仮事務所で会社改革は始まった
第十六話
昭和四十五年五月二十五日月曜日、まさに五月晴れで、日中の気温は二十五度と動けば汗ばむ程度で気持ちの良い季節である。敬文館は、今月一日金曜日から五月三日日曜日までのゴールデンウィーク中に、一年間だけ仮事務所として九段下の俎橋近くにある六階建ての【九段俎橋ビルヂング】に社員総出で引っ越し、移転した。
一階が倉庫兼店売所で二階が営業部、三階が出版部、四階に社長室と応接室兼会議室となっている。会社の隣に喫茶店【アイビー】があり、社員は【第二応接室】と言って、朝昼夕と誰か知らん【ミニ会議】と称して、社員同士で息抜きをしていた。
「どう、ひとり住まいの気分は?」
田島は、やや寝不足気味の顔をして、松宮に話し掛けた。
「まあね、食事はどのみち外食が多かったから大したことはないけど、洗濯が面倒だよな。」
松宮は、今年の一月末に飯田橋の両親や弟の住むマンションを引っ越して、中野駅から徒歩七分ほどの木造二階建てのアパートに引っ越した。
「でも、俺は西荻窪から通い慣れているけど、まっつぁんは何と言っても会社までの時間が飯田橋という近距離から中野じゃ、朝が厳しいだろう。」
松宮は、来年会社が神田錦町に再度移転することを考えて、営団地下鉄丸の内線で通える場所として、国鉄と地下鉄が利用できる中野駅を選択した。
「ところで、塚本さんとは上手くやっているのか、何と言っても学事に関して塚本さんは詳しいから・・・。」
松宮は、昨日、来年開催の【大阪万博】によって、新大阪駅から東京駅間が三時間を切るようになった新幹線【ひかり】で関西地区の学事出張から戻って来た田島に聞いた。
「いや、富山県人の粘りには、まったく恐れ入ったよ。何だかんだ言って、大口の教科書採用の注文を塚本さんは取るから・・・。」
田島は、書店・取次会社廻りよりも大学廻りの学事の仕事がいかにも楽しいといった様子であった。昨年の昭和四十四年年十月十三日の和風旅館【昇龍館】での松宮と田島の二人による社長の熊川との会社改革の直談判の後、重役陣と【社員会】は数回の話し合いが持たれ、昨年十一月一日付で、賃金体系も勤続年数に関係しない各個人の仕事量や成果による一級職から六級職までの【能力給】となり、松宮と田島は上から四番目と言うよりも下から三番目の四級職となった。さらに、【部】は残すものの【課】はすべて無くなり、かつての課長・係長・主任はすべて肩書が無くなり、二級職ないし三級職になった。
もっとも、常務取締役の中田朝彦は副社長待遇の専務取締役出版部長となり、取締役営業部長の鴛山正信は、常務取締役営業部長となった。そして、松宮は、営業部の岩淵米治と共に出版部に新設された出版業務担当となり、田島は、松宮のかつての上司の塚本と共に出版部から営業部へ移った学事担当になった。塚本は、古巣の営業部に戻れて絶好調といった様子で、課長待遇の二級職となった。
結局のところ、松宮や田島たちの【社員会】で話し合って決定した要望はすべて会社側に受け入れられた。その結果、松宮は従来通りの部署である出版部で、編集担当者から毎月末に提出される数カ月先の【新刊予定表】に基づいて、営業部と編集担当者相互の要望を調整したり、自ら市場調査や著者とのインタビューをしたりして、新刊ごとの出版と販売に関する情報を記載した【出版業務報告書】を纏めることが仕事となった。
とは言うものの、依然として、松宮は、校正・レイアウトと言った編集業務はなく、たまに編集の仕事があっても、一人が原稿を読み上げ、他の一人が校正刷りをチェックする【読み合わせ校正】など、編集担当者のサブ的な役割でしかなかった。
一方、田島は、部署は以前と同じ営業部と変わりがないものの、松宮がしていた学事の仕事を引き継いだ形となり、今までの書店・取次会社廻りよりも精神的には気を遣う反面、より刺激的で遣り甲斐は遥かにあったようである。
そして、出版部全体の受付的業務を兼ねながら、製造課にいた梁瀬千夏も今年の三月に退職した。代わりに、営業部の宣伝担当をしていた小畑和義が製造担当として来た。さらに、松宮と同期の総務部に配属となった西田加代が今年の十二月に退職することとなった。
松宮は、最近、自分たちが要望した【会社改革】は何だったのだろうと疑問に感じてきた。いわゆる【旧社組】と呼ばれていた重役陣を含む人たちは、以前より元気になった気がしていた。
松宮は、常務取締役の中田朝彦は専務取締役へ、平取締役の鴛山正信は常務取締役へと昇級し、結局は【能力給】と言っても査定をするのは、かつての【旧社組】の人たちで、自分たちは【ひとり相撲】を取らされていたのではと、疑心暗鬼になってきたのであった。
松宮は、クリスマスツリーと正月飾りの入り交ざった中野駅北口から続く【中野ブロードウェイ商店街】の先月見つけた大衆食堂の生姜焼き定食で夕食を済ませた。
中野駅の南口に回り、薄暗い路地を抜け、六畳一間のアパートのドアの鍵を開け、誰もいない暗い部屋の明かりを点けながら、【ああ、とうとう十二月か、何時になったら編集者に・・・。いい加減にして欲しいよ。】と思わず手に持っていた鞄を投げ捨てるように机の上に置いて呟いた。
最近とみに独り言が増えた自分を叱るように【ちぇ、またか】と、実家から持って来た机と新たに買った小さな冷蔵庫しかない殺風景な部屋の真ん中にタバコを吸いながら寝転んで、先の見えない自分の将来を考える松宮二十四歳の師走であった。
【完】
【記】なお、本書の続編として、『僕の編集者ひとり旅』をお楽しみにしてください。近日公開!




