虚構の男5
さて、勢いでああ言ってしまったものの、実際のところ雅臣はわずかに後悔していた。思い返すに自分にはここ最近、思慮が足りないところがある。それを雅臣に最近自覚し始めていたのだった。それさえ十分だったら、恐らく一時の感情に任せた行動で他人を傷つけたり、離婚したり、退官したりはしなかったはずだ。そして、いけ好かない管理官の挑発に乗って、まんまとこき使われることになることも。
これは補助電脳を移植した副作用なのだろうか。とは言え、これは仕方のないことだとある種の諦めに似たような感情も、雅臣の中に同時に、湧き上がってきていた。それは、さまざまな理由を並べ立てて自己を正当化し、生前の河邉に何も手助けができなかったことに起因していた。ならば、多少複雑な心境を抱えつつも、河邉の遺族に火の粉が降りかからぬようにしてやることが、今の雅臣にできるせめてものことではなかろうか。思考が横道にそれたな……
雅臣は気を取り直すと、合成酒を一口煽りソファに腰掛け、送られてきたエクステを頸部に接続する。特に工夫もないフォルダ構成、その中に無造作に置かれている捜査記録ファイル。さっそく雅臣は、入手した捜査記録を確認することにした。事の全貌はこうだった。電脳国家“berryverse”内にあるらしきマネーロンダリング組織。それを日本国内の特定の人々等――政界、財界、芸能界、高級官僚や裏社会の連中――が顧客として利用していると言う。berryverseの日本エリアでの仲介役が“BOGEYDOG”と言う名のアカウント。
河邉達、電脳捜査課の連中はそこまでを突き止めた。そして、河邉達が事故死したとされたあの日に、berryverse内でBOGEYDOGと接触し、マーキングされた電金データを渡して金の流れを探る手はずだった。なるほど、電脳捜査課にしては気合の入った捜査活動だったんだなと雅臣は思った。それと同時に、これはどちらかと言うと正規の警察捜査活動と言うよりは諜報活動に近い案件にも思えた。
一体どのレベルからの指示による捜査だったのだろうか。いや、邪推はよそう。この案件に取り掛かるに際し、余計なことに頭のリソースを使っている暇は多分ない。さしあたってはこのBOGEYDOGと言うヤツだ。こいつを叩いてどれくらい響くか、それが本件の足掛かりになるだろう。
「チッ、面倒くせぇなぁ……」思わず雅臣はソファに座ったまま手足を投げ出して呟いた。それと言うのも、今回の仕事は間違いなくバースにINしての捜査活動が主体になるからだ。勝手も知らないバースの中で特定アカウントを探して何かしらの情報を得る。なんとも途方のない話だ。だが、雅臣も全く考えもなしに、という訳でもなかった。若干の困難は伴うが、それを上手く打開できれば、笹野からいくばくかの金をふんだくることが出来るだろう。それぐらいの役得はあっても良いはずだ。
『洋子、いるか?』雅臣は最初の困難に呼びかけた。
『はいはーい』洋子はいつも通りの雅臣の思考による呼びかけに応じて返事を返すとともに、普段のアバターで雅臣の視界内に現れる。普段通りの洋子の反応に雅臣はある意味ホッとした。しかし、問題はこれからだ。雅臣が受けた仕事を洋子が積極的に手伝ってくれるかどうかがカギになるのは確かだし、雅臣も実はそれを少なからず当てにしていた。
当てにしていた?
実はいざ捜査を開始したならば、洋子の類い稀なるハッカーとしての技術力を利用してたちまちに問題も解決できてしまうのではないか。雅臣自身が無意識にそう思っていたのは否めなかった。実際のところはどうなのだろうか。知り合ってからの期間が短くないとはいえ、洋子がそれを良しとするのだろうか。
雅臣の口元から自虐的な笑いが漏れた。なんだ、威勢のいい啖呵を切っておいて実のところ俺一人ではどうにもならないことだったんじゃあないか。まったく大の大人が聞いてあきれる。だがいいだろう、この際だから利用できるものはすべて利用してやろう。そもそも、洋子と俺との関係自体がまともなものじゃあない。
『なになに? 何の用事かな?』洋子は、そんな雅臣の思惑も知らずに返事を促し、雅臣の視界内に表示させたアバターを無意味に動かす。
『実は、短期間だが仕事をすることになった』
『え! 本当?!』
『ああ、それで……』雅臣は神妙な体で洋子に切り出した。『当分の間はその仕事で忙しくなりそうだから、お前にかまってる暇は無くなる』
『……!』無言になる洋子。そして、デフォルメの頭身なのに真顔になる洋子のアバターを見て、雅臣は思わず吹き出しそうになった。もっとも、洋子のこの反応を雅臣はおおむね予測していた。普段暇つぶしがてらに雅臣の意識と接続しにやってくる洋子にとって、遊び場所のひとつが使えなくなるわけだからだ。これなら意外と、雅臣の企みも上手くいくのではないか。そんな考えを悟られない様に、雅臣はさらに話をつづけた。『まあ、期間にすると一週間か二週間、いやもっとかかるかもな、一カ月以上かもしれない……』
『でぇ? 忙しいから何なの?』やはりと言うか、不満を隠さない洋子の問いかけ。
『仕事の邪魔をされたくないんで接続も無しにして欲しいんだ』雅臣は自分の仕事に対するスタンスをはっきりと告げる事にした。『頭のどこかにお前が接続していることがチラつくと仕事に集中できなくなる』
『えー! そんな、そんな仕事とあたしとどっちが大事なのよ!』
『そりゃあお前、仕事だよ』洋子の言葉に気圧された雅臣はしどろもどろに答えた。
『だよねー』しかし、雅臣のその答えに意外にも洋子はあっさりと同意する。多分洋子は、この他愛もないやり取りを儀式的に楽しみたかっただけなのかもしれない。それはこのいかにも陳腐な、そして古来からの命題でもあり男女間におけるいさかいの種である“仕事と私”の両天秤だ。もちろん、雅臣と洋子はそういった間柄ではないのだが、洋子自身が自分を女子高生と名乗っていてそれが本当だとするならば、そんな年ごろの少女の何気ない背伸びのような言動なのだろうと。こんなハッカーみたいな洋子でも、意外とそんなに世間ずれしているわけでは無いのかも知れない、そう雅臣は思った。
『で、実際のところどうなのよぅ?』唐突な洋子の問いかけ。
『何のことだ?』雅臣はその言葉の意味することが分からず、あやふやな返事を返すことしかできなかった。
『せんせー、その仕事一人でやれるの?』
『それは、俺をバカにしてるのか?』
『いやぁ、そんなつもりは微塵もないけどさぁ、手伝いは要らないのかってこと。主にあたしの』洋子のこの問いかけは雅臣にとって予想外だった。いつもの洋子なら、思いっきり駄々をこねて散々視界内でアバターを暴れ回らせて雅臣が根を上げ折れるのを待つと言った事をしでかすのだが、今日は違ったからだ。もちろん、雅臣もそうなることは覚悟してこの話を洋子に振った訳だから、こう素直に反応されてしまうとどうして良いか瞬時に反応できなかった。ここは雅臣にとって迷いどころだった。素直に手伝って欲しい旨を伝えたいのは山々なのだが、それで洋子に主導権を取られてしまっては後々面倒なことになるのではないか……
『ねーねー、どうなのさ?』
『正直なところ、お前が仕事の邪魔をせずに手伝ってもらえるのは助かる。実際、この前もお前に手伝ってもらったおかげで俺自身死なずに済んだ訳だからな』雅臣はこの場は面倒な駆け引きなどせずに、率直な心境を述べた。『だが、それで今回お前にまた手伝ってもらったとしてもだ、俺はお前になんら対価を払ったりすることはできないんだが、それでも良いのか?』
『それは、あたしが何をやるかにもよるんだけど』洋子はちょっと考えて答えた。『ちょっと面白そうかなぁ、って』
つまるところ洋子の行動原理のそれは、割と分かり易いと雅臣は思った。『面白いかは保証できないぞ。何せ仕事自体は、今のところ単なる人探しなんだからな』
『詳しい話、聞かせてよ』
雅臣は一瞬だけ戸惑った。それはこの仕事をすることにあたり、捜査情報の漏洩とか守秘義務に関する契約の事で何か面倒なことがあるのかもしれないと言った警戒心からだ。だが、そんな事で笹野に揚げ足を取られることよりも、洋子の協力を得られないことのほうが重要であると判断し、仕事の詳細について話すことにした。なるべく洋子が理解しやすく丁寧に、認識の齟齬が起きないように……
一通りの説明が終わって、雅臣は洋子に問いかける。『どう思う?』
『うーん、すごく面白そうかなぁ、とは思うんだけど……』そこまで答えてから若干間をおいて洋子は続けた。『berryverse って厄介なんだよね』
『まぁ、そうだな』雅臣も洋子のその意見には同意した。もちろん、雅臣は洋子が過去に何をしていたのかは全く知らないので、ハッカーとして活動している洋子が過去にberryverseとひと悶着起こしていても何ら不思議なことではないとも思っていた。そして洋子も、先ほどつぶやいたことについて、特に雅臣に一から全部説明する必要はないと思っていた。
『洋子は、この“BOGEYDOG”ってやつの事、知らないよな?』それとなく雅臣はたずねた。
『うん、全く知らない』だが、洋子はきっぱりと答えた。『それに用心深い奴だったら、多分そのアカウントに固執するのは無意味かも』
確かに、洋子の言う通りだった。berryverseではアカウントは自由に変更できた。それは先日、神田と共にberryverseにINした時に作成したアバターの仕様がそうだったからだ。重要なのは個人に付与される単一ユーザーIDのほうだった。
『色々考えるより、まずはINしてみるのはどうかなー?』雅臣の考えを見越したかのような洋子の提案だった。雅臣はそれも悪くはないとは思ったが、何となく気乗りがしなかった。それは多分、先ほどあおった合成酒が原因なのだろうと思った。
『悪くはない提案だが、あいにく機材がな……』
『補助電脳調律用の機材をネットワーク接続したらいけるじゃない』洋子が食い下がる。多分、俺をberryverseにINさせたいのだろう。そしてそれが洋子にとって、なにか面白いことになるのだろうと雅臣は理解した。ならば、今後のためにも今ここで多少なりとも洋子の機嫌を取っておくのも悪くはない。
雅臣は時間を確認する。時計は十九時を回っていた。berryverseにサッとINして捜査のウォーミングアップを数時間行うには、まあまあ良い時間ではある。それに、行動を先んじておけば、笹野に対してある程度有利な状況を作り出しておけるかもしれない。
雅臣はソファーから立ち上がると、補助電脳調律に使うコンピュータが置いてある寝室へと向かった。