初顔合わせ
第三話
松宮が八時三十分に二階の出版部の部屋へ入ると、すでに出版部編集主任の簑輪豊が出社して、しきりと大声で電話を掛けていた。五分ほどすると、松宮の上司の出版部学事課長の塚本慶次も出社した。
「課長、お早うございます。」
「やあ、早いね。松宮君。」
塚本は、部屋の隅にある自分のロッカーに上着を入れると、電話の終わった簑輪に、
「あれ、簑輪君もやけに早いね。著者への督促電話かな?」
と独り言を呟いて、美味そうに好みの煙草であるショートホープを吸った。三十五歳になる塚本と三歳年下の簑輪は共に中央大学出身で、先輩後輩の間柄だと松宮は聞いている。
いかにもエネルギッシュな感じの塚本が、
「松宮君、今日は十時から営業部の部屋で社長から君たち新入社員の紹介があるそうだ。その前に、総務部へ行って出勤簿にハンコを押してきた方が良いよ。」
「はい、分かりました。ハンコは自分が持参したもので良いのでしょうか?」
「うん。多分、数日中にシャチハタのハンコを総務から渡されるから、それまでは私用のハンコを使うと良いよ。」
二階建ての敬文館は、一階が店売所と倉庫になっていて、すずらん通り側と裏道側が通り抜けることが出来て、一般客もたまには書籍を買い求めに来るが、主に書店、取次店、製本所など取引先からの商品の入出荷の場所となっていた。そして、二階が松宮のいる出版部と営業部、総務部、さらに応接室、社長室があった。それぞれの部署ごとに部屋は分かれており、営業部の部屋が一番広かった。
総務部へ行くと、すでに取締役総務部長の林田武蔵は部長席に座って何か書類に目を通していた。
「お早うございます。本日より出社しました松宮です。」
「ああ、お早うございます。」
林田は眼鏡越しに松宮の顔を見て返事をした。総務部には、入り口側の机の上に出勤簿が置かれており、社員は、出社時のみ出勤簿に印鑑を押すこととなっていた。
総務部は部長の林田の他に女性社員が二人いる筈だが、席には居なかった。確か、朝と午後三時の一日二回、お茶を入れるために各部署の女性たちは給湯室で準備をしているのであろうと松宮は想像した。
九時五十分に、総務部から内線電話で各部署に接客中の社員以外は、全社員、営業部の部屋に集まることが伝えられた。
営業部に行くと、代表取締役社長の熊川征太郎、常務取締役出版部長の中田朝彦、取締役営業部長の鴛山正信、取締役総務部長の林田武蔵の四人の重役がすでに正面に並んで立っていた。ほぼ全社員が集まったのを見て、総務部長の林田は、
「皆さん、お早うございます。総務部の林田です」「え、その前に、今春入社された松宮隼君、田島俊成君、白石松音さん、山本美枝子さん、西田加代さん、前に来てください。」
松宮たち五人は、林田の指図に従って、前に出て重役たちの隣に並んだ。続けて林田は、
「本日、朝のお忙しい時間にお集まり頂きましたのは、今春入社されました五名の新入社員の皆さんの歓迎会を兼ねた会社再建十周年記念パーティーを如水会館にて来週八日月曜日の十八時三十分より開催致します。つきましては、社長より一言お話しがありますのでお聞き下さい。」
松宮は、入社説明会のあった三月二十二日金曜日に、明治二十九年創業の敬文館が昭和三十三年一月に倒産し、同年四月八日に親会社である五省堂出版に経営委託して再建したことを聞かされており、来週の四月八日は【会社再建の日】であるとの説明を受けていた。
松宮は、一段と小柄な六十四歳の社長の熊川が見るからに他の重役陣よりも歳を重ねているものの、その落ち着いた威厳のある態度に出版人としての自信と思慮深さを感じた。
熊川はゆっくりと一歩前に進み出で、
「皆さん、お早うございます。お陰様で何とか売り上げも順調に推移し、今年の六月末決算に向けて良い数字が出ることを期待しております。また、今春は、ここに並んでいる新たに五人の新入社員を迎えることが出来ました。これもひとえに皆様の弛まぬ努力の賜物だと私を初め重役陣も心より感謝を致しておる次第です。」
「そこで、来週月曜日四月八日の【会社再建の日】は、共立講堂隣の如水会館にて、極めてささやかではありますが、皆様と共に記念すべき日を祝いたいと存じます。」
熊川は、やや紅潮しながら終始にこやかに社員一人一人の顔を見るように話した。
最後に、熊川は自身が東京商科大学(現在の一橋大学)の出身であり、来週催される会場の如水会館が一橋大学の同窓会館で大正八年に建設されたこと、その一橋大学の同窓会である如水会の命名をした渋沢栄一のこと、そして、敬文館と一橋大学が創業以来今日まで極めて関係が深いことなどを手短に話し、歴史と伝統のある如水会館にて是非とも社員と共に【会社再建の日】を祝いたいと結んで、熊川の社長としての挨拶は終わった。
後日、松宮が上司の塚本から聞いたところによると、敬文館が倒産した昭和三十三年、東京神田錦町に本社のある五省堂出版が敬文館の経営再建を支援することとなり、その再建を任された五省堂出版常務取締役の職にあった当時五十四歳の熊川は、五省堂出版社長の亀川要を初め重役陣の反対を押して、敬文館に残った中田朝彦、鴛山正信、今村雪夫、塚本慶次、簑輪豊、古谷文平などの再建を希望する社員たちの熱意を失わせないようにと、五省堂出版の総務部課長であった林田武蔵のみを連れて派遣されて来たとのことであった。
さらに、敬文館の監査役であり、大株主でもある五省堂出版社長の亀川要は、九月に年一回開催される敬文館の定時株主総会には出席しているとのことであった。




