第03話 慟哭のガルギオン・中編
ミーシャが自分の目の前で、幼い子供たちと背の高い年上の少年が一緒になって心の底から楽しそうに駆け回る様子を眺めていると、宿があると言っていた坂の下からディアスたちと一緒に行ったはずのリリィが戻ってきて、自分に向かって手を振ってきた。
先程からずっと石のベンチに腰掛けていたミーシャがそれに気付いて振り向くと、リリィはホッと胸を撫で下ろすような仕草をしてこちらにやってきた。
「ミーシャ、探したぞ♪」
「リリィ? ごめんね、勝手にいなくなっちゃって」
「礼ならあたしじゃなくて、ディアスに言いな。あなたがいなくなったのに、一番はじめに気付いたのはディアスなんだからね」
「……うん、分かった」
ミーシャがそう素直に首肯したところで、野生的な美貌を備えた大人の女であるリリィは音を立てずに自分の隣へと座り込んだ。男の注意を惹きそうなその色気も、辺りにいるのが十歳以下の子供ばかりでは大して意味を為さない模様である。
リリィは自分の両サイドに手をついて、すらりとしたその脚をブラブラ揺らすと、広場にいるたくさんの子供の姿を眺めながら顔をほころばせた。
「……意外ね。アステルくんって、こんなに子供好きだったんだ。いつも暗い台詞ばっかり吐いてるけど、根は明るい子なのかもね」
リリィが言ったとおり、いま二人の目の前で子供たちと一緒になって追いかけっこを繰り広げ、楽しげに笑い声を上げているのは紛れもない、アステルだったのである。
先程まで話していたブランを含め、何歳も年下の少年たちにすばしっこさで翻弄されつつ、時折追いついて彼らの両脇を掴まえては、その体を高々と持ち上げて自分の周囲をぐるぐると回転させたりしている。しかも、嘘偽りとは思えない満面の笑みを浮かべて。
そこにいまや、自分を悪魔と忌み罵り、他者の言葉に嫌味ばかりを投げ返す卑屈な少年の面影は欠片も見当たらなかった。全くの別人と言っても差し支えないぐらいである。
それを見てミーシャは柄にも無く落ち込んで足元に視線をやり、深刻に考え込んでいた。
そうして一言、ポツリと呟いてみる。
「……あの人、なんかおかしいよ」
「アステルくんのこと?」
ミーシャは黙って首を縦に振った。前を向いて、そっか、とだけリリィは言う。
「最初に会った時からそう。普段は臆病で自分の身も守れないくせにさ、他の誰かのことになるとすぐムキになるんだもん。そうかと思えば、自分は悪魔だとか言ってるしさ」
「悪魔、か……」
「自分が間違ってないと思うなら、どうしてあんなに自分のことを悪く言うんだろう」
ミーシャの疑問に、リリィは少しだけ考える様子を見せていたが、やがて、
「あたしはちょっと分かるかな、アステルくんの気持ち」
「……そう?」
「うん、多分ね、何かすっごく悔しい想いをしたんだと思うよ」
そう話すリリィの顔にも一瞬、アステルに似た哀しみの色が浮かんだように見えたのだがミーシャの気のせいだっただろうか。自分を最も支えてくれるこの女性は、日ごろは明るく屈託の無い様子でいるものの、内にはそうでないものも秘めているのかもしれない。
「人間ってさ、頭ではどんなに分かってても納得できないことってあるでしょ。自分自身のことなら特にそう。他人にはワガママだって責められても、絶対に認めたくないものって」
「……それは、そうかもね」
ミーシャは素直にそう言ってみる。
「でしょ? あたしだってそうだったもん。認めたくないことがあったから家を飛び出して、今は旅なんてしてるし。多分ディアスとかマナスも同じでさ、自分の感じた悔しさの意味が知りたくて仕方ないんだよ、きっと」
そして恐らくは、ジェイドもそうなのだろう。詳細は分からずとも、何かを隠したがっていることだけは、ミーシャにもよく理解できたからだ。
「アステルくんなんてマナスに負けないぐらい真面目そうだしさ、自分で自分を責めちゃうことが多いのかもよ。辛いと思ってても、誰にも相談できないって感じだし」
「すればいいのに。お母さんのこと、あんなに悪く言うぐらいだったらさ」
「男の子って、無駄にプライドあるしねぇ……」
リリィはそう言って苦笑してみせる。
だがミーシャとて、何でもかんでも自分のことを他人に話せるかと言われれば、そうではないことぐらい承知していた。問題なのは、アステルがその腹いせに母親と言う存在を散々罵っていることなのである。
「……ま、ミーシャは何かあったらあたしに相談すればいいよ。こうやってさ」
そう言うとリリィは突然、その隣で未だ悩ましげにしていたミーシャの肩に背中から手を回してやわらかく抱き寄せると、頭に手を置いてポンポンと撫でてくれた。
さして驚く間もなく、ミーシャの内側には何とも言えぬ安心感が広がっていった。服越しに伝わってくるリリィの仄かな体温と肌の柔らかさとが、ミーシャの心を堪らなくかき乱すのと同時に穏やかな感情を生じさせていく。
未経験の感触に浸りながら、不安で強張っていた体がほぐれてくるのを感じたミーシャは、自分を抱きとめる年上の女性に向かって小さな声で訊ねてみた。
「アステルもさっき……泣いた男の子に同じことしてたよ。これって、どういう意味なの? すごく……落ち着くんだけど」
力の抜けきった声で発されるミーシャの質問に対し、リリィは小さく笑みをこぼしながら、その優しげな抱擁をやめずに静かに答えた。
「これはね……あなたが大好きだよ、って意味。あなたがここにいても良いよ、って意味」
そう言うとリリィは、抱き寄せたミーシャの頭の上に自分の頭を軽く乗せる。
ミーシャは全身を包み込むような不可思議な安堵感に身を任せ、すぐ傍にあるリリィの体に寄りかかってその胸元に顔を寄せ、ゆっくりと目を瞑って休んだ。
曇り空の下、外気温は終始下がっていく一方のはずなのに、ミーシャの体は何故かとても温かくなっていった。
* * *
気が付けば深夜になっていた。
一人考え事をしながら道を歩いていたアステルは、進行方向にある立ち木の存在に注意が及ばず思い切り頭をぶつけてしまい、凄まじい衝撃と眩暈でフラフラとしながら地面にしゃがみ込んだ。これで今までの人生全ての記憶が消えればいいのにとも思ったが、土台無理な話であった。
アステルは眩暈が去るのを待って再び立ち上がると、辺りの風景を見回した。
真夜中の湖畔というものは晴れの日であれば美しいのだろうが、空が殆んど雲に覆われた今夜のような状態ではとても風流は望めない。雲間から微かにならば月光が降り注ぐため、辛うじて足元は見えるものの、やはり屋外は暗かった。
『熱』の魔符を服の中に仕込んだので一応しのげているが、冬場につき周囲の空気は堪らなく冷えていた。アステルの吐息が真っ白に染まって拡散していく向こう側では、天気さえ良ければ月光を反射して美しく輝いていたであろう巨大な水面が広がっている。
と、そこへ長い得物を担いだ小柄の男が一人、少し離れた場所からアステルのいる方へと歩いて向かってくるのが見えた。深紅の毛皮に黄胴色のラメラーアーマー、身長の一・五倍近くある金属製の赤塗りの杖を持ったその男は、マナスであった。
マナスはなにやら清々しそうな表情で道を歩いていて、近くまで来てみると冬の真っ只中だというのにその体は汗だくであった。武器を担いでいることから察するに、湖畔で素振りでもしてきたのだろう。やがて自分を見ているアステルの存在に気付いたマナスは、明るく片手を上げて声を掛けてきた。
「おぉ、アステル殿」
「……訓練でもしてたんですか?」
「いやはや、鍛錬を怠ってはなりませんからな」
思わずアステルの口にしたその質問に、マナスは気持ち良さそうに答える。何とも実直なことであった。アステルはそのまま、自分の方にやってきたマナスと並んで、宿に向かって歩き出す。
結局この村に滞在する間の宿は、ディアスたちが最初に入った民宿で決まりらしかった。方向的にはブランと出会った、あの広場のある方に戻っていくかたちである。
あの後ブランは、日も暮れた頃合になるとアステルとミーシャに別れを告げ、家に帰っていった。何処に住んでいるのか聞きそびれてしまったアステルであるが、あれからもブランのことは心配で仕方なかった。たとえ基本的には親子の問題といえども、内容が内容だけにアステルは他人事でいられなかったのである。
曲がりくねった道をてくてくと歩いていくと、いくつかの民家を通り過ぎたところで目指す民宿の外観が見えてきた。坂のふもとにあるその宿は二階建てで、周囲の建物が平屋建てばかりだというのに妙に豪華である。
この村にも学校はあるはずなのだが、山を下ってきたときから現在に至るまで、あの民宿よりも大きな建物というのが見当たらない。ちなみに昼間遊んだ子供たちに学校はどこかと尋ねてみたら、白くて可愛らしい、天使のような羽飾りのついたリュックを背負った小さな女の子から「西の森の中にあるんだよ!」と返されたが、流石に冗談であろうとアステルは思っていた。
そんなこんなで、その晩の宿は目前であった。元々が、ちょっと早歩きするだけで十分もかからず端から端までいけるような小さな村である。移動に時間はかからなかった。
ところがアステルが気を緩めたその瞬間である。
突如としてアステルたちの進行方向左手に見える家々の中から、昼間と同じような怒鳴り声とともに子供の泣き叫ぶ声が微かにだが聞こえてきた気がして、たちまちアステルの心臓がドクンと脈打ち、声のした方を向いたまま全身が硬直して動かなくなった。
アステルの記憶が正しければ、あちらは確か夕刻頃にブランが帰っていった方角である。アステルの血液が一滴残らず凍りつき、身体の芯から冷え切ってくるような感覚が襲った。無論、外気に当てられてのことではない。
アステルが口をパクパクさせたまま立ち尽くしていると、前方からマナスが不審げに声を掛けてきた。
「……アステル殿?」
「――あ、いや、なんでもないです」
ふと気がついて、アステルは慌てて取り繕った。もう声は聞こえてはこず、どうやら自分の空耳だった模様である。
そうであってほしいと思った。
それから宿に到着するまで、アステルは自分でも分かるほどおぼつかない足取りであった。
アステルは白い吐息と共に寒さに身を震わせ、真っ暗闇の中で宿の二階にあるバルコニーの手すりから、村の西側に広がっている広大な木々の海を見渡した。寒風にざわめく枝葉はおどろおどろしく、油断していると知らぬ間に闇に飲まれてしまいそうな怖気を感じさせる。アステルは益々、あんなところに学校があって溜まるかと思った。
背後で戸を開ける音がして、タオルを首に掛けたマナスがせかせかとした足取りで寒空の下に現れる。今は鎧を脱いでいたが、それでも腕や首周りについた筋肉はがっちりとして、決して弱々しく見えるとかいうことはない。
「……寒くないんですか?」
「むしろ暑いぐらいですなぁ。鍛錬の後は大抵そうです」
大したことも無さそうに言ってのけるマナスであった。きっと根っからの武人なんだろう、とアステルは思う。
マナスはアステルの横に立ったかと思うと、手すりにもたれて静かに口を開いた。
「アステル殿……今は辛いことも多々ありましょうが、頑張って生きてください。自分も、微力ながらお力になりますゆえ」
そう言われてアステルは思わず、真横にいる小柄な元軍人の横顔をまじまじと見つめてしまった。効果の程はともかく、要するにマナスは自分を励まそうとしてくれているのである。
そういう親切さを見るにつけ、初対面のときと同様、マナスは見た目のとっつきにくさで損をするタイプでなかろうかとアステルは思うのだった。
「……こんな得体の知れない小僧に親切すぎるんですよ、皆さんは」
「我々にだって、背負うものはありますゆえ。その想いの程は変わりませぬ」
だからといって、何を考えているかも分からない、ましてやバシリスクを単独で仕留めてしまうような人外の化け物を同行させるなど正気の沙汰ではないと思う。そうでなくとも、一人で勝手に自国の軍隊にケンカを売りに行くような人騒がせなのである。
それはそうとアステルは、前々からマナスに聞きたいと思っていたことを思い出した。
「……マナスさんは、どうしてディアスさんたちと一緒に旅を? 一応、何年か前までは戦争やってた相手ですよね」
しかもお互いに軍人だったのだから、本来一般人よりも遺恨は深いはずである。
マナスはアステルの質問に黙って目を閉じると、昔を懐かしむような表情になって言った。
「上とひと悶着ありまして、自分は国軍を追放された身なのです」
聞かないほうが良かったような気がしてならなかった。
その時である。
不意にマナスが目を見開くと、何かを察知したかのように鼻をひくつかせてバルコニーから身を乗り出し、不審そうな顔で辺り一帯を見回した。何事かと思ってアステルがその光景を呆気にとられて眺めていると、マナスが急に押し殺したような声で呟いた。
「何やら……不穏な気配が……」
まるでマナスの言葉を待っていたかのように次の瞬間、鋭い音を立て一本の矢がアステルたちの居る民宿のバルコニーに降ってきたかと思うと、木材のしなる音とともにその一角に斜めに突き立った。ややあって矢の突き刺さった地点から周囲の木材へと、十字状に火の手が上がっていき、瞬く間に広い木造のバルコニーの半分ほどは炎の床へと変貌した。
思わずアステルが自分の目を疑って立ち尽くしていると、いきなり傍にいたマナスに腕を引っ張られた。
「アステル殿、速く中へ!」
そう言われたことでアステルも慌ててその場を動き、狭い戸口を開け放つと二階の廊下に飛び込んだ。直後、ひゅんひゅんと幾重にも風を切り裂くような音が連続し、バルコニーの外側の壁にいくつもの小さな何かがぶつかるのが分かった。開けっ放しになっていた戸口の向こう側が、たちまち赤い光で溢れていく。
アステルはそちら側を振り返って大きく肩で息をしながら、すぐ隣の床で立ち上がっていたマナスに問いかけた。
「これって攻撃ですよね?」
「あぁ、間違いない。急いで皆に連絡を!」
言うが早いか、アステルはマナスと共に廊下を走っていって階段を駆け降りると、一階にある食堂兼玄関フロアにやってきて、フロア中央のテーブルで談笑していたリリィ、ジェイド、ミーシャの三人を確認した。何故かディアスだけ姿が見えない。
ほぼ貸し切り状態のフロア内でくつろいでいた三人組は、アステルとマナスがひどく焦った様子で二階から降りてきたことで驚きに目を見開いていた。案の定、リリィが訊ねてくる。
「……どうかしたの?」
「襲撃です。矢の雨が降ってきて、そこら中燃えてます!」
アステルがそう告げた途端、リリィとミーシャが音を立ててその場に立ち上がった。
マナスはしばらく慌てたようにして周囲を探っていたが、
「ディアス殿は!?」
「野暮用だとか言って、マナスの後に出かけたっきり帰ってこないわよ」
「ええい、この非常時になんと間の悪い!」
そう呟くとマナスは入り口の方に飛んでいって、狭い戸口から宿の外の様子を窺うと、また再びアステルらのところに戻ってきて言った。
「どうやら、この村全体が攻撃されている模様ですな」
「た、大変なんだナ!」
ジェイドは毎度の如くおろおろとし始めた。
一方ミーシャは、非難するような目つきになってアステルの方を見た。
「あなたが、軍隊を倒したりするからじゃないの!?」
全員の視線が一斉に自分に集まった気がして、アステルはいよいよ本気で焦りを覚えた。
確かにその可能性は高い。自分がラムカ峠でウォーディアン軍の指揮所を壊滅させたことが原因で、盛り返したレパネスカ軍が村に攻め入ってきたのかもしれないし、あるいはアステルの所在を突き止めた国軍が報復攻撃にやってきたのかもしれない。
あの時点では怒りに任せて行動してしまったが、流石にこんな事態を呼び込んでしまったともなると、反論の余地がなかった。自分の所為でこの村が壊滅するなど冗談ではない。
しかし意外にも、マナスの見解は違っているようだった。
「いや、アステル殿が原因ではない。攻撃は全て、西の森の方からやってきている。相手はウォーディアン軍でも、レパネスカ軍でもない……きっとモラー派だ!」
敵の正体が分かったことで火が点いたのか、マナスは早急に全員に指示を飛ばし始めた。
「リリィ殿、ジェイド殿、急いで自分たちの武器を持って支度を! ここを出て、ディアス殿と合流します。アステル殿はミーシャと一緒になって、二人の後に続いていくように。しんがりは自分が務めます」
マナスの指示に従って、リリィとジェイドは急ぎテーブルを離れ自室へと戻っていった。指揮官の不在を補って余りある、副指揮官の活躍である。
カウンターの奥から一連のやり取りを覗いていた宿屋の主人は、あれよあれよという間に展開する話についていけず、心底慌てた様子でマナスの元へとやってきていた。
「だ、旦那方、一体何がどうなっているんで!?」
「申し訳ないがご主人、今は一旦諦めて、ここから逃げたほうが宜しい」
「そんな!」
マナスが宿の主人を説得する傍ら、ミーシャは不安げに天井や壁を見回していた。そして誰に言うでもなく、ポツリと呟く。
「……ブランって子、大丈夫かな」
「……ああ」
かく言うアステルの心配事も、実は全く同じだったのである。
しばらくして完全装備になった一同が宿の外に走り出てみると、もはやその光景は業火に包まれているといっても過言ではなかった。
森に近い民家はひとつ残らず炎上し、そこら中で寝巻き姿のままの村人たちが悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。たった今もアステルたちの目の前を、女性の二人連れが慌てて湖のある方向に走り去っていったところである。火の勢いは着々と増すばかりで村の全部を飲み込みつつあり、村人たちはこぞって水辺を目指して避難しているようだった。
「火の回りが早過ぎる……さては矢に魔法でも仕込んだな!?」
マナスが片手で口元を覆いながら叫んだ。不自然なほど早く燃え広がる火に対し、火魔法の使い手がそう判断するのであれば、間違ってはいないのだろう。
実際、アステルたちの傍に命中したあの矢も、火の気など無かったにもかかわらず着弾点から急速にバルコニーの床を炎上させていた。サロマニアでの強盗事件でリリィが使用した閃光弾のように、矢に何らかの魔法を仕込んでいる可能性は大いにある。むしろそうでなければ、このような状況は生じ得なかった。
一同は当初の計画通り、ジェイドを先頭にして湖の岸辺に向かって走り出した。リリィ、ミーシャ、アステルと、名残惜しそうに何度も自分の店を振り返っている宿屋の主人がその後に続いて、最後尾には一同の背後を警戒しながらマナスが走る。
時折降りかかってくる火の粉は、先頭を行くジェイドがその大盾で防いでくれたりするので、中々に考えられた布陣であった。
が、走り出してからほんのちょっとばかり進んだところで突然、ジェイドが急ブレーキをかけた馬車のように立ち止まると、後ろを振り返って叫んだ。
「危ないんだナ、早く戻るんだナ!」
見れば一同の目と鼻の先で、一本の燃えさかる立ち木がついにその限界を迎えて、路上にメキメキと音を立てて倒れ込もうとしていた。アステルたちは急いでその場で立ち止まると、倒木に巻き込まれないよう慌てて安全な距離まで後退した。
直後、炎上を続ける木が重たい音を立ててジェイドの背後に落下し、土煙とともに地面を揺さぶってアステルたちをよろめかせた。ジェイドとリリィは勢い余って転び、宿の主人は驚きに負けてその場に尻餅をついていた。マナスは何とか踏ん張って持ちこたえたものの、ミーシャはやはり倒れそうになっていて、アステルは咄嗟にその傍に駆け寄ると身体が地面にぶつからないよう抱きとめてやった。
ミーシャは気を落ち着けたかと思いきや、自分を支えているのがアステルの腕だと分かった途端に飛び退いていた。自分の手を振り払うようにして離れたミーシャを見て、アステルは心ならずも顔をしかめた。
「……なんだよ」
「触らないでよ!」
「そんな場合じゃねえだろ、このバカ!」
「二人とも、ケンカなら後にし――」
マナスがそう言いかけたとき、一同が逃げてきた道の方から突如として走ってくる無数の人影が出現し、しんがりにいたマナスの目の前で散開したかと思うと跳躍の後宙返りして、あっという間にアステルたちの周囲を取り囲んだ。
「「「モラー!」」」
正体を吟味する必要も無かった。モラー派の信徒が変化した異形の怪人、モラーヴァンの騎士たちだ。普段は白みがかった灰色で統一されているその鎧兜や筋肉、独鈷杵などが今は全て、そこら一帯を包み込む炎の色を吸収して見事なオレンジ色に染まっている。それでも顔の部分に空いたスリットの奥に見え隠れするふたつの瞳だけは、普段と変わらぬ真っ白のままで、こうして対峙するとどうあっても不気味であった。
「やっぱり、こいつらだったのね!」
リリィが即座に背中の篭から矢を取り出し、弓につがえながら言う。
アステルたちにとっては最低でも二度目の遭遇であるため、さほどの驚きは無かったが、宿屋の主人については完璧に腰を抜かしてしまっていた。尻餅をついたままアワアワと声にならない声を上げている様子は、実に気の毒である。
腰を低く落とし独鈷杵を目の前に構えたモラーヴァンたちは、集団で狩りをする肉食動物の如く唸り声を上げつつ、アステルたちの周囲をじりじりと周回していつ襲い掛かろうかと待ち構えていた。
するとモラーヴァンの中に一体だけいた、兜の額とスリットの周囲に赤いラインの入った個体が立ち止まって、アステルの傍にいたミーシャを指差して仲間たちに言った。
「見ろ、その緑色の髪をもった小娘だ。将軍が話されていた悪魔の子に相違ない!」
「「「モラー!」」」
「……あ?」
それを聞いた瞬間、アステルの中から冷静な思考が吹き飛んでいくのが分かった。細かいことなどどうでも良い。ただとにかく、目の前のその怪人を八つ裂きにしてやりたいという感情が強くなっていく。
アステルは力の限り、上位個体と思しきそのモラーヴァンを睨みつけた。
「やれっ!」
「「「モラー!」」」
上位個体の号令とともに、アステルたちを取り囲んでいたモラーヴァンがほぼ一斉に飛び掛かってきた。マナスやリリィ、ジェイドが応戦して戦闘が開始される。
「ひー!」
訂正。ジェイドに関しては盾を構えて悲鳴を上げているだけである。
アステルとミーシャの元にも敵の一体が跳躍して武器を振り下ろしてきたが、アステルはその独鈷杵を無造作に手首ごと掴まえるとガードの空いた腹部に蹴りを入れて弾き飛ばした。敵の体が背後の立ち木に勢いよく激突して跳ね返ってきたところでアステルは、その灰色の顔面目掛けて二発目の蹴りを力任せに叩き込んだ。
予期せぬ連打に悲鳴ともつかない声を上げたそのモラーヴァンは、そのまま遠くの地面に転がっていくとぐったりとのびて動かなくなった。
サロマニアでの一件以来、アステルは学習していた。モラーヴァン化したアステルの体は、変身せずともある程度の膂力ならば発揮できるのである。反射神経や動体視力なども、素の状態でさえ以前よりも遥かに向上していた。
一方後ろにいたミーシャは、頭を抱えてしゃがみ込んではいたものの無事であった。
その姿を確認したアステルは、自分を見上げたミーシャが驚いた表情になるのも構わず、再び敵の上位個体を睨むと声を震わせながら言った。
「何が悪魔だ、クソッタレが。人間をそんな風に呼ぶんじゃねぇ!」
「フン……その小娘は人間ではないわ!」
そう言ってアステルに罵られた上位個体は、手に持った独鈷杵を振りかざすと手っ取り早くミーシャの命を奪おうと突っ込んでくる。ミーシャはすぐに立ち上がって逃げようとしていたが、どう見ても間に合いそうにはなかった。
アステルは速攻で振り返りミーシャのことを抱きかかえると、その場からの離脱を試みた。しかし若干間に合わず、アステルの右肩から背中にかけてが上位個体の振り下ろした独鈷杵の刃の先端に制服もろとも切り裂かれ、たちまち鋭い痛みを生じさせた。アステルは思わずバランスを崩してしまい、ミーシャを抱えたまま地面に落下した。
ミーシャはいきなり固い土の上に叩きつけられて痛みに呻いていたが、すぐ自分を庇ったアステルが倒れて動かないことに気付くと、慌てて起き上がりその背中を揺さぶった。
「アステル、アステル!?」
ミーシャが焦ってアステルの名前を何度も呼ぶ中、二人の背後で次の攻撃に移ろうとしていた上位個体は、状況を察知して助太刀に入ってきたマナスにより食い止められていた。
「……触るな!」
アステルはミーシャの手を振り払ってそう叫ぶと、背中の傷が猛烈な勢いで再生していくのを感じながらさっさとその場に立ち上がった。
「どうせ死なないんだ……心配なんかしなくていいんだよ!」
「ちょっと、そんなこと言ってる場合!?」
先程とはミーシャとアステルの立場が逆転してしまっていた。だが周囲の者たちは戦闘に手一杯であって、いちいち突っ込んでいる余裕など皆無である。
当初に比べて敵の数は減っており、現在は誰もがほぼ一対一の状況に持ち込めていたが、流石に限界が近づいていた。ジェイドなどはよく持ちこたえているほうであった。
「ええい、キリが無い!」
自身が戦う上位個体の攻撃を受け流したばかりのマナスが、苛立ったようにそう叫んだ。と同時に、先程アステルたちの進行方向で横転した木の傍まで駆け寄っていくと、徐に杖の先端を燃え続ける倒木の真上にかざしてピタリと動きを止めた。
マナスは長杖の先端をあぶるオレンジ色の炎を見つめながら、ひとこと宣言した。
「……『ファイヤー・オン』!」
その瞬間、長杖に描かれていた天梵文字が発光し、それまで燃えさかっていた倒木の炎が瞬く間に掻き消えていったかと思うと、マナスが突き出した杖の先端に吸い込まれるようにして集束していった。やがて空中で渦を巻いて流動する、巨大な火の玉が完成する。
「全員、伏せて!」
そう言うなり、マナスは巨大な火炎を纏った自身の杖を右肩の上に振りかざして全速力で突っ込んでくると、アステルたちの眼前でそれを目一杯、横一線に振り抜いた。
リリィとジェイドは事前に察知していたのか即座に地面に伏せ、ずっと腰を抜かしたままだった宿の主人でさえも伏せた。しばし呆気に取られていたアステルも、咄嗟にミーシャの頭を押さえて地面に腹ばいになった。ミーシャが軽く悲鳴を上げていたが、この際気にしてなどいられなかった。
直後、地に突っ伏したアステルたちの頭上を極大の炎の鞭が通過していった。それは僅かに遅いタイミングで遠くに立っていたモラーヴァンたちの体を薙ぎ払い、灼熱の空圧によって一斉に吹き飛ばしていた。見るも凄まじい威力である。
思いもかけぬ反撃に怯んだモラーヴァンたちは、高熱で炙られるのを避けるようにして地面を転がっていくと、アステルたちから距離をとって口惜しげに唸った。
「くそっ……全員、一時撤退だ。本陣まで戻るぞ!」
「「「モラー!」」」
例の上位個体が発した命令に白づくめの怪人たちは口々に奇声を発しては踵を返し、無尽に広がる炎の壁を乗り越えると、出現時と同様あっという間に西の森のほうへと逃げ戻っていった。嵐のごとき、とは正にこの事であった。
「何とか……勝てましたな」
マナスは一撃の下に敵を追い払ったかと思いきや、途端に疲労が現れたようでがっくりとその場に膝をついて座り込んでいた。地べたに這いつくばっていたアステルたちは各々顔を上げ周囲を見回すと、ようやく危機を脱したことが分かって立ち上がり、ゆっくりマナスの下へと歩み寄っていった。
「ちょっとマナス……魔法使うんだったら先に言ってよ。危なかったじゃない」
リリィは開口一番、不平を言っていた。ミーシャもやや憮然とした顔つきになって顔や服についた土を払い落としていたが、珍しくアステルには何も言ってこなかった。
「いやはや、申し訳ありませぬ。咄嗟のことで、あれぐらいしか思いつかなかったもので」
「……それよりも、この状況どうするんです?」
いかにも全て終わったような雰囲気で会話しているマナスとリリィだったが、アステルは容赦なくその問いをぶつけてみた。そう、事態はまだ好転してなどいないのだ。
村を舐め尽くさんとする炎の壁は、もうアステルらの目前まで迫っていた。モラーヴァンたちが逃げていった道すらもいまや完全に炎に閉ざされてしまっていて、戦いを切り抜けたはいいものの、絶体絶命の危機であることに変わりはなかった。
マナスは杖を支えに立ち上がりながら、周囲を見回して悔しそうに言った。
「くそ……火魔法で掻き分けるにしても体力が……」
「ジェイドの風魔法も駄目かな……逆に勢いが強まるかも。雨でも降れば別だけど……」
リリィにそう言われてジェイドが面目無さそうに縮こまる傍ら、どういうわけかミーシャまでもが顔を伏せていた。自分の無力さに歯噛みしている、とでもいうのだろうか。
おそらくこの状況を打開することは、アステルにも不可能であった。アステルとてガルギオンに変身する以外は、魔符を用いた簡易魔術しか使えないのである。村全体を覆いつくす火災を鎮めることなど到底出来はしなかった。
万策尽きたかと思われたその時、一同の前に進み出たのは余りにも意外な人物であった。
「…………雨が、降ればいいのね」
全員が一斉にその声の主を見る。
そう呟いたのは、なんとミーシャであった。目の前を通り過ぎていく際に呼び止めようとしてアステルは、その顔に浮かんでいた真剣極まりない表情を見て思わず言葉を呑み込んだ。ハッタリや対抗心などではない何かが、そこにあったのである。
決意の色を声に滲ませ、若葉色の髪の毛を熱風になびかせて歩く十五歳の少女の後ろ姿を、アステルたちは呆気にとられたまま見送った。
皆の視線を一手に浴びたミーシャは、先ほどの倒木とは反対方向にある炎の壁に向かってゆっくり近づいていくと、立ち止まってその白く細い両腕を天高く掲げ、まるで精神を集中するかのように目を瞑った。
炎が周囲を走り回っているのにもかかわらず、アステルたちは何故か今までにない静けさを感じ取っていた。そのまま何も起こらずに、十数秒が経過していく。
ミーシャが、ルビーのような目をしっかと見開いた。
不意にその白い腕の表面に無数の天梵文字が浮かび上がっていったかと思うと、それらが次々と金色に光り輝いていった。両腕だけではない。両脚も首筋も、顔の上も、果ては胸や腹、背中といった服の下に隠れた部分に至るまでも、全身から余すこと無く黄金の光が放出され、炎の明るさを打ち消していた。その体に出現した天梵文字の総数はアステルがガルギオンへと変身する際のそれを遥かに凌駕していて、それらの発光によっていまやミーシャが新たな太陽となり、ミーシャだけを基準に周辺に光と影が生じていた。
余りの出来事にアステルたちが驚愕させられ声も出せずにいると、突如として村の上空に漂っていた雲が全て、ミーシャのいる地点の直上で渦を巻いて回転し始めた。やがて雷鳴が轟くとともに滝のような豪雨が発生すると、瞬く間に村全体を飲み込んでいった。
アステルたちが反射的に頭上を覆った直後、今度は突然の雨に続き暴風までもが吹き荒れ、村はたちまち嵐かと見まがうような光景へと変わっていった。降り注ぐ風雨の中で、大地に広がる火災など一瞬のうちに掻き消されていった。
終わってしまえば、あっという間の出来事であった。
気付いたときには急遽到来した謎の暴風雨は収まり、村中を包み込んでいた地獄の業火は風水とともにあの世の彼方へと連れ去られていた。
全身ずぶ濡れ状態でアステルたちが呆然となっていると、少し離れたところに立っていたミーシャの全身から急速に天梵文字の光が失われていき、本人は先程のマナスのように心底疲れきった様子でその場にへたり込むと、こちら側を振り返って言った。
「できるか分からなかったけど……何とか上手くいったよ」
疲弊しつつも何かをやり遂げた表情になってこちらを向くミーシャの顔を見返していると、アステルはかける言葉を一向に思いつくことが出来なかった。
彼女がモラー派に『悪魔』と呼ばれている所以の一端を垣間見たような気がした。
アステルがミーシャの元へと駆け寄っていこうとしたその時、月明かり以外の光源が一切消失した真っ暗闇の中でグチュグチュという気味の悪い音が聞こえると同時に、突如として二人の間に背の高い一体のモラーヴァンが着地してきた。不意を突かれたアステル目掛けてそのモラーヴァンから回し蹴りが飛んできて、アステルはガードが間に合わず道の脇にはね飛ばされた。
「ぐぅっ!」
転がった状態から眺めた敵の全身は、体表面から生皮だけを剥ぎ取り、限界まで膨張した筋肉をそのまま鋼鉄に置き換えたような姿であった。首や腕、足などには幾本もの太い管のようなものが生えてきている。右手の先から伸びた刃物のように平べったい三本の鉤爪は、内一本が異様なほど湾曲して巨大な鎌の形に見えていた。
つい先刻にアステルたちを襲った雑兵の画一的な外見とは違い、そのモラーヴァンは灰色の体色以外は明確な個性を宿していた。おそらくはスティングと同じで、指揮能力を有する上位の個体であった。
モラーヴァンは疲労で動けないミーシャの体を軽々と持ち上げると、まるで荷物か何かのようにして肩に乗せ、そのまま地面を蹴ってその場から跳躍していった。慌ててミーシャの名を叫ぶアステルたちだったが到底間に合わず、いとも簡単にミーシャは敵に連れ去られていってしまった。
するとそこへようやく、ディアスが湖のほうから駆けつけてきた。
「……クソッ、間に合わなかったか!」
「ディアス殿、この非常時だというのに一体今まで何処にいたのです!?」
悔しげに呟いたディアスに、マナスは非難するような顔つきでそう言った。最も守るべき対象が目の前で誘拐されたことに、憤りも半端ではないのだろう。
「まあ待て、我々のほかに宿で見かけた客がもう一人いただろう……アレはモラー派の間者だった。怪しいと思って尾行していたら案の定、さっきのモラーヴァンに変身した」
「何ですと!?」
衝撃の真相に、マナスはその坊主頭を金槌で殴られたかのようになっていた。
「奴らの本拠地はおそらく、西にある森の中だ。母親と喧嘩したとかで、ブランという男の子が森に向かったまま行方不明になってると、湖のほとりでそう言われたよ」
その瞬間、アステルの頭の中が真っ白になった。
* * *
村の西側にある通称・ブジンの森は、村の数十倍の面積を有する暗い常緑樹の森であった。その一角にある、木々が大きく開けて出来た円形の空間に、ウォーディアン制圧軍第一中隊の陣幕はあった。
森の中にポッカリと空いた空洞を利用し設営された即席の指揮所には、何人もの騎士団員が出入りし、現在攻撃中である村の状況などを事細かに報告にやってきていた。その様子は、ラムカ峠におけるウォーディアン軍の陣幕と大差ない。
あえて違いを挙げるとするならば、夜闇を照らすべく魔術光を放つ大きな柱が何本も地面の上に突き立てられているということ、そして出入りする兵士の姿が一人残らず白づくめの異形の怪人だということである。
そんな中でも唯一まともな人間の姿を保っていたのが、陣の中央付近に設置された木製の壇の上に立っている男であった。やや寸胴気味な体の上下を真っ白なスーツに包み、頭から同じ色のフードと金メッキされたカラスの面を被ってはいたが、背中で組んだ両手のかたちは間違いなく普通の人間のソレであった。
男は先程からずっとその場に立ち村のある方角を見つめていたが、つい今しがた発生したばかりの局地的豪雨を思い返すように、綺麗に晴れ上がって月の姿まで見えるようになった夜空を見上げながら、心底面白く無さそうに呟いた。
「フン……異端の生んだ怪物めが」
吐き捨てるようにそう言ったところで「モラー!」という声が聞こえ、男はさっと背後を振り返った。白い布を幾重にも張って作られた陣幕の入り口から一般兵卒のモラーヴァンが数名、子供を一人連行しながら入場してきた。村に差し向けた兵士が戻ってきたのである。
男は体ごと振り返ると、後ろ手を組んだまま壇上から降りていった。
モラーヴァンたちに連れてこられた子供の顔を見れば、あのブランであった。不安そうに周囲を見回しながらも、背中から独鈷杵を突きつけられ否応なしに歩かされている。
頭部に赤いラインの入った例の上位個体が、男の傍に駆け寄って言った。
「ベントさま、この子供が森の入り口付近に隠れていましたので、連れてまいりました!」
「……いつも言っているだろう、私のことは“将軍”と呼べと」
ベントと呼ばれたその男は部下の間違いを訂正しながらフードを下ろし、つけていたカラスの面を外した。たちまち彫りの深い顔に、茶髪のオールバックと広い額がさらけ出される。ベントは大げさに両手を広げておどけながら、さも嬉しそうな顔をして来客を出迎えた。
「いやぁ、よぅ~こそ少年。そう怖がることは無いんだよ。オジサンたちはガラシア教主国からやってきたんだ。モラーの教えを広め、この国の人々を救うためにねぇ?」
ベントの前で立ち止まらされたブランは驚きと恐怖の入り混じった顔をしながら、まるで深くから響いてくるような声でそう嘯くベントのことを見上げた。
ベントは目を細め、ニコニコと笑みを浮かべながら再びこう言った。
「どうだい、ボク? ガロン派などやめてモラー派に入らないか。モラーの教えは全てを内包するのだ。真実の正義が、真実の愛が、我々モラー派にはある!」
こんな小さな子供相手に改宗を迫る演説など、ベントはどこまでが本気か分からなかった。演説中のベントは終始笑みを浮かべたままブランを見下ろしていて、いかにも作り物なその表情は傍から見れば堪らなく不気味であった。
しかしブランは何かを期待するような顔でベントを見上げると、恐るおそる口を開いた。
「……もしモラー派に入ったら、お母さんもボクのことを叩かなくなりますか?」
「もちろんだとも! きっとボクのお母さんは異端に染まりすぎてしまったんだね。大丈夫、モラー派ならきっとボクと、ボクのお母さんを救ってくれるよ」
ブランはそれを聞いてしばし黙考していたが、やがてすぐに小さく頷いた。
「……じゃあ、お願いします」
「聞いたかお前たち! やはり純粋な心を持った者には、モラーの正しさが伝わるのだ!」
そう言ってベントは満面の笑みになると、部下たちと共に楽しげに肩を震わせた。
その最中、外向きに張られた陣幕を何者かが飛び越えてきてモラーヴァンたちの背後に着地したかと思うと、その肩に担いでいた緑髪の少女を降ろし、陣中の床に無造作に転がした。
ベントはそれを見て得心が行ったように、ほぅほぅと頷いた。
「小娘を捕まえたか……ご苦労だったな、レヴェルツよ」
右手に鎌のような鉤爪を備えたそのモラーヴァンは軽く会釈だけすると、そのまま後ろに下がって微動だにしなくなった。どうやら無口だけは、変身前と変わらぬ様子である。
一方敵陣に攫われてきたかたちになるミーシャは、村での一件で消耗した体力がまだ回復しきっていないのか半分倒れこんだ状態ながらも、弱々しく上半身を持ち上げてベントの顔を見上げ、心からの怒りが篭もった視線をぶつけて言った。
「あなたたち……なんてことしたのよ!」
「貴様が悪いのだぞ、小娘。元々偵察だけで済ますつもりだったというのに、貴様がいると分かったせいでこの村全体を焼かねばならなくなった。正義とは実に辛いものだ」
「何が正義よ、この卑怯者。関係ない人たちまで殺そうとするなんて!」
「黙れ悪魔め! 貴様が大人しく裁かれさえすれば、それで済む話なのだ!」
一転して乱暴な口調となったベントにブランは一瞬ビクッとしていたが、すぐに自分を鼓舞するかのように頭を振ると、必死にベントとミーシャの間に飛び込んでいった。
「お、お姉ちゃんをいじめないで!」
「ブラン!? 何でこんなところに……!」
ミーシャが驚くのも無理は無かったが、ベントはその様子を見ると眉根に手を当て、やれやれと首を左右に振った。
「困ったなぁ……ボクは本当にモラーの教えを受けたいのかい?」
しかしブランは返答に窮して指をもじもじさせながら、小さな声で幾度か不明瞭なことを口走るのみであった。ベントはやがてため息をつくと、諦めたように言った。
「仕方ない。ボクがモラーの教えに相応しいのかどうか、試してみることとしよう」
ブランには、ベントの言った言葉の意味が理解できなかった。
否、誰であろうと理解できたはずがない。次のベントの行動は、そのぐらい異常であった。
「『フェイス・オン』!」
そう叫んだ瞬間、ベントの肉体が変形を始めた。
顔の上に半透明な天梵文字の術式が無数に浮かび上がると、全身がメキメキと音を立てて異形の存在に組み変わっていく。皮膚の下から鎧が生え、若干白っぽかった肌はたちまちのうちに灰色をした硬質の肉体に飲み込まれた。
それを見たブランが叫び声を上げ、堪らず腰を抜かす。後ずさろうとするものの、ブランの全身はブルブルと震えてしまっていて、逃げようにも逃げられない状態であった。
そうするうちに、やがてベントの肉体の変形が完了した。全身が白っぽい灰色に染まっている点や、腕や胴などのあちこちに天梵術式が金色で刻まれている点は他のモラーヴァンと共通であった。元々がやや太めの体だったからなのか、変身後の姿は大きさの違う楕円形の卵を関節ごとにいくつも繋ぎ合わせたような、全体的に丸みを帯びたフォルムをしていた。
鎧は全体的にのっぺりしているのに加え、両肩からは一本ずつ大きなトゲが生えている。丸みを帯びた逆三角形の頭部の両脇からも、同じく平べったい角が一本ずつ伸び、その口元はまるで昆虫のような形状をしていた。
突然異形の怪物に変身したベントの姿を前にして、ブランは今や半泣きとなってじたばたしていた。それを見下ろすベントの白くて小さな眼の奥が、その口から漏れる低い笑い声に合わせてゆらゆらと揺らめいている。
刻まれた天梵文字が青白い光を発したかと思うと、ベントの右腕が瞬時に巨大な独鈷杵の形に変形した。部下の一人から受け取った、赤い小さな球体を刃の先端付近に開いた窪みにはめ込みながら、ベントはくぐもった声で笑った。
「大丈夫だよ……チクッとするだけさ。すぐに終わる」
「やめて!」
ミーシャは自分でも気付かないうちに叫び、動かない体を必死に動かしてブランを庇おうとしていた。けれどもすぐレヴェルツのごつごつした足に背中を踏みつけられ、悲鳴とともに大地に身動きを封じられる。
ベントはその左手で乱暴にブランの顔を鷲掴みにすると、右腕の刃を胸元に突きつけた。