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第01話 ガルギオン誕生・後編

* * *


 ブルーマにある唯一の教会は学校と並び、町に三本しかないサロマニア杉の成木のひとつを利用している。

 学校との違いは、樹の内部を彫り抜くのではなく、その入り組んだ根っこの内側に人間の利用する施設が組み込まれている点である。サロマニア杉の根に囲まれた巨大な空間から土だけを掻き出し、石で周囲を補強した空洞を利用するため、教会施設自体は地下に存在することになる。本体である樹の目の前には石畳の敷かれた円状の広場があり、その端から地下の薄暗い空洞に向かって階段を降りていく構図になっている。

 広場では白づくめの異形の怪人たちに連行されてきた人々が怯えた様子で座り込み、その周囲を取り囲んだ怪人たちの監視を受けながら一塊になっていた。縛られている者などはいないが、武器になりそうなものは既に片っ端から取り上げられている状態なので、抵抗などは一切不可能であった。


 ただしその中でもあのディアスたちだけは例外な模様で、密集した人々がつくる円の一番外側で、両腕を後ろ手に縛られた状態で座らされていた。常に携帯していた武器類等は捕虜になった時点で没収されたらしくその手にはなかったが、あれだけ抵抗したにも関わらず命を奪われなかったのだからまだ幸いというべきなのだろう。

 常時周囲を見渡すように視線をあちこちへ移動させているディアスやマナスとは対照的に、ジェイドだけは足元の地面を見つめてしょげ込んでいた。

「うぅ、俺の所為なんだナ。あんな強い術なのに、中途半端にしか使えないから……」

「言うなジェイド。むやみに使わせようとした私の責任だ」

 そう言って落ち込みまくるジェイドを励ましているディアス。実際、『トルネード』が怪人たちだけを吹き飛ばした時点で上手く止まっていれば一行は逃走に成功していたのかもしれないが、元々上手く操れないと知りながら強引に使用させたディアスにも非はあった。

 それに今は、過ぎたことを悔やんでいても仕方がない。問題は、捕縛されたこの状態からどのように縛めを解き、気付かれずに逃げ出すかなのである。


 他方リリィはすぐ傍らに座るミーシャのことを心配してか、彼女との小声での会話を繰り返していた。ミーシャは仮にもまだ十代半ばの少女である。武器を持った大勢の大人に包囲されているというのは、状況としてあまり芳しくはない。もしも不安を感じることがあったならば、同じ女であるリリィがすぐ傍で会話を絶やさないようにしていることはそれだけで大きな効果があるものだろう。

「……うん、大丈夫だよ。心配しないで」

 ミーシャも、そうやって小さな声ではあるがリリィの気遣いに応えている。気丈に振舞う、というほどでもないだろうが、ミーシャも若干ながら不安感を抑え込んでいるような気配であった。あるいはリリィがいなければ、そういう台詞も言えない可能性はある。


 そのとき、カツカツと固いもの同士のぶつかり合う音が広場に響き、西の森に続いている石畳を歩いて四十代半ばにも達しようかという彫りの深い顔をした金髪オールバックの男が、雪のように白いマントを翻しながら颯爽と広場の人々の目の前に現れた。雰囲気から察して指揮官階級のようであるが、何故この男だけが普通の人間の格好のままなのかは分からない。そればかりか軽装の鎧らしきものですら、マントの下には全く見当たらなかった。

 広場に到着した男の下に、怪人の中の一人がさっと駆け寄っていった。

「スティングさま、お待ちしておりました」

「うむ」

 白マントの男は、そう言って満足そうに頷く。すっかり怯えに支配されきった様子の人々を眺め回すその表情は、この上ないぐらい上機嫌気味であった。


「お前たち、静まれぃ! これより我らが隊長、スティングさまのお言葉を頂戴する。全員、黙ってありがたく拝聴せよ!」

 側近らしい怪人がそのようにして叫ぶと、それまでずっと聞こえていた人々のざわめきが一瞬にしてぴたりと止んだ。それだけ、人々の不安は大きいということである。得体の知れない怪人たちに、逆らえば何をされるかも分かったものではないのだ。

 人々が完全に自分の話を聞く体勢になったと確認した白マントの男スティングは、ついっと顎を上向けるとニヤニヤといやらしい目つきで彼らを睨め回すようにした。性格の一端をその所作で如実に表してみせたスティングは、そうしてから散々勿体つけた様子で口を開いた。


「憐れなるウォーディアンの国民たちよ、私はウォーディアン制圧軍第四中隊のスティング大尉。我らは偉大なるモラーの教えを広めるために、ガラシア教主国の大司祭さまより遣わされし軍団であり、お前たちをこの宇宙で最高の法に導かんとする救い主である!」


 スティングは人々に向かってそう声高に宣言した。

 広場の人々はディアスらも含め、それに応える素振りを誰一人として見せはしなかった。が、演説を再開したスティングの次の言葉で、否が応でも騒がざるを得なくなっていった。

「お前たちがこの国から押しつけられたガロン派などという異端は、いずれお前たちを煉獄へと誘い、星の海へ還るという主から与えられた最高の使命すらも果たせぬまま、その命を何の価値もない土くれへと変えることであろう」

 その途端、今まで静かだった町の人々がにわかにざわめき立った。なんと恐ろしいことを、とかそんな具合の呟きが殆んどではあったが、それすらも無視する形で、スティングの演説は最終局面を迎えた。


「よって、今この場にいるお前たちに宣告する。ガロンの教えを捨てよ、そしてお前たちを救うことが出来る真の教えである、我らがモラー派へと帰依するのだ!」

「「「モラー!」」」

 今や、広場は騒然となりつつあった。その様子を見てスティングは、すっかり悦に入った表情を浮かべた。自身の演説の効果は上々であるようだった。

 だがそのとき、人々の中からたった一人だけ立ち上がったものの姿があった。

「ふざけないで、誰がガロンの教えを捨てるものですか!」

 そう叫んだのは、どうやら三十路も終わりに近づいた風情の女性である。

 なんとそれは、広場に連行されてきたアステルの母、ナディア・フレイスであった。果敢というのか無謀というのか、とにかくモラー派の言いなりにはならないと示すつもりのようだった。


「私たちは、決して暴力に屈することはありませんわ!」

「そうだ、土くれに還るならば本望だ!」

 そう言って続くようにして立ち上がり、ナディアに同調する様子を見せたのはブルーマ市立学校の教授服を着た男である。ご存知、生徒たちに大人気な魔術科の教授だった。

 やがて侵略者たちに対して立て続けに反論した二人に影響されたのか、広場に集まった他の人々までもが口々に抗議の声を上げ始めた。突然膝立ちになったかと思えば両手を挙げ、ガロン派万歳と叫ぶ者までいる。

 片やスティングたちモラー派の戦士はといえば、そんな人々の様子を冷ややかな目つきで眺めていた。まるで彼らが敗北するのは分かりきっているといった雰囲気である。しばらくしてからスティングが、至極つまらなそうな声を出して言った。


「やれやれ、異端の教えに取り憑かれた者たちは不憫でならんな。よかろう、ならば我らがその結果を以ってして、宇宙の真理を垣間見せてくれよう……連れて来い!」

 そう呟いたスティングは、咄嗟に左の人差し指で側近の怪人に合図を出した。側近が頷き、指示が更にその後ろに控えていた別の怪人たちに伝播すると、彼らは早速広場の目の前に立つ巨大なサロマニア杉の根元に開いた穴へと向かい、石造の階段を降りてその奥にある教会施設内へと入っていった。

 一連のやり取りは全て、出入り口の真上に設置された厳しい顔つきの巨大な一体の怪物の石像、すなわちガロン派の象徴である『ガーゴイル』が眺めていた。


 爬虫類のような楕円形の鱗で全身を覆われた四つん這いの動物が、背中からはコウモリに似た皮膜つきの大きな翼を一対、耳元まで裂けた口からは杭のような太い牙を無数に生やし、後頭部からは六本の角を伸ばした犬面の怪物がそれである。どうしても簡易的な表現をするならば最悪、ドラゴンの出来損ないと形容してもいい。

 鼻先から頭頂部までの流線形のラインの両脇には眼孔のような落ち窪んだ空洞があり、そこには光のない真っ白な眼球が嵌め込まれて地上を見下ろしている。ガーゴイルというのは本来魔よけであると同時に、信仰心の薄い人間を食い殺すという言い伝えを併せ持っているため、ガーゴイルを象徴として崇めるガロン派の教会にとっては特に、それを入り口の上に飾っておくことは非常に大きな意味のあることである。

 そんな恐ろしいガーゴイル像の見守る中、やがて広場で息を潜めて待つ人々の前に教会の中から、袖の長い茶色の法衣を身に纏った頭髪の薄い男性が一人、白づくめの怪人たちに独鈷杵の刃を突きつけられながら、ひどく緊張した面持ちで現れた。

 その男性の姿が広場中に見えた瞬間、誰かが驚きを隠しきれずに身を乗り出して叫んだ。


「司祭さま!」

 捕虜となった人々の間に再び動揺が走る。果たしてその重々しい服装をした中年の男性はといえば、ブルーマの町で人々を取り仕切る地方司祭であった。

 スティングたちモラー派の軍団がいやらしく眺める中、自分を見つめる町の人々に司祭は黙って頷き返していた。自分は大丈夫だと伝え、彼らを安心させようとしているのだろう。

 スティングは連れてこられた司祭ににやけ顔を隠すこともなく近づくと、その顔を睨めつけて傲然たる態度で言い放った。


「異端の教えを広める者よ、いまここで誓え。ガロンの教えを捨て、三千年前にステラ様が与えられし真の教え、このモラー派に帰依すると」

「断る!」

 怪人たちによって両脇を押さえられた司祭は身動きひとつ取ることができなかったが、しかしそれでもスティングに対する態度は、まさしくひとつの町を治める人物のそれであった。少なくとも、簡単に脅迫に屈する様子はないようである。


「生命こそがこの宇宙で唯一の真理。我らブルーマの民はそなたたちの暴力に屈することはなく、ガロンの教えが主の望む最高の願いであることを信じ続ける!」

「では今から、その偽りの信念を塗り替えてやろう……『フェイス・オン』!」

 そう言ってスティングは口の端を吊り上げてこれまでで一番不気味な笑みを浮かべると、唐突に謎の呪文を口にしてみせた。

 次の瞬間、恐るべきことが起きた。


 悪党染みた笑みを浮かべているスティングの顔から首、腕といった箇所のやや色白な肌の表面に突然、まるでミミズが這った跡のような丸みを帯びた半透明の文様が一面を覆い尽くすほど無数に浮かび上がったかと思うと、その身体がグチュグチュという肉や骨の軋みあう生々しい音を立てながら猛烈な勢いで変形し、僅か数秒の間にそれまで着ていた服ごと全身が、限りなく白みがかった灰色に覆われた鎧を装着したような形態に変貌した。

 目の前でそれを見せつけられた人々が悲鳴を上げながら一斉に後ずさりし、それまで平静を保っていた司祭でさえも目を見開いて絶句していた。

 スティングが変形した怪人は、周囲にいる大多数の怪人たちとはやや姿が異なっていた。


 露出した肌の部分まで含めた一切が白濁色に染まっている点は共通として、胸部から肩の付近までは、その表面に凹凸としたひし形のディティールが無数に並んだ、逆三角形の鎧で覆われていた。筋骨隆々とした腹部はむき出しになり、腰垂の内側から伸びた脚は、最終的に一切の指が消失し爪先が鋭く反り返った鎧靴のような形状に変化している。頭部はまるで船の穂先のような三角錐の形状になっていて、両目らしき部分には白い光を放つ小さな円形のレンズのようなものがそれぞれ生じていた。

 だがしかし、中でも特筆すべきは怪人の全身に生じた金色の文様である。それらは変身前、まだ人間の姿であったスティングの全身に無数に浮かび上がって見えた、あの文様そっくりだった。よく見てみれば、それらは全て天梵文字の術式であった。


 スティングから変化したその怪人は、グゲゲという気味の悪い唸り声を上げた。どうやら笑っている様子だった。スティングがその硬質化した右腕を見せつけるかのように目の前に持ってくると、途端にその表面に刻まれたいくつもの天梵文字が青白い光を放ち、一瞬のうちに肘から指の先端までが変形して、両端に刃を備えた一本の巨大な独鈷杵になった。

「おい、例のものを出せ」

 怪人化したスティングから発せられるその声は、やけにくぐもっていた。

 スティングの命令で、側にいた怪人が背後から小さな黒い箱を受け取って蓋を開けて差し出すと、その中にはガラスのような光沢を放つ、手のひらサイズの青い球体が数え切れないほど詰め込まれていた。スティングはその中のひとつを指先で器用につまみ出すと、右腕が変形した独鈷杵の刃の先端に開けられた、大きさがぴったりの窪みにはめ込んだ。


 そこで流石に恐怖を覚えたのか後ろに下がろうとする司祭の両腕を、白づくめの怪人たちはガッチリと捕らえて離さなかった。スティングはそれを見て愉快そうな声を上げた。

「ふふふ、どうしたのだガロン派の司祭よ? お前は主が望む最高の教えとやらを伝えてきた身分でありながら、主の加護を信じないのか?」

 そう小馬鹿にした口調で言ったかと思うと、スティングは左手で司祭の喉元を掴んで体を強引に引き寄せ、変形した右腕を後ろに引いて溜めの姿勢をつくった。

「貴様の信仰が果たして主の望んだものかどうか、今この場で試すがいい!」

 そう宣言するが早いかスティングは自身の右腕を前に突き出し、捕まえた司祭の胸に巨大な独鈷杵の刃を深々と突き刺した。

 司祭の口から搾り出すようなうめき声が溢れ、見守っていた町の人々から悲鳴が上がった

 しばらく後にスティングがその右腕を司祭の胸から引き抜くと、司祭の両脇に立っていた怪人たちがパッと腕を放し、胸元を押さえる格好の司祭の体は支えを失ってよろめきながら、仰向けで後ろの地面の上にどうと倒れた。確かに胸を刺したはずのスティングの右腕の先端には、何故か殆んど血液らしいものは付着しておらず、代わりに直前に装填したはずのあの謎の青い球体が、刃に開いた小さな窪みの中から消え去っていた。


 一方、地面に倒れたまま胸や喉を押さえて身悶えする司祭の体には、着実に異変が起こりつつあった。腕や顔に向かって、服の内側から血管と思しき部位が凄まじい勢いで膨張して広がってきて、あっという間に全身の皮膚の下に黒い根を張り巡らされたようなおぞましい状態になったのである。その光景は、まるで植物にでも寄生されたかのようだった。

 やがてとうとう耐え切れなくなり、広場中に苦悶に満ちた司祭の絶叫が響きわたったかと思うと、海老反り状態になっていた司祭の体はそのまま力尽きたようにゴトッという鈍い音を立てて広場の床に横たわった。目をカッと見開いたまま硬直し事切れた司祭の体は徐々に青白い光に包まれていき、最後には服ごとまとめて無数の光の粒に分解され空中に霧散していき、やがて掻き消えて見えなくなった。

 騒がしかった広場では既に、僅かにすすり泣きが聞こえるだけになっていた。彼らのよく見知った司祭の想像を絶する無惨な最期に、人々の誰もが声を失っていた。


 それを見て、スティングは高らかに笑い声を上げた。

「ふはははははは! 見たかお前たち、これこそが異端に堕ちた者の末路なのだ!」

 スティングは、絶句する人々の前で一人左右に行ったり来たりし始めた。

「今お前たちの目の前にある我々の姿は、主がモラー派のみに与えたもうた聖なる力である。正当な信仰を持つに相応しい、高潔な魂の持ち主だけがこの力を自在に操ることが出来る。お前たちの司祭は異端に染まりすぎたが故に魂が汚れ、たった今あのような惨めな死に様を晒したのだ。これぞ正に、邪悪な教えはいずれ滅びることの顕れである!」

 スティングの演説は続いた。その口調に、後悔の色は一片たりともない。

「いいかお前たち、ガロン派などというものはたかだか二百年前に生まれたばかりの取るに足らぬ宗派。しかもたった今の司祭の死によって、その教えが神の望まぬ異端であったことは疑いようもなく証明された。さあ、賢き者は我々に従い、ガロンの教えを捨ててモラーの教えに入るのだ。このようなチャンスが与えられるお前たちは、実に幸運なのだぞ」

 スティングは独鈷杵から通常の形態へと戻した右手を背中側に回し、再度広場にいる人々を見回しながら、歩き回るのをやめずにまた一段と大きな声で言った。

「さあ選べ、異端者として惨めに死ぬか、真の教えを受け入れるか!」


 町の人々に先ほどまでの勢いはなかった。それも当然のことで、自分たちの信頼していた司祭のあのような最期を見せつけられては意気消沈もすることである。皆視線を落としては自分の足元を見つめ、判断に迷う姿を見せていた。

 その様子を見つめるスティングは小刻みに体を震わせ、相変わらずいやらしそうな笑い声を漏らしていた。自身らを高潔な存在と見做していた言上の論理とは裏腹に、その行動から窺える実態は屈折した善悪感と、異常といって良いぐらいの残虐性であった。しかしたとえそうであっても、モラー派の教義に触れてさえいなければ問題視されることもないのである。

 それが、このヴァースという世界の現実であった。

 そんな中、広場を見回していたスティングが突然ぴたりとその動きを止めた。捕まった人々の最前列に目をやって、そこにいたとある人物の姿を見咎める。スティングはそのまま一瞬硬直してから対象の外見を確認すると、つかつかと相手の下に歩み寄っていった。


* * *


 アステルは息を呑んだ。

 それまで誰にも見つからず近くの建物の影から広場の様子を伺っていたアステルだったが、たった今そこで起こった出来事がにわかには信じられなかった。

 モラー派を名乗る怪人軍団。スティングという男の変身。そして司祭の異様な最期。

 一体この町で何が起こっているのか、その目で確かめるために敢えてここまでやってきたアステルだったが、事態の大きさはその想像をはるかに超えていた。彼らの発言が嘘でないとするならば、町を占領している怪人たちの正体はあのモラー派であり、だとすればこれは文字通りの戦争なのである。アステル一人がどうこう出来る規模の問題ではない。


 敵は多数。広場だけでも三十人は固く、彼らが分隊か何かだというのであれば、町全体で百人は下らないだろう。しかも恐らくはその全員が、あの白濁色をした異形の者たちなのだ。

 馬もしくは魔道具を使って、外部に連絡することもやるにはやれる。だがそうしたところで最寄りの軍隊からブルーマまで、到着には最短でも三日かかるのだ。どう考えても現状の打開にはつながりそうになかった。

 一方広場では怪人たちのリーダーらしいスティングが、町の人々の前を行ったり来たりしながら高らかに弁舌を披露していた。お前たちは幸運であるとか、邪悪な教えは滅びるなどと宣言してまわっている。まだ想像の範囲内にある行動ではあったが、実際に目の当たりにしてみると、浅ましすぎてアステルは反吐が出そうになった。

 急にスティングが立ち止まった。そして近くに座っていた捕虜の顔をじっと凝視したかと思うと、その人物を掴まえて大勢の目の前に引っ張り出し、乱暴に地面に転がした。

 アステルは目を見張った。その人物はアステルの知っている人間だった。

 いや、正確には“知り合った”人間だった。


 彼女に向かって怪人化したスティングが一言か二言、ひどく嘲るような口調で何かを言い放った。その内容は、遠く離れた場所にいたアステルの耳にもハッキリと聞こえた。

 その瞬間、アステルの全思考が停止した。

 胸の鼓動が高鳴り、息をするのも苦しくなり、背骨を介して全身に冷たい感覚が行き渡る。

 だがそれは、どちらかといえば恐怖とは少し異なるものだった。

 それは今日この日まで、アステルの身に積み重なってきていた出来事の数々が知らぬ間に膨れ上がらせていた巨大な感情だった。

 アステルは、身体の奥底で何かが爆発するのを感じた。


* * *

 

「この髪の毛……貴様が例の小娘か、こんなところにいたとはな!」

 司祭の死を見せつけられたミーシャが蒼白になっていると、怪人化したスティングのごつごつした腕が伸びてきて、その髪を鷲掴みにして乱暴に立ち上がらされた。

「きゃっ……」

「ミーシャ!」

 悲鳴を上げたミーシャの元にディアスやリリィが立ち上がって近寄ろうとしたが、周囲に控えていた怪人たちにたちまち取り押さえられていた。腕を拘束され、武器を奪われた状態では思うように動くことさえかなわないようである。

 そんな彼らの方を冷たく一瞥したスティングは、ミーシャを強引に人々の目の前に引き出すと、広場の石畳の上に投げ出して言った。


「一端の少女に成り済まして旅の人間を騙くらかしていたのだろうが、この私の目は誤魔化されんぞ。さも人間のように振舞いおって……汚らわしい、この悪魔が!」

 足元に転がしたミーシャを見下ろしながらスティングの発したその言葉は、半分茶化すようでもあったそれまでの口調から一転、完全なる憎しみの産物となっていた。

 ミーシャは言葉とは裏腹に無機質さの際立つスティングの顔を、負けてたまるかと言わんばかりにその赤い瞳で睨み返した。たとえ抵抗の出来ない状態であっても、されるがままであるつもりは毛頭なかった。

 しかしスティングにとって、ミーシャのその態度は益々面白くないようだった。

「卑しい女め。この世界にお前のような悪魔が存在するから、悠久の時を経た今でも世界は真の平和を得ることが出来んのだ!」


 吐き捨てるように言った直後、スティングの右腕が先ほどと同じく青白い光を放つと瞬く間に肘から先が変形し、両端に刃を備えた巨大な独鈷杵となった。ミーシャの目の前で仁王立ちになったスティングは、ミーシャの胸倉を掴むと再び無理やり立ち上がらせた。

「神の捌きだ……いまこの場で死ねぃ!」

 言うなり、スティングの右腕の刃がミーシャの鼻先に突きつけられた。

 まさしく万事休すと思われたそのとき、広場の片隅で何かを叩きつけるような鈍い音とともに、怪人の一体が上げたと思われる低い呻き声がして、スティングは動きを止めて訝しげに音のした方向を見やった。

 ミーシャもつられてそちらを見てみると、スティングの仲間である怪人が一体、地面に倒れて気を失っていた。すぐ傍には長柄のハンマーを持った少年が立っていたので、おそらくはその少年が殴りつけたのだろうと思った。


 が、その顔を見とめた途端、ミーシャは自分の目を疑った。

 それはなんとアステルだったのだ。


 サロマニア杉のふもとで出会ったときと変わらない茶色の制服姿のまま、長柄のハンマーを手に足元の怪人を見下ろすアステルは、顔を伏せたまま、必死そうに肩で息をしていた。あの細身の体格では、怪人を気絶させるほどの力でハンマーを振り回すのも大変だったことだろう。

 だがそんなことよりも、アステルがこんな行動に出たこと自体がミーシャには信じられなかった。他の人間ならばいざ知らず、しばらく前にミーシャが目撃したあの姿からは、今のアステルの行動は到底想像もつかないものだったのだ。

 町の人々も、ディアスたちも、皆がその様子を黙って見つめていた。

「ふざけるな……ふざけるなよ……何が異端だ、何が悪魔だ、何が神だ……」

 そこでアステルはようやく顔を上げ、遠くに立つスティングのおぞましい姿を正視した。


「お前たちなんかに……他人の幸せが何なのかを勝手に決める権利があんのかよ! 本当の悪魔はどっちだ? 本当に醜いのはどっちだ!」

 アステルの声は震えていた。

 それは一見得体の知れない怪人への恐怖のように思えて、実際は何かが違っていた。何故ならばアステルの表情には、同時に烈火のごとき怒りの色が滲み出ていたからである。

 たとえ恐怖がそこにあったとしても、その存在を見えなくさせてしまうほどの強烈な怒りの念。それが今のアステルからは発散されているように思えた。

 ミーシャは、気がつけば息をするのも忘れて、その光景にすっかり目を奪われていた。

 だが僅かもしないうちに自分らの置かれている状況を思い出して、ミーシャは周囲の目を気にすることも忘れ、慌ててアステルに向かって怒鳴っていた。


「あなた何やってるの……どうしてこんなときだけ逃げないのよ!?」

「こんなときだからこそ、逃げないんだよ」

 アステルはスティングと、その腕に捕えられたミーシャとを交互に見ながら、相変わらず息を切らしつつも、若干トーンを落としたその声で言い切ってみせた。何故かは分からないが、ミーシャに向けられたときの顔は微かに笑っていた。

「なぁ……こいつらさっき、お前のことを悪魔って言ったか? ふざけんな。そんな馬鹿げた言葉のために、お前が殺されることなんかねぇんだよ…………絶対にな!」

 最後の一言はやや激昂気味に聞こえた。まだ両手でハンマーを抱えたままの、アステルの細身の身体は今にもその重みでへし折れてしまいそうで、あと数十人はいる怪人たちの全てと渡り合えそうな体力はどう見てもありはしない。たかだか数名のいじめっ子にすら敵わなかった人間が、無謀としか言いようがなかった。

「馬鹿なこと言ってないで早く逃げて、殺されちゃうのよ!」

「……死んだほうがマシだよ、理屈だけの正義に従ってるぐらいならな」


 ミーシャの心配をよそに、アステルは再びその顔に笑みを浮かべながら平気でそんなことを言ってのけた。この少年をそこまで駆り立てるものが一体なんなのか、ミーシャには全く見当もつかなくて、思わず口をつぐんでしまった。

 そのとき、今まで二人の会話を眺めていたスティングが、ミーシャの胸倉を掴む手を急に離した。咄嗟のことにミーシャは広場の地面に倒れて尻餅をついたが、スティングはこちらには関心を示さず、むしろアステルの方を見て楽しげに笑っていた。

「ふふふ、中々面白い小僧だな。空元気にしては褒めてやっても良い」

 そう言っている間にもアステルの背後には下っ端の怪人たちが集まってきて、数名でアステルのことを羽交い締めにするとその動きを完全に封じてしまった。あらかじめ予想できたとはいえ、短時間で武器までも奪われたアステルは狼狽していた。

「くそ、この……!」

 懸命に抵抗するアステルだったが、元より力も体格も違いすぎる上、怪人たちのロックは強固で抜け出すことすらままならないようだった。


 悔しげにしているアステルの眼前に、スティングが静かに歩み寄っていった。その手にはまたも、あの青く小さなガラス球のようなものが握られている。スティングは右手の独鈷杵の先端に、その球体をはめ込んだ。

「だが、相手が悪かったな。次からは戦う相手を選ぶことだ」

 ミーシャは、次に何が行われるのかを瞬時に理解した。自由に身動きの取れない身でありながらも、ミーシャは必死に体を起こし、前に身を乗り出して金切り声を上げた。

「やめて!」

 しかし時既に遅く、顔を掴まれ視界を遮られたアステルの胸にスティングの突き出した鋭い刃の先端が深々と埋め込まれた。アステルが押しつぶされた蛙のような叫び声を上げると同時に、その様子を恐ろしげに見つめていた人々の中からも一人、悲鳴を上げた者がいた。

「アステルッ!」

 それはナディアであった。しかしそれが、アステルに聞こえていたかは定かでない。

 やがて、司祭のときと同様に残虐な拷問の時間が訪れた。


 アステルの服の内側から、顔や腕に向かって張り巡らされた血管がたちまち膨れ上がっていってどす黒く染まり、その全身を覆いつくした。苦痛に身悶えするアステルはまるで空を掴むような仕草をした後、窒息したような声を上げたのを最後にばたりとうつ伏せに倒れ伏し、それっきり動かなくなった。

 ミーシャはその光景を前にして立ち尽くしていたが、すぐに足から力が抜けてしまい再び地面にへたり込んだ。もう間もなく消滅するであろうアステルの亡骸を見つめて呆然としていると、そこにスティングがやってきた。近づくなり肩を蹴飛ばされて背中から倒れ、仰向けになったミーシャの頭上に、スティングの灰白色の身体がヌッと現れた。

 スティングはミーシャの前で、今しがたアステルを刺したばかりの右腕を高々と掲げた。

「次は貴様の番だ……死ね、悪魔め!」

 そう叫ぶとスティングは躊躇いなく、振り上げた鋭い刃をミーシャ目掛けて突き下ろしてきた。ミーシャは死の瞬間が迫っていることをようやく自覚し、必死で目を瞑った。

 時間の流れが止まったような気がした。

 ほんの一瞬のはずの出来事が、実際には何十秒にも感じられた。

 いつまで経っても、ミーシャの身体に怪人の鋭い右腕が突き立てられることはなかった。

 ミーシャは何が起こったのか分からず、恐るおそる目を開けて、黙って震えながら自分の目の前の空間を見上げた。


 誰かがそこに立っていた。

 その人物は、上下とも濃い茶色をした学生服を身にまとっていた。目の前で左右に大きく開かれた足は広場の石畳をしっかりと踏みしめ、小刻みに震えている身体はまるで何かの力に耐えているかのようだった。

 今一度、ミーシャは言葉を失った。

 そこに立っていたのは紛れもなく、先程怪人の腕に胸を貫かれ、悶絶の末事切れたはずのアステルであった。アステルはミーシャと、スティングとの間に割って入り、スティングが振り下ろした腕を受け止めて、その刃がミーシャに届くのを防いでいたのだった。

 固唾を呑んで見守っていた町の人々やディアスらの目の前で、アステルが掛け声とともに腕を大きく振るうと、どこにそんな力があったのか掴まれていた右腕ごとスティングの体が横転した。予想外の反撃を受けたスティングは、慌てて地面を転がってアステルやミーシャから距離をとり、早急に立ち上がると威嚇の体勢をとった。


 直後、唐突にアステルの二つの瞳が白濁して、見た事もない不気味な光を放った。

 スティングはアステルから目を離さないまま、ひどく狼狽えた様子になっていた。

「馬鹿な、何故貴様が生きている……死んだのではなかったのか!?」

 そう叫んでから、スティングはハッとした様子になった。

「まさか……その体が『信念の器』に適合したのか? そんなことが!?」

 スティングは心底信じられないといった口ぶりだった。顔自体は表情の読み取れない形態に変形しているにもかかわらず、今にも歯軋りする音が聞こえてくるようであった。

「有り得ない! 貴様のような異端者に限ってそんなことは! かかれ、お前たち!」

「「「モラー!」」」

 そう命じられ、広場にいた白づくめの怪人たちは各々が手にした独鈷杵を振りかざすと、ミーシャを庇うようにして立っていたアステル目掛けて一斉に飛びかかっていった。


 敵の怪人たちが、アステルに向かって続々と突っ込んできた。それを見たアステルは咄嗟に背後にいるミーシャの肩を掴むと、その体をより後ろにいたディアスらの下へと力任せに放り投げた。軽い悲鳴を上げつつも、ミーシャの体はディアスの膝上辺りに狙い通りに着地した。

 ミーシャが公衆の面前に引き出された直後、彼女の名前を叫んでいたらしいことから仲間ではないのかと判断した結果だったが、実際アステルの勘は当たっていた。

 それから再び怪人たちに応戦すべく、アステルはスティングがいる方向へと向き直った。だがこんな場面になってもまだ、アステルには現在の状況がよく飲み込めていなかった。

 それほど時間は経っていないはずなのにもかかわらず、スティングの右腕に心臓を貫かれてからの記憶がやや曖昧であった。気を失って、目が覚めて、気がつけば殺されかけていたミーシャと敵との間に割って入っていたのだ。殆んど直感に近い行動だった。

 死んでこそいなかったものの、いまやアステルの全身には凄まじい疲労が蓄積していた。理由は分からない。ただずっと、身体中の筋肉という筋肉が痛み、心臓が凄まじい勢いで打ちつけるのである。呼吸も先程以上に荒かった。次から次へと踊りかかってくる怪人たちに対しても、アステルは打つ手なく攻撃を避けるのが精一杯であった。


 しかし繰り出される独鈷杵の全てを回避するのには限界があった。最初の二、三発を避けきったところで無防備な胴に蹴りを入れられ、アステルはうめき声を上げて後ろ向きに転がされた。それを見ていた人々のどよめきが聞こえる。

 アステルは腹部に加わった鈍い痛みに耐えながら、息も絶え絶えにその場に立ち上がった。数え切れないほどの灰白色の怪人たちはそれでも容赦なくアステルを叩きのめそうとやってきて、彼らを前にしてアステルは、どう足掻いても自分には勝ち目がないことを思い知った。

 アステルは半ば自棄になって大声を上げると、目の前に現れた怪人の一体が繰り出す攻撃をかわしながら、せめて一太刀と、その腹部に最大限の気合いを籠めて右の拳を叩き込んだ。それは力も弱く、殆んど苦し紛れの一撃であるはずだった。

 ところが命中の瞬間に、驚くべきことが起こった。


 まずアステルの右腕に激痛が走った。と同時に、さほど力が入ったとも思えないのに、カウンターを浴びせた怪人が悲鳴とともに一気に三、四メートルほども後ろ向きに吹っ飛んでいって、ついには踏みとどまれずに仰向けに引っくり返ったのである。

 アステルはその光景がにわかには信じられず、思わず怪人を殴りつけたばかりである自分の右腕に目をやった。今も刺すような痛みに襲われ続けるアステルの右腕は、なんと纏っていた制服の肘から先だけがいつの間にか消失し、それに代わって重なり合う何枚もの鱗に覆われた、黒みがかった銀色の手甲を装着したような形状に変化していた。

 知らぬ間に鎧のごとき姿になったアステルの右腕だったが、確認してみるとちゃんとアステルの意思で動かすことが可能だった。一瞬戦闘中であることも忘れてアステルがまじまじと自分の腕を眺めていると、頭上から奇声がして、怪人の一体が独鈷杵を振りかざしながらアステル目掛けて跳躍してきた。アステルは咄嗟にその右腕で自分の頭上を庇った。

 勢いよく振り下ろされた鋭い刃を、鋼の手甲状に変化したアステルの腕が受け止めた瞬間、まるで金属同士を叩きつけたような耳障りな音が鳴り響いた。腕は見た目のみならず実際の強度ももっているようで、刃を通さないばかりか痛みさえも全く感じなかった。

 驚愕を覚えている余裕もなく、横から新たな敵が突っ込んできたのでアステルは刃を受け止めていた右腕を振り払って一体目の怪人を弾き飛ばすと、一旦尻餅をついてから突撃してくる敵に向き直り、低位置からの両脚蹴りをその怪人の腹目掛けて全力で繰り出した。自分でも信じられないようなスムーズな動きだったが、それは頭で考えてのことではなく、解放された本能のようなものがそう動けと絶えず命じてくるのであった。


 たちまち両脚に突き刺すような痛みが生じ、蹴りつけた敵が吹っ飛ぶのと同時にそれらが見る見るうちに、黒銀色をした鋼鉄製の鎧靴を履いたような形状に変形した。その無機質な足の先端からは、見方によっては鉤爪とでも形容できる三本の鋭い突起が生えていた。

 アステルは全身を駆け巡る凄まじい痛みに耐えながらゆらりと立ち上がると、自分の周囲を取り囲む怪人たちの無機質な顔を睨みつけた。

 気がつけば体中が熱かった。今にも爆発しそうな心臓の鼓動とともに身体の奥底から湧き上がってくる謎の感覚に身を任せ、アステルは天を仰ぎ見ながら力の限り絶叫した。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 雄叫びとともにアステルの顔や腕中に半透明の天梵文字が幾重にも浮かび上がり、やがてスティングのときと同じように、筋肉や骨格の変形するメキメキという音が鳴り響いたかと思うとアステルの肉体があっという間に作り変えられ、服が消失するのと入れ替わりに全身がまるで鋼のような装甲に包まれていった。


 それを目撃したアステル以外の者たちは、まるで時間が止まったかのように沈黙した。

 やがて変形が完了したことを感じ取ったアステルはぜえぜえと息を吐きながら、自らへの包囲網を形成するモラー派の怪人たちの姿を見回した。彼らはその信仰を示す白みがかった色の独鈷杵を眼前に構えながらアステルの周囲を警戒し続けていたが、もう今までのように不容易に突っ込んでくることは出来ないようだった。

 一方ブルーマの人々は、アステルの変身したその姿を見て別の意味で驚きを隠せずにいた。

 何故ならその外見が、どこからどう見ても、彼らがその象徴として崇めたてるガーゴイル像の姿とそっくりだったからである。


 その全身は、最初に変化した右腕と同じく黒みがかった銀色の装甲により一分の隙もなく覆われていた。装甲の形状は爬虫類の体表にも似た、楕円形の鱗が幾重にも重なり合ったようなものである。手の甲と足の先端からはそれぞれ三本ずつ、猛禽類のように湾曲した短く鋭い鉤爪が生えていて、頭部は杭のような牙を剥き出しにした犬面の怪物の口内から、白銀の仮面を被った人間の顔が覗いている形状だった。人間時にアステルの両目があった部分には、白濁した大きな複眼が形成されている。

 顔の両脇から後頭部へ向かって伸びる何本もの突起は角の部分をデフォルメしたようにも見え、飾りのような大きさでありながらも背中からはコウモリ式の翼まで生えていた。

 アステルが変身した怪人とは、つまりは殆んどガーゴイルそのものの姿だったのだ。最大の相違点を挙げるならば、恐らくはその全身に刻まれた金色の天梵文字であろう。魔を打ち払い、教会の入り口で背信の徒を喰らわんと待ち構えるガロン派の象徴たる石の怪物が、今そこに顕現していたのだった。

 その姿を見たスティングは、心底憎たらしげな声を上げた。


「おのれぇ……ガロン派ごときの小僧が生意気な! 怯むな、やれ!」

「「「モラー!」」」

 叫び声がして、また下っ端の怪人たちが襲い掛かってきた。

 だがもはや、今のアステルは防戦一方の貧弱な存在などではなかった。

 襲い来る激しい痛みと疲労感、そして到底自分の身体とは思えないような鎧に似た皮膚の感触を味わいながらも、アステルが本能に任せて拳を突き出せばそれだけで、目の前にいた怪人が何メートルも離れたところに向かって吹っ飛ばされ、大地を踏めばそれだけで、予想もしなかった速さで体が動き、信じられない高さまで体が簡単に浮き上がった。

 他の誰よりもアステル自身が一番驚いていたが、この姿に変身する前の華奢な体格からは想像もつかないような身体能力であった。


 そうして短時間のうちに飛び掛ってきた怪人の半分近くを難なく蹴散らすと、アステルは包囲網の外にいるスティングに視線を移し、そちらに向かってゆっくりと近づいていった。

 するとスティングは先端が三つに分かれた刺又を何処からともなく取り出してやや大げさに振り回し、腰あたりで構えるとアステル目掛けて一直線に突っ込んできた。

「死ぬがいい、異端の小僧よ!」

 長い得物を携えてそう威勢よく攻撃を仕掛けてきたスティングだったが、アステルはそれをギリギリまで引きつけると、ただ体を横に逸らすだけの単純な動作のみで回避してみせた。走ってきた勢いのまま止まらないスティングの無防備な顔面に、アステルの突き入れた鉤爪つきの拳がめり込むと、思わぬ反撃を受けたスティングは怯んだ様子で、刺又を掴んだままよろめいた。

 すかさずアステルはそこに接近して、追加で何発ものパンチを敵の顔面に浴びせかけた。

 変身前の戦闘同様、それらは理屈でなく、全てが直感によるものだった。普段のアステルならば決して出来なかったであろうそれらのアクションは、あるいはアステルの中で長らく抑えつけられていた生存本能のようなものかもしれなかった。

 すなわち最も迅速で、最も威力のある手段を、徹底的に用いて攻め立てる。決して形振り構うような真似はしない。

 いずれにせよ、今のアステルにスティングの図ったような直線的な攻撃は通用しなかった。

 アステルが繰り返し殴打の締めに最大級の一撃を見舞うと、スティングが刺又を手放して吹っ飛び地面を無様に転がった。アステルは敵から奪い取った刺又をしばらく眺めていたが、すぐにそれを広場の端に投げ捨てると、右の拳に一段と力を込めて握り締め、徐々に中腰になって“溜め”を作った。

 すると突然、アステルの右腕に刻まれた天梵文字が青白く光り輝いたのと同時に、手の甲から生えていた三本の鉤爪が同じ色の光を放ちながら急激に伸長した。アステルはまだ完全に立ち上がってないスティングを見据えると、その期を逃さず一気に突っ込んだ。

 一方、アステルが自分目掛けて走ってくるのを見たスティングは、右肘から先を再び一瞬のうちに巨大な独鈷杵へ変形させると迎え撃った。


「おのれ小僧ぉぉぉぉぉ!」

「でやあああああああっ!」

 アステルとスティング双方の叫び声が広場に響きわたり、跳躍したアステルの突き出した黒銀色の拳と、迎撃を試みたスティングの突き出した灰白色の独鈷杵とが交差した。

 ずん、という鈍い音とともに互いの動きが静止しほんの僅かな時間だけ沈黙が訪れたが、その時既に勝敗は決していた。

 間一髪でスティングの刃を避けたアステルの拳は見事、敵の胸部を捉えていた。その長く鋭い爪が心臓目掛けて深々と埋め込まれると、間髪入れずスティングの全身の鎧の隙間から青白い火花が噴出した。耐えかねたスティングが悲鳴にも近い絶叫を上げながら暴れだし、アステルの鉤爪を強引に引き抜いて逃れたものの、ただ弱々しく後退するだけであった。

 アステルは完全に力を使いきると、その場にガクッと膝をついて座り込んだ。

 その姿を見つめるスティングが、自分の胸を苦しそうに掻き毟りながら呻いていた。


「なぜ…………何故貴様…………我々の…………?」

 そこまでが限界だった。突然激しく痙攣しながら天を仰ぐように仰け反ったスティングは、森中を埋め尽くすような恐ろしい断末魔を上げるとともに鎧の内側から噴出した青白い炎に包まれて爆発四散し、その体は跡形もなく砕け散って消えた。

 途端に周囲で一騎打ちを見守っていた何十人もの下っ端の怪人たちが、いきなり悲鳴を上げたかと思うとその場でばたばたと倒れていった。一体何が起こったのかと一応見回してはみるものの、疲労に押された今のアステルには何も考えつかなかった。

 各々怪人たちは広場の床に横たわりながら、頭を抱えて意味不明な言葉を発したりしては、体をくの字に折り曲げてさも苦しげにのた打ち回っていた。何が原因でこうなってしまったのかは不明だったが、それ以上の戦闘が不可能なことだけは明らかであった。

「退け、総員一時撤退だ! 総員撤退!」


 声からしてスティングの側近だったと思しき個体が、必死になって他の怪人たちに大声で指示を広めていた。殆んど全員が行動不能になっている中でも、どういう訳かその個体だけは無事であった。尤も一人では戦うことなど出来はしない。

 側近だった個体の指示が出るなり、それまで死に掛けのような状態だった怪人たちが一斉に立ち上がって「モラー!」と叫ぶと、当初と比べて足取りは若干弱いながらも、波が退くようにしてさーっと逃走していった。始まってしまえばあっという間の出来事で、広場のみならず町中を占領していたモラー派の軍団は、それで一人残らず消えていなくなった。

 最後に町に取り残されたのは、静寂という名の二文字だけであった。


 またもや肉体の変形する生々しい音が響きわたり、モラー派を撃退したガーゴイルの戦士がさっきまでいたところには、茶色の学生服を着た平凡な容姿の少年が一人座り込んでいた。完全に元通りの姿になったアステルは、目の前にある肌色の両手が何故か感慨深くて、何も言わぬままただぼうっとそれを見つめていた。

 敵の軍隊が町から逃げていったのだから万歳三唱ぐらいあっても良さそうなものであるが、生憎この状況ではそういう気分にもなれないようだった。解放されたブルーマの人々が寄り集まったまま、ぽつんと石畳に座るアステルのことを遠巻きにして眺めていた。

 彼らが考えていることなど言わずとも分かる。アステルは、黙って人々を睨みつけた。

 しばらくの間そうしていると、人混みの中を強引に掻き分けて一人の女性が慌てた様子で走り出てきて、しかめっ面をしていたアステルの体に飛びついてきた。

 見れば、母のナディアであった。


「アステル、アステルなのよね! あなた、体は大丈夫なの!?」

「母さん……」

 慌てふためくナディアは、急いでアステルの体を隅々まで調べようとした。

 だが生憎とアステルからすれば、その行為には鬱陶しさ以外の何者も感じられなかった。

 もっと言えば、アステル自身も不思議だとは思ったが、元の姿に戻ったアステルの体にはかすり傷ひとつついてはいなかったのである。

「そいつを町から追い出せ!」

 突如、解放された人々の中から、誰かがアステルのことを指差してそんなことを叫んだ。

「モラー派なんて邪宗の力を使ったんだ、この町に居させるべきじゃないぞ!」

 すると今度は、別の誰かが大声で反論を唱えた。

「何を言うんだ、あの姿を見なかったのか? 彼はガーゴイルに生き写しだったじゃないか! 彼こそ次代の司祭になって我々を率いるべき人物なんだ!」

「とんでもないことを言うな! お前、あの少年の何を知っているんだ?」

「あんたこそ一体、彼の何を知っているというんだ!」

 その会話が発端となり、広場中で唐突にアステル当人を差し置き喧々諤々の議論が開始した。人々が口々に追い出すべきだ、いやそれはいけない、などと好き勝手に騒ぎあっている。


 その様子を黙って眺めていたアステルは、やがて飽きてしまうと立ち上がって言った。

「いいですよ、俺は出て行きますから」

 アステルがそう言うと、アステル擁護論者たちは慌てたようになって人々の前に出てきて、アステルをなんとか引きとめようとし始めた。

「ただ、言わせてもらえるなら、」

 アステルはそこで、わざと少しだけ声を大きくしてみせた。

「さっきの戦いの前に、実によく信仰を貫いた奴を見かけたので、次の司祭を選ぶなら是非そいつを推薦させてください」

 アステルの言葉に、人々は互いの顔を見合わせ、一体誰のことだと怪訝な様子で囁き合い始めた。

 アステルはその空気がなるべく大勢にまで波及するのを待ってから、人々の集まりの一角を冷たく見据え、その人物をはっきりと指差してこう言った。


「――なぁシドー、お前なら司祭にうってつけだよなぁ?」

 人々が一斉に同じ方向を見た。

 町中の人間から一挙に視線を浴び、そこに取り巻きたちと一緒に何食わぬ顔で立っていたシドーは状況がよく飲み込めないまま、一瞬呆然としていた。

「……は?」

「とぼけんなよ。お前、モラー派の連中が襲ってきたとき、俺ん家の近くでお仲間と一緒にヘラヘラ笑いながら媚売ってただろ? 立派な信仰だったよなぁ、アレは?」

 見る見るうちにシドーの顔が青ざめていった。そうなってから、思い出したように笑みを作って浮かべたシドーは、慌てて取り繕うかのごとくヘラヘラしながら言った。


「――い、嫌だなぁ、アステルくん、ボク何のことか分かんないなぁ~?」

「ああやって彼は謙遜してますが、俺の学校の連中に聞けばすぐ分かることなので、どうかあいつを司祭にしてやってくださいね」

 そう言ってアステルはシドーのことを見つめながら、どこまでも丁寧な物腰で話を続けた。

 傍から見たその顔は、薄く微笑んではいたがおそらく目が笑っていなかった。

 最後の最後にきて最大級の意趣返しを終えると、弁解に必死になっているシドーを放っておいて、アステルは辺りの大分暗くなった広場から何も言わずに立ち去っていった。


 * * *


 いちいち引き止められては敵わないので、一旦家に戻ったアステルはとるものもとりあえず、速攻で荷造りを済ませると膨らんだリュックを背負って一階の戸を乱暴に開け放ち、日も落ちかけている外へと出た。

 アステルはモラー派の軍団が逃げていった方角を確認すると、そちらへ行かずに首都サロマニアへと至る道があったかを考えた。首都は北であるから一直線にそちらへ向かうほうが良いのだろうが、あるいは途中の町や村もさっきのような怪人たちの軍団に襲撃されているかもしれないのだ。

 アステルが考え込んでいると、静けさが支配するサロマニア杉の巨大樹林の中にいきなり足音が反響してくる形で、広場のある方向から何者かがこちらにやってくるのが分かった。金属同士のぶつかり合うようなガチャガチャという音が忙しなく聞こえてくることからして、相手が鎧か何かを着ていることが窺える。さてはスティング分隊の残りカスか。


 アステルが少々気を張って待ち構えていると、砂利道を踏みしめながら視線の彼方に姿を現したのは先ほどの広場で見かけた、ミーシャの仲間と思しき青いマントを羽織った年寄りの騎士であった。すなわちディアスである。

 しばし路地の手前で立ち止まって辺りを見回していたディアスは、サロマニア杉の長屋の前で突っ立って自分のほうを見ているアステルの姿に気がつくと、自分が走ってきたほうを嬉しそうに振り返って叫んだ。

「おーい、こっちだ。こっちにいたぞ!」

 その声を聞きつけたちまち老騎士ディアスの背後から駆けつけてきたのは、年齢も性別も、体格すらもバラバラな四人の男女だった。その中の一人は、あのミーシャという少女だ。

 アステルのほうをチラチラと見てからミーシャは、すぐ傍のディアスに向かって囁いた。

「……ねぇ、本当に誘うの? やっぱりやめようよ」

「そんなに嫌がることもないだろう、ミーシャ。何があったのか知らんが、お前と同じ年齢の仲間なんて、そうそう見つかるもんじゃない」

 ディアスにそう言われたミーシャは、不満げに口を尖らせるとすぐにそっぽを向いた。

 その態度に苦笑しながらも、ディアスは自分たちを見ているアステルに向かってゆっくりと近づいてくると、手始めに自己紹介しようとした。


「はじめまして、私の名はディアス・ヴァルダマーナ。彼らは私の旅の仲間たちだ。さっきの戦いを見たが、実に立派だった。君はこの町を出て行くのか?」

「……ええ、まあ」

「ならば率直に言おう。ほかに行く当てが無いのであれば、一時的にでも良い。我々と一緒に来る気はないだろうか?」

 そう言われてアステルは、ディアスと名乗る老騎士の顔を見つめた。彼の背後では、その道連れだというミーシャを含めた四人の人物が、それぞれ思い思いの表情でアステルのことを見つめている。

 ミーシャだけは常にそっぽを向いていたが、不意に不満げな顔つきでアステルのほうを見たかと思えば、いきなり舌を出して挑発してきた。

 そのあまりに幼稚な振る舞いにアステルは顔をしかめ、何なんだこの女は、と思った。

 そのとき広場のある方向から再び、何者かのやってくる足音が聞こえた。今度のはやたらと小刻みに聞こえ、しかも時たま誰かが誰かを急かすような甲高い声も混じっているので、アステルはもしやと思って警戒した。アステルの予感が的中しているとすれば、遭遇すればあるいはモラー派よりも性質が悪いものかもしれなかった。


 アステルにとっては、まずはこの町を出ることが最優先の課題に思われた。

 そこでアステルは急いでディアスの下に駆け寄っていくと、一度だけ大きく頷いた。

「分かりました、一緒に行きましょう。細かい話ならば道中ゆっくりと」

「うむ、ありがたい」

 そう言うとディアスはすぐに、後ろに控えていた仲間たちを呼んだ。

「そうと決まればすぐ出発しよう。まだ西の森に新手が潜んでいないとも限らんからな」

「ディアス殿、やはりこの国の首都へ?」

 赤くて長い杖を担いだやや小柄な男が、そう言ってディアスに尋ねる。


「うむ、まずは最も情報の入る場所へ向かわねばな。だが敵軍と遭遇しないためにも一度、東へと伸びる道に入ってから改めて北を目指すことにしよう」

「なるほど……あ、自分の名はマナス・ゾロアスターと言います、お見知りおきを」

 マナスと名乗ったその小柄な男は杖を右肩に担いだまま、軽くアステルに向かって会釈をよこした。かなり腰の低い人物のようであった。

 そうしてアステルを加えた一行は、そこから町の東側に続く道へ向かって歩き出した。

 アステルは一行の真ん中あたりで、巨大な盾を装備した太った大男の側を歩くことにした。ミーシャのほうはメンバーの一員である、もう一人の女性の隣を歩いて何か話しかけている。こちらの女性はこんがりとよく日焼けした肌をしている点で充分目につくのだが、それ以上に無駄にグラマーな体型をしていることも気になった。アステルとて一応は男なのだ。

 尤もそんなことをずっと気にしていられるほどの心の余裕は今はなく、アステルが心持ち早足で前だけ見て歩き続けていると、今の今までアステルたちがいた背後の十字路に勢いよく誰かが駆け込んでくるのが聞こえた。


 それは誰あろうナディアとイルルカで、嫌な予想がよく当たるものだとアステルは思った。

 ナディアは駆けつけたその場で心底慌てたように周囲の道を見渡すと、東へと向かう道にディアス一行の後ろ姿を見とめ、更にその中にアステルらしき人影があると分かって、手を振りながら大声で見送った。

「アステル、体に気をつけていくんだよー!」

 その声を聞いてアステル以外は全員が後ろを振り返り、道の真ん中に立って手を振っているナディアとイルルカの小さな人影を発見した。

 ところがアステルが全く返事をしないでいるのを見ると、ミーシャは慌ててアステルの下に駆け寄ってきて、囁くようにして言った。

「ちょっと、さよなら言わなくて良いの!?」

「……いいんだよ、放っておけば」

 アステルは決して、ナディアたちに顔を見せるつもりはなかった。

 見せる義理などないと思いたかった。

 ミーシャだけでなくディアスたちも、アステルのことを少しの間見つめていたが、やがてディアスだけがあえて小声で付け加えるようにして言った。

「会えなくなると、意外と寂しいものだよ」

「……平気ですから」

 アステルは再びそう言って、ただ前だけを見つめて歩き続けた。

 それでもナディアとイルルカは、アステルが見えなくなるまでずっと十字路に立ち続けていた。アステルにはその視線が、ひどく重たいものに感じられた。

 向かっていく森の中は陽が沈みかけて、やけに薄暗くて先の見えない様子であった。

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