがりの者が驚いて振り返り、彼を見送る。思わず悲鳴を上げる若い娘もいる。
そんなことは、今のジェスには気にもならないことだった。
「おい、おまえ!」
目を上げると、腰の引けた若者がこちらを指さしていた。
「銀髪の者はこのパーセルにはいられないんだぞ!」
ジェスは静かに微笑んだ。
「それは昔の話だ。ドレクバルド帝国の皇帝が銀髪だという話を、おまえは知らないのか? このパーセルが帝国の友好都市となった今、皇帝を辱めるようなしきたりを続けていくのはパーセルのためにならないと思うが?」
相手は押し黙った。
ジェスは無視して先を急ぐ。
このところ、街にある役所に顔を出すようになっていた。
館の執務室は最終決済を行うところで、実際の商業的な事務などは街の役所で行われている。その仕事ぶりを目にし、勉強するのがジェスの目的だった。
毎日役所に通ううちに、ジェスの姿を見て驚いたり、騒いだりする者の数も確実に減っている。
今日は役所に行く前に寄りたい場所があった。
店の並ぶ通りに入り、写本屋の中に入る。奥では、写本をする職人が忙しく働いていた。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょう?」
店の主人は商売人だけに、見慣れない銀髪の男にも如才なく挨拶をする。
「マホニーの『歌わない小鳥』の写本を。贈り物なので、できるだけ凝ったものにしてほしい」
その言葉に、ジェスのすぐ横にいた、痩せてそばかすだらけの男が顔を上げた。
「やあ、僕の本をご所望なんですか。うれしいなあ」
「あなたがマホニーなんですか?」
ジェスは意外な遭遇に驚いた。マホニーは満面の笑みでうなずいた。
リアは、ジェスが表に出るようになったことを素直に喜んでいた。
ジェスが外に出るようになった理由ははっきりわからなかったけれど、館の中でジェスの居場所ができていくのを見るのは嬉しかった。
そんな、ある小春日和の日、ジェスはリアに遠乗りに行かないかと誘った。
「でも、いいのかしら」
リアがためらうと、ティナはつばの広い帽子をかぶせてくれた。
「これで誰だかわかりませんわ。たまには外で気晴らしをなさるのもいいことですよ」
ティナがついて行くと言わないのも珍しかった。
パーセルの街のほとりを抜け、りんご畑の続く丘で馬を止めた。
今日は本当にいい天気だ。リアは少し汗ばんでいた。
りんごの木の下で、持たせてもらったお弁当を広げる。中身はサンドイッチだった。毒見なしで食事をするのもどれくらいぶりだろう。
「今日はとても自由になった気がするわ」
リアは水筒の紅茶を飲みながら外の風に目を細めた。
「リアは、なにもかもから逃げ出してしまいたいとは思わないのか?」
ジェスはサンドイッチを片手に訊ねた。
「思うわ。もしできることなら、なにもかもから逃げ出して自由になりたい。でも、それはできないことなの」
「なぜ?」
リアはため息をついた。
「それは、わたしが皇女に生まれついたから。その時から決まっていたの。わたしはいつか、顔も知らない相手のところへお嫁に行く。その相手はこのパーセルの領主かもしれないし、違う大陸の言葉も通じない相手かもしれない。選ぶことはできないの。わたしはね、駒のようなものなのよ」
「その運命から逃げ出そうとは?」
「思わない。ううん、できるとは思えない。それをするには、わたしはあまりにも無力だから。そして、わたしの無責任な行動の責任を他の罪もない人たちが取らされるからなの。わたしね」
リアは振り返ってジェスに微笑みかけた。
「何気ない時間が欲しい。ただこんなふうに何も特別なことのない時間が、ずっと穏やかに過ぎていってほしい。それだけなの」
「そうか……。リアは欲がないな」
「欲張りよ。みんなが幸せで仲良くしてほしい、って思っているもの。現実にはそんなことは不可能だとわかっていても」
その一日は、本当に穏やかで何もない一日だった。
後で振り返った時、あんな平和な日はこれが最後だったのではないかと思われるほどに。
パーセルの街の一角にあるティールームで、ダニエルはヴィヴィアンと話をしていた。
「あの人には結局何もなかったんでしょう? だったら別にいいじゃない」
ダニエルが話していたのは、リアの毒殺未遂事件だった。
ヴィヴィアンは興味なさそうにそっぽを向く。
「幸い彼女が無事でいてくれたから良かったようなものの、もし僕の館で帝国の皇女が毒殺されでもしていたら、僕もこのパーセルもただではすまなかっただろう。本当にぞっとしたよ」
ダニエルは、不機嫌そうなヴィヴィアンに念を押した。
「これは、僕自身の立場に関わることなんだ。あの人の身に事故や事件が起きれば僕の責任にされるんだから。だから、それにやきもちをやいたりしないでほしいな」
「わかったわ。あの人が無事でいないとダニエルが困るのね」
ヴィヴィアンはつまらなそうに言った。
「しばらくの間、ブラックフォードで会うことにしないか? このパーセルだと人目があるし、僕もあの人と離れている方が、君につまらない疑いをかけられずに済むからね」
「ええ……いいわ」
ヴィヴィアンは賑やかで楽しいパーセルから離れるのは残念だったが、ダニエルとリアができるだけ会わないようにする方がもっと大事だと思った。
そして、リアが毒殺されれば領主であるダニエルに影響があるということを全く考えていなかった自分のうかつさを怨んだ。目をかけていたレヴァン人の娘も自害させてしまった。ただ、リアさえいなくなればいいと思っていたのは短絡的すぎたのだ。
ダニエルは何日もブラックフォードに滞在し、たまにパーセルに戻るという日々が続くようになった。
領主としての仕事は家令がやってくれている。自分がいちいち指図するまでもない。
ダニエルはそう考えていた。
自分の留守に、領主同然の顔で采配を振るうようになっている人間がいるとは、ダニエルは思ってもいなかった。
リアの部屋に、ジェスが顔を見せた。
「ジェス! 珍しいわね、ジェスの方からわたしのところに来るなんて」
「今日は、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと?」
ジェスは、一枚の書類をリアの前に広げた。小麦の買い付けに関する書類だった。
「あら。これは、わたしの領地で栽培している改良種の小麦の話ね」
「リアはいい領主さまだ」
ジェスは冗談っぽく言った。
「この改良種の小麦、パーセルにも合うと思うんだ。リアの領地から種を買い付けたいんだが、安く譲ってくれないかと思って」
リアはにっこりした。
「ええ! わたしの領地はパーセルと気候が近いから、きっと合うと思うわ。荘園の畑に蒔けるだけの種もみを送らせるわね。最初の一年はいわば実験だから、お金はいらないわ」
「いいのか?」
「わたしができることってあまりないもの。こういう時は役に立ちたいわ」
ジェスは子供にするようにリアの頭を撫でた。
「ありがとう、リア。パーセルの領民がきっと喜ぶよ」
執務室に戻ったジェスは、家令にリアの言葉を伝えた。
「あの改良種の小麦は病虫害にとても強いらしい。まずは荘園だけでも試しに育ててみるのがいいと思うんだ」
「そうですね。あれはいい品種です」
灰色の髪をした、痩せたこの家令は、ジェスを幼い頃から教えた家庭教師でもある。
「最近、ダニエルさまがなかなか帰って来られないので、許可をもらうまでにずいぶんかかってしまうんですよ」
家令がぼやくように言った。ジェスは小声で、
「そのくらいのこと、おまえの判断でやってしまってもいいだろう。悪いことをするわけでもないのだし、リア姫の領地から無償で入るものだ。問題あるまい」
「そうですね……」
家令はうなずいて、領主の机から判を取ると書類についた。
リアは、いつものように寝室から居間へ出たところで足を止めた。
テーブルに飾られた花に目が釘付けになる。
「誰!? 白百合をこんなところに飾ったのは!」
悲鳴に近いリアの声に、侍女たちがはっと振り返った。
「まあ、縁起が悪い!」
ニーナが眉をしかめて白百合が生けられた花瓶を見た。
帝国では、白百合は葬儀の時にしか用いられない花だ。死者に手向ける花としてだけ用いられる。普段、このように部屋にいけられることはまずない。
「誰も知らないの?」
ティナが他の侍女たちを見回したが、みんな首を横に振るばかりだ。
リアは目に涙を浮かべて百合を見ていたが、突然身をひるがえして寝室に飛び込むと、中から錠を下ろしてしまった。
「姫さま!」
ティナがドアに飛びつき、何度もノックする。
「姫さま、ここをお開けください。姫さま」
リアは泣きじゃくりながら拒んだ。
「いや! もういや! こんなことまでして、わたしをここから追い出そうとする人がいるのに……外になんか出たくない!」
ベッドにもぐりこんで、リアは耳をふさいでしまった。
侍女たちは為すすべもなく、顔を見合わせるばかりだった。
しばらくの間、ドア越しに説得を続けていたティナは、ハンナに後を任せて部屋を出た。
リアが言うことを聞いてくれない時、頼りになるのがジェスしかいないことをティナは経験で学んでいた。
物静かで冷静な、そして自分と同じようにリアを大切に思ってくれている人。
もしかしたら、リアを今の境遇から救い出してくれるかもしれない人。
ティナはそう期待していた。
通いなれた隠し通路を通ってジェスの部屋に向かう。
このごろでは、ジェスはこの部屋にいないことが多かった。まだ朝早い時間であることを頼みにドアを開ける。
「ティナ。今日はおまえだけか?」
幸いなことにジェスはまだ部屋にいた。
ティナは困りきった顔をしてジェスに近づいた。
「姫さまが寝室に閉じこもってしまって、話も聞いてくださらないんですの。ジェスさまになんとか説得していただけないかと思いまして」
ジェスはちょっと驚いた顔をした。
「あの物分りのいいリアが、部屋に閉じこもっているだって? いったい何があったんだ?」
「部屋に白百合が飾ってあったんですの。こちらではどうか存じませんが、帝国では白百合は葬儀の時に死者に供える時にしか使わない花で、たいそう縁起が悪いのです。それで姫さまはご機嫌をそこねてしまわれて……」
「なるほどな」
ジェスはすっと立ち上がった。
「説得できるかどうかはわからないが、やってはみよう」
「ありがとうございます」
部屋を出ていきかけて、ジェスはふと立ち止まった。
「例の話、手配はしてくれたのか?」
「ええ。準備中です」
そして、二人は急ぎ足で部屋を出て行った。
リアの居間に戻ると、侍女たちは相変わらずリアを説得しようと代わる代わる声をかけていた。
ジェスは寝室のドアに近づき、リアに聞こえる程度の声をかけた。
「リア?」
「……ジェス」
かすかな答えがあった。
ジェスは、目の前にリアがいるかのように優しい表情で話しかけた。
「リア、このバラージュ王国では、白百合は普通の花なんだ。部屋にも生けるし、花嫁のブーケにも使う。縁起が悪いことなど少しもない。誰が生けたにせよ、バラージュ人であればなんの悪意もなかったはずだ」
「……」
リアは黙っている。ジェスは話を続けた。
「帝国では縁起が悪い花だという話は聞いたよ。リアがショックだったのもよくわかる。だけど、考えてみてほしい。白百合という花がバラージュでは普通の花なのに、帝国では縁起が悪いものとして扱われること……俺には他人事でないような気がするんだ。俺はこのパーセルでは不吉な存在だ。帝国に行けば、当たり前の存在になれるというのに。それと同じだとリアは思わないか? 俺に優しくしてくれたように、白百合も場所が変われば普通の花だと、許してやってはくれないか?」
衣ずれの音がして、寝室のドアが開かれた。
目を泣き腫らしたリアが、気まずそうな顔をして出てきた。
「リア」
リアはジェスを見上げて、小さくうなずいた。
「ジェスの言う通りだわ。わたし、ここがバラージュで、風習にも違いがあることを考えていなかった。花の意味ひとつでも、国によって違うものなのね。このお花を生けてくれた誰かは、きっとわたしのためにしてくれたことなのに……誤解して騒いだりして、悪いことをしてしまったわ。ありがとう、ジェス」
「リアがすぐにわかってくれてよかった」
ジェスはいつものようにリアの髪を軽く撫でた。リアは撫でられた子猫のように目を閉じた。
リアに別れを告げて、執務室に向かう大階段を下りていったジェスは、屋敷に古くから仕える侍女の一人に呼び止められた。
「あの……百合を生けたのは私なんです。誤解を解いてくださって、本当にありがとうございました」
泣きそうな顔の侍女に、ジェスは穏やかな笑みで答えた。
「ちょっとした行き違いだ。リア姫ももう気にしておられないから、安心するといい」
「はい!」
侍女は屋敷の奥へ行ってしまった。
それを見送って、ジェスは思う。
置かれた環境によって物の意味は変わる。そして、自分という存在の意味も、変わろうとしている。
ジェスは執務室に入っていった。
街のざわめきがティールームまで聞こえていた。
ブラックフォードの街は、レヴァンとの交易で栄えている。とはいえ、レヴァンは遊牧民の国で、売るものといえば馬と羊、それに羊毛や毛皮がほとんどだ。買い付けていくものも穀物が中心で、同じ交易都市といってもパーセルとは雰囲気が全く違う。
馬や羊の匂いがむっと漂い、異国風の衣装を着たレヴァン人たちが行きかう。聞こえてくるのは動物の値段を競り合う荒々しい声だ。
街に唯一あるこのティールームも、交易人たちが多く席を占め、パーセルの洗練された雰囲気とはまったく違っていた。
ヴィヴィアンはタルトを切りながら眉をひそめた。
レヴァンの王女を母に持つことを誇りにしていながら、ヴィヴィアンはレヴァン人との交流をそれほど好んでいない。文化的に劣る、粗野な人々だと内心では思っている。
そのレヴァンの雰囲気を濃厚に持ったブラックフォードの街も、ヴィヴィアンの故郷ではあるがあまり好きにはなれない場所だった。
このティールームだって、全然垢抜けない。ケーキもレヴァン人好みの甘みの少ない味で、たまに食べるのは新鮮でいいが、このところダニエルとのデートはいつもブラックフォードなのでいい加減飽きがきていた。
そもそも、ブラックフォードには見るべきものがほとんどない。
劇場やさまざまな店の並ぶパーセルが恋しかった。
「ねえ、ダニエル」
でも、今日はいい知らせがある。
そう思うと、ヴィヴィアンの気持ちは少しだけ明るくなった。
「なんだい?」
「この間話した、レヴァンの王族との縁談、断ったの。両親も私がどうしても嫌だと言ったら折れてくれたのよ」
「そうか……よかった。安心したよ」
テーブルの上で、二人はそっと手を取り合った。
「いつか必ず、あなたと結ばれたい。わたし、その日を信じて待つわ。いつまででも」
「ああ。必ず、いつかは。約束するよ」
ヴィヴィアンはちょっと甘えた表情でダニエルを見上げた。
「ねえ、ダニエル。やっぱり、パーセルで会うことにしない? ブラックフォードは垢抜けていなくてつまらないわ」
「パーセルでかい?」
ダニエルはふっと不安な顔をした。ヴィヴィアンは明るく笑った。
「だいじょうぶよ。私、もうやきもちを焼いたりはしないわ。あなたが心配なら、屋敷の方には近づかなくてもいいわ。ねっ、いいでしょう?」
ダニエルはその言葉を聞いてうなずいた。
もともと、ヴィヴィアンを本気で疑っていたわけではない。彼女がやきもちを焼かないというのであれば、今まで通りパーセルで会ったほうが彼女を喜ばせられるだろう。
第四章
リアの誕生日は、十二月も半ばを過ぎた頃にやってきた。
その日の朝、まだリアが居間に出たばかりの時間にジェスが顔を見せた。
「誕生日おめでとう、リア」
「ありがとう、ジェス」
リアはいつものようにあどけない微笑みで迎えた。
ティナの恋人である補佐官のレオンが、大きな箱を二つ抱えてきて部屋に運び入れた。
「俺からのプレゼントだよ。気にいるかはわからないけど」
そして、手に持っていた小さな包みをリアに渡す。
リアは小さな包みから開けてみた。
中には、一冊の本が入っていた。
「『歌わない小鳥』の写本ね! とても綺麗だわ」
リアは目を輝かせてページをめくった。挿絵がふんだんに入れられた美しい本だ。
最後のページで、リアはふと手を止めた。
「あら……? この写本、最後に知らない台詞があるわ」
ジェスは微笑んで、
「それは、作者が最後の台詞としてどちらにするか迷ったものだそうだ。結局現在の形になったわけだが。実は、作者に写本屋で偶然会って、リアに写本を贈るという話をしたんだ。そうしたらとても喜んでね。是非その台詞を付け加えて献上してほしいと依頼されたので、その形になったわけなんだ」
「マホニーに会ったのね! うらやましいわ。この台詞もとても意味深い。もともとの台詞に比べると、結果がわかっていて、それでもあえてそうしたんだということが強く感じられるもの」
「俺もそう思うよ。同じ悲劇と言っても、ずいぶん印象が違ってくるだろうね。さあ、残りの箱も開けてごらん」
リアは大きな箱の包装を解いた。
中から出てきたのは、とても精緻に作られた人形だった。リアの宝物の人形とほぼ同じくらいの大きさだが、細工物で知られたパーセルで作られただけにより美しく、本物の人間のように生き生きとしていた。
「なんて綺麗なの! これがお人形だなんて信じられないくらいだわ」
リアは嬉しそうに人形を抱き上げた。
「リアなら、十八歳になってもちゃんと可愛がってくれるだろうと思ったからね」
ジェスはリアの喜ぶ顔を眺めながら言った。
もう一つの箱は人形の衣装や小物だった。こんな点でもジェスは周到だった。人形屋に注文する前に、ティナに頼んでリアがもともと持っていた人形のサイズを測らせておいたのだ。だから、新しい人形はリアが持っていた人形の服も着せることができた。
しかし、リアは新しい衣装の方に夢中だった。バラージュ風の華麗なドレスや毛皮を使ったコート、革でできた靴まで揃っている。衣装の枚数も豊富にあった。
「こんな素敵なプレゼントをもらったのははじめてよ。ほんとうにありがとう」
「リアが喜んでくれてよかった」
ジェスは幼い妹にするように、リアの髪を撫でた。
その日は、あちこちから贈り物が届いた。
帝国からも大量のプレゼントが送られてきた。
ダニエルからは、リアの持っているどの服にも合わないネックレスが一つ贈られただけで、しかも本人は姿を見せなかった。
しかし、リアはそんなことを気にする様子もなかった。
帝国から送られた菓子を家令や補佐官たちに振る舞い、厨房で作られたバラージュ風のディナーを楽しんだ。
そして、ジェスに贈られた新しい人形を抱いて眠りについた。
誕生日の翌日、リアはティナに言いつけて帝国から送られた服地をダニエルのところへ運ばせた。
「お気に召したものがありましたら、お洋服を作らせてください」という口上をつけて。
リアの予想通り、服地はそのまま送り返されてきた。
「姫のお好きなものを作ってお召しください」というメッセージが添えられていた。
しかし、リアがダニエルに贈ろうとした生地はどれも男物だ。
ティナが、どうしようかと考えていたリアに提案した。
「ジェスさまにお洋服を作ってさしあげたらいかがです? 特にいいお召し物をお持ちでもないようですし」
「いい考えだわ、ティナ。さっそく仕立て屋に準備をするように伝えてちょうだい」
リアは帝国から連れてきていた専属の仕立て屋を呼び、執務室にいたジェスを部屋に呼んだ。
服が仕上がったのは三日後だった。
デザインは帝国風だったが、生地が上質だったのと仕立て屋の腕がよかったおかげで、服はジェスによく似合った。
リアは大喜びでジェスを見回した。
「せっかくだから、それを着てお出かけするといいわ」
ジェスは微笑んで、
「それなら、リアも一緒に出かけないか?」
「わたしも? いいの?」
ティナがうなずいて同意した。
「姫さまはこのごろパーセルの街には出かけていらっしゃらないでしょう。たまにはお出かけなさったらいかがです?」
「行きたいわ!」
「じゃあ、支度をしておいで。俺は待っているから」
リアは早速部屋へ戻り、外出の支度をした。
「ティナは行かないの?」
よそ行きを着る様子のないティナに訊ねると、ティナは笑った。
「ジェスさまが姫さまのお守りをしてくださるのなら、私たちがついて行くには及ばないでしょう。ゆっくりしていらしてくださいな」
リアはパーセルに来てから仕立てたたくさんの衣装ではなく、あえて帝国から持ってきたドレスを選んだ。ジェスの服が帝国風のデザインだったから、その方がふさわしいように思えたのだ。その上に毛皮をたっぷり使ったコートをまとう。
二人が楽しそうに出かけていく様子を、ティナは微笑ましく見つめていた。
ジェスがパーセルの街に出るようになって、まだそれほどの日がたったわけではなかった。それでも、目ぼしい場所は大体知っていて、リアをエスコートするのに困ることはなかった。
「どこか行きたいところはあるかい?」
ジェスに聞かれたリアは、ちょっと考えた。
「わたし、外でものを食べたことがないの。ティナがとてもうるさいから」
「そうか……ちょうどお茶の時間に近いから、ティールームにでも行ってみるか」
「行きたいわ」
ジェスは、水路に面したティールームの階段を登った。
二階に上ると、広々としたティールームに出た。カウンターの傍にあるケースには、おいしそうなケーキが何種類も並んでいる。
こんな店を見たことのないリアは、珍しそうにあたりを見回した。
オーダーを取りに来たウェイトレスが、ケーキの見本を差し出した。
「今日のケーキはこちらになっております」
「好きなのを選ぶといいよ、リア」
リアはちょっと迷ってから、パーセルの南でよく取れるいちごが乗ったケーキを選んだ。ジェスはりんごのケーキを選ぶ。
運ばれてきたケーキは美味しかった。
帝国風の、カクテルを含ませた重いケーキを食べなれていたリアにとって、ふんわりと軽く、柔らかなクリームが乗ったバラージュ風のケーキは新鮮な驚きだった。いちごの甘みと酸味も帝国では味わえないものだ。
「まるで、ケーキがお皿から飛んでいってしまいそうだわ」
リアはふわふわしたスポンジにフォークを刺しながら言った。
「リアは、バラージュ風のケーキが気に入ったみたいだね」
ジェスはぱりっと焼けたアップルパイを切りながら訊ねた。
「ええ! 帝国風のケーキは重くて、あまり美味しくないの。毎日こんなケーキが食べられたらいいのに」
「よかったら、バラージュ風のケーキを作る菓子職人を手配してあげよう。そうすれば、毎日でも食べられるよ」
リアは目を輝かせた。
「ほんとう? 嬉しいわ。でも、ティナがいいって言うかしら」
「大丈夫だよ。確かな筋から紹介させるから。つまり、パーセル育ちのレオンに手配してもらおうと思っているんだ」
レオンはティナの恋人だ。リアは、ジェスの周到さに思わず笑った。
ゆっくりしたお茶を楽しんで、二人が店を出ようと階段を下りていった時、ちょうど下から上がってくるカップルと鉢合わせた。
「……ダニエルさま」
相手は、ダニエルとヴィヴィアンだった。
リアはヴィヴィアンに怯え、ジェスの陰に隠れるように立つ。ジェスはリアを庇う形になった。
ダニエルはしばらくの間二人をじっと見つめていたが、やがて顔をそむけて階段を登っていった。ヴィヴィアンも、珍しそうにジェスをじろじろと見ながら後に続いた。
二人が見えなくなると、リアはほっとため息をついた。
「めったに会うことがないのに、こんな場所で出会うなんて」
「気にすることはないよ。悪いことをしているわけじゃないし」
ジェスはリアを促して店を出た。
ティールームに席を取って、ダニエルは改めてさっきの光景を思い出した。
自分の目を避けるように、ジェスの背中に隠れていたリア。そのリアを庇うように立つジェス。
もちろん嫉妬ではない。あの姫にそんな感情を持つ理由は何もない。ただ、正式な自分の妻が、忌み子である兄と二人で堂々とパーセルの街をうろついていたのが気に入らないのだ。
兄。
ダニエルはいまいましい気持ちで思い返した。
あの銀髪の兄は、自分が物心もつかないうちに屋敷のどこかへ閉じ込められたと聞いていた。そして、その存在は知っていたけれど会ったこともなく、意識することもなかった。
その兄に初めて会ったリア姫の行方不明事件以来、影に隠れていたあの兄が表に出てきている気がしてならない。
リア姫は兄になついている。それは間違いない。行方不明事件の時も、兄は既にリア姫のことをよく知っているようだった。今日も、普段なら侍女なしには屋敷の中すら歩かない姫が兄と二人で出歩いていた。それは深い信頼を表している、とダニエルは思う。姫だけではない、侍女たちからも厚く信頼されている。
「ずいぶんと気にかかっているようね?」
ヴィヴィアンの声にはっと我に返った。
ヴィヴィアンはケーキを選び終え、ウェイトレスがオーダーを待っている。ダニエルは慌ててプディングを注文した。
「あの男の人、どなたなの? ずいぶんお姫さまと親しそうだったけれど」
「兄だよ」
ヴィヴィアンの目にもやはり親しげに見えるのか、と思いながらダニエルは機械的に答えた。
「お兄さま、って姫さまの? それともあなたの?」
「僕のだ。あの髪を見ただろう? 忌み子として、ずっと屋敷の奥深くに隠れ住んでいたんだ。それが最近になって、妙に表に出てくるようになったんだ」
ヴィヴィアンは唇をとがらせ、ふうん、とつぶやくように言った。
ケーキが運ばれてくる。ヴィヴィアンはお気に入りのチョコレートケーキに手をつけながら、意味深に言った。
「あの二人、ずいぶん親しげだったじゃない? 知らない人が見たら、きっと恋人同士だと思うわよ。あなたが留守にしている間に、思いもよらないところまで進展しているんじゃなくて?」
「馬鹿な。あれでも義理の兄妹だ。街に出かけるくらいのことはしてもいいだろう」
ダニエルは、ヴィヴィアンに反論するというよりも自分を落ち着かせるように言った。ヴィヴィアンは眉を上げた。
「あら、そんなことわからないわよ。男と女のことですもの。兄妹と言ってもしょせんは義理なんだし、あなたがかまってあげないお姫さまをお兄さまが気の毒に思われたのかもしれないでしょう?」
ダニエルは言葉に詰まった。自分自身、それを考えていないわけではなかったのだ。
ヴィヴィアンは声をひそめてささやいた。
「あなたが悪いのよ。いつまでも煮えきらずに、あの方も放っておくし、私のことも中途半端にしておいたから。……だから、こんなみっともないことになってしまったんだわ。領主の妻がその兄と曖昧な交際をしているなんて噂が立ったら、みっともないと思わないの?」
「曖昧な交際だなどと……。ただ街でお茶を飲んでいただけのことじゃないか。大げさすぎるよ、ヴィヴィアン」
視線をそらしたダニエルに、ヴィヴィアンは低い、しかし強い口調で迫った。
「きっぱり離婚してしまったらいいのよ。これはいい口実になるわ。兄と不義の関係になった、と言って姫さまを離縁してしまうの」
不義、という言葉はあまりに重かった。ダニエルは躊躇った。
「不義などということを言い出せば、帝国が黙っていないのではないかな」
ヴィヴィアンは自信ありげに請け合った。
「帝国のことは心配ないわ、姫さまの方に非があるのだし、私と結婚しさえすれば、いざという時にはレヴァンからの後ろ盾も期待できるもの。ね、こんなチャンス二度とないわ」
事実上妻ですらない少女に不義の罪を背負わせることを考えると、さすがに胸が痛んだ。
しかし、ヴィヴィアンの言う通り、こちらが有利にリア姫を離縁できるまたとないチャンスであるのも事実だ。
ダニエルは、怯えたように兄の背中に隠れていたリア姫の姿を、そして庇うように立った兄の姿をもう一度思い出した。そして、決意を固めたようにフォークでプディングを突き刺した。
三日後の午後、ダニエルが突然屋敷に帰ってきた時、リアは大広間で絨毯の手入れを眺めていた。
大きな絨毯を棒にかけ、勢いよく叩く様子は面白かった。
そこへ、入り口のドアが開け放たれ、ダニエルが早足で入ってきたのだ。
大階段の途中に立っているリアを見て、ダニエルは足を止めた。
そして、広間中に響くような大声で叫んだ。
「もうこんな生活には耐えられない! リア姫を離縁する!」
リアはダニエルの顔をまじまじと見つめた。自分の聞き間違いだろうと思ったのだ。
広間の隅、執務室の入り口で家令と話をしていたジェスも驚いて振り返った。
「もともと望んだ結婚じゃなかったんだ。帝国との関係を維持するために、僕は自分を犠牲にして結婚したんだ。それなのに、忌み子の兄といかがわしい関係になるとは! こんな外聞の悪い話があるものか。僕は愛のない結婚には耐えられても、こういう不名誉な事には耐えられないんだ!」
リアは唖然としてダニエルの言葉を聞いていた。
ジェスといかがわしい関係になったなどというのはひどい濡れ衣だった。
ダニエルが知っているのは、せいぜい数日前ティールームですれ違ったことぐらいのはずだ。それを持ち出して、いかがわしい関係などと言いだすのは言いがかりもはなはだしい。
結婚して約半年、乙女の身を守っているリアにとっては耐え難い侮辱だった。
「もうたくさん! もうこんなことには耐えられないわ!」
リアはダニエルよりさらに大声で叫ぶと、階段を駆け上り部屋へ飛び込んだ。
扉を閉ざしたリアの部屋からは、激しく泣き叫ぶ声が響いてくる。
ダニエルはいささか気まずい顔をした。そこへ、ジェスがまっすぐ近づいてきた。
「俺には何を言ってもいいが、自分の奥方にあらぬ嫌疑をかけるのはどうかと思う。俺はリアとはただの友人だ。それをおまえが信じないとしても、それが事実だ。……そして、リアをそんな理由で離縁したら、帝国との関係はどうなる? このパーセルの領民の暮らしは? それを考えた上であんな発言をしたのか?」
ダニエルは、ジェスの顔を見るとまた怒りがこみ上げてきた。
この男さえいなければ、何も問題は起こらなかったのだ。
「忌み子のくせに兄貴面をするな!」
ダニエルは感情が高ぶったあまり声を裏返らせて叫んだ。
「帝国がなんだ! 姫との結婚を受け入れた僕が馬鹿だった。帝国にうまく利用されていたんだ。今度こそ姫を離縁して、ヴィヴィアンと結婚する。民に迷惑がかかるかどうかは、その時になってみなければわかるものか」
灰色の髪の家令が進み出た。
「恐れながら、旦那さま。これまでドレクバルドから輸入していた小麦の大部分はリアさまの領地のものです。リアさまを離縁されれば、今まで輸入できていた小麦がパーセルに入らなくなる恐れが大きゅうございます」
補佐官の一人がそれに続いた。
「帝国は、リアさまを離縁すれば面子が潰されたと思い、相応の報復をしてくるでしょう。経済的なものかもしれませんし、軍事的な圧力かもしれません。これは、わがパーセルだけではなくバラージュ王国全体に影響する事態です」
「リアさまの行状には疑わしいところなどございません。そもそも、不義の仲の相手と、昼日中街に堂々と遊びに行ったりするはずがありましょうか」
「お考え直しを」
「旦那さま!」
補佐官たちが次々と声を上げた。
ダニエルは唇を噛んで広間に立ち尽くしていた。
この三日間、ヴィヴィアンと話をし、リアを不義を理由に離縁してしまえば全てが片付くと思っていた。自信満々で帰ってきたのだ。
それが、兄や家臣たちの激しい反対であっという間に崩れようとしている。
ダニエルは黙って身をひるがえすと、激しい音を立ててドアを開け、屋敷を飛び出して行った。
ダニエルが出て行った後、家令や補佐官たちはため息をつきながら執務室に戻った。
ジェスは階段を登り、いくらか静かになったリアの部屋のドアを叩いた。
「リア? 大丈夫か?」
ドアが開いて、ハンナが苦笑しながら出てきた。
部屋に入ると、膝に白い長毛種の猫を抱えたリアがまだしゃくりあげている。ジェスが猫のあごを掻いてやると、猫は気に入ったという顔で喉を鳴らした。
「ジェス……」
リアはひどく顔を泣き腫らしていて、いじめられた幼い子供のように見えた。
「ずいぶんひどいことを言われたな。リアがあんな泣き方をするのは初めて見た」
「うん」
リアは手に持ったハンカチで目を擦った。
「わたしも、もちろん怒りもするし悲しみもするわ。だけど、普段はできるだけ表に出さないようにしているの。わたしが何をしたか見ていて、帝国に報告している者がいることを知っているから。わたしが泣いたことで、このパーセルの人たちに迷惑をかけるようなことがあってはいけないと思っているの。でもね」
はれぼったいまぶたの下で、薄紫の瞳が悲しそうに揺れた。
「今日のことは、どうしても我慢できなかったの。わたしが乙女だということを誰よりもよく知っている人が、わたしに不義の嫌疑をかけるなんて。どうしても許せなかったの」
「わかっている。リアがどれほど辛かったか、屋敷のみんなもわかっていると思うよ。そんな馬鹿な疑いを、ダニエル本人すら本気で持っているとは思えない。ただ、リアを離縁したいという気持ちが強すぎてあんな真似をしてしまったんだろう」
「今になってこんなひどいことをするくらいだったら、初めからわたしとの結婚を受けないでほしかった……そうすれば、わたしもこんな思いをせずに済んだのに」
リアは膝の上の猫をぎゅっと抱きしめた。
ちょうどその時、お茶の時間を知らせる鐘が鳴った。
侍女たちは、いつものようにテーブルの用意を始める。
まだ少ししゃくりあげているリアに、ジェスが小声で言った。
「この間約束した、バラージュ風の菓子職人を手配しておいた。今日は珍しいものが食べられるかもしれないよ」
「ほんと?」
リアは手の甲で涙を拭った。
お菓子につられて泣き止むなんて子供っぽい、とリア自身も思ったのだけれど、この間食べたお菓子がおいしかったことを思うとつい楽しみになってしまう。
運ばれてきたお菓子は、確かに見たことのないものだった。
ふっくらと丸く焼き上げたケーキの上にクリームが飾られている。毒見役の侍女が端を切ると、中からクリームがあふれ出した。
「さあ、姫さま」
毒見役からお皿を受け取って、リアは幼い子供のように無心な笑みを見せた。
「嬉しい。とってもおいしそう」
ジェスも一皿もらってスプーンを差し込む。
「これは珍しい菓子だな。俺も見たことがない」
「おいしい!」
リアはすっかり機嫌を直した顔だ。スポンジの中にたっぷり詰め込まれたクリームを味わっている。帝国では牛を飼うのが盛んな割に、こうしたクリームを使う菓子は発達していない。溶けるように柔らかな口あたりがリアには珍しかった。
「リア。機嫌は直ったか?」
ジェスが優しく聞いた。リアはちょっとはにかんだ顔でうなずく。
「さっきのことを忘れたわけじゃないけど。でも、おいしいものを食べて不機嫌ではいられないでしょう?」
「そうだな。少しでもリアの気持ちが和んだならよかった」
リアは、また少しうるみかけた目でジェスを見上げた。
「ありがとう、ジェス。あなたがいてくれるから、わたしはどうにか耐えていける。今日も、ジェスがなだめてくれなかったらどんな失態を演じていたかわからなかったわ」
「今日は仕方がなかったさ。リアはよく耐えた。あんなことを言われて平気でいられる女はいない。それに、いくらかは俺のせいでもあるしな」
リアは首を振った。金色の髪がそれにつれてふわふわと揺れた。
「ジェスのせいじゃないわ。ジェスのことがなかったとしても、やっぱりわたしを……離縁する、と言われたはずだもの。ダニエルさまは、はじめからわたしと結婚したくなかったのよ。そして今でも後悔していらっしゃる。それなら、どうして最初に断ってくださらなかったのかと思うわ」
「このパーセルは、帝国に依存しなければ食べていけないからな。俺の聞いた話でも、ダニエルはこの縁談を断ろうと相当努力したようだが、結局受けざるを得なかったらしい。受けた以上はきちんと夫婦としてやっていくべきだった、と思うが……ダニエルにはその決断ができなかったわけだ」
「わたしだって、ダニエルさまに嫁ぎたいと思って来たわけじゃないわ。お兄さまの命令だったから、政略結婚とわかっていて来たの。女のわたしですらその覚悟ができたのに、ダニエルさまは領地と領民を抱えていながらあまりにも女々しいと思うわ」
リアは紅茶のカップを手に取りながら、意外なほど厳しい口調で言った。
ジェスはその言葉にうなずいた。
「もしリアでなく、もっと気の短いお姫さまだったら、とうの昔に皇帝に報告していたかもしれないな。帝国側からすれば、姫が粗略に扱われているということになる。それが原因で関係が悪化すれば、領民にも影響がある。これは領主が妻をどう思っているか、とか、他にいる愛人との関係をどうするか、というような問題じゃない。もっと大きな問題なんだ」
「わたしも、これがパーセルに影響を与える問題でなかったら、自分から身を引いて帝国に帰ったかもしれない。でも、わたしが逃げ帰って、その後ダニエルさまがヴィヴィアンさまと結婚されたら、お兄さまはどう思われるかしら。そうでなくても、ブラックフォードはレヴァンの影響がとても強い土地ですもの。わたし自身の感情だけで、身勝手な行動を取ることはできないわ」
ジェスはポットを手にとってリアのカップに紅茶を注いでやった。
二人の熱心な話に耳を傾けていたティナが慌てて手を出そうとする。
「申し訳ございません、ジェスさま。うっかりお話に夢中になっておりました」
「いいんだよ。俺の手近にポットがあったんだし」
そして、ケーキを載せた大皿に一個残っていたお菓子をリアの皿に載せてやった。
「パーセル思いのリアには、もう一個食べてもらってもいいだろう」
「まあ。肥ってしまうわ」
リアはためらう顔になる。ジェスは毒見役が置いたナイフを手にとって、お菓子を半分に切った。
「じゃあ、半分ずつにしよう。それなら心配いらないだろう?」
「ええ!」
リアは嬉しそうにお菓子の半分に手をつけた。
ケーキを頬張っている無邪気な顔を横目に見ながら、ジェスは思う。
このあどけない姫の心にも、パーセルの領民を思う心がある。そのために、自分の身を犠牲にしようとしている。
それに比べて、ダニエルのなんと幼稚で自分勝手なことか。
自分の好きな女のこと以外、何も考えていない。
ジェスは、リアの肩を撫でていたティナの顔を見た。ティナもジェスの目を見返す。
「ティナ、例の準備は整っているか?」
「今少しでございます」
二人の謎めいた会話に、リアが顔を上げた。
「なに? 例の準備って」
「今はまだ秘密だよ。時がくれば、リアにもわかる」
ジェスは穏やかに微笑んで、リアの髪を撫でた。
ダニエルが帰宅したのは、それから一週間が過ぎた頃だった。
帰宅するなり、ダニエルは婚礼の支度を命じた。
「ヴィヴィアンを正室として娶ることにした。立派な結納を用意して、ブラックフォードに送りとどけるように」
家令をはじめ、補佐官たちはこの言葉に仰天してしまった。
パーセルには、既にリアという正室がいる。その上に更に正妻を娶るというのはありえないことなのだ。
「しかし、旦那さま。リアさまはどうなさるのです。このパーセルの正室はリアさまですぞ」
家令は緊張した顔で聞いた。また、リアを離縁すると言い出すのではないかと危惧していたのだ。
ダニエルは当然といった表情で答えた。
「正室が二人いていけないという決まりはあるまい。どちらも正室でいいではないか。平等に扱えば帝国だって文句は言えないはずだ」
家令はあっけに取られたが、正室を二人持ってはならないという決まりは確かになかった。常識としてありえないというだけのことだ。
領主がそう命じた以上、従わないわけにはいかない。
家令は結納の準備を始めた。
そして、同時にジェスとリアにこの出来事を知らせた。
リアは、周囲が心配したほど動揺しなかった。
自分が離縁されずに済み、ヴィヴィアンもダニエルの妻になれるのであれば、それが一番いい解決策だと思ったのだ。
事実上妻として扱われていない現状がこれ以上悪化するとも思えなかったし、ヴィヴィアンも妻の座につけばリアに意地悪をしなくなるかもしれない。
リアが平然としていた代わりに、怒ったのは侍女たちだった。
「帝国の皇女を正妻に迎えておきながら、身分の劣る領主の娘を同じ正妻として娶るだなんて! 側室だというならともかく、納得できませんわ!」
ティナはいらいらしながら部屋の中を歩き回っていた。
リアはその様子を見ながら面白そうに笑った。
「ティナ、そんなに怒らないで。これが一番いい解決法かもしれないわ。わたしはヴィヴィアンさまと競うつもりなどないんだもの。ダニエルさまとヴィヴィアンさまがそれで幸せだというのなら、いいのよ」
ハンナがため息をついてリアを見た。
「そんな悠長なお話ではありませんわ。姫さまは帝国を代表して嫁いでこられているのですから、姫さまが侮られるというのはすなわち帝国が侮られることになりますのよ」
「正室が一人増えたくらいで、お兄さまがすぐに何かをなさるとも思えないわ」
兄である皇帝は実利主義の人だ。妹が面子を潰されたくらいのことで派兵をしたり、穀物の輸出を止めたりはしないだろうとリアは思う。離縁となれば利害に影響するから動きがあるだろうが、今回はそういう話でもない。
リアは、ただ穏やかに暮らしたかった。そのためなら、正妻の座などどうでもいい、とさえ思っていた。
リアの部屋の隣にあった客用寝室が、新たにヴィヴィアンの部屋と決められた。
大工が入り、内装が新しくなった。工事が進むたびに覗きに行く侍女たちの口からは、リアの部屋よりも豪華だという不満の言葉が出た。
それでもリアは、そんなことはあまり気にしていなかった。
ただ、ヴィヴィアンと隣あわせの部屋に住むことには、多少の不安を感じていた。
新しい家具が運び込まれ、着々と結婚の準備は進んでいく。
そんなある日、ヴィヴィアンが新しい部屋を見に訪れた。
ジェスのところを訪れようと部屋を出たリアは、間の悪いことにヴィヴィアンと出くわしてしまった。
「あら。乙女の奥方さまじゃございませんの」
ヴィヴィアンはからかうような声で言った。
リアは落ち着いていた。自分でも驚くほど冷静だった。
「ええ。それでも、わたしはダニエルさまの妻です」
「なんですって!」
ぱしっと鋭い音がして、リアは頬をぶたれていた。
皇女として生まれて、平手打ちを喰らったのはこれが初めてだ。
あまりのことに、侍女たちもとっさに反応ができなかった。
殴ったヴィヴィアンは唇を噛み、怒りに震えていた。
そのヴィヴィアンを、リアは平静な気持ちで見つめている。
ダニエルに誰よりも愛されているはずのヴィヴィアンが、なぜ愛されていない妻の自分をそれほど意識し、敵視するのか。
リアにはそれがわからなかった。
二階の廊下が騒がしくなり、それぞれ別の方向からジェスとダニエルが駆けつけてきた。
「ヴィヴィアン! もう姫に癇癪は起こさないと約束したじゃないか! これから一緒に暮らすのだから、もう少し我慢してくれなくては困るよ」
「だって、この女が自分はダニエルの妻だなんて言うから!」
ヴィヴィアンは金切り声で訴えた。ダニエルは困った顔で、
「実際そうなんだから、怒る理由にはならないじゃないか。さあ、もう下に行こう」
ヴィヴィアンを促し、一階へ連れていく。
ジェスは頬を赤くしたリアが驚くほど落ち着いているのを見て、
「リア。あの女に殴られたんじゃないのか?」
「ええ。頬をぶたれたわ」
そして、ジェスの顔をまっすぐに見た。
「かわいそうな人。愛されていても安心できない。わたしが名ばかりの妻だと知っていても、不安でたまらないのよ。わたし、あの人のことを怒れない。だって、あまりに気の毒なんですもの」
「リアの言う通りだな。彼女は満たされることがない。いつも不安で、自分が愛されているという証明を求めている」
ジェスは、ダニエルとヴィヴィアンが降りていった階段を眺めた。
「あんな女と、家族として暮らしていけると思うかい?」
「わからないわ」
リアは正直に答えた。
「でも、努力はしようと思ってる。いつか、わたしとダニエルさまの間になんの感情もないことが本当にわかってもらえたら、ヴィヴィアンさまとも争わずにやっていけるようになると思うの」
ヴィヴィアンの部屋は、ほとんど完成していた。
婚礼は、十日後に迫っていた。
まもなく結婚を迎えるヴィヴィアンは、花嫁を意識した白いドレスで夕食の支度を手伝っていた。
ヴィヴィアンが当日に着る花嫁衣裳は、既に部屋に用意されている。パーセルの評判の高い仕立て屋で作らせたドレスは、華やかで繊細なデザインで、ヴィヴィアンの美しさを一段と引き立てた。
帝国式の重厚なデザインのドレスで嫁いできたリアよりきっと美しい花嫁になると思う。身分の制限のため、ヴェールの丈だけはリアに敵わなかったが、それも我慢できる気がした。
ワインセラーから赤ワインを取り出し、食卓に運ぼうとしたヴィヴィアンは絨毯の端につまずいた。
「あっ!」
手から離れた赤ワインの瓶が床に落ち、砕けた。血に似た色のワインが、ヴィヴィアンの白いドレスに飛び散った。
「いやだわ……」
まるで血まみれになったような。
そんなことを考えたヴィヴィアンは、激しく首を振ってドレスを着替えに部屋へ戻った。間もなくダニエルの妻となる自分に、不吉なことなど起きるはずがない。
帝国から訪れた御用商人の一団が、領主を正式に訪問したのは、ダニエルとヴィヴィアンの婚儀が行われる五日前だった。
御用商人たちは、パーセルで宮殿に納入する品々を買い求めると言う。
帝国から持ってきた土産が丁重に納められ、彼らを歓待する宴が開かれた。
帝国からの使者であるから、リアも同席してもてなす側になる。
リアは、ふと御用商人の中に顔なじみの小間物売り、クルトがいるのに気づいた。
(クルトはただの小間物売りのはずなのに……こんな正式な使節の中に混じっているなんて、おかしいわ)
リアの疑いの目に気づかぬ顔で、クルトは補佐官たちと商売の話をしている。
食事が終わり、和やかな歓談の席になって間もなく、ジェスが一枚の紙を手に現れた。人々の目を集めると、ジェスはよく通る声で宣言した。
「私、ジェス・パーセルは先代公爵の長男。そして、父の遺言によれば私こそがこのパーセルを継ぐ者だった。そこにいるダニエルは、遺言を偽造し私の地位を奪い取った偽者なのだ。帝国の皆様、補佐官たち、この遺言書を改めてほしい!」
灰色の髪の家令が素早く駆け寄った。
「間違いない。この筆跡、このサイン、先代さまのものに相違ありませんぞ!」
補佐官のレオンも駆け寄り、書状を改める。
「私にも見覚えがございます。これは先代公爵のサインです。ジェスさまこそ、本来このパーセルをお継ぎになるはずの方に間違いありません」
ダニエルは、何が起こったのかわからないという顔で周囲を見回した。
「なんの話だ? 僕は父の遺言でパーセル公爵を継いだんだ。兄は銀髪だったから、忌み子として扱われていて継承権なんかなかったんだ」
クルトが冷ややかに言った。
「それは聞き捨てなりませんな。皇帝陛下がこちらにおいでのご長男と同じ見事な銀髪であられるというのに、忌み子呼ばわりとは」
「簒奪者を捕らえろ!」
商人たちは、腰に隠していた剣を一斉に抜いた。
ダニエルに加勢する者は誰ひとりいなかった。あっという間に、ダニエルは厳重に縛り上げられてしまった。
リアは、あまりのことにしばらく凍ったように立ちすくんでいた。
ダニエルが商人たちに捕らえられようとした時、リアは反射的に走り出ようとした。そのリアの袖が強く引かれた。
ティナが低く、しかしはっきりとささやいた。
「皇帝陛下のご意思です」
リアは床に崩れるように膝をついた。
ジェスはパーセル公爵の座についた。
その後押しをしたのは、御用商人に身をやつした帝国の傭兵たちだった。
前の公爵であるダニエルには、最初死罪が言い渡された。
しかし、家令や補佐官たちの嘆願によって罪を減じられ、はるかバラージュの奥地に流罪となった。
こうした政変も、パーセルの住人たちにとっては領主の顔が変わるだけのことであり、興味を抱く者もなかった。
かくして、政変は容易く、あっという間に成し遂げられた。
リアはベッドの上に座ったまま、ぼんやりと自分の膝を眺めていた。
あの恐ろしい事件が起こった後、リアは侍女たちの手で部屋へ連れ戻された。
それから何が起こったのかは、何一つ聞かされていない。
リアにわかっているのは、あれがジェスの仕組んだ罠だったということだ。そして、それにティナが手を貸していた。裏には兄である皇帝の力が働いていたのも間違いない。
ダニエルに、特別な気持ちを抱いたことはない。けれども、名ばかりとはいえ自分の夫だ。こんな形で陥れられ、捕らえられるのを見たいとは思わなかった。
まして、あの優しいジェスがこんな恐ろしいことをたくらむなんて思えないし、思いたくもなかった。
どうしてこんなことになったんだろう?
リアの疑問は、空しく自分の胸に響くばかりだ。
「待って! 行かないで!」
聞き覚えのある声が窓の外から聞こえた。
リアは窓に駆け寄って外を覗いた。
はるか下、街道に一台の馬車が止まっていた。馬車といっても、屋根もなく粗末な木で組まれたもので、その中に鎖で繋がれたダニエルが乗っているのが見えた。馬車の前に立ちふさがっているのはヴィヴィアンだった。いつも見事に整えられていた髪は乱れ、ドレスも土ぼこりに汚れている。
「ダニエル、お願い。私も連れて行って。どんな場所でも、あなたと一緒ならかまわないわ」
ヴィヴィアンは必死な声で訴えた。ダニエルはのろのろと顔を上げた。
「ヴィヴィアン。僕は、もう二度と帰っては来られない」
「いや! いやよ!」
ダニエルは馬車の中から繋がれた手を伸ばした。それでも、二人が手を取り合うには距離がありすぎた。
「僕のことは死んだと思って、誰かいい人のところに嫁ぐんだ。いいね」
「そんなことできない! ダニエル、待って……置いていかないで!」
馬車がごとごとと動き出す。ヴィヴィアンが必死にその後を追う。どんなに急いでも、馬車はどんどん遠ざかっていく。
部屋の窓から見ていたリアは、両手で口を押さえて泣き声を上げるまいとしていた。
ダニエルを愛してはいなかった。一度も自分を妻として扱わなかった冷淡な夫を、好きだと思ったこともなかった。だからといって、彼がこんな運命を辿るのを望んでいたわけではない。
ヴィヴィアンも同じだ。何度も意地悪をされ、泣かされたけれど、彼女のこんな姿を見たかったわけではない。
なのに。
その瞬間、リアははっとした。
全ては、わたしのためだったの……?
ダニエルの冷淡さに泣き、ヴィヴィアンの意地悪に泣いた時、そこにはいつもジェスがいた。彼の前でだけ、リアは安心して泣くことができた。
そのジェスが、二人を今のような状況に追いやったのだ。
自分が泣いたから。
もう、自分を泣かせないために。
リアはその場にしゃがみこんだ。目の前が真っ暗になったような気がした。
わたしが。
わたしが、この一切を引き起こした──。
翌日、リース川からヴィヴィアンの死体が上がった。
ヴィヴィアンは花嫁衣裳を着ていた。
本当なら、その日に着てダニエルに嫁ぐはずだった衣装だった。
侍女たちはヴィヴィアンの死をリアに隠そうとしていたが、女中たちの噂が耳に入り、リアはその事件を知ってしまった。
リアは黙ったまま部屋に閉じこもり、侍女たちが何を言おうと出てこようとはしなかった。ジェスの声には、リアは返事をしようともしなかった。
新年の祭りも終わった頃、パーセルは新たな華やぎに包まれていた。
ドレクバルドの皇帝がパーセルを特別に訪問したのだ。
その訪問団の立派さに、人々はさすがは帝国だと口々に言い交わした。
皇帝がこのたびパーセルを訪れたのは、妹のリアとパーセルの新領主ジェス・パーセルの婚儀に出席するためだった。
ジェスは恭しく皇帝を出迎え、皇帝は義理の弟に親しげに接した。
二人の髪は驚くほどよく似た、見事な銀色だった。
結婚式が始まり、バラージュで作られた華やかなドレスに身を包んだリアが姿を見せる。
参列した人々は、半年前に行われた結婚式を思い出さずにはいられなかった。
誓いの口づけの時、ジェスは雲のようにリアを包んだベールをたくし上げ、誓いの口づけと呼ぶには長すぎるキスを交わした。
唇が離れた時、リアの顔に微笑みはなかった。
リアは、ベッドに腰掛けたままぼんやりしていた。
二度目の花嫁。
全てが、一度目の形を変えた再演だった。
あの息がつまるような長い口づけを除けば。
一度目の結婚は、形式だけのものだった。それも、完全な形式を踏んではいなかった。
今度は違う、とリアにもわかっていた。
自分が今ジェスにどんな感情を持っているのか、リア自身にもはっきりとはわかっていなかった。
優しくて頼りになる、お兄さんのような人。
ジェスはずっとそういう存在だった。
泣きたい時、辛い時、ジェスのところに行けばいつでも慰めてもらえた。
その自分の甘えが引き起こした悲劇の大きさに、リアの心は閉ざされてしまった。
ジェスは、どうしてこんなことをしたんだろう。
リアはあの日からずっと考えている。
そして、口づけを受けたその時にはじめて思った。
ジェスは自分を愛しているのかもしれないと。
『歌わない小鳥』の中で、コレット姫を手に入れるために親友を殺したクレイグのように、ジェスは自分のために実の弟を流罪にしたのかもしれない。
リアはコレット姫とは違う。
リアはダニエルを愛さなかった。そして、ダニエルは殺されたわけではない。
けれども、ジェスがしたことはダニエルの手からリアを奪うことだった。
リアは足音に気づいて顔を上げた。
静かにドアが開かれ、ジェスが姿を見せた。片手に燭台を持って。
「──リア」
一瞬視線がまともに合った。
リアは無表情のままジェスを見返した。
ジェスは机に燭台を置いて、リアの隣に腰を下ろした。少し身を引こうとしたリアを引き寄せ、そっと抱きしめた。リアは緊張で身体を固くしたままじっとしている。
「やっぱり笑ってはくれないんだな。覚悟はしていたが」
顔を覗き込まれて、リアは目をそらした。ジェスは、リアの一つに編まれた長い金髪を撫でた。
「ずっと前から、リアを愛していた。自分のものにできたら、と思っていた。こんなやり方をしたことを怒っているかもしれないとは思うよ。それでも、俺は後悔していない。リアを俺だけのものにできたのだから」
不意に唇を重ねられて、リアは逆らう暇もなく激しいキスを受けた。その激しさに、日頃は静かなジェスの中にあった情熱を思い知る。
「『二度と笑ってくれなくてもいい。それでもおまえは、俺のものだから──』」
『歌わない小鳥』の、最後の台詞。
その言葉を口にして、ジェスはリアを強く抱きしめた。
リアは目を閉じて、最後の覚悟をする。
望もうと望むまいと、リアにとって本当の夫となる人の手に抱かれる、その瞬間への覚悟を。
マルク暦五百十二年一月十八日。
パーセル領主ジェス・パーセルはドレクバルド帝国第二十四皇女リア・ハイドフェルトと結婚した。
(終)