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第01話 ガルギオン誕生・前編

 この世界はかつて穢れていたという。



 ある日、星の神々が降臨したことで清浄な世界へ生まれ変わったのだという。



 それではいったい、



 それまでの世界は、どうして穢れていたのだろうか。



 それは、真の教えを知らなかったからよ。と、彼女は言った。

 俺は、真の教えとはどういうことなのか、と訊ねた。

 彼女はその顔に満面の笑みを浮かべながら、ガロンの教えこそがヴァースの人間に主が授けられた最高の教えなのよ、と言った。その表情に、微かばかりも迷いは見えなかった。

 俺は彼女に、どうしてガロン派が最高の教えなのか、と問うた。

 彼女は相変わらず笑顔を湛えたまま、変わらぬ口調でこう答えた。

 かつて主がこの地に降り立ったとき、その腕に六つ、それぞれ携えていたのが剣、(しゃく)(じょう)、弓、(たて)独鈷(どっこ)(しょ)、そして下僕である石のガーゴイルの手綱なのよ。

 人間は主が授けた様々な武器をその手に取り自分たちの象徴として崇めたけれども、石のガーゴイルだけはいつまでも主の側に置かれたのよ。

 主がこの世界に幸福と平穏を与えつくし、その役目を終えられたとき、最後に自分の側にいた石のガーゴイルに触れ、こう仰せになられたのよ。

 偽りの命でしかなかったお前に、今日から本当の心と血と肉を与えよう、と。

 そうして主がその手を離されたとき、石のガーゴイルの中には鼓動が生まれ、息をするようになっていたの。ガーゴイルは自由の身となってこの世界に放たれ、いつまでも幸せそうに暮らしたということよ。

 だから、こうして主に最も深く愛された石のガーゴイルを讃えている私たちガロン派だけが、この世界を真に幸福に導くことの可能な素晴らしい教えを知っているのよ、と。


 俺はしばらくの間黙ってから、思ったことを正直に口にすることにした。

 どういうことかよく分からない、と。

 彼女は一向に変わらぬ笑みを浮かべながら、再び口を開いて話を始めた。

 だからね、かつて主がこの地に降り立ったときに、その腕に全部で六つ、それぞれ讃えていたものが……。

 そうして彼女は、先ほどと同じ説明を、全く同じ調子で繰り返した。

 俺は、やはり分からなかった。

 そしてもう一度、イチから説明してくれるようにと彼女に頼んだ。

 彼女は少し困った様子になっていた。

 だから、いい? かつて主がこの地に降り立ったときに……。

 そうして彼女は最初のと殆んど変わらぬ説明を、まるで当たり前のことであるかのように、始まりから終わりまで同じように繰り返してみせた。


 しかし三度説明を繰り返されても、俺はどうしてもよく分からなかった。

 俺は彼女に向かって、素直にそのことを白状した。

 彼女は、若干苛立つ様子を見せ始めた。声にトゲが含まれ始めたのだ。

 どうして? どうして、こんな簡単なことがすぐに理解できないの? ねぇ、どうして?

 そう呟きを漏らす彼女の表情にも、徐々に不機嫌さが目立ち始めていた。

 俺はとうとう諦めて、分かった、もういいよ、分かりましたから、と渋々そう言った。

 彼女はますます不愉快そうな表情になって、よくないよ、分かりましたからってちっとも分かってないじゃない、もういいよって一体なんなの、ねぇ、聞いてるんだけど、と俺に向かってしつこく詰め寄り始めた。

 俺は思わず閉口した。一方、彼女はあろうことかそれまでと全く同じ内容の説明を、もう一度最初からやり直そうとした。俺は、もういいってば、と言ってそれを遮った。

 彼女は益々憤った様子になり、もういいって一体なんなの、誰のために言ってあげてると思ってるの、いいからちょっとそこへ座りなさい、と再び俺に詰め寄ってきた。

 俺はそんな彼女を強引に押し戻すと、自分でもやや苛立った口調になって言い返した。


 それでは何故、ガロン派は戦争をするのか、と。

 言っていることとやっていることが矛盾しているのではないか、と。

 彼女は憮然とした顔つきになって、矛盾なんてしていないわ、と言った。

 どうしてだ、と俺は問うた。

 人々に真の教えを伝え広めていくことこそが主のお望みになったことだからよ、と彼女は僅かばかりも躊躇うことなく言ってのけた。

 だから何を以って真の教えと定義するんだ、と俺は彼女に聞き返した。

 さっき説明したばかりじゃないの、と彼女は悪びれることもなく平然と言い放った。

 あれじゃ説明になっていない、と俺は言い返した。

 すると彼女は俺を睨みつけ、どうしてそんなにガロンの教えを否定したがるの、と問うた。否定したいんじゃない、理解できるように説明して欲しいだけだ、と俺は答えた。どうしてあれだけ言っても理解できないの、と彼女は言った。

 そして更に俺に向かって、いい子ぶるのはやめて素直になりなさい、と言い放った。

 その言葉を聞いた俺は、完全に黙り込んだ。


 彼女は畳み掛けるようにして、お前はいったい誰のお陰でここにいられるんだ、いつからそんな不愉快な子になったんだ、と言った。

 ガロン派が真の教えであることと、それに何の関係があるんだ、と俺は憮然として言った。

 ガロン派云々は関係ないわ、あなたがヘンに捻くれたことばっかり言ってるのが私は頭にくるの、と彼女は言った。

 彼女は口を真一文に結び、いかにも怒っている風な眼差しで俺の顔を見ていた。

 彼女は、自分は決して間違ってなどいないと信じている様子だった。

 とうとう彼女の顔を見続けることに耐えられなくなった俺は、大きなため息をつくと同時に踵を返すと、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で呟いた。


 結局どこの宗派も、五十歩百歩ってことなんだな、と。

 

 突然、後ろから右肩を掴まれて強引に振り向かされたかと思うと、平手が飛んできて俺の右頬を打った。乾いたような音が辺り一面に広がって消えていった。

 俺は若干よろめいてから自分の頬を押さえると、黙って目の前の彼女を睨みつけた。

 一方その彼女も、いかにも悔しそうな目をしながら俺のことをキッと睨み返していた。

 そして、間髪いれずに大声を上げて怒鳴った。


「なんで、そんな恩知らずになった!」


* * *


 その瞬間、アステル・フレイスはベッドの中で目を覚ました。

 飛び起きた拍子に、被っていた毛布が肩から腰のところまで一気にずり落ちてきた。冬とはいえ一晩中寝具に包まり、更に熱魔法の魔符まで毛布の内側に仕込んで万全の状態で寝ていたはずなのに、何故か目覚めたそのときから全身には凄まじい寒気を感じ、年頃の男子にしてはかなり華奢に見えるその身体は、絶え間なく襲ってくる激しい震えに苛まれていた。それは決して、風邪などではなかった。

 アステルはその両手をそれぞれ反対側の肩に回すと、自分で自分を強く抱きしめるようにした。胸の奥が、今にも張り裂けるかと思うぐらい激しく音を立てながら脈打っていた。

 恐ろしく、そして嫌な夢だったとアステルは思った。


 一方で身体中を襲う正体不明の悪寒とは対照的に、そびえ立つ巨大なサロマニア杉の枝葉を縫って部屋の窓から差し込んでくる朝日は暖かで柔らかく、その光から感じられる微かな温もりだけは、まるで冷や水をかけられたかのようになっていたアステルの体をゆっくりとだが融かして、徐々に生身の体温に戻してくれていた。冷たさだけが支配するこの世界で、それはアステルに授けられる唯一のやさしさであった。

 どれほどの時間がたっただろうか。

 はじめは早鐘のように波打っていた心臓は次第に落ち着きを取り戻し、やがて全身に張り巡らされていた目に見えない氷の枝葉も、完全とはいえないまでも融けて消えていた。

 それを確認した瞬間、アステルはその日起きてから初めて息をしたような気がした。

 ひとつゆっくりと深呼吸をすると、ベッドの中から目の前の壁に取り付けられた時計を見上げて、もう学校の始業まであまり時間がないことを確認した。

 嗚呼、とアステルはため息をついた。

 今日もまた、救いのない日常が始まる。だがしかし、そこから逃げることは出来ないのだ。

 アステルは諦めるよう半ば強引に自分自身に言い聞かせると、辛うじて下半身に被さっていた毛布を足下まで押しのけ、ベッドの上からのそのそと、まるで巣穴から這い出す小動物のごとくにじり出た。


 白地のシャツに濃い茶色のブレザーという学校の制服姿に着替えたアステルは、部屋を出ると一階の薄暗いキッチンに直行して戸棚から数切れのパンを取り出した後、ココアを火にくべて温まるようにした。

 陽が昇ってからそれなりの時間が経つにもかかわらず、家の中ではアステルが立てるもの以外、物音ひとつしていなかった。あと二人いるはずの家人は、どうせまだ寝ているに違いない。よしんば起きていたとしても、アステルは彼らと顔を合わせて食事をする気にはなれなかった。ただでさえ気が滅入る一日を、自らさらに憂鬱なものにする理由はない。

 すぐにココアが温まったことを確認したアステルは、それをカップに注ぐとパンを乗せた皿と一緒にトレイに乗せ、二階の自室に持って帰ってそこで黙々と食事をとった。用意から片付けまでが終始独りのこの朝食は、もう二年近くも続いていた。

 蜂蜜を塗りたくったパンは甘ったるいはずなのに、食べても何故かひどく味気なかった。


 そうして朝食をさっさと済ませると、アステルは鞄を持って一階の玄関に赴き、靴を履いて出発の準備をする。アステルはドアノブに手をかけて、背後の廊下を振り向いた。

「……いってきます」

 廊下の向こうにある寝室に形だけの挨拶を贈り、アステルはすぐさまドアノブを回す。

 どうせ返事など返って来ないということは、誰よりもアステル自身が一番よく知っていた。

 ドアを開けた途端、薄暗い玄関には天を支える無数の柱のような木立の合間から降り注ぐ日光と共に、サロマニア杉の巨大樹林が醸し出す独特の濃い甘い匂いが肌を刺すような冷気に紛れて入り込んできた。

まだ、春は面影も見えなかった。

 

 アステルが木製のドアを左にスライドさせると、今朝の授業が実施される十階の一般教室に出た。既に大勢の生徒が登校してきている。内部は天井から降り注ぐ魔術の光で不自然なぐらい明るいにもかかわらず、その光景はどこか色あせて感じられた。

 教室には天井や床を含めた全方位から生きた樹木の香りが漂い、窓からは町の景色が一望できた。アステルは今、巨大なサロマニア杉の幹の内部にいる。

 幹直径二十メートルにもなるこの樹木は極めて頑丈で、幹を多少削られた程度のことではビクともしない。そのため、魔術で内部の空間をくり抜き施設設備を整えることで、天然の巨大ビルディングとして成立するのである。

 始業前僅かな時間で入室したアステルは、どこからともなく浴びせられる、突き刺すような視線をひとつ残らず受け止めながら、この二年というもの固定化されている座席に黙って行って座った。毎朝恒例のセレモニーであった。


 教室のあちこちではアステルと同い年の男女がまばらに集まっては、やたらと楽しそうに取り留めのない会話を続けている。アステルは、そのいずれにも加わることは無い。

 しばらく机に頬杖をついてぼんやりしていると、先ほどアステルが通ってきた教室の後ろの方にいた生徒たちのざわめきが急速に止み、やがて集まっていた生徒たちが蜘蛛の子を散らすように一斉にそれぞれの座席へと戻り始めた。

 いちいち見る必要もない。アステルらの授業を担当する教授がやってきたのだ。それも、今からの授業内容はあの悪名高き『魔術科』であった。つまりは、アステルの大嫌いな授業だということである。

 教授がアステルの数メートル前方にある教壇に辿り着くと同時に、誰が合図するでもなく教室にいた生徒全員が立ち上がって、教授に向かって挨拶をする。尤も、全員どこか気だるそうな雰囲気だった。要するにこの授業が嫌いなのは、決してアステルただ一人ではないということだ。

 しかしその原因を作り出している張本人はといえば、終始その異様な雰囲気に気付くこともないまま、意味もなく無駄ににこやかな笑みを浮かべると教室中の全ての生徒を見回して、元気がないぞと大きな声で鼓舞していた。それに応える者は、誰もいない。むしろ逆効果であるということにそろそろ気付くべきだと、アステルは密かにそう思った。

 

「……よって、この文字とこの文字を掛け合わせることにより、大気中から水を生成することが可能となります。これに更に、前回の授業で教えた、水から気体を発生する術式を重ねれば、双方の効力が相殺して消えてしまいます。天梵術式の、基本中の基本ですねー」


 そう言って、魔術科の教授は本当に不気味なぐらいにニコニコしながら、アステルら生徒たちをゆっくりと見回した。

 だがやはり、それに応える者は誰もいなかった。

 それはアステル含め、この教授の性質を理解している生徒たちにとってはある意味当然の対処で、下手に応答して絡まれることを避けたいが故の、徹底した無反応の態度であった。それをできなかった者がどうなるのか、彼らは既に熟知している。

 が、しかしそれでも、教授本人にはさほど効果が無い様子だった。


「ですが、術で本来期待した効果が発揮されずとも、術の相殺時ならばほぼ必ずと言っていいほど発生するものがあります。さて、それはなんでしょうか。ヒラリーくんー!」


 そう言って教授はキメたつもりなのか、教室のとある一角を左手でビシッと指差してそのまま固まった。教室中に充満する、この白け切った空気はどうやら彼には伝わらないらしい。

 教壇を取り囲むような扇形で、階段状に配置された四十近い座席の中から教授に指名されたのは、下段から二列目の、教授から見て左斜め前方に座っている女生徒だった。ヒラリーと呼ばれた彼女のことは、アステルもよく知っている。アステルは首を右に傾け、ヒラリーのいるほうをチラッと覗き見た。

 ここの生徒たちは全員、アステルが着ているのと全く同じ茶色のブレザーを着用している。その教義において、『土』や『生命(いのち)』を崇めるガロン派ならではの学生服だ。

 指名されてしまったヒラリーは静かにその場に立ち上がると、真面目に淡々と答えた。

「……熱です」

 そう言ってすぐにヒラリーが着席すると、何かを期待するようなつぶらな瞳で彼女を見つめ続けていた教授は、急速に目を細めると満足そうに大きく頷いた。


「はい、その通りです! いまヒラリーくんが言ったように、天梵文字を組み合わせて作った術式では大きいものから小さいものまで、相殺時には必ず一定量の熱が生じます。このことを覚えておかないと、もし万が一複雑な術式を書いた後で、それを打ち消そうとしたときに怪我をする原因になり兼ねません。充分に気をつけましょー!」


 そう言って教授はその場にいた全員を見回しながら、これでもかというほどの満面の笑みを浮かべた。いったい何がそんなに嬉しいのか。アステルにはさっぱり理解できない。

「やっぱりヒラリーくんはしっかりしていますね! ガロンの誇りですね、君は!」

 今の会話の流れで、一体どこにガロン派の登場のする余地があったのだろうか。こういう意味の分からないことばかり言っているから、生徒に信用されないのではなかろうか。

 アステルがヒラリーを横目に眺める視線には、心なしか同情も含まれていた。

 彼女に限らず、教授のお気に入りになった生徒というのは大概真面目な生徒ばかりである。授業のたびに指名されるだけならまだしも、大体は今のように白けきった空気の中で、教授の機嫌を損ねないための高度な応答を要求される。そういう意味でも辛いものがあるのだ。

 アステルは教授に聞こえないよう小さな声で、深く深くため息をついた。


 すると唐突に、アステルの背後でクスクスと押し殺したかのような笑い声が聞こえてきた。

 アステルにとってはこちらも恒例行事であった。ああ、また始まったか、と思うのだが、思ったところでどうにかできるものでもない。元来が理屈の通じない連中であるからに、アステルにとっては最大級に分の悪い相手であった。

 顔を前に戻して後ろを振り向かないようにするアステルだったが、それでも否応なしに声はその耳元へと届いてきた。何せ、真後ろに鎮座ましましている集団である。

「え~、なにシドーくん、なになに、どったの~?」

「べ、つ、に~。たださぁ、ちぃ~っと変だなぁ~と思ってサ~?」

 そう言いながらアステルの背後に座る生徒たちは、キシシと卑しい含み笑いを漏らしつつ会話を続けていた。これで内緒話をしているつもりなのだからお笑いであるが、教室内での彼らの権力を思えば、今更取り繕う必要もないということかもしれなかった。


「真面目気取っちゃってて笑えるんだよネェ、いや、別に誰とは言わないけどさぁ~」

「エヘヘヘ、シドーくん怖~い」

 そう言い合いながら、さかんに下種じみた笑い声を上げて喜んでいる何名かの生徒たち。背後にその声を聞くアステルの表情は、自然と険しくなっていった。

 誰とは言わない、というのは要するに誰のことか言わなくても分かるだろう、というニュアンスである。面と向かって直接言わず、尚且ついちいち周囲の人間に聞こえるように大声で“会話”することによって、露骨さはむしろ増大しているといえる。

 ヒラリーはただ、指名されたから答えたまでのことである。ましてや気取った訳でも何でもない。彼女が悪く言われる理由など、先の状況には僅かばかりも存在しなかった。


 かといって、今この場でそれを堂々と口にしたとて、彼らの嫌がらせが止む可能性は万に一つもありはしなかった。たとえアステル以外でもその結果は変わるまい。それが分かっているから、アステルは自分でも気付かないうちに俯き加減になっていた。ペンを持つ右手が、ギュッと力を込めて握り締められる。

こんなときに一体、教授は何をしているのだろうか。

 答えはすぐに明らかになった。

 右斜め前方で喋っていた教授が、いきなり顔色が変わると同時に怒鳴り声を上げたのだ。

 アステルは思わずビクッと体を縮ませたが、すぐに落ち着きを取り戻した。怒鳴られたのは、別に自分というわけではないのだ。

 だが残念なことに、それは背後で下劣なやりとりを続けているシドーとその取り巻きたちに向けたものですらなかった。怒鳴られたのは、ヒラリーよりも更に後方の席に座っていた別の男子生徒だった。

 教授はなにやらカンカンに怒った様子で、額にシワを寄せて男子生徒の方を睨んでいた。


「おいお前、いま居眠りしてただろう。答えろ……どうなんだ、え!」

 いや、そんな場合じゃないだろうとアステルは思った。怒る順序が明らかに間違っている。こんなことだから、魔術科の授業は生徒たちに嫌われるのだ。

 アステル個人の見解でいえば、魔術科という学問それ自体は別に嫌いでも何でもなかった。多少面倒な計算があっても、世界の理を学ぶというのは面白いことである。たぶんアステルと同じ考えの者も多いだろう。

 どちらかといえば彼らに嫌われているのは、むしろそれを教える立場にある、この教授の人間性の方であった。例えば有言不実行の末の責任転嫁。例えば“教授の権威”を盾にした横柄な振る舞いと事実の歪曲。例えば些細なキッカケによる突発的な不機嫌の発露。

 しかもそれでいて、本当に問題のある対象については気付きすらしないのだ。

 現在の状況に限って言うならば、七、八メートル離れた位置での居眠りを嗅ぎ付ける嗅覚が、その半分以下の距離で行われた陰湿なやりとりに反応しないのは、おかしいとしか言いようがなかった。

「――寝てませんじゃないんだよ、寝てたんだよ。お前は寝てたの! 言い訳をするな!」


 傍から聞いていても、教授の物言いは恐ろしく一方的に感じられた。しかもやたらクドい上に幼稚な言い回しばかりするので、一連のやり取りが気持ち悪いほど冗長に感じられる。文章に直してみたら読みにくいことこの上ないだろう。殆んど目と鼻の先でそれを見せ付けられる自分たちの身にもなってほしいと思うアステルであった。

 そんなこんなで教授のふるう長広舌は維持され続け、その中ではやれその目つきはなんなのだとか、やれ教師を馬鹿にするつもりかと、居眠りそれ自体よりも生徒に対する個人的な攻撃の色合いが強くなってきていた。既に、当初の目的は失われていた。説教の趣旨が二転三転するのを見て、アステルはいい加減にしてほしいと心底思った。

 しかし何よりもアステルが許せないのは、その“豹変”ぶりであった。自分に従順である相手と、僅かでも自分の権威に穴を開けそうな相手とでは、言葉遣いから何までに極端な差が表出する。この上、本人の中では“生徒のために言ってやっている”という何とも恩着せがましい扱いになっているらしく、始末に悪かった。おそらく他の生徒たちにしても意見は同じであったかもしれないが、アステルの場合は特にその感情は強かった。


「いいかお前たち、こうして公の場で平等に教育を受けられるということは、とても恵まれていることなんだぞ。まずそのことをしっかり噛みしめなさい。それも全て、お前たち子供をこの宇宙で最も大切なものとするガロンの教えがあってのことで、その恩恵を受けられているお前たちは第一にガロンの教えに敬意を抱きなさい。他宗ならとてもこうは――」


 そして例により、ガロン派を持ち上げ他宗を貶める内容の演説が始まる。だが今更教授に勿体つけて講釈してもらわずとも、その辺の理屈についてはアステルはいやというほどよく理解しているつもりだった。

 何故ならば、この国の大人たちは皆似たようなことしか言わなかったからである。

 いつ終わるとも知れない教授の大演説は、拷問に等しかった。教授が言葉を発するその度に、アステルは体の上から重石を次々と加算されていくような重圧感と息苦しさを覚えた。それでもある程度は顔を上げ、教授の言葉に心打たれ沈思黙考しているフリをしておかないと、今度は自分が標的になるやもしれず、その点では本当に救いようがなかった。

 アステルは目の前に組んだ両手の細指に視線を落とし、気付かれないよう嘆息した。

 そうして徹底的に疲労感の蓄積していく中で、再び背後から声が聞こえたのは授業時間が終わろうかというまさにその時であった。

「敬意っていやーさ……」

 背後にいるメンバーの中でも、リーダーの取り巻きに分類される一人の声であった。


「どっかの悪魔が、さっきもまた優等生ちゃんのこと眺めてたっぽいぜ」

「気持ち悪ぃなぁ。ま、いい子ぶっちゃってる同士気が合うんじゃね?」

「だからシドーくん怖いって~」

「だって悪魔なのが悪ぃんじゃねぇか。なぁ?」

 悪魔。その単語を聞いた途端、アステルの背中に今朝方感じたものとほぼ同じ種類の怖気が走るのが分かった。その心臓が握りつぶされるような感触とともに急激に脈動が早くなり、冷え切った想いが血液に乗せられ全身に広がっていく。

 あぁそうだったな、とアステルはその場で改めて思い出していた。

 この世界では自分には怒る権利も、ましてや苦しむ権利ですら無かったのだ。

 何故なら彼らの言うとおり、アステルは悪魔だったからだ。

 

 まだ昼前だというのに、それにしては余りにも大きすぎる疲労感を心身両面に感じながら、アステルは校舎の外に出てすぐのところで大きく伸びをして、ゆっくりと体をほぐしていた。大樹の隙間を縫って吹き付ける乾いた風が、やたらと寒い。

 学校の正面玄関に立っているアステルの周囲では、同じぐらいの時刻に授業を終えた他の生徒たちが三々五々帰宅の徒についていた。少数だが、昼以降の授業を受けるため現在進行形で学校にやってくる生徒たちもいる。

 アステルは持っていた鞄を足元に置くと、胸元の内ポケットに徐に手を突っ込みごそごそと中身を探ってから、しばらくして手のひらより少し大きいぐらいの、四角い紙幣のような物品を一枚だけ取り出した。

 長方形にカットされたその紙片は、白地に赤い塗料で、草書風の模様がいくつも描かれている札であった。『魔符』と呼ばれるものである。

 アステルは、魔符を両手で挟んで指先で赤い模様の端に触れると、小さな声で呟いた。


「『ヒート・オン』」

 その瞬間、そのひらひらしたたった一枚の紙片の周囲だけが、急にじわじわと熱を帯びていった。最終的には比較的熱めのお湯ぐらいの温度になって止まり、それを確認したアステルは満足げに微笑むと、微熱を発する一枚の紙切れをブレザーとシャツの間に押し込んで上からぽんぽんと叩いた。これで、しばらくは温かくなるはずである。

 果たして紙片の表面に描かれていたその模様はといえば、それこそ正に、魔術科の授業で教授が教えていた『天梵(てんぼん)文字(もじ)』――別名・ヴァースクリットであった。

 “宇宙の真理を表す五十三の文字”と表現されるそれらは、それぞれの文字を特定の法則に従って組み合わせることで様々な事象を誘発し、所謂『魔術』として行使することが可能である。

 魔符とは、その最も簡単な使用例の一つだった。


 すなわち天梵文字の描かれた携帯サイズの紙片であり、文字の表面に触れて人間の意思で働きかけることにより何処ででも魔術の使用を可能にする、簡易型の天梵術式デバイスだ。文字数の関係上一枚だけでは特定の小魔術しか行使できないが、それでも本来は難解かつ、軍人など一部の専門家以外には使用不可能であった魔術というものを庶民の手に至らしめた、ヴァース史上最大の発明と称されるに相応しい優れものであった。

 こうしてアステルは当面の寒さの問題を克服すると、相変わらず風に乗って背後から運ばれてくる濃い甘い香りに誘われて後ろを振り向き、今の今まで自分が授業を受けていた学校の巨大な“校舎”を見上げた。

 それは何度見ても巨大な、サロマニア杉の樹高二百メートルにも達する成木であった。


 アステルらが住むこのブルーマという町に、二百メートルに達するような成長しきった樹は僅か三本しか存在しない。町の周囲には巨大な森林地帯が広がっていたが、それらもほぼ全てが幹直径十メートル、平均樹高は百メートル前後という未成熟な樹木である。アステルらの通うブルーマ市立学校というのは、そんな貴重な成木の中の一本を丸ごと利用しているのである。それというのも元はといえば、ガロン派の「生命には宇宙で最大の価値あり」とする教義に立脚していた。

 アステルが樹の幹の側面に無数に彫られた窓やバルコニーの様子を見上げていると、自分が先ほどまで授業を受けていた十階の教室のバルコニーから、転落防止用の柵に肘をついて街を眺めているヒラリーの姿が見えた。あまり視力が良いほうではないアステルでも、普段教室で会っている顔であれば遠目にも分からないことはない。

 彼女の方はアステルに気付いていないようだった。彼女の一人佇む姿を見ていると、アステルには先ほどの教室での出来事がまざまざと思い起こされた。アステルは悲しさを覚えると同時に、彼女への嫌がらせを楽しむクラスの馬鹿どもに対する強い怒りを感じていた。

 自分が彼女を庇えたらいいのにと、これまでに何度考えたことだろうか。だがしかし、それは無理な相談であった。アステルの立場を考えれば、彼女を守るために矢面に立ったとてむしろ逆効果にしかならないだろう。


 アステルの知る限り、この世界ではスケールの大小に差こそあれど、殆んどの場合“自分”であろうとすることはそれ自体が悪であった。元をたどればアステルもヒラリーも、彼らに目をつけられた理由は大体そんなところである。

 アステルが理不尽さを噛み締めつつ学校の校舎を眺め続けていると、背後から再び寒風が吹き付けてきた。先ほどとは風向きが反対になっていたが、ブルーマでは特段珍しいことではない。『熱』の魔符を制服に仕込んでいたこともあってか寒さはそれほどでもなかったが、代わりに大地に積もっていた色あせた落ち葉の一部が舞い上がって、アステルの顔目掛けて飛んできた。常緑樹のサロマニア杉はさほど葉を落とさないため落ち葉自体は少ないのだが、それでもゼロとはいえない。アステルは咄嗟に顔を覆う羽目になった。

 次の瞬間アステルは、何か小刻みにはためく物体が自分の懐から飛び出て行くのを感じた。何とか目元だけを腕のガードから外すと、それはどうやら内ポケットに閉まっておいたはずの、数枚の未使用の魔符のようだった。

「やっべ……!」

 思わずそう呟くと、アステルは紙片が飛ばされていった方向へ、鞄を拾って慌てて駆け出していった。大して高価なものではないが、それでも風に攫われていって行方不明というのは余りに勿体無かった。


* * *


 その少女は一人だった。

 少女はサロマニア杉の根元に広がる下生えの中を歩いていた。尤も下生えなどといってもその高さは大人の腰ぐらいまであり、ちょっとした畑のような規模になっている。

 少女の髪の毛は肩よりも少し長いぐらいのもので、明るい緑色に染まって後ろになびいていた。強い意思を感じさせるその大きな瞳は髪と対を成すような鮮やかな赤色をしている。またその身に纏った薄手の布地は、髪と瞳の両方に映える様な美しい瑠璃色に染まっていた。

 短い袖の端からすらりと伸びたその腕は白く美しく、日焼けした痕跡など微塵も感じられない。体に張り付くような薄手の衣装を着ていることもあってか胸元はその線が強調され、標準よりもやや大きめな印象を与える。年の頃はまだ十五、六といった具合であった。

 少女はその頭上に高々と聳え立った大樹の姿を見上げつつ、巨大な下生えの中でその歩みを止めて目をつむると、心から気持ち良さそうに深呼吸した。癒される、とはまさしくこのことであっただろう。今いるその場所で足を止め、木々の隙間を通り抜けて地上に降り注ぐ太陽の光を浴びながら樹木から発散される澄み切った空気を吸い込んでいると、そこに本物の『生命』を感じられた。彼女にとって、それは何よりも幸せな感覚であった。


「……来て良かったな」


 少女は人知れず微笑んで、心の底からその呟きを発した。その笑顔はまるで、花畑に佇む妖精といった風情であった。純真な可愛らしさが秘められている。

 少女は今、一緒にこの町にやってきた仲間たちと逸れてしまっていた。だがここはここで気分のいい場所である。少女は仲間たちにも、後でこのスポットを教えてあげようと誓った。

「……あれ?」

 少女はその進行方向に、妙な光景を見つけた。

 サロマニア杉の巨大な根元は既に目と鼻の先まで近づいてきていて、そこの周囲には敷地を仕切る高い柵が設置されていた。少女の進む方向ではその柵の一部が途切れてアーチ状に直されていたので、どうやらそこが出入り口らしい。

 ところがそのアーチの真下では、遠目には少女と同じか一、二歳は年上と思われる少年たちが全部で五、六人も集まって、その屈強そうな身体でもって出入り口を塞いでいた。彼らは皆一様に茶色の服を着ている。学校の制服か何かだろうか。全員あさっての方向を向いているので、少女がやってくることには気付いていない様子であった。

 そこで何をしているのか遠目にはハッキリとは分からなかったが、それでも彼らが口々に何かを言っているのだけは分かった。一見単なる会話の光景にも思えたが、それにしては少々奇妙な印象も受けた。


 まず、ただ集まって喋っているだけにしては空間を大きく占領しすぎていた。そこにいる全員がやたらと踏ん反り返って門の前に陣取っており、体格の問題もあるだろうが、まるで出入り口を封じるためにあえてそこに居座っているようにも見受けられる。

 それに加えて、少女の下まで聞こえてくる会話はなにやら妙に芝居がかっていて、かなり不自然だった。会話の一部が唐突に大声で強調されたり、同じ単語だけが何度も繰り返しで叫ばれたりして、正直言って気味が悪かった。

 彼らのすぐ傍で、これまた少女と同い年ぐらいに見える少年が一人、地面にしゃがみ込んで何かをせっせと拾い集めていた。少年は、すぐ目の前で出入り口を塞いでいるグループと同じく茶色の服を身に纏っていたが、彼らと見比べると体格はやや弱々しい印象があった。瞼より少し上ぐらいの位置で乱暴に切り揃えられた前髪は、やや俯き気味なその少年の目元を覆って感情を読み取りにくくしている。

 彼らから遠く離れた場所に立っていた少女の下に、出入り口を塞ぐ少年らの奇妙な会話の内容が聞こえてきた。


* * *


 どうしてこんな状況になっているのかは分からない。ただひとつ言えるのは、ステラの神とやらはとことんアステルを追い詰めたいと考えているらしいことだった。

 アステルはただ黙々と、目の前の地面だけを見つめて、そこに散らばった何枚もの魔符を拾い上げていた。土がこびりついているようなら、すぐさまその場で叩いて払い落とす。

 極力頭を上げることはしなかった。すぐ側でたむろする下種の集まりを、出来る限り視界に入れたくなかったのだ。その顔を見ただけで気分が悪くなるのは勿論のこと、こんな連中にはたった一つでも口実を与えることは避けたかった。きっかけを与えてしまったら、一体どんな下劣な振る舞いに及ぶか分かったものではなかったからだ。

 とはいえ、如何にアステルが腐心したところで下種な思考回路の持ち主たちには関係ないようで、あの手この手でアステルへの攻撃は実行されていた。


「なー、どーでもいいけどさー、魔術って大昔に神様がくれたものなんだよなー?」

「そーですけど何かー?」

「じゃーさー、それって悪魔が使っていいものじゃないんじゃね?」

「えー? 何言ってるのかボクよく分からないナー?」

「いやいや、別にそんな偽善者ぶらなくてもいーですから」

 聞く耳を持つなと、アステルは自分自身に言い聞かせ続けた。応答してしまえばそれまでである。怒りと気恥ずかしさに耐えるのには根気が要ったが、同レベルの争いを繰り広げて恥を晒すのはもっと苦痛だった。アステルは黙って目の前の魔符を拾い続けた。


「ガロンの教えがあるから俺たちがここに居んのになぁ。ゴチャゴチャ言うなんて、ホントふざけてるよな……いやホンッッット!」

「えー、シドーくんコワーイ」

「別にぃ? だって俺ら悪くねーしー?」

 聞こえよがしなシドーの嫌味にも、アステルは無反応を貫いた。耐えろ、と自分自身に言い聞かせる。残る魔符はあと一枚だ。

 ところがその最後の一枚は、何の間違いか、よりにもよって目の前に立つシドーの足元に落ちていた。あれを取りに行かねばならないのかと、アステルは内心舌打ちした。


 たかが紙切れ一枚といってこの場を去ることは許されない。そうすれば彼らはおそらく、背後からアステルに向かって、ここに落ちているよ、どうしたの拾わないの、とかなんとか言って嘲笑混じりに呼ばわってくることだろう。そして明日教室ですれ違ったりしたときには、これだから臆病者はイヤなんだとかそんなことを、さも単なる独り言であるかのような体で繰り返し繰り返し言って聞かせてくるのだ。

 金銭的な価値の問題ではない。アステルと彼らとの間に落ちているその一枚の紙切れには、アステルの全プライドが懸かっていた。もしここで引き下がれば、彼らが益々増長することは目に見えて明らかだったのだ。

 アステルは決断すると、無言でシドーらの側へ近づいていった。背中に刺すような視線と圧迫感を感じつつも、魔符を拾い上げようと彼らの足元にしゃがみ込んで手を伸ばした。

 しかし、その勇気が命取りであった。


 次の瞬間、アステルの頭部に鈍い衝撃が走った。目蓋の裏に火花が飛び散り、アステルは思わず目元を手で押さえてよろめいた。視界が回復するのを待たずして、目の前に立つ男がその左手を抑えて大げさに痛がりながら、アステルに向かって凄まじい形相で詰め寄ってきては大声で怒鳴り散らすのが分かった。

「――っ痛ぇな、何すんだコラ!」

 その声を聞いてアステルは、自分の覚悟が見事に空回りしたということを知った。

 どうやらアステルの頭に、シドーの左手がぶつかったということらしかった。或いはただ単にシドーに殴られただけかもしれないが、どちらにしろ待っている結果は同じことだった。下種の群れが好き勝手に喚き散らす口実が出来上がってしまったということである。

 その証拠に、シドーはキンキンとした甲高い声でまくし立ててきた。

「気持っち悪ぃ目でこっち見てんじゃねえぞ、何か言うことあんだろ、あぁん?」

 アステルは何も言わなかった。代わりに目の前で仁王立ちする下種野郎の顔を、じろりと睨み返す。だがその行動は、益々シドーの神経を逆なでしたようだった。

「黙ってねーで何とか言えよ、この人殺しヤロー!」

 そう喚きたてるシドーはあろうことか、いきなりアステルの身体をどんと突き飛ばした。

 突然の暴力にアステルはされるがままになり、よろめいた末に地面に尻餅を突かされた。憮然とした表情になりはしたものの、アステルは何も言い返そうとはしなかった。無抵抗のままただ黙って、シドーらの足元に視線を逸らすだけでいる。

 一方その様子を見たシドーは目の前にあったアステルの足を乱暴に蹴飛ばすと、口角泡を飛ばしてアステルへの罵倒を繰り返した。


「チョーシ乗ってんじゃねぇぞ、この悪魔が! 人の生命なんか何とも思ってないんだろう、ああ?」

 だがそれほどまでにシドーが罵り続けてみせたところで、アステルは一貫して何の反応も示すことはなく、ただ視線を遠くに飛ばすことでやり過ごそうとするだけであった。いや、むしろそれ以外、アステルにはこの場を切り抜ける手段はなかったのだ。

 シドーはしばらくの間、アステルのその様子を見てギリギリと歯軋りするような顔つきになっていたが、不意にワザとらしく鼻を鳴らしてみせた。

「は、ビビリ野郎が、悔しかったらかかって来いっつーんだよ!」

 最後にまるで言い捨てるかのようにそう叫ぶと、シドーはアステルをその場に残したまま踵を返し、何故かイライラした様子でその場を早々に去っていった。それに伴って、一歩下がって事の次第を見守っていた取り巻きたちも、彼の後に続いて次々と姿を消していった。

 やがては、その足音すらも聞こえなくなった。

 全てが終わった後には、無惨な体勢で木の根に寄りかかっているだけのアステルと、誰も助け舟を出してくれることの無い残酷な静寂とがその場に残っていた。


 かの横暴なる者が姿をくらました後でも、アステルは微動だにしなかった。まるで死んでいるかと思うぐらい一切身動きをせず、ただ俯いて目の前の地面だけを見つめている。

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。これからどうすればいいのか見当もつかない。けれども、自身の中で溜まりに溜まった怒りの感情だけは、その口から自然と悪態になって溢れ出た。

「……何が、ガロンの教えだ。悪魔はてめぇらじゃねーか。ロクに理解してもいないくせに神だの悪魔だの、笑わせんなっつーんだよ……」


 暗い呟き声が周囲へと漏れ出す中、ついさっきまでシドーらに封鎖されていた出入り口のアーチの向こう側から、アステルも知らぬ間に誰か別の人間がやってきていた。

 それは若葉にも似た明るい色の髪の少女だった。地面に座り込んだままのアステルのもとへと静かに近づいてくるその様子は、やや前傾姿勢のまま白くほっそりした両腕を後ろ向きに伸ばしてバランスを保ち、てててっ、という擬音の似合いそうなおぼつかない歩調で歩いてくるという、外見年齢の割には幼い印象を受けるものだった。

 だがしかし、仕草の子供っぽさとは裏腹に意志の強さが垣間見えるその赤い瞳には、今は若干心配そうな色が浮かんでいた。その感情は、彼女のすぐ目の前で俯いたまま一人呪詛の言葉を吐き出し続ける見ず知らずの少年に向けられている。


 樹の根に寄りかかったまま顔を上げようとしないアステルの近くで少女は立ち止まると、その膝に手を置き、腰を軽くかがめて、アステルの顔を覗きこんでくるような体勢をとった。

 少女は、出来る限り慎重そうに声をかけた。

「……ねぇ、あなた大丈夫?」

 その声を聞いてアステルは咄嗟に押し黙った。それからようやく顔を上げ、いつの間にか自分の目の前に立っている見知らぬ少女の存在を認知する。

 アステルの顔を覗きこむその少女は、ルビーのような赤色の瞳を持っていた。前傾姿勢によってこちら側に垂れてきているセミロング気味の髪の毛は、瞳とは対照的に若葉のような明るい緑色に染まっている。

 白く瑞々しい素肌を覆い隠すのは、濃い瑠璃色をした薄い布地の服。ひと繋がりになった一枚の布を、そっくりそのまま体にフィットするように仕立てたような感がある。その胸元は内側からしっかりと押し上げられ、標準以上の盛り上がりを形作っている。

 アステルのことを見つめるその表情は、いかにも心配しているといった具合だった。背丈や顔つきからして、自分と一、二歳しか違わないだろう。少なくともアステルより年下なのは間違いない。

 気がつけば目の前に見ず知らずの美少女がいた。だが、何故こんなところにこんな少女がいるのかはまだ釈然としない。それというのも、先ほどの一件もあってか、今のアステルは論理的な思考がしにくい状態にあったのだ。


 仏頂面をしたアステルが漠然と目の前の少女の姿を眺めていると、その少女は突然パッと後ろに一歩だけ下がってから、再び口を開いた。

「大丈夫ならいいんだけどさ」

 アステルはどう返事をするべきか分からず、先程と同じで無言を貫いていた。一方少女は下がったその場で立ち止まると、背後で両手の指を組みつつ少し躊躇いがちに言った。

「あの、聞きたいんだけどさ」

「……」

「どうしてさっき、何も言い返さなかったの?」

 アステルは押し黙ったまま少女の顔を見つめた。少女は、更に続けた。

「よく分かんないけどさ、許せないと思うなら、面と向かってやめてって言えばいいんじゃないのかな」

「……口で言ってやめるような連中なら、苦労はしないさ」


 アステルは半ば諦め気味にそう呟くと、近くにあった細い根を掴んで億劫そうにその体を持ち上げ、久方ぶりにちゃんと二本の足で地面の上に立った。立ち上がってみると、目の前の少女を見下ろすことが出来た。それでも背丈は、拳ひとつ分ぐらいしか違わない

「とにかく、嫌なことがあるんだったらさ、お母さんとかに一度相談してみたら?」

「……母親?」

 するとアステルは、急に冷たい調子になって聞き返した。

 少女はその顔を見ても怯んだりはしなかったが、意表を突かれたようではあった。

「あんなのに相談して、解決できるなら世話ないさ」

 アステルがそう言った途端、少女は初めてそれまでの心配そうな表情から一転、さも腹が立ったようなムッとした顔に様変わりした。

「……あなたが臆病なのは勝手だけどさ、何もお母さんまで悪く言うことないんじゃない?」

「臆病? そりゃまったくだな」

「分かってるなら、どうしてそんなこと言うのよ」

 何故か憮然とした様子でそう訊ねる少女に対し、アステルは悪びれることもなく言った。

「母親が嫌いだからな」

 そう答えたアステルはぽんぽんと服を叩いて土などを払い落とし、肩をぐるぐると回して関節の無事を確認した。答えるのはいかにも片手間であるかのように振舞ってみせる。


「あんな冷酷で、どうしようもないもの、いない方がよかったんだよ」

 だがアステルがつまらなそうにそう言った途端、目の前に少女が詰め寄ってきた。少女はどうやら本気で憤っている様子だった。

「どうしてそんなこと言うのよ!? お母さんなんでしょ? 優しくて、思いやりがあって、ご飯作ってくれて――」

「お前の知ってる母親はそうかも知れないけどな!」

 アステルは少女の言葉を遮るようにして、そこで初めて自分も大声を上げた。

「生憎、こっちのは違うんでね」

「……なによ、それ」

 怯むというより、呆然としたような様子で黙り込んだ少女を見て、深々とため息をついたアステルは彼女から目を逸らすと、風に飛ばされた魔符を追ってここまでやってきた道を逆向きに辿って歩き出した。これ以上、こんな場所に長居は無用だった。

 一方、少女はその場から一歩も動くことはなかったが、最後にアステルの背後から全力で叫び声を上げていた。

「なによ、お母さんのお腹から生まれてきたくせに!」

「だったらいいがな!」

 アステルは決して振り向きはしなかったが、それでも負けじと叫び返した。それは紛れも無い、アステルの本音であった。


 見知らぬ少年が捨て台詞とともに消えてしまった後、少女はずっとその方向を向いて立ち尽くしていた。励ますことが出来ればと思って話しかけたのに、少年が思わぬことを言ってきたために口論にまで発展してしまった。

 けれども少女は、決して自分が悪いとは思えなかった。少年が消えた方向をじっと見つめ続けていた少女は、視線を足元に落としたかと思うとポツリと言った。

「なによ、お母さんがいるだけでも幸せじゃない……」

 そう呟く少女の表情は、どことなく重たかった。

 大樹に吹きつける冬の風が、再びその場を早足で駆け抜けていった。

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