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第03話 慟哭のガルギオン・後編

 ミーシャがまさしく世界の終焉を迎えた気分でいると、突如として陣幕の外周部にあった柱が付随する白布ごと数本まとめて引き倒され、その向こう側から銀灰色の装甲に包まれた犬面の怪人が陣内に飛び込んできた。ガルギオンである。意表を突かれたモラーヴァンたちは慌ててそちらを振り返り独鈷杵を構えると、いつでも迎撃が可能な体勢をとった。

 だがしかし、威勢よく突っ込んでくるかと思われたガルギオンは陣内に入ってほんの数歩前進しただけのところで急に立ち止まって、それ以上は近づいて来なかった。代わりにメキメキという変形音が鳴り響くと、それまでガルギオンの立っていた場所に学生服を着込んだアステル・フレイスが出現する。


「これはこれは! ようこそ! ガロンの守護神ガルギオンさまのご登場という訳だ!」

 ベントが両手を広げて、おどけたようにそう言って笑う。

 ところが変身を解除したアステルはベントの言葉にも顔を上げず、ただずっと自分の足元に転がった“あるもの”を見つめて呆けたような表情のまま固まっていた。無理もない。

 ミーシャはただそれを悲痛な思いで見守ることしか出来ずに、悔しさで胸が一杯になった。

「その子はどうやら、モラーの教えには相応しくなかったようだ……心意気は素晴らしいと思ったのに、実に残念なことだよ」

 そう、アステルの足元でぐったりとしながら地に倒れ伏していたのは、彼が出会ったときから心配して止まなかったブラン本人だったのである。アステルは驚愕に我を忘れ、眼下に横たわる少年の体を必死の形相で抱き起こしながら、もはや力の入っていない様子のその手をとって声を張り上げていた。

「ブラン、おいしっかりしろ! ブラン! ブラン!」

「……おにい……ちゃ……ん…………?」

 アステルの懸命の呼びかけが届いたのか、ブランの瞼が弱々しく上下に開いた。焦点の定まらない瞳がそこら中を彷徨いつつ、ブランの口から小さな小さな呟きが漏れる。


「おにいちゃん……おかあさんはどこ……あいたい……よ……」

「しっかりしろ、大丈夫だから! お前のお母さんは――」

 アステルは震える声を絞り出すようにして何度目かの呼びかけを試みると、ブランの手を強く握り締めた。だがその瞬間、ブランの小さな体は青白い光の粒となってアステルの腕の中で分解し、霧散し始めてしまう。

 アステルは咄嗟にその体を抱きしめようとしたが奮戦空しく、ブランの肉体は細かな光粒となって風に吹かれると、あっという間に夜空の彼方へ消え去っていってしまった。

 ブランをかき抱こうとした体勢のまま、アステルはその場で茫然自失となっていた。

 ミーシャは唇を噛み、震える身体の内側からどうしようもなく湧き上がってくる衝動を抑え込むべく、顔を伏せた。仕方がなかった。その感情に一度でも身を任せてしまったが最後、落涙に歯止めが効かなくなりそうだったのだ。

 すると何を思ったか、事態の進展を見守っていたベントが唐突にドスの効いた声を発した。


「おいガルギオン! これでもまだガロン派の守護神を名乗るか? 自らモラーを望んだ子ですら叶わなかった願いだというのに、異端者の分際で神聖なる力を盗み取るとは! あの子の想いを踏みにじっても尚、貴様に罪悪感は湧かないというのか?」

 ミーシャは手近にあった土を握り締め、もういいから黙ってよ、と本気で願った。もしも今この体が動くならば、すぐにでも立ち上がって鷲掴みにした土をベントの顔目掛けて投げつけ、言葉の余す限り罵ってやりたかった。そのぐらいベントが憎かった。

 と同時に、この状況でそれすらも不可能な自分の無力さが殊のほか憎かった。ミーシャは今度こそ泣いてしまいそうになった。

 ベントはアステルに向かって腕の独鈷杵を突きつけると、傲然と言い放った。

「まぁ、それならそれでも構わん。ただし……あの少年の無念の想いは、この私が代わりに果たしてくれようぞ。悪魔め!」

「「「モラー!」」」

 ベントの言葉に合わせ、モラーヴァンたちが一斉に甲高く叫んで一歩前に進み出る。ミーシャは哀しみではち切れそうになりながら、そっと遠くにいるアステルの様子を窺った。


「あはははははははははははははははははははははははははははは!」

 突然、アステルが気でも狂ったかのように、天を仰ぎけたたましく笑い声を上げ始めた。

 その光景を目の当たりにしたベントにレヴェルツ、モラーヴァンたち、そしてミーシャも一瞬何が起こったのか分からなくて、ひどく唖然とさせられる。

 そして最後に笑い終えたアステルが立ち上がってこちらを向いた瞬間、ミーシャは全身に鳥肌が立つのを感じてしまった。そのぐらい、ぞっとする笑みをアステルが浮かべていたのである。


「ああ、そうさ。俺は悪魔だよ。だから………………お前を殺す!」


 瞳に篭めた色を憎しみへと変化させそう宣言するやいなや、アステルは足を肩幅に開いて確実に大地を踏みしめ、両手を顔の前で交差させると魂の叫びを解き放った。

「『フェイス・オン!』」

 運命の呪文とともに、激痛を伴ってアステルの肉体が変貌した。

 肌という肌に天梵文字が浮かび上がり、服が消失する代わりに鋼の鎧が浮き上がってきて全身を覆い尽くす。両手足に鉤爪を備え、角の生えた犬面の怪物の口内に人間の顔が見える、人とガーゴイルの融合体。

 アステルが変身しガルギオンとなった。

 獣のような唸り声を発しつつ自分たちににじり寄ってくる敵に、ベントは即座に抹殺の命を下した。部下のモラーヴァンたちが続々とガルギオンに向かって突撃する中、ベントにレヴェルツも、後に続いて身構えながら突っ込んでいく。

 猛り狂うガルギオンの咆哮を耳にしながら、咄嗟に自分を押さえつけていたレヴェルツの足から解放されたと気がついたミーシャは、急いで立ち上がってその場を離れようとした。だというのにやはり、足腰に上手く力が入らずミーシャはよろめいてしまった。


 ミーシャが悔しさを身に沁みて味わっていると、その動きに勘付いたのか例の頭部に赤いラインの入った上位個体が、戦線から離れて一人こちらへと向かってきた。ミーシャは益々慌てたが、動けないものは動けない。

「逃がさんぞ悪魔め……死ね!」

 独鈷杵を突き出した上位個体がミーシャの間近に迫ってきてそう言った刹那、バキバキという音がして見る見るうちに目の前に巨大な氷の壁が生成され、ミーシャを守るようにしてその場に立ち塞がった。一寸遅れて壁の向こう側から、上位個体が激突して呻き声を上げるのが聞こえたが、氷の壁は微動だにしなかった。

 ミーシャが思わず地面を見て氷の発生源を辿っていくと、そこに自らの大剣を地面に突き立て柄を握り締める老騎士ディアスの姿があった。氷魔法の天梵文字が刻まれた剣の切っ先からは、大地に向けて凄まじい冷気が流し込まれ続けている。

「ミーシャ、無事か!?」

「ディアス!」

 頼もしい助っ人の登場であった。ディアスは、自分やミーシャに立ち向かってくるモラーヴァンの足元を片っ端から凍らせて行動不能にしていたが、やがて悔しそうに言った。

「クソ、これではアステル君の傍に近づくことが出来ない!」

 ディアスには悪いが、今だけはその方がいいとミーシャは思った。何故なら今のアステルは、おそらく誰の力も借りたくないだろうと想像できたからである。

 ミーシャの耳に、再びガルギオンの吼え声が届いてきた。


 アステルは下級モラーヴァンが目の前に飛び込んでくるのを見るやいなや、突き出された腕を掴まえて腹に一撃を入れると、即座に別のモラーヴァンに向かって放り投げた。雄叫びを上げるたびに雑兵が宙を舞い、別の雑兵に激突しては地面の上に転がった。

 今のアステルにとって、言葉も話せない敵は何十人束になってこようとも真正面から相手をするべき対象ではなく、いわば単なる障害物でしかなかった。自分が本当に倒すべき敵は、そのずっと向こう側に待ち構えているのである。

 アステルが敵の一体に喉元目掛けて蹴りを入れ弾き飛ばした直後、その影からレヴェルツが飛び出してきて、右手に見える鎌を斜め上から振り下ろしてきた。アステルは考える間もなく体を屈めると、頭のすぐ上を湾曲した刃が通り過ぎていったのと同時に敵の脇腹に反撃の拳を打ち込んだ。

 ところが余り効き目のあった様子はなく、逆にレヴェルツの振り返した鎌の峰に相当する部分で背中を打たれると、体の芯にまるで鈍器で殴られたかのような衝撃が走り、アステルは勢い余って横転した。怯む間もなくその速度を利用しながらアステルが再び立ち上がったところ、背後からいきなり嫌らしい笑い声とともに滑り込んできたベントに足払いを喰らい、アステルはまたもや転倒させられた。


 背中を地面に打ちつけて呻きかけたアステルの顔の上に、間髪入れずにレヴェルツの鎌が降ってきた。アステルは咄嗟にその場を飛び退いて回避したが、待ち伏せしていたベントに正拳突きをかまされ、打たれた場所を庇いながら思わず後ずさりする羽目になった。

 二人の連携は隙が無く、ほぼ完璧と言ってもよかった。

 ベントはじわじわとアステルに迫りながら、変わらぬ口調でガハハと笑って言った。

「この悪魔どもめ……まだ分からんか? 我々の戦いは救済だ! ステラの神に選ばれこの力を得た我らの教えの下にこそ、真の幸福が訪れる。我らの行動こそが神の意思なのだ!」

「そういう独りよがりな考えは聞き飽きたんだよ……お前らに、ブランの気持ちが分かってたまるもんか!」

「独りよがりは貴様だ、ガルギオン!」


 アステルは自分の反論が一蹴されると同時にベントに殴りかかったが、突然跳び上がったベントからアクロバティックな上段回し蹴りが飛んでくると、両腕を顔の真横に差し出して瞬時に防御の姿勢をとった。それによって蹴りそのものは受け止められたものの、横向きに飛ばされたアステルの着地点手前でレヴェルツが構えていたのには対応できず、ヒュッという風を切る音とともに横薙ぎに振られた鎌状の鉤爪に、アステルの腕と胸の装甲がまとめて切り裂かれ、その荷重と痛みでアステルは不自然な体勢で地上に落下した。

 変身時以外ではガルギオンの姿になって初めて感じた鋭い痛みに、アステルが地面の上に手をつき苦しげに立ち上がろうとしていると、ベントはそれを見下ろし小馬鹿にするような口調で言ってきた。

「貴様にこそ分かるまい! モラー派を求めるあの子の純粋なる想いが! 願いが! それを貴様らごとき悪魔がたぶらかしたばかりに……あの子が死んだのは貴様らの責任だ!」

「……ふざけるなぁっ!」

 その台詞を聞いた瞬間、アステルの中にあった全ての痛みが雲散霧消した。

 アステルは立ち上がったと同時に手近なモラーヴァンの下に跳躍すると、その首を鷲掴みにしてベントとレヴェルツの眼前に投げつけ、自分はその隙に地面スレスレを疾走して二人の背後に回り込んだ。それと並行して右腕に生えた三本の鉤爪を伸長させ、ありったけの力を篭めて拳ごと後ろに引き絞る。


 物のように一直線に、自分たち目掛けて飛んできた部下の体に一瞬ではあるが視界を遮られたベントとレヴェルツは、直撃を回避した直後にアステルの姿が見えなくなっていることに気付いて少なからず動揺していた。驚いたように周囲を見回すレヴェルツの真後ろで鉤爪を構えたアステルは、その延髄を狙って一気に拳を打ち上げた。

 刹那のうちに、ナイフのごときアステルの爪がレヴェルツの後頭部から口内までを一直線に貫いた。予期せぬ攻撃に奇声を上げて手足をじたばたさせるレヴェルツの体をアステルは腕ごと引き寄せると、その頭を掴まえて手首を捻り、爪の切れ味と併せて首から上を強引にねじ切った。

 頭を失ったレヴェルツの体からたちまち噴水のように血しぶきが上がり、アステルは手に持っていた敵の生首を振り返りざまに陣幕の外に向かって全力で放り投げた。モラーヴァンの無機質な外観の頭部は放物線を描いて空高く飛んでいき、森を包む漆黒の闇の中に飲み込まれて消えた。これでもう、仮に再生したとしても動くのは不可能である。


「レヴェルツ……! おのれ、貴様ァァァァァァァァァァァァァ!」

 腹心の部下を殺され憎悪とともに飛び掛かってきたベントだったが、アステルは腕の刃が突き出される瞬間を見計らって左手でそれを横叩きにし軌道を逸らすと、敵に接近しながら右手の鉤爪を一挙に相手の胸部目掛けて打ち込んだ。

 互いの動きが止まった瞬間、ベントの刃は逸れ、アステルの鉤爪は敵の心臓の真上に突き立っていた。アステルの鉤爪から青白い電流が迸り、ベントの体内へと流れ込むとその全身から火花が噴き出し、ベントが堪らず苦悶の叫び声を上げた。

「この……悪魔めぇ……!」

 ぎこちない動きでその白い瞳を向けてきたベントを、アステルは全身全霊で睨み返した。

「これで勝ったと思うな……我々は必ずや戻ってくる。その時こそ、異端は滅び星の世界に真の平和がもたらされるだろう! その暁には貴様にも神罰が下るのだ……モラーの教えを否定し、あの子の想いを踏みにじった罪でな!」

 そう言って、ベントは狂ったように笑い出した。

 次の瞬間、アステルの叫び声とともに光を放ち更に伸長していった鉤爪がベントの体内を貫通すると、鋭角的な先端部がその背中を突き破り勢いよく飛び出した。ベントはたちまちの内に押し潰されたような声を出して悶絶し、アステルが爪を抜き放った直後に糸が切れた人形の如くその場に崩れ落ちる。

 一瞬遅れて青白い爆炎が噴き上がり、その体は粉々に飛び散って消滅した。


指揮官たるベントが爆散した途端、ミーシャとディアスの周囲に立っていたモラーヴァンたちはブルーマでの出来事同様、悲鳴を上げながら次々に地面に倒れ込んでいった。やがてディアスの氷漬けから解放された例の上位個体が、慌てふためきながらも何とか撤退命令を下してようやく端から順に逃走が開始される。

だがミーシャにとって、逃げ帰っていく敵陣の兵士たちなど今はどうでも良いことだった。

滅茶苦茶になった陣の真ん中で、未だ変身を解かないガルギオンががっくりと膝を突いて地面を見つめていたのである。そこは先程、ブランの消滅した場所であった。

無言で震えるその灰色の背中を、ミーシャは言葉も見つからずにただじっと見つめることしかできなかった。


  * * *


 敵が逃げ去ってくれたはいいものの、それからしばらくの間、村は後始末に追われていた。

 真っ黒焦げの上にずぶ濡れになった木材の山の中で、ブランの名を呼びながら彷徨う母親の悲痛な叫びが木霊していたが、その返事が返って来ることはもう二度とないのだった。

 ただ虚しく一人の女性の声だけが、村の至るところで反響して消えていった。


 つい先程手当てを受けたばかりであるミーシャは、三畳ぐらいの広さしかない小汚い部屋で固い床に座り込み、背後の壁に寄りかかりながら、何を言ったらいいのかも分からずただひたすら悄然としていた。右隣をちらと覗き見れば、そこにはこの部屋を宛がわれた張本人である一歳だけ年上の学生身分の少年が、両脚を乱暴に投げ出した状態で座っていた。彼もまた白色の魔術光を放つ天井を見上げながらずっと気の抜けたような顔をしているだけで、それ以外は微動だにしなかった。

 あの後無事に村に戻ってきたミーシャとアステルは、幸いにも焼失を免れていた宿の中のアステルの部屋にやってくると、それから延々と二人きりでこの状態を続けていた。部屋の半分ほどを占領したボロボロのベッドで寝るでもなく、何となく後を追ってきたミーシャに得意の嫌味を言うでもなく、ただ床に座って虚ろな目で天井を見上げているだけのアステルにミーシャが合わせていた。他にどうすればいいのか、分からなかったのである。ただこの少年をたった一人にすることだけは、したくなかったのだ。

「……俺は最低だ」


 これまで一言も言葉を発しなかったアステルが、不意にそんなことを口走った。ミーシャはそれを聞くと、慰めるつもりで速攻で否定した。

「そんなことないよ、アステルは……」

「いいや、何もかも俺が悪いんだ。俺が自分のことしか考えないで、軍を潰したりしたからこんなことに……ブランだって、死なずに済んだかもしれないのに」

「どうしてそんなこと言うのよ! アステルはブランのこと、あんなに一生懸命抱きしめてたじゃない! ブランのために、あんなに本気で怒ってたじゃない!」

「そんなんじゃない!」

 必死に食い下がるミーシャに、アステルは大声を出してそう言った。

「全部……俺が自分のためにやってたことなんだ。ブランのためなんかじゃない」

「どういう……こと?」

 ミーシャは自分でも、声のトーンが下がっていくのが分かった。それでも、聞かなければ終われないと分かっているから必死になって力を篭め、声を絞り出す。

「ブランの気持ちが分かるって、昼間そう言ったよね? もしかして、いつもお母さんのこと悪く言ってるのと関係あるんじゃないの? ちゃんと教えてよ、今度こそ誤魔化さずに!」


 ミーシャはそう言って身を乗り出し、アステルに詰め寄っていった。ここで引き下がってはいけないとミーシャは直感した。もう、このチャンスを逃せば二度と聞くことが出来ないような、そんな気がしていた。

 アステルは空っぽの瞳でこちらを見返すと、しばらくの間黙ってミーシャと見つめ合っていた。やがて深くため息をついたかと思うと、自分の両膝の間に目をやって諦めたかのようにポツリと言う。

「…………下らない話だよ」


 ブルーマの町を出るときに、俺の母親と一緒に見送りに来てた金髪のガキを覚えてるか? そう、やたら贅沢な格好をしてた、あのチビ娘だよ。

 あいつの名前はイルルカ。俺の、血の繋がらない妹だ。


 奴は昔からビックリするほどワガママでな、自分の思い通りにならないものがひとつでもあると許せないんだ。勝手に人の部屋に入って物を壊すわ、学校があっても平気でサボるわ。それを叱れば、「私が可哀想じゃないのか」って抜かしやがる。

 まあ、身勝手で横柄になるのも当たり前だよ。なんせ母さんは、絶対にイルルカのことを叱らないんだから。何をやっても「仕方がない」の一言で片付けやがる。その上、俺が散々苦労して貯めた金で何かを買ってきても、母さんはすぐにそれより高価なものを、無条件でイルルカに買い与えるんだ。お前も見ただろ、奴のドレス。それが何年も続いて見るからに家に負担がかかってきても、イルルカは浪費を止めなかった。たった一回だけ、いい加減にしろって怒鳴ったことがあるんだが、最低の兄だって逆ギレされたよ。

 ここまで無茶苦茶やってても、母さんは絶対にイルルカのことは叱らなかった。俺なんかよりも、あっちの方が可愛かったんだろうな。なんせ金遣いが荒いこと以外は、イルルカは絶対に母さんの言うことには逆らわなかったんだから。

 けどな、多分本当の理由はそうじゃない。

 ガロン派の教義は知ってるよな? ああそうだ、『生命の教え』だ。

 この国が教育に力を入れてる理由が、俺たち子供を『生命の象徴』とか『宇宙の宝』って呼んでるからだっていうのも教えたよな?

 ……じゃあ、こういうのはどうだ? 身寄りの無い子供を引き取って育てるのが、ガロン派じゃ『生命の救済』って呼ばれて最高に褒め称えられるってことは。


 『生命の救済』。初めて聞く単語に、ミーシャはその内容を幾度となく反芻してみて、ふとアステルが言わんとしている事に、何となくではあるが気付き始めていた。

 身寄りのない子供を引き取るのが、ガロン派では推奨される。

 血の繋がらない妹がいて、その妹ばかりが贅沢をさせられている。

 そこから導かれる答えは一つしかない。

「そっか……」

 ミーシャは眉を曇らせ、自分自身も小さく顔を伏せて呟いた。

「本当のお母さんじゃ、なかったんだね」

「いいや、アレは俺の実の母親さ」

「…………え?」

「母さんと血が繋がってないのは、イルルカだ。引き取られたのは妹の方なんだよ」


 ミーシャは一瞬、言われたことの意味が分からなかった。

 先程までの話から察するにアステルは、孤児として引き取られた末に居場所をなくした、ということではなかったのだろうか。そう思ってミーシャはブルーマを出発する寸前の様子を思い返してみて、あっと息を呑んだ。

 言われてみれば、あの時アステルの見送りにやってきていた母親の髪の色は見間違えようもなく“黒”であった。つまり妹ではなく、むしろアステルに近いほうの色だったのである。確かに血の繋がりがあるのは、アステルと考えるのが妥当だった。

 だがそれならば何故、妹ばかりが極端に優遇されているのだろうか。こういう場合に肩身の狭い思いをするのは、大抵血縁関係の無い者のはずである。

 ミーシャの疑問を察したかのように、アステルがフッと笑って話を続けた。


 おかしな話だろ? 俺だって最初は妹が可愛いと思ってたさ。昔はまだ仲が良かったしな。母さんは向こうに掛かりきりになったけど、それでも母さんの負担が減るなら俺は構わないと思って、ずっと妹を優先し続けたんだ。

 母さんと話が出来なくなった分、俺は本を読むようになった。家には父さんが残した大量の本があったから、俺はそれを読んでこの世界のことをどんどん勉強した。そうやって何冊も、何十冊も読むうちに新しいのが欲しくなって、俺はサロマニアで古い本を売って新しい本を探すようになった。同じことを何度も何度も繰り返した。

 そうやってるうちにな、いつの間にか十年も経ってたよ。

 気がついた時にはイルルカは贅沢し放題のワガママ娘になってて、母さんは四六時中礼拝ばっかりして俺とは会話もしてくれなくなってたよ。


 母さんはいつも俺たちに、ひたすらガーゴイルの前で祈れば救われるってそう言ってきた。ガロン派はステラ=マスターが望んだ真の教えだから、それを崇めていればいつか星の海に還れるんだってな。

 でも、どうしてガロン派が真の教えなのかって訊ねたときに、母さんはロクな答えを返しちゃくれなかった。あまりしつこく訊ねると、逆に怒り出すことさえあった。母さんはただ、それが正しいっていう結論だけしか知らなかったんだよ。

 俺は色んな本を読んで、ガロン派の主張だけが全てだとは思わなくなってた。今夜みたいなことが世界中で起こってるんだ……命を懸けるぐらいじゃなきゃ、軽々しくガーゴイルを讃えるだなんて口にしたくなかったんだよ。

 俺は少なくとも、母さんからはその覚悟を感じなかった。


 信仰するってことの本当の意味も考えないで、ただガロン派、ガロン派って口癖みたいに言ってるだけの態度は真剣には見えなかったし、何より浪費ばっかりで何ひとつ家族の足しにならないイルルカを、ただ自分の命令どおりガーゴイルの前に座ってれば褒めちぎったりするのも許せなかったんだ。

 だからな、お前らの前で死んだ、あの司祭のところに相談に行ったのさ。

 ガロン派が真の教えかどうか、俺には分からなくなってきた。どうすればいいのかってね。そしたら、こう言われたよ。

「ひたすら、ガーゴイルの前で祈りなさい」ってな。


 俺は失望したね。司祭なら少しはまともかと思ってたのに、結局は俺の母さんと同じようなことしか言えなかったんだ。何の解決にもならなかったよ。

 それでな、次の日学校で友達と会ったとき、俺はその不満を盛大に言葉にしちまったんだ。よりにもよって、あのシドーたちのいるすぐ目の前でな。

 元々、ガロン派への愚痴を言ってるのは俺だけじゃなかった。クラスメイトの大半は教師がそういう話をする度に陰口叩いてたし、シドーたちだって礼拝の度にコソコソお喋りしてやがったんだ。真剣にステラ教を信じてる奴なんか、誰もいないと思ったんだよ。

 ところが次の日から、俺は悪魔呼ばわりだ。正確には、そういうことを言ってたのはお前の見たあの六人だけだがな。


 楽しかったぜ。俺が笑ってようが怒ってようが、話してようが本読んでようが、必ず教室の何処かから俺の悪口が聞こえてくるんだ。押し殺したような笑い声に混じって、今悪魔が何をした、何を見てるって、まるで俺に聞かせようとするみたく延々とな。

 そのうち、暴力も振るわれるようになった。いきなり肩をぶつけてきたり、階段から突き落とされたり、色々な。周りの奴らはどう思ってたか知らないが、止めに入れないのだけは間違いなかった。何故かっていうと、シドーたちは「俺たちは悪くない」っていうのが口癖だったからだ。

 俺たちは何も間違っていない、悪いのは悪魔みたいなことを言う奴なんだ、ってな。


 ミーシャは話を聞きながら、嫌な予感で自分の心臓がバクバク音を立てるのを感じていた。

「……じゃあまさか、あの時アステルが“人殺し”って言われてたのも」

「ああ、そうだ。ガロン派のことを悪く言う俺は、『生命の教え』を冒涜する悪魔野郎だって。だから生命を奪っても何とも思わないんだろう、この人殺し、ってな」

 ミーシャは愕然とした。それはどれだけ、アステルには辛い言葉だったろうか。むしろ誰よりも真剣に物事を考えようとした結果、そんなおぞましい理屈で迫害されるとは。

 しかしミーシャの衝撃も冷めやらぬまま、アステルは次の話を始めていた。


 学校がどれだけ腐ろうが、俺は行き続けた。妹と同類にはなりたくなかったし、何よりもシドーたちに負けるってことが、絶対に俺の中で許せなかったからだ。

 そうやって一年半ぐらい経った頃だったな。珍しく、母さんが俺に話しかけてきたんだ。日常会話すらまともにしてくれないのに、変だとは思ったよ。

 母さんは開口一番、こう言った。

「あなた最近、ガーゴイルの前に座ってないじゃない。お祈りはどうしたの?」って。

 俺はもう、うんざりだった。適当に返事だけしてその場を離れようとしたら、強引に腕を掴まれたんで、俺は思いっきり母さんの手を振り払った。

 そうしたらいきなり、母さんに引っ叩かれたよ。

 何なんだその態度は。お前を生んでやった恩を忘れたのか。一体誰のお陰で暮らせていると思ってるんだ。本を読んだぐらいで調子に乗るな、って物凄い声で怒鳴りながらな。

 髪を掴まれて、壁に叩きつけられた。俺が反撃しないって分かってて、あの親は何度も、何度も、俺のことを殴りつけたんだ。俺は声が出せなかったよ。

 かなりの間それが続いてから、ようやく気が晴れた母さんは俺に半笑いでこう言ったよ。



 あなたのために言ってあげてるんだから、素直になりなさいよね。悪魔じゃないんだから。



「……だから、」

 ミーシャの声は震えていた。

「だから、ブランを抱き締めてあげたの?」

「ああ。ブランは、俺だから」

 アステルは、ミーシャが呆然とするのを余所にそう言った。

「所詮……正しいとか間違ってるとか、そんなの何とでも言えるんだからさ。絶対に正しくなきゃ苦しんじゃ駄目だなんて、そんなの辛くてしょうがないだろ?」

 アステルは再び天井から放たれる魔術光を見上げると、その真っ白な灯かりの中にブランの涙でボロボロになったあの顔を思い浮かべた。その顔が笑顔に変わる日は二度と来ないのだと思うと、アステルは罪悪感で胸がいっぱいになった。


「頭じゃ分かってるんだ。そんなのは結局俺のワガママで、ただ単に贅沢なだけなんだって。ガロン派にとって価値があるのは『生命の教義』で、俺やブランみたいな個人の感情なんかじゃないんだって。ちょっとぐらい嫌なことがあったって仕方がないんだと諦めて、親への恩を返さなくちゃいけないんだって」

 アステルは立て続けにそう言ってから、最後に最も認めたくなかったことを口にした。

「……俺が、“お前は悪くない”なんて言わなきゃ良かったんだ」

 そうすれば少なくとも、親に反発して森に逃げ込むような真似はしていないはずだった。

 アステルの瞳の奥は、絶え間なく注ぎ込む光によってまたも真っ白に塗りつぶされ、次第に民宿のボロボロな天井が見えなくなってきていた。アステルは瞼を閉じると黙って顔を伏せ、自分の中から外の世界の音を遮断した。そうでもしなければ、この最悪の現実を否応なしに受け入れさせられてしまいそうであった。


 その時すぐ隣で、ミーシャが身動きするのが分かった。部屋を出て行くのだろう、とアステルは思った。こんなところにこれ以上いても、彼女には何ひとつ得はないのだから。

 アステルは自分ひとりが作り出した真っ暗闇の中で、少し離れたところから軋んだドアの開閉音が聞こえてくるのをただひたすら待っていた。

 だが次の瞬間、ミーシャが自分に横から覆いかぶさり、その細い腕を回してきてアステルの体を彼女の内側へとそっと引き寄せたことには、流石に驚きを禁じえなかった。

 いつの間にか、ミーシャに優しく抱き締められていた。何が起こったのか、アステルには全く分からなかったが、いきなり頭上からミーシャの声が降ってきたことでようやくそれを理解することが出来た。


「ごめんね……ごめんね……」

「……なんで、お前が」


 謝る必要などないはずだった。悪いのは全て自分自身なのだから。そう思ってミーシャを押し退けようとしてみたが、アステルの体には何故か一向に力が入らなかった。

 何か変だと、そう気付いたときにはミーシャにより強く抱擁をかけられていた。

 服越しに伝わってくる少女の柔らかい身体の感触と、トクントクンという規則的な心臓の音を感じて、アステルはその胸が急速に締めつけられる様な感覚を覚えた。それはいつものように恐怖が呼び寄せてくるものとは違い、確実に未経験の何かであった。

 戸惑いを覚えるアステルに向かって、ミーシャは再び優しげな声でこう言った。


「 “あなたが大好きだよ、あなたがここにいても良いよ ”」


 それを聞いた途端、アステルの中で熱い何かが込み上げてきた。それはアステルの中で、十数年もの昔に凍り付いてしまったもののはずだった。それは決して融ける日の訪れない、永遠の凍土の下に閉じ込められているはずだった。

 けれども少女の腕の中は、ほのかに陽光に似た香りがしていた。それが徐々にではあるが自分を暖めてくれているようだった。

 それはどんな魔法を以ってしても得ることの出来なかった、温もりであった。

 アステルの目頭から突然生暖かい液体が溢れ出たかと思うと、やがて鼻の脇をつたって顎へと流れ、最後は膝の上にポタリと落ちていった。

 半分濁った小さな水滴の存在を自覚したその瞬間から、雪解けに歯止めは効かなくなり、そして急速に加速していった。アステルは、自然としゃくり上げていた。

 アステルはミーシャの背中に手を回すと、自ら進んでその温もりを求めていった。目の前に感じた本物の体温に身を任せ、身体の奥底から溢れ出す感情の赴くまま、ただひたすらに嗚咽をこぼし、むせび、初めて得られた生の優しさに甘える。

 アステルの頭と体をかき抱くミーシャの手に篭もる力が、一層強まるのが分かった。

もはや雪解けが止まることはなかった。

 その夜、永久に続くかと思われていた冬に少しだけ春の兆しが見え始めた。

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