虚構の男17
グッディグ日本支社への強制捜査からもう三日が過ぎようとしていたが、笹野は期待する成果をまだ得てはいなかった。逮捕されたグッディク社のフィリピン人警備員は、皆がフィリピン本国でグッディグ社に雇用されて正式に入国した訪日外国人だった。取り調べによる彼等の証言は、全員が嘘をついている様には思えないが要領を得ないものだった。入社時の契約は各々が違う場所で行い、その誰もがグッディグ本社に出社した事が無かった。それに、彼等との契約面談は全部リモートで行われていたので、面談した人物さえも存在するかどうかが不明だった。彼等の供述の裏を取るべく日本国内から可能な限りグッディグ社の調査を行ったのだが、グッディグ社はフィリピンに本社を置くとするペーパーカンパニーだと判明した。本社所在地とされているフィリピン、マニラの住所にはあばら家が建っているだけだったのだ。これ以上のグッディグ本社の調査はフィリピン警察に捜査協力を依頼する必要があるのだが、まともな捜査結果が得られるかどうかは怪しい所だ。
日本支社の入っていた<出島>最下層のビルは日本の不動産会社からグッディグ社が買い取った物件だった。だが、契約時に不動産会社が会ったと言われている人物については足取りが追えなかった。これはグッディグ社が契約のためだけに<出島>最下層の人間――恐らく不法入国者であろう――を臨時で雇ったためだと思われる。日本支社の開設工事も、日本の工事業者が関与していた訳ではなく同様に臨時雇いの人間を使ったのだろうと思われる。
<出島>最下層の住人は普段から警察の捜査には非協力的で、誰もが重く口を閉ざす。それは本件の捜査に対してもそれは例外ではなかった。<出島>最下層住人は、隙あらば司法取引を反故にして自分を逮捕しようとしたり、自分を国外退去処分にしようとする日本政府に裏切られるリスクを負いながら協力しようとは思わないのだった。
現場から押収した証拠品の調査はほぼ終わっていたが、そこから辿れる有効な情報は全くなかった。グッディク日本支社に搬入された機材は、その全てが日本国内で調達されたものではなかったからだ。これは<出島>という場所の特性を利用して、機材の全てが海路で直接運ばれた物である事を意味する。少なくとも、押収された機材の製造番号から辿って、それが日本国内製造だと示す機材は一つもなかった。あるいは、その点のみに注目するならばグッデック日本支社はかなり用意周到に日本国内に設立されたとも言えよう。
グッデック日本支社の設立について、破壊されたサーバー群の記憶媒体から帳簿のひとつも見つかれば良かったのだが、情報吸出しの可能な媒体の選別は困難を極めている様だ。科捜研は持ちうる技術をつぎ込んで復元作業を行っているらしいが、彼らからの報告はまだ上がってきてはいない。
そして警察最大の失態はグッディク日本支社の警備課長を確保できなかった事だった。強制捜査当日、彼は勤務を終えて自宅に居たらしく、支社を警備をしていた社員を使って呼びだしたのだが支社の近くまで来ていた所を取り逃がしてしまったとの事だ。以降、彼が自宅に帰った形跡はさすがになかった。まさに彼は煙の様に消えてしまったのだ。彼が<出島>の他の階層や日本本土に移動した形跡もなく――これは警備課長が日本国内で正規の交通網を使用した形跡が無いと言う事なのだが――また最下層住人の非協力さも相まって逃走に関する手掛かりは皆無だった。現場近辺を中心とした最下層に設置してある監視カメラの洗い出しもまだ終わってはおらず、全て検索するのにもまだまだ時間がかかる。引き続き警備課長の行方は追う方針だが、良い結果が得られる事は期待出来ないだろう。
この失態について所轄(メガフロート署)の責任を追及する事は簡単な事だが、それはもう笹野にとってはどうでもよかった。笹野には時間はもう僅かしか残されていなかった。これ以上捜査に時間を要した場合、マネーロンダリング組織を利用していた国内勢力から捜査に圧力がかかる事は自明だった。それに対し、笹野が属する勢力も落としどころは考えている。現時点でも一応は、日本に拠点を置くマネーロンダリング組織の摘発に成功した事になる。このままさらに深い情報を得るための取り調べや証拠品の調査が不発に終わっても、銃刀法違反を犯したグッディグ社が再度日本国内に活動拠点を持つことは不可能だ。それだけでもマネーロンダリング組織やそれを利用していた国内組織に多少のダメージを与えた事になる。そこでこの捜査が終わる事により、あくまでもこの強制捜査は偶発的に行われたかの様に――内偵していた痕跡を隠すための銃刀法違反という罪状で――対外勢力に見せかける事が出来るからだ。だが、突捜を使用してまでの強制捜査を一発勝負で決められず、確たる証拠を押さえる事が出来なかったのは敗因だった。笹野の属する勢力が当初の目的とする所のマネーロンダリング組織、及びそれに関連する国内組織の完全な摘発は失敗に終わる事になる。あるいは再度捜査を開始するにしてもほとぼりが冷めるまでに要する時間は必要だ。そしてその間に人員の大粛清が行われることになる。そして、その詰め腹は笹野が切らされる事になるだろう。恐らく降格等の処分は無いだろうが、庁内の敵対勢力にその存在を知られてしまった以上、もう笹野はそのまま切り捨てられるだけの存在なのだ。後は一生組織に飼い殺しにされるだけの存在になるだろう。笹野はその事を十分に理解していた。
だからこそ、笹野は<出島>最下層にある佐伯雅臣の自宅を自らが訪ねる事にしたのだった。佐伯はまだ何らかの情報を持っている。今まで笹野は追及はしなかったが、これは明白だ。見過ごせない点は、グッディグ日本支社への強制捜査からもう三日が過ぎようとしているのに、佐伯からのその後の報告書が全く上がって来ていない事だった。その件について笹野はメールでも電話でも連絡を取ろうとしたが、連絡は取れなかった。これは何か良からぬ事が起こっている予兆ではないのか。笹野がそう考えるには十分の理由だった。
最下層の錆びとコンクリートと汚水と潮のこもった空気は最悪だった。なぜ佐伯はこんな酷い環境に居を構えているのか、笹野にとって甚だ疑問だった。重武装のガーディアンドロイドが笹野や公用車の周囲を警戒する。最下層の住人達は遠巻きにこちらの様子を伺っている様だが、何かあった時に反撃する体制は整っていた。
笹野は佐伯の家の玄関ドアをノックする。しかし、中からは何の反応も無い。ドアノブに手をかけて回してみるが、当然鍵がかかっておりドアは開かない。そうこうしている内にガーディアンドロイドの指向走査の結果が室内には誰もいない事を告げた。単に留守なだけなのだろうか、笹野はそこを疑問に思った。こちらからの報告要請を無視した形で既に三日が経過しようとしているのだ。それは佐伯にとっても何ら得になる事ではないはずなのだ。何らかの対策を打つとして、ひとまずここは引き上げるべきだろうか、そう思い笹野が踵を返した足が何かを蹴り当てる。笹野はその感触に気づき足元を見た。そこには恐らくプラスチック樹脂製であろう小さく薄い板が落ちていた。笹野はそれを摘まみ拾い上げる。それは何ら変哲の無いプラスチック製の部品の様にも思えた。この事に何か予感を覚えた笹野は、それをガーディアンドロイドの分析機器で走査する。そして分析結果を見て笹野はその予感に間違いがなかった事を確信した。それはテーザーカートリッジの蓋だったのだ。これはこの場でテーザーが何者かに向けて発射された事を意味していた。すかさず笹野は辺りを見回し、この位置が撮影可能な街頭監視カメラを探す。カメラは辛うじて佐伯の自宅玄関に面している通りに設置されていた。笹野はガーディアンドロイドに街頭監視カメラが撮影した過去三日分の映像をダウンロードする様に指示を出すと、公用車の後部座席に戻った。
公用車の運転席に座っていた田所賢悟巡査長は後部座席を振り返り笹野に尋ねる。「何かあったんですか?」同様に、助手席に座っていた芳賀直子巡査も後部座席の様子を伺う。だが笹野はその問いかけに答えず、後部座席で据え付けのタッチディスプレイを操作している。田所は芳賀を一瞥すると、仕方なく前を向きなおして次の指示が出るのを待った。どうせこの笹野管理官はあと数日もしたら電脳捜査課を離れる身だ、そう課長からは聞いていた。その間、電脳捜査課は丁寧に対応し難癖付けられない様にと指示を受けて、田所は現在運転手役に徹しているだけだった。そしてそれは芳賀も同じだった。服務規程の頭数合わせで動員されただけの芳賀にとっては、早くこの時間が過ぎないだろうか、そう思うだけであった。
やがて後部座席で作業を終えた笹野は、ダウンロードした街頭監視カメラの映像を公用車のフロントディスプレイに表示させた。「田所巡査長、これを見て下さい」映像を見た田所は少しだけ驚いた。そこには、ある男が別の男にテーザーで銃撃された後、止めてあった自動車に乗せられいずこかへと連れ去られる映像が映っていた。「これがどうしたんですか?」田所は率直に尋ねた。<出島>の最下層ならばこんな事など日常茶飯事だろう。何を今更こんな被害届けの出されていないチンピラ同士のいざこざを気にする必要があるのだろうかと。するとフロントディスプレイが、今度はテーザーを撃った男の顔を拡大表示しそこに一致した人物の情報を表示する。「こいつは……」流石にこの事実には田所も驚かざるを得なかった。一致した人物はグッディグ日本支社の警備課長アントニオ・ガルチだったからだ。「これは三日前の映像です。時間は我々が警備課長を取り逃がしてから数時間後ですね。我々はかなりの遅れをとりました」笹野はそう呟く。「彼が連れ去ったのは報告書にあった我々の協力者です」
「はあっ?!」田所は思わず激高した。「秘密主義はいい加減にしてくださいよ! そんな事あんたは一言も言わなかったじゃあないですか!」いきなり笹野管理官に食ってかかる田所を目の当たりにして、芳賀はオロオロする。事実、彼女にとってこの車内は針の筵だった。笹野は激高した田所をそのまま見返す。「そりゃあ、俺達は上意下達、命令服従は絶対ですよ! 警官なんだから! そうじゃないと組織が立ち行かなくなる! でもね、同じ様に綱を握るならせめてもっと現場の人間を上手く使ってくださいよ! あんたぁ、その立場にいる人間なんだ、出来ない訳ぁ無いでしょうが!」田所はついに不満が爆発し、まくしたてた。
「御高説ありがとう」それを一通り聞き終わると笹野は鋭い視線で答えた。「ですがルーチンワークに忙殺されるのを良しとし、殉職した三人の意思を継ごうとした訳でもない貴方のその言葉は、私に何も響かないんですが」
完全に図星を突かれ何も言い返せなかった田所は苦々しい思いで笹野を睨みつける。そんな田所を意にも介さず、尚も笹野は続ける。「そんな人物を私が信用すると思っているのですか? それとも貴方はその信用足りうる人物なのですか? どうなんだ? 田所賢悟!」
「俺は!」
「俺は?」
「そりゃあ、俺だって電脳捜査課が今のままで良いとは思っていない。だが……」
「結構!」笹野は田所が苦心の末に吐き出そうとしている言葉を遮った。「その気があるのならば私を手伝え、田所賢悟巡査長。だが楽な仕事じゃあないぞ」
田所は笹野のこの言葉を聞いて一瞬冷静さを取り戻す。俺は、いつからこんな自分の保身に勤める公務員になり下がったのだろうかと。笹野の“楽な仕事じゃあない”と言う言葉が自分の答えを躊躇させているこの体たらくを、いつから許容する様になったのかと。「こんな俺に勤まりますかね……」
「君個人の資質なぞ、私は知りません」笹野は元の口調で素っ気なく答える。「さて、ここはもういいでしょう。ガーディアンドロイドを回収して本庁に戻ってください」
「了解です」芳賀はコンソールからのコマンド入力で、ガーディアンドロイドを公用車の格納庫に収容する。やがて一連の作業が終了すると、周囲を確認して田所は公用車を発進させた。
道すがら静まり返る車内。張り詰めた空気の中、田所はまだ自分がどうすればいいのか、どうしたいのかに結論が出せていなかった。いっそ命令された方が楽だっただろう。やがて帰宅時間帯の渋滞に巻き込まれながらも無事に本庁に戻った一行は、本庁地下駐車場の配車課で車両返却手続きを終えた。「それでは、私はこれで」笹野はぽつり告げるとその場を去ろうとする。
「待ってください」田所は笹野を呼び止める。「俺にも捜査を協力させてください」
笹野はそれを聞いて一瞬だけ何かを考えた様なそぶりを見せると、田所に言った。「もう勤務時間外になりますよ?」
「そんな馬鹿な事を。あんたはもう時間が無いって言ったじゃあないか」田所は苛立ちを隠さなかった。「よし、あんたがそういう言い方をするんだったらトコトン付き合ってやる。そうする事に決めた! どうせあんたが課に居られる残り時間は短いんだしな、その間だけだ。これで満足かい?」笹野はそんな吹っ切れた様子の田所を鼻で笑いながら芳賀の方を向いて尋ねた。「そちらの貴女は?」
「わ、私ですかぁ?」不意に話を振られて芳賀はうろたえた。しかしながら芳賀としては、不満があったとしても田所が笹野を手伝うと決めてしまったならばそれに従うしかない。今この場で、私は遠慮します、とキッパリ言い放てるほどに芳賀は空気が読めない訳ではなかった。「私も手伝います……」芳賀は最後の抵抗の意も込めて力なく答えた。
「分かりました。それでは行きましょう」笹野はそう言うと、本庁前の通りでタクシーを止めて乗り込んだ。田所と芳賀もそれに続いた。
運転手に皇居周りを周回するように伝えると、笹野は田所に尋ねる。「民間の端末を使用して再度バース内での捜査を行います。当てはありますか?」その問いかけに田所は思考する。民間の端末を使用すると言う事は、電脳捜査課の、ひいては警察組織のバックアップを受けない独自の捜査活動を行う事だと。「心当たりが無い訳ではないんですが、電脳捜査課の端末じゃあ、ダメなんですか?」なぜその必要があるのか、田所は確認のために質問する。「今までの捜査での相手側の対応を見るに、こちら側の痕跡を辿られない工夫をしておいた方が良いと判断したのです」笹野のその言葉が何を表しているのか、田所は何となく事態を察した。つまり、笹野は内通者がいるのではないかと疑っているのだ。だがそれを田所に話すと言う事は、少なくとも笹野は田所の事を疑ってはいないのだろうと思った。あるいは、それも織り込み済みでの発言なのかもしれないが……
「それなら二十四時間営業のVRセンターやVRのルームサービスがあるホテルとか……」田所は答えた。それを聞いて笹野は運転手に告げる。「グランドタワーホテルまで行ってください」
「分かりました」運転手が答えるとタクシーは皇居周回の道路を外れ、一路グランドタワーホテルに向かった。




