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僕が編集者になれる日は?  作者: 松元 司
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松宮の家族

第七話 


わずかに酔いの残る松宮は、御茶ノ水駅のホームで言った田島本人の覚悟とも自分に対する励ましとも思える言葉【だから編集へ行けよな】を思い出しながら、厚生年金こうせいねんきん病院の裏道を通り、家までの十分ほどの道程みちのりで、【行きたいさ、俺も編集へ】と思わず松宮は吐き出すようにつぶやいた。

 松宮の住まいである三階建て鉄筋コンクリート建築の美好みよしマンションは、関東大震災復興支援のために建てられたという江戸川同潤会えどがわどうじゅんかいアパートの近くで、新宿区新小川町しんじゅくくしんおがわまちにあった。周りには、小さな印刷所や商店街、そして二階建てや平屋ひらやの民家が密集した住宅街と商業地域が入り混じったところである。

 一階玄関の鍵を開けると、左側の四畳半が松宮の弟の松宮繁まつみやしげるの部屋で、明かりがドア下の隙間から見えた。

「繁、今帰ったよ。勉強しているのか?」

 部屋の中からドア越しに、

「お帰り。」

一言ひとことだけ返事が聞こえた。今年、都立文京高校に合格した繁は、英語が得意で、早くも大学は四谷よつやにある上智じょうち大学か草加そうか市の獨協どっきょう大学の外国語学部を目標に部活にも入らず、毎晩勉強していた。さらに、繁は松宮に、大学を卒業したら商社かメーカーに就職して、海外勤務を目指すと早くも将来の目標を話していた。

 廊下を挟んで右の六畳が松宮の部屋である。廊下の奥にリビングとキッチンがあり、その右側奥の八畳が松宮の両親の部屋である。

 松宮の両親は、月に一度のペースではあったが、二人で日比谷、渋谷、新宿の映画館に行って、その後は夕食を楽しんでいた。そんな時は、松宮と弟の繁は、近所から出前を頼むことを許されていて、中華料理、かつ丼などのボリュームのあるものを注文して食べた。

松宮が普段着ふだんぎのジャージに着替えてからリビングに行くと、四人掛けのソファで父親の松宮武道まつみやたけみちが読書をし、隣に並んで母親の早絵さえは、最近熱中している編み物をしていた。母親の足元には松宮が高校一年の年に家に来た、アメリカン・コッカー・スパニエルの雌犬のアイリス六歳が寝ていた。

今年四十八歳となった武道は、幼いころから絵を描くことが好きで、将来、日本画の画家になることが夢であった。ところが、【神戸郵船こうべゆうせん】勤務の父親が船員になることを望んでいたため、猛反対にあったところ、幸い絵画の担当教員の口添えで、念願の【京都市立絵画きょうとしりつかいが専門学校】に進学できたという経歴があった。

そんなこともあって、来年の昭和四十四年からは【京都市立芸術大学】と呼称変更されることを残念がっていた。その後、武道は、昭和十九年に学徒出陣で海軍に入隊し、終戦後、東京銀座の米軍向け食料雑貨店のPXピーエックスで室内装飾係をした後、現在は東京・京橋きょうばしのブリヂストン本社の専属デザイナーとして働いている。

最近、松宮と同様に父親の武道も妻の影響で、中里介山なかざとかいざんの『大菩薩峠だいぼさつとうげ』、吉川英治よしかわえいじの『宮本武蔵』など時代小説に興味を持ち、リビングの本棚にはデザイン関係の書籍や『美術手帳』などと並んで時代小説が若干じゃっかん目立つようになっていた。

武道と一つ下の松宮早絵まつみやさえは、東京新宿区の甲州街道こうしゅうかいどう沿いにある文化服装学院の出身で、少女の時から読書と映画鑑賞が趣味である。読書に関しては、武道のように本屋で買い求めることをせず、週に一回は近所の貸本屋に通って、月刊誌の『文藝春秋』『中央公論』『小説新潮』を初め、時代小説、推理小説、恋愛小説とジャンルを決めることはせず、数冊纏すうさつまとめて借りて来ては返すといったことが日常的となっていた。

「ただ今、これから風呂に入るけど、良いかな?」

 早絵は、編み物から目を離さずに、

「どうぞ、あなたが最後だから、ガスの元栓閉めて来てね。」

「お帰り隼、何か記念品でも貰えたのか?」

 父親の武道は、本を閉じてタバコを吸いながら眼鏡越しに聞いてきた。

「うん、高級万年筆とシャープペンシルのセットだったよ。」

「あら、良いもの貰えたのね、役に立つじゃない。」

 現実的な早絵は、興味有り気に編み物の手を止めて松宮の顔を見た。その時、早絵の嬉しそうな声に反応して足元の雌犬アイリスが寝ながらパタパタと尾を振っていた。

「ああ、明日見せるよ。今日は風呂から出たら寝るから、二人ともおやすみ。」

こうして、松宮の新入社員歓迎会を兼ねた【会社再建記念日】の長い一日が終わった。


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