連載第一回
一章 長太郎、誘われる
相も変わりませず古いお話でございます。
お芳の婚礼から、早いもので年を越しまして、春の声も聞こえて参りました。梅の花ももう少しで咲こうかというような、そんな頃合いのこと。お芳のお裁きの一件から、長太郎も町内のご隠居方とも顔つなぎができまして、家に籠もって詰め碁を解いているだけの暮らしから、ちょいちょいと他所のご隠居を相手に碁盤を挟むようになりました。
「山紀屋さん、そう言えばここのところ頼母子の話が町内の隠居連中に出回ってますのじゃが、ご存じですかな」
そんな話題が出たのが事の発端でございます。
「いやあ、存じませんな。頼母子というと、お伊勢参りでも」
「いやいや、そんな町内で伊勢参りの路銀を貯めようというような小さいものとものが違います。この大坂中に話が出てるぐらいのもので」
「そうなりますとますますわかりませんな。何のためのもので」
「この大坂にも、子無しやとか娘皆嫁がせてしもたとかで、面倒見てくれる人間のあてがないままそこそこの歳になってしもた夫婦が仰山いるようになりました。そういう人からお金を集めて、新田を作って、そこから採れる米を銭に替えて、皆に配ろうという、そういう大きな頼母子でんねん」
「左様か。えらい大それたこと考えた人がいてはりますのやな」
そんな話してますと近いところで碁を打ってるご隠居様から声がかかります。
「ああ、それやったら、うち入ってますわ」
「え、お入りですか、近江屋さん」
「ええ、うちは結局子に恵まれませんでしたんでな。番頭を養子にはするつもりでおりますが、やっぱり血の繫がらん者に全く頼って良えものかとちょっと心許ないものがありましてな。それで、まあ用心のために一口入りました」
「それでどないです、銭はいくらかでも入ってきますか」
「ええ、入ってもう丸二年になりますが、とりあえず二年、まあまあ贅沢せなんだら過ごせようかなという、その程度の配当はありましたで」
「はぁ、やっぱりそうなっとりますかな」
「山紀屋さん、あんたはまだ歳もお若いし、先のことなんかあんまりお考えではないかもしれませんがな。今のまま若隠居続けるんやったら末はひとり。先のことも考えておかはった方が良えんとちがいますか」
「そうでんなあ。まあ、今のところ何とかせんなんという気もあまり湧かんのですが。そういうもんもあるということは頭の隅に置いときますわ。教せてもろておおきに」
当たり障りのう応対した長太郎でございますが、何か引っかかりを感じておりました。仕事はせんのにこういうことには良う動くのがこの長太郎という男でございます。例の古手屋へ向かいまして、卯建の上がらん長屋住まいてな服に着替えます。そして聞き出しておきました頼母子の座元のところへ。
「もうし、新田講の座元さんはこちらでよろしいかな」
「ええ、左様でございますが、頼母子にお入りで」
「いやいや、まだ考えてます最中でな。話だけ伺おうと」
「左様ですか。そら構いませんが……お見受けするところ、かなりお若いようですが」
「二十四になりますが、あきまへんか」
「いや別にあかんことはないんですが……大体がこれ、先の不安なご年配のためにやっとることでございましてな。お若い方でご興味をお持ちの方は珍しい。なんぞのご事情で」
「いやいや、ご事情てなことはおまへん。あほらしもない。まあご覧いただいてお分かりのとおり、しがない職人なんでやすけどなあ、あまり他所では仰らんように願いたいが……ここだけの話、わたい女子てあんまり好きまへんねん。男が好きというわけではないんでやすが……。
大事にしてやったらいい気になる、厳しくしたら臍を曲げる、わたい嬶というのはそういうもんやと思てまんねん。ひとり口は食えんがふたり口は食えるてな、あんなんも良え加減なもんでやすわ。嬶の相手してる手間で細かい仕事でもしたら飯代も出てまだ余るてな具合で儲かりまっせ。たまにおかしい気分になったら、女郎買いに行たらよろし。若い女子選び次第や。
まあ、そんなわけでわたい生涯嬶貰う気はないんだ。ただ、これから先ぃ、体が思うように動かんようなことになるそれだけが心配でな。ほいでまあ話だけなと聞かして貰おうかと、こういうわけでんねん」
「なるほどなあ。ある意味、達観ですな。いやまあ、どんなお方でも出せるお金をお持ちなら構わんのですが。ただ、一口が三十両とつきますが、そちらの方は大丈夫ですか」
「いやぁなかなか。侮ったらあきまへんで。さいぜんも言うたがわたい嬶の相手してるのがもったいない、その分銭になることしたらという性質でっせ。悪いけど、ちょっとまとまった銭は持ってますわ」
「なるほどなあ。いかほどお出しで」
「それは話を聞かせてもうてからですな。新田開くと聞いてますが、どこどこにどんな田を開くんです」
「まあ、行く行く大きなって行たら、他にも広げて行くことになるやろとは思うんですがな。今のところ、西宮の北西の方になりますが」
「山手の方と違いますか」
「まあ、山手ですわ。そやけど、棚田と言うて山でも田んぼにできますからな。それでやっとります」
「配当というのはなんぼです」
「一口やったら月二分ですな。月初めの支払いになります」
「左様かあ。ん~、まあ、銭のこっちゃさかい、いまここで決めるのはやめときますわ。ちょっと帰ってじっくりさせとくなはれ」
そう言うて帰って参りましたが、長太郎の頭にはもうどうしようもない疑いがございますな。
(西宮の北西の山手。そんなところに田ができるか。そやけどまあ、近所のご隠居連中、助けてやらんならんという気も、お芳に対して起こったほど起こるわけもなし。まあ放っとこか)
これだけで片付けてしまいます。
二章 長太郎、仕える
「ああ、許せよ」
お侍様が山紀屋の門口にお立ちになったのは、それからまもなくでございます。
「へえ、お越しやす」
言うて丁稚が立ちかけましたのを番頭が制止いたしまして、結界の中から立ち上がって番頭が自ら応対に出るようにいたします。
「これはこれはお侍様。このようなところへようこそお出ましいただきました。本日はどのような御用向きで」
「漬物屋に用向きと言うて漬物を購入するに他はない。日用使い汁物用の味噌を購入に参ったが、何か相応しいものはあるか」
「左様でございますか。間違いのないところでございましたら、白味噌がよろしいかと思います。今日は京より西京味噌の上等が入っております。今日はまた瀬戸内から麦味噌も入っておりますので、たまに合わせてお使いいただきますと、気が変わりますのでまた美味しくお召し上がりいただけるものかと思いますが」
「そうであるか。では、その西京味噌を一貫、併せて瀬戸内の麦味噌を三百匁、買い上げ遣わす」
「ありがとうさんでございます。では子どもに運ばせるようにいたします」
「ああ、待て。当家山紀屋の隠居は長太郎と申す者に相違ないか」
「はい、当家の隠居は確かに長太郎でございますが、隠居が何かいたしましたか」
「その隠居に、本日夕刻に持参させることはできるか」
「え……ええ、まあ、隠居他に何用ございましても、お侍様のご用事とあらば足を運ばせますが」
「ではそのように願いたい。本日酉の刻以降あまり遅くにならぬよう隠居に持参させよ」
「かしこまりましてございます。では、お屋敷の場所を」
「よく存じておろう。儂は吟味方与力水野左近様家内の者。与力様の邸宅まで持参せよ」
「かしこまりましてございます」
「では、必ず間違うことならぬぞ」
そう言うてお侍様が去なはってから店の中はちょっとした騒動になります。
「あのご隠居をお名指しでお届けやて」
「あの役立たずが売り上げたん初めてと違うか」
「こらもしかしたら、あの隠居呼びつけて何かお叱りでも……」
「店をお取り潰してなことにならんやろな」
「堪忍してぇなぁ。この歳で放り出されたらもうわい行くとこないで」
ここで店の旦那……と言うても、長太郎の弟、傳次郎でございますが、店の奥から出て参ります。
「店が騒がしいが、何かありましたのかえ」
番頭が答えます。
「これは旦那さん、えらいご心配をおかけいたしまして。いや、お吟味方与力の水野様のご家中の方がいらっしゃいまして、西京味噌と瀬戸内の麦味噌をお買い上げいただいたんですが、それを今日の夕刻、うちのご隠居様に持たせて届けよと、こう仰ったんです」
「うちの隠居、と言うたら、儂の兄のあの隠居か」
「そうでんねん」
「理由は仰らなんだんか」
「特に何も……旦那さん、まさか、ご隠居様についてはって、水野様に嫁がはったお芳さんに、ご隠居様が何か悪いことでもしはったんとちがいますやろか」
「儂も兄貴のことじゃで、そんなことはないと信じたいがなあ」
「これ、もしかしたら大変なこと……どないしまひょ」
「どうするもこうするも、持たせと言われているのやから、持たすしかないわいな」
そんなわけで、長太郎身支度を調えまして、夕刻に味噌を持って店を後にいたします。
侍屋敷町に至りまして、門番に味噌を届けに来た旨告げますと、話は聞いているとのことであっさりと通されます。お侍様のお屋敷に味噌を届けに来た商売人が、表の大戸を通るわけにはもちろんまいりません。水野様のお屋敷へ至りまして、裏口へ回ります。こんこんと木戸を叩きますと「どなた」と声が帰って参ります。
「漬物屋の山紀屋でございます。本日お昼間にお申し付けを頂きました味噌、お届けに参りましてございます」
そう返答を致しますと、勝手口の木戸が開きます。味噌を渡そうといたしますが
「どうぞ中へお入り下さい」
と予想外のことを言われます。
「あの、私は味噌をお届けに参りましただけにございますが」
「とりあえず中へお入り下さい。与力様のお申し付けの事でございます」
ということで中へ通されます。中へ入りますと、客間へ回れと表の方に通されます。
「あの、本当によろしいんでございますか、私はただ味噌をお届けに……」
「与力様のお申し付けです。ここでしばらくお待ち下さい」
そう言われて広い部屋に通されます。ここまでは家のお女中相手でしたが、家臣のお侍様も奥から出てこられます。
(こらもしかしたら、儂の思うとおりに事が運んだんかも知れんな)
内心長太郎、少しわくわくしております。
「ここでしばらく待て。与力様がまもなくお越しになる」
そう言われて、待つことしばし。与力様がお越しになりまして、ぴたりとご着座でございます。当然長太郎はその間ずっと平伏をしております。
「山紀屋。久しいの」
「は、与力様におかれましては、ご健勝のご様子、何よりにございます。承りますれば、見習いのお立場から正与力におなりあそばしたそうで誠におめでとうございます」
「そのように堅くならずとも良い。知ったる仲ではないか。面を上げるが良い、気安く話を致そう」
「は、それでは失礼を致します」
長太郎、顔を上げますが、与力様が柔和なお顔をなさっているので、まあ、これならお叱りではあるまいと改めて安堵を致します。
「昨年の婚礼では世話になったの。我が妻を無事に守ってくれたこと、改めて礼を申す」
「は、恐縮でございます」
「時に山紀屋、妻の申すところによらば、その方は碁を良く打つそうじゃの」
「良く打つなどと、滅相もないことでございます。下手の横好き、へぼ碁の手本のようなものでございます。お恥ずかしい限りでございます」
「なるほど、へぼ碁の手本か。もしその方さえ体が空いておれば、今から一局打たぬか」
「よろしいのでございますか、私のような者が与力様とお手合わせ願えるなど」
「よいよい。では、一局打とう。誰かおるか。碁盤と碁石を持て」
碁盤と碁石が整います。
「黒と白、好きな方を選ぶが良い」
「お稽古をつけていただく立場でございますので、黒石を頂戴いたします」
こう申しますと、長太郎、一手目はまず右辺奥の星。二手目で与力様、左辺長太郎側の星。三手目に長太郎、手前の星に石を押さえます。四手目で与力様が左上辺の星。五手目で長太郎は左上辺与力様の白にカカります。与力様が左下辺の黒を挟む間に長太郎は左の辺中央の星横三線目に。
「ふむ……。山紀屋、その方なかなか面白き碁を打つの」
「これぞへぼ碁でございます」
「いや、なかなか、これは侮れんぞ。右辺への開きが早うなる。なおかつ左辺で白地を防ぎ中央も狙う構えであるな」
「私の考えておりますこと、すべてお見通しでございますな。恐れ入ってございます」
その後しばらく、ふたりは特に何も話すこともなくかちん、かちんと石の音を響かせておりましたが、与力様、ふと思いだしたかのように口を開かれます。
「時に山紀屋、その方近ごろ大坂に出回る新田講の話を存じておるか」
「はい、隠居などしておりますとどうしてもご年配の方々とお話しをすることが多ございます。なかなかに大きな頼母子と見えまして、私の顔見知りにも入ったという方がいらっしゃいました」
「どう思う」
「左様でございますな。話を聞く限りでは、西宮の北西に田を開くとか。どう考えても山手でございますが、棚田で田を開くことはできると。ですが、私は正直申し上げまして、少々信じられぬものを感じております」
「儂の睨んだとおり、その方、既に動いておったか」
その後またしばらく石の音だけが響きますが、与力様、口をお開きになります。
「山紀屋、儂に仕えぬか」
「は」
「我が妻の父君嘉納源右衛門様の件、その後城内でも調べが進んでおっての。その方、なかなか捨て置けぬ働きをしたこと、次第に詳らかになっておるぞ。面白き動きをする男であると思うておったが、この碁の石の運びを見て確信致した。儂のために働かぬか。思えば、その方の店で我が妻が女子衆をしておったというのも、何かの縁であるかも知れん。暇はあるであろう。どうじゃ」
「は、そこまで仰っていただけるのでしたら、この身が与力様のお役に立つのならばお仕え申し上げたいと思いますが、十手持ちだけはご勘弁を」
「ほう、それはなぜじゃ」
「お上より十手をお預かりする者ともなれば、それなりの威厳というものがなければお役目が務まりません。見てのとおりの貧弱なこの体のどこにも威厳などと言うものはございません。また、この大坂は町人の町、あくまで町人で通していた方がいろいろと動きやすいということもございましょう。お給金をいただこうとは思うておりません。どうか、かかるお金だけはお願い致します」
江戸時代のお話をしておりますと、ちょいちょい出て参りますのがこの十手持ちでございますな。これ元々「目明かし」と申しました。正式なお侍様やのうて、お侍様が自費で雇いました使い走りでございます。お侍様のお持ちの十手とは違いまして、房がついておりません。ここで区別されていたわけですな。
この目明かしにえらいお給金が出てたわけやないんで、せいぜい年に一両か二両程度やったと申します。もちろんこれだけで暮らしていけるものではございませんので、目明かしたちは街中を見回りまして、ちょっとしたトラブルやなんかにお上のご威光をかざして入り込んで、方つけて礼金貰ろてたそうやございます。これが行きすぎまして、半ば恐喝に近いような例もたびたび発生致しましたので、江戸時代中何回も禁令が出ております。江戸ではこれを「岡っ引き」などと呼び換えてるのはこの辺の加減ですな。江戸以外では結局のところ「目明かし」で通ったようでございますが。禁令が出ていたとはいえ、お侍様から見たらやっぱり便利です。なんぞかんぞと名目変えてとうとう廃止にはならなんだ。
長太郎、十手持ちだけはご勘弁をと申しておりますが、これは要するにそういう半ば侍のような、悪う言えば示談屋のようなことは自分は良うしまへんさかいに、自分の給金は要らんから活動費用は出して下さいと、こういうお願いになるわけでございます。
「なるほど、十手持ちはかなわん……か」
「恐れ入ってございます」
「よし、それならばそれで行こう。早速動けるか」
「どのようなことでございましょう」
「その新田講のことじゃ。すでに入っている者の中に、配当の数日の遅れを訴えておる者がおるらしい。まずは、その調べから入れるか」
長太郎、碁盤に石をかちんと置きます。
「与力様のご命とあらば」
結局、一局済ませ、長太郎、与力様の邸宅を後にいたします。
「くくくくく……」
こらえようと思ても押さえきれん笑いが喉の奥から出て参ります。
(こいっちゃ、こいつが楽しみで儂ゃお芳の件気張って片付けたようなもんや。何ぞええことがあるとは思とったが、与力様直々にお声がけ下さるとは大きな獲物がかかったもんや。これから何ぞ事が起こるたびに、儂ゃ与力様の隠密としてこの大坂の町の裏で動き回れるんや。こんな楽しいことはまあ他にないぞ)
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ……」
低ーい声で歌うて歩きながら、足は浮き立っております。
「そ~~~~~いや、う~~~~~~」
(おお、あんな所にうどん屋が出たあるやないか。考えてみりゃ、儂ゃ今晩のご飯食べそびれてるのやがな。一膳いただこかな)
そう思うただけでうどん屋とふっと目が合うのが商売人のえらいところですな。もう向こうは言いに来るのを待ってうどん玉に手を伸ばしてます。
「うどん屋、熱いので一杯つけてんか」
「へ、ありがとさんでございます。大将、今日は何か、お喜び事でもおましたかな」
「ほう、何でそう思う」
「何でそう思うて、お顔がもうお喜びですわ。嬉しいてしょうがないてな具合で綻んでまっせ。侍屋敷町の方からお越しということは相当良えことと違いますか」
「やっぱりわかるかな。いや、実はな……いや、こら言えん、言えんぞ。うどん屋、お前まさか儂にかまかけて秘密を探り出そうてなことを考えてるか」
「堪忍しとくなはれ、誰がそんなことしますかいな。……どうぞ、でけましたさかい、お召し上がりを」
「ほなまあ、呼ばれよか。蒲鉾、えらい分厚い。ん……ん、ほでまた、良え蒲鉾やがな。こうなるとお汁が楽しみや……良え鰹張り込んであるやないか。うどんは出汁で食わすねん、こやなかったらいかん。うどんが……ん~、つるっとしてしこっとして。どんだけ儂を喜ばす気や。なんぼ喜ばしても、儂ゃ給金貰ろてへんさかい、銭は出せんぞ」
「それだけは堪忍しとくなはれ。他何仰ってもよろしいけど、うどんのお代だけは」
「分かってる、分かってる。二八の十六文や。そんだけの銭倒さへん。ゆっくり、ゆっくり食べさして。あとの半分には、ちょっと唐辛子を貰おうかな。この詰めを抜いて、ぱらぱらっと……こらまた、良え香りやなあ。ちょっとそこらで売ってるもんと違うやろ」
「へえ、うちの嬶の親戚が京に居てますんでな。ちょいちょい京の七味屋さんの唐辛子を送って貰ろて出さしてもうてます」
「あの、清水さんの七味屋。偉い。なあ。手ぇ抜いたもん出しても、精魂込めたもん出しても、二八の十六文には変わりがない。同じ出すんやったら、一生懸命作ったもんを出しといたら、払う方は良え買い物やったと思うわい。いつも、ここへ出てるの。また折があったら食べに来るでな。銭が細かいが……じゃらっと出てしもたな。まあ良え、十六文より上はあるやろ。取っといて取っといて。祝儀や。ほなまあ、おおけごっつぉはん」
「おおきに。お気に入ったらまたお越し。……行てしもた。始めから終いまで、えらいご機嫌やったなあ。そやけど、改めてこう見たら、あの格好隠居の着物やで。怪体な人や。二、四、六……二十二文置いて行かはった。六文の祝儀やな。まあ六文少ないんと違うんやから良えけどな。お得意さんが付くてな商売人にとってありがたいことなんやが、えらいおもろいお得意さんが付いたな。これから再々来はりそうやな、あの人は」
うどん屋喜ばしながら長太郎、店へ帰って参りますが、店の前でうどん屋の言うてたこと思い出して、自分で頬をぱちぱちと叩いて綻びだけ押さえて店へ入ります。
「今戻った」
「ご隠居はんお帰りやす。えらい遅いこってしたなあ。なんぞお叱りか何かでもあったんやないかと言うて皆案じてましたんやが、どういうご事情でこうも遅うおなりで」
「いやいや、大したことはないわ。ただ、奥方様から儂が碁石を持つという話が与力様に伝わっててな。一局相手をとおっしゃったんで、お相手を仰せつかった」
「なんぞ粗相でもございませんでしたやろな」
「いや、これと言うてまずいことはないで」
「それならよろしいが……ちなみに、どちらがお勝ちで」
「そんなもん、儂みたいなのんが与力様に敵うはずがあろまい。味噌一貫三百、ずっと持って歩いたせいもあって儂の手効かんわ。石を持つのもなかなか上手くは運ばなんだ。いろいろとしんどかったわい。儂ゃもう、休むで」
「ご飯はどうしはります」
「ないかも知れんと思て、途中に出てたうどん屋でうどん食べてきたし、もう良えわ。寝る」
誰にも知られん間に、長太郎がとんでもない大役を引き受けた晩が、こうして暮れて行きました。
三章 長太郎、嗅ぎ回る
朝を店の連中よりだいぶに遅うに起き出しますと、手水を回して朝ご飯。専属であったお芳はもう嫁いでおりますし、店に居ってもしょうがないさかい、自然と足は人寄り場所へ向かいますな。もっぱらの相手は町内のご隠居連中。何とはなしに碁盤と碁石があって、打ってる人は打ってます。そうでない人は大体火鉢の周りへ集まりますな。どういうもんですか、暑うても寒うても、火鉢の周りというのは囲みとなるもので。ほいでまた、暑うても寒うても、何となしに手をかざしますな。
「おお、山紀屋さん。今日もお越しですな」
「どうもおはようさんで。……えろうお早いこともございませんかな。碁盤と碁石はもう今日は皆仕事をしてるようですな」
「まあまあ、あんたも火鉢へ手をかざしなはれ。お茶淹れたげますわ」
「どうもおおきに。頂戴を致します」
長太郎、実はこうやって火鉢に手をかざしているだけというのも嫌いではございません。皆それぞれ癖があって面白い。
(ああ、火箸で炭を入れ替えてはるな。あれ癖なんやろうなあ。ほう、上の方のまだあんまり熾ってないのをいったん脇へよけてどうする。真ん中辺の一番良う熾ってるあたりに火箸の先で隙間を作るか。ほいで。あんまり熾ってないのをそこに入れる。そしてその上に、隙間の所にあった良う熾ってるのを積み上げる。炭が早よ燃えてしまうが、まあ勢いは良うなるな。なくて七癖。妙な手癖があるもんやな)
こういう人間の観察をするのも長太郎なかなか好き。いつか何ぞ事があったら真似したろと思いながら見ております。
「山紀屋さん。お茶が入りましたで、お上がり」
「ああ、こらどうも、えらいはばかりさんで。……今日は何か、変わったことはおまへんやろかな」
「さあなあ、まあ相変わらずこともなし。これが一番ですわな」
「さよかあ……どこかの家の飼い猫が子ども産んだてな話でもあれば、我々はそれでひとしきり話ができますが、そんな話もおまへんかな」
「おまへんなあ。至って平穏なもんで」
「……そう言えば近江屋さん、この間話していただいた例の新田講の話ですが、あれはうまいこと行ってますかな」
「へえ、相変わらずきちんと配当が出てますが」
「私も、先のこと考えたら、ちょっと考えても良えんやないかてな気になっているんですが、お金のこっちゃさかいいろいろと話を伺ってからにしたいと思うてます。講にお入りの方にご紹介願うわけには行きませんかな」
「ええ、そら構や致しませんが」
こうして長太郎、何人か紹介をしてもらいますと、そこからまた紹介してもらう、さらにそこからというわけで広げて参ります。
「こんなことを伺うたらえろう疑うてるようでございますが、配当の遅れてなことはございまへんやろかな」
「へえ、うちには毎月きちんと貰ろてますが」
「はあ、やっぱりそうでっしゃろなあ。入らはったんは、どなたかに教せてもろてお入りになったんですか」
「うちは町内の鶴竹さんから教せていただきましたな」
「逆に、どなたかをお誘いになったというようなことはおありですかな」
「そらもちろんございます。数揃うほど新田が大きくできますでな。うちからは七、八軒お誘いしましたな」
「失礼ではございますが、その方々のことも教せていただきたいのですが……」
こうして遡る方向とあとへ続く方向、次々に見ていきます。
しばらく探っていきますと
「そうでんなあ。ここふた月ほど、配当が二、三日遅れたことがございましたな」
やがてこういう人が見つかります。
「そうですかあ。それで頼母子から抜けようとはお考えにはならあらしませんか」
「もう長いことお世話になってますんでな。割と安心してお任せしてます。そらあんた、人間のやることですで、たまには手違いてなこともありますで」
「まあ、そうかもしれまへんなあ」
曖昧に相槌だけ打っておきますが、嗅ぎ回ってる長太郎にはだんだん全体像が見えてきております。とりあえずそのことを与力様にご報告せんならん。というわけで傳次郎に珍しい漬物を少々包ませまして、長太郎、侍屋敷町にやって参ります。与力の水野様にご挨拶を、と門番に伝えますと、伝令が走りましてしばらく後に帰って参ります。
「通れとのことである。通るがよい。しかし、他所へ立ち寄ることはならぬぞ」
「かしこまりましてございます」
裏から入って客間へ。与力様と対面致します。
「碁盤と碁石を持て」
家中の方に碁盤と碁石を用意していただきます。表向き、話が長ごなるのは碁を打っているからということになりますのんで。ふたり差し向かいになりまして、相変わらず長太郎の黒番から打ち始めます。
「そろそろ何か言うてくる頃合いじゃと思うておったぞ、山紀屋。何かわかったか」
「はい、とりあえず百人ほどから話を聞きましたのでお伝えに参りました」
「ほう、それで何かわかったか」
「はい、まず、配当の遅れが出ているということは確かにございました。そういう方たちはこの頼母子が始まりましてまだ小さなころから入っておいでで、深うにこの頼母子を信じておいでです。ですので、少々の遅れも気にすることなく、人間のやることですので間違いもあろうかと、そうお思いのお方がほとんどです。そういう方々の中には西宮北西に出向き直に田をご覧になった方もおいでです」
「なるほど」
「また、この頼母子がこのところ急に大きなっていることもわかりました。これそのものはかなり長いことやっていることでございますが、ここ数年で急坂を描くように人を集めております。話を聞いて回りわかりましたことは、このぐらいでございますが」
「なるほど、あいわかった。して山紀屋、調べて回って、どのように考えた」
「悪い方へ考えればでございますが……形ばかりの田を作りそれを見せて信じさせて、その後は新しい人を引き入れてその銭を古い人に回しているだけ……ということもないことはないかと思います。集めるだけ集めたところで、逃げてしまうという考えもでけんことはございません」
「なるほど、実は儂も新田開墾の免許を調べてみたのじゃが、どうやら届けのあったとおりに免許を出したのみで、現地見聞を行った形跡がないのじゃ。これはやはりちと臭うの」
「私もそのように考えます」
「その方なら、この後どうする」
「まずは、その田を見とうございます」
「やはり、思うところは同じであるな」
与力様、しばらく何事か考える様子で、扇を少し広げてはぱちんと閉じ、広げてはぱちんと閉じを繰り返しておられましたが、そののちこう仰います。
「出向けるか、山紀屋」
長太郎、ほんの少し頬を緩ませ、黒石をかちんと置いて言います。
「与力様のご命とあらば」
その数日後、日和のいい日を選びまして。
「今日も一日ぶらぶらしてくるわ」
店にはそう言いまして、店からは離れたところで旅支度の道具を一式揃えますというと例の古手屋の二階へ。すっかり旅姿になりましてまず西宮へまいります。そこでちょっと足を休めついでにお腹をこしらえまして、北西の山手にかかってまいります。話に聞いた棚田を作るのはおそらくこの辺り。
「思たとおりやな」
独り言をつぶやきます。
(麓の割に平らなところには確かに田が開けてる。田をこの目で見たと言うてはった人たちはどうやらこの辺を見せられて得心してしもたんやろ。この目で見たで、という人を最初になんぼかこさえておいて、そこから話を広げて行たんやろな。坂になってるとこは木が切り倒されてるがこの木はまあ材木屋にでも売り払ろたんやろ。切り株がまだだいぶ残ってる。これを抜いて取ってしまうだけでもかなりしんどいはずや。これを棚田にしようというのは、もうどんだけ大変なことか考えも及ばんな)
長太郎、念のため坂になっておるところを藪に分け入ってまであちこち見回りながらずーっと登って一番上まで参ります。
「……やっぱりな。そらそやろ」
もう一度独り言をつぶやきますと、もうこれは確信に変わっております。
大坂へ帰って参りまして、また例によって与力様のところへ。そしてまた例に変わりませず碁盤を挟んで打ちながらの話し合いでございます。
「大儀であったな。早速ではあるが、如何様であった」
「山の麓のまだ平らと言うてよいところには確かに田がございました。田を見たと仰る方々はおそらくこの田を見たものと思います。最初に田を見たという人をこさえておけば、後はそれなら確かということで人が集まります。増して、坂になっているところは木が切り倒されておりまして、いかにもこれから手をつけるぞと言わんばかりでございました。しかしあれほどの切り株、除けて田にするだけでも一苦労、そして田になければならんものがないのも見て参りました」
「田になければならぬもの。それは何じゃ」
「水でございます。藪に分け入って探して参りましたが、小さい湧き水すらございませんでした。麓の方には川がございますのでそこから水車を使うて水を汲み上げれば棚田の上の方にも水は行くのかもわかりませんが、水車を作っている様子は全くうかがえませんでした。仮に水車がでけたとしても、幾重にも汲み上げ水車をこさえんと上の方までは届かんはずでございます。とてもの事に上の方では歩が出るほどの米は取れんものと考えます」
「なるほど、となると……やはり」
「おそらくは、新しく入った人の払うたお金を、古い人に回して上手いこと行ているかのように見せかけているだけ。集めるだけ集めたら、逃げる算段かと思います」
「なるほどな。儂も城内でこの件当たってみたのじゃが、一度免許を出してしもうた相手故、どうも奉行様はじめ儂の上司に当たる方々も腰が重い。儂も若輩者故あまり口も出せぬ……困ったものじゃな」
与力様、扇を例によってぱちん、ぱちん。しばらくお考えのご様子でしたが、やがてこう仰います。
「取り返せるか、山紀屋」
長太郎、にやり。碁石を、かちん。
「与力様のご命とあらば」
「では、動け。何か要るものはあるか」
「とりあえず、頼母子に入るお金三十両、これだけまずお貸しいただきたく存じます」
こうしてまずは三十両という元手が出来るわけでございます。




