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第02話 大樹国家ウォーディアン・前編


 反論してみろと、彼らは言った。



 何も言えないのはお前が悪魔である証拠だと罵られた。



 ある日、自分は悪魔ではないと反論してみた。



 悪魔の言葉は聞くに値しない、と嘲笑された。



 反論してみろと、再び彼らは言った。




「では遅くなってしまったが、ここらで一度自己紹介させてもらおう。私の名はディアス・ヴァルダマーナ。以前はシビリオンで王立騎士団に所属していた身だ。今ではご覧の通り、根無し草だがね」

 ディアスと名乗った銀髪の老騎士はそう言ってにこやかに笑うと、友好の証とでもいうべきか、アステルに向かって手を差し出してきた。

 アステルは無言ながらも、その握手に応じた。やや皺が寄って黒ずんだディアスの手だがしっかりと筋肉はついていて、そこに感じる力は老人というには中々に強かった。かつては騎士だったというだけあってか、若い頃は相当に鍛えていたのだろう。いま着ている甲冑も見るからに重そうで、衰えを知らないとはこのことだと思った。

 銀色の長髪に色素の薄い肌、大きく切れ長なブルーの瞳を有した彫りの深いディアスの顔を彩っているのは、暗闇の中でパチパチと爆ぜる焚き火のオレンジ色の光である。


 ブルーマの町を出たアステルらは、あれから東方向に伸びた道に沿って森の中を何時間か歩いた後、陽が完全に沈みきった頃合いを見計らって整備された道をはずれ、現在では一本のサロマニア杉の根元で野営をするに至っていた。

 巨大なサロマニア杉の根元では下生えでさえも標準以上で、それは人の手が入っていない場所なら、十メートルぐらいの木々が町ひとつ分に匹敵するような範囲へと広がっていた。ブルーマの果樹畑が成立するのは、こういった下生えを人工的に調整・管理し、有り余った養分が果樹に供給されるようにしているからである。管理を怠ればブルーマもいずれ、森林の中に飲み込まれてしまう運命なのだ。

 ややあってアステルはディアスの手を離すとゆっくりと視線を移動させ、焚き火の周囲を囲むほかのメンバー四人の顔を見渡した。こうして見ると、実にバラエティ豊かな人員構成であることが分かる。外見だけで判断してみても、これ以上ないぐらい明確に老若男女入り混じっていた。何をどうやったらこんな奇妙な一団が成立したのだろうか。


「不思議に思っただろうね、これほど様々な人間が共に行動しているというのは」

 アステルの疑問を悟ったように、ディアスが言った。

「元々は私一人の旅だったんだ。詳しいことは省くが、生まれ故郷で色々あって思うところができてね……今から二年前に始めた。それが行く先々で出会った彼らに同行を認めていたら、気がつけばこんな大所帯になってしまった」

 なるほど、とアステルは思った。これまでに見た限りではこのディアスがリーダーとして振舞っているように見えていたが、それは最年配だからというだけではなく、“旅をしている”主体があくまでもディアスであり、周囲の人間は同行者にすぎなかったからだろう。

 尤も口ぶりを見る限りでは、ディアス本人もまんざらではなさそうであるが。

「赤い毛皮を着た彼は、マナス・ゾロアスター。彼とはジパンガリアで知り合った」

 そう言ってディアスが指し示したのは、アステルの左隣に座っていた赤色の長杖を抱えた小柄な男だった。坊主頭に加え、毛皮の袖から覗く鎖かたびらや金色のうろこ状の鎧など、その見てくれはディアスなどと比べるとかなり近寄りがたかった。

 が、しかし、

「いやぁ、よろしくお願いします」

 などと言ってブルーマを出る直前にもしたように、アステルに向かって折り目正しく会釈を寄越してきた。アステルは変わらず無言ながらも、思わず一礼を返してしまった。マナスは見た目で損をするタイプじゃないだろうかと、一瞬思ったアステルであった。


「あっちの彼女は、リリアラク・アマテラス」

 次に紹介されたのは、焚き火をはさんでアステルの真向かいに座っている、流麗な黒髪をもつ褐色の肌の女性だった。彼女はアステルに向かって笑いかけるとピースサインをし、

「リリィって呼んでね♪」

 やたら性格の明るそうな女性だとアステルは思った。

 リリィ、ことリリアラクは徹底して目立つ格好をしていた。その服装が、冬場であることを無視してヘソの周囲を露出させた上下分割型の毛皮というだけでも充分際どいのに加え、その毛皮が黄色という色彩的にも派手なもののため、褐色の肌をしたリリィの体でも夜闇の中にとけ込んでいなかった。

 しかも、素の体型からしてすごい。毛皮の内側に明確な谷間が見えるほどの巨乳でいて、腹部は締まり腰もくびれている。その両手足も、スラッと極限まで引き締まっていて無駄がなく、全体としてはひたすら野生的な色気に溢れていた。

 容姿は若々しくも明らかに子供とは違うその雰囲気は、強いて言うならば「大人の姉」であった。アステルの周囲には、一度もいたことが無いタイプの女性だった。


 続いてディアスは、アステルから見てリリィの左横に座る茶髪の男性を指差した。

「そこの彼は、ジェイド・シッダールタ。我々で一番のムードメーカーだ」

「よろしくなんだナ」

 そう言ったのは、やや色調の暗い緑の上着を羽織った、メンバーの中で最も背の高そうな男性だった。背後に転がっている妙に巨大な円形の盾は、確か彼の所有物である。

 端的に言えば「巨漢」という感じのジェイドは、縦のみならず横の幅も相当なものだった。そんな巨体にもかかわらず丸顔で目を細め、手に持った果物をかじってはもそもそと咀嚼している様子はなるほど、長旅で疲れた雰囲気をも和ませてくれるかもしれない。

 だがそれよりもアステルは、たった今の紹介にひとつ引っかかる箇所を見つけた。

「『シッダールタ』って確か、ウィンザードの王族の苗字じゃ……」

 アステルが思わず口にした素朴な疑問に、当のジェイドはいきなり口に含んでいた果物を呑みこみ損ねて喉を詰まらせ、盛大にむせていた。咳をしながら慌てた様子で、

「それは、それは……なんだナ……」

 見るからに動揺していた。まさか本当に王家の出身だとでもいうのだろうか。

 するとその横にいたリリィがやさしくジェイドの背中をさすってあげながら、アステルに向かって苦笑いを浮かべながらもフォローを入れてくれた。


「ジェイドが勝手にそう名乗ってるだけだから、気にしなくていいわよ」

 丸めた背中を自分より小柄な女性にさすってもらっているジェイドに、王族らしい威厳はないに等しかった。アステルは自分の考え違いだと思うことにした。

「彼ら二人とは、スタネシアの国境近くの密林で合流したんだ。それ以前からあの二人だけで旅をしていたらしいんだがね」

 ディアスはそう言いながら、ジェイドとリリィの様子を面白そうな目つきで眺めていた。そういえばこの二人、ここへ来る道中でも何度かその様子を見せていたが、妙に仲がよかった。つまりは、そういう関係なのだろうか。

「あー、ビックリしたんだナ。リリィ、お礼に肩を揉むんだナ」

「ありがとー♪」

 いつの間にかリリィの両肩を、ジェイドが甲斐甲斐しくマッサージしていた。その光景を見ていて、何故だろう、アステルはふと仲睦まじい姉弟のようなものを連想した。アステルは即座に二人の恋人説を却下した。どうにもジェイドは読めない部分が多すぎた。

 いずれにせよこれで、メンバー全員の自己紹介を受けたことになるのだろうか。

 いや、まだ全員ではなかった。


 出会ったタイミングだけなら一番最初になる、あの若葉色の髪の少女が残っていたのだ。そこでアステルはディアスとリリィの合間に視線を移動させると、そこに無言で座っていた少女に話しかけた。

「……で、お前は?」

「……弱虫」

「正直かつ分かりやすい自己紹介で結構なことだ」

「わたしじゃなくて、あなたのことだよ!」

 話しかけられるなり発言を茶化された少女は、妙にムキになって言い返した。ルビーの瞳が目の前で揺らめく炎の光を反射しながら、アステルのことをまっすぐに睨みつけている。

 アステルはしかし、それを鼻で笑って斬り捨てた。

「弱虫、ね……その弱虫のお陰で命を助けられたのは、一体何処の誰だったかねぇ?」

「うるさいなぁ、誰も頼んでなんかいな――ねえ、ちょっと待って」

 少女はそこで初めて何かに気がついた様子だった。

「あなた、その気になれば喋れるんじゃない! しかも、そんな嫌な喋り方まで出来るなら、どうして学校の友達には何も言い返そうとしなかったの?」

「さあね……少なくとも、お前相手に遠慮する意味なんかないだろ」

「どーいうこと、それ!」


 少女は益々ムキになっていくようだった。一分の日焼けの跡もなく白く透き通った肌など外見だけなら上等だが、その中身はまだまだ子供な様子であった。尤もアステル自身も、人のことをとやかく言えた義理ではない。

「ミーシャ、彼と知り合いだったのか?」

「知らないよ、こんなの」

 二人のやりとりを見ていたディアスが脇から、当然ともいうべき疑問を投げかけた。少女はそっぽを向くという子供じみた応対で誤魔化そうとしていたが、アステルからすれば当初の目的は達せられていた。

「ミーシャ、ねぇ……了解、了解」

「うるさいなぁ」

「ところで、苗字のほうは?」

「……どうでもいいでしょ、そんなの」

 あさっての方向を向いたまま、少女ミーシャはふて腐れたようにそう答えた。

 要するに教えたくないということか。ならばそれでも構いはしない。ジェイドのように、一応でも名乗っておけばいいのにとアステルは思った。


 するとその考えを読んだかのように、ミーシャが突然こちらを振り向いてきて逆に言った。

「それより、あなたこそ自分のこと話してよ。人に散々聞いといて、自分だけ何も教えないなんて不公平だよ」

「お前は、自分じゃ話してないだろが」

「うるさいなぁ。それでも、他の皆には教えてもらったんでしょ」

 そう言われてアステルはため息をつきながら、自分の周囲にあるいくつもの顔を見渡した。

 いま現在焚き火の周囲に座っている者全員が、程度の差こそあれ、少なからず興味の色を浮かべた目でアステルのことを見つめていた。仕方のないことだろう。何せ、ブルーマではあんな壮絶な光景を見せ付けたのである。関心を持つなという方が無理であった。

 アステルは諦めることにした。この場合、義理などというものにいちいち忠実になる必要はないのだろうが、彼らとて自分に教えたのは名前と出身地方ぐらいのものだ。だったら、アステルが教えるのも同程度の情報で構わないはずである。下手に隠し立てして、下らない詮索を受けるのも御免であった。

「名前は、アステル…………アステル・フレイス」

 アステルが躊躇いがちにそう呟くと、それでもキチンと聞いていたのかディアスが微笑み、それから大きく頷いてみせた。

「アステル君、か。いい名前じゃないか」

「そうでもないですよ」

 アステルは大真面目にそう言ったつもりなのだが、彼らは意にも介さなかった。


「アステル殿、これから世話になります」

「よろしくなんだナ、アステル」

「アステルくんね、よろしく♪」

 ミーシャ以外はどうやら全員納得した模様である。のんきな人たちだとアステルは思った。リリィなどはすぐ隣のミーシャにまで、嬉しそうに話しかけていた。

「良かったねぇミーシャ、同じ歳ぐらいの仲間ができて♪」

「良くないよ、全然!」

 それはこっちの台詞だった。

「学生服らしきものを着ているが、アステル殿は今現在……?」

「一応、十六歳ですが」

「じゃあやっぱり、ミーシャとひとつしか違わないわね」

 向こうが年上でなくて心底良かったと思った。

 そんなことよりも、アステルには聞かねばならないことが山のように積み重なっていた。これまでのやり取りはいわば前座である。メンバーの本名だのといったものは、本来的には大した意味もないことなのだ。


 すなわち、あの奇怪な怪人たちの正体は何なのか。自分の体にいったい何が起こったのか。何がどうなっているのか。

 そこでひとまずアステルは、今の自分の立場に関して問うておくことにした。

「お聞きしたいんですが、皆さんは一体何のメリットがあって俺なんかを招き入れたんですかね。皆さんの旅の目的が何か知りませんが、自分みたいな化け物を呼び込んだって、正直何の得もないと思うんですが」

 無意識のうちに、自嘲的な台詞が口をついて出るアステルであった。

 ディアスらはそれを聞いて一瞬顔を見合わせていたが、すぐにこちらを振り返って言った。


「目的というほどの目的はないが……強いて言うならば今は、私の故郷にミーシャを連れて帰ることがそうだね。理由は分からんが、彼女はモラーヴァンにつけ狙われている」

 刹那、そっぽを向いていたミーシャの表情が暗くなった気がした。

 ディアスの口から唐突に聞きなれない単語が飛び出してきたが、文脈から判断すればその指し示すところが何なのかは大体見当がついた。アステルは、それを言葉にして確認した。

「俺の町を襲った、あの真っ白な怪人たちのことですよね。奴らは一体何なんです?」

「うむ、そのことについても話しておかねばなるまいな」

 俄然ディアスは含みのある口調になると、再びその口髭に手をやった。目の前の焚き火をじっと見つめながら、暗闇の中で考え込むような表情になる。


「さてと、まずはどこから話し始めたものかな……アステル君は、彼らの使う武器が独鈷杵であることには気付いていたかな?」

「ええ、一応は」

 白一色で塗りつぶされていたとはいえ、刃をふたつ、左右対称に組み合わせたようなあの特徴的な形状は見間違えようもない。しかも、あれだけ間近で接近遭遇したのだ。

 期待通りの答えだったようで、アステルの返事にディアスは満足げに頷いた。

「ならば話は早い。アステル君も薄々気付いているだろうが、彼らはモラー派が送り込んだ宗教騎士団のようなものだ。『モラーヴァン』という名前は、彼ら自身が以前にそう名乗っていたものでね」


 モラー派。またの名を天空教団。

 その教義は、三千年前に成立した『星書』の原典に最も近いのだという。信者たちはそのことを一種の誇りとみなし、『魔を打ち破る聖武具』たる独鈷杵をその象徴として崇めている。教団単位で言えば対外的には強硬姿勢で臨むことが多いとされる、ステラ教の主要六宗派のうちのひとつである。

 そのモラー派が差し向けたとなれば、確かに多くの事実に納得がいった。

 独鈷杵を武器として使用する事実は勿論、モラー派がシンボルカラーとしているのは『白』なのだ。モラーヴァンという名前の怪人たちは、ほぼ全員が白みがかった灰色の肉体を駆使して暴れまわっていた。加えて彼らの掛け声を思い出せば、もう疑う余地など何処にもないだろう。


「彼らを最初に見たのは、今から半年ほど前のことだ。その頃はまだ、あれほどの大軍団ではなかったのだが……この短期間で急速に数が増えている。恐るべきスピードだよ」

「数が増えてるってのは要するに……」

「うむ、君がやられたように、独鈷杵によって心臓を一突きにするということだ。彼らの言動を見る限りでは、それが人間をモラーヴァンに作り変える為の儀式らしいのだ」

 だがしかし、とディアスは一拍置いてから続けた。

「実際に、目の前でモラーヴァンとしての力を得て復活した者を見たのは、君が初めてだ。殆んどの者は、君のところの司祭と同じような運命を辿っていたよ」

 苦悶の末に死んで、跡形もなく消滅してしまうということだろうか。

 司祭のことが好きではなかったアステルも、あの最期の姿は流石に気の毒だと思った。


「実を言うと、君を誘ったのもひとつはそれが理由でね。我々の知る限り、モラーヴァンとなった人間はほぼ例外なくモラー派の支配下になってしまうのだが、君だけは我々の目の前で復活したばかりか自らの意思でモラー派に抵抗し、その指揮官まで倒してみせてくれた。だから、君という人間についてすごく興味があるのだよ」

 ディアスはそう言って口髭をいじりつつ、アステルの顔を覗きこんだ。

 なるほど、とアステルは合点がいった。つまるところ自分は“特殊な個体”であるというわけである。本来ならば覚醒の瞬間にすら立ち会えぬ人外の怪物が、誕生と同時に一般的な怪人たちとは全く逆の行動をやってのけたのだから、それは興味が沸くのも当然だろう。

 アステルはなんとなく気になったので、ディアスらに訊ねてみることにした。


「モラー派じゃないってことだけは分かりましたけど……皆さんどこの出身なんです?」

 するとディアスが、鼻の下に密生した白い髭を弄る手を止めて言った。

「ん? 最初に言ったとおり、シビリオンだよ」

「自分はジパンガリアですな」

 そう答えたのは、生真面目そうなマナスだ。

「私は南の方のスタネシアから。ここよりずっと暖かいわよ♪」

 これはリリィ、ことリリアラク。

「俺はウィンザードなんだナ……あ、でも王家とは何の関係も無いんだナ」

 続いてジェイド。念を押さずとも、既に疑う気力はない。


 アステルは改めて驚いてしまった。もはや体格だの、年齢だのといった次元の話ではない。この一団、それぞれが所属しているステラ教の宗派までバラバラなのである。

 例えば、ディアスのいたシビリオンという国は世界最大の領土を持った北方の国で、その国教は『剣』を象徴とするノール派である。一方マナスのいたジパンガリア共和国では『杖』を崇めるアスト派が国教で、ノール派とは教義解釈も相当異なっている。

 宗派の違う国同士では、同じ国同士よりも遥かに戦争が起こりやすい。実際に今から五年ほど前までは、シビリオンとジパンガリアは互いに交戦国であった。自ら騎士だったと明言しているディアスは勿論のこと、例えばもし仮にマナスが軍人だったりした場合は、こんな風にのんびりと焚き火を囲んでいる光景はありえない。普通だったら、今すぐにでも決闘が始まってもおかしくない状況であった。

 ついでに言えばジェイドの出身地であるウィンザード皇国と、リリィの出身地であるスタネシア連邦でも宗派は違う。アステル自身もそこに含めるとするならば、現代の主要六宗派のうち五宗派からの人間が一堂に会していることになる。一体どこの歴史書に出てくる宗教会議だと言わざるを得なかった。


 そしてまた例によって、最後にミーシャ一人だけが残ったのであるが、

「……で、お前の出身は?」

「……知らない」

「記憶喪失とは知らなかったよ、悪いな」

「うるさいなぁ!」

 再び発言を茶化されて、ミーシャがムキになる。このやり取りも大概になりつつあった。

 結局前回と同様、傍から見ていたディアスが口を挟んできた。

「ミーシャとは、この国にやってくる途中で偶然出会ったばかりでね。苗字は勿論どこから来たのかということも、我々もまだ教えてもらっていないんだよ」

 その言葉を信じるならば、ミーシャはアステルに次ぐ新参者らしい。ディアスやリリィに気に掛けて貰っている様子なのでてっきり古参かと思っていたが、意外だった。


「ただひとつ、モラー派に狙われていることだけはハッキリしているんだがね」

 ディアスが急に真面目な顔になって言った。

「奴らは本当に奇妙な存在でね。元は人間であったはずなのに、モラーヴァンとなった者は一部を除いては皆、変身中に会話能力を失うらしいのだ。君も何度となく見ただろう?」

「それと、動きがやや単調になる傾向がありますな」

 話を聞いていたマナスが、横から口を挟んできた。

「オマケに、普通の打撃や魔術攻撃が殆んど効果を発揮できませぬ。上手くいったところで、気絶させるのが精々といった具合で」

「モラーヴァンの変身も、天梵術式が関わっていることは間違いないのだが……詳細な術式が分からなければ、対処のしようもないしな」

「そういえば、」

 再度、マナスが言った。

「奴らが死ぬ瞬間を見るのも、今回が初めてでしたな。なんだか、爆発して粉々に吹っ飛んでおりましたが……アステル殿、一体どうやって?」

「さあ……あの時は殆んど直感で動いてたもんですから」

「指揮官が死んだときの、雑兵たちの苦しみ方も尋常ではなかったな。もしかすると彼らは、命令を下す立場の者がいなければ活動不能に陥るのかもしれん」


 それに関しては、なんとなくだがアステルは理解できるような気がした。どれだけ強そうに思えても、所詮はひとつの単語しか叫べないような連中だということだろう。己の意志を持たなければ、命令者が消えて動けなくなるのは当然のことである。

「ひとまず、弱点らしいものが見つかっただけでも僥倖ではないですかな?」

「そうは言っても、所詮は状況から導き出した憶測に過ぎない。とにかく、彼らについては情報が少なすぎるのだ。同じモラーヴァンとして復活する者と、そのまま死んでしまう者。それを分かつ条件が何なのかさえ、まだ検討もつかないのだからな」

「あの指揮官は確か、『高潔な魂の持ち主だけが許された力だ』と」

 すると、そこへリリィまでもが割り込んできて、

「そうだっけ? 『異端者だから死ぬんだ』みたいなこと言ってなかったかしら」

 二人の記憶はどちらも間違ってはいなかったが、いずれにせよ眉唾な理屈ではある。


 高潔な魂、というのが何を基準に誰から判断されるのかは不明だし、異端者、というのもモラー派の都合でそう呼ばれるというだけの話である。尤も、それはアステルの主観だからそう感じるのであって、本当にステラの神がモラー派に肩入れしていて、逐一生かす人間と殺す人間を選り分けてやっているというのならば話は別である。

 あるいはモラー派にとって必要な人間だけが、意図的に蘇生させられるということなのかもしれないが、それならそれでアステルが当てはまったことに説明がつかない。あそこまで面と向かってモラー派にケンカを売った人間を、あの性格の悪そうな指揮官が生かそうなどとする訳がないからだ。打算があって生き返らせたはずの自分に抹殺されたというのならば、それはそれで笑える話ではあるが。

 ディアスは口髭を弄る手を止めると、アステルに向き直って至極真面目な顔つきで訊ねた。

「どうだろう、アステル君。君に何か、他の人々とは違う要素は無かったかね?」

 アステルの持つ、他の人間とは違う要素。

 実際、思い当たる節ならばあった。

 若干答えになっていない気はしつつも、結局それ以外は思いつかなかったので、アステルは遠慮なく言葉に出してディアスらに伝えてやることにした。


「他の人間と何か違う部分があるってんなら――」

 アステルは全員が自分に注目しているのを確認してから、皮肉を籠めた口調で後を続けた。

「――たぶん、俺が悪魔だからですよ」

 その場が一瞬で静まり返った。暗闇の中で聞こえてくるのはパチパチという、オレンジ色の火が威勢よく弾ける音だけ。誰も二の句が継げないでいた。ジェイドでさえ、食べる手を休めてアステルの方を見つめている。

 長い沈黙を破るかのように、ミーシャが焚き火越しに身を乗り出してきて言った。

「ちょっと、真面目に答え――」

「真面目だとも…………至って、真面目な答えだ」

 アステルはそれだけ言うと、どういう意味か尋ねようとするディアスやミーシャの言葉を無視して焚き火の前をひとり離れ、少し離れた場所に程よく積もっていた枯れ葉のベッドの上に制服のまま寝転がった。この際、眠いかどうかなどは関係なかった。ディアスらのいる方向に背を向けてしまったので、今現在の彼らの様子はまったく分からない。

 そのうち夜が更けるにつれて、次第に焚き火の音も聞こえなくなっていった。

 極度に疲れていたにもかかわらず、その晩アステルは一睡も出来なかった。


* * *


 数日後。

 あれからウォーディアン東部の森を北上し続けたアステルたちは、途中何らかのトラブルに巻き込まれることもなくつつがなく歩みを進め、ついに何日目かのその朝、ブルーマから北部に二百キロ近く離れたウォーディアンの首都・サロマニア市に到着していた。

 長く果てしなかった樹海の旅を終えた一行は、伸びた草木に覆われて荒れた脇道から茂みを掻き分け、幅も広く整えられた様子の立派な参道へと足を踏み入れた。脇道から出てきてすぐ目の前のところには傾斜角十五度前後の急勾配があり、そこが街の南東方面からサロマニアの市街地に至る唯一の道となっている。

 場所と時間からいっても人通りは充分すぎるほどで、軽い世間話などしながら街に出入りする人々の様子を見る限りは、そこに異常は感じられない。つまり今のところは、ここにはモラー派の魔手は及んでいないということであろう。

 それが分かった途端、一同の発散する空気がどことなく和らいだようだった。

 誰からともなく大きく息を吐いて、


「まずは……ひと安心といったところか」

 ディアスがそう呟く。

「まぁ一応、我々自身の目で確かめる必要はあるでしょうな」

「それは勿論だとも。さあ皆、最後のひと踏ん張りといこうじゃないか」

 マナスに応える形でディアスがその場に立ち止まっていた全員を促し、最後の難関とでもいうべきその坂道を登らせ始めた。中でもジェイドは一度立ち止まってしまって気が緩んだのがいけなかったのか、ひぃひぃと悲鳴を上げながらの登頂であった。

「足が……足が痛いんだナ……」

「頑張ってジェイド。もうちょっとで着くんだから」

 それを励ましているリリィ。この数日間で改めて分かったが、この二人は本当に仲がいい様子だった。文字通り姉弟のようである。尤もより体の大きいほうが、小さいほうから世話を焼かれているというのは実に不思議な光景であったが。


「それにしても、本当に驚いたよ」

 と、坂道を登りながら、ディアスが後ろにいたアステルのことを振り返ってそう言った。

 アステルは何のことか分からず、思わず怪訝な顔になってディアスを見返した。

「思ったよりも、アステル君は体力があったのだな。あまり運動をするタイプではなさそうだったから、おそらく途中でバテるか、さもなくばとてもゆっくりな移動になることを覚悟していたんだが……どうやら私の思い違いだったようだね」

 そのことには正直、アステル自身も驚いていた。


 元々アステルは外に出て動き回ったりするよりも、自室に篭もって本でも読んでいるほうが性に合っているタイプである。三日も四日も歩き尽くめで過ごした経験など皆無に等しく、なし崩し的に一緒になったとはいえ、おそらくディアスらとの行軍にも相当に影響を与えるだろうと思っていた。

 しかし実際は、ご覧の通りである。行軍に影響を与えるどころか、殆んど消耗することもなしに数日間を歩ききってしまった。明らかに、以前よりも体力は増大していた。


 その急激な変化の原因はおそらくは、アステルの体がモラーヴァンへと作り変わったことであった。あれだけ貧弱だった自分だが、“人間ではない何か”に生まれ変わった結果として体力が増したのだと考えれば一応辻褄は合っている気がした。

 それにしても『悪魔』と呼ばれ蔑まれ続けた自分が、正真正銘人外の存在となって初めて人並みの体力を得られるというのは、考えてみれば実に皮肉なものだとアステルは思った。

 そのとき不意に、目の前の空間が大きく開けた。

 高所を吹き抜ける乾燥した寒々しい空気とともに、ブルーマ同様に無数の枝葉で覆われた頭上に広がる隙間から、地上に向かって木漏れ日という名の淡くて壮大なる光のカーテンが満遍なく降り注いでいた。その奥に飛び込んだらどこか別の世界へと繋がっていそうな予感さえさせる神秘的な光景で、実際そのイメージは間違ってはいなかった。

 光のカーテンの向こう側に、サロマニアの広大な街並みが見えていたのだ。坂道を登り終えたその場所は、まさしくサロマニア市の光景を一望できる地点であったのだ。

 アステルのすぐ横で、少し遅れてやってきたミーシャが息を呑むのが伝わってきた。確かにこの光景は、初めて目にする者にはそれなりの感動を与えるものだろう。


 サロマニア市はウォーディアンの国土の八割以上を占める超巨大樹林地帯の中でも、特に巨大に成長した木々が軒並みそびえ立つ一帯である。それらの足元には市民の設営した商売用のテントが無数に立ち並び、買い物に立ち寄る人々の姿とも相俟って完全な市場の様相を呈している。その光景は幅広なメインストリートから枝分かれした道に至るまでどこまでも続いていて、後から後から人が溢れては最初にいた人を押し出すようにして流れていく様子は文字通り、街の大動脈を観察している気分であった。商いの場が活況を見せているのは、この街がまだ平穏な証拠であろう。


 人々の周囲にそそり立った木々の幹の側面には、あちこちに内部から彫り抜かれた通路や窓、人が何人も留まれるような広さのバルコニーが見え隠れし、一定の高さごとに通路脇に設けられた通用口からは、隣り合った別の木に向かって非常に長いつり橋が架けられ、数多の天然式ビルディングを相互に連結していた。こうした連絡通路が縦横無尽に張り巡らされていることから、サロマニアは別名『つり橋の街』とも呼ばれている。

 そして何よりこの街の象徴たる存在が、木々や地上を行き交う人々のそのまた向こうに堂々たる迫力をもってそびえ立つ唯一無二のサロマニア杉、通称『星の大樹』である。その樹高は、なんと三百メートル以上もあった。

 通常は二百メートル前後で成長が打ち止めになるサロマニア杉の中でも、特に巨大に成長したたった一本のその大樹は、一説には樹齢三千年を優に超えているのだという。つまりはステラの神が降臨したその時代から、ずっとそこに立っていたということになる。

 ありとあらゆる意味でスケールの大きなこの街を、一目見て圧倒されるという人間は多い。現在アステルの周囲にいる人々も、そういった種の反応を面白いぐらいにハッキリと示していた。


「おおお、これは話に聞いていたよりも随分と壮大ですなぁ!」

「この土地はよほど養分に恵まれているのだな……大自然の神秘というものか」

「わー、空気が澄んでるわねー♪ ……でも寒いのはどうにかならないのかしら」

 三者三様のリアクション。

「はひー、はひー、なんだナ……」

 一人だけ、息切れで景色を見てもいない人間がいることには突っ込まないでおく。

「すごい……」

 ミーシャがやや圧倒された表情ながらも、ようやく発した台詞がそれであった。それだけ迫力があったということなのだろう。

 アステルがミーシャの横顔に目をやると、それに気付いた当人は何故か急に不機嫌そうな表情になってアステルのことを見返してきた。

「……なによ?」

「いや……随分と感動してるんだなと思ってさ」

 アステルはそう言って目線を、ミーシャからサロマニアの街並みへと戻した。


「感動しちゃ悪い? いいでしょ……こんな大きな街、生まれて初めてなんだから」

「別に悪かないけどさ」

 ただ、そこまで素直に驚嘆する人間を見るのは久しぶりだと思っただけである。

 遥か頭上で入り組むように生い茂った枝葉のために、街全体に差し込む日光は遠くから眺めると、まるで雲間を通過したような幾筋もの真っ直ぐな光線の束になって見えた。天井から降り注ぐ淡く白い光で満たされたその巨大な空間は、人間が住み易いようにある程度手を加えているとはいえ、基本的には全て天然の植物だけで形成されているのだ。まして大都市を訪れるのが初めてだというのならば、それは感動のひとつも覚えはするだろう。

「つーかお前、本当にどこの出身なんだよ。そんなに田舎の方なのか?」

「うるさいなぁ……どうでもいいでしょ、そんなこと」

 そう言ってはぐらかすミーシャであった。

 ここに至るまでの数日間、アステルはディアスたちから一行が成立するまでの様々な話を聞かされていた。大体はこれまでの旅路や、それに伴ってメンバーがどういう順で加入してきたかなどである。しかし、ミーシャの出自についてはやはり不明のままであった。


 これまでにディアスたちから得られた情報によれば、ミーシャが一行に加わったのは彼らがウォーディアンを目指して北上してくる最中のことであったという。つまりは、この国の領土よりも南部での出来事というわけだ。

 ところがそれほど南下した場合、ミーシャやディアスのような色白な肌の人間が生まれることは、土地柄的に殆んどありえない。あくまでもその地方の出身者と考えるならば、特異体質とでも言わない限りはやや不自然であった。

 モラーヴァンに追われているといった奇妙な事実が重なることもあり、アステルは機会を見つける毎にそれとなく質問をかけてみることにしていたのだが、警戒心の強いミーシャは結局口を割ることもなく、現時点まで詳細は明かされていなかったのである。

 尤もアステル自身、先日の『悪魔』発言の真意さえ明かしていない立場なので、ミーシャに対しても興味があるような素振りは見せつつも、あまり強引に探り出すような真似は自重することにしていた。

 思えばここまで素性も真意も不明な赤の他人を、子供とはいえ聞き出そうともせずに同行させるディアスたちは相当なお人よしであった。ある意味その姿勢のお陰で助けられている身ながらも、安全面からいって如何なものかという気がした。

 万が一盗賊の間者でも紛れ込んだらどうするつもりなのかと聞いてみたくなる。


「さて、さて、」

 ディアスが突然、両手を軽く打ち合わせて全員の注目を自分に集めた。

「ここでの休憩が終わったら早速街に入るわけだが、どうだろう、余り大勢で動き回っても効率も悪いことだし、全体を三つのグループに分けようと思うのだが」

「賛成ですな。ついでに、情報収集以外は役割も分担するというのは?」

「うむ、それがいいな」

 マナスが追加の提案をし、ディアスが頷く。どうもこの一行のまとめ役は、ディアスとマナスの二人が務めているらしかった。ディアスが指揮官なら、マナスは副官といったところである。実際、中々性に合っているように見えた。

「ではマナスは、私と一緒に来てくれ。リリィはジェイドと一緒だ。我々が宿を探してくるからその間に君たちは、市場を回って食材や他の必要なものを可能な限り調達してきてくれ。待て、いま必要な予算を渡そう」

「助かるわ。いい加減、矢も篭もない状態でいるのは耐えられないわね」


 と、指揮官コンビが案の定成立し、リリアラクは食料雑貨関係とついでにジェイドの世話を任されて、ディアスから硬貨の入った袋を預けられていた。随分と手馴れた雰囲気なのは、互いに適材適所を把握している証拠だろう。

 が、何故だろう。アステルはとてつもない違和感のようなものを感じていた。何かとても重要な事実を見逃している気がするのである。

 しばらく間が開いて、そのときアステルは初めてその内容に思い至った。

「「……あれ?」」

 アステルが思わずそう呟いたとき、偶然にも隣でミーシャが同じような声を上げていた。いや、偶然ではないのかもしれない。まさかとは思うが。

「まあ、そういう訳だから、ミーシャとアステル君は二人で街を周ってきなさい」

「「……えっ!?」」

 再び声が重なった。何を言われているのか一瞬理解が及ばなかった。


  * * *


 一行は休憩していた坂を下ったところにある市場の手前で立ち止まると、そこからの予定を簡単に確認しあっていた。

「では、今から四時間後に『星の大樹』の地上入口の前で落ち合おう。皆、いいか?」

「異議なし」

「分かったんだナ」

「オッケー♪」

 ディアスの問い掛けに、マナス、ジェイド、リリィが順番に返答する。しかしアステルは、少々不安な面持ちで彼らの様子を眺めていた。

「皆さん、その格好で歩き回って本当に大丈夫なんですか?」

 アステルが心配しているのは、ディアスらの服装のことである。どういう訳か彼らは全員、自分たちが故郷から着てきた服そのままで、サロマニアの街を歩き回ろうとしていたのだ。足元まで覆い隠すようなクロークを羽織っているジェイドはともかく、明らかに北方の騎士と分かる銀色の鎧に青いマントという出で立ちのディアス、真っ赤な毛皮に黄胴色の防具を身につけているマナス、そして見事なまでの褐色の肌をさらけ出すリリィと、とにかく彼らの格好は目立っていた。目立つだけでは飽き足らず、明らかにウォーディアン国民ではないということを周囲の人々に知らしめてしまっていた。


 この時代、多少の例外はあれども基本的には皆、自分が生まれ育った国の宗派に所属していることになっている。例えばディアスならばノール派の、マナスならばアスト派のステラ教徒という扱いになる訳で、実際の信仰心の強弱はさておいても彼らは全員、ガロン派からすれば『異端者』ということになってしまう。ただでさえ保守的なガロン派を信仰するこの国の、それも首都で、明らかにウォーディアン生まれではないと推察できる格好で出歩くのは、余り賢い選択とは思えなかった。

 しかも集合場所に指定した『星の大樹』は、首都に存在することもあってウォーディアン政府の中枢庁舎として利用されるだけでなく、二百年前に成立したガロン派教会の総本山という役割も持つのだ。その幹の内部には国内最大規模の教会が作られ、同じく国内最大級のガーゴイル像が安置されている。

 つまりこの街は本来、異端者を寄せ付けない“ガロン派の聖地”ともいうべき場所なのである。

 それでもディアスは不安になるどころか、むしろ笑ってすらいた。


「心配せずとも、我々は一応『巡礼者』ということになっているからね。たとえ見つかっても危害を加えられることはないよ。シビリオンから持ってきた証書もあるしね」

「アステルくんの町でも、それで親切にしようとしてくれた人がいたしね♪」

 ああ、そういうことだったのか、とアステルは少しだけ納得した。

 意外な話ではあるがヴァース全土の国家間で、ある宗派に所属する人間が別の宗派を信仰する国に赴くこと自体は現在、法的には禁止されていない。そこには経済上の利害など様々な思惑が絡み合っているのであるが、それら全てを一括して正当化するのが今から百年前に主要六宗派の間で交わされた『巡礼協定』なる取り決めである。

 すなわち、主要六宗派の国民に限りステラ教の聖地を巡ることが目的の人間に対しては、危害を加えてはならないというものだ。この取り決めによって、宗派が違う各国間での移動は公に認められている。

 よく考えたら、ディアスたちが何食わぬ顔でウォーディアンの領土を歩いているのだから、この取り決めによって身の安全が保障されているのだと思いついてもいいハズだった。


「アステル殿の学校では、まだ『巡礼協定』は教わっていなかったのですかな?」

「いや……教わるには教わったんですが、正直言って有名無実だと思ってました」

 アステル自身が自国民以外とは対面したことがないのもあったが、ブルーマという閉鎖的な共同体で生活してきたのが何よりも大きな理由だった。少なくともアステルの周囲では、他宗派への配慮などという発想は微塵も顔を見せたことはなかった。

 尤も協定自体が本来、現実における姿勢の上で他宗派の立場を尊重するとかいう考え方とは一線を画したものなので、結びつくことが無いのも当然といえば当然なのである。

 ともあれ、身の安全が保障されているならば問題は無い。アステルはホッと一安心した。


 ディアスはそんなアステルの様子を見ると、軽く微笑み肩に手を置いてきた。

「アステル君、何があったか分からないが気に病むな。そうやって他人の心配ができる間は、まだ君は人間である証拠だよ」

 それは果たして、アステルの肉体がモラーヴァン化したことに対してのものだったのか、それとも初めて自己紹介した晩の『悪魔』発言に対してのものだったのか。どちらかは分からなかったが、いずれにしても大して効果のあるものではなかった。

 気遣い自体はありがたいにせよ、そう簡単に割り切ることの出来る話ではないのだ。

「……だったらいいですがね」

 と、アステルは皮肉混じりに呟くことしかできなかった。

「それでは皆、また後で会おう。気をつけてな」

 ディアスが一同に解散の号令を出す。

 アステルは、自分のすぐ後ろに立っていた若葉色の髪の少女を振り返った。

 目が合ったミーシャは例によってムッとした表情になると、何も言わずくるりと体の向きを反転させ、そのまま人ごみに向かって一人で歩き出してしまった。

 アステルは一瞬顔をしかめてみたものの、放っておいたらミーシャが迷子になるであろうことは明白だったので、仕方なくその後を早足で追いかけることにした。二人の姿は人ごみに紛れていき、あっという間に見えなくなってしまった。


 それからディアスたち四人は黙ってアステルとミーシャが消えた方向を見守っていたが、不意にディアスが近くにいたリリィに向かって話しかけた。

「リリィ、言われたとおりにはしてみたが、正直言って私は不安だ」

「え、なんで?」

 ディアスの言葉に、リリィは本当に分からないといった様子になって聞き返した。マナスとジェイドは何も言わずに二人の会話を見守っている。

「ミーシャの話を聞く限りでは、あの二人はどうも反りが合わないようだ。お互い突き放すような態度ばかりとっているしな。あんな状態で二人きりにしたら、かえって仲がこじれるのではないか? それに万が一のことがあったら……」

「心配しすぎよ、ディアスは。大体ミーシャが危なかったとき、命がけであの娘を護ろうとしたのはアステル君だったでしょ。忘れたの? 」

「むぅ……」

 ディアスは腕を組んで押し黙ってしまった。

「いざとなったら『通信石』もあるし、大丈夫でしょ。自分で招待したんだから、アステルくんをもっと信じてあげなさいよね」

「……それで、本音は?」

「年頃の男と女を二人きりにしたら、色々と面白そうでしょ♪」

「まったく、君というやつは……」

 あっけらかんと笑うリリィの横で、ディアスはただ呆れ顔で額を押さえるだけであった。


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