第02話 大樹国家ウォーディアン・中編
* * *
アステルの目の前にあるセミロング気味の緑の髪が、いささか早足なその前進にあわせてゆらゆらと揺れ動いていた。そんなに急いで何処へ行くつもりやら。
アステルはそれを見失わないように自身も早歩きで進みながら、背負ったリュックの意外なまでの軽さを改めて実感していた。
元々自分ひとりの旅のつもりだったので、故郷を出る際には着替えの他にも本や模型など、売り払って金に出来そうなものは片っ端から詰め込んできていた。だから本来ならば、背中にはかなりの負担がかかっているはずである。それでも大した重量を感じることはなく、これは強行軍でバテなかったのと同様、やはり肉体がモラーヴァンへと作り変わった影響なのだろう。中々便利なこともあるものである。
アステルは何ともなしに、ポケットに入れていた魔道具を取り出して胸の前に掲げてみた。ディアスから渡された『通信石』である。
見た目としては、手の中にすっぽり収まるぐらいの木製の立方体の上に、半透明な水晶玉の半球が取り付けられているものである。例によって表面には天梵文字が描かれている。
基本的には同一形状のものがふたつで一組となっていて、対になる片方の水晶玉の表面に映り込んだ画像を、遠く離れた場所にあるもう一方の水晶の表面にリアルタイムで投影するという仕組みである。緊急時の連絡用として渡されたものだ。
アステルがその魔道具を目の前でためつすがめつしていると、前方から声をかけられた。
「……ねえ」
アステルは気付かないフリをしてみた。どんな反応を見せるか興味があったからである。
案の定、目の前の人物はもう一度話しかけてきた。
「ねえってば、聞いてるの?」
「んだよ、人が考え事してるってのに」
アステルは通信石から顔を上げると、目の前を歩くミーシャの顔を億劫そうに見返した。
ミーシャは歩きながらこちらを見つつ、やや不満げな表情をしていた。
「無視しないでよね。聞こえてるんでしょ?」
「あーあー、聞こえてますとも。それで、何の用だよ」
「ねえ、なんでそんなにケンカ腰になるの? 臆病って言われたのがそんなに嫌だった?」
「うるせぇな。お前こそ、なんでそんなに臆病だの弱虫だの言いたがるんだよ」
しつこさに閉口して、アステルはミーシャに食ってかかった。相手が女であろうが一向に構いはしない。
「用が無いなら黙ってろ」
ミーシャは一瞬呆気にとられたようになってから、すぐにアステルの顔を無言で睨みつけてきた。返す返すも、我ながら子供じみた争いだとアステルは思った。
それも長い時間ではなく、ミーシャはすぐにまたアステルに背を向けると、行きかう人の群れを掻き分けて一本のサロマニア杉の元へと向かった。幹の側面に取り付けられた幅狭な階段を上って上階へ上がっていくので、アステルも通信石をしまって後に続いた。
幹の横からいくつも突き出た木製のステップは、杉本体に等間隔で開けられた穴に杭のようにして打ち込まれていた。外周部はカーブに沿って曲げられた鉄板で固定され、地上から四、五メートル上の二階部分までらせん状に続いているのだ。
アステルは、やけに早足で上ろうとするミーシャの足元を眺めながら言った。
「……慌てて上ると、足滑らすぞ」
「…………わっ!」
言った矢先の出来事であった。足元の板が湿っていることに気付かないまま上ろうとして案の定、ミーシャは足を滑らせ思い切り脛を打ちつけていた。実に痛そうである。アステル自身、この辺りは何度も歩いているので経験的に知っているのだ。
大丈夫かと口を開きかけて、アステルはすぐに押し黙った。階段上のミーシャが変わらずに立腹した様子のまま、自分を睨んでいる光景が目に入ったからである。アステルがそれに顔をしかめたにもかかわらず、ミーシャは黙って立ち上がると体中についた汚れをポンポンとはたき落としてから、再び二階を目指して上り始めた。
アステルは仕方なく、自分も黙ってその後に従った。
そうして二階に来たかと思ったミーシャだが、今度は別の樹へ行くことにしたらしく、今いる場所から別々の二方向に延びているつり橋の一方を選択すると、特に躊躇うこともなく足を踏み出していった。
先程から殆んど考えなしに歩いているような気がしてならなかったが、もしかすると単に自分を引き離したいだけなのかもしれないとアステルは思った。でなければ、街の事などよく知りもしないミーシャがこんなにスイスイ道を進めるはずがないのだ。
サロマニアで木と木の間に渡されたつり橋は、大体が全長三、四十メートルほどもあり、橋げたの幅は大人が二人並んで歩けるぐらいに留まっていた。普通に両端のみを吊るしても強度が足らないので、双方の木に設けられた出入口の十メートルほど頭上からは、橋の丁度真ん中辺りに向かって斜めにロープが伸びている。他にもあちこちの枝に向かってロープが引っ掛けられ力を分散しているが、最も肝心なのは力を逃がしやすいよう、ある程度までは橋が揺れるようにすることなのだ。
アステルはただ黙々と橋を渡っていくミーシャの後ろ姿を見つつ、自分はのんびりとその後を追うことにしていた。もう急ぐ必要はない。何故ならばミーシャの進む速度はそれまでと比べ、格段に遅くなっていたからだった。
思ったとおり勢いだけで前進していたらしいミーシャは、慣れない橋の揺れに翻弄されて中々それ以上前に進めなくなっていた。その点アステルは戸惑うようなこともなく、余裕の態度でミーシャの元に辿り着いてしまった。
「なあ、」
突然背後から声をかけられて、ミーシャは心底驚いた表情をして振り返った。
その勢いでまた更に橋が揺れ、バランスをとろうとしたミーシャは慌てて脇を通るロープに掴まっていた。その様子を見て一瞬からかってやろうかと思ったアステルだったが、話がややこしくなる気がしたのでやめにした。
アステルはミーシャの焦った顔を見つめると、はっきりと言い放った。
「いい加減、子供みたいな対抗心向けるのやめろ。くだらない」
「うるさいなぁ、元々あなたが悪いんでしょ!」
ミーシャは精一杯強気な顔を作ってアステルに反撃してくるが、未だに揺れる橋の手すりにしがみつきながら言っているため、いまいち迫力に欠けている。
「嫌なことがあっても面と向かって言えない弱虫のくせに!」
「それじゃなにか? 嫌なことがある度にお前みたいにキンキン喚くのが正解だってのか」
「陰でこそこそ言うよりは良いでしょ! お母さんのことも悪く言ってたけど、どうせちゃんと話してもいないんでしょ?」
「あぁ、話しても意味がないからな」
アステルはにべもなく言い切った。
「会話にならないんだよ、あの親は。一方的に結論を押しつけて、無条件にハイハイ言わなきゃ即座に恩知らず扱いだ。学校のバカどもだってそうだ。奴らは初端から俺の言葉なんか聞くつもりはないんだよ」
「そんなこと言ってるけど、結局怖いだけなんでしょ。弱虫」
ミーシャにそう言われて、いちいち癇に障る女だとアステルは思った。
「……そういう台詞は、せめてモラー派を説得できるようになってから言えよ」
無理に決まってるがな、とアステルは心の中でつけ加えた。
すると軽い嫌味のつもりだったのが、急にミーシャは表情を暗くして黙り込んでしまった。思ったよりも効果があったらしい。珍しい反応だなとアステルが思っていると、そういえばこの少女がモラーヴァンに追われる理由というのを聞いていなかったことを思い出した。
「お前、奴らに悪魔呼ばわりされてたが、何か事情でもあるのか?」
「……別に」
下を向き、暗い顔をしたままでミーシャはそう言った。まぁ当然の反応だろうとアステルは思う。特に自分のような人間には話したくないに違いない。
「……あなたこそ、人殺しって何のこと?」
予想外の反撃が来たのでアステルは面食らった。記憶力の良いことだと心中毒づいてみる。
当然答えたくなどないので、アステルは「さあな」とだけ言った。
「何よ、自分は他人に聞こうとしたくせに」
「お前に言ったってどうなるモンでもないだろ」
それ以前に、言われたことの意味が理解できないだろうという感じがした。
「もう気は済んだか? 済んだなら早く行くぞ。何処に行きたいのかは知らんがな」
「ついてこないでよ!」
相変わらずアステルの提案をはねつけるのが好きなミーシャであった。アステルは閉口しつつも、億劫さを押し込めて説得にかかることにした。
「残念ながらディアスさんたちに任されてるんでな、勝手に行かせる訳にはいかないんだよ。尤も一人で迷子になって、百年後に化石になって発見されてもいいなら話は別だがな?」
若干意味不明ながらも有無を言わさぬ口調のアステルに、ミーシャはたじたじとなっていた。後ずさりしようにもその都度つり橋が揺れ始めるので、逃げることすら適わない。
結局ミーシャは他に手段がないと観念したのか、アステルに向かって小声でだが希望する行き先を告げた。
「こ……この辺に、本が売ってるところとか、ないかな」
「本屋?」
アステルは思わず間の抜けた声を出してしまった。やや意外な希望であった。
「お前って本読めたんだ」
「バカにしないでよ!」
何かとムキになる辺り、からかい甲斐があって結構なことだった。
「まぁ丁度いいよ、俺も用事があるからさ。すぐそこの通路を右に曲がってつり橋をふたつ渡れ。グレース堂っていう小さな古本屋があるから。ほら、とっとと行くぞ」
そう言ってアステルは身振り手振りを交えて道順を教えると、即座にミーシャを急き立て始めた。
だがしかし、ミーシャはもと進んでいた方向に向き直ったはいいものの、やはり揺れる橋には耐性が無いようで、結局今までと変わらず近くのロープにしがみついたまま、まともに進むことも出来ないでいた。怖いとかそういう問題ではなく、あまり揺れると足がもつれて歩行困難になるのだ。
ミーシャは仕方なく、後ろを振り向くとアステルに言った。
「いいから、先に行って。一人でも橋は渡れるから」
強がっているのが見え見えだった。無理しなければいいのに、とアステルは思ったが、これ以上ここで言い争いを繰り広げても埒が明かなかったので、黙って素直に従うことにした。言われてみれば、別にずっとミーシャの背後についている必要はないのである。
アステルは遠慮なくミーシャの脇を通り抜けると、自分ひとりだけさっさと橋の反対側に辿り着いてしまった。その余波を受けて橋が少々揺れたらしく、背後でミーシャが悲鳴を上げていた。
「ちょっと、揺らさないでよー!」
先に行けと言ったのは自分なのに、随分な物言いである。やはり初心者にはこの街は厳しいようだった。振り返った背後で橋ひとつ渡るのに苦労しているミーシャの姿を見ると、益々そう思ってしまう。
などとアステルがのんきに構えて、樹の幹を彫り抜いた薄暗い通路の端に立っていると、突然その背中に何かが勢いよくぶつかってきた。アステルはつんのめって橋の上に倒れそうになり、慌ててすぐ傍にあったロープを掴んで踏みとどまった。アステルは思わず通路の方を振り返って文句を言おうとした。
「誰――」
「何すんだコラァ!」
いきなり胸倉を掴まれたかと思うと背後の壁に力ずくで押さえつけられ、耳にキンキンと響くような甲高い声で罵声を浴びせられた。余りにも急な出来事に、アステルは訳も分からずになすがままとなった。
一目でそれと分かる、言い方を変えれば露骨なぐらいの憤怒の形相をした柄の悪い少年が、アステルの服の胸元を締め上げながらガンを飛ばしてきていた。顔を異常なぐらい接近させてくるその少年は、広い肩幅にパンチパーマと見るからにチンピラ風な装いで、出来ることなら係わり合いになりたくないタイプの人間だ。
アステルはその状況に、何だか堪らなく既視感を覚えていた。ごく最近、何処かでこんな光景を見たことのあるような気がするのだ。
しかしそれを思い出すまでもなく、目の前の少年はただひたすらにまくし立てていた。
「テメェ、一体どこに目ぇつけてんだ? 何とか言えや!」
こんな時になんだが、少年の息は驚くほど臭かった。さっさと離れてほしいと思った。
アステルは少年の顔から目を逸らすと、息を潜めて相手が喚き散らすのを止めるまで辛抱強く待つことにした。それは短く終わるようで、実際はひどく長い時間に感じられた。少年が何か喚けば、アステルは適当に相づちを打って満足させた。こんなものは正面から相手をするほうが間違っているのだ。
やがて気が晴れたのか、少年はもう一度アステルを橋の方へと突き飛ばした。
「チッ、次やったら殺すぞ」
吐き捨てるようにそう言った少年は、そのまま何処かへと去っていってしまった。実に、嵐のようなひと時であった。
しばらくしてから通路の方を振り返り、少年がいなくなったことを確認したアステルは、一人で静かにため息をついた。こういった物事への対応は苦手である。勘弁してほしかった。
その時初めて気付いたのだが、アステルの手は先程からカタカタと小刻みに震えていた。足もである。この光景もまた、ひどく既視感のあるものだった。
アステルがその忌々しさに歯噛みしていると、いつの間にか橋を渡り終えてきたミーシャが目の前にいた。咄嗟にアステルは壁に寄りかかり、その顔を見ないようにする。一体どんな目で見られているか、大体想像がついたからだった。
「……大丈夫?」
奇しくも最初に出会ったときと同じやり取りになっていた。一応聞いておく、という感じだったので、そこはアステルも曖昧に返事をした。
「……目、逸らしてたね」
いきなり核心を突いてくるのはやめて貰いたいと思うアステルだった。今尚震え続ける手をもう片方の手で強引に押さえ込みつつ何も言わないでいると、ミーシャがまた呟いた。
「……弱虫」
もう好きに言えばいいと思った。アステルは黙ってミーシャを背にすると、目の前の通路を右に曲がって次のつり橋へと向かっていった。
それから古書店につくまでの間、アステルとミーシャは一言も口を聞かなかった。
* * *
「こ、これは……!」
ディアスとともにサロマニア東部三番街の宿町をゆくマナスは、たまたま前を通りがかった標識を見て、その坊主頭にたらりと冷や汗を流していた。そこにはこう書かれていた。
『 火 気 厳 禁 』
マナスは困ったような表情をして、傍らにいるディアスのことを見上げた。
「……ディアス殿、これは一体どういう意味なのでしょうか」
「いや、文字通りの意味だと思うが」
「……つまり、火魔法を使ってはいけないと?」
「街全体が生きた樹木を使っている訳だから、まぁ当然といえば当然だろうな」
「とほほ……」
途方に暮れて落ち込むマナスであった。
実は一行はこれまでの旅の最中、金銭面が枯渇し旅に支障をきたしそうな危機に直面したとき、路上で芸をやっては見物料を稼ぐという手段に訴えたことが間々あった。尤もそれは最終手段であって、ディアスら自身はあまり好むやり方ではない。
それでも必要なときには、各々が自身の得意技を駆使して芸を披露していたのである。中でもマナスの持ち味は、得意の火魔法を使った火炎芸であった。内容が派手なため、相当に稼ぎも良いのである。
ここサロマニアでは、それが不可能であった。何せ、街中が屋外火気厳禁なのである。
万が一にも火災などが発生しないようにとその措置がとられていることは明白であるが、それにしても火魔法の使い手にとっては正に地獄のような規則であった。
ディアスは、ふと疑問に思ったことを口にした。
「しかし我々の中で、一番芸をするのを嫌がっていたのは君ではなかったか?」
「子供が二人も加わりましたからな、ワガママ言ってるわけにもいかない……と思ったのにですな……」
そう言って生真面目なマナスは再びしょげ込んだ。
せっかく自分から率先してやろうという気になったら、その矢先に目の前の標識という訳である。間が悪いとしか言いようがなく、ディアスはそれに心から同情した。
* * *
馴染みの古本屋でアステルが用事を済ませたのは、ディアスらと別れて二時間ほど経ってからのことであった。
故郷から持ってきた本をありったけ売り払うと、ある程度まとまった金ができたのでそれでまた、安くて小さな本を何冊か購入した。元々軽く感じていたリュックの中身が更に軽くなったが、別に構いはしなかった。旅の道中で暇つぶし程度までに読めればそれでいいのである。
買ったものをさっさとリュックにしまうとアステルは薄暗い店内を見渡し、そのどこかにいるはずのミーシャの姿を探した。街角の、それも二階にある狭くて小さな古本屋ともなれば客足は少なく、実際眼に見える範囲では年老いた女店主を除けば、アステルの他には誰も客らしいものは見当たらなかった。
尤もそういう店だからこそ掘り出し物が見つかることもあり、アステルも時たま外国から入ってきた妙な本を見つけ出しては、興味本位で買い付けるようなことがあったのである。
何列も並行になった本棚の合間をひとつひとつ覗いていってみると、その内のとある狭い通路の中にミーシャがいた。何の本かは不明だが、棚から取り出した一冊を開いて熱心に読みふけっている模様である。
アステルはその姿を意外に思いつつも、少女の背後へとこっそり近づいていくと、自分が持っていた本の表紙でその後頭部をぽす、と軽く小突いた。特に意味はなく、ただ何となくやってみたかっただけである。
一寸飛び上がるほど驚いたミーシャは、振り返ってみてそれがアステルの仕業だと知ると、たちまち不機嫌そうな顔になってアステルを睨み返した。この顔に睨まれるのは今朝起きてから一体何度目だろうか、としょうもない疑問を抱くアステルであった。
「お前、何読んでるんだ?」
ミーシャは答える代わりにパタンと本を閉じると、それをアステルの腕の中に押しつけて自分は一人、狭い出入口から店の外へと出て行ってしまった。
アステルは後を追いかけようとしてから、ミーシャの読んでいた本を元に戻そうとしてそのタイトルに目をやり、そこで思ってもみなかった本の内容に言葉を失った。
アステルは本のタイトルと、ミーシャが出て行った店の出入口とを何度も交互に見比べてから、どのような行動をとるべきなのかを少しの間考えた。本の表紙を覆う白色の塗料は、印刷されてから何十年も経っているためかひどく薄汚れていた。
アステルが書店から出てくると、そこには既にミーシャの姿はなかった。周囲を見回して、アステルの胸に些か不安な感情がよぎる。
サロマニア杉を利用した建築物にはふたつの種類があり、ひとつは樹の内部に施設も通路も組み込んでしまうもの、もうひとつは幹の周りを取り囲むようにして円形の足場を設営し、それらを通路にして外周部から行き来するものである。
前者は昇降時の安全が確保される反面、幹内で利用可能となる面積が非常に狭められるというデメリットがあり、後者は逆に利用可能な面積が大幅に拡大する分、外周部を移動中に下手を打てば滑落する危険性さえ孕んでいた。
アステルらの立ち寄っていた書店の場合、店の構造は後者のタイプだった。言ってみれば外付け式のベランダのようなもので、太い幹の周囲に下の枝などを支えにしながら、木材による円形の足場が組み上げられているのである。外周部には柵と手すりも備わっているとはいえ、部分的には大きく隙間の開いたところもある。そこから子供などが落下する事例も、ごく稀にではあるが無い訳ではないのだ。
アステルは心配になってきて、手すりに近づくとそこからできるだけ身を乗り出して地上の様子を覗き込んだ。まさかとは思うが、数メートル下で潰れたりしてはいまいか。
地上にある広場では現在、作業着を着た人々が机やら大量の小包やらを抱えて、忙しなく走り回っているのが見えた。アステルはそれを見てふと、広場でイベントを開催するという告知の張り紙が書店内に貼ってあったことを思い出した。たしか豪放磊落な性格で有名な、とある劇作家の著作の販売会である。
眼下ではおぼつかない足取りで歩く作業員の一人が運ぼうとした荷物を派手に転んだ末に散乱させ、現場監督と思しき厳つい風貌の男性に頬をぐりぐりやられては、もっと力入れて働かんかいと喝を入れられていた。いかにも作家とは無縁の強面の男であった。
ともかく下が騒ぎになっていないということは、ミーシャが落下した線は無さそうだった。アステルはホッと一安心すると乗り出していた体を元に戻すのと同時に、今度は幹の周囲を反対側に回りこんで、もと来たのとは別方向のつり橋が見える位置にまで移動した。
するとそちら側のつり橋の上に、瑠璃色で薄手の服を身に纏った若葉色の髪の少女が一人、アステルのいる方に背を向けて立っているのが見えた。紛れも無くミーシャであった。
アステルはミーシャの元に駆け寄っていこうとして、その瞬間、慌てて踏みとどまった。
アステルは自分の目を疑った。どうして奴が、と言いかけて思わず息を呑む。
つり橋の上に、あのパンチパーマをしたチンピラ少年が立っていた。古書店に向かう途中のアステルに対してそうしたように、少年はミーシャの前に立ち塞がって、自分より小さなその少女を何度となく脅しつけていた。
「おい、聞き分けねーこと言ってんじゃねーぞ。謝れったら謝りゃいーんだよ」
「なんでよ、わたしは何もしてないでしょ!」
「何もしてなかねーよ、ぶつかって俺様を不愉快にしたじゃねーかよ、あん?」
「無茶苦茶言わないで!」
そう言いつつも、ミーシャは困り果てていた。先程はアステルに絡んでいたこの柄の悪い少年は、今度は橋を渡っている途中の自分の目の前に突然現れたかと思いきや一方的に肩をぶつけてきて、謝れと迫ってきたのである。
しかしミーシャは、そんなことをする気は更々無かった。理不尽な暴力に屈するつもりはなかったし、何よりアステルのような臆病で情けない姿を晒してまで逃げるのは絶対に御免であった。だからこそこうして、面と向かって抵抗しているのである。
あんな、会話もせずに母親を否定するような意気地なしの少年と同じ行動を取るわけにはいかないのだ。
一方少年はワザとらしく目を剥きながら、繰り返しドスの効いた低い声を発してミーシャのことを睨めつけていた。いきなりその右手が伸びてきたかと思うと、ミーシャの頬を乱暴につまんで引っ張ってみせる。
ミーシャは強烈な不快感を覚えて、咄嗟に少年の手を払いのけて叫んだ。
「やめてよ!」
「だから謝れっつってんだろ、聞こえねーのかよ?」
「だからわたしは何も――」
そう言いかけて、ミーシャは思いとどまった。先程から、何やら会話が堂々巡りしているような気がしたのである。
すると突然、背後から肩を掴まれた。ミーシャの体が強引に押しのけられたかと思うと、驚く間もなくそこにアステルが姿を現してきて、ミーシャと少年の間に割って入っては妙な愛想笑いを浮かべて言った。
「……すみませんね、コイツ馬鹿なんで」
「あ、何だてめ――さっきの奴か?」
訝しげにしながらも、少年はアステルのことに気付いた様子だった。どうやら顔を覚えていたらしい。
だがそんなことよりも、ミーシャはアステルのそのお節介が嫌だった。聞き捨てならない事を言われた上に、仲裁目的とはいえこんな相手に媚を売るとは許しがたいのである。
思わず、余計なことをするなと言いかけてアステルのことを見上げたミーシャは、そこで待ち構えていた予期せぬ光景に口をつぐんでしまった。アステルのこめかみ辺りが、表向きの台詞とは裏腹にひどく痙攣を起こしていたのである。まるで何かに耐えているような様子であった。しかもそれだけではない。少年をなだめようとする声さえも、よく聞いてみれば不自然さを隠せないほど変に上ずっているのである。
ミーシャの脳裏に、不意にブルーマの町での出来事が甦ってきた。
あの時も、アステルは自分を罵る友人たちには一切の抵抗を見せなかったのに、ミーシャを悪魔呼ばわりしたモラーヴァンたちのことは許さなかった。そして今、自分が絡まれた時には無抵抗で通していた相手に、アステルは説得を試みている。ミーシャの視線は自然と、土気色のブレザーで覆われたアステルのか細い背中に向けられた。
ところでチンピラ少年はといえばアステルの顔をつまらなそうに眺めていたが、やがて舌打ちを見せると徐に懐に片手を突っ込んで言った。
「……次やったら殺すっつったよな?」
淡々とした口調で、まるで確認するかのようなその言葉を耳にした瞬間、ミーシャの背中にさっと冷たいものが通り過ぎていった。ミーシャの中の何かが警告を発していた。
ミーシャと、アステルが、ほぼ同時に何かを言おうとしたその直後、少年の懐から刃渡り十センチぐらいのナイフを握り締めた拳が引き抜かれると、次の瞬間にはアステルの腹部を刺し貫いていた。
恐らくは何が起こったかもよく分からないまま、うぶ、と息の詰まったようなうめき声を上げるアステル。腕と首がその場で力を失い、だらりと垂れ下がった。ミーシャが反射的に口元に手をやると、その隙間から悲鳴にならない悲鳴が漏れて出た。
そんなミーシャを見下ろして、あろうことか少年はケラケラと愉快そうに笑ってみせた。
「いや、テメェが悪いんだろ? 素直に謝ろうとしないからよ」
「な……な……」
何でもない事のようにそう言ってのける少年の態度に、ミーシャは戦慄を覚えてしまって言葉が出なかった。全く、目の前で起こったことが信じられなかった。
「こうなりたくなかったら、さっさとあやま――」
言いかけたその時であった。
少年の喉元を、突然下の方から伸びてきた一本の手が鷲掴みにした。その手は少年が何か言おうとするのを待たずして、瞬く間に万力のような力を発揮すると、五本ある細指を少年の首に不気味なぐらい食い込ませていった。
少年自身も、ミーシャも絶句した。もう間もなく、絶望の表情とともに橋の上に倒れ伏すと思われていたアステルの体から、無造作にぶら下がっていたはずの片腕が持ち上げられ、自分を刺した少年のことを今まさに絞め殺さんとしていたのである。
それまでずっと俯いていたアステルの顔が、突如として少年の顔を見上げる体勢に変化した。少年のすぐ目の前で、閉じたままだった両目が急速に見開かれたかと思うと、その瞳がさっと白濁していって不気味な光を放った。
「!?」
少年はそこで初めて恐怖に慄き後ずさりしようとしたが、時既に遅かった。
アステルの口から裂帛の気合が発せられると、少年の体は高々と持ち上げられ、次の瞬間にはつり橋から地上目掛けてダイブさせられていた。
「のああああああああっ!」
ミーシャの前で間抜けな叫び声とともに少年の体が橋の下に消えると、そこから殆んど間を置かずにグシャッという何かを叩き潰すような嫌な音が聞こえた。同時に何か木材のようなものの砕け散る音が混じっていたが、それどころの話ではなかった。若干静寂が広がった後で、地上で作業をしていた人々の大騒ぎする様子が橋の上にまで伝わってきた。
アステルは息も荒々しくつり橋から身を乗り出すと、地上の様子を確かめていた。
ミーシャもそれにつられて、慌てて橋の下を覗き込んだ。
投げ落とされた少年は木箱か何かの上に落下したらしく、粉々に砕けた木屑の中で白目を剥きながら、広げた手足をピクピクと痙攣させていた。まるで叩き潰されたばかりの昆虫である。それを見たアステルはひとこと、
「……なんだ、死んでないのか」
さり気なく凄まじいことを口走っていた。ミーシャが呆然としていると、その元に足早にアステルが近づいてきて、何かと思っていると突然頭上に拳骨を落とされた。
「痛っ!」
「このバカ、あんな奴に言葉が通じるとでも思ったのか? 俺に対抗すんのも大概にしろ!」
どうやら本気で怒っているようだった。ミーシャはその雰囲気にやや気圧されながらも、遠慮がちに反論した。
「だって……わたし、何も間違ってないし」
「正しいとか間違ってるとか、そんなこと奴が気にしてたと思うのか? 最初から奴の目的は、ただお前を意のままにできるかどうかってことだけなんだよ。どんなにもっともらしいことをほざいてようが、理屈なんて無いんだ。それを勝つ算段も無いのに動物野郎にケンカ売りやがって、死んだらどうするつもりだったんだ?」
そこまで言われて、ミーシャはすっかり項垂れてしまった。何か言い返したいと思うのだが、肝心の言葉が何ひとつ浮かんでこなかった。
仕方ないのだ。今回は落ち度だらけである。いくら逃げるのが嫌だったとはいえ、無茶をした挙句アステルまでがナイフで……。
そう、ナイフだ。アステルは刺されたのだ。ここにきて重大なことを思い出してしまった。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! アステル、平気なの!?」
「……ああ、そういえばデカい刃物で刺されたような」
「どうしてそんなに他人事みたいなのよ!」
悲鳴混じりに叫んだミーシャは今はつり橋が揺れるのも構わず、慌ててアステルの制服をはだけさせにかかった。何故かアステルは若干抵抗する素振りを見せていたが、生死にかかわる現状、躊躇ってなどいられない。そうして、制服の下のシャツが破れて僅かに血が染みついているのを見つけたとき、ミーシャは不安が的中したと思った。ボタンを外させ、少年に刺されたと見られる腹部周辺を一気に確認しようとする。
それにしてもミーシャ自身、あれだけ意気地なしと非難していたアステルの無事を、今は必死になって求めているという事実には全く気付かずにいた。アステルもその時ばかりは、決してミーシャのことをからかったりはしなかったのだ。
そしておおよそ全ての確認が終わったとき、ミーシャは再び呆然とした。
アステルは無事であった。
いや、無事と言うには生ぬるい。体にはかすり傷ひとつ存在しなかったのだ。
「嘘、なんで……?」
ミーシャは自分の目を疑って何度も繰り返し確認した。が、結果は同じであった。確かに出血した痕跡だけはあったのに、その下の皮膚には刃傷どころかすりむいた形跡もなかったのである。まったく理解不能であった。
アステルは微妙な顔をしてミーシャと自分の腹とを見比べていたが、やがて勝手に制服の前を閉じるとミーシャに背を向け、不機嫌そうに言った。
「もう良いだろ、無事だったんだから」
「……うん」
それでもミーシャは、中々納得することはできなかった。
その後はだけていた服を元に戻したアステルはさっさとその場を離れようとし、ミーシャは黙ってそれに従った。たちまち、樹と樹を繋ぐつり橋の上は誰も居らず静かになった。
一方その頃、橋の真下にある広場では、作業中だった人々が騒ぎを止められずにいた。
「一体、何がどうなってる! 何が、どうなってるんだ!」
「トシさん落ち着いて、強調する意味が分かりませんよ!」
「畜生、灰皿はどこだ!」
パニックは一向に収まる気配を見せなかった。
木屑にまみれて倒れている少年のすぐ側の地面に、真っ赤な液体で濡れたナイフが落ちて突き刺さっていた。
「そういえばこれ、使うの忘れてたな」
アステルは再びミーシャの後ろを歩きながら、ポケットに入れた通信石を触って呟いた。
つり橋から離れたアステルとミーシャの二人は、再びサロマニア市街のメインストリート近くまで戻ってきていた。現在二人の歩いている道からは、左斜め前方に広がる木立の奥に『星の大樹』の姿がはっきりと見えている。
この近辺は比較的人通りも多く、先ほどのような無用なトラブルに巻き込まれる可能性は低かった。元々それも見越して、大通りの傍までやってきたのである。
だがしかし、人目のある場所に出るまでの間も、この道を歩き始めてからも、ミーシャは古書店に向かったときと同じように、アステルとは一切言葉を交わそうとしなかった。ただ時折、やや不安げな表情をしつつアステルの方をチラチラと振り向くだけである。
いちいち睨みつけるような真似をしなくなったのは結構なことだったが、これはこれで気になって仕方なかった。刺されたように見えても無事だったのだから、もう忘れればいいのにとアステルは思う。大方、あのチンピラの得物はナマクラだったのだ。
ふとミーシャが立ち止まると、その目線が道端にいった。アステルも即座に歩くのを止めて、一緒にその先を眺めてみる。木陰の中に丸太を割って作られたと思しき小さなベンチの姿が見えた。あくまで目測だが、その横幅は大人三人ぐらいならば優に座れそうに思える。
相変わらず口を閉ざしたままのミーシャは、何を思ったか徐にそちらへと近づいていった。見失わないよう、アステルも黙って後についていく。
そうして誰も座る気配が無い丸太ベンチに辿り着くと、ミーシャは自分の背後に手をつく形でドサッとそこに座り込んだ。その妙に乱暴な所作はどう見繕っても“思春期の少女”と呼ぶには程遠く、どちらかといえば“幼い子供”のそれに近いものがあった。尤もそんなことを口にすればミーシャがまた怒り出しかねないので、あえて黙っているアステルである。
この際なので自分も休憩しようと思い、アステルはミーシャが座ったのとは逆側の端に向かうと、疲れを吐き出すようにしてゆっくりと腰を下ろした。隣にいるミーシャとは、ほぼ人ひとり分ぐらいの空白を空けるかたちで座っている。アステルが開いた両腿の上に二の腕を乗せると、やや前傾で下を向くような姿勢になった。すぐ目の前の地面に可愛らしい小鳥が飛んできたので指を伸ばし、舌を小刻みに打ち鳴らして関心を引こうなどとやっていると、突然ミーシャが意を決したようにして話しかけてきた。
「……あなたって、本当に臆病なの?」
堪らなく唐突な感のある質問であった。アステルは一瞬、どういう返事をしたものか分からなかったが、結局いつも通りの諦観染みた返答でいいやと思うようになった。
「さあな、他人から見てそう見えるってんなら、きっとそうなんだろ」
アステルがそう言うと、何故かミーシャはため息をつきながら首を振った。人の返事に、ため息で返すとは失礼極まりない。そう思ったアステルだったが、考えてみれば毎度のこと、自分も人のことを言える立場ではないのだった。
「……そうじゃなくてさ、あなた、自分のときには何の抵抗もしないよね。なのにどうして、わたしのことは助けてくれるの? 面と向かって立ち向かえるなら、自分のときにもそういう風にすればよかったでしょ……お母さんの悪口なんか言わなくたってさ」
「お前が俺に突っかかってくる、本当の理由はそれか?」
「……」
核心を突く問いを投げかけたつもりだった。思ったとおり、アステルの質問にミーシャは視線を逸らし、口ごもってしまっていた。
ずっと引っかかっていたが、考えてみれば単純なことだったのだ。
最初にミーシャと遭遇したとき、自分は“母親”という存在を、徹底して否定する台詞を吐いてみせた。その直後から、それまで心配げな雰囲気を醸し出していたミーシャが突然、アステルに対して突っかかってくるようになったのである。
その後もアステルはブルーマを発つ際にナディアらを無視したり、母親に話が通じないと断言してしまったりと、なるほど、思い返せば“母親”というものがキーワードであったことが分かる。たった今の会話でも、ミーシャは最後の最後で無意識のうちに本音を吐露してしまっていた。ミーシャにとってはどうやら、母親を悪く言うということは最大のタブーであるらしかった。
「お前、母親となんかあったのか?」
「うるさいなぁ、あなたに言われたくないよ。それより、質問に答えてよ」
「別に。言葉の通じない連中がムカつくだけだ」
そう言ってからアステルは再び自分の足元に目をやったが、さっきまでそこにいたはずの小鳥は、既に飛び去ってしまったらしく、もうどこにも見当たらなかった。アステルは何もない地面を見てミーシャよろしくため息をつくと、静かに面を上げ、薄茶色と青緑色の入り混じった巨大な天井に遮られた空を見上げた。
サロマニア市内においてアステルたちがいる地上より百メートル以上の頭上にある空間は、見渡す限りどこまでも、生い茂る大量の枝葉で形作られた、明確な境界線やガラス面の無い不可思議な天窓の連続する世界となっていた。その向こう側にある青空から降り注ぐ陽光の数々は、最終的には幾筋もの光線となって地上を照らし出している。その美麗さは冬場の今現在でも充分すぎるぐらいであるが、夏頃になれば益々素晴らしくなるのだった。
天球上の太陽は既に、地上のほぼ真上といえる位置にまで移動していた。この街に着いてから何時間経過したのかは不明だが、とりあえずもう昼間近である。待ち合わせまではあと一時間と少しで、果たして何事も無くディアスたちと合流できるや否や。
一瞬、太陽の前を何かが横切っていったかのように不自然に光の揺らめいた空を、アステルは先程から何も考えることなくぼんやりと眺めていた。すると傍らのミーシャがようやく次の質問内容を見つけ出したのか、おずおずといった調子で口を開いてきた。
「でもだったら、どうして影でばっかりこそこそ言う必要があるの? 嫌なものは嫌だって、はっきりそう言えるんでしょ。ならどうして、お母さんや友達にそうしなかったの?」
「向こうがそれを拒否るんだから、仕方ねぇだろ」
アステルは、自分でも気付かないうちに仏頂面になってそう言った。
「俺がどんなに真剣に腹を立ててみたって、所詮は悪魔の戯言だからな。聞く価値なんて無いんだろ、きっと」
「……悪魔ってなんのこと?」
「さあな」
「じゃあ、町を出るときに友達に仕返ししてたのもそれが理由?」
アステルは、ミーシャの記憶力の良さに再び舌を巻いた。どうしてそんな部分まで覚えているのだろう。これでは、下手なことは言えなくなってしまうではないか。
「あれが仕返しだってことぐらい、わたしにだって分かるよ。あなた、あの人たちが酷い目に遭うって知っててやったんでしょ。それもやっぱり、あの人たちが悪いってこと?」
「我ながら、最高に皮肉の利いた台詞だと思ったんだがな」
「笑い事じゃないよ」
ククッと笑みをこぼすアステルに対し、ミーシャは真面目な顔をしながらそう呟いた。
まぁ後から振り返ってみれば、少々過激な手段であったような気はしなくもなかった。
「でもな、何と言われようが半分ぐらいは奴ら自身の責任だぜ。毎度毎度ガロン派の教義を振りかざしちゃ俺を悪魔呼ばわりしてやがったくせに、土壇場になってモラー派に寝返ろうとしたんだからな」
「ガロン派の教義……って、どんな内容なの?」
ミーシャが相変わらず真面目な表情でそう聞いてきた。その瞬間、少なくともミーシャがガロン派の国の出身でないことだけははっきりした、とアステルは感じた。仮にもヴァースの人間であれば、自身が所属する宗派の教義を把握してないなどということは、万に一つも有り得ないからである。認めたくないがアステル自身でさえそうなのだから、他の人間なら尚のことであった。
とはいえ、実際に他宗との教義の差異について事細かに説明し始めてしまうと、不必要に冗長なものになった挙句、それこそあの魔術科の教師の熱弁の如く、相手を疲れさせるだけの終始意味不明な演説と化す恐れもあった。それだけは御免である。
アステルは、解説する部分をたった一つの要点のみに絞り込むことにした。
「一言で言うとな、『生命は宇宙で最高の宝』ってのがガロン派の考え方だ。なんでもこの国がやたら教育に力を入れてるのは、そういう教義があるお陰なんだとさ」
ガロン派の特徴としては間違っていないはずだった。可能な限り皮肉っぽい笑みを作っては浮かべ、アステルは説明を続ける。
「そういう訳でな、ガロン派の教えに従えば、俺は寄って集って攻撃してもいい悪魔なんだとさ。たとえ延々と悪口を聞かせてこようが、一方的に突き飛ばそうが許されるんだと」
「……え、ちょっと待って。どういうこと?」
そこまで黙って聞いていたミーシャが、言われたことの意味が分からないといった風な顔をして突然アステルの話を遮り、自分の中で情報を整理しようと試みていた。思った通りであった。精々頑張ればいいと思う。
「だって『生命』が大事なんでしょ。だったら何で、いじめが許され……あれ?」
「まぁ、分からないだろうな」
「……うるさいなぁ、バカにしないでよね」
「いや、むしろここは分からないほうが正解なんだが」
もし今の理屈を瞬時に理解できるのであれば、ミーシャは少なくともアステルが思っている以上に捻くれているということである。こういった大人的な屁理屈に気付かない、枕詞にバカが着くほどの正直さこそが、ミーシャの欠点であるのと同時に美点ではないかと徐々に思い始めているアステルであった。
ただし面と向かって言う気は、更々無かったのだが。
それからしばらくの間、アステルは一人で考え込んでいる様子のミーシャを放置すると、目の前の路上で軒並み展開されている商店の数ある店頭を、ベンチに座ったまま眺めていた。ここら一帯は品揃えも豊富で、武器と奴隷以外であれば大よそどんなものでも売り出されている。
アステルらの座るベンチのすぐ右手側では、多種多様な効力を発揮する魔符の販売が行われていた。アステル自身がブルーマで使っていたような熱魔法のものは勿論のこと、風魔法に土魔法、水魔法に光魔法のものまで存在する。屋外火気厳禁という規則もあってか火魔法に関する魔符だけが陳列されていなかったが、それは今更驚くことではなかった。
ちなみに、火炎そのものを操作する火魔法と、温度自体を調節する熱魔法とではその原理にも違いがあって、注意喚起はあっても横一線に禁止されたりはしていない。
また道を挟んで向こう側に見えるとある商店では、東方の海に面するジパンガリアの港町から仕入れてきたという海産物が陳列されていた。色艶のいい魚介類の姿が道のこちら側からでも無数に確認でき、ジパンガリア出身だというマナスが見たら喜びそうであった。
海に面した領土の無いウォーディアン国内では珍しい代物であるが、魔法による鮮度保持に失敗して、食べてみたら腐っていたという話も散見されるので油断は出来なかった。とりあえずアステル自身は、当面は遠慮したいと思った。
「――ということでだね、レパネスカの攻略も間近に迫っていると」
「もう間もなく戦争が終わるとは……いやぁ、喜ばしいことですな」
「とは言っても、まだ油断は出来ない様子だがね。あの国の連合首長は、やたら強情に降伏勧告を拒否していたからな……流血沙汰が収まるのは当分先のことだろうな」
ふとアステルの耳に、メインストリートの方向からやってきた見知らぬ男二人組の会話が聞こえてきた。そのまま通り過ぎていくのかと思いきや、すぐ傍に見える別の木陰に入って一休みし始めたので、その二者間で繰り広げられるやり取りの内容がアステルたちの下にも詳細に伝わってくることとなった。
「いやしかし、愚かなモンですな。どうして自分たちの早期降伏こそ、人民の命を救うための最良の手段だと気付かないんでしょうか」
「まぁ、所詮はガロンの教えを知らない国だからね。生命の価値というものについて、何も理解が及んでいないのだろう。アスト派の国なんて大体そんなものさ」
そう言って、二人組の片割れはさも可笑しそうに笑っていた。
何なんだこいつらは、とアステルは思った。
漏れ出た会話を傍から聞いているだけにも関わらず、そのやり取りを見せつけられたアステルは自然と胸の奥がムカムカするのを感じた。
たった今彼らの話題に上がっていたのは、レパネスカ連合国という北東の小国家である。その東に位置するジパンガリア共和国と同じアスト派を信仰するその国は、半年ほど前からウォーディアンと交戦状態となっていたのだった。
いや、交戦というには言葉が生ぬるい。はっきり言ってしまえば、レパネスカ側の領土がほぼ一方的に蹂躙されている状態だったのである。
そもそもはレパネスカの連合首長、つまりは大統領職が円滑に決定しなかったことを受け、ウォーディアン側が一方的に宣戦して始まったのがこの戦争であった。吹っ掛けられたレパネスカ側が必死になって防衛行動を取るのは当然のことであるし、ましてや流血がなくならない原因がガロン派でないことにある、などとは言い掛かりも甚だしかった。
元はといえば、先に戦いを仕掛けたのはウォーディアンなのである。到底、『生命の教義』を信奉する国のやることとは思えなかった。
だがアステルの抱く憤りなど露知らず、件の二人組は更にその後も会話を続けていた。
「そういえば今回、ガルギオンは現れたのですかな?」
「いや、僕の聞いた限りでは今のところ、レパネスカ方面には現れてないそうだ……しかし本当なのか、あの話は? 最初に言い出したのは確か、二番街の呉服屋だったと思うが」
「五日前にブルーマで、間違いなく見たと言っていましたぞ。町を襲ったにっくきモラー派の騎士団を、なんとたったの一人で撤退にまで追い込んだとか」
一寸、さり気ないが物凄い会話が聞こえてきた気がした。アステルは知らず知らずのうちに耳を済ませていた。
「新聞に書かれたことだ、大げさという可能性もあるがね……だがガーゴイルの化身なんてものが本当に現れたのだとしたら、これはガロン派にとっての吉報かもしれんぞ」
「……つまりは、ガロンの教えに主が祝福を授けられていると?」
「ああ、そういうことだ。ステラの神が我らの聖戦を後押しし、その援軍としてガルギオンを送ってくださったのかもしれない。だとすれば、本当にありがたいことだ」
五日前。ブルーマの町。モラー派を撤退させたガーゴイルの化身。
端々に聞こえてくる単語を集約する限り、どうやらアステルが変身したあの姿はブルーマから生還した人間によって噂が広められ、いまやサロマニア市民から『ガルギオン』などという大層な名前を頂戴しているらしかった。
当分、二番街には近づかないようにしようとアステルは思った。
アステルたちが街に到着するまでの短期間で噂が広まったことにも驚いたが、それ以前に、勝手にガロン派の守護神か何かのように言われていることのほうがアステルにとっては滑稽であった。誰が言い出したのかは知らないが、不確実なものに都合のいいイメージばかりを上乗せするというのは、やはり人間の浅ましさを感じずにいられなかった。
その後、立派なガロン信者の二人組は楽しげに会話を続けながら、『星の大樹』がある方向へと立ち去っていた。出来ればもう、お目にかかりたくないものだと思った。
二人組がいなくなってから少し経った頃、いつからか顔を上げてそのやり取りを受信していたらしいミーシャが、ぽつりと独り言のように言った。
「……やめればいいのに、戦争なんて。くだらないよ」
アステルはその言葉を聞いて、少々意外だと思うことがあった。
「奇遇だな、俺も同じ意見だよ」
「……どうしてそう思うの?」
「お前こそ、どうしてだ?」
アステルとミーシャは互いに顔を見合わせた。二人の間に若干長めの沈黙が訪れて、そのまま再び、二人ともあさっての方向を向いて黙り込んでしまう。
そのときアステルはあることを思い出し、背負っていたリュックを目の前に持ってくると口を開け、中身をごそごそと探り始めた。そして本の売却により大幅に整理された荷物の中から古書店で購入しておいた一冊の本を取り出すと、まだ左横で黙りこくっているミーシャの眼前へと突き出してやった。
突然のことに驚いたミーシャは、横にいるアステルと、目の前の本とを何度も見比べた。
「これ、店で読んでただろ? 買っといてやったぞ」
それは先ほどミーシャが熱心に立ち読みをしていた、あの白い表紙の古本であった。勢いに任せてアステルに押しつけられたものの、その内容が妙だったのでついでに購入しておいたのである。
しかし、当のミーシャは慌てた様子で首を横に振り、
「い、いいよ、別に。もう興味ないし!」
「嘘つけ、あんだけ熱心に読んでただろうが。途中まで読んだら、最後まで読まなきゃ気になっちまうのが本ってモンだろ。何百冊も読書してる人間ナメんな」
そう断言すると、アステルはさっきとは正反対の構図でミーシャの手の中に本を押しつけ、そのまま腕を組んで返品を受けつけない体勢をとった。ミーシャはやや困惑した様子だったが、これはこれで面白いと思うアステルであった。
「ま、いらないなら勝手に捨てろ」
「う、うん……ありがと……」
ミーシャは声を搾り出すようにしてそう言った。それはそうと、ミーシャから感謝の言葉を聞けたのはそれが初めてだという気がした。別にどうでも良いことではあるが。
ミーシャが両手でぐっと強く握りこんだその本のタイトルは、白い表紙に大きな黒文字で印字されていた。
『《科学》~憎むべき悪魔の所業の見分け方~』
恐らくは、モラー派の国で出版された書籍であった。どういう経緯か不明だが、所有者がこの国に持ち込んだ後で、あの古書店に売り払ったのだと推測される。だが少なくともミーシャのような少女が熱心に読み込む内容の本では、決してなかった。
アステルは、急速に暗い表情になりつつあるミーシャの横顔を見て、訊いた。
「なあ、お前が生まれた国ってもしかしてさ……」
「ミーシャ~♪ アステル~♪」
いきなり脳天気な声が聞こえてきて、アステルは一気に脱力した。慌てて周囲を見回すと、目の前の道から人ごみを掻き分け近づいてくる、大小ふたつの人影があった。
一人は細身かつグラマラスな体型をした褐色の肌の女性。
もう一人は深緑色のクロークを羽織った丸顔の巨漢。
誰あろう、リリィことリリアラク・アマテラスとジェイド・シッダールタの姉弟コンビであった。遠くからアステルたち二人の姿を見つけたリリィは手など振りつつ、二人が座っているベンチのところへ向かって歩いてきたのである。
「見つかって良かったー、こんなところにいたんだね♪」
「リリィ、もう用事は済んだの?」
そう言ってリリィに話しかけるミーシャの表情は、なにやら安堵しているようにも見えた。同じ女同士ということもあってか、おそらく一番心を許せる間柄なのだろう。サロマニアに来る途中の様子を見ていても、それは明らかであった。
「もっちろん♪ 食料も買ったし、矢もいっぱい手に入ったし、もう完璧よ♪」
言われてみれば、リリィが腰から下げる円筒状の篭が揺れるたび、中で軽量のもの同士がぶつかり合うようなカシャカシャという音が聞こえた。たぶん、篭いっぱいに矢を購入してきたのだろう。欲しいものが手に入ったのなら、それは結構なことである。
リリィはベンチの前まできて立ち止まると、二人並んで座っているミーシャとアステルの姿を眺めてニヤニヤと、さも面白いものを見るような目つきになって言った。
「どう? お二人さん、ちょっとは仲良くなった?」
「な、何言ってるのよリリィ、バカなこと言わないで!」
慌ててベンチから立ち上がり、否定するミーシャ。少し失礼ではなかろうか。
それを見てあっけらかんと笑うリリィの様子は、アステルに心の奥で漠然と、ああ、多分この人には勝てないだろうな、という思いを抱かせた。おそらく場数が違いすぎる。
ところで一緒にいるジェイドはというと、リリィの少し後ろで食料などを詰め込んだ篭をいくつも抱えながら、立ったままの状態でその手に持った白くて丸いものをムシャムシャと頬張っては、幸せそうに目を細めていた。
「……何してるんです?」
「茶店で買った特大のサロマニア饅頭なんだナ。渋みが効いてて美味いんだナ」
そんな風にのんきに過ごしたいと思っていた時期が、俺にもありました。
そのとき急に、アステルの制服のポケットの中身が熱の魔符を入れたかのようにどんどんと熱くなっていった。アステルは驚いてそこに入っていたものを取り出すと、慌てて自分の前に掲げてみた。それはディアスから渡された『通信石』であった。
「……あ、もしかしてソレ、熱くなってる? だったらディアスたちが連絡してきたってことだから、水晶玉の表面に軽く触ってみるといいよ」
脇から見ていたリリィが、アステルの行動で事情を察したのか親切にアドバイスをくれた。多分、自分も何度も使ったことがあるのだろう。アステルはリリィに感謝しつつ、言われたとおりの操作をやってみた。
すると途端に熱が引き、水晶の奥にディアスの老けた顔がくっきりと映し出された。熱を発したのは、どうやら持ち手に連絡が入ったことを知らせるためだけの機能のようである。
アステルが一人で納得していると、向こう側でもこちら側の映像が入ったのか、ディアスが何かを訴えようとしきりに口をパクパクさせている様子が送られてきた。なにやら慌てているようだったが、生憎『通信石』は映像専門の魔道具のため、互いの声などは一切聞こえないのである。妙なところで不便な道具だとアステルは思った。
水晶玉の中に突然マナスが映ったかと思うと、映像が一気に後退して向こう側が現在いる場所の様子が映し出された。どうやらマナスが『通信石』を持って、その場所全体の光景を映し出しているらしい。
そこに見えたのはアステルにも何度か見覚えのある、ここからそう遠くない広場の景色であった。何だかやけに人だかりが多く、全員一緒にひとつの方向を向いている様子は野次馬のようにも見受けられる。何かあったことは間違い無さそうだ。
いつの間にやら、アステルの周囲ではミーシャらが水晶玉の映像を覗き込んできていた。
「これって……この場所に来いってことなのかな?」
リリィが呟くのと同時に、再びディアスとマナスが切迫したような表情で映像内に入ってきた。不安を抱きつつ、アステルらは無言で顔を見合わせた。