5. カラスという生き物
いよいよ婚姻の儀も間近に迫ったものの、あまり実感が湧かないなと花嫁は思う。
王子とはのんびりとお茶を飲んだり、本を読んだりと変わりなく過ごしている。もちろん結婚すれば違ってくる部分や、忙しくなる部分もあるかもしれないが、今後劇的な変化が起こるとも思えなかった。
今日は王子の予定も聞いていない為、いつも通り午後からお茶会をしようと花嫁は決めていた。
しかし、その予定は早く繰り上げられる。
困惑した様子の侍女が花嫁の部屋を尋ねたからだ。
「これは、一体……?」
王子の住処である塔に近付くほど、人々の騒めきが広がる。何が起こっているのか、見えないことをこれほど不安に思ったことはない。
「私共も把握できていないのですが……殿下に何らかの不調が起きたことは確かなようです」
「不調とは」
「……恐らく、呪いに関して」
重々しい侍女の声に、花嫁も胸をぐっと圧迫されるような感覚を覚える。
曰く、朝食を運んだ者を追い返し、誰も部屋に入れないよう言付けたという。
「殿下、失礼致します」
「来るな!!」
塔に着くと侍従の一人が扉を叩いた。
途端に激しい拒絶の叫びが響く。
「これは命令だ! 何人たりと入ることは許さん!!」
「殿下、」
「見るな! 誰も私を見るな!!」
「王子。ごきげんよう」
「……っ、」
花嫁はいつものように淑女らしい礼をして、錯乱状態の何かの檻へと足を踏み入れた。
続こうとする侍従たちには悪いが、扉を閉め、二人きりにしてもらう。
「……我は来るな、と言った」
唸りあげる声は耳慣れたものよりも低く濁り、さらに聴き取り難いものとなっている。
「大きな声だったので聞こえました」
「ならば、去れ! 暁の国の姫! この爪で切り裂かれたくなければ!!」
「なぜそんなことを?」
「会いたくない、うんざりだ!」
「わたくしはお話をしたいですし、今日の物語の続きを楽しみにしているのですが」
「……っだから、どうして分かってくれない!!」
「はい。わたくしには分かりません」
目隠しを外すと、天井から降る光が眩しい。
花嫁は額に手をかざしながら、おぼろげな視界の中を歩いて行く。
「だってあなたはそうやって、何を悲しんでいるのか伝えぬまま、拒絶してしまうのですから」
目があると、よく見えるわけでもないのに、つい視界に頼りがちで苦手だと思った。慣れない情報にくらくらする。
何度も訪れた場所だというのに知らない世界のようで、だけど古い紙の匂いがする、安心できる場所でもある。
「……出て行け、」
王子の喉がわなないた。
「出て行け、出て行ってくれっ、」
「わたくしはここにおります」
「頼むから!! これ以上は、」
がくんと視界が揺れる。つま先に何かぶつけて重心を崩したらしかった。
「……大丈夫ですよ、このくらい」
ばさりと翼を打つ音の後、花嫁は柔らかなぬくもりの中にいた。膝を着く程度のことなのに、王子は少し過保護だと頬が緩む。
「……どうして、引き返してくれない…こんな姿、晒したくなかった」
「では、それでも飛び出して、支えてくださったのはなぜでしょう」
「……」
自分のことよりも他人を優先してしまう人だから、この人と生きねばと思った。
初めて翼に包まれた日から変わらず。
「本の通り、全身が真っ黒なのですね」
花嫁は見上げるほど大きな黒い鳥にまじまじと触れ、くちばしを撫でてみる。固いのに石のような硬質さより、柔軟な印象を受ける不思議な感触だ。
王子はやんわりとその手から距離を置いて、脚を畳んだ。
「……貴女はこのまま、新王と婚約を。暁の国との友好は約束されよう」
「どういう、ことでしょうか」
花嫁が驚きに瞳を見開く。不明瞭な視野の先で、黒い烏もまた花嫁を静かに見つめていた。そこにどんな感情があるのか、花嫁は必死に汲み取ろうとする。
「これで、私に王座を継ぐ資格が無いことが、確定するだろうから」
先程までの投げやりなものでなく、冷静な声だった。
「所詮血を継げるかどうかが私の存在価値だ。……それでも、私のような者だからこそ、新しく見えるものもあるのではないかと、思いたかったのだが」
自分に足りないものや、不甲斐なさ、周囲からの畏怖も。外に出ることで、王子は改めてそれらと正面から向き合うに至った。
「私にはもう何も無い」
ざらついた表紙の手触りが思い出された。
自分に無いものを得る為に旅に出た烏は。
「なぜ、そのままではいけないのですか?」
花嫁の口から零れ落ちた言葉は、物語の賢者の台詞をなぞっていた。
「……私が〝烏〟だからだ。呪いさえなければ。王族でなければ。父王が魔女に交渉しなければ。私がこの世に生まれなければ。望んでも叶わないことばかり」
王子は断言する。
「憎んだ。すべてを憎しみながら生きてきた。ただ生かされていた。それまで私の存在なんて無かったことにしていたのに、父王が老いた途端私のことを思い出すことも、私を恐れる人も、国も、すべて」
恨み言のはずの声に力は無く、悲しむことにも憔悴した静かな感情だった。
目の前にいながら魂の入っていない像のように、ただそこにいるだけの存在となってしまっている。
「……醜いのは姿よりも、私自身だった」
王子は自身が王位を継ぐことを諦めている。
花嫁に新しい王と婚姻をと言ってくる。
「やっぱり、あなたはとても勝手な人です。どうしていつもわたくしの気持ちも聞かず、新しい王とだなんて、言えるのですか」
それが花嫁にとって最善だと思っている。
「わたくしは婚約者ですのに」
「……元になる」
「今はまだ婚約者です」
はっきりとした意思に反して、声は震えてしまった。
「あなたの花嫁です」
花嫁の言葉に、虚ろな抜け殻となっていた王子が僅かに動揺した。
「……意見を聞かせてくれ」
逡巡の後、王子は意を決した様子で尋ねた。
「まず、正式な決定がある前から、選択技を放棄しないでください」
「ああ」
「何度も言いますが、ご自分の意見を言う時は、相手の意見もきちんと聞いてください。これも悪い癖だと思います」
「ああ」
「納得できないことや、嫌なことも、言葉にしないと相手には伝わりません」
「……ああ」
「わたくしが傍にいることも、知ってください」
「……」
「もしも王族で無くなったら、その時はその時です。旅にでも出ましょう。今度こそ、自由に、何にもとらわれることなく。お供しますよ」
花嫁が歩み寄り、手を伸ばす。沈黙する王子からは強く躊躇う気持ちが伝わってくる。
嫌なことは言葉にと言った。あとは王子の気持ち次第だ。
「……」
迷いながらも、そっとくちばしの先が花嫁の指に触れた。顔に掌を持っていくと頭を擦り、瞼を閉じる。
「…………うん」
返事を聞いて、花嫁は翼の中へ飛び込んだ。
◆
烏の王子について、帳の国は慎重に議論を続けた。
呪いはあれど純血の王子が継ぐべきとする声もあったが、それ以上に人々の〝烏〟への畏れや嫌悪は、花嫁の想像以上に根深くあることも知った。
仮に王座を継いでも、他国からの反応に懸念があった。帳の中ですらこうも問題になるのに、国の代表が異形であることに、どれほど理解を得られるか。信用問題に関わるだろう。
王子は既に分かりきったことだと笑った。笑って、普通の烏となることを選んだ。
「なにも貴女まで、私に付き合うことはなかったのに」
身体に合わせて仕立てた服に、真白の髪を覆う飛行帽。華やかなドレス姿とは正反対の少女は、しゅんと落ち込む声を前に胸を張る。
「旅はお供しますと言いましたよ」
「それは、そうなのだけれど……」
ぼそっと烏は言いながらも、首を屈め、伸ばされた手にぐりぐりと頭を擦った。
「……あの言葉を聞けただけでも、私は生きていてよかったと思えたから」
「大袈裟ですよ。これから知らない場所へ行って、おいしいものを食べたりして、もっともっと生きていてよかった!を体験しなくては」
両腕を振って力説する少女に、烏はふっと笑みをこぼす。
「それなら毎日実感しているよ」
柔らかい羽根に頬擦りされて、少女はくすぐったくなった。
「……この塔ともお別れですね」
「うん」
「さみしいですか」
「少しだけ。悪い思い出ばかりではなくなったから」
最初の頃は、出て行けとすぐに追い出されてばかりだった。
それでもめげずに茶菓子を持ち寄って、お茶会を過ごしてくれるようになり、会話ができるようになって、物語を読んでくれるようになった。
翼に包まれるあたたかさは安らぎ、変だと気にする声や特徴のある抑揚も、今では聴くと落ち着くくらいだ。
「……さようなら」
読み終えた本を閉じるように、紙の匂いは扉の奥に仕舞われた。
外は穏やかな風がそよいでいる。ちょうどいい飛行日和だ、と烏は言う。
「たくさんお心配り頂いて、ありがとうございました」
「どうぞお元気で……王子をお頼み申します」
世話を務めてくれた侍女は、旅立つことを伝えると涙ぐんでしまった。
おいしいお茶の淹れ方を教えてくれたのも彼女で、気兼ね無く世間話をしてくれる明るさが嬉しかった。
「私はただの烏になったよ」
「ええ、そうなったのかもしれません。ですが、働く私共に労いの言葉を掛けてくださったり、不便な点はないかと窺ってくださったことを感謝している者もおります。少なくともその者たちにとっては、尊いお方であることに変わりないことでしょう」
「……痛み入る」
呪いや烏という生物が恐れられているとしても、王子を見てくれた人もちゃんといる。少女は肩が軽くなるような心地がした。彼も、そうであればいいと思う。
「行こう」
「はい」
烏の背に少女は乗る。特製の鞍にしっかりと身体が固定されたのを確認すると、烏は大空へ羽ばたいた。
「な、なんだか高くないですか?」
どこまでも風を切る勢いに、少女は声を掛ける。鞍の試し乗りでもこれほど長く飛翔しなかった。胸がどきどきとする。少し怖い。けれどもそれ以上に。
「すごく高いぞ! だって、こんなに広い!」
烏は楽しくてしょうがない様子で、無邪気に笑う。
「ええ! すごく広くて、気持ちが良い!」
少女は耳で風を聴く。肌を滑る空気は清々しく、際限無い自由を感じた。
悠々と翼を広げる烏は、最初に暁の国を目指す。帳の国との友好を王に報告する必要があった。なにより烏は少女の生まれた国を知りたかったし、星の眼を探してみようと約束したからだ。
烏の翼は数日と経たず暁に辿り着いた。帳の国へは海を挟んで七日以上掛かったのにと少女が驚くと、もっと早く飛ぶこともできると烏は胸を張るのでさらに驚いた。
でも一番びっくりさせたのは少女の恩師だろう。
巨大な黒い鳥に跨がった、少年と見紛う姿の姫君だ。まったく、と小言も聞かされたが、以前よりも表情が明るいとも言ってくれた。
烏は人の前に降りることを躊躇していたが、人々には好奇心の方が勝ったようで、最終的には町の子供たちを背に乗せて遊んでやっていた。烏に変わってから、人への感染が現れないことも少し気を楽にしたようだ。
国を越えれば文化も違う。常識は非常識に。善いは悪いに。楽しいことも危険なこともあるかもしれない。ふたりは忘れないよう胸に刻んだ。
「……物語の通りだ……」
それからさらに半日掛けて、暁の国で一番高い山にその場所を見つけた。
「どんな所ですか?」
「大きな山の頂点が皿のようになっていて、そこに溜まった水が、とても広大な湖を作っている。……水が青いのは……、」
窺うように滑空していた烏が、高度を下げる。
「すごいな、水底の苔か何かの色だと思ったのだけど、純度が高い。あんまり透明な水だから、空の色を映しているんだ」
「では、天気で色が変わる不思議な湖ですね」
「うん。鏡のようで、どちらが上か下か分からなくなりそうだ」
弾む声に少女もくすくす笑う。昼間なので目隠しは外せないが、楽しそうに伝えてくれる烏の話を聞くのは面白い。
「このまま夜を待とうか。星もきっと壮観だろう」
足場になる場所で羽を休め、烏は言う。少女は同意しながら、硬い地面を靴の裏で確かめながら伸びをした。
「少し待っていて」
そう告げるや、烏は飛び去ってしまった。置いていくとは思っていないが、地形も把握できない場所に取り残されるというのも、少々不安なものである。
「遅くなってすまない」
傾いてきた陽の暖かさにうとうとしてきた頃、烏は戻ってくるなり、銜えた何かを少女の手に持たせた。
「石? ですか?」
「ううん、水晶。これが話の水晶なら、視力の助けにならないだろうか?」
「あ……」
やや興奮気味に言う烏に、少女は物語を思い返す。
星の眼はあった。このまま記載通りなら、この水晶を通せば少女の目も見えるのではないか。
「ありがとうございます。夜が一層楽しみになりました」
「うん」
手を伸ばすと羽は湿っていて、随分と水晶を探してくれたらしい。その気持ちが嬉しかった。
「今の湖は、黄金色にきらきらと水面が輝いて、そこに燃ゆるような朱が差している。貴女の目に似ていて、とても美しい」
同じ景色は共有できずとも、心はどこかで繋がっている気がしている。
少女はそれで良いのだと思った。
「……そうか…残念だ」
だから、ガッカリとする烏には悪いのだが、少女はさほど残念な気持ちにはならなかった。
「いいえ。見えないことで、確かに苦労や不便もあります。けれども不幸だと思ったことはないのです。心の一番深いところで、人のあたたかな優しさを感じられるので」
夜空に水晶をかざすと、水晶のレンズを通して僅かばかり視界が澄む。紺碧に明るい光の川があることは分かるが、星と呼ばれる粒の群はどういったものかまでは不明だ。
「それに、あなたがいますからね」
足元に視線を下げると、頭上の光の川と対になっている。鏡というのも納得した。
「……理想でなら、水晶を喜ぶ貴女に贈りたかったのだけれど……」
隣を向くと、烏が首を傾げた。そのくちばしの先で、何かがチカ、と輝く。
「〝花嫁殿〟。私の本当の花嫁になってもらえないだろうか。この先も、一緒に生きてほしい」
少女はその煌めきをじっと見つめた。
「……あ、あの、……」
烏は反応の無さに、おろおろとする。
すると急に何かが弾けたように、少女はふふっと笑みをこぼした。
「そういえば、まだ夫婦ではありませんでしたね」
忘れていましたと笑う少女に、今度は烏が呆気に取られた。けれども、息をぜんぶ出しきってしまうくらい安心して、とてもとても嬉しそうなのだと伝わる。
「わたくしの心は、どんな未来もあなたと共に」
差し出された少女の指に、烏は指輪をそっと嵌めると、花嫁と頬を合わせた。
「愛しています。……ずっと、ずっと言いたかった。貴女が私の鳥籠を開けてくれた時から、やっと…言うことができた……」
そう告げる声と身体が少し震えている。
自分の気持ちを表すことが苦手で、自分の姿を誰よりも恐れるひとだ。どれほどの葛藤があっただろう。
「はい。わたくしも、大好きですよ」
そんな烏を抱きしめてから、花嫁は烏のくちばしに唇をあてた。
次の瞬間には、烏はばしゃん!と盛大に湖に落ちて、またしばらく戻って来ないのだった。