epilogue
真昼の空に夜をひと匙垂らしたような、黒い影が横切りました。その正体は人を乗せられるほど大きな烏です。
「潮の匂いがします」
「ああ。海が見えてきたよ」
その背中で、少女はすんすんと風を吸い込みます。人の娘ですが、少女は烏の花嫁です。
「忘れないうちに塩も補充しておきましょう」
「それもそうだが、せっかくだから食べ物を満喫するといい。これから暫くは陸続きだし、海の物はおいしい」
「旅は喜びも苦労もおいしいものも、一緒に満喫できることが一番ですよ」
「私は貴女が喜んでくれたらそれが嬉しいのだけれど」
かつて一国の王子だった大烏は、花嫁と自由に羽撃くことを選びました。姫君の少女も、今ではすっかり旅人が板についています。
「次こそは人魚の歌声を聴いてみたいものです」
「以前の港町は惜しいところだった」
「けれども、あのお爺さん達のお話は面白かったですね」
「うん。話を聞くうちに一人二人と増えていって、途中から酒盛りになってしまったが」
色んな場所に行きました。
人の入り込めぬ秘境では十色の虹の輪をくぐり。黄金の砂原の移動するオアシスは巨大な亀の背中に。深い谷底にある国では数百年ぶりの客に歓迎されて、はたまた道中で出会った見世物小屋に「その鳥を売ってくれ」と言われたり。
喋る烏に対する反応は様々でした。
面白がられることも、怖がられて追い出されたことも。
「よく言われます。特に旅芸人というわけではないのですが」
この街の人々は、珍しい旅人に興味津々のようです。
腕っ節自慢な海の男たちすら見上げるほどの烏は、さっそく注目の的。歴史の長い漁港とあって風変わりなものに寛容なようです。その分騒ぎにもならず、すぐに大烏は日常へと溶け込みました。
潮の香りがする街の市場は、目が回りそうなほど人の声で溢れています。
「こら……あまり離れていかないでくれ、迷子になってしまう」
そんな賑やかさにふらりと誘われて行く花嫁を、大烏のくちばしが止めました。
「あなたがすぐ見つけてくださるから大丈夫ですよ」
「私が見つけるんじゃないか……ここは人も街も入り組んでいるのだから、見失ったら慌てるぞ」
「はい。でも万が一の時は、頼りにしていますね」
「……気を付けてほしい……」
にっこりと信頼を寄せられて、大烏は溜息をつきたい気持ちとちょっぴり恥ずかしい気持ちで複雑です。
久々にのんびりと過ごせる都会に、ふたりとも存分に羽を伸ばせました。数日滞在して、残念ながら今回も人魚には会えませんでしたが、また別の機会に探すことにしましょう。
「なんて広い森だろう、まだ先が見えない。帳にもこれほどの土地は無かった」
大烏は感心して言いました。目下にはひとつの島のように広大な緑があります。
「あ。川が流れている」
「ではそこでお昼でも。休憩にしましょう」
「わかった。けれど、何かあればすぐ飛ぶ」
「はい」
危険な獣がいないか周囲を見回りますが、樹々の背は高く、空からでは上手く様子が分かりません。
辺りを警戒しながら大烏は川辺に降りました。清涼な川のせせらぎだけがする、静寂な森です。
大烏が集めた枝に、花嫁は発火石を打って火を起こします。川の水を沸かし、飲み水の確保とお茶を淹れました。夫婦になる以前から続くお茶会は、旅の中でもふたりの楽しみです。
「雲が出てきた……これは、雨が降るかもしれない」
胃袋を満たしてほっと息をついたのも束の間、大烏は分厚い雲を見上げて言いました。
「雨宿りできそうな場所があるといいですね。雷がないとよいのですが」
「そうだな。足元に、気をつけて」
てきぱきと荷物を片付けて、ふたりは森を散策することにします。
これだけの樹海なので、樹のうろや洞窟などがあればよかったのですが、なかなか見つかりません。
そうこうするうち、ぽつりと雨粒が落ちてきて、大烏は翼を広げて花嫁の傘になりました。大烏は雨くらいへっちゃらですが、ありがとうと笑う花嫁に、風邪をひいてほしくないなと思います。
「な、……どうして、こんな場所に……」
大烏は驚きました。急に視界がひらけたと思うと、そこに民家が現れたからです。今時珍しい木造りの家は、その唐突さからも飛び出す絵本のよう。こんな森の中で怪しさ満点なその家に、大烏は不審がります。
《お入りなさいな》
頭上から降る声がありました。幼いようにも老人のようにも聞こえる、年齢の判断がし難い不思議な声です。
そこには、樹の枝に留まった一羽の真っ黒な烏が、ふたりを見下ろしていました。
「……この森を統べる魔女殿か? 無断で立ち入ってしまった非礼を詫びよう」
大烏は油断はせず、正体不明の烏へ礼を取りました。
《可笑しなことを言うのね。まあ、雨に濡れるのが好きだというなら、止めないわ》
烏は羽ばたき、ひとりでに開いた家の扉の中へ入って行きます。
「ご招待に預かりましょう。あまり悪いようにはされませんよ」
「どうして分かる?」
「勘です」
「……」
のんびりと花嫁は言います。大烏は迷いました。断るにしても、家に招かれるにしても、迂闊な行動はできません。
けれども、なぜか大烏自身でも、悪意といったものをまったく感じなかったのです。
大烏は逡巡した後、魔女の家に入ることを選びました。広い扉は頭を少し屈めるだけで、大烏の体躯もくぐることができました。
《それにしても予想外な展開になったのね、王子殿下》
烏から美しい女性の姿に変わった魔女は言います。しかし喋っているのに唇は動きません。
外は本格的に雨が降ってきたらしく、ざあざあと音がします。
「なぜ私のことを?」
《なぜって。帳の一族にまじないを掛けたのも、烏にしたのも、ワタシだもの》
途端に花嫁は、強い力で大烏の翼に包まれました。ぴりぴりと肌を突き刺すような感情を感じますが、それが憤怒のためか恐怖のためかは分かりません。
《そんなに怖い顔をしないで。取って食べようってわけじゃないわ》
「……」
羽を撫でて、花嫁は大烏を安心させます。躊躇いつつも、大烏も翼を畳みました。
お座りなさいよと促されて、花嫁は引かれた椅子に腰掛けます。
《本当に予想外。まさか王子殿下が客人と共に来るなんてね》
「……予想外というと」
《気付いていないのね。まじないが進行して烏になった時、ワタシのもとへ戻るようにしていたのよ。旅に出たこと自体は偶然でも、ここへ来たのは必然のこと》
魔女の言葉にふたりとも困惑しました。
確かに旅の提案をしたのは花嫁ですが、目的地があったわけではないのです。けれども大烏はここに導かれたというではありませんか。
《けれど、独りで来るはずだった》
魔女は定めるように花嫁を見つめました。
《お嬢さんも高貴な血筋にみえるのに、どうして旅なんて》
「どうしてでしょうね、わたくしは昔から冒険に憧れているような、姫らしくないと言われる気質でした。なので今はとても楽しいです」
花嫁が答えると魔女はふうん、と納得のいかない様子で相槌を打ちます。
「魔女様。お呼びになった、ということは何か用事があるということですよね、それはどのような?」
《用事ではないわ。供に暮らすつもりでいたの》
魔女は木の実や果物を盛った器をテーブルに置きながら言いました。
《だって可哀想でしょう? 烏を嫌うあの国で、烏になった人間なんて、誰からも愛されるはずがないもの》
大烏はぐっと身体を強張らせました。
呪いが露呈した五歳を境に、彼の日常はひっくり返ってしまいました。
塔に隔離されて過ごして、それでも他人の視線が恐ろしくて、人でなくなっていくことに頭がどうにかなりそうで。
《だからワタシが受け容れてあげようと思って》
受け容れるという言葉に対して、魔女の声は冷淡なほど感情が読み取れません。
芯が凍り付く心地のする大烏に、そっと花嫁の掌が触れました。
「なぜですか。それを理解なさっていながら、なぜ魔女様は呪いなど」
呪いの始まりは、その昔、帳の王の裏切りによるものだと花嫁は聞きました。
だけど、魔女の悲しみがどれほど深かったとしても、無関係な王子が傷付く道理はないと花嫁は思います。
呪いが発覚してからの年月が、どんなに孤独で苦しいものだったか。その呪いを掛けた張本人が受け容れるだなんて、あんまりだと花嫁は胸がざわめきます。
《お嬢さんにはわからないでしょうね。そうよね、わからないでしょう。〝烏〟じゃないのだもの。分かち合えるものが無いのよ》
魔女は空っぽみたいな言葉で言います。何の感情も伝わってきません。
「……そうだな。方法には賛同こそできないが、魔女殿の言うことは…理解できる」
大烏は一度瞼を閉じてから、顔を上げ、しっかりと魔女と向き合いました。
「……だけども、私は〝烏〟だが、大切なものができた。何も無いんじゃない、私のことは私が決めていいのだと、そう思うことが、できた。だから、魔女殿と同じには、なれない」
穏やかで、少し淋しいような声でした。物語を読む時に似ていると花嫁は思います。
《ええ。だからふたりでいるのよね》
魔女は特別怒ることはありませんでした。
不変的で冷静な人です。花嫁が話しを聞く限りでは、もっと感情的な人だという印象でした。
「……魔女様、呪いを解く方法をお教えいただきたく存じます」
花嫁は緊張しながら、最も尋ねたかったことを問いました。
《ただの人間には戻せないわ》
覚悟していたことでした。それでも事実は大烏の胸に重たく積もりました。しかし魔女の解答は、それだけでは終わらなかったのです。
《けれど、そんなに不便かしら? 人と烏を行き来するのは》
「……え?」
《なれるでしょう? 人の姿》
「え……? 人の? ええ?」
魔女の言葉に、大烏は首を傾げたり自分の翼を見たり、脚をぺたぺた踏んでみたりと挙動不審です。
《そう。王子殿下は烏の姿を受け入れているのね》
魔女はテーブルに頬杖をつきながら、大烏と花嫁を交互に眺めました。
《そうね、そのうちに、自然と感覚を掴めると思うわ? 烏にも人間にも、王子殿下次第で好きな時に変化できるでしょう》
「……人に、……なれるのか……」
信じられない気持ちで、大烏は自身の真っ黒な翼を見つめます。
考えたこともありませんでした。いいえ、考えないようにしていました。烏になってしまった身体には無い物ねだりです。
「よかったですね」
花嫁が笑い掛けるも、大烏は少し困って苦笑を返します。
「実感が湧かない……どうすれば姿を変えられるのかも、まだわからないし……」
それに、なによりも。花嫁の存在がありました。
たとえ人の姿を失おうと、変わらず傍にいてくれた花嫁の存在が、大烏の心を守り、肯定しました。人間の姿でも、烏の姿でも、どちらも自分なのです。
◆
「休ませていただいて、ありがとうございました」
旅の話を引き換えに、一晩世話になった花嫁は深々とお辞儀をします。
別に急いで出て行かなくてもいいのにと、見送りに出た魔女は言いました。
「……魔女殿。我が祖先が働いた非礼を、私からもお詫びする。しかし、私もまた呪いによって起きた出来事は忘れ難い。良いことも、悪いことも。人の心に必ず変化を起こす力があるから呪いなのだと、使い方をどうか誤らないでほしい」
大烏が言うと、魔女は首を傾げました。
《魔女を諭そうなんて、怖いもの知らずね》
「怖いもの知らずな困った人が傍にいるものだから。……魔女殿が、これからは誰かを呪わずに済むといいと思っている」
《四六時中誰彼呪っているわけじゃないわ。ワタシを訪ねる人間もそういないし、疲れるもの》
魔女の返答にこれ以上は返さず、大烏は花嫁を乗せて羽を打ちます。朝露の残る草花がきらりと揺れました。
《さようなら 鳥籠の王子と鍵の姫》
飛び立つふたりに、美しい女性から烏へと変貌した魔女が別れを告げます。
「あの、魔女様! 何も無い人なんていないと思います! それぞれの持つものが異なるからこそ、たとえどんなに小さなことでも、誰かは、何かに、きっと影響があるのです!」
上昇すると不思議なことに、魔女の家は見えなくなってしまいます。それでも届くものがあればいいと花嫁は願いました。
「……いつから気が付いていた? 烏の物語を書いたのは魔女殿だと」
飛び立ってから少しして、大烏は尋ねます。
「いえ、気付いていたというか、なんとなく」
「そうか」
意外そうな花嫁に大烏は笑います。向こうから昇る陽が眩しく、清々しい朝です。
「あの物語は……恐らく魔女殿の半生なのだと思う。とても孤独な記録だ」
大烏は一冊の古い手記を回想しました。塔の書物に紛れていた、誰が書いたのか、いつ書かれたものかも不明の物語です。
あのお話にはまだ白紙のページがありました。途中の物語なのです。主人公の烏の旅は、まだ続いていると思いたいのでした。
「私と旅に出てくれて、ありがとう」
これはまだ長い旅路のほんの始まりで、たくさんのページの中の一ページです。そんな一枚一枚のその欠片のページを、大烏はいとおしいと思います。
「どこへでも、行けますよ。外はこんなに広いのですから」
次はどんな想いがページを埋めてくれるでしょうか。
ふたりの旅は、まだ羽ばたき出したばかり。