伊藤マンション202号室 郷田
1話目より、ややシリアスです。まあ、怖くはないんですけど。
隣がうるさい。
ベランダから女の人の声が聞こえる。喧嘩でもしてるかのような声だ。
お隣の203号室は仲の良さそうな夫婦が住んでいるのだが…
よりによって、何でベランダで騒ぐのだろうか?
旦那さんの声は殆ど聞こえない。奥さんが一方的にまくし立てているのかもしれない。
喧嘩なら部屋でしてくれれば、この建物は壁が厚いから殆ど聞こえないのに…
しかも今は8月。クーラーの効いた部屋にこもっていたほうが、よっぽど良いと思う。
しかし、何故だろう?クーラーを付けている割に暑い気がする。
それに、ひどくだるい。
よっぽど疲れていたのか、それとも隣の声での目覚めがよっぽど悪かったのか…
そもそも、今何時だ?真っ暗だから夜には違いないが…
手探りで何とか目覚まし時計を探り当て、確認する。
この時計はライトが付いているので暗くても見える。
…21時?
何でこんな時間に寝たんだ?いつもなら寝るのは日付が変わる間際だというのに。
そんなことを考えている間にも、声はヒートアップしている。
体調的にも体重的にも重い体にムチ打ち、ベランダの側まで近づく。
「…ぁなたぁああああああああああ!!!」
「わっ!」
思わず声が出た。
ベランダを覗いた瞬間、奥さんのひと際大きい声が響いた。
でも、その声に驚いた訳なじゃい。
…見えたのだ。
青白い顔、長過ぎる髪、そして蜃気楼のように揺らめく姿。
このマンションの向かいに「裏野ハイツ」がある。
築30年の2階建てのボロアパートで、ここのベランダからは全景が見えるのだ。
それは、その建物の2階の真ん中の部屋から、上半身だけを斜めに生やしていた。
「な、な、な…?」
のどの粘膜がはりつき、掠れた声しか出ない。
3回目の「な…?」を言ったころには、アレは消えていた。
思わずその場にしゃがみこむ。何だったんだ?
見えたのは数秒か、もしくは1秒にも満たなかったかもしれない。
しかし、あの姿は目を閉じても網膜に焼き付いて離れなかった。
隣はアレを知っているのだろうか?すぐにまた見る気にはなれなかった。
ベランダの引き戸に張り付いて、じっと耳を澄ましてみる。
「…た!…ぃまゆう!いまゆう!!」
今言う?どういう意味だろう?
「ぜったいゆう…よ!しか…近い…わ!」
旦那さんが何か応えたのか、かなり間があってから奥さんの声が聞こえた。
というか旦那さんの声が殆ど聞こえない。
「…っくしゅん!」
奥さん?の可愛いくしゃみの音が聞こえた。
直後、寒気がした。息苦しくなる。凄く嫌な予感がする。
何これ?何かあったの?何があったの?何かあるの?何があるの?
頭が痛くなる。
頭が痛い。
頭が痛い。
頭が痛い…
「ぁぐっ…!あぐっ…」
頭が痛い。
頭が痛い。
頭が痛い頭が痛い。
頭が痛い。
頭が痛い…
頭が
頭が
頭が
思えば思うほど痛みが強くなる。
「ぐあっ!…ふぅ…んっ!…ぉぇ」
呻き声しか出ない。喉を抑えながら崩れ落ちた。
急激な体調不良。
今までだるさとは比べ物にならない。
頭痛。
倦怠感。
めまい。
息苦しさ。
呼吸が出来ない。
呼吸が出来ない!
呼吸が出来ない!?
何で!?
息の仕方を忘れてしまったんだろうか?
いや、落ち着け。呼吸は出来てる。多分。
原因はわからないが、呼吸をしても息苦しいだけだ。
アレをもう一度見なければいけないのだろうか?
何故かそう思った。
まともな思考が出来ていないのかもしれない。
あの幽霊?をもう一度見なければこの体の変化は治らないのだろうか?
それともこれは「呪い」か何かで、どう足掻こうともダメなんだろうか?
思考がまとまらない。
もう、何が正しくて何が正しくないのかすら、わからない。
ただ、このままだと確実に死ぬことは確かだと感じた。
体を何とか起こし、膝立ちになり、引き戸のカギを外して…
開けた。
思っていたより力が入っていたらしい。
それとも固定が足りなかったか、目張りのガムテープがビリリと破れて開いた。
閉め切っていた部屋にこもっていた、澱んだ空気が逃げる。
半分ほど開いた引き戸の隙間から顔を出し、うずくまるような姿勢で地面に突っ伏した。
幽霊どころじゃなかった。
外を見れる体調じゃない。
顔をあげることすら厳しい。
「あ…」
顔を突っ伏してすぐに、思い出した。
失敗したのだ。
…いや、まだ大丈夫かもしれない。
今からでも閉めて、もう一度目張りをすれば…
しかし体が思うように動けない。
というか、もう一度こんな手間をかけたくない。
何やってんだろう、自分…
とりあえず、今回は諦めよう。
そして開けっ放しはまずい。
腕に力を入れ、匍匐前進のような、死にかけの蟻のような動きで必死にベランダの外へ這いずり、引き戸を閉めた。
再び地面に突っ伏す。
そのまま数十秒ほど経過した。
具合が少しだけ良くなったが、違和感を感じていた。
隣が不気味なほど静かになっている。
先ほどまで
「私を狙っている!」
「殺されるかもしれないのよ!」
など、ぶっそうな声が聞こえていた気がするが、今はもうない。
どうしたんだろう?「あれ」を見られたかな?
引き戸を開けていた時間は覚えていない。
数秒?
数十秒?
1分?
1分は経っていないだろうが…まあ気付かれても言い訳は何とかなるだろう。
しかし静かだ…あの声は夢か幻聴だったのだろうか?
あんなに体調が悪かったのだ。夢じゃないとは言いきれない。
そうっと立ち上がる。
…大丈夫だ、頭は痛いし体もダルいけど、ふらつかずに立てる。
自分はベランダから少し身を乗り出して隣を覗いた。
「キャー!!」
「…っ!」
奥さんの声にビックリしてすぐに体を戻した。
何で?何で急に叫ぶ?引き戸は閉めてから時間が経ってる。
だから今更「あれ」で悲鳴はあげないだろう。
確かに、急に隣から覗かれたら向こうも驚くかもしれない。
こちらから覗いただけで、そんなに驚くかな?
向こうの様子は全然見えなかったが…
「殺される位なら!一緒に死にましょう!」
え?
ハッキリ奥さんの声だ。夢じゃなかったってことか。
そして何故か奥さんは、こっちが奥さんを「殺そうとしてる」と思っているらしい。
「…った!居るから!そいつ居るから!!」
旦那さんの声が聞こえた。
「居る」って…?
まさか大声で喧嘩していたのは、私の「在宅確認」?
そうなると旦那さんも、被害妄想か何かが…?
殺されるのはともかく、あの夫婦を殺人犯にはさせたくない。
「どうせ死ぬのよ…」
声がこちらに近づいてくる。
近づいてくる、といってもここのベランダはセパレートでキチンと区切られているし…
幽霊でもない限り通ってなんて…
…待てよ、幽霊?
まさか!
私…
死んでる?
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自分は雑誌編集の会社で働いている。
今日は金曜日。明日から土日と仕事は休みだ。毎週この日に挑戦していることがある。
それは…自殺。
先週までは首吊自殺をしようとしていた。しかし、意外に吊るす場所が無い。
高い場所でなくとも、ドアノブにロープを引っかけて出来ると何かで見て、トイレのドアで試したのだが…外れてしまった。
ドアノブが。
つい、笑ってしまった。
自分は体重が重いのだと思う。
カーテンレールにでも吊るそうかと思ったが、おそらくこちらも外れてしまうだろう。
今日は早めにあがれたので、いつもと違う方法を試してみることにした。
いつか使おうと思って通販で購入した練炭。
家中の隙間をガムテープでふさぎ、練炭を七輪に入れて着火。
その後眠りについた。
そして…
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死んでしまった。
そんなとこだろうか。
隣がもっと早く喧嘩してれば助かったのかもしれない。
ああ、もしかして助けられなかったことに対してこっちが「逆恨みしている」と思って…
それで奥さんが「殺される」と言ってたのか。
少々強引か…?これだと向こうは自分の死体を確認した、っていう前提が必要だし。
わからん。
自分はあまり頭良くないからなあ…
でも、根拠もなく「殺される」というよりかは納得できる。
「え~と、幽霊さん!?妻は殺さないよね?脅かしてただけだよね?」
「え?…あ、はい。」
旦那さんの声につい返事をしてしまった。
脅かしたつもりもないのだが。
というか幽霊って喋れるのか。
喋れないイメージがあった。普通に声でたし。
何かこう、テレパシー的なもので会話するとか…
「ほら!ほら!殺さないって!幽霊が!!」
旦那さんの声。こっちの声は聞こえたらしい。
「見えてないんでしょ?今更何よ…!」
確かに位置的には見えない。
隣のセパレート…【非常時にはここを破って避難できます】の仕切りが少し揺れた。
仕切りの下に15cmの隙間があり、そこから足が見えた。奥さんにしては大きい…
いや、違う、これは旦那さんの足だ。
こちら側にかかとを向けている。
…何で「かかと」が見える?
「さあ…死ぬときは一緒よ…」
何か勘違いしている気がする。
奥さんが近づいているのかと思っていたけど…
これじゃあまるで、旦那さんが後ずさりして奥さんが壁まで追い込んでいるような…?
あれ、これって旦那さんが殺されるパターン?
やばい!そう思い、とっさに壁に手を伸ばす。
コっ!
軽い音がして中指と薬指の指先が仕切り板に当たった。
「痛っ!」
透けないじゃん!
通れないじゃん!
幽霊じゃないじゃん!
どういう事これ?
ジミー大西だったら骨折してたよ!
余計なことを考えていると、隣から「う…」と声がした。
仕切りの隙間から、旦那さんの腰が下がっていくのが見えた。
向こう側から背を預けて、もたれかかるように倒れているみたいだ。
「さあ…次は…しね…」
え?旦那さん殺っちゃった?
ちょっと待って情報が多すぎて整理できない。
とりあえず自分は生きてる。
奥さん生きてる。
旦那さん多分死んでる。
そして何かさっき「次は、死ね…」とか聞こえた。
こっち側に向かって!
やばいじゃん!
この壁、破るつもりかな?逆にこっちから破って…
いやいや…落ち着け、向こうの様子をもう一度見よう。
破るにしても、多少は時間がかかるはずだ。
もう一回覗くか。怖いけど…
ベランダから少し体を乗り出して、再び隣を覗いた。
…何だこれ?
まず見えたのは奥さん。
正座をして両手で腹を抱え、そのままうつ伏せのような姿勢で倒れこんでいる。
腹の下には銀色に光る何かが見える。小さくて良く見えないが…アレで刺したのだろうか?
その手前には、青白い顔の…。
幽霊だ。
そこに幽霊が居た。下半身が無いようで、かなり小さい。先ほどの幽霊と同じだろうか?
近くで見るとあまり怖くないこともないとはいえない…?
目が真っ黒で落ちくぼんでいるけど。奥さんの周りを右往左往している。
オロオロしている幽霊なんて初めて見た。
更にその手前には旦那さんが居るのだが壁に張り付いているので、こちらからは良く見えない。
やがて幽霊は両手で顔を抑えた。
「うええ…」
泣いた!?幽霊が泣いたよ!
「ヒグッ、ヒグッ…」
嗚咽の音が聞こえる。何となく事態が飲み込めた。
つまりは幽霊が出てきて奥さんがパニックになり、旦那を殺した。
そして奥さんは自殺。後には幽霊しか居なくなった、と。
覗き込んだ体を戻して考える。
今は頭じゃなく腕と腹筋が痛い。
どうしよう、まずは泣いている幽霊を写真に収めるか…
とりあえずスマホを持ってきて…
いやいや、常識的に考えて、まずは警察に電話だろう。
でもなんて説明すれば…
やっぱ写真か?
とりあえずスマホを持ってきて…
いやいや、いやいやいや!
何か「泣いてる幽霊の写真撮りたいだけ」みたいになってる。
頭が回らな過ぎだろ自分!そもそも幽霊って写真に写るのか?
見えない時に写真に写るから、見えてる時は写らないのが幽霊じゃないの?
うーん…やってみるか…?
とりあえずスマホを持ってきて…
いやいやいやいやいや、Year!Year!
落ち落ち落ち着け。天丼は三回までだ。
とりあえず警察に電話だろう。
でも、幽霊を抜いて事情を説明すると奥さんが殺人犯になるし…
かといって「幽霊が2人を殺しました。」って言ったら自分が正気を疑われるし…
こっちのほうが病院に連れていかれる可能性も…
ちょっと待って、病院?
そうだ!病院だ!!
旦那さんは死…わからないけど、奥さんは腹を刺しているだけだから生きてる可能性は高い!
119番だ!
とりあえずスマホを持ってきて…
「ドッキリ大成功~!」
「テッテレ~♪」
天丼の4回目は奥さんと旦那さんの声で止められた。
というか…え?どういうこと?
幻聴?
「銀色の凶器の正体は、バターナイフでした~」
奥さんの明るい声がハッキリと聞こえる。本物か。
ていうかおなかに抱えていたアレ、バターナイフだったのか。
「トゥットゥル~♪」
まゆしぃです。やかましいわ。
もう体の痛みなんて気にならねえや。
もう何も怖くない。
再び身を乗り出して覗き込んでみた。
…何だあれ?
「ねえ今どんな気持ち?ねえねえ今どんな気持ち?ndk?」
奥さんが、あの幽霊を前にして両腕を広げ、妙なステップを踏んでいる。
幽霊はというと、肩を震わせて顔を伏せている。
長い髪で分かり辛いが、顔がほんのり紅くなっているように見えた。
少しして、幽霊はすうっと消えた。
「あ、郷田さん。」
やっべ、見つかった。
「御免なさいね。居ないと思って、うるさくしちゃってたわ。」
「あ、いえ…」
居ないふりをしていたのはこっちのほうだ。
目張りをしている時も、電気は消したままだったし。
途中で誰かに訪問されたら死ねないし。
でも、この質問には少し安心した。
どうやら引き戸を開けていた時に「あれ」…「煙」は見られていないようだ。
「というかあなた、顔色が悪いように見えるけど?大丈夫?」
少し前までガスが充満してる部屋にいたのだ。
顔色が良い訳ない。
ていうか奥さん眼が良いな。
「ああ、え~と…ちょっとびっくりしてしまって。」
「あらまあ。国分ステップ見られたかしら。」
奥さんが恥ずかしそうに顔に両手を当てた。
うまく誤魔化せたようだ。
ていうか、さっきの国分ステップっていうのか。
ついでに幽霊のこと聞いてみようか。
「さっきのは何だったんですか?」
「両腕を軽く広げて、顎をシャクリつつ目を見開いて…まあムカつく顔だったら何でも良いんだけど。
足取り的にはその場でスキップするような感じかしら。そして『ねぇ今どんな気持ち?』って…」
「いや、国分ステップじゃなくて。」
「ここの正面の建物…裏野ハイツが心霊スポットだということは知っているだろう?君。」
旦那さんが口を挟んだ。そういえば居たな。
「あ、何か聞いたことあります。」
「あら、あなた知らなかったの?有名よ?」
「あそこには実際に居るんだよ。幽霊が…」
そこから旦那さんと奥さんの説明が始まった。
裏野ハイツでは日常的に心霊現象が見れること。
その2階の202号室が幽霊の住処らしいこと。
そのため、裏野ハイツの裏に位置する伊藤マンション…特にこの階(2階)は202号室が良く見えるので、人気らしい。
不動産屋もそのことは重々承知しているらしく『心霊スポットまで10秒!』などのキャッチコピーもあるそうだ。
そういえば、ここ決める時に物件の資料に『お坊さんお断り!』ってあったけど…
あれもキャッチコピーだったのか。
ベランダから乗り出すのが疲れたので、途中から壁越しに話した。
こんな場所で話すのもアレだけど、こちらから隣に行くにも体にガスが染みついてるし…
向こうから来てもらうにしても、ガスが充満した部屋に来させる訳にもいかない。
今回は幽霊をドッキリにかけようとしたらしい。
最初は大げさに驚くふりをするだけの予定だったけど、幽霊が思ったよりも接近してきたので一芝居うったそうだ。
話はそこそこで切り上げて部屋に戻った。
もう少し聞きたいこともあったけど、さっきまで死にかけてた体だ。とにかく休みたかった。
しかし、部屋に戻ってからコトの重大さに気付いた。
練炭の煙が部屋中に…
どうしようか。
とりあえず七輪に水をぶっかけ、部屋中の窓を開けた。
煙とかもう良いや。
夜だし見てないだろう。
近所から何か言われたら
「料理失敗しました~☆てへぺろ」
って言えば良いや。
その日はそのまま寝てしまった。
しかし、思っていたより体調は悪かったようで土曜は夕方まで起きれなかった。
薬局まで足を運び薬を購入し、また眠る。
日曜で何とか体調を戻すことが出来た。
そんなこんなで私の土日は潰れて行った。
その後、自宅が心霊スポットのすぐ近くということが何故か職場に知られ、夏の時期に心霊スポット特集の担当にされるのはまた別の話。
人物情報①
小柳夫妻
伊藤マンション203号室在住。
伊藤マンションには10年以上前から住んでいる。
裏野ハイツについて詳しい。幽霊の観察が趣味。
人物情報②
幽霊
裏野ハイツ202号室在住(?)
5歳くらいの髪の長い女の子の幽霊。地縛霊ではないらしく、割と自由に移動する。
心霊スポットとして有名な場所に出現したばっかりに、幽霊に対する周りの反応が期待していたものと大きく違って戸惑っている。
人物情報③
郷田明美
伊藤マンション202号室在住。
伊藤マンションには今年越したばかり。
本人は体重を気にしているが、モデルのように背が高い。




