真夜中の訪問者
浴室のバスタブに、三分の二ほど湯が溜まったことを確認して、私は洗面台から剃刀を探し出した。まだ買ったばかりの真新しい刃先を眺めながら、私はふらふらとした足取りで浴室に入る。服は着たままだ。
浴室の床にぺたんと座り込み、バスタブの淵に手首を置いた。手のひらを上に向けると、青い筋が薄っすらと浮き出た白い手首が顕わになる。先ほど飲んだ睡眠薬が徐々に効き始めているのか、意識は薄ぼんやりとしていた。剃刀の刃が、浴室のライトに反射して鈍く光る。このまま剃刀を手首にそっと当てる。痛みはきっと、睡魔が感じさせないようにしてくれるだろう。既に、視界はぼうっと滲み始めている。眠るように、死ねるはずだった。
次の瞬間、玄関の無機質なチャイムが思いがけず大きな音で鳴った。沈みかけていた私の意識は急に現実に引き戻される。チャイムの音にびくりと肩を竦ませた。手元がすべり、剃刀が湯を張ったバスタブの中にぽちゃりと落ちる。水面に浮くそれを恨めしい思いで睨みながら、私は「誰よ、こんな時間に」と一人毒ついた。
なるべく音を立てないようにして浴室を出ると、忍び足で玄関に向かう。靴箱の上に置かれた時計の時刻は、ちょうど真夜中の二時を指していた。こんな時間に訪問客など、非常識もいいところである。
――もしかして、ストーカー? 私は肩を震わせる。ここ数日、仕事帰りに後をつけられているような気がしていた。直接的な被害に遭っていないため、警察に相談するのも躊躇われた。それに、どのみち死ぬ予定の人間が、今更ストーカーを怖がるのも妙な話である。
いっそのこと、このまま玄関の扉を開けてみようか。目の前には、刃物を煌かせフードを被った男。上手いこと急所に当たれば、即死の可能性もある――。
いやいや。私は首を振る。そんなプロの殺し屋みたいなストーカーがそうそういては堪らない。同じ死ぬ予定であっても、なるべく痛みを感じない方法を選んでこの手段に行き着いたのである。ここで素人のストーカーに痛めつけられながら死ぬのは御免だった。
仕方がない。自殺は明日に延長だ。すっかり気を削がれてしまった。三度目のチャイムを無視し、私は浴室の電気をそっと消す。そして、部屋に戻り頭から布団を被った。睡眠薬が再び効いてきたのか、私はすぐに眠りに落ちた。
次の日。仕事から帰った私は、いつものように変わり映えのしない夕食を黙々と口に運び、面白くもないバラエティ番組をぼうっと眺めていた。明日は土曜日。仕事もないから、朝になっても通勤してこない私を心配して上司から連絡が入ることもない。他人に自殺を止められる可能性は、限りなく低かった。
だが、訪問者は今日もやって来た。
昨日と同じように、浴室に湯を溜めて剃刀を手に持つ。睡眠薬も、昨日と同じ量を服薬した。心地よい眠気に襲われる。このまま死ねたなら、きっとそれが今の私にとって一番の幸せであった。この世に後悔や未練なんて、これっぽちもないのだから。
なのに、午前二時、昨日と同じようにチャイムは鳴った。私は思わず舌打ちをする。何だというのだろう。一体誰が、私の死に際を邪魔するのだろうか。
土曜日の夜。いや、正確には日曜日の真夜中。やはり、バスタブに湯を溜め、睡眠薬を服用した。今度こそはと気合十分だったのに、やっぱり真夜中の訪問者はやって来た。
もう、我慢ならない。今日こそは、文句の一つでも言わなければ気が済まない。相手だって、この時間帯が非常識なことくらいわかっているはずだ。それに、私が自殺しようとしていたなんて知るはずがない。私の怒りは常識の範疇であり、十分な抗議の理由に値するであろう。
玄関越しに、私は「どちらさまですか」と、自分でもはっきりとわかるくらいに刺々しい声を上げた。反応がないようなら、続けて文句を言ってやろうかと思っていた。
だが、思いがけず扉の向こうからか細い声が返ってきたのだった。
「あの――私です。Nです。覚えていませんでしょうか」
N? 私は首を捻る。そして、その名を頭の中で反芻する。何故だが、私はその名を良く知っているという認識が、脳内に生まれる。だが、具体的にどこのだれであるのかと問われると、残念ながら思い出せない。だが、私は確かに、Nという女性の名前を知っているのである。もしかしたら、小学生とか中学生とか、そのあたりの旧友なのかもしれなかった。
「――ああ、Nね。どうしたの、こんな時間に」
なるべく平静を装いながら、私は訊き返す。今度もやはり、何とか聞き取ることのできるくらいの細く小さな声が扉を挟んだ向こうから返ってきた。
「実は、今仕事の帰りなんだけど――知り合いから、あなたがこのマンションに住んでいるって話を聞いて。それで、すごく久しぶりだけれど、ちょっとお話ができればいいなと思って、訪ねたの。こんな非常識な時間でごめんなさいね。仕事帰りしか、このあたりを通る機会がないものだから」
なるほど、およその事情は掴むことができた。しかし、勿論腑に落ちない点もある。
「Nは、仕事って何をしているの? こんな時間まで仕事してるって――」
「ああ。恥ずかしいんだけど、私コンビニで働いているの。うちの店、シフトの組み方がちょっと変わってて、私は夜の九時から一時までが勤務時間なの。でも、いつも雑務なんかで帰るのが遅くなっちゃって。それで、どうしてもこの時間になってしまうのよ」
コンビニの仕事なら、シフトが不定期なことは納得がいく。
「ところで、私がここに住んでいるって、誰から訊いたの? 私、あまりここの住所は特定の人以外には言っていないはずなんだけど」
やや訝しげに問いを重ねた私に、Nは私のよく知る知人の名前を挙げた。その人になら、私は確かにこのマンションの住所を知らせていた。幾度か遊びに来てくれたこともあるほどだった。
「そうなの。N、あの子のこと知っていたのね」
「あら。だってあの子、小学生のとき同じクラスだったじゃないの。あなたも一緒に」
その言葉に、私は確信した。やはりNは、小学生時代のクラスメイトだったようである。正確に名前が思い出せないのも、二十年近くも前のことなら納得であった。
「――立ち話もなんだから、よかったら中に入る? といっても、寝る直前だったから部屋には布団敷いてるし、散らかっているけれど」
言いながら、私は玄関の鍵を開けて扉を押した。目の前には、色白な顔に控えめな目鼻のパーツを乗せた、和風美人という言葉の似合う女性が佇んでいた。ストレートの黒髪が闇夜に溶け込み、仄白い顔をぼうっと浮かび上がらせている。
「本当にごめんなさいね――でも、嬉しいわ。十数年ぶりに、あなたに会えたんですもの」
薄く笑みを浮かべる彼女の面影を、私は確かに知っていた。
それから、Nは一時間ほどで帰っていった。話したことは、取りとめもない日々のこと。Nが働くコンビニは、どうやらいわゆる「ブラック」に近い職場であるらしく、客層は悪いわ店長は理不尽な理由で自分を怒鳴りつけてくるわで、毎日ストレスが溜まる一方なのだという。
「――この前ね、レジのお金が合わなかったのよ。ほら、銀行とかって、日々のお金が合わなかったらその日は総動員で原因を探し出すっていうじゃない。コンビニでもね、毎日何度かレジのお金がちゃんと合っているかっていう確認をするの。うちの店長はお金にうるさくて、一円でも合わないとすごく不機嫌になるのよ。でも、この前私がレジのお金を確認したら、千円以上お金が合わなかったのね。それで、店長はもう激怒。その日、私は新人の大学生のバイト生と一緒のシフトだったんだけど、店長、私だけを一方的に攻めるのよ。もちろん、私がお金をお客に渡し間違えた可能性はあるけれど、それなら大学生のバイト生も同じじゃない? なのに、私にだけお説教で――」
他にもNは、些細なミスで店長から呼び出されたり、時にはお客の前でわざと大声で叱り付けられたりするのだという。私はNが気の毒になり、Nが話している間はひたすらに相槌を打ち続けていた。
そして、私もまた、職場での鬱憤をNにぶちまけた。元来どこか注意力が足りない私は、ほぼ毎日大小なにかしらのミスを起こしていた。その度に、上司から注意され、ひどいときには職員の前で思い切り怒鳴られたこともあった。職場を離れたいと同僚に相談すれば、「でも、他に仕事の当てはあるの」「誰だってミスはするんだし、気にしすぎだよ」「もう少し、落ち着いて考え直してみたら」と言われるばかり。一人くらい「自分に向いていないって思うのなら、辞めちゃうのも一つの方法だと思うよ」という言葉をかけてくれる人がいたならば、きっと辞表に手が伸びていたことだろう。だが、誰も私の背中を辞職へと押してくれる者はいなかった。それが、より一層精神的に重荷となっていった。
およそ一時間の間、Nと私は、まるで同じ悩みを共有する者のように、互いの仕事の愚痴を言い合っては、「やっぱりそういうことあるよね」と半泣きで笑い合った。帰り際のNの顔は、心なしか訪問時よりも顔色が良いように見えた。
「ありがとうね。あなたとここまで話せるなんて思わなかった――正直、こんなに大変なのは私だけって思っていたけれど、あなたと話せて、ちょっと励みになったかも」
Nの言葉に、私は微笑み返す。
「私も。何だか、心強い味方ができたみたいで嬉しかった」
「本当に――ねえ、もし迷惑じゃなければ、また近いうちに、ここにきてもいいかしら。また、辛くなったときに」
遠慮がちなNの声に、私は力強く頷いた。
「勿論よ。あ、でも、できれば次の日が休みのときがいいかな。そのときは、多分遅くまで起きていると思うから」
「ありがとう――じゃあ、また近いうちに会いましょうね」
淡い微笑を残し、Nは出て行った。私は知らずのうちに、次にNがここを訪れるのはいつかしらと、思いを巡らせていたのであった。
Nが突如私のマンションを訪れなくなったのは、それから一ヵ月後のことだった。私は、Nが働いているというコンビニを尋ねた。レジで気だるそうに雑務をしていたおばさん店員に、Nの名前を挙げた。おばさんは、「ああ、その子ならとっくに辞めたよ」と気のない声で言った。
「え? とっくに、て、いつくらいですか」
「いつだったかなあ。一ヶ月ちょっと前くらいだったかな――ああ、店長。Nさん、いつくらいに辞めましたっけ」
レジの奥から、丸眼鏡をかけた神経質そうな男性がひょこりと出てきた。針金みたいにひょろりとした体型をしていた。
「Nさん? ちょうど一ヶ月前じゃなかったかな。それが、どうかしたの」
私にちらりと視線を向けた店長に、「いえ、何でもないです」と手を振った私は、おばさん店員にNの住む家の住所を訪ねてみた。
「詳しい住所は知らないけど、確か、近くにある美容室の坂を登っていったところあたりって言っていた気がするけどね――そうそう、あのお洒落な雰囲気の、何とかサロンっていう美容室のね」
やはり、気のない口ぶりでおばさんは教えてくれた。
おばさんに教えてもらった坂をえっちらおっちら登っている途中、私はNに私の住所を教えたという知人に電話をかけてみた。だが奇妙なことに、知人は「N? 知らないけど、そんな子。誰かにあんたの住所を教えたこともないよ、私」とあっけらかんと返されてしまった。電話を切ったとき、ちょうど近くを中年の女性が通りかかったところだった。犬の散歩中のようである。利発そうな顔のゴールデンレトリバーを連れていた。
「あの、すみません。このあたりにある、Nさんという女性の家はご存じないでしょうか」
私の問いかけに、女性は怪訝そうに眉根を寄せた。そして、ふるふると首を横に振る。知らない、という意思表示のようである。「ありがとうございます」と頭を下げ、私は再び歩を進める。
その後、私は人に出会うたびにNのことを訊いてみた。だが、誰一人として、Nのことも、Nが住んでいると思しき家のことも、知る者はいなかった。
結局、その日私は自宅に戻った。真夜中の二時、もしかしたらという思いで部屋の時計を眺めていたが、明け方になってもNが訪れることはなかった。
Nの初めての訪問以来、私は自分が自殺を図ろうとしていたことをすっかり忘れてしまっていた。どんなに職場で辛い目にあっても、次にNと会ったときに互いに励ましあえる。その思いが、私の死への決断を徐々に遠ざけていたのかもしれなかった。
明けの空を窓から眺めながら、私は睡眠薬を口にした。明日は休みだ。今から眠ったって、誰も私を起こしにはこない。ゆっくりと眠れるはずだ。きっと、夢も見ないままに。
けれど、徐々に遠のく意識の中で、私はNの姿を見た。口元に静かな笑みを湛えながら、私に手を差し伸べている。再びNに会えた嬉しさに、私は仄白い手に自身の手を重ねようと腕を伸ばした。
一ヵ月後。真夜中の二時。私はある人物のアパートの入り口に立っていた。その人物を、仮にSとしよう。Sの知り合いから、私はたまたまSが最近仕事で悩んでいるのだということを聞いた。職場に相談相手がおらず、一人でその悩みを抱えているのだということも。
私は、Sの部屋のドアホンに手を伸ばした。もしかしたら、この扉の向こうでSは今にも死のうとしているかもしれない。今度は、私がそれを止めてあげる番だ。かつて、Nが私を訪ねたように。かつて、Nがそうしてくれたように――。