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第03話 慟哭のガルギオン・前編


 ガロン派によると、生命とは宇宙で最高の尊厳をもつという。



 その真理に達したガロンの教義はヴァースに比類の無い教えだという。




 それゆえに、



 ガロンの布教のための戦いは、生命を尊重することへ繋がるという。





 朝もやに包まれた峠のそこかしこで、金属同士がぶつかり合う音に混じりながら兵士たちの叫び声が木霊していた。

 ラムカ峠。首都サロマニアから北に更に百キロほど離れたその地域は、ウォーディアンの国土の最北部である。そびえ立つようなサロマニア杉の樹林帯はもはや影も形もなくなり、一変して五メートルに満たないような背の低い木々がそこら中の斜面を覆っている。

 ここから東部に向かえばレパネスカ連合国との国境にぶち当たるが、この半年ほどは拡大する戦火の煽りを受けて人通りも少なく、特に明け方などは山間部で薄暗いこともあってか、人影はこれっぽっちも見当たりはしなかった。

 けれども今は、そんな普段の様子が想像できないほどに騒々しく、そして血生臭かった。

 ウォーディアンの北面守備隊とレパネスカ国軍とが、もやに覆われた峠の谷間のあちこちで激突していたのである。


 レパネスカ軍は、長剣による突撃部隊を主体に弓矢の援護射撃をつけるという戦術を取ったのに対し、ウォーディアン軍は、近距離では槍やメイスによる直接戦闘に頼り、その隙にボウガンを携帯した小部隊が敵の弓隊を見つけては掃討するというかたちを取っていた。

 双方ともにかなりの死者が出ていたが、戦況そのものはレパネスカ側がやや不利になりつつあった。ウォーディアンと開戦したことで暫定的に連合首長が決まりはしたものの、国内の混乱は大きく軍の訓練もままならない有様である。元々が小国ゆえ動員できる兵士の数も少なく、この戦場に限らず、圧倒的な戦力差の前にレパネスカは辛うじて踏みとどまっているというのが実情であった。

 また一人、レパネスカ側の兵士がボウガンの矢で射られては、胸をかきむしりながら木の隙間から落下して、谷底へとつづく斜面を転がっていく。

 谷を埋め尽くす真っ白なもやは、兵士たちの断末魔を飲み込む異界への扉であった。


 岩が転がり山肌の露出したその平坦な一帯に、ウォーディアン軍の陣幕は設置されていた。地面に等間隔で打ち込まれた長い木の杭の合間には、部隊章が描かれた白い布がぴんと張り巡らされ、そこに指揮官がいることを示している。

 陣幕内部では、中央に設置された木製の長テーブルの上に地図などが広げられ、その端で茶褐色の鎧を着た二人組が地図上を指差しては熱心に話し込んでいた。時折、テーブルの傍を駆けていく兵士を呼び止めては、色々と細かな指示を与えてから立ち去らせたりしている。彼らがこの部隊の指揮官と、副指揮官であった。

 髭面に、額から上が禿げ上がった丸顔の指揮官は、角刈りでやや細身の副指揮官とともに部下から戦況の報告を受けていた。自軍やや優勢。それを聞いた指揮官は、頬に皺を作ってにんまりとした笑みを浮かべた。


「このまま一気に駆除を進めろ。敵兵に情けをかけるな」

「はっ!」

 指示を受けた連絡員は、片膝立ちの状態から立ち上がると、各部隊に命令を伝えに急いで陣幕の外に出て行った。

 それからしばらくすると指揮官は、背後に立っていた副指揮官と目を合わせてクックックと含み笑いをもらした。その顔には愉悦の色が浮かんでいる。

「レパネスカの奴らめ、力の差も分からずに突っ込んでくるとは、実に愚かな連中だ。兵士の命が惜しいとは思わないのか?」

「仕方がないでしょう。所詮は“生命の教え”を知らぬ者どもです」

「フフフ、全くだな」


 副指揮官もそれにあわせて笑い声を漏らした。どうやらこの二人も、アステル言うところの立派なガロン信者の様子であった。

 指揮官は専用の椅子に座り、テーブルに両肘を突くと組んだ手の上にあごを乗せた。その目の前には灰色をした、全高三十センチほどの小さなガーゴイル像が安置されている。この石でできた厳しい顔つきの怪物を自陣に置いておくことは、ガロン派の国家が他国と戦争をする際の規定事項である。

 特に今回はアスト派を国教とする“異端”の国が相手である。それだけに、彼らにとっての象徴として、ガーゴイルの存在は必要不可欠だったのだ。

「やはりステラの神は、ガロンの教えを望んでいるのだろうな。昨今は、ガーゴイルの化身がこの国に現れたなどという噂も聞く」

「ガルギオン……でしたか? どうにも私は信じられないのですが」

「そのうち、信じざるを得ないようになるさ。ここ最近はモラー派の動向も怪しい。異端者どもがいつまでも“生命の教え”を踏みにじるようならば、必ずやステラの神がガーゴイルの化身を遣わしてくださるだろう」


 そんな会話をしている最中、伝令の兵が陣内に駆け戻ってきた。

「報告します! 敵軍は弓兵の援護射撃を受けながら撤退に移った模様!」

「ええい、往生際の悪い奴らだ。ボウガン部隊に追撃させろ、一人も生きて返すな!」

 そう命じた指揮官は苛立った様子で拳をテーブルに打ちつけ、醜く顔をゆがめながらギリギリと歯軋りをした。

「まったく信じられん奴らだ。仮にもアスト派を崇める国でありながら、自分たちの象徴である杖よりも、弓矢や剣に頼ろうとするとは!」

 この指揮官の憤懣は、ヴァースにおける慣行に端を発している。

 かつてステラ=マスターが与えたとされる六つの象徴のうち、ガーゴイル以外の五つには剣、弓、盾などの実用的な武器が当てはめられている。そしてこれらの武器、特に自分たちの所属する宗派がその象徴として崇める武器を使用することは、ヴァースの人間にとっては大きな意味のあることなのだ。例えばアスト派の軍隊にとって、彼らが象徴とする『杖』を用いて戦う部隊は戦場での花形である。


 一方で自分たちが象徴としていない武器、特に他宗派によって象徴として用いられている武器については解釈の幅が大きい。決して使ってはならないとする厳格なところもあれば、推奨はしないが特に禁止もしないというところもあり、少なくともウォーディアンについては限りなく前者に近かった。彼らの部隊が剣や弓を使わず、メイスやボウガンを使用しているのは実はこのためなのである。陣幕にガーゴイルが安置されるのも、元はといえば象徴となる武器を持たないガロン派が編み出した代替案なのだ。


「彼らには誇りというものがないのでしょう。だから他宗派の武器である、弓矢や剣を平然と使うことが出来る。仮にも同じステラの神を信じる者とは、思いたくありませんな」

 副指揮官がそう言ったかと思うと、指揮官の方は憤慨した様子で、

「馬鹿馬鹿しい、奴らがステラの神を信じてなどいるものか。これだからガロン派以外は、神への恥さらしだというのだ! 卑しくも弓など使いおってからに――」

「でも、あんたらだってボウガンを使ってるよな?」

 その声がしたのは余りにも突然の出来事だった。指揮官は怒鳴るのを中断し、怪訝な顔で辺りを見回すが、どこにも声の主らしき人物は見当たらない。

 が、一通り周囲を見回した後で再び正面を向くと、ガーゴイル像が設置された長テーブルの向こう側に、いつの間にか茶色いブレザーを来た学生らしき身なりの少年が一人、立っていた。少年は指揮官の方を見ながら、薄く笑みを浮かべていた。

 椅子に座ったまま指揮官は、テーブルの反対側から自分を眺めている見ず知らずの少年を見て不審に思い、訊ねた。


「何だ貴様は……誰に許可を得て入ってきた」

「なぁ、あんたら裏山の警備ちゃんとやってんの? もし俺が敵だったら、今頃あんたら二人とも死んでたかもしれないんだぜ」

 少年は指揮官の問い掛けを無視して、からかう様な口調で言った。それを聞いて指揮官は益々激昂したのか、テーブルをドンと叩いて立ち上がった。

「貴様は誰だと聞いているのだ!」

「あんたらさぁ、弓矢を使うレパネスカのこと散々悪く言ってるみたいだけどさ、自分たちだってボウガン使ってるじゃん。そのへん、どう思ってるの?」

 やはり少年は指揮官の言葉を受け流して、ひどく馬鹿にしたような口調で告げる。

 二度までも露骨に無視された指揮官はこめかみをピクピクと痙攣させながらも、怒りを抑えるような顔をして言った。


「……ボウガンを使うことに何の問題がある」

「別に何も? でも弓矢を使うレパネスカの連中と何が違うのかな、って思ってさ」

 その言葉を聞き、指揮官は余計に顔をしかめてみせた。

「貴様は何を言っている? 弓矢とは南方のエラト派の象徴だ。アスト派を名乗るレパネスカの国軍がそれを使うなど、当然許されぬことであろう」

「じゃあ何で、あんたらはボウガン使ってるの?」

「……だから、ボウガンの何が問題だというのだ!」

「俺は弓矢とボウガンの何が違うのかって聞いてんだよ!」

 少年はそこにきて、いきなりぞんざいな口調になって言い放った。

 指揮官の顔の痙攣がより激しくなっていく。


「もう一度聞くぜ、弓矢とボウガンの何がそんなに違う? 使い道は殆んど一緒じゃねーか。なのにどうして弓を使うレパネスカは恥さらしで、ボウガンを使うあんたらには何の問題もないってんだ? え? 教えてくれよ、将軍さ――」

 少年の言葉はそこまでだった。指揮官の男が前触れなく、椅子の下から一丁のボウガンを取り出したかと思うとテーブルの反対側にいる少年に向かって突きつけ、何の警告もなしにその引き金を引いたのである。放たれた短い矢は一瞬で少年の喉元に突き刺さった。

 少年は驚きに目を見開いたまま硬直して、仰向けに倒れるとそれきり動かなくなった。

 矢を放ったばかりの指揮官はボウガンを持ったままテーブルを離れると、陣中の土の上に大の字になって転がっている少年の元へと近づいていき、その体をじっと冷たい目で見下ろして言った。

「そんなに知りたければ、自分の体で確かめるがよい」

 中での騒ぎが聞こえたのか、外で警備に当たっていた者や伝令役の兵士たちなどが何事かとざわめきながら、陣内に入って集まってきた。指揮官は、持っていたボウガンを傍にいた兵士の一人に渡すと淡々と命じた。


「このゴミを捨ててこい。見たところ我が国の学生のようだが……何とも嘆かわしい」

 そう言って指揮官が踵を返そうとした瞬間、それまで閉じていた少年の両目が突然カッと見開かれ、瞳の奥が真っ白に染まっていって光り輝いた。少年が死んだものと思って上から覗き込んでいた兵士たちは仰天し、叫び声とともに慌てて跳びすさった。

 少年はゆらゆらとその場に起き上がると、喉仏の下辺りに突き立っていた矢を乱暴に抜き放って足元に投げ捨てる。風穴のようだった傷口は見る見るうちに塞がってゆき、やがては再生した皮膚の下に飲み込まれて消滅した。

 復活した少年が低いうなり声を上げながら大げさに首を回したりすると、周囲の兵士たちがより恐れおののいた。その光景を見て少年は楽しげに笑いながら、呆然としている指揮官の男を前にしてこう宣言した。

「――『フェイス・オン』」


 少年の顔や腕にぶわっと半透明の天梵文字が浮かび上がったかと思えば、肉や骨の軋みあう音がして、たちまちその細身の肉体が異形へと変貌を遂げる。

 黒みがかった銀色の鎧に全身を包まれ、背面には小さな翼、犬面の頭部に杭のような牙と真っ白な複眼、そして手足に鉤爪を備えたガーゴイルの化身、ガルギオンである。

 それを見せ付けられて、兵士たちの中には腰を抜かしてしまう者まであった。

「なあ、将軍さんよ」

 ガルギオンが一歩前に踏み出しながら、ややくぐもった声でもって問いかける。

「ガロン派ってのは“生命の教え”だったよな? それにしちゃあ随分と平気で人を殺してるように見えるんだが、これは一体どういう訳なんだろうな?」

「な……な……」


 指揮官はパニックを起こして口をパクパクさせたまま、二の句が継げないでいた。そんな様子を見た副指揮官が、慌てて彼の傍に駆け寄っていって言う。

「こ、この者はもしや、噂のガルギオンでは? つまりガーゴイルの化身――」

「そそそ、そんなことがあるものかっ! 本当にガーゴイルの化身であるならばガロンの教えを否定するなど有り得ぬ! こやつはただの怪物だ……やれ、やれお前たち!」

 指揮官から命令が発せられるが、兵士たちは皆躊躇する素振りを見せてしまって戦うことが出来ない。当然である。たとえ口先では何と言って否定しようが、彼らの目の前にいるのは紛れも無くガーゴイルと同じ姿かたちをした存在なのだ。

 そんな中ガルギオンがじりじりと指揮官に迫っていくのを見て、ようやく一人が武器を振りかざし突っ込んだかと思うと、それにつられて他の兵士たちも、半ば強引に気持ちを奮い立たせるようにして次々とガルギオンに飛び掛っていった。

 その瞬間から、陣幕内は悲鳴と怒号が渦巻く空間へと変わり果てた。

 まず第一陣で突っ込んだ兵士たちがことごとく鋼の拳で殴り飛ばされ、その次にメイスを振りかざして殴りかかった兵士も攻撃が当たったはいいが、特に効き目のあった様子すら確認できないまま得物ごと摑まえられ、遠くへと放り投げられる。ボウガンを構えて遠くから狙い撃った者も、矢が命中すれば瞬時にその白濁した複眼で睨みつけられ、投げ飛ばされた椅子や他の兵士たちに激突させられては地面に伸びていった。


 再びボウガンを手にし、パニックに陥りながらも必死の様相で矢を装填しようと試みていた指揮官の男は、ガルギオンが跳ね上げた長テーブルの下敷きになって潰され、土と木材に挟まれ意識を失った。ものの一分と経たないうちに、そこに立っている者はガルギオン一人を除いて他にはいなくなった。

 陣中を壊滅させたガルギオンは、あちこちで折り重なって気絶している兵士たちを見回すと急速に力が抜けたようになって、その場にがっくりと膝をついて座り込む。ガルギオンは自分の腕に刺さっていた矢を片っ端から引き抜いては適当な場所に放ると、目の前に差し出した両手をまじまじと観察した。

 銀色の装甲に包まれたその腕には、かすり傷一つついてはいなかった。ガルギオンは突然大きな叫び声を上げると、振り上げた両の拳を大地に向かって力任せに叩きつける。

 ガーゴイルの化身が上げた雄叫びは誰も応える者のないまま、ただ真っ白く染まった虚空の彼方へと響きわたっていった。


  * * *

 

「アステル君、戻ってきたか!」

 山を下り、峠の西側にある岩場へと戻ってきたばかりのアステルを出迎えたのは、ディアスの発したそんな一言であった。

 サロマニアを発ってからはや数日。アステルたちは今、ウォーディアン領内を北へ北へと歩き続けていた。あと一山越えれば次の村だということで、昨晩はこの岩場にて野宿をしたのだった。いまやすっかり明るくなった岩場の真ん中で、ディアスたちが取り囲む真ん中に小さな焚き火の燃えているのが、そのいい証拠である。

 ディアスたちはその傍を離れると、慌ててアステルの元に駆け寄ってきて言った。

「無事でよかった。目覚めたときから君だけ姿が見えないと思ったら、近くで戦闘があったらしいなどとマナスが言うものだからね」

「アステル殿、一体今まで何処に?」

「ええ、ちょっと軍隊にケンカを売りに、ね……」


 マナスの問い掛けに、アステルは面倒くさげにそう答えてみせる。しかし口調とは裏腹に、何度も山の斜面を昇り降りしたはずのこの肉体は一向に疲弊しておらず、アステルにはその事実が心底憎らしかった。

 ディアスらが驚きを隠せず互いに顔を見合わせていると、突然彼らの後ろからミーシャが現れて、アステルに向かってつかつかと歩み寄ってきた。何も言わないでいると、いきなり頬を引っぱたかれて、アステルはよろめくのに乗じて相手から目を背けた。

 ミーシャの顔には、やや涙交じりながらも怒りの色が浮かんでいたのだ。

 思わぬ行動に他の四人がびっくりした様子で次に起きることを注視していると、ミーシャがようやく絞り出したような小さな声で言ってきた。

「何やってるのよ……みんな心配してたんだよ!」

「……へぇ、その皆ってのは、お前自身も含めて言ってんのか?」

 思わず皮肉の篭もった言葉が、視線を元に戻したアステルの口をついて飛び出してくる。ミーシャは愕然としているようだった。

「ちょっと、こんな時に何言って……」

「俺を散々弱虫と罵ってたのは、一体何処のどいつだ? 嫌なものにははっきりそう言えと、何度も俺に言ってきたのは誰だった? いい加減にしろ、お前は身勝手すぎるんだよ」

 それからアステルは視線を落とし、自分の手のひらを見つめてボソッと呟く。

「大体、心配する必要なんかないだろ、こんな化け物……」


 それを聞いたミーシャは衝撃を受けたような顔をして唇を噛んでいたが、やがて拳を握り締めて顔を伏せると、すれ違いざまにアステルにわざとらしく肩をぶつけて遠く離れた茂みへと一人去っていった。リリィが慌てて、その後を追いかけていく。

 アステルは背後のその様子を覗き見て軽くため息をついてから、傍で見つめていたディアスらの方を向いて言った。

「皆さんもよく、俺の事なんか待ってましたね。いても面倒なだけなんですから、いっそのこと置き去りにでもしてくれませんか?」

「前にも言ったはずだよ。君がそれを望む限りは、我々と一緒に来てもいいと」

 ディアスはアステルの目を見て、即座に断言する。

 アステルはその目を見つめ返してから、視線を足元に落として再び溜め息混じりに言った。

「……何のメリットも無いですよ、どうせ」

 心の底から、アステルはそう思った。

 アステルはそのまま上を向くことなく、何とも言えぬ表情でアステルのことを見つめているマナスやジェイドの前を通り抜けると、相変わらず岩場で燃えている焚き火にあたろうとしてノロノロとそちらに歩いていった。

「……ただ、これだけは言わせてもらうがね」

 そのとき背後から、ディアスが付け加えるようにして言った。

「君のことを一番心配していたのは、他でもないミーシャだったよ」

 それを聞いても尚、アステルは何も言わなかった。


  * * *


 薄い緑の絨毯に一面覆われた急な傾斜の山頂付近を、アステルたちは一歩一歩足元の岩を踏みしめながら上を目指して登っていた。

 この山を越えたところにあるのが、ウォーディアン最北端とされる小さな村である。その村を基点に東の峠を越えていけばレパネスカ連合国に、北の草原地帯を進めばシビリオン連邦に、西の砂漠へと向かえばモラー派の諸国に辿り着けるのだ。そういう『旅の分岐点』としての位置づけから、この地方には国境を股に掛けた行商人や芸人の行き来が、少なくともレパネスカとの間で戦端が開かれるまでは数多く存在した。

 曇天のもと山登りを続けながら、アステルの背後にいるマナスは途中しばし立ち止まっては真東を向き、そちらに広がる黄緑と褐色のまだらに目を凝らしていた。


「うーむ、やはり戦場はあの辺りでしょうなぁ……」

「よく分かるよねー、マナスは。あんなに遠い場所だっていうのに……」

「伊達に十年間も軍にいませんからな。何となく“匂い”がするのです」

 リリィの感心にも、マナスは大したこともなさげにそう答える。それよりもすぐ、マナスは思い出したようになって後ろからアステルに向かって訊ねた。

「そういえばアステル殿、軍にケンカを売ったと申されましたが、相手はやはり……?」

「……ええ、ウォーディアンの軍ですよ」

「ああ、やっぱりそち――え、ウォーディアンの軍!?」

 マナスは言いかけて中断し、即座に素っ頓狂な声を上げる。本当に驚いていた。

「つ……つまりは、この国の軍隊と戦ったと?」

「ええ、指揮官のいる陣幕を叩き潰してきました」


 アステルのその淡々とした説明にマナスだけでなく、ディアスやリリィも驚いている様子だった。ジェイドは相変わらず、登頂に必死で聞いていない。

 尤もアステル自身、一同の先頭にいるため殆んど声以外では彼らの反応は知り得なかった。

 やや躊躇していたマナスは、やがて意を決したようにアステルの背中に話しかける。

「……アステル殿、ジパンガリア生まれの自分が言うのも変な話でしょうが、流石に自国の軍隊を攻撃するのはどうかと」

 それは、かつて国軍に所属していたというマナスだからこそ出た台詞だろう。

 今回ウォーディアンが戦っている相手は、祖国ジパンガリアと同じアスト派の国である。従ってアステルの行為は、どちらかといえば喜んでもいいような内容のはずなのだ。しかしながら戦闘中の軍隊が自国民から壊滅させられるというのはむしろ、元軍人というマナスの立場からすればあまり気持ちのいい出来事ではないのかもしれない。

 するとその後方でディアスと一緒に登っていたミーシャが、突然口を挟んできた。

「そうだよ」

 アステルはそこで初めて不機嫌そうな顔を作って、後ろを振り返ってやった。ミーシャのことをじろりと睨みつけると、あちら側もアステルに負けない勢いで睨み返してくる。


「……あなた、自分の故郷が攻撃されてもいいっていうの? モラーヴァンたちがまた襲ってくるかもしれないんだよ」

「戦争なんか下らないって、俺の前でそう言ったのはお前だろ」

「じゃあ、家族がどうなってもいいって言うの!?」

「ああ、どうなってもいいね」

 アステルは即答してやった。迷う隙も見せない。

「あんなものが家族……? 笑わせんなよ。それらしい気遣いも思いやりも見せないくせに、親の恩とかを振りかざせば小さな感情ひとつまで支配できると思ってやがる。アレは親ってだけでな、家族なんかじゃない」

「……あなた、最低だよ!」

 ミーシャは山を登るのも忘れて、その場に立ち止まって大声で叫んだ。

「お母さんは、あなたのこと心配してくれたのに! 振り向きもしないで無視して、見えないところでお母さんのことをそんな風に言うなんて!」


 アステルはその様子を斜面の上からじっと見下ろした。ミーシャの肩は震えていて、そこに見えているのは紛れもなく、本気の怒りであるようだった。

 アステルは自嘲の意も込めてフッと鼻で笑うと進行方向に向き直り、そのまま再び山頂を目指して登り始めた。相手の顔も見ずに、アステルはわざとらしく大きな声で言った。

「最低で結構だ」

 それからしばらく間を置いて、更に続ける。

「……どうせ、俺は悪魔だからな。血も涙もない奴なんだよ」

 ところで言い争いの一部始終を見せ付けられていたディアスたちは、一体どうやって二人の口論を止めたものかと途方に暮れている様子だった。しかしアステルの言葉にミーシャが反応して再び何か言い返そうとしたその時、一同の最後尾にいたジェイドが突然ぜえぜえと息を吐きながら言葉を発した。

「ぜえ……ケンカは……ぜえ……止めるんだナ……ぜえ……ぜえぜえ……言い争っても……ぜえ……何にもならないんだナ……ぜえぜえ」

 今にも死にそうな声であった。

 ミーシャは思わず口をつぐみ、見かねたリリィは登ってきた斜面を少し戻ると、ジェイドの背中を押して再び一緒に登りはじめる。

「ジェイドは他人よりもまず自分の心配でしょ……ほら、頑張って」

 リリィの厚意に、ジェイドはまた息を荒くしながら、聞き取れないような掠れた声で礼を言っていた。緊張で張り詰めた空気があっという間に緩んでいく。これも一種の才能か、と思うアステルであった。


 山の尾根を越えるとすぐに、ふもとにある小さな村の全景が見て取れた。

 ミラ=アレスタ村。旅路の分岐点として多くの旅人たちが訪れるという、ウォーディアン最北端の村落である。

 サロマニア市がすっぽり丸ごと入るような湖を前にしたその村は、人口二百人程度の過疎の土地であった。南と東は険しい山々に囲まれていて、北に広がる湖の向こう側にも曲がりくねった稜線が見え隠れしている。それを越えて行けばすぐに草原地帯が待ち構えており、いずれは一同が目指すディアスの故郷シビリオン連邦へと到達する。

 唯一山岳地形が緩やかとなっている西方面は、水辺に沿って大きな常緑樹の森が広がっていて、そのまた向こうに存在するという草原や砂漠地帯の姿を見えなくしている。モラー派を国教とする諸国が位置しているのは、そういった砂漠の彼方なのだ。

 尾根の近くで少し休憩していたアステルたちは、ジェイドの回復を待ってようやく斜面を下ってくると村へと入り、その余りの人気の無さに目を見張っていた。


「やはり、戦の影響か……村人以外の姿が殆んど見当たらん」

 ディアスの呟きどおり、村内の道々で出くわすのは皆村人らしい猟師か年寄りぐらいのもので、土地柄上ある程度はいてもいいはずである旅人や観光客といったものの姿は、一向に発見することができなかった。

 村それ自体は、木造の家屋が民家や宿などをひっくるめて五十戸ほど点在しているだけの小規模なものである。村人たちは釣りや猟で生計を立てているのか、目立って大きな田畑や道路などは見受けられなかった。再びディアスを先頭にした一同が歩いているのは、緩やかに傾斜した裾野の上を、湖岸線に向かって大きく蛇行しながら伸びた一本の細道である。

「……今晩はこの村に留まることになるのですかな? 広いし、見晴らしもいいし、ここなら訓練にも最適そうです」

「俺はもう歩きたくないんだナ……」

「あたしも、久々に弓の練習とか出来たらいいんだけどな」

 元よりそのつもりだったと思われるディアスは背後を振り向いて、一同の提案に軽く頷いてみせた。それから、目の前に広がっている小さな村の様子を見渡す。


「うむ、しばらくの間はここに滞在するのがいいだろうな。見たところ宿には困らないようだし、どこかに安くて全員で泊まれる場所を見つけ出そう」

 そう言ってディアスは一同を促すと、今いる道を家々が見える方向に向かって進み始めた。

 マナス、ジェイド、リリィ、そしてミーシャにアステルも、その後に黙ってつき従った。ただしミーシャはまだ先程の口論を引きずっている様子で、ディアスの傍を絶えず離れないようにするばかりか、村に辿り着いてからもアステルとは決して顔を合わせようとはせずに、終始無言を貫き通しているのだった。

 アステルにとっても、あれ以上ミーシャと争っても無意味だということは知っているのであえて相手に合わせて黙り続け、余計な火種が撒かれないようにしている。所詮自分とミーシャとでは、価値観が決定的に違うのである。その違いを乗り越えられるぐらいであれば、きっと今頃アステルは悪魔などとは呼ばれていないはずだった。


 一同はやがて村の西方面に広がる森の入り口前に横たわる、小さな広場へと辿り着いた。

 その広場には、場所が大きいこともあってかこの村に入って初めて大勢の人たちがおり、小さな子供が五人ほどで集まっては追いかけっこをしていたり、ディアスよりも年上らしき老人が木の切り株に腰掛けて眠りこけていたりした。この曇天だというのに外で走り回っているチビッ子たちを見て、自分より余程健康的だなとアステルは思った。

「見ろ皆、あの建物だ」

 と言ってディアスが指し示したのは、広場を出てちょっとだけ坂道を下ったところにある、瓦葺きの屋根を持った木造二階建てと思われる一軒の民宿であった。まずはそこに泊まれるかどうかを検証するらしい。

 アステルたちは広場に入って真っ直ぐ右方向にカーブすると、森に繋がるこの場所よりも一段低い土地にある建物目指して、何事も無く坂道を下っていこうとした。

 だがその時だった。

 突然何の予兆もなく女性の怒鳴り声が、一同の背後すなわち広場の端の方から響いてきて、アステルはビクッと身をすくませて立ち止まると、恐る恐る声のした方向を振り返り窺った。小さな子供の涙混じりに謝罪するような声が、続いてアステルの耳に飛び込んできた。


 そこにいたのは十歳ぐらいに見える一人の男の子と、その母親と思しき細身の女性であった。目を吊り上げてヒステリックに怒鳴りつける母親の足元で、その男の子は両手で頭を抱えてしゃがみ込み、涙声でしきりにごめんなさいと繰り返している。

 その光景が目に入った瞬間、アステルの心臓がバクンという確かな音を立てて跳ね上がり、全身を駆け巡る血がたちまち凍りついていった。寒気がするにも関わらず、体中からは嫌な汗がドッと溢れ出してくる。脳内にある全ての論理的思考が瞬く間に漂白されていき、周囲の状況は何ひとつ頭に入ってこなくなった。アステルにはもう、遠くにいるその母子が繰り広げるやり取り以外、何も分からなかった。

 最終的に母親の方は、もういいわ知らない、とひとことだけ言い捨てると乱暴な足取りでアステルたちの傍を通り過ぎていき、坂道を下って民宿の角を曲がりいなくなってしまった。後には、広場の地面にしゃがみ込んで大声でワンワンと泣く男の子だけが一人取り残された。その姿を見つめながらアステルは、ただ呆然としてしまって身動きすることが出来なかった。


「――くん、アステル君!」

 背後から肩を揺さぶられ、アステルはようやく我に返ることが出来た。慌てて振り返ってみれば、ディアスやマナスが心配そうな顔をしてアステルの顔を覗きこんでいた。

「一体どうしたというのだ……顔が真っ青だよ」

 自分はよほど動揺しているらしかった。アステルは急いで自分の口元を手で覆って、荒くなっていた呼吸を強引に整えると、気を落ち着かせてからディアスらに向かって言った。

「……皆さん、そっちに行くんですよね。悪いんですけど、少し先に行っててもらえますか? 俺は後から追いつきますんで」

「……やはり何かあるのか?」

「ちょっくら、野暮用です。危険な内容じゃないんで、安心してください」

 ディアスの追及に、アステルはそれしか答えようとしなかった。というよりも、震える声を抑えつけ、愛想笑いを作ることで必死だったのである。

 なおも訝しげにするディアスたちであったが、仕方なく納得するとアステルに別れを告げ、ぞろぞろと列を成して細い坂道を下っていった。物分かりのいい人たちで助かった、と思うアステルであった。

 知り合いが一人もいなくなったのを確認したアステルは、広場の端を再び見つめると意を決し、未だ座り込んで泣きじゃくっている少年の下へとゆっくり近づいていった。


 少年は泣きながらひどく咳き込み、むせ返って、悲惨な様相を呈していた。

 アステルは自分も少年の傍にしゃがみ込むと、その背中を優しくさすってやりながら静かに話しかけた。

「……おい、どうした。大丈夫か?」

 散々泣きじゃくっていた少年はそこで初めてこぼれた涙でグショグショになった顔を上げ、アステルの存在を見とめた。こういう姿を見た場合、泣いている事実そのものを笑い飛ばすのもひとつの方法ではあったが、生憎今のアステルには不可能なことであった。

 少年は半泣き状態で絶え間なくしゃくり上げながら、見ず知らずの年上の少年の顔を見ておそるおそるといった様子で訊ねてきた。

「お兄ちゃん……誰……?」

「通りすがりのガルギオンさ。分からなくてもいいよ」

 アステルは適当にそう答えておいた。まだこの村の少年は知らなくともおかしくないし、たとえ知っていても本気にしないだろうという予感があった。

 こぼれ落ちた涙の痕で目の下を幾重にも汚した少年の顔は、言われたことの意味が分からないといった具合にきょとんとした表情を作っていた。アステルは無言で微笑むと、少年の頭に手を乗せてそのままクシャクシャと撫でてやった。


「……あなたの言ってた野暮用って、こういうことだったの?」

 いきなり背後から声をかけられて、アステルは咄嗟にそちらを振り向いた。

 見れば、いつの間にかミーシャが自分の真後ろに立っていて、意外そうな顔でアステルと少年の二人を覗き込んでいた。

 アステルは軽く顔をしかめてから、すぐにまた目の前の少年へと目線を戻した。

「……お前、ディアスさんたちと一緒に行ったんじゃなかったのかよ。悪いけど、今だけは放っといてくれ。ケンカする余裕なんて無いんでな」

「ケンカ腰でそう言われても説得力ないよ。でも意外だね。自分勝手なだけかと思ったら、小さい子には親切なんだ?」

 ミーシャは興味深そうな顔をしつつ中腰になると、泣き止みつつある少年の顔を覗きこみ、自分もその子に向かって優しげに微笑んでみせた。少年はじっとそれを眺めていたが、やがてすぐにエヘヘと破顔一笑した。涙でボロボロになった健気な笑みだった。

 アステルはその頭を再び撫でてやってから言った。

「これも、自分勝手の延長みたいなモンだがな。俺がこの子を心配だってだけの話さ」

「……前から聞きたかったんだけど、どうしてそんなに自分を悪く言いたがるの?」

「何だって構わないだろ。どうせ俺は最低野郎なんだから」

 相変わらず、口の減らない会話であった。


  * * *


「――とまぁ、こんな具合に安く致しますんでね。どうです、旦那?」

「確かに六人でこれは格安だが……商売になるのか、ご主人。もしかしてベッドが腐ってるとか、いわく付きとか、そういうことなのか」

「いえいえ。なんでしたら、部屋ン中を確認してもらってからでも構いませんよ」

 そう言って、緑のジャケットにサングラスをかけた宿屋の主人は、玄関フロア奥に見えるたくさんのドアが並んだ狭い廊下を指し示した。ここは坂道のすぐ下にあった、ディアスらが最初に入った二階建ての宿の中である。ディアスは現在、カウンターに寄り掛かったまま主人と値段交渉の真っ最中なのだ。

 ところがこの主人、ディアスらが入ってくるやいなや、何故か自分から宿代をまけるので是非泊まっていけと言い出したのである。六人いっぺんに泊まれる上に食事つきと条件自体は申し分なかったのだが、逆にそのことでディアスは怪しさを感じていたのだった。


「ディアス殿、部屋もベッドも特に問題はなさそうです」

「うーむ……」

「あのね旦那、商売になるのかって聞きましたけど、正直言やぁこの半年間は客が来るってだけでも珍しいんですよ。今だってホラ、他の客なんて言ったらあの隅っこの方に座ってる旦那一人しかいない」

 そう言って主人が指し示した方向に目をやると、そこには深緑色のロングコートを着た男が一人、本を片手に足を組みながら椅子に座り込んでいた。男は額と肩幅が広く、頑丈そうな体躯の割には青白く不健康な顔つきをしていた。ただし無愛想なのだけは見た目どおりのようで、ディアスの方を軽く見返すとまたすぐ読書に戻ってしまっていた。

「だからね、どうかもう怪しまずに泊まっていってやって下さい。正直言って釣りだけでも生きてけないこたぁねぇが、戦争の所為で客が来ないなんてのは、どうにも寂しくって仕方ねぇ。皆が皆、旦那方みたく戦場の傍を通ってくる勇気がありゃいいんだが」

「我々だって、たまたま戦場が近かったに過ぎないんだがね……それにまだ、子供の道連れだっていることだし――」


 と言ったところで後ろを振り返ったディアスは、そこに本来いるべき仲間の一人が見当たらないことに気がついた。マナスは宿の入り口付近に飾られた絵を眺めている。ジェイドは予想通り椅子に腰かけてへたばっており、リリィもその脇でのんびりとしていた。

 アステルはいいとしても、ミーシャの姿がないのである。ディアスは少々焦りを覚えて、

「リリィ、ミーシャはどこにいる?」

「……あれ? 確かそこにいたと思ったんだけど」

「まったく、ちょっと目を離すとすぐこれだ。またモラー派が襲ってこないとも限らんのに」

「あたし、ちょっと外に出て探してくるね」

 そう言ってリリィは椅子から立ち上がると、軽く体をほぐしてから宿の外へと出て行った。

 一部始終を見ていた宿の主人は、興味をそそられたようにディアスに顔を近づけ、

「……旦那方、モラー派の化け物をご存知なんで?」

「これまで何度か遭遇したよ……幸い生き残れたがね。この辺りにも、奴らは現れたのか?」

「いや、まだだ。でも時間の問題かもしれねぇ。西や南の町じゃあ次々にモラー派の連中が襲ってきてるっていうし、この村もそろそろ危ないんじゃねえかな。軍隊はレパネスカとの戦争に懸かりっきりだしねぇ」

 一瞬、食堂も兼ねたそのフロアの片隅で件の無愛想な男がピクリと反応していたのだが、ディアスらは気付かなかった。


「だナ~……だナ~……」

 へたばったジェイドの脱力しきった声が、フロア中に聞こえている。一番心配な最年少のメンバー二人は勝手にどこかにいなくなってしまうし、何とも締りが悪かった。こんなことで果たして有事に対処できるのだろうかと、ディアスは軽く額を押さえながらため息をつくのだった。

「ときにご主人、ここの屋号である『魔神』とは一体どのような由来で?」

 マナスの質問に、主人は気付いてくれてありがとうと言わんばかりに顔をほころばせた。

「この村に、代々伝わる伝説なんですよ。何でも、あの湖を二つに割って出てきたっていう巨大な騎士の石像が、ずっと昔にここらを治めてた悪徳領主をですね……」


  * * *


 ミーシャはアステルとともに、ブランと名乗ったその少年を挟んで、広場の隅にある石のベンチに腰掛けていた。小さな子供たちが元気よく走り回っている姿を前にしながら、二人はようやく泣き止んだブランの話に耳を傾けていた。

「ボク、お母さんに言ったんだ。ガロン派が生命を大事にする教えなら、戦争をしたらいけないんじゃないかって。戦争をしたらガロン派が嘘つきになっちゃうから、レパネスカの人たちと話し合わなきゃ、って」

「うん」

 アステルはただ頷きながら、ブランの話に耳を傾けている。

「そしたらね、いきなりお母さんがものすごく怒って、『とんでもない事を言うんじゃない、謝りなさい』って。ボクは嫌だって言ったの。それで……」

「……それでいきなり、叩かれたのか」

 ブランはアステルの制服の裾を摘まむと、不安げに上目遣いで訊ねた。


「お兄ちゃん、ボク悪いことしてないよね。いきなりぶってきたお母さんが悪いんだよね?」

「……そうだな、お前は何も悪くないよ」

 そう言うとアステルはもう一度、目の前の少年の頭を撫でて微笑んでいた。ブランは目を細めて、気持ち良さそうに笑顔を浮かべている。

 しかし反対側にいたミーシャは、それで納得することは出来なかった。

「そうかな……わたしは、お母さんの気持ちも考えてあげるべきだと思うけど」

 それを聞いたアステルは、露骨に顔をしかめてみせた。

「いいからお前は黙ってろよ」

「うるさいなぁ……わたしだって話ぐらいしたっていいでしょ!」

 そう言ってミーシャはアステルの顔を睨みつけてから、再びブランと向き直る。

「いきなり怒られたのは嫌だったかもしれないけどさ、ブランは、お母さんがいるだけでも恵まれてるんじゃないのかな? 世界にたった一人しかいないんだし、仲直りして――」

「だから黙ってろって言っただろうが、このバカ」

「なんでよ、お母さんと仲直りできるならその方がいいじゃない! あなたがお母さんのこと嫌いだからって、この子にまで押しつけることないでしょ!」

「それはお前だろバカ。この子が何か悪いことでもしたのか? 事実を言っただけで殴られるなんて、理不尽以外の何者でもねぇだろうが」

 そのことはミーシャとて理解していた。サロマニアでアステルから教わった『生命の教義』とやらが本当なのであれば、確かに積極的に戦争を起こすというこの国の方策はガロン派の教義と矛盾しているように思える。

 だがしかし、ミーシャはその程度でこの論戦から引き下がる気にはなれなかった。


「……でも、お母さんにだって信じてるものがあったんじゃないの?」

「じゃあ何か。そのためだったら、こんな小さな子供を引っ叩くのも許されるってわけか?」

「だってお母さんが子供を叩くのは、悪いことをしたときだけなんでしょ」

 するとアステルは突然、毎度おなじみの小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「残念ながらそれだけじゃねえぜ。子供が自分の言いなりにならないとき、自分の頭で考えようとしたときにも、母親ってのは平気で暴力を振るうモンだ」

「何でそんな言い方するのよ、お母さんに育ててもらったんでしょ!」

「だからどうした。矛盾は矛盾だろ」

 思わずムキになったミーシャの反論を、アステルはバッサリと斬り捨てる。取りつく島も無いとは正にこのことであった。

「第一お前、“信仰する”ってことの本当の意味を分かってねぇだろ」

「……どういうことよ」

「いいか、信仰するってのはな、その教義のためなら命を懸けられるってことだ。坊主どもの掲げる理念のためだったら、人を殺しても平気ですっていうことだ。間違っても親の恩を縦にして強制するようなモンじゃねーんだよ。心の底から納得してない限りはな」

「でもガロン派って、子供がすごく大切なものだって言ってるんでしょ」

「だったら尚更おかしいだろうが。大事だっつっといて、ちょっとでも逆らうと暴力振るうなんざ、『宇宙の宝』が聞いて呆れるっての」


 うぐ、とミーシャはとうとう口をつぐむ羽目になった。アステルの反論は一言一句的確で、紙一枚さえも差し挟む余地が無かった。いくらアステルの言葉を否定しようとしてみても、ガロン派の教義さえ中途半端にしか知らない自分では、限界があるのは明白だった。

 それにしても段々当事者であるブランが置き去りになって、話の争点があさっての方向を向いているような気がするのはミーシャだけなのだろうか。アステルの口から飛び出す、矢のような追求は留まるところを知らなかった。

「大体な、自分たちは宇宙一論理的な存在だとか名乗っといて、いざその論理の矛盾を突かれると親の地位を振りかざすなんざ、一体何のための信仰だよ。親の権威か?」

 だがそう言った次の瞬間、アステルはミーシャの目の前で思ってもみなかった行動に出た。

 隣で不安げに二人の会話を聞いていたブランの肩にそっと手を回したかと思うと、その体を自分の方に引き寄せ両手で優しくかき抱いたのである。


「この子の苦しみも分からないクセに……正論ばっか振りかざすんじゃねえよ、バカ」

 突然抱きしめられてきょとんとしているブランの頭をもう一度撫でてやるアステルの表情には、何と言い表せばよいか分からないような哀愁が漂っていて、ミーシャはそこに自分を助けに飛び出してきた、ブルーマの時と同じような不意打ち感を覚えた。

 そのためミーシャは次の言葉を選ぶのに、相当苦労する羽目になった。

「…………じゃあ、あなたには分かるの?」

「ああ分かるさ……この子は俺と一緒だからな」

「それ、どういうこと?」

 ミーシャは率直に、思ったことを口にした。

 アステルは少しだけミーシャの顔を見てから、ふと視線を逸らして何か遠くを見るような目つきになって黙った。アステルの視線は、目の前の広場ではしゃぎ回る子供たちを捉えているようで違っていた。やがて再び、ため息がその口をついて出る。

「……お前、自分の親に悪魔って呼ばれたことがあるか?」

「えっ?」


 ミーシャは一瞬言われたことの意味が分からなくて、思わず呆けたようになってしまった。

 アステルはすぐ掻き消すがごとく自分の前で手を振って、思い直したように、

「いや、やっぱ何でもない。忘れろ」

「何よ、思わせぶりなことばっか言って……」

 ミーシャは不満げにそう言ったのだが、アステルはそのまま顔を背けたきり何も喋らなくなってしまった。気まずい沈黙が漂おうかというその時、今までアステルの腕の中で不思議そうな顔をして話を聞いていたブランが、唐突にその口を開いて言った。

「お兄ちゃんって、お父さんはいないの?」

「お父さんって……ああ、たしか男のほうのお母さんのことだよね」

「……お前、何言ってるの?」

 黙っていたアステルが、急に変なものを見るような目つきになってミーシャの方を向く。

「ボクのお母さんはね、お父さんがいなくなってから、怒ることが多くなったんだ……」

 ブランの呟きが妙に寂しげだったのは、気の所為ではあるまい。


 と、ミーシャは咄嗟にあることに気が付いて、アステルの顔を見返した。

「ねえ、そういえばあなたのお父さんは? 見送りにもこなかったけど」

 そうなのである。ブルーマの町をアステルが出立する際にも、その後を追いかけてきたのは母親と妹の二人きりであった。モラーヴァン軍団に襲われた時点で町中の人間はあの広場に集められていたはずだから、アステルの戦いを見なかったわけはないのである。

 するとアステルは不意の質問に少しだけ驚く態度を見せてから、やがて過去の記憶を掘り返すようにして瞼を閉じ、淡々と言った。

「死んだよ。ずっと前に、ね」

 言葉に反してその顔には、特段寂しさなどは浮かんでいなかった。しかし、どこか諦めたような雰囲気に包まれていたのも事実であった。


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