2. 傷付いた翼
「なんのつもりだ」
本日の面談は、そんな怪訝な一言から始まった。
「今日は街の方へ出掛けたのですが、良い匂いに誘われまして。この満月焼きというものが名物だと聞き食べてみたところ、これがとてもおいしかったので王子の分もと。それに店主の方は色々なおまけまで付けてくださったのです。食べ物はおいしいですし、人々は気さくで温厚な良い国ですね」
花嫁は満月焼きを頬張り、温かいお茶と飲み込んでからほっと息をついた。
小麦生地にジャムや野菜を挟み、ふっくらと焼き上げた食べ物を指すという。花嫁の口で、ぱくぱくと六口分、おやつに丁度良いサイズだ。
「いや、そうではなく……」
「あ。甘いものは大丈夫でしたか? 甘くないのもありますよ」
「そうではなくて」
次の満月焼きに手を伸ばす花嫁に、王子が嘆息する。
「街で買った物を口にするとは、従者もいただろうなぜ止めない」
「決まった物しか口にされませんか?」
「毒が、毒まではいかなくとも、身体に合わない物が入っているとは考えないのか」
「……考えるに至りませんでした」
「……信じられない……正気とは思えない……」
言いながらも、花嫁は齧った満月焼きをさっぱり胃袋に納めた。
「なにぶん食べられない物がないので。王子は苦手なものがありますか?」
「……」
王子は沈黙だけを返した。
長い静寂が続き、先に堪え兼ねたのは王子だった。
「今は、それほどでもないが……化け物を良く思わない者も当然いる。その化け物の伴侶となれば、花嫁殿も警戒するに越したことはない」
ぽつぽつと話される言葉には、軋むような悲しみが滲んでいた。
毒という単語を、花嫁は改めて考える。今まで口にするものに、何ら疑いも持たなかった。命の危険を感じたことなんて、階段から落ちた時と、馬に蹴られて気絶した時くらいだ。それも自分で足を踏み外したり、迂闊に後ろに立って驚かせてしまっただけで、自分の過ちだった。
この王子は、そんな風に気の休まらない世界に生きているというのだろうか。
「……」
ごく微かに茶器が鳴る。
少し息を抜いて、かち、とカップを置く音。
「花香茶は侍女に教わって、わたくしが淹れました」
「……」
「いかがでしょう」
「……もう少し濃く淹れたほうが、我は好ましい」
「そうですか。ではまた調整しなおします」
「……」
かち、とカップが浮く音がして、花嫁もカップを寄せながら、どのくらいの濃度にすべきか思案した。
「ん……? なんの味だろう……」
「味の種類は、マルの実ジャムとミルクジャムと野菜を挟んだものだそうです」
ぼそりと聞こえた独り言に花嫁は答える。
「今時の満月焼きは自由だな……」
「食べられますか?」
「……花嫁殿が買って来たから」
「さようですか」
「食べたら、部屋に戻れよ」
「承知しております」
不機嫌な言い方も慣れたものだ。
花嫁が食べ終え、ティーカップを空にするまでお茶会は続いた。
◆
「いかがでしょう?」
「……」
濃く淹れた方が良いと言われて四日。
花嫁は今日もお茶を抱えて王子の部屋に訪れる。
「……おいしい」
「それはよかったです。今回は茶葉と湯を二対三で、時間はいつもより短くサッと淹れたのですが、こちらの方が香りが豊かな気がしますね」
渋々といった様子だが、初めての好意的な評価を花嫁は素直に受け取っておく。
「……姫君が椅子も用意されず、床に座らされるなど、怒ってもいいところだろう」
「それは仕方がないのでは。王子も直接座っていらっしゃるのですよね?」
「……」
王子の部屋には家具類がほとんど無いという。食器を乗せた盆をテーブル代わりに、いつも床に直接座っている。嫌悪感は覚えないが、固いのは少々難点だ。溜め息が聞こえた。
「……毎日毎日飽きもせず、何が目的だ。そんなに暇なら侍女とでも話せばいい……」
「わたくしはあなたとお話をしに来ています」
「それで花嫁殿に何の理がある」
「夫婦になるのですから、せっかくならお互いの声も忘れそうな縁遠い仲よりも、仲良くなれるならそれに越したことはないです」
「……何が、夫婦だ……」
王子は鼻で笑った。自嘲的な笑みだと思った。
「化け物の巣に囚われに来た意味を、忘れてはいまい花嫁殿?」
苛烈を含む低い声に、心の臓が凍えた。今、花嫁は王子の怒りを仰いだのだと悟る。
王子が動く気配がした。
頬に掛かった横髪が小さく梳き、撫でられ、露わになった肌に何かがそっと触れた。その冷たさにびくりと花嫁の肩が震える。
「……」
冷たいものはすぐに退いた。王子が立ち上がったらしく、衣擦れの音がする。
「出て行ってくれ」
王子は吐き捨てるような乱暴さで言った。
「部屋にも来なくていい。夫婦なんて、互いの意思ではないのだから」
「それは、困ります」
「何が? そちらの国がか? では外交を続けるよう言っておこう。怪物の発言にどれほどの効力があるかは知らないが」
「そういうことではありません」
「元々我が血筋は子を為し難いし、咎める者はいないだろう。子が欲しいならその辺で見繕えばいい。我の子だと偽っても構わない」
「いい加減になさいませ!」
花嫁の出した大声に、頭の中ではしたないと嗜める老人がいたが遅かった。
「どうしてあなたは勝手に答えを出して勝手に完結してしまうのですかっ! いつもいつもいーっつも!」
その声に、背後で侍従たちが何事かと駆け込んで来たようだが、花嫁の怒りは収まらない。
「わたくしの話も聞かないのにわたくしの気持ちを知った気にならないでくれませんか! 的外れですから!」
「そ、……ちらだって私のことを知らずにのんきに寛いでばかりで、忠告をこれぽちも聞かないじゃないか!」
「そうですよ! わたくしは何も知らない! だから! こうして他の誰でもなく〝あなた〟と話がしたいのですよ!!」
一際大きな声を出して、花嫁はふらつく頭を押さえる。どうすべきか狼狽えている背後の侍従たちに、大丈夫だと下がってもらった。
「……」
花嫁が呼吸を整えることに集中していると、空気がやわく揺れる。目の前に王子が腰を降ろしたのだ。
「……茶だ」
その声に続いて、鼻先が香りを嗅ぎ取る。唇に当てられたカップの中身を、花嫁は素直に飲み込んだ。
「過ぎた真似をしました……」
「……今のは私に非がある。気にするな」
「……これって、喧嘩になるのでしょうか。初めての喧嘩記念ですね」
「なんだ、それ」
王子は苦笑したが、すぐにしんと沈黙が降りる。花嫁は考えを纏めながら、努めて冷静に尋ねた。
「結婚は、やはりお嫌でしたか」
「……私の知らないところで、何もかも決められることが、嫌だ」
王子も何か考えあぐねている様子だった。
「最初の花嫁候補のことは、国に着く前日に知らされた」
「それは随分と、急ですね」
「……逃げられたくなかったのだろう」
王子は話を聞かせるというより独り言みたいで、感情が窺えなかった。
「私の姿を見るなり腰を抜かし、部屋へ入ることも嫌がる、よくある反応だった。二人目は貧困に窮する国の姫で、気丈に悲鳴を抑えていたが、憐れだったので腕に触れて呪いを感染してやった。すぐに国へ戻った」
ゆっくりと深く、王子が息を吐いたのが分かった。溜め込んでいた感情の一部がこぼれ落ちたようだった。
「怪物への反応とは、それが〝正しい〟。正しいのだよ、暁の姫君。夫婦などという契約に、貴女が縛られる必要なんて、無い」
孤独なその欠片を暴いてしまったのは、花嫁なのだ。王子がもっとも触れてほしくない傷に触れ、痛みを与えようとしている。
「……そんな哀しい正しさなら、わたくしは正しくなくともよいです」
花嫁が両手を前に伸ばすと、指先にあたるものがあった。掌を置くと強張るのが伝わる。
上質な毛皮のようなそれはしっとりと柔らかく、仄かな温かさがあり、腕の限りを伸ばしてみても先まで届かない。最初は羽織り物かと思ったが、それにしては生物らしさがある。
「……それが、呪いで変化した腕だ。今は翼になっている」
あんまり不思議そうに触っていたせいか、王子が答えた。
「翼。では、飛べたりするのでしょうか」
「……一応は……」
「そうなのですか。不思議なものですね」
感心と好奇心で触っていた広い翼の感触が変わった。冷たくごつごつとした場所に辿り着くと、びく、と震える。
「ここは」
「……手の名残り。だいぶ退化してきたから、そのうち失くなるだろう」
両手で包んで確かめてみると、五本の指らしい細長い部位が確認できた。掌は無く、小指にあたる部分は指輪を嵌めているのか、金属の手触りがある。
「先程、わたくしの頬に触れたのは、あなたの手だったのですね。あんまり冷たいのでびっくりしてしまいました」
「…………貴女が温か過ぎるんだ」
花嫁の温度が移っていくとともに、硬く強張っていた氷のような指も、緊張が少しずつほどけている気がした。
「……あまり、触らない方がいい。感染は一時的でも、長く続けているとどうなるかは、私にも分からない」
「ではわたくしも、鳥になる可能性がありますね」
「恐ろしくないのか」
「どうでしょう、なってみないことには。けれど空を飛ぶというのはどんな感覚か、興味があります」
「……」
衣摺れの音がした。王子は何か思案しているらしかった。
「飛んでみたい?」
やがて、そう尋ねられる。なぜかその問いに、花嫁は心が弾むのを感じた。
「はい」
答えると、失礼、と断りを入れられてから、花嫁は簡単に抱き上げられた。
掴まってという声に従って、首に抱き着く。
「手を離すから、落ちないように」
翼を打つ音がして、ぐんと身体が浮く。
耳を横切る風の抵抗は鋭く、自由な足の裏が不安だが、恐怖とは別だった。
私室だから屋内だと思っていたが、それにしては天井が高い。どこまで続いただろう。上昇する翼が静かになった。
「きゃ……っ」
そして、今度は下からの風圧が襲って来る。落下しているのだと気付いた。
重力に任せる王子をベッドのように敷いた状態で、花嫁は何事かと混乱し、ぎゅっとしがみつく腕を強める。
「っ……、」
ようやく羽ばたきを聞くと、緩やかに足が地面に着いた。花嫁は力が抜けるままへたり込む。
「か……か、からかったのですね……」
「鳥がよくする遊びだよ」
「う、うそ」
「ほんとう」
笑み混じりに王子は答える。ふっ、と花嫁も吹き出してしまう。
「こ、こわ、怖かった……!」
言葉とは反対に、笑いが込み上げてしょうがない。抑えようとするほどお腹が引き攣って苦しくなる。
「……よかった」
暫くしてやっと花嫁が落ち着けた頃に、王子はぽつりと言った。
「淡々として受動的な、人形のようなひとだとばかり」
「大人しい娘でなくがっかりしましたか」
「いや……ちゃんと、怒ったり笑ってくれるのだと、……安心した」
言葉の通り、穏やかな響きをしている。かたくなな普段と異なり、こちらが本来の話し方だろうと花嫁は思えた。
「わたくしたちは確かに、政治的な縁で結ばれた、国の交渉のひとつでしょう。ですが、わたくしは自分の意志で、今あなたの目の前にいるのであって、憐れまれる存在ではない。今までの姫君もそうだったことでしょう」
「……申し訳ない」
「構いません。謝られるようなことも、されていませんから」
さて、ときりのよいところで、花嫁は部屋を出ることにした。今日は会話もできたし、空も飛んだし、最長滞在時間を更新だ。
しかし、立ち上がったドレスの裾をくいと引かれた。
「あ……」
それは当の本人も想定外の行動だったらしく、すぐに離される。
「なにか」
「いや、……その……、」
王子の言葉を待つ花嫁の袖が、もう一度小さくつままれた。
「……出て行けとは、言ってない……」
「? そうですね……? 言われておりません」
「……」
意図を計り兼ねる花嫁に、きゅっと袖に加わる力が強まる。
「……まだ、いて、いい……」
花嫁は茶器を持って出て行ったが、もう一度お茶を淹れ直して戻って来るのだった。
先程まで無かったクッションが用意されていた。