第01話 ガルギオン誕生・中編
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ブルーマの西部は、生育途上のサロマニア杉が数多く聳え立つ中に、根元に積もった養分の豊かな土を利用して作られた広大な果樹畑が広がる土地だった。生育途上などといっても樹高百メートルに迫る木と木の間隔は充分に広く、その足元の空間は農作業をするのに最適であった。
冬ではあったが畑には農夫姿の住民が散見され、果樹の間を回っては健康状態をチェックしたり、伸びた枝葉を剪定して調整したりしていた。
それら農作業の様子を脇に眺めながら、畑と畑の間に土を盛って作られた幅の狭い農道を、奇妙ななりをした四名の男女がひとかたまりになって歩いていた。
「ふむ、やはりウォーディアンの森林というのは、内部は意外と木と木の間隔が空いているものなのだな。遠くから見ただけでは分からんが、密生しすぎで養分が枯渇するのを防いでいるということか……」
そうやってボソボソと何か独り言を呟き先頭を歩くのは、濃いブルーのマントを羽織り、内側には丸みを帯びた形状の銀色の鎧を着込んだ背の高い白髪の老騎士であった。その左腰にはそれなりに厚みのある、青色の鞘に入った長剣が一本、重々しげに下げられていた。
しかしマントと同じブルーの瞳を持つその老騎士の軽快な挙動は、決して剣にかかる重量を感じさせるそれではなく、見た目は高齢ながらもその実、かなり鍛え上げていることを示唆させた。
すると老騎士の背後に続いていた道連れの中から、すぐ後ろを歩いていた一人の小柄な男が目の前の老騎士に向かって話しかけた。
「ディアス殿、これだけ巨大な木々が万が一にも一斉に倒れてきたりしたら、自分たちは一体どうなるのでしょうな」
「考えすぎだろう、マナス。ここまで巨大な植物であれば、きっと地下にも相当に頑丈な根が、それこそ幾重にも張っているはずだからな」
そう言ってディアスと呼ばれた老騎士は、自分に話しかけてきたすぐ後ろのマナスという男の方を振り向いた。
マナスの身長は、ディアスよりも頭二つ分ほども低かった。元々ディアスの背が高いということもあるだろうが、それにしても少々小柄に見える。その手に握っているのはディアスの身長よりも長くて赤い一本の杖で、柄の両端に羽飾りと金の環のような装飾がついている。
杖を肩に担いだマナスの服装は、ディアスのそれよりもかなり軽装なように見えて実際は、両手両脚の裾が膨らんだ深紅の毛皮の服の内側に鎖かたびらを仕込み、その紅い服の上から更に黄銅色のラメラーアーマーを装着するというものだった。ラメラーアーマーというのは、小さな金属片などを何枚も繋ぎ合わせてうろこ状に仕立てた防具のことである。赤と金という二色のコンビネーションが、小柄ながらも男の印象を弱くしていない。
マナスは、杖を持っていないほうの手でその坊主頭をぼりぼりと掻いた。
「しかしですなぁ、こんな馬鹿でかい上に細長いものは、ジパンガリアでもそうそう見たことがないですぞ。人工物でもなしに、よくもこんなに成長するモンですな」
そう言って、途方に暮れたように目の前のサロマニア杉を見上げるマナスの背後からは、濃いグリーンのクロークを羽織った大柄な男が続いていた。ただしその男の体型はどちらかといえば横幅の方が広く、ディアスに並ぶ背丈にもかかわらず、余りすらっとした印象は受けない。
その太った大男もクロークの内側には鈍い銀色の鎖かたびらを着込んでいて、歩くたびに自身の体重で鎖がガチャガチャと音を立てている。その左腕には、マナス一人分ぐらいなら容易に覆い隠せてしまいそうな大型の鉄製の円楯を装備していた。
突然男の大きな腹がギュルギュルとうなり、男は自分で自分の腹を押えて呻き声を上げた。
「ディアス、そろそろ茶店にでも入りたいんだナ。団子でも食わないと腹ペコで……」
「いつも言ってるでしょ、ジェイドは食べすぎなのよ」
そう言って傍らを歩く太めの大男ジェイドを諌めるのは、そのジェイドよりも頭ひとつ分ほど小さい、既に成人済みと推測するに足るグラマラスな体型をした艶やかな女性だった。肩のところには木製の弓をかけているが、何故か矢篭などは見当たらなかった。
彼女の身長はマナス以上ジェイド未満といったところで、見た目もディアスやマナスらと比べてかなり若々しく、冬場にもかかわらず袖や裾の無い黄色のヘソ出し毛皮ルックを着ていて、その服からはみ出る肌は顔も胸元も両手足も、例外なく浅黒く日焼けしているという何とも野性味に溢れた際どい格好である。到底子供と呼ぶにはかけ離れていた。
そのグラマーな女性に諌められたジェイドは、益々悲しげな表情と化した。
「そんなぁ、リリィ、あんまりなんだナ」
「少しは体重減らさないと、もし敵に襲われたりしたときに、ジェイドだけ置いていくことになるのよ。分かってる?」
「………なぁ、リリィ」
「なぁに?」
「寒いからだと思うけど、ガタガタ震えながら言われても迫力に欠けるんだナ」
「し、仕方ないでしょっ……あたし、南の出身なんだから寒いとこ苦手で」
そう言うリリィは、確かに先ほどから自分で自分の体を抱えながら小刻みに震えていた。それまで背後の会話を聞いていたディアスが、やや呆れ顔で振り向く。
「リリィ、だから上着を羽織れとあれほど……」
「だって……あんまり服着ると、ごわごわして鬱陶しいし気持ち悪いし」
「やれやれ。風邪引いても知らんぞ?」
「リリィ、寒かったら俺の上着の端っこに包まるんだナ」
「わぁ、ありがとうジェイド。やっぱりこーいうとき優しいわね、あなたって」
そう言ってほくほく顔でジェイドのクロークの右端を持ち上げ、その内側に包まるリリィ。ジェイドとマナスは二人揃って、やれやれ、といった雰囲気になっている。
一方、一同の進行方向からは麦わら帽子を被った老婆が一人のそのそと近づいてきては、老け具合の勝るディアスのすぐ目の前で立ち止まると、その格好をしげしげと眺め回した。
「お前さん、もしかして北方の国の騎士さんけぇ?」
「ええ、まぁ。ですが今は流浪の身でして、こうして聖地巡礼の旅を」
「おぉ、すると、サロマニアの『星の大樹』に向かわっしゃるんか?」
「ええ、そういうことですね」
それを聞いた途端、老婆の顔に浮かんでいた訝しげな色がにんまりとした笑みに変化した。そのまま、心の底から嬉しそうな声を上げる。
「そうでしょう、そうでしょうとも。ガロンの教えだけが、最も確かにこの世界を救うことが出来るんですからな」
そう言って老婆は同じ台詞を何度となく呟き、頷き返しては一人で勝手に満足していた。それに対しディアスは特別なんとも言わないが、ただ曖昧に相づちだけは打っていた。
老婆はそのままディアスの脇を通り抜けると、後ろにいたマナスやジェイド、リリィらに近づき、彼らに向けてニコニコと笑顔を向けて言った。
「旅の方々、何もありゃしませんが、良かったら我が家で一服していってくだされ。ガロンの教えを受けに行く方々の手助けが出来るなら、こんなに嬉しいことはございませんわ」
それを聞いて、大男のジェイドが真っ先に喜びの声を上げる。まるで子供であった。
小男マナスは対照的に、老婆に向かって丁寧にお辞儀などしながら礼を言い、ディアスは背後を振り向いて老婆に再度伺いを立てていた。
「もちろんですとも。さぁさ、我が家はすぐそこですじゃ。ちょいと引き返すことになりますがの」
そう言って老婆は、ディアスらが歩いてきた農道を逆方向に進み始めた。「どうするの?」とは野性味溢れる美女リリィの問いかけだ。
「……まぁいいだろう。こういうご好意は素直にお受けするとしよう」
そう言ってディアスも進行方向を反転させた。
「お茶♪ お団子♪」
露骨に喜んでいるのはジェイドだ。ディアスがそれをたしなめる。
「あんまりはしゃぐな、ジェイド。子供じゃあるまいし、みっともな――」
ディアスがそこまで言いかけたときだった。
突然風を切り裂くような音とともに一同の右手から何か細長い物体が飛んできたかと思うと、一同の最前列で先導していた老婆の頭部をあっという間に刺し貫き、老婆をまるで糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちさせた。
「……えっ!?」
そんな素っ頓狂な声を上げたのは、間近でその光景を目撃したジェイドであった。
即座に何かを理解したディアスとマナスがそれぞれの武器を抜いて身構え、老婆の頭部を貫いた物体が飛んできた方向を睨み付ける。
親切な老婆の命を一瞬にして奪い去ったものは、紛れもなく一本の矢であった。
次の瞬間、立て続けにする鋭い音とともに、次から次へと新しい矢がディアスたちの元へ向かって飛来した。
「ひぃぃぃぃーっ!」
「ジェイド危ない、伏せて!」
すぐ傍にいたリリィが叫んで、咄嗟にジェイドを地面に押さえつけた。その直後、ジェイドの持っていた大きな盾に矢が何度も当たっては跳ね返り、軽快な音を立てた。
一方ディアスとマナスは素早く機転を利かせて、簡単に的にされてしまいそうな農道から飛び降りると矢が飛んでくる方向とは反対側の畑に着地し、一定の高さがある農道を土嚢の代わりにして攻撃を防いでいた。そこからディアスが慌てて叫んだ。
「ジェイド、リリィ、早くこっちに!」
その声を聞いて二人が慌てて畑の中に飛び込んでくる。
いつの間にか、矢が飛来し続ける果樹畑は一面恐怖の渦に包み込まれていた。あちこちで逃げ回っている農夫たちは雨のように降り注ぐ矢に次々と体を貫かれ、何が起こったのかもよく分からないまま哀れにもその命を奪われていく。
西の森の彼方で突然、無数の人間と思しき雄叫びが轟いた。マナスはディアスの方を振り向いて言った。
「ディアス殿、これはまさか……」
「ああ、おそらく“奴ら”だ。どうやら、とうとうこの国にも手を伸ばしてきたようだな」
そう言ってディアスは訳知り顔であごに手をやり、悔しそうに顔をしかめた。
「くそ、よりにもよってこんな時に」
「どうする? 逃げる?」
そう訊ねたのはリリィだ。ディアスは躊躇っているようだった。
「そうしたいのは山々だが、その前にあの子を見つけないと……」
ディアスがそう呟いた瞬間、一同の背後に広がる果樹の茂みの中から、ガサガサと何かが近づいてくる音が聞こえた。ディアスとマナスは咄嗟に振り向いて身構え、それぞれの得物を茂みの間に突きつける。
しかし、しばらくしてそこから姿を現したのは、果樹の葉よりも明るい若葉色の髪をセミロング気味にした十代半ばの少女であった。茂みの合間から顔を出した途端、目と鼻の先に突きつけられている剣と杖の切っ先を見て少女は目を丸くする。
ディアスはその顔を確認してからホッと安堵し、自身の構えていた大剣を下ろした。
同時に、少女の方が口を開いて喜びの声を上げた。
「ディアス、ここにいて良かった!」
「ミーシャ、一人は危険だから勝手に離れるなとあれほど!」
大声を出すのは心配していた証拠である。状況が状況だけに、一歩間違えれば再会できなくなっていた可能性もあったのだ。
もちろんそれを分かっているから、ミーシャの方も言い返したりはしない。
「心配かけてごめん! でも後にして、今はここから逃げなくちゃ」
「むぅ、それはそうだが」
ディアスがそう言った矢先、ついさっきまで一同が歩いていた農道に飛んできた矢が数本まとめて突き刺さった。ジェイドが再び身をすくめて悲鳴を上げる。
「ひー!」
「ミーシャ、お前がここまでやってきた道は安全か?」
「うん、だけど……」
ディアスの問い掛けに、緑髪の少女ミーシャは神妙な面持ちで北の方角を指差した。一同が老婆と出くわして後戻りせず、目の前の農道を真っ直ぐに進んでいたならば今頃辿り着いていたであろう、ブルーマの比較的小さな町並みがそこには見えた。
「町の人たちに教えてあげなきゃ。このままじゃ皆殺されちゃうよ!」
そう言われて、ディアスはミーシャの指差す方向を見た。町までは、今現在いる場所から最短でも百メートル以上離れている。全速力で走っても、矢が降り注ぐ中を生きて潜り抜けられるかどうかは正直分からなかった。
それに仮に辿り着けたとしても、自分たちが生き残ることを最優先で考えるならば町までわざわざ向かうのはあまり賢い選択とは言えない。自分やマナスはいいとしても、ミーシャがいることを考慮すればこの場は気付かれずに逃げるのが得策である。この少女だけ残して自分が行ってくるというのも、危険があり採用できなかった。
なにより今のところ、ディアスらには特別町の人々への義理などないのである。冷たいかもしれないが、戦場で生き残るにはそういうシビアさも欠くことは出来ないのである。
そういう訳でディアスはしばらく逡巡していたが、その考えを読んだのかマナスが横から口を出してきた。
「ディアス殿、ここはミーシャの言うとおり町へ向かいましょう。これから出会ったかも知れない人々を見捨てたなら、自分やディアス殿の主義に反しましょう?」
「む、しかし……」
言いかけて、ディアスはミーシャのすがるような視線に気がついた。ルビーの瞳が不安げに煌めいている。それを見ていたディアスは、やがて諦めたようにため息をついた。
「やれやれ……仕方ないな」
そう呟くが早いか、ディアスは全員に指示を飛ばし始めた。
「いいか、畑の中を全速力で町まで駆け抜けるんだ。絶対に立ち止まらないこと。ミーシャは私の後ろについてきなさい。ジェイド、盾を構えてミーシャの左横を守ってくれ。リリィもジェイドの側に。マナス、しんがりを頼めるか?」
そう聞かれてマナスはさっと右手の杖を左手に持ち替えると、空いた右手に手刀を作って指先をこめかみの位置に揃え、華麗に敬礼した。
「よろこんで!」
「ああ、それからジェイド」
ディアスは、再度ジェイドの方を向いて声をかけた。
「万が一、敵に囲まれたりしたら、そのときは躊躇わず『トルネード』を使ってくれ」
「ええっ!」
それを聞いたジェイドの顔が、文字通り青くなった。両手を目の前でブンブン振って拒絶の意を示す。
「無理、無理なんだナ! 急に言われてもそんなこと!」
「頼むジェイド、我々全員の命が懸かっているんだ」
そう懇願するディアスの表情はどこまでも真剣だった。
「で、でも俺、術を発動できても止められないんだナ……」
「そのときは私が何とかしよう。とにかく頼む、ジェイド」
強い眼差しで詰め寄られ、ジェイドは終始おどおどしていたが、しばらくして諦めた様子でうな垂れた。
「うう、分かったんだナ……」
「頼んだぞ。よし、そうと決まれば、いくぞ!」
ジェイドに念を押し、ディアスが先陣を切って走り出した。後に続いてミーシャが駆け出し、それからまだ青い顔をしたままのジェイドが、更に続いて弓を担いだリリィが飛び出し、最後に赤い杖を構えたマナスがその後を追う。
そのときには既に、最初の頃と比べて降ってくる矢の数は格段に減っていたが、それでも時折風を切って鋭い金属の矢じりが、走る一行の頭上目掛けて落ちてきた。そのたびにジェイドは悲鳴を上げながら、自分の頭上を左腕に装備した円盾で庇っていた。ジェイド自身は自分の身を守ることで必死になっているだけかもしれないが、なにぶんかなりの巨体なので、彼がその頭上を防御するだけで自然とその横を行くミーシャやリリィといった仲間の身も守られているのだった。
一方、仲間を先導して走るディアスは、目の前を横切る農道の上へと一目散に駆け上がり、後ろからついてくるミーシャらが高い位置に上ってきたときに矢で狙われないように備えていた。その動きには、鎧という重量物を装着している気配は微塵も感じられない。
「急げ、急げ!」
ディアスに急かされ、ミーシャ、リリィ、ひぃひぃ言っているジェイドに、最後尾のマナスと順番に畑から農道へ、農道から再び畑へと上り下りを繰り返す。
ディアスはその間に、最初の矢が飛んできた方角を見やった。
果樹畑は既に矢で射られた農夫たちが息絶え、無数に地面に転がる地獄絵図と化している。まさに悪夢とでも形容すべき有様であったが、最も不気味な光景は果樹畑よりも向こう側にあった。
薄暗い西の森に面したその原っぱには今、全身白づくめの異形の者たちが無数にぞろぞろと森の奥から溢れ出て、隊列を組みながら果樹畑目掛けて真っ直ぐ行進を続けているところだったのである。その様子はさながら、巣穴から這い出してきた昆虫の大群のようであった。
その彼らが声を揃えて、何度も繰り返し叫んでいた。
「「「モラー!」」」 「「「モラー!」」」 「「「モラー!」」」
遠目に数えてざっと二百人ほどはいそうなその軍団が、歩調をぴったり合わせながらただひたすらそれだけを合唱して行進してくる姿は、薄ら寒さを感じずにはいられなかった。
ディアスは最後尾にいたマナスが背後を通過したのを察知すると、自身も急いで農道の斜面を駆け下り、走る一同の先頭へと舞い戻った。
徐々に町の入り口が近づいてきた。ディアスは背後の仲間たちを鼓舞するつもりで叫んだ。
「あと少しだ、みんな頑張れ!」
しかしそう言った直後、彼らが目指している町の中から、微かに悲鳴と怒号、それに混じるかたちで何かの破砕音らしきものが聞こえてきた。ディアスはそれで咄嗟に、町で何が起こったかを悟った。
「……クソ、間に合わなかったか?」
そしてディアスがそう呟いたのとほぼ同時に、突然走り続ける一同の左手から甲高い奇声がしたかと思うと全身真っ白な細身の人影が数体、農道の向こう側から跳躍しては着地するのを繰り返し、あっという間にディアスらの周囲を取り囲んでしまった。
否応なくその場で立ち止まらされたディアスらの目に映ったのは、見れば見るほど不気味としか言いようのない異形の怪物たちの姿だった。
それらは、一見すれば鎧兜を装着しただけの普通の人間のようにも思えた。しかし胸や肩、腰など身体の要所を覆っている鎧は、その下に覗いた肌と所々で癒着していて境目が殆んど見当たらない。形状や質感、表面のディティールこそ普通の戦士が装着する鎧に似ているが、この怪人たちのそれは装着しているというよりはむしろ肉体から直接生えてきたようにさえ見えた。
彼らの頭部はほぼ一様に、山型の兜の形状になっていた。正面には縦方向に何本もの細いスリットが開いていて、そこから人間とは思えない白濁した眼が覗いている。
そして何よりも彼らを特徴づけるのが、その全身が、鎧兜はもちろん細身かつ筋骨粒々とした素の肉体の部分に至るまでの一切が、限りなく白みがかった灰色一色に染まっている点である。塗装したというレベルではなく、肉体そのものがそもそも真っ白なのである。その色彩ゆえか、どれだけ動き回っていても生々しさが感じられず、そのことがまた怪人たちの不気味さを強調するのに一役買っていた。
「「「モラー!」」」
画一的な外見の怪人たちは右手に持った武器を天に掲げ、声を揃えて高らかにそう叫んだ。その手にしているのは持ち手の両端から鋭い刃の突き出た形状の、小型で左右対称な武器である。その名も『独鈷杵』という。
たとえどれだけ気味の悪い容姿をしていても、独鈷杵を掲げ、この掛け声を上げている様子を踏まえれば、彼ら怪人たちの正体は容易に推察することが可能であった。
「「「モラー!」」」
マナスはディアスとともに武器を構え、周囲に群がる怪人たちを警戒しながら訊ねた。
「ディアス殿、こやつ等やはり――」
「――あぁ間違いない、モラー派の騎士団だ!」
「「「モラー!」」」
叫び声とともに数体の白い怪人が飛び掛ってきた。
ディアスは瞬時にその剣を左腰の鞘から引き抜くと、攻撃をかわすと同時に自分の左前に着地した敵の鎧が途切れた部分に狙いをつけ、振り上げた剣を右斜め上から一挙に叩きつけた。全身真っ白の怪人が肩から脇までを袈裟懸けに斬り捨てられて、潰れたような呻き声を漏らしながらその場に倒れた。
ディアスは咄嗟に敵を切った剣の切っ先を見た。ほぼ間違いなく鎧の隙間を捉えたはずなのに肉を切ったような感触はそこにはなく、切っ先には全くと言っていいほど血は付着していなかった。かたびらを着込んでいるのかとも一瞬思ったがそうにも見えず、やはり何かがおかしい、と思いながらディアスは次の敵を迎え撃った。
一方、マナスも奮戦していた。体勢低く飛び掛ってきた敵の怪人を、跳躍し、その長杖の一振りを浴びせて地面に叩きつける。
「ホゥアター!」
攻撃を繰り出すたびに、マナスはそんな威勢のいい掛け声を発した。杖を振り回すたびにする、風を切るひゅんひゅんという音が耳に心地よい。
リリィも負けてはいなかった。襲い掛かってくる敵を避けつつ、要所要所でバネのような身体を駆使しては、そのしなやかな肢体を怪人たちの急所に叩き込んでいく。そして時折、地面を転がっては刺さっている矢を引き抜き、
「やあっ!」
肩にかけていた弓につがえ、きりきりと引き絞っては目にも留まらぬスピードで至近距離の敵に撃ち込んでいる。そう、彼女の本分は弓であった。尤も、どういうわけか矢を一本も持っていなかった現在の状況では、敵が撃ち損じたものを回収して使うしかなくなっている訳だが。
そしてジェイドはというと、
「ひー!」
相変わらず悲鳴を上げていた。ミーシャと自分自身の身を守るのに必死になり、襲い来る敵の攻撃をその巨大な盾で跳ね返している。しかしそれでも、たまに跳躍した敵が頑丈な盾に体ごと激突しては地面に落下して伸びていたりするので、これはこれで凄い。
と、ジェイドの様子に気がついたディアスが、目の前の敵を切り倒して言った。
「ジェイド今だ、『トルネード』を使え!」
「えーっ!?」
先ほどと同じく青い顔になるジェイド。躊躇っているのは明白だった。それでもディアスは構わずに叫んだ。
「いいから使うんだ! この場を逃げ切るにはそれしかない! ジェイド!」
ディアスに再三促されて、ジェイドはそれでも尻込みしているようだったが、他の三人が倒しても倒しても際限なく周囲に集まってくる白づくめの怪人たちの姿を見て観念したのか、ついに半ばヤケクソ気味になって円盾の裏側に右手で触れ、呪文を詠唱した。
「………と、『トルネード・オン』だナーッ!」
ジェイドが声を振り絞ってそう叫んだ途端、その腕に装備していた円盾の周囲に漂う空気が不意にゆらゆらと揺らぎ始めた。そして何秒と経たないうちに、盾の外向きの部分から横倒しになった竜巻のような猛旋風が吹き出し、その行く手にあるもの全てをことごとく吹き飛ばしていった。当然その中にはモラー派の怪人たちも混じっていて、何が起きたのか把握した頃には、既に彼らの体は宙を舞ってしまっていた。実に恐るべき暴風の魔術である。
しかし自身の腕からそんな凄まじい魔術を発生させている張本人はといえば、
「と、止まらないんだナー!」
術が思ったより強く発動されたのか、全力でパニックを起こしていた。必死に術を制御しようとしているが、盾から発生する小竜巻に腕が振り回されて敵を吹き飛ばすに飽き足らず、背後で戦う仲間たちをも巻き込みそうになっていた。
自分の真後ろを風の渦が通過していったリリィは一瞬遅れて慌てて飛び退り、危うく巻き込まれるところだった自分の長くて黒い髪の毛を押さえながら地面にしゃがみ込んだ。
「ちょっとジェイド、危ない!」
しかし、もはや当の本人は術に振り回されて目を回してしまった様子で、完全に制御不能に陥ってしまっていた。
流石に見かねたのか、ディアスが風の渦を潜り抜けてジェイドの元へと辿り着き、盾の裏側をまさぐって、そこに描かれている魔術のスイッチを止めにかかろうとしていた。流れるような赤い草書体で記された天梵文字の呪印こそ、まさにそれである。それに触れて唱えることで、ジェイドも『トルネード』を発動したのである。
何度か盾から吹き出る竜巻に吸い込まれそうになりながらも、ようやく盾の裏に描かれた天梵文字の表面に触れたディアスは、大声で叫んだ。
「『トルネード・オフ』!」
何度目かの試みの末、荒れ狂っていた風が吹き止んでいくと辺りは急速に静かになった。すぐさまジェイドはその場で仰向けに倒れ、術の暴走が収まったことを知ったディアスも同じく疲れきったようにして座り込んだ。術を発した本人は、既に目を回して気を失っていた。
少し離れた場所から、リリィが慌てて二人の側に駆け寄ってきた。
「ディアス、ジェイド、大丈夫!?」
「私は何とか無事だが、ジェイドが……」
そのとき地面に倒れているジェイドの体の影から、それまで彼の傍で守られていたミーシャがひょっこりと顔を出した。先ほどの『トルネード』の暴走でも、なんとか被害を免れていたようだった。
ミーシャは周囲を見回しながら、不安げな声を上げた。
「ディアス、リリィ、周りを見て」
そう言われて、二人が横たわったジェイドから顔を上げると、既に周囲は白づくめの怪人たちによってじりじりと包囲網を狭められ、一同は完全に逃げ場を失っていた。杖を眼前に構えた体勢のマナスが、ディアスらのところへゆっくりと後ずさりしてきた。
「ディアス殿、万事休すですぞ」
言われなくてもディアスにも分かっていた。ディアスは鞘に収めた剣の柄から手を離し、ゆっくりと両手を頭上に掲げた。
* * *
昼時を過ぎ、はるか頭上の枝葉の間から降り注ぐ日の光も徐々に弱々しくなっていく中、灰色の砂利を敷き詰めた狭い歩道を俯きがちに歩くアステルの耳に、どこか近くの路上からまだ十代に届かないぐらいの幼子たちの楽しそうにはしゃぐ声が聞こえてきた。何の憂いも無さそうな彼らの純粋な笑い声を聞いていると、アステルの胸中にはかつてまだ幸せを感じられていた頃の記憶がじわじわと甦ってくる。
だが今のアステルにとってそれは、自分の置かれている救いようの無い現状を再認識させ、苦痛をより一層強めてしまう類のものでしかなかった。
アステルは胸の奥に感じる痛みを誤魔化すように渋い面になりながら、目の前で横倒しになった大樹の幹を見上げ、その側面に設けられた自宅のドアの前で静かに立ち止まった。
アステルが住む家は樹高百メートル級のサロマニア杉の古い倒木を利用した、この国ならではと言える集合住宅の一室にあった。その構造は、学校などと同じくサロマニア杉の内部をくり抜いた部屋が、横倒し状態の幹を利用して七世帯ほど連なっているもので、二階建てであることを除けば一種の長屋と考えて差し支えなかった。幹の側面には沢山の木製のドアが連なっていて、目の前にあるひとつを開ければもう我が家である。
それだというのに、アステルにはその簡単な動作が何よりも憚られた。いっそ、このまま帰らない方が良いのではないか。そんな感情がふとアステルの頭の中をよぎった。
でもそれはほんの一瞬のことで、アステルはすぐに考えを改めた。
そう、今この家に入らなかったからといって現実は何も変わりはしない。他に行く場所もない。少しばかり躊躇ったとて、結局は帰宅の時間が僅かに遅くなるだけの話なのだ。
自分風情の抵抗などは意味を為さず、他者から一片たりとも価値を見出されることは無い。そのことはアステル自身が、我が身をもって幾度となく経験しているはずだった。
アステルは己に対して半ば強引にそう言い聞かせると、心底気が進まないのを押し込めて眼前にある薄い木製のベージュ色のドアを開け、その内側へと苦しみながら足を踏み入れた。
「ただいま」
かたちだけの挨拶。どうせロクに返事も返ってこないだろうと知りながら止めないのは、単に殆んど習慣化しているからだろうと思うことにしている。アステルは適当に靴を脱ぐと、のろのろと玄関横の階段へと歩を進めた。二階の自室へ直行する算段であった。
すると突然頭上からどたばたと足音がして、誰かが物凄い勢いで二階の廊下を駆けてくるのが分かった。何が起きているのか、アステルには殆んど一瞬で見当がついた。アステルは軽く痙攣を始めた眉根を指で押さえながら、深く深くため息をついた。
アステルがその場に立って黙って目の前の階段を眺めていると、やがて腰まで届くようなブロンドの髪を揺らしてツンとした表情の女の子が一人、やたらと勢い込んだ様子で階下目指して走り降りてくるのが見えた。
その少女はアステルよりもやや背が低く顔つきや体格にも幼さが見られたが、その反面目が異様に据わっており、せいぜい十三、四歳といったところである。
また、少女はひどく豪奢な身なりをしていた。
着ている服は絹のような極めてなめらかな材質で、スカート部分が膝ぐらいまでしかないミニドレスに仕立てられている。その各所には別の素材が用いられる形で白いフリルが無数に取り付けられていた。腰の近くにほどこされた刺繍は、その髪の毛の色と同じ、金色の糸で描かれた一輪の百合の花である。
ロング気味の金髪は両耳の脇あたりから後頭部へと流され、頭頂部にはめた黒っぽい色のカチューシャで押さえられている。カチューシャには、透明で丸い形のガラス細工が横向きに一定の間隔で幾つも取り付けられていた。
少女の格好は、一言で言い表すならば「姫」であった。この質素で、もっと言えば汚くて貧乏そうな家には余りにも似つかわしくない雰囲気。一体この少女は誰なのか。
その答えは、すぐに少女自身が口にすることとなった。
もう殆んど階段を降りかかっていた少女は、その気の強そうな釣り目で玄関にいるアステルのことを睨め付け、さも詰まらなそうな調子で呟いた。
「ああ、お兄ちゃん?」
そう、この少女はアステルの妹・イルルカであった。
しかしどうして、お世辞にも二人の容姿は似ているとは言い難かった。何よりも髪の色が違いすぎる。アステルが純然たる黒髪なのに対し、イルルカの方はよく目立つ金髪である。世の中、こんなに似ない兄弟というのも珍しい。
アステルはというと自分の妹が二階で何をしていたか大方の見当がついていたため、早速彼女に向かって咎めるような視線を送ると、軽く腹を立てながら話しかけた。
「イルルカ、俺の部屋に勝手に入るなっつっただろ」
「お兄ちゃん、部屋に監視用の術でも仕掛けたの? 気持ち悪いんだけど」
「んなモン必要ねぇだろ。いつもいつも、勝手に入ってるくせに何を今更……」
アステルは、やや苛立った調子を隠さずにそう言った。それでも妹のイルルカは悪びれる素振りすら見せることはなく、そこに二人の関係性が如実に現れているともいえた。
アステルは、返答の内容を予測しつつもあえて訊ねてみることにする。
「……お前、また俺の部屋の物あちこち勝手に動かしたんじゃないだろうな?」
「元に戻せばいーじゃん、そんなの」
「そういう問題じゃねぇだろ!」
さも当然のことのように返したイルルカの勝手極まりない物言いに、嫌な予感が的中した疲労感も相俟ってか、アステルは自然と語気を荒げてしまう。それでも、すぐに怒りよりも疲労感の方が勝ったため、アステルはこれ見よがしにため息をついてみせると、イルルカの脇を通り抜けて階段を上へと上り始めた。
一方イルルカはといえば、益々アステルに向かって突っかかってこようとしていた。
「何その態度? それでも兄なの! 私が可哀想だと思わないの!」
聞けば聞くほど無茶苦茶な言い草であった。
可哀想だとか自分で言うなよと一瞬言い返しそうになるアステルだったが、どうせ余計に逆上するだけだと知っているので適当に返事をしつつ後は構わないようにした。イルルカはまだ何事か喚いているが、間違ってもまともに取り合ってはいけない。
すると、そのとき急に一階のキッチンの方で扉を開ける音がし、誰かが廊下を歩きながらイルルカに近づいてくるのが分かった。この足音の具合に該当する者は、一人しかいない。
アステルは立ち止まる必要性を感じずに、また必要があったとしても絶対に止まってやるものかとも思い、そのまま何事もなかったかのように黙々と二階へと歩を進めていた。
階段の下で、イルルカの打って変わって明るい声がした。
「ママ!」
「イルルカ、いいから早く、ガーゴイルにお祈りしなさい」
「はーい!」
イルルカがそう元気よく返事をするのが聞こえた。
鞄を掴むアステルの手に、自然と力が篭められた。間違っても、今割り込んできた女性の声を助け舟などとは思うまい。
アステルが恐るおそる戸を開け自室に入ってみると、思ったとおりの悲惨な状況になっていた。真っ先に目に入ってきたのは、床に散らばる大量の紙くずと鉛筆の数々である。自分が机の引き出しにしまっておいた原稿用紙を勝手に引っ張り出してきて使っていたらしいが、あのイルルカが一体何を書き記すことがあるというのだろう。
小物箪笥の上に並べて置いておいた、首都サロマニアで入手した模型の数々は、アステルの記憶とは全く違う配置に並び替えられていた。一部はベッドの上にまで放り出されている。
極めつけは本棚で、大小併せて二百冊ぐらいあるアステルの蔵書が、模型らと同じく今朝見たときとは全く違う配列へと並び替えられていた。さっき部屋に入って一目見た瞬間から妙な違和感を覚えていた、その原因がこれである。アステルは思わず鞄を床に叩き付けそうになった。こんなことをしてイルルカに一体何の得があるのか、さっぱり分からない。
しかしそうなる寸前、閉じたドアの向こう側から誰かが階段を上ってくる音がして、アステルは振り上げた腕をその場で静止させゆっくりと脇に下ろした。この足音の主がアステルの想像通りならば、その人物には自分が怒りを露わにしている様を見せたくはなかった。
やがてドアの前で足音が止まったかと思うと、当然のように室内にはノックの音が響く。それでもアステルは唇をキッと結んだまま一切の音を立てず、ドアの正面を睨みつけながら次に相手が発するであろう台詞を待っていた。
そうして遂にドアを隔てた向こう側から、アステルを苦しめるその根源がやってくる。
「ねぇアステル、帰ってきて早々こういうこと言うのもなんだけどさ、あの子だって辛いんだから、あんまり怒らないであげてよ」
それは正しくアステルの母、ナディア・フレイスの声であった。
アステルは刺々しくなりそうな声を抑制するのに必死になりながらも、次の言葉を紡いだ。
「……可哀想だから、何をしても怒るなって?」
「だってあの子は、あなたほど頭がいい訳でもないのよ。自分に自信が持てないの。学校で友達にいじめられて、家でお兄ちゃんのあなたにまで馬鹿にされたら居場所が無いじゃない。嫌なことかもしれないけど我慢してあげてよ」
と、母ナディアは一見至極真っ当そうなことを言った。
だが部屋の真ん中に座り込んでいたアステルはそれを聞いて、自分でも気付かないうちにフッと鼻で笑っていた。
“頭がいい”。
それはアステルの知る限り、ナディアの口から出てくるには余りに滑稽な台詞であった。
尤も本人には聞こえていなかった様子で、もし仮に聞こえていたとしたらすぐにでもこの部屋の中に乗り込んでこようとするだろう。そもそもアステルに言わせれば、頭がいいから自信満々になれるとか、いじめられないだとか、そんなに事は単純ではない。
なのでアステルが何も返事をせずに黙っていると、それを勝手に了解のしるしとでも受け取ったのか、ナディアは穏やかになだめる様な口調になって言った。
「……辛いことがあったら、ガロンの教えに頼りなさい。主は全てを見ていてくださるわ」
その言葉を聞いた瞬間、アステルの心臓が一気に飛び跳ねるのが分かった。たちまち動悸がするようになって正体不明の寒気が全身へと広がるとともに、気分が悪くなって頭の中が整理できなくなる。
アステルは慌てて自分の胸元を押さえると必死で呼吸を整えようとしながら、まだ気付かれてもいないのに取り繕うかのように言った。
「――いいよ、別に、俺はそんなの!」
自分でもひどくうわずっているのが分かる、不自然に大きな声だった。間違いなく異変に気付かれたと思った。ところがナディアがそこで反応したのは、もっと別の部分に対してであった。
「……あのねぇアステル、あなたは勉強を頑張っているのかもしれないけど、人間にとって最も大切なものを忘れていないかしら?」
アステルの返事の不自然さには、触れさえもしなかった。
ナディアがその先に何を言うのかは予想済みだった。むしろ断言してしまっても構わないぐらいである。本人に自覚は無いが、これまでにこれと似たような会話の流れになった時、今のと全く同じ台詞が飛び出してきたことが何度もあったからだ。そしてどの場合でも、次に来る“解答”は完璧なまでに一緒であった。この母親は、驚くぐらい自分の過去の発言を憶えていないのだ。
聞きたくないとアステルは思った。心の底からやめてほしいと願った。
しかしナディアは例によって散々勿体つけた後で、もう聞き飽きたというレベルすら超越していたその決まり文句を口にした。
「主を崇めることよ。もっと言えば、ガロンの教えを学ぶことね。そうしなければ、人間の持つ生命は光を放たないわ。いいこと? ガロンの教えを離れてはいけないのよ」
ナディアのその言葉はアステルの耳に入ってくるようで、全く入ってこなかった。
アステルの全身を容赦なく襲う動悸と寒気、そして吐き気を催すほどの異様な不快感は、時間とともに増大してアステルから見る見るうちに冷静な思考力を奪っていった。と同時に胸の奥に生じた強烈な圧迫感が、アステルが息をすることさえ許さなくなっていく。
それは、つい今朝方悪夢から目覚めた瞬間の状態に近かった。
アステルはもう何も分からないまま、とにかく今ある状態から解放されたくて、まだ何かをとうとうと論じている母親の話を遮るかたちで声の限り叫んでいた。
「――もういいって言ってるだろ!」
一瞬のうちに全てが沈黙へと変わり、アステルの部屋はたちまち静寂に包まれた。
アステルは自分でも知らぬ間に両手で耳を塞ぎながら、頭を抱えていた。アステルの呼吸はまるで全力疾走した後のように荒くなり、軽く吸ったり吐いたりするだけで喉の奥が掠れてゴーゴーという嫌な音が立った。
ドアの向こう側でも少しの間沈黙が流れていたが、やがて全て理解したかのように、
「……なんなの、その言い方? あなたのために言ってあげてるのが分からないの?」
そう言うナディアの声色は、まるで今までの会話など一切無かったかのように冷たく温かみのない調子に変わっていた。どうしてこれほど急に態度を豹変させられるのか、アステルには分からなくて怖かった。
「そもそも、あなたぐらいの年齢なら普通は率先して、主に祈りを捧げているべきなのよ。それなのにあなたは、イルルカが頑張ってるのにまるで自分だけ関係ないみたいに――」
アステルは必死になって耳を塞ぎ続けた。馬鹿馬鹿しいとは分かりつつも、ナディアの口から際限なく溢れ出す非難の言葉の数々を、真正面から受け止められるだけの気力が今のアステルには足りなかった。早く終わってほしいと切に願った。
現にその責め苦は、まもなく終わりを迎えようとしていた。ナディアが決定的なひとことを告げたからだ。
「――そう、ならいいわ。今夜は夕飯抜きでいいわね」
最後にそう言い放つと、ドアの向こうのナディアは聞こえよがしにガンガンと足を階段に叩きつけながら大きな音を立て、さっさと階段を下りていっては一階のキッチンのほうへと去っていってしまった。
心なしかナディアの声は、今朝の悪夢に登場したものとよく似ている気がした。
部屋の周囲で音がしなくなってしばらく経ってからも、アステルはいつまでも止む気配の無い動悸と悪寒に一人じっと耐えながら、黙って目の前にある本棚を見つめていた。
視線の先には、イルルカが唯一その場所を弄らなかった本がある。表紙がこげ茶色をした、ひどく古めかしい装丁の一冊だ。それは何も古びた結果そうなったのではなく、ガロン派の解釈で書かれたものなので、背表紙などもそのシンボルカラーで統一されているだけである。
アステルは無意識のうちに、その本を棚から取り出していた。
アステルが見下ろしているその分厚く茶色い表紙の表面には、コントラストを生じさせる深緑色の塗料で巨大な大陸のシルエットが描かれている。アステルたちの住むこの世界――『ヴァース』の簡略図とされているものだ。表紙の上側には金色の文字で『星書』とあり、それは正しく、この世界の創世神話を記した聖典なのであった。
それに拠れば主神『ステラ=マスター』――“星の支配者”とも呼ばれる存在が、今から三千年前に地上に降り立ったときにこの世界は始まったのだという。
ステラ=マスターはそれまでの穢れた世界を滅ぼし、全部で五つの武器と石のガーゴイル、そして天梵文字を人類に与え、ヴァースを成立させた。このステラ=マスターと彼が率いた“星の民”を神として崇拝するのが星の教団――『ステラ教』なのだ。
しかしステラ教は、決して一枚岩の組織ではない。ステラ=マスターの与えた象徴である六つの中からどれを至上とするかによって解釈が割れ、その結果、成立から現在までの間に教団は――ひいては世界は、大別して六つの宗派に分裂してしまっていた。
根本となる教典を同じくしながら、互いを互いに破門しあい、自分たちこそ真に神の意思を継ぐものであると主張しながら現在に至る。それがアステルが知るこの世界の、三千年に渡る歴史の骨子であった。
アステルは適当に開いた星書の一ページに目を落としながら、その端を持った手にぐっと力を込めると、そのまま苛立ち紛れに部屋のドア目掛けて投げつけた。すぐに紙のつぶれる音がしてドアの表面に聖典が張り付き、一瞬間を開けて床へと落下する。
何がステラ教だ。何がガロン派だ。アステルの心中は怒りで満ちていた。
母親も教師も、ただ取り憑かれたかのようにそればかりを連呼しては人の話を聞こうともせず、疑問を抱く者に対しては容赦なくレッテルを貼って喚く。あのシドーですら、ある意味ではその派生のようなものである。アステルの周囲にいるのは、殆んどそんな人間ばかりであった。
今大きくため息をついたアステルには、この世界は狂っているとしか思えなかった。
ガロン派が、“真なる星の教え”として大々的に掲げる教義。それに対し、ガロン派を国教としているはずのこの国の政策との矛盾。母親や、学校の教師たちの言動との矛盾。そして、ガロン派が宇宙で最高の教えであるという根拠への疑問。そのいずれにも、アステルの周囲の大人たちが答えてくれたことは一度も無かった。
どうして自分はこんな国に生まれたのか。アステルは、今更ながらにその不運さを呪った。
だがしかし、一方ではそんな自分自身の立場を冷ややかに見下ろす視点も、アステルは持ち合わせていた。
分かっている。彼らからすれば、アステルこそが異常な人間なのである。その理由は簡単なことで、すなわち“ガロン派は真の教えだから”だ。彼らにとってはそれが全ての答えであり、それ以上は考える必要など無いのだ。
それに他の国に住む同年代の人間よりも、アステルのいる環境が恵まれているらしいのは事実であった。徴兵されることはない。無償で教育は受けられている。“親”もいる。そうだ、いるだけで、幸せなことなのだ。
そうでなければ、許されないのだ。
そこまで考えてからアステルの脳裏にふと、先ごろ学校の裏手で出会ったあの明るい若葉のような髪の色をした少女の姿が思い浮かんだ。
あれほどハッキリとした緑色の髪の毛を持った人物を、アステルはこれまで見たことがなかった。町の人間ではないだろうが、一体どこから来たというのだろう。
彼女は、母親を嫌いだというアステルのことを非難していた。母親とは優しく、思いやりのある存在であると。本当にそうなら、どんなに良かったことだろうかとアステルは思った。
「……立派な母親でうらやましいね、まったく」
それは特に考えるでもなく、アステルの口をついて出てきた言葉だった。
アステルが床に座り込んだままベッドの縁に寄りかかり、ぼうっと部屋の天井を見上げていると、すぐ外の砂利道に誰かが走ってくるのが聞こえてきた。
足音には複数名のものが混じっていて、やけに大勢のように聞こえたが、近所で遊ぶ子供たちのものにしては妙に音が大きいような気もした。
すると突然、一階の方からガラスの割れるような大きな音がして、床の下からナディアとイルルカのつんざくような悲鳴が聞こえてきた。続いてどかどかと室内を踏み荒らすような足音とともに、聞き覚えの無い奇怪な掛け声が発せられる。
「「「モラー!」」」
「!?」
アステルは一瞬何事かと思い、即座に立ち上がるとなるべく音を立てないようにして窓の側に駆け寄った。注意して聞いてみれば他の家からも、幾度となく物を叩き壊すような音が上がっているのが分かった。
最初に目に入ったのは、近所に住む見覚えのある大勢の人々が、大人子供を問わず必死の形相で逃げ出してきている光景だった。あちこちの家から人が飛び出してきて道を右往左往している様子は、まるで何かの襲撃を受けているようである。
眼下で繰り広げられる余りにも急な事態にアステルが戸惑いを隠せずにいると、不意にアステルの目に遥か遠くの路上にて見慣れた格好をした何人かの男たちが、全く見覚えの無い、全身白づくめの不気味な姿の怪人たちと何かやっている光景が映った。
ついクセで目を細めてしまうが、そこまで目を凝らさなくとも、その男たちが誰なのかは大体すぐに見当がついた。何せ、今からちょっと前にえらく世話になった連中である。
謎の怪人たちと一緒に、シドーとその取り巻きたちがいた。
一体何の話をしているのかは分からないが、少なくとも対等な関係であるようには見えない。学校の制服を着た人間は取り巻きも含めて全部で四人だけだが、その最前列に出ているシドーは、さっきから常に揉み手をしては媚びへつらう様な笑みを浮かべ、怪人たちに頭を下げて続けていた。普段は学校で王様野郎の如く傍若無人に振舞っているくせに、今は実に情けない姿である。
そうやってアステルが遠くにある光景を眺めていると、床の下から乱暴にドアを開ける音が聞こえて、まるで誰かの引きずられるような物音がした。咄嗟に我に返ったアステルは気付かれることがないよう慌てて窓の下にしゃがみ込むと、階下から聞こえてくる音にそっと耳をそばだてた。真っ先に耳に入ったのは、イルルカのギャンギャン喚く声だった。
「きゃー! きゃー! きゃー!」
「ちょっと止めなさい、止めなさいったら!」
ナディアの声も混じっている。アステルは息を潜めて外の様子を伺っていたが、やがてこの家にいた人間が自分以外は全員、恐らくは、あの全身白づくめの怪人たちの仲間によって連れ去られたのだということに気付き始めた。
アステルはゾッとしながらも、少しだけ頭を窓の外が見える位置に移動させて、外の様子をより正確に把握しようと試みた。
アステルの予想通り、家の外の道を何人もの人たちが、真っ白な灰のような色の鎧に身を包んだ異形の者たちに捕らえられ、次々と町の広場があるほうに連行されていた。同じ長屋に住んでいる住民も、中に何人もいた。
アステルは何も出来ないまま、彼らが連れて行かれる方角を確認した。