虚構の男7
「では、契約内容はこの書面通りと言う事で問題ありませんね」笹野管理官は念を押した。
「ああ、おおむね問題ない」雅臣は答えた。事実、契約書の内容は改正国家公務員法の嘱託職員に関する規定――これは主に元公務員である退役軍人が復職するために制定されたものであった――に基づいたものだった。日給一万六千円、これは時給二千円で八時間勤務相当になる。金額的には中の下と言ったところか。その他に調査手当として一日当たり五千円、必要経費は別途申請して受理された場合に清算、となっていた。そしてこれらの支払いは、特定期間の調査活動を行った際の報告書の提出と引き換えに随時行われる、とも……
雅臣と笹野の会合場所は、新橋駅からそう遠くないシアトルスタイルの侵略から生き残った喫茶店だった。午前十一時二十分過ぎの店内の座席は、何人かの会社員たちで適度に埋まっていた。古風な内装と抑えた明るさの店内は静かで、流れる音楽の主張も激しくはなかった。この喫茶店は各ボックス座席間の話し声が漏れないように、そこかしこに目立たないよう設置されている指向性スピーカーがそれぞれのボックス座席から漏れる話し声に干渉し打ち消すようになっており、隣の席へと身を乗り出さない限りその肉声を聞くことが出来ないようになっていた。この喫茶店のメニューに記載されている値段は決して安くはない。ここで扱うコーヒー豆は個別真空包装された自然栽培のコーヒー豆で、適切な温度管理のもと店の保管庫に保管されており、客に提供される時はじめてその封が切られ、そして昔ながらの方法で焙煎され挽かれ抽出される。せいぜいコーヒーキューブから作るコーヒーの味くらいしか知らなかった雅臣は、ここのコーヒーを飲んで目から鱗が落ちる思いだった。だが雅臣は、それでもこの手の店を自分が普段使いにすることは無いだろうと、漠然と理解した。
「では、契約書にサインを」笹野が促す。雅臣はペンをとり、契約書にサインしようとする仕草をしてみせてから、ペンをテーブルに置いた。
「どうしました?」
「このまま素直にサインするのは、どうにも気に食わないと思ってね」
「……それで?」
「さしあたっての活動資金があると助かるんだが……」
「いくら必要なんです?」鋭い視線で笹野は切り返す。
「そうだな。多いに越したことは無いんだが、まずは今のレートで1000bv$は欲しいところだな」雅臣はダメ元で金額を提示した。日本円にして十万円ほどの金額になるが、決して少額では無く、かと言って莫大な費用という訳でもない。雅臣自身も、実際に当面の活動資金としてこの金額が妥当であるかどうかは計りかねるところはあった。だが、さすがにこの金額には及ばないにしても活動資金を全額立替で後日清算すると言うのは無理な話だ。もっとも、昨晩様子見で参加したMMORPGで身ぐるみ剥がされていなければ、こんな無様な交渉をする必要もなかったのだが。洋子の言う“俺向きじゃあないゲーム”の意味について、もっと深く考えるべきだったと雅臣は思った。そもそもゲームのタイトルが“下剋上”なんだ、PKがまかり通るゲームだと言うのを予想しておくべきだったんだ。こんな事になるのなら素直に洋子の言うことをもう少し聞いておくべきだったと、雅臣は後悔していた。しかし考え方を変えることもできる。この交渉で笹野の腹積もりを探る事が出来るだろう。気乗りのしない雅臣を笹野はどのように使いこなすつもりなのか。笹野はどれくらいこの案件に本腰を入れているのか、重要度の試金石になるだろうと。
少し考えた素振りをした笹野は、おもむろに上着の内ポケットから取り出した名刺大のカードをテーブルの上に置くと雅臣の側へと差し出す。「どうぞ」
「これは……」雅臣はそのカードを手に取ってみた。カードには恐らくアドレスとアカウントとパスワードであろうものが書かれていた。
「バースにINしたらそこに書かれているリンクポイントに行ってください。そこにはデータの受け渡しができるオブジェクトが置かれています。その中に電金を置くよう手配しておきますので」
意外とあっさりと金を出したなと雅臣は思った。推測するに、この案件に対して笹野に与えられている権限はかなり大きなものなのだろう。この会談の場で二つ返事でことが運ぶわけなのだから。しかしそんな雅臣の様子を察してか、笹野は続けた。「今後は、このようなイレギュラーな資金提供要請は受けませんのでそのつもりでお願いします」
「……わかった」そう言うと、雅臣は契約書にサインした。
さて、これからどうやって捜査を行うか。もうすぐ十三時になろうとしている新橋駅のそばスタンドで合成かけそばをすすりながら、雅臣は考えた。当面はBOGEYDOGの痕跡をたどるのが良いだろうと、笹野との意識合わせはしたし、電脳捜査課のたどったルートについても詳細情報を得ることができた。しかしながら、電脳捜査課がたどった捜査ルートを再度たどるのが危険極まりないことは、雅臣でも容易に想像ができた。やはりここは地道だがまた最初から捜査活動を積み上げ捜査ルートを築いていくのが確実なのだろう。その時間がかかるであろう方法を笹野は許容するのだろうか。その他にも、時間やリソースを節約できるやりようはあるだろう。それについても実は、雅臣はある程度の方策をすでに思い浮かべていたのだが、実際それらを行うにしても今一つ決め手に欠けているのを感じた。その要因の大部分は洋子と共にこの案件にあたるという事実が占めていた。もちろん、洋子の能力は疑いようがなく今回の案件についてはまさしくピタリとはまる訳なのだが。
食べ終わった器と箸をディスポーザーに捨てると、雅臣はそばスタンドを出てホームに向かう。次の目的地への電車が来るまでにはまだ時間がある。あるいは……
『洋子、いるか?』雅臣は洋子に呼びかける。もう、このやり取りが常態化しているのはやるせないことであった。
『はいはーい』そしてすぐさま反応し出現する洋子のアバター。この様子だと、先の会合の内容も筒抜けなのだろうことは自明だった。
『これは俺がお前にあらかじめ言っておかなければいけないと思ったから言うことなんだが……』ここまで言うと、雅臣は予想されるであろう洋子の反応を覚悟してさらに話を続ける。『この案件に神田をかませてもいいか?』
『そんなのイイわけないじゃん!』洋子はまくし立て、視界内でアバターが慌ただしく動き回る。
『だろうな』雅臣は続けた。『もちろん俺はお前の意思を尊重するつもりだが、実を言うとあの俺のアバターは作るのを神田に手伝ってもらっているんだ。だから、俺のアバターはもうすでに神田のアバターにもフレンド登録されているんだ』
『ええー! そんな……』
『いいからだまって聞け』まずはこちらの立場を明確にしないと話が進まないと判断した雅臣は、洋子の言葉をさえぎった。
『もちろん俺のほうから積極的にお前の事を神田に言う真似はしない。だが、バース内でお前と一緒に捜査活動をすると、神田がそれに興味を持ってからんでくる可能性はある』
『だからって、どうすれば良いのさ?』洋子は面倒臭がっている様子さえ、もう隠そうともしなかった。
『要はお前の素性がバレなければ良いんだろ? なら適当に俺と口裏合わせとけばいい、例えばそうだな、俺の姪とか……』
いかにも、もっともらしい事を雅臣は言っているつもりだった。だが、その普段の雅臣らしくない多弁さの裏に見え隠れする焦りが、なんとなく洋子には伝わっていた。慌てふためき取り繕う、言い訳をする、そんな態度は少なからず洋子のことを気にとめているからこそ起きるものなのだと。
『わかったわ、そう言うことにしておいてあげる』洋子はしぶしぶと承諾したように言った。
『よかった』雅臣は本心からそう答えた。『これでバース内で神田に会った時に上手く答えられるよ』
『話はそれだけ?』
『もう一つある。バースにINする時に使う機材を、神田の店で調達する予定だったんだが……』
この雅臣の提案に対して、洋子は何も答えなかった。
『わかった。今日はやめておくよ』これ以上はもう洋子の譲歩を引き出せそうにないと思い、雅臣はあきらめた。
ホームにはちょうど秋葉原へ行く電車がやってきたが、雅臣はそれには乗らずホームを後にした。