社長への直談判
第十五話
昭和四十四年十月十三日月曜日、昨日の雨が嘘のように、朝から快晴である。松宮は、駿河台交差点に近い靖国通りの裏手にある和風旅館【昇龍館】を夕方の四時から七時までということで予約をした。
この旅館は、松宮が学事課の仕事で中央大学へ行くときに、何度か前を通って知っていた。松宮が先週面会した中央大学の先生によると、中央大学は駿河台校舎を大正海上火災保険に売却して、四年後の昭和四十八年に多摩の八王子市に全面移転することになっているとの話であった。
松宮と田島は、熊川に伝えた午後四時よりも三十分早く行くことにした。二人は、駿河台交差点にある消防署の手前の道を入り、太田道灌の娘に由来する昭和六年から現在の地に有ると言われている【太田姫稲荷神社】を左に見て、向かい側の和風旅館【昇龍館】の二階の八畳ほどの和室に入った。
「社長は、当然、この床の間がある席だよな・・・。」
田島は、落ち着かない様子で部屋を見まわしていた。松宮も緊張していたものの、座りながら熊川に渡す資料を鞄から出して用意をしていた。
「あのさ、先日の打ち合わせ通りに、俺が最初に話しをするから、具体的な改革案の説明は、まっつぁん、頼むよ。」
「ああ、分かっている。でも、社長から質問されたら、二人で答えような。」
「そうだな、了解。」
約束の四時五分過ぎに、旅館の仲居「務に案内されて、熊川は二人のいる部屋に何処となく嬉しそうに入ってきた。仲居が部屋を出ると、
「やあ、君たち良くこんなところ知っていたな。私は初めて来たよ。」
熊川は、二人の顔を見ながら床の間のある上座に笑いながら座った。
「はい、松宮が見つけました。」
田島が答えたので、松宮もやや照れながら頭を下げた。
「さてと、私は六時から如水会館で会合があるので、早速、君たちの改革案とやらを説明していただこうか。」
熊川は、丸い縁の分厚い眼鏡越しに二人を正面に見据えながら話しの口火を切った。
「それでは、早速、私から改革案が纏まるまでの経緯と言いますか、そもそも何故今回のような状況に至ったのかをご説明したいと思います。その後で、松宮から改革案の具体的な説明を申し上げます。」
田島は、小柄ながら堂々とした熊川の気迫に負けまいと、熊川の顔をまっすぐ見ながら胸を張って話した。
昨年四月八日の如水会館での会社再建パーティーの一カ月後に、新入社員の自分たちが耳にした社員たちの会社に対する要望と常務取締役の中田のいう【旧社組】と呼ばれる重役陣たちと、その後に入社した社員たちとの間に深い溝があることに気づかされ、度々《たびたび》喫茶店に集まり、できるだけ多くの社員たちの意見を聞いたこと、その結果、社員総意の要望として今回の改革案を整理したことを説明した。
「なるほど、良く分かった。それでは、松宮君、早速、君からその改革案の具体的な説明を聞こう。その後で私の意見を述べるということで、良いかね。」
二人は、大きく頭を下げて同意した。
「早速、私から改革案の具体的な説明を致します。」
松宮は、予めコピー屋で複写した資料を熊川に渡しながら改革案の説明を始めた。資料の中には、改革後の全社員の名前と担当業務までを記した松宮手書きの図解もあった。
「なるほど、この社員配置図があると、総務部が助かるかな。もっとも、ここの新設部署の【出版業務課ないし係】だけには担当者の名前が無いが、誰を予定しているのかね?」
熊川は、松宮の顔を見ながら先生が生徒に質問するように優しく尋ねた。
「はい、その部署は出版と営業に詳しい者を予定しているのですが、正直、なかなか適任者が見つからなくて現在のところ検討中です。」
「そうですか、私は適任者がいると思うけれどもね。」
熊川は、やや悪戯っぽい目をして二人を見た。
「松宮君と田島君、君たち二人がその新設の出版業務課を担当すれば良いと思うがね。」
「はい、そのことは、松宮とも話し合ったのですが、松宮は良いとしても私は出版のことを知らないので、適任ではないと思います。」
田島は、自分は根っからの営業人と思っているため、以前、松宮が場合によっては二人で担当しようと提案した時も断っていたのであった。
「なるほどね。この社員配置図は良くできているが、やはり会社としてはできるだけ適材適所を考慮して、組織的に行う方が良いでしょう。」「それ以外の改革案については、基本的に了解しましょう。ただし、私だけの一存と言う訳にはいかないので、早速明日、重役会議を開き正式に決めることにしよう。それで良いかね。」
「はい、それで結構です。有難うございます。」
田島と松宮は、二人揃って大きく頷いた。熊川は、渡された資料を手にして、
「ご苦労さん。私は、約束があるので、これで失礼するが、君たちは食事しなさい。」
熊川は二人に笑顔を見せながら、田島に封筒を渡して、部屋を出た。
「まっつぁん、良かったな。さすが、社長だよ。」
田島はホッとしたのか、大きく肩で息をしながら熊川から渡された封筒を開けて中身を見た。
「おい、二千円も入っているよ。」
当時の松宮の月給は手取りで三万円ほどであったから、二千円は大金であった。
「まあ、社長は食事でもと言ったのだし、どこかで飯でも食おうか・・・。」
田島と松宮は、神保町の生ビールと洋食で人気のビヤホール【ランチョン】で生ビールを飲むことにした。昇龍館の部屋代は五百円で、残りの千五百円あれば二人でビールを飲んで、食事もできると喜んだ。
「やはり、思った通り出版業務担当の人選は、苦労するよな。」
田島は、松宮が引き受けてくれることを期待するように顔を見ながら、ビーフシチューと特性ウイナーセットを注文した。
「しゅんぜい、俺がやるよ。出版業務は二人必要だから、営業部から誰か一人いないかな。」
営業部には、旧社組の取締役営業部長の鴛山正信、宣伝担当として昭和四十年入社二十七歳の小畑和義、書店・取次会社担当として昭和三十五年入社三十五歳の成山貞雄、昭和三十七年入社三十二歳の石川章男、昭和三十九年入社三十七歳の岩淵米治《》、昭和四十二年入社二十四歳の新山五郎、今年中途入社三十歳の松川勉、そして田島俊成と同期の山本美枝子の総勢九人であった。後は、店売所・倉庫担当の昭和四十二年入社二十歳の涌田章子、学生アルバイトの昭和四十二年採用の田原聰、昭和四十三年七月採用の小岩信雄がいた。
「そうだな、年齢的には俺達よりも上だけど、岩淵さんは真面目だし、元はアキネ印刷所の営業出身だけど、結構何でも詳しいので良いと思うけどな・・・。」
松宮たちは、田島の酔うと始まる癖のオデコ叩きが始まったので、【ランチョン】のラストオーダーの十時には店を出て、国鉄の御茶ノ水駅に向かった。




