3. 廻り始めた運命
帳の国へ訪れて半月を数える頃。
城はいつになく慌ただしかった。
「殿下に何か、仰ったのですか……?」
「特には、何も」
無いはずだ、とティーカップを傾けながら花嫁ははてと考える。
王子は朝から部屋を出ているとのことで、今日は侍女とお茶の時間を過ごしている。
最初こそ畏れ多いと萎縮していた彼女だが、花嫁の性格も理解してきたのか、快く付き合ってくれているというわけだ。
「本当に驚いたんですよ。あの方が明るい時間から御姿を見せるなんて、何かの聞き間違いかと」
「そんなに珍しいことなのですか」
「ええ、少なくとも私が勤めてからは初めてのことです。湯浴みの際なども夜遅く、入念に人を払っているので、御姿を知る者も滅多におりませんから」
そんな王子が突然城内に現れ、王や宰相を始めとした国を纏める者と会合中だという。
何があったのか気になるが、花嫁は呼び出されない以上、後で詳細を知るしかない。
「では、続きをお願い致します」
ティーカップを空にして、花嫁は催促した。
のんびりとお茶を楽しんでいた訳ではなく、勉強の合間の休憩に過ぎない。嫁ぐからにはこの国の政治や環境なども知っておきたかった。
「ええ、では……あらなんでしょう」
扉を叩く音に、侍女が代わりに出て行く。
聞こえた内容に花嫁も急いで立ち上がった。
◆
薬品の匂いに満ちた部屋で、小さな話し声がする。
耳に馴染んできた独特の抑揚があるその声に、花嫁はほっと安堵の息をついた。
「お加減はいかがですか」
警戒するようにぴたりと声が止む。
「……花嫁殿?」
「はい」
「……っ、出……!」
て行けと叫ぶのは、すんでの所で堪えたようだ。
「お邪魔だったでしょうか」
「……、……」
「? ……申し訳ありません、聞き取れませんでした」
「……貴女には……」
「はい」
「……知られたく、なかった……目を、回して倒れただけなんて、……情けなくて……」
絞り出された声が、ぼそぼそと小さく萎んでいく。
「そうだったのですか。お倒れになったと聞いて、何か病気ではと。安心しました」
存在も不確かな王子が、突然公に現れたのだ。気負うものもあっただろう。
「お疲れ様でございました」
「……」
衣摺れと木の軋む音がした。寝台から起き上がったのかもしれないと、花嫁は少し慌てる。横になったままで構わないのに。
「せっかく足労してもらってこの体たらくで、申し訳ない」
「こういう時は謝られてしまうよりも、ありがとうと言ってもらえる方が、わたくしは嬉しいです」
「……そうか。……ありがとう」
花嫁は自分の頬が自然とほころぶのが分かった。先程まで焦燥に早鐘を打っていた胸に、あたたかいものが広がる。
「はい。本当に、大事なくてなによりです。……御自愛くださいね」
病室に長居するのも気が引けるし、王子が疲れているとは声からも窺える。礼を取って退室しようとすると、花嫁殿と王子が引き止めた。
「……その、」
「はい」
「……また後で…話せる、だろうか。今日は話す時間も、なかったから」
いつも花嫁がお菓子やお茶を持ち寄り、部屋に押し掛ける形なので、王子からの誘いは初めてだった。
なんだか嬉しくなって「はい!」とつい元気良く答えてしまい、花嫁は口を押さえた。
そうして花嫁が部屋へ戻ってから暫くして、本日二度目の来訪者があった。
「びっくりしました……」
扉の前で、花嫁は言葉通りに呆けた。
「たまには……私からと思って」
気まずいような、恥ずかしそうな、歯切れの悪い王子に、花嫁は微笑ましい気持ちになる。
「何か、いい匂いが……?」
鼻先に何かがちょこんと当たり、匂いを捉える。香りの元へ指を持っていくと、しなやかな枝状のものに触れた。
「……女性と約束がある際は、手ぶらでは失礼なのだろう?」
「気にしませんのに。ありがとうございます」
受け取った花を改めて嗅ぎながら、王子を部屋へ招き入れる。甘酸っぱく、青く瑞々しい夜霧を纏った匂いで、花嫁は好ましく思った。
「いつもこんな風に、部屋を暗く?」
燐寸はどこだろうと首を巡らす花嫁に、王子は尋ねる。
「はい。窓から入る月明かりで、特に不便も無かったものですから。今点けますね」
「それなら、このままで構わない。私も夜目が利くし、あまり長居はしない」
「夜目? というと、何か訓練でも?」
「呪いの影響だ。烏という鳥の特徴がある」
「呪いの…‥」
王子の腕は指も退化しつつあり、翼になっている。人から鳥の姿へ変わりゆく感覚が、花嫁には計り知れない。
痛みはあるのか。恐ろしいと思うことなのか。それほど、恐ろしがられることなのか。
「花嫁殿は……全盲ではないという認識で、正しいだろうか? 太陽の光が辛いのだとは、聞いているのだが」
目隠しをずらして燐寸を探していたせいか、王子が尋ねた。
「そうですね、完全に真っ暗という訳ではないのですが、目を頼りに歩くには心許ない視力です。大まかな形や色は識別できますが、書物の細かい字は読めず、字は筆を綴る形で憶えました」
そうか、と王子は呟いた。
紺碧に淡く青い光がある。部屋と、目の前の窓から差す月明かりの眩しさだ。
花嫁が視線を落とすと、手には大きく丸い釣鐘型の花がある。優しく撫でてテーブルの上に一度置いた。
「振り返っても、よろしいですか」
「……うん」
尋ねておきながら、花嫁は言わなければ良かったと思った。そんなことをしなくたって、今更驚いたり怖がったりはしないだろう。ただ、これは。
これは確認だった。王子の敵では無いのだと、この臆病なひとに分かってほしかった。
「……」
つ、つん、つ、つんと床を硬いものが突く音が近付く。
まるで夜の一部だと思った。見上げるほど大きな影は、花嫁と同じくらいの背丈までゆっくりと屈む。
黒い影に両手を伸ばし、掌を置くと、僅かに強張った。肩には長い髪が掛かっている。広いその場所を確かめながら、中心へと辿っていく。布の下のごつごつとした鎖骨の感触、羽根の生えた柔らかい首を上る。顎の輪郭。親指で唇の形をなぞるときゅっと引き結ばれた。
頬の辺りになると羽根はまばらで、目元まで来ると人の皮膚の感触になる。月明かりの肌は青白く、凛々しそうな眉に、くっきりとした高い鼻梁は理知的な印象を受ける。瞳は黒か、茶だろうか。
「……面白い?」
頬に戻って、皮膚と羽根の境界を撫でる花嫁に、ふいに王子が尋ねた。頬肉が持ち上がり、くすりと笑みを混ぜる声はいつもより優しい。
「夜みたいな色だと思って」
「……真っ黒の、無彩色な鳥だから」
肌に触れない程度に、前髪がそっと払われ、横髪を撫でられる。王子とは対照的な真白の髪だった。
「黄金の瞳なのだな。燃ゆるような朱が掛かって、暁の空に似ている」
「そうなのですか?」
「誰からも、教わらなかった?」
「はい。初めて知りました」
「……。この国では、烏は美しいものを集めたがりで、誰にも見つけられない場所に隠してしまうと云われている」
王子は白の髪を梳くように指を絡めた。
「その目玉を抉ってしまいたい――と、言ったら、くれるか?」
花嫁の掌に頬を寄せるみたいに首を傾げ、王子は尋ねる。恐ろしげな問いだというのに、規則的に縫い針を刺すよりも淡々とした言葉だ。
「お望みなら、差し上げます」
「……少しは恐ろしがればいいものを」
聞いておいて応えたら、なぜか拗ねたように言う王子に笑ってしまう。
「大事にしてくださるのでしょう?」
誰にも見つけられない、そんな秘密の場所に隠すくらいに。
目隠しを使う生活が長く、あまり使う機会も役立った記憶も無い眼球だが、欲しがってもらえる程度に美点があるらしい。そのことは、花嫁は嬉しい気もした。
「大事にするよ。とても」
真白に絡ませた指を解き、王子は屈む時と同じくゆっくりと立ち上がった。
「……貴女がこの国へ来て、半月はなるか。何か不便なことや、気掛かりなことは」
「いいえ。どなたも丁寧に接してくださって、不自由無く過ごしています」
「そうか。では、故郷を思い出すことは?」
尋ねる音の調子が堅くなったことに、花嫁は口を閉ざす。
「帰りたくなれば、いつでも帰れるということを忘れないでほしい。貴女が怪物の花嫁となろうとしていることも、含めて。王座を継げるかも分からない私よりも、新王が決まってから改めて婚約を結ぶ方法だって、あるのだから」
夜と同じくらい静かな声に、少し胸が締め付けられた。
「……他国のことに、口を挟むべきではないと思いますが…直系の王子を差し置いて、それではあまりにも……」
長子継承制の帳の国では、まだ前例は無い。
しかし世継ぎに恵まれ難い為に、万が一に備えて、継承権を持つ人間は外部にいるのだとも聞いている。
「長い間役割を放棄していたんだ。むしろそのほうが妥当だろう。優れた候補者との能力の差も痛感しているし、お飾りの嫌われ者よりも、国のためには相応しい者が選ばれるべきだ」
王子が立たされている現状や、何をもって優秀と判断したのか。いくつも複雑な感情が浮かんだが、そのどれも花嫁の想像の域でしかない。
「……さみしくありませんか? そんな風に考えることは」
「さみしがっていたら、きりがないよ」
小さく王子が笑ったのが分かった。どんな理由で笑ったのかまでは、分からなかった。
「そろそろ、戻る」
「……はい。お花、ありがとうございました」
「ああ」
つ、つん、と身体を揺らし、王子は扉を開ける。
「良い夢を。おやすみなさい」
「……おやすみ」
つ、つんと奇妙な足音が扉の奥へ消えて行く。
静けさの戻った青い空間が、ぽっかりと広がっている。
花嫁は釣鐘型の花と寝台に横たわった。あんなに大きな人が、贈り物のために花を探してくれたのだろうか、と思うと口角が上がってしまう。
「……」
密やかに、鳥籠の王子と揶揄されている人だった。
〝怪物〟である自分の身を、注意深く隠していたその人が、外へ出たのだ。王子は恥じていたものの、倒れるほどの負担を抱えて尚、鳥籠の外へと。
彼は自身の何かを変えようとしている。
『さみしがっていたら、きりがないよ』
花嫁は淋しいと思った。
故郷を離れることも。恩師と別れることも。王子と会えなくなることだって、きっと淋しい。
引き止めたり、出て行けと言われなくなってきて、嬉しかったのに。
仲良くなれていると思っていたのは、花嫁だけだったのだろうか。それは、がっかりとしてしまう。
釣鐘の花が香る。花嫁は王子の羽根の感触を思い出しながら眠った。
とりあえず、明日もあの羽根を触らせてもらおう。