虚構の男2
同日、二十二時十八分、付近一帯を封鎖された品川埠頭では、警察関係者が見守る中、クレーン車による引き揚げ作業が行われていた。十六時頃に起きた追突事故の通報から約六時間余り、潜水ドローンによる捜索とダイバーによる車両へのクレーン設置作業が終了し、今まさに作業工程は最終段階を迎えていた。
徐々に海面から空中へと吊り上げられる新見輸送㈱のスピーダー(空陸両用車)は、隙間のいたるところから海水を海面に吐き出した。作業手が慎重にクレーン操作しスピーダーを地上に吊り下ろす中、まだ海水が流れ出しているスピーダーにレスキュー隊員がかけより、グラインダーで追突によってひしゃげたドアを切断してゆく。やがて、切断されたドアが周辺にうつろな金属音を響かせ倒れ落ち、車内にたまった海水がドッと勢いよく流れだすのと同時に、レスキュー隊員は素早く車内に入った。「発見!」ほどなくレスキュー隊員の怒鳴り声が響き、彼らの手によって車内から動かない三人の捜査官が運び出される。誰の目から見ても、その場に横たえられた三人の捜査官はすでにこと切れているのがわかった。
それを見て、警視庁電脳捜査課課長の新藤良平警部は愕然とした。目の前のそれに現実感を感じることが出来なかったのだ。昨日までは何も問題なく捜査は進んでいたはずだったのに、なぜこんなことが起きるのだろうか。日本国内の暴力団や非合法活動家の利用するマネーロンダリング組織が、海外IT企業の運営するメタバース内でリアルマネートレード利用したマネーロンダリングを行っているという情報をもとに内偵を始めてから約三か月の今日、上手くいけばその組織の人間が使うアカウントに、追跡プログラムが仕掛けてある電金情報をつかませることが出来たはずなのだ。それが今日たまたま、この場で起こった交通事故で失敗することになるとは……
いや、そうではない、流石にこの事故は偶然ではないのではと、新藤課長は思った。捜査の山場で、このタイミングでこの事故と言うのが出来すぎている。現に、指揮車に追突したトレーラートラックの運転手は未だ行方不明だ。付近の監視カメラがとらえた映像には追突の瞬間は写っているのだが、その瞬間のトレーラートラックの運転席には人影手なかった。これは、可能性として自動運転装置の不具合が考えられるのだが、もしもこの事故ではなく、事故に見せかけた殺人なのだとしたら外部からの遠隔操作でトレーラートラックを指揮車に衝突させた可能性の方が俄然高くなってくる。
そして、新藤課長のこの推測はすぐに報告しに来た警官によって裏付けられた。「運転手、見つかりました! 近場の宿で休んでいたところを、輸送会社経由で捕まえました」警官は小声で告げた。
「引っ張った?」「はい、任意で」警官の鼻息は荒かったが、多分この任意の事情聴取は運転手がこの事件には何も関係ないことを裏付けるだけになるだろう。
進藤課長は見分を行っている監察医のもとに歩み寄ると尋ねる。「お疲れ様です、彼等の死因は分かりますか?」不意に声をかけられた監察医は、振り向き進藤課長を一瞥してから状況を察して答える。「詳細は司法解剖の結果を見ないとわかりませんが、恐らく溺死でしょうな。海中に落下した時に積載機材の電源がショートして気絶したまま溺れたんでしょう」監察医は簡単な所見を述べた。事実、スピーダーにはコンピュータや通信機材や電源装置やVRインタフェース機器が満載されていた。捜査拠点を特定されない様にするための偽装移動指揮車による電脳捜査が、こういう形で仇になるとはなんと言う皮肉か。
新藤課長の脳裏には様々なものが駆け巡った。本件捜査の今後、電脳捜査課の存亡、捜査官遺族への補償、課長自身への処遇…… そもそも電脳捜査なぞ、ネット内を巡回して違法行為を発見したならば、それらの証拠固めを行い、それを所轄に丸投げするだけだった。少なくとも、新藤課長がそのポストに就いてからはそんな些末な案件ばかりだった。だから今回の捜査も、それと何ら変わらないものだと考えていた――捜査官の生命に危険が及ぶことなど微塵もないだろうと。だが、今は違う。この事故、あるいは殺人のおかげで、電脳捜査課はある種存亡の危機に晒されている。一度に課員を三名も失い、捜査能力は格段に低下しているところへ、それにも構わず人死にを出した本件の捜査に、上は本腰を入れて取り組むよう発破をかけてくるだろう。しかも、通常案件の捜査と並行してだ。圧倒的に人材不足である。これを上手くさばけないと俺自身の将来も絶望的だと、進藤課長は理解していた。そして、遅かれ早かれ本件に関しての責任を取らされ、閑職に回される未来しか無い自分にとって、これから腐らず今まで通りに捜査指揮に取り組むことなんて出来るわけがない。
進藤課長はハッと我に返った。へこたれている場合ではないな、と心の中でつぶやいたが、それは自身の心を奮い立たせるにはさほど効果がなかった。しかし、そういう訳にもいかないところが警察組織の辛いところだ。こういう時はまず状況を整理するべきだ。そう考えると、進藤課長は自問するように思考を始めた。なぜ、三人の捜査官は本件で殉職する羽目になったのだろうか。それはその必要があったからだ。誰にとって。それは十中八九、内偵を進めていたマネーロンダリング組織にとってだ。それはなぜ。組織が捜査官を始末したい、したほうが良いと判断したからだ。ということは、無き彼らの捜査の方向性は、間違ってなかったということではないのか。組織が捜査官を消さなければならないほどのヤバい位置に、彼らは踏み込んでしまった。組織はついにそれをほおっておくことが出来なくなった。それがこの事態を招いたということになる。
捜査の方向性…… 進藤課長は彼らが上げていた報告書の内容を思い出す。発端は日本国内に密輸された五億円相当の金塊だった。日本国内でかかる消費税率分の20%を儲けるために密輸されたその金塊の購入資金調達が、米国IT企業“Cyberry社”が運営する“berryverse”内で電金によって行われたという情報を掴んで内偵が開始された。そして、約三か月間の内偵期間を経て捜査官は今日、組織の窓口となっている人物が使っているアカウントに接触する。そこで何が起きたかだ。その時のログ――内偵していた組織が彼ら捜査官に手を下す直前までの捜査情報――がきっと本件の重要なカギになるだろう。だが、三人とも補助電脳は装備していなかった。よって彼らの今日の捜査記録は、この指揮車内にある記録媒体からサルベージしなければならないことになる。それも有力な情報が記録媒体に記録されていればの事だが、海水に浸かってしまったそれらに読み取り可能な状態で記録が保存されていることは絶望的かもしれない。それらの情報が失われた場合、もしも本件の捜査を続行するとするならばそれはかなり遅れることになるだろう。そして組織も恐らく、警戒するであろうから、今回の内偵と同じ方法のアプローチは出来ないだろう。
「辞表でも出して、故郷に帰るかな……」進藤課長はぼやいた。
「その必要はありませんよ」
その声を聴いて進藤課長はギョッとなり振り向く。するとそこには身なりのピシッとした男が立っていた。彼は物腰は穏やかそうだったが、どこか鋭い感じの空気をまとっており、その立ち振る舞いから同業者だと進藤課長は気づいた。「えーと、失礼ですが貴方は?」
「警視庁の笹野です」男はそう言いながら胸ポケットからIDを取り出して見せた。それを確認して進藤は意識が遠のく思いだった。しまった! 完全にぼやきを聞かれちまったじゃあないか! よりにもよって管理官に!
「そう硬くならないでください」笹野は進藤の様子から、彼の緊張をほぐすように話しかけた。「なにも取って食おうという訳では無いのですから」
「それじゃあ一体どう言ったご用向きで?」進藤は笹野のその言葉を訝しんだ。
「三名の殉職者ですか……」だが、笹野は進藤の問いかけには答えずに呟いた。 進藤はこの呟きに対して言葉が詰まってしまった。笹野管理官のこの態度の裏には何があるのか、その思惑を図りかねていた。だが、笹野管理官の次の言葉で進藤は彼の思惑をやっと理解することが出来た。「こうなってしまっては、今後の課の管理も大変でしょうね」笹野はそう言いながら進藤のほうを見る。なるほど、今回のこの事故をきっかけに、彼は電脳捜査課への権限拡大を行う気なのだ。そして、今の進藤にそれを阻止する術は無い。「大丈夫ですよ。多分、貴方が懸念しているような事態にはならないはずです。ここではなんですから場所を変えましょう」
進藤は笹野管理官に従わざるを得なかった。