Ⅰ (3)
「昔、あたくし、結婚を約束した殿方がいましてね。でもその人、ある日を境にいなくなってしまったの」
唐突に、めでたい席でとんでもない話が始まった。聞き手たちの間に緊張が走る。
そんな皆の様子をものともせず、静香の母はよく響く声で話し続けた。
「そりゃもちろん悲しかったけど、なんとか前を向いて家業を継ぎ、あたくしそれなりにがんばりました。その後、夫に出会い、娘も授かって。幸い仕事も順調で、今はとっても幸せ。あのとき消えてくれた彼に、感謝したいくらいなのよ」
始まったかと思えば、ヘビーな導入部に反して、話はあっさり終わるようだ。
彼女に見据えられた目をそらせないまま、無言でひたすらこくこくとうなずいていた恭二は、内心胸を撫でおろした。
さすがは、長年人の上に立つ仕事をしてきた人物。少々強引ではあるが、こうした場での身の処し方は心得ているのだろう。
「だからもう、お恨みしていません。どうぞ、お気になさらないでね……鈴木さん」
そう言うと、不意に振り返った静香の母が、にっこり笑った。
その視線の先にいたのは――恭二の席の二つ隣、彼女から見れば斜め向かいの席で、先刻から汗が止まらなくなっている、恭二の父だった。
(――えーーー?!)
恭二は機械仕掛けのように、二人の顔を見比べる。
(え、ちょっとどういうこと? 親父が、静香のママさんの元カレ?)
静香の母が、ふと遠い目になった。
「おつきあいの始まった頃は、結婚したら玉の輿だ、いや逆玉だ、なんてふざけていらしたけど。いざ将来のことがリアルになってくると、重たくなられたのかしらね、家付き娘に婿養子に行くだなんて。あたくし、こんな勝気な性格ですし」
苦笑して、恭二に視線を移す。
「でも恭二さん、安心なさって? 静香はこの通り、父親似で穏やかな娘ですから」
たしかに、彼女の隣に座る静香の父は、こんな爆弾発言を聞かされたというのに動じる様子もなく、娘とよく似た涼しげな顔で妻を見守っている。
だが、自分の両親は、そして静香は、いったい今、どんな顔をしているのだろう。
様子をうかがいたいけれど……う、動けない。
まるで、蛇ににらまれたカエルのように。貫禄たっぷりの静香の母の圧力に、恭二は声も出せずに固まっていた。