積み木とお茶と婚約と
積み木を崩す夢を見る。
何度も、何度も。
彼はその夢の中で、強制をされている。
地面の上にいくつもの積み木が置かれていて、それを組み立てなければならない。
誰が自分に命令しているのか――何度かそれを確かめようとして、彼は立ち上がり、周囲を眺めた。けれど、誰の姿も見当たらなかった。ただ命令されたという記憶があるばかりで、周囲には人の気配すらも残っていなかった。
仕方なく、彼は積み木を組み始める。
そして、夢の中ではいつも……やがて気付く羽目になる。
この積み木には、正しい組み方というものが存在しているらしいということに。
ある一定の方法。それを外せば、積み木は組み上がらない。
組み上げないといけないことはわかっているから、彼はそのとおりに進めなければならない。
結果、出来上がるのはいつも、全く気に入らない形の城だった。
彼はそれを見つめることになる。夢の中の空間では、他に何も見つめるものがないから。そして段々と、彼の身体は城の中へ吸い込まれていく。その城の中で暮らすのを余儀なくされる。そんな予感が心を支配し始める。
だから、彼は積み木を崩す。
城を壊す。それから安堵の息を吐く。
ああ、よかった。
解放された。
けれどその次の瞬間には、気付く羽目になる。
今のは、やってはいけないことだった。
絶対に、自分だけは、やってはいけない行為だった。
気付くと、顔のない人間に取り囲まれている。
真っ白でも真っ黒でもない、形を持った人間たちが、彼を見ている。
そして、こんな風に、声を揃えて叫ぶのだ。
――――ちゃんとしろよ。王族なんだから。
▼△▼△▼△
「その目はどうされましたか」
とマイルズが訊くのに、思わずエノートは「え」と声を上げて、瞼を触った。するとマイルズがそれを、少し慌てて止める。
「擦らないでください。跡が残りますから……」
「そんなにひどいかな」
鏡を、とエノートが言えば、マイルズがすぐさまそれを用意する。
確かに、彼の言う通りだった。
エノートの目は、やや赤くなっている。金髪碧眼の白い肌だったから、ほんの少しでもその色はやけに目立った。
「まいったな。寝てる間に擦ったのかも」ちらり、と彼は時計を見る。約束まで、そう時間もない。「誤魔化し方を知ってるかな」
「お任せください」
言うや、マイルズは「少しいただきます」と水差しに入れられた冷たい水をタオルに零し、それをエノートの目元に当てた。
本当は、エノートはその赤みの原因をわかっていた。
今朝方起きたとき、自分は泣いていたのだ。
自分自身、驚いた。けれどいつもより早い時間に目が覚めたおかげで、従者であるマイルズが部屋に起こしに来るよりも先に、それに対処することができた。服の袖で拭きとる。ただそれだけ。適切な方法など知らなかったし、何より動揺していたから、自分で思うよりも随分乱暴なやり方になってしまっていたらしい。
マイルズがタオルを離す。
「一時的にはこれで大丈夫です。しばらくは触らないようにしていただければ」
「茶会の間はこれで誤魔化せるかな」
「ええ」
「助かった、ありがとう。それじゃあそろそろ……」そう言って、彼は立ち上がる。「行こうか。約束の時間だ」
そして、ふと彼は思う。最近は政治の勉強をしているよりも、茶会に顔を出している時間の方が長いんじゃないか……第二王子であるにもかかわらず。
いや、第二王子だからか、と。
馬車に乗って、エノートは向かう。今日の茶会は宮廷伯爵の主催するものだから、それほど移動距離は長くない。その合間、マイルズに手渡された参加者のリストに目を通しておく。今日は主賓として招かれているから、エノートも茶会の円滑な進行に協力しなくてはならない。
「リーリヤ様も来られるのか」
その名を見るや、エノートは意識するでもなくそう呟いていた。
マイルズが、それに頷いて応える。
「せっかくこちらにお越しになっている貴重な期間ですから。おそらくしばらくの間、エノート様がお呼ばれになるような茶会では必ず顔を合わせることになるでしょうね」
ふうん、とエノートは軽く頷いて、
「それじゃあ花束でも用意しておいた方がよかったかな」
「御冗談でしょう」
「もちろんだとも」
そう言えば、マイルズもくすりと笑う。茶会に花束なんて持って現れたら、主催は大慌てになるに違いない。たとえ自分宛てでなくとも、王族の贈りものを婚約者に持たせておくなんてできるはずがないし、かといって飾ろうにも、すでに完璧な準備を整えた後なのだ。一から飾りを再検討する羽目になる。とんだ嫌がらせで、もちろんそんなことをするわけがない。
茶会には、約束の時間から五分遅れて辿り着く。それがこの国のマナーだった。
伯爵ともつつがなく挨拶を終え、席へと案内される。
すでにそこには、リーリヤの姿があった。
エノートの婚約者であり、公爵家令嬢である、リーリヤの。
「お久しぶり……でもありませんね」
そう、エノートが語り掛ければ、リーリヤも笑う。
「ええ。先日、出迎えていただいたばかりです」
「一日会えないだけで、千年も会わなかったように感じます。不思議ですね」
「大袈裟です」
公爵と言ってもそれは、王の親類であるからと与えられた爵位ではない。
彼女の属する家は、ほとんど自身の領地を国のごとく治めている。百年ほど前の外交の結果としてこの国の貴族の位に落ち着いてはいるが、その勢力は大きく、機会がそれを許すのであれば独立して王となることだってそれほど非現実的なこととは思われない。事実上、ほとんど対等の相手。
当然、婚約は政治的なものだった。
今日の茶会は十数人ほどだった。誰も彼も知った顔ばかりで、挨拶もそこそこに進行していく。おそらく、とエノートは途中で思った。今日の伯爵の目的は……、
「最近、貿易商がうちに売り込みに来ましてね」
何のために茶会を開くのか。その理由は様々だ。単に定期的な社交の場として開かれる場合もある。派閥の形成を意図するものもある。当然、招かれてばかりでは具合が悪いからと返礼のように行われる場合もある。
しかし今日の場合は明らかで、その貿易商から伯爵が何か面白いものを買い付けたこと……それができるだけの伝手があると、自分の家の力を見せ付けるために開催されたのだと、エノートにはわかった。
伯爵がその言葉を発したのは、一杯目の途中のことで、さりげないものだった。
しかしもちろん、王族である自分が、そんな発言を見逃すわけにはいかない。
「二杯目は、いかがなさいますか?」
そう言って伯爵が訊ねてくれば、すかさずエノートは答える。「果実茶を」
伯爵の笑みが微かながら濃くなったのを見れば、それが正解だと知れた。一杯目の際に提示された今日の茶の種類から考えれば、おそらくそれであろうと予想はできた。
茶会では、主催が用意したいくつかの茶の中から、客人がそれを自由に選ぶことになっている。
建前上は。
実際には、客人がそれぞれバラバラのものを頼むということはない。主催にかかる負担を考えれば、主賓が求めたものを他の客人たちも同じように頼むことになる。だから主賓は、その場において主催が最も振る舞いたがっているものを読み取り、かつそれがどの客人にとっても苦手なものでないよう、配慮する必要がある。
これが今日の茶会で最も重要な場面だったのだろうな、とエノートは思う。後のことは、多少の綻びがあったとしても大した問題にはなるまい。
果実茶に口をつける。リーリヤが「これはどこのものを使っているのですか」と笑って訊ね、伯爵がそれに答えるのを、エノートは聞いている。
表情には出ないように抑えつけながら、それを飲み下す。
エノートは、果実茶が嫌いだった。
▼△▼△▼△
初めてリーリヤに会う、その前の出来事をエノートははっきりと覚えている。幼いながらも、そのとき自分が考えたことまで、明確に。
王と王妃に呼び出され、こう言われた。
「これから会う人は、お前の婚約の相手だ」
婚約。その言葉を、当時のエノートは、ぼんやりとしか知らなかった。
不完全な理解のままでいると、何か具合の悪いことが起きる気がする――そんな予感があったから、エノートは訊ねた。婚約とはなんですか、と。
結婚の約束ということだ、と王は答えた。
しかし僕は約束をした覚えがありません、とエノートは言った。
「お前ではなく、私たちがしたものだ」
慣れてはいた。
たった数年のこととはいえ、エノートはすでに王族としての人生を歩んでいたから。自分の知らない場所で、自分というものが規定されていく。その感覚には、かなり親しんだつもりでいた。
しかしこのときばかりは、愕然とするものがあった。
約束とは、自分がするものではないのか。
自分の知らない場所にあるたくさんの約束……それを束ねて整理してしまえば、ひょっとすると、自分の人生において自由にできる場所など、もうほとんど残ってはいないのではないか。
なにせ、これから誰と生きるかすら、すでに誰かに約束されてしまっている。
「リーリヤという名だ。公爵の言うところでは、控えめながらも優しい少女で……」
茫然のまま、エノートはその後の顔合わせに臨んだ。
向こうが何をどう思っていたのかはわからない。ただ教えられた儀礼のとおりに挨拶をして、座って、茶を飲んだ。
リーリヤは果実茶を求めた。
呼びつけたのが王家の側だったから、彼女の求めが優先された。その頃にはエノートはすでに自分の好き嫌いを隠すことを覚えていたから、顔色ひとつ変えずに、それを飲み干した。
次は公爵家に、自分が行くことになる。
顔合わせが終わった後、そのときのためにと彼女の好みを周囲の者達から聞いた。
リーリヤは、大抵のものは好ましく摂ると言う。
が、東方茶だけは、独特の渋みが受け付けないのだ、と。
物は試しにと、エノートはまだ飲んだことのなかったそれを、リーリヤに再び会うよりも先に一人で取り寄せて、確かめてみた。
今まで口にした中で最も好きな茶だ、と思ったときには。
身体から力が抜けて。
それ以来ずっと、積み木を崩す夢を見る。
▼△▼△▼△
「東方茶を」
と、リーリヤが言って、エノートは耳を疑った。
また別の茶会でのことだった。今度は、たまたまリーリヤと同じ時期に王都を訪れていた侯爵夫人の開いた茶会。たまにしか会うことができないからと、主賓はエノートではなくリーリヤ。その彼女が、侯爵夫人に向かってそう言うのを、確かにこの耳で聞いた。
侯爵夫人は驚いた顔をしている。そしてエノートに、「本当によろしいのか」と言いたげな目線を送ってくる。エノートは目線だけでそれに答えた。彼女がそう求めるのならば、こちらから何か言い出すことはできまい、と。夫人は困惑しながらも、東方茶の準備に取り掛かった。
エノートは、リーリヤに目線をやる。
しかし彼女は、見られていることにすら気付いていない様子だった。
溜息を吐きたくなる気持ちを抑える。ひょっとすると、彼女の中で何か、自分の好みを超える優先事項がこの場に存在していたのかもしれない。
たとえば、社交を結びたい相手がこの会場の中にいて、その人物が東方茶を好んでいるとか……。自分だって普段は好みを抑えて茶を頼んでいるわけだから、彼女にだってそういうことは起こりうるはずだ。もっとも今日は彼も主賓ではないから、全ての客人たちの好みまでは調べ切ることができていない。彼女が誰を目標としているかは、わからないけれど……。
大体が、とエノートは思う。侯爵夫人だって、まさかリーリヤの好みを調べていないわけではないだろう。東方茶が苦手であると知りながら選択肢の中に残してしまったのは、ひとえにその侯爵家が東方に近いところにあるために違いない。
確かに侯爵家の用意する東方茶葉は上等で、エノート自身それを好んではいるが、主賓に気を遣わせるようなら夫人はそれを伏せておくべきだった。夫人が自分ではなくリーリヤを主賓としたのは、これを機に関係を築きたいという意図だったのだろうが、残念ながらその目標は少しばかり遠ざかったように思われる。
馬鹿馬鹿しいことだとエノートは思うが、しかしそれが貴族の流儀でもある。
案の定、リーリヤは東方茶に口をつけて、一瞬顔を顰めた。
それはほんの僅かな――単に、茶の温度に戸惑っただけの些細なもののように他の貴族達の目には移っただろうが、もう十年近く彼女を見つめてきたエノートにはわかった。
「独特なお味ですよね。素敵です」
彼女は、今でも東方茶が苦手らしいということ。
幾分、エノートは多めに会話に交ざった。彼女は自分の舌の上の渋みと戦うのに忙しそうだったからだ。おかげで夫人は、リーリヤが東方茶を飲めるようになったものと勘違いできたらしい。段々と、辺境の地を治める侯爵家の人間に相応しい落ち着きを取り戻し、茶会はその後、円滑に進められた。
一杯目を飲み干す直前になって、リーリヤが言った。
「エノート様は、いかがですか?」
少しだけ、エノートは戸惑った。
それは文脈にそぐわない、突然の言葉だったから。さらに言うのであれば、何についての質問なのかも判然としなかったから。
けれど、答えないわけにはいかなかった。テーブルの貴族達も彼女の発言の意図を解しかねていたが、ここで自分がすぐさまそれらしい受け答えができれば、それは彼女の言葉足らずではなく、婚約者同士だけの間で通じる洗練された会話として処理される。
「やはり東の方が食物の種類が豊富ですね。私は都に籠りきりですから、新鮮です」
そう言えば、後は貴族達も勝手にそれを解釈する。何か前段となる会話が二人の間であったのだろう、と。そして会話は続く。東方の食物といえば、そういえば最近こんな果実が、あらそれでしたらちょうど今日……。
二杯目は、果実茶に決まった。
果たしてそれが彼女の目的を損ないはしなかったか、そのことに、エノートは不安を覚え、幾度かリーリヤの様子を窺った。
二度に一度、目が合った。
けれど彼女が何を意図して自分を見ていたのか、とうとうそれを理解することはできないまま、茶会は解散となった。
▼△▼△▼△
かちゃり、と小さく音を立てえて、机の上に紅茶が置かれた。
匂いでわかる。最もスタンダードなもの。雑味の少ないクラシカルな、こんな風に真夜中に本を広げて勉強をしているときには最適のもの。
「ありがとう」
とエノートは顔も上げないままで伝える。見ずとも、マイルズが頭を下げたのが気配で感じられる。
机上に置かれたのがティーカップだけでないことに気付くまで、頁は四十を進んだ。
「これは?」
「招待状でございます。……そのままお気付きになられないかと、はらはらしました」
「なら言ってくれればいいのに」
「集中されていたようですから」
集中していたから気付かなかったというのなら、いま気付いたのはその集中が途切れたからだった。目頭を押さえてぎゅっと目を瞑り、それからエノートはうんと背伸びをする。
「ダメだな。外国語文献は、小説ならともかく学術書になるとどうしても時間がかかってしまう」
「翻訳が出るまでお待ちになりますか?」
「次の春までには出るか?」
「それを期待されるようでしたら、学術振興にもう少しご予算を割く必要がございますね」
「耳が痛いよ」
それで、とエノートは机の上に置かれたものを手に取る。
それは薄い、一枚のカードだった。
「……リーリヤ嬢からか」
「ええ。先ほど」
書かれているのは、開催場所と日時のみ。それがごく一般的な、茶会の誘いだった。
「予定は? 入っていれば、それは別のところに」
「いえ。何も」
「そうか。都合が良かったな」
エノートはカードをマイルズに手渡しながら言う。
「主賓というわけでもなさそうだが、礼儀は欠かないようにしないとな。ある程度、参加者を調べておいてくれ」
「かしこまりました」
頼んだぞ、と言ってエノートはまた本に取り掛かる。
そう。
頼んだぞ、と言ったはずなのだ。
▼△▼△▼△
風邪を引いたのだと言う。
マイルズが。
代わりに部屋にやってきた従者からそう聞かされて、エノートは初めただただ驚き、その後には心配になった。
「あのマイルズが?」
「あのマイルズが、です」
その従者も、あの几帳面で精巧な、時計めいた男が体調不良を起こしたなどという事実をどう受け止めていいかわからなくなっているように、エノートには見えた。彼もまた、自分と同じで戸惑っている。
だから、必要以上に落ち着いて見えるように、そうか、とエノートは頷いた。
「お大事に、と伝えておいてくれ」
「はい」
「それからあいつは、こういうときでもない限り働き詰めだから。これを機会に、少しゆっくり休むようにとも」
「はい。確かに伝えておきます」
さて、とエノートは時計を見て考える。
マイルズがいないとなると、予定のサポートはあまり期待しない方がいい。しっかり自分で、一日を組み立てなくては。
しかし幸い、今日は立て込んだ用事はほどんど入っていない。社交が必要になるのは、以前に招待状を受けていたリーリヤ主催の茶会、そのたった一つだった。しかし明日はもう少し用件があったはずだ。確か、新しく設置される審議会の顔合わせが……。そんなことを考えながら、とりあえずは目先のことから片付けることにする。
「資料を」エノートが言う。
「はい?」従者が困惑の表情を浮かべる。
同じように、エノートも。
「……まさか、マイルズから何も聞いていないのか?」
「は、はい」
「何か渡されたものは?」
「ありません……」
数秒、エノートは頭を抱えた。
今日の茶会の、他のゲストたちに関する資料は今日この当日に受け取る予定だった。マイルズのことだから資料そのものを作っていないということはないはずだ。となると、人にそれを託すのだけを忘れたのだろう。らしくないミスだと思うが、しかし体調不良とあってはそれも仕方がない。
「今からマイルズのところへ――」
「いや、いい」
従者が言うのを、エノートは制した。「もう、間に合わない」
頭を下げる従者に、「君が謝ることじゃない」とエノートは告げる。大丈夫だ、今日は主賓じゃない。それに、開催場所が王都の公爵家別荘であることを考えれば、集まる人間も宮廷貴族が多いだろうことは想像がつく。それくらいなら、よほど予想していないことが起こらない限りは自分だけでも対処できるはずだ……。
最後に、「マイルズには回復してから私が言う。今はこのことを伝える必要はない」とだけ念押しして、エノートは別の従者に導かれ、馬車へと乗り込んだ。
会場までの短い時間を、エノートは胃を痛めながら進んだ。
おそらく、問題はないはずだ。さっき従者に伝えたのはただの気休めではない。何らの事前学習なしでもどうにかなるはずだ。
しかしそれでも、不安は残る。リーリヤとともに都に来ている公爵家ゆかりの貴族達……。彼ら彼女らに自分一人で会うことは滅多にないから、記憶が曖昧な部分がないでもない。頼む、と席にもたれてエノートは祈る。頼むから、無事に終わってくれ、と。
入口で馬車を降りる。案内役が立っていて、「こちらです」とエノートを導いて歩いていく。それに彼は、静かについていく。
段々と、奥まった場所へと進んでいった。その間にもぐるぐると緊張は膨らんでいく。何度か来たときに家の構造は頭の中に入れていた。大広間からはすでに遠ざかり始めているから、それほど大規模のものではない。それに、今通り過ぎたのは十数人用の部屋だったはずだ。記憶にある限り、もうこの先にある部屋は少人数用のものだけで、いやしかしあまりに人が少ない場合こちらのボロも見えやすく――、
案内役が、とうとう扉を開いた。
頭を下げて、エノートの入室を促す。中にあるのは、たった一つのテーブルだけ。
椅子は、たったの二つだけ。
向かいの一つは、リーリヤが埋めていて。
ほっとしたような、そんな気持ちで中へと入る。そうか、と納得する気持ちもあった。マイルズの珍しいミスは、きっとこれが原因だったのだろう。婚約者と二人だけという状況をあらかじめ知っていれば、それほど今日の茶会は大事とは思われまい。だからこそ、体調不良の中で忘れ去られてしまったのだろう、と。
「お招きいただき……」そこまで、エノートは言いかけて、笑う。「堅苦しすぎますか?」
「はい」リーリヤが、笑って答える。
けれどその笑顔は、どこか悲し気に見えた。
エノートが座れば、茶会が始まる。
ように、思われたが。
「……リーリヤ様?」
彼女は、動き出さずにいた。
怪訝な気持ちで、エノートは彼女を見る。まさか「お茶はまだですか」なんてことは訊けない。けれど、この場面で主催である彼女が動かない理由が見当たらない。
まさか彼女まで体調不良で、ぼんやりしているのだろうか。
そんな心配の気持ちで覗きこめば、
「……エノート様は、」
彼女は語り出し、しかし、そこで言葉を切ってしまう。「……いえ、なんでもありません」
エノートが何かを言う前に、リーリヤは立ち上がり、茶の用意を始めた。ごく少人数の茶会であれば、こうして貴族が手ずから茶を淹れることも、それほど珍しいことではない。
なんなんだ、とエノートは心の中で不安を覚えている。
一体、何が彼女の顔に差す憂いになっているのか。そのことを考える。先ほどの語り出しから考えればおそらく自分も原因の一つなのだろうが、心当たりが思い浮かばない。
いっそ、とエノートは考えた。
いっそ、訊いてしまおうか、と。今後これがこじれても面倒だ。察することは大事なことだが、しかし自分の能力を超えたことに挑み続けるのには、当然危険を伴う。
「リーリヤ様、」
だから、問いかけようとした。
けれどその前に彼は、つい先ほどの彼女と同じように、言葉を止めることになる。
東方茶の香りがする。
彼女の苦手な、茶の匂いが。
何も言わず、リーリヤがエノートの前に茶を置いた。
そして、自分の席に座って、自分の分に口をつける。
相変わらず、少しだけ顔を歪めて。
何かを、とエノートは思う。
何かを自分は試されているのではないか、と。
リーリヤはどうしてわざわざ自分の嫌いな茶を淹れたのだろう。しかも、こちらの意向も訊かないで。もし訊かれたら、自分はこう答えるつもりだった。果実茶を。それなのに、どうしてわざわざ……そう、彼は考えて。
「エノート様は、」
その思考の途中で、彼女がまた、話を始めた。
「東方茶は、お好きですか?」
ひょっとすると、とエノートは思った。
あのとき、侯爵家の茶会で彼女が言ったあの謎めいた言葉。
あれは自分に、東方茶に対する感想を訊いていたのか、と。
「そうですね」ならば、とエノートは無難な微笑みを返して、「癖のあるお茶ですよね。私は嫌いではありませんが、なかなか人を選ぶ……」
今度も、エノートは最後まで言い切ることができなかった。
ほろ、とリーリヤの瞳から、涙が流れ出したから。
ぎょっとした。
驚きのあまり、礼儀すら忘れた。腰を上げてしまう。もうこうなっては仕方がないと開き直って、そのまま立ち上がって、彼女の傍まで寄ってしまう。
「どうされました。何か、お気に障るようなことを……」
「違います」彼女は、首を振って、「違います。ただ、私が……」
涙に指を当てようとする彼女の手を、エノートは止めた。無礼だとは思ったが、手首を掴んだ。
「擦ったら、お顔が腫れてしまいますから……」
そう言って、ハンカチを彼女の頬に、柔らかく押し当てる。化粧まで吸い取ってしまわないか心配になりながら、しかし手を離したあとも、彼女の顔かたちは美しいまま、そこにあった。
「どうされたんですか」
座ったままの彼女に目線を合わせるために、屈みこんで、エノートは訊ねる。
「果実茶が、」リーリヤが、たどたどしく、話し出す。「お嫌い、なんですよね」
一瞬、エノートは瞳を見開いてしまう。
そんな隙を見せたのは、ほんの幼い頃だけの話だ。今になって、彼女にわかるはずがない。そう思っていたから、その言葉はまるで予想していなかったもので。
「いえ。一体誰から、そんなことを?」
「違います、誰からも聞いてはいません」リーリヤは、やはり首を振って、「私が自分で、気が付いたんです」
じっと彼女はエノートを見つめた。
涙に濡れた、冬の夜空のような瞳で。
「ずっと見ていたから、わかるんです」
あなたのことを、と彼女は言う。
そしてエノートは、何も返せなくなっている。
見ていた? 彼女が、自分のことを?
不自然な話ではない。婚約者だ。自分が彼女を観察しているように、向こうだって、自分を見ていてもおかしくはない。自分が彼女のほんの些細な変化すら見極められるように、他人では決して見破ることができないと自分では思っていた表情の誤魔化しを、彼女だけが見抜けるとしたって、そう。おかしくは、ないのだ。
けれど、それでも、信じられずにいた。
自分のことをそんなに熱心に見ている人間が、この世に?
「ずっと……」
彼女は、さらに続ける。
「悪いと、思っていたんです。私の好みが果実茶だと知られているから、茶会では皆、珍しい果物を用意しています。それを無下にすることもできず、いつもエノート様には苦手なものを、と……」
「そんな、」
慰めるように、言おうとして。
エノートは気が付いた。ずっと、断りもなく彼女の手を握ったままでいることに。
良くない。婚約者は、恋人ではないのだから。与えられているのは結婚の約束のみ。愛までは、誰も何も、約束してはくれないのだから。
その手を離そうとすれば、代わりに、彼女が彼の手を握った。
それだけで、二人は何も言えなくなってしまう。
お互いの思いで結ばれた二人ではないから。
触れたところに宿る熱に、どんな気持ちを抱いていいのか、わからない。
「私は、」
からからに乾いたエノートの喉から、そんな言葉が出てきて、しかしその先を紡げないまま消えていく。
彼女を慰めるための千の言葉が思い浮かぶ。
けれどそのどれも、ここで使ってはいけない気がした。
だから、その代わりに。
「――僕、は」
たった一つの、思いだけが。
「苦手です。確かに。果実茶の酸味が、どうしても受け付けなくて――」
どうしてこんなことを、話してしまっているのだろう。
これだって、口にしてはいけないことなのではないか。
彼女を傷付けるだけの、無神経な言葉なのではないか。
そう、思うのに。
でも。
「あなたが涙を流すほど、僕はつらい思いをしてきたわけじゃない」
お願いです、とエノートは言う。
お願いだから、と。
「泣かないで……。僕は、あなたに悲しんでほしくて、我慢をしてきたわけじゃないんだ」
ずっと。
エノートは、我慢をしてきた。
王族として与えられる義務の全てを、確かにこなしてきた。
それが、多くのものを与えられてきた者が果たすべき義務だと、わかっていたから。
積み木を崩せば、非難されるとわかっていたから。
そして同時に――義務以上のことも、自分に強いてきた。
王家と公爵家の立場はほとんど対等……だから、彼は言うこともできたのだ。
『私は果実茶が嫌いなんです。
私がいるときは、それを頼まないようにしてください』
それを言うだけで、少なくとも茶会の憂いの一つを取り除くことができたのだ。
それを、しなかったのは。
約束をさせられたのは、一人だけではなかったから。
「わかって、いるんです。エノート様が、無理をしていること……。私の前では、ずっと作り笑いをしていたことも……」
彼女だって、同じだ。
自分と同じ、誰かに約束されてしまった子ども。
積み木の夢を見る、子どもだった。
「もしかしたらと、思ったんです。もしかしたら、エノート様が好きなのは、東方茶なのかもしれないと思って……。そうしたら、あなたは、笑って。私は今まで、あなたから、奪うだけ奪って――」
「違う」
エノートはそう言うが、しかし、リーリヤは首を横に振るだけだった。
これは、ただ茶の種類だけの問題ではない。そのことを、お互いにわかっていた。
これは、互いの人生の話なのだ。
同じ境遇にいた二人だった。けれど、片方は片方のために、自分の好きなことと、嫌いなことを我慢してきた。そのことに、与えられてきた側の人間が気が付いた。
今、きっと。
エノートにはわかる。彼女の頭の中では、これまでの自分との記憶が巡っている。そしてその中から、彼女は探し出している。自分が――彼女の婚約の相手が我慢をしていたはずの瞬間を。そして、彼女はそれを一つ見つけるたびに、自分の心に一つずつ傷をつけていく。
今、こうして。
目の前で涙を流されるたびに傷ついていく自分の心を見れば、そのことくらいは、簡単にわかった。
「僕は、」
もしも、反対の立場だったら。
きっと、本当の言葉が欲しいから。
「僕は、ただ……」
思い出している。
果実茶を飲んでいるときの、彼女の表情。たったそれだけ。
彼女の微笑み。
だって、それだけで。
「あなたが笑っていれば、自分も幸せになれるような……そんな気が、していたんだ」
手だけでは、もう足りなかった。
気持ちは、言葉だけではもう、伝えきれなかった。
だから彼は。
強く彼女を、抱き締めた。
思いが溢れて、加減ができなかった。
彼女への愛、それだけではない。むしろそれは、きっとまだ、ほんの少しに過ぎない。
大部分は、これまでと同じ。
ただ、自分への慰めのため。
自分によく似た人を慰めることで、自分が救われたような気持ちになるため。
誰かに決められた相手に対して抱く恋情は、生まれてからずっと時間を共にしてきた自分自身に抱く同情よりも、遥かに小さなもので。
それでも。
「私、も――」
些細でも、微かでも、ほんの僅かな、欠片でも。
それでも、確かに。
確かに――――。
「私もあなたに、心から笑ってほしいんです――……」
二人は初めて、抱きしめ合った。
誰かの全てを受け入れたいと思いながら。
誰かに全てを受け入れてほしいと思いながら。
たとえそれが、運命の相手ではなかったとしても。
自分で決めたわけではない、地位と、政略と、偶然によって引き合わされた相手だったとしても。
それでも確かに。
僅かばかりの愛とともに、抱き合った。
▼△▼△▼△
積み木を崩す夢を見る。
今でも、彼は。
夢の中で、強制されている。
憂いに支配されている。
もう、誰かに何かを決められるのが嫌になっている。
だから彼は、積み木を崩す。
けれどそうすることでは誰にも認められないから。どこにも逃げ場なんてないから。彼はもう一度、それを組み直さなければならない。
けれどある日――その夢の中で彼は、自分の隣に、誰かがいることに気が付いた。
それは少女だった。自分とそう、年の変わらない少女。そして彼女が泣きながら積み木遊びをしているのを見れば、すぐにわかってしまった。
ああ。
彼女も、自分と同じなのだ。
彼は、積み木のいくつかを彼女に手渡した。
「よければ、これを使ってみて」
そう言って、数少ない、自分の気に入っている積み木を差し出した。
彼女は一度は喜んで、それを自分の城づくりに使い――しかし結局、彼と同じように、それを崩してしまった。
驚く彼に、彼女は言う。
私も、と。
「私もあなたに、何かをしてあげたい」
二人は迷った末に、お互いの積み木を、全て混ぜ合わせることにした。
自分たちの手の中にあるものを全て混ぜて、新しいものを建てることにした。
それは決して、一から十まで、二人が気に入るものではなかったけれど。
それでも、少しくらいは。
▼△▼△▼△
「知っていたのか?」
ふと思い出してエノートが訊くと、マイルズは初め、「何のことでしょう」ととぼけた。
しかしエノートがしばらく黙っていると、結局はこう言って、肩を竦めた。
「いつでも従者は、主人のことを一番に考えているものです」
よく言う、とエノートは笑った。
その日は、リーリヤが公爵領へと帰っていく日だった。
エノートはその見送りに行くために、朝早くから動き出していた。マイルズが部屋に入ってきたときにはすでに外出の準備を終えていて、それからこう言った。
「リーリヤ様に、少し話がしたい。段取りは?」
一瞬だけ、マイルズは驚いたような、あるいは喜ぶような顔をして、それから胸に手を当てて小さく礼をして言う。
「お任せください」
いつも助かるよ、とエノートは小さく、頭を下げた。
そして今、彼らは彼女の別荘にいる。
案内役に二、三言マイルズが告げれば、奥へと案内されていく。
あの茶会を開いた小さな部屋で、彼女は待っていた。
椅子に座っていたのが、こちらの姿を見た途端に立ち上がろうとする。エノートはマイルズに部屋の外で待っているよう合図をして、それから彼女に「そのままで」と告げて、歩み寄っていく。
彼女は、ものすごく緊張した顔をしていた。
ひょっとすると、エノート以外の人間にも、そうとわかってしまうくらいに。
「あの、」
「ミルクを入れると、いいんだそうです」
「え」
だから、今度はエノートが、彼女の言葉を遮って、そう切り出した。
「ミルク、ですか」
「ええ。ミルク、だそうです」
ええと、と彼女は悩む。
何の話をされているんだろう、と記憶を探るように。
ひょっとすると出てくるかもしれない、とエノートはそれを面白く眺めていたけれど、しかしもうそれほど時間もない。早々に、答え合わせを口にすることにした。
「東方茶に、です」
「東方茶に、ですか」
オウム返しに彼女が応える。まだ何のことかわかってないようで、だからエノートはそれにくすりと笑って、こう付け足す。
「そうすれば、渋みが減って飲みやすくなる……。東方でも、そうして飲む人が多くいるそうです」
だから、と。
彼は、勇気を出して。
「今度また王都に来られた際には……それか、僕が公爵領を訪ねたときには、よければ一緒に、試してみませんか」
リーリヤの瞳が、見開かれる。
指先に、少しだけ力が籠もる。
「いいんですか。私、あんなにみっともないところを……」
「あなたが、こんなに無礼な婚約者を許してくれるなら」
そう言って、エノートは屈みこむ。
あの日のように、彼女に視線を合わせて。
彼女の手に、自分の手を、重ねた。
「……私、苦いものがダメなんです。ひょっとすると、ミルクを入れても飲めないかもしれません」
「そのときは、果実茶に切り替えましょう」
「でも、それじゃ、」
「僕が東方茶を二杯、あなたが果実茶を二杯飲めばいい」
リーリヤの驚きの中に、悲しみが広がりかけた。
それがわかるから、エノートはその手に優しく力を込めて、
「でも、それだけでは寂しいから。良ければ、椅子を移動させてください」
「椅子を?」
「ええ。あなたの隣に」
そうすれば、とエノートは言う。
寂しくないでしょう。
お互いに受け入れられないところがあったとしても、近くにさえいれば。
それは離れ離れではなくて、分け合っていると、そう呼んだって構わないのですから。
「……私の作法の先生がそれを見たら、きっと卒倒してしまいます」
「そうでしょうね。僕の先生も、きっとそうです」
「それじゃあ……」
そこまで言えば、ようやく。
「また二人きりで、会うしかなさそうですね」
彼女は、笑った。
「ええ」
だから、エノートも。
「実は今のは、また二人きりでお会いしたいという、健気なお願いだったんです」
ふふ、とリーリヤは、口元を押さえて笑った。
あまり社交の場では、褒められたものではない仕草。
けれど、今の二人に必要なのは、礼儀などではなく。
「果実茶を飲みやすくする方法は、私が調べておきます」
「あるでしょうか。東方茶と比べれば、果実茶はそれほど苦手な人がいないような……」
「でも、色々な種類もありますから。きっとエノート様も、一つくらいは気に入る飲み方があるはずです」
手紙を書きます、と彼女は言った。
「向こうに着いたら、すぐに。私の家で手に入れられる果物を調べて。そうしたら、その中にある苦手なものを教えてください。それを参考に、色々と試してみますから」
「手紙は、少し苦手です」
「私もです。無礼な手紙を書いたら、エノート様に叱られてしまいそう」
「叱りませんよ」
「では私も、エノート様から無礼な手紙を受け取っても、許します」
まいったな、とエノートは言う。
まいってください、とリーリヤは返す。
表情は、もう。
これまでとは、まるで違って。
「僕は、まだ」
と、エノートは言った。
「あなたのことを愛しているとは言えません」
「……私も、です」
「でも、愛し始めている」
手紙を書きます、とエノートは言った。
「やけに長いな、と思ったら今の言葉だけ思い出して、捨ててくださって結構です。きっと、何枚も何枚も費やして、今の一言を伝えたいだけですから」
「捨てません。きっと、あなたが私の手紙を捨てないのと、同じように」
「リーリヤ様の手紙も、長くなりそうですか?」
「ええ。とびっきり。でも、そうですね。もし、一言で表すとするなら……」
部屋の扉がノックされる。
もう出立の時間だと、誰かが伝えに来たらしい。
リーリヤは立ち上がる。
エノートの手を、指先で少しだけ抓んだまま、囁くように。
瞳を見つめながら、言った。
「またあなたにお会いしたいと、そう思っています」
(了)